極楽のぶ

~全盲に甘んじ安寧を生きる

歴史文書を守れ!クアトロ・ラガッツィ (7)

2018年05月24日 | 歴史
 虐殺された足利義輝の次にイエズス会を庇護したのはご存知織田信長だが、間を取り持ったのは、和田惟政(これまさ)という人物だ。
 近江甲賀の武士だが、実は義輝に仕える幕府奉公方のひとりだった。幕府奉公方と言えば、明智光秀、斎藤利三(としみつ)、長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)など、後々の有名どころが並んでいた。
 彼らには皆近しい共感性があると考えられ、それを勘案すると、なんとなく見える風景がある。

 義輝が殺害されたとき、和田惟政は偶然(?)謹慎させられており受難を逃れた。以後、イエズス会の布教に尽力するところをみると、義輝への義志が感じられるが、そうかと言って主君を討った仇敵、松永久秀を目の前にして激怒するわけでもない。これらが何を意味するか? あちこち疑義が浮かんで夢想の楽しみは尽きない(笑)・

 さて惟政(これまさ)は、信長への臣従を決めると、率先してロレンソ(前回出)やルイス・フロイス(有名すぎて説明不要ですね)を信長に繋げた。
 惟政が宣教師たちに伝えた信長情報は、まさにCIA工作員のそれ!、信長に気に入られる手練手管を次々と教えていた。そして的確だった。

 そもそも和田惟政の妻は、前回出のキリシタン武士、高山ダリオの娘だ。ということは惟政は、あの高山右近の義兄となる、実に裏の人間関係が面白い!

 信長はキリスト教義よりも、背景にある世界帝国、拡大する覇権、大航海の技術、天文科学等に非常に興味を持った。これは有名だからいまさら書くことでもないが
 一方、この時期、対抗措置的に比叡山&朝廷側から信長に近づいたのが、日乗(にちじょう)という怪僧だ。実に素性怪しき人物で、斎藤道三、松永久秀同様、この時代にジャストイン、跋扈(ばっこ)した怪人のひとりだ。
 そのような輩が、スルスルと官位をくぐり抜け、比叡山や朝廷にすり寄れるありさま、つまり権威筋の脇の甘さが露呈した時代だ。 躊躇なく手を汚せるなら、より上に行ける「クズの社会」、なにやら平成末期の支配層に似てないか?
 そうやって日乗は「上人(しょうにん)」の尊号まで手にしている。この尊号は天皇により賜る号である。いかにも戦国時代のめちゃくちゃである。 

 さて、惟政に勧められ、信長は、久秀がやったように(実に似ている)、ロレンソ&フロイスと日乗を同席させ、家臣団(和田惟政も同席)の前で、宗門論争をさせた。これが1569年、有名な安土城下での宗門論争より10年近く前のことになる。 違(たが)う意見の者を公開論争させる方式は、世界でも先進だ。信長の独創性がよくわかる。

 論争中、日乗のディベート展開は、フロイスが説く「霊魂」の証しに対し、「ここに見せろ」と、賭博士かヤクザのようなことを言った。宗教論で唯物論は無かろう!日乗が、仏教徒としては全くの詐欺師であることがわかる。。

 一方、淡々と、宇宙創生の唯一神と霊魂の不滅を説くフロイスらの論述に、座の誰もが勝負あった!と思った。 そこで劣勢を感じた日乗は、あろうことか信長の御前でありながら、立てかけてあった信長の槍に手を掛け、ロレンソに斬りつけかかった。が、即座に惟政らに取り押さえられたのである。
 こうした記録がしっかり残っていることに、むしろ驚嘆している現代日本人は、恥を感じねばなるまい。。

 このとき、信長は顔色も変えず、日乗を叱責しただけだった。宗門論争の勝敗は、これ以後、信長のイエズス会に対する厚遇となって表れた。

 日乗が殺されずにすんだのは、おそらく、その代わり(と、ここはまた極楽のぶの仮説なのだが笑)論争敗北と御前乱心の日乗上人を、あえて世に晒し、仏教旧勢力を辱めるための広告塔としたのではないか?
 その証拠に、この翌年、いよいよ、あの全国を驚愕させた、比叡山全山焼き討ちが決行されるのである。

 比叡山焼き討ちの総司令官には、まだ織田家新参者だった明智光秀が当てられた。 従来説では、この国家最大の権威への加害が光秀の信長トラウマの発端になったという説もあるが、光秀が昔、義輝の奉公人だった経歴を勘案すると、義輝謀殺の黒幕(?極楽仮説)比叡山を討つことは、光秀にとって合点招致の事だったかも知れない。実際、全山焼き討ちの徹底ぶりもすごかった。
 そう言えば、光秀の娘は細川ガラシャである。イエズス会としっかり関連するではないか・・光秀イエズス会派と、いえなくもない。
 もちろん、信長の比叡山焼き討ちの理由には、諸説ある。極楽も一家言あるが、今回はこれで行ってみよう!(笑)
 この明智光秀に、朝廷がじわじわと近寄って篭絡を始めるのはこれより後のことである。
 比叡山を消滅させた後、残る宗敵は、石山本願寺となる、よって石山との10年戦争も同時期にスタートするのである。 そう考えると1569の日乗フロイス論争は、思いのほか重要だ!
 
 その流れで見ると、1570年代半ばから連発する、信長家臣の謀反に共通する「あいまい性」が見えてくる。
 有名どころでは、荒木村重の謀反、信長の信頼も厚く高山右近や黒田官兵衛などキリシタン武将とも親交篤く、相互婚姻も行ったりと、朝廷・仏教派に取り込まれるスキはなかったはずだ。
 しかし彼の従弟で家老をしていた中川清秀という者が、おそらく仏教派のターゲットになった。
 荒木村重の冤罪(石山本願寺に食料搬入)は中川清秀によって行われたものだった。 荒木は冤罪で謀反人にならざるを得なかったが、何度も謀反撤回を試みている。信長も許す気満々だったが、身を挺する清秀に遮られ荒木一族は清秀もろとも滅亡する。

 次の松永久秀謀反も、既に3度目だったが、信長の遺留の言も断って、捨て鉢な謀反となっている。鋭利な久秀にしてはまったく勝算のない挙兵だったが、これも意味がわからない。昔、東大寺の大仏殿を焼き、配下にはキリシタン武将が多くいるのに、である。
 そこへ、義輝暗殺のときと同じ「何らかの誘い」が何度もあり、武士としてこれ以上生きていくのが嫌になったようにも見える。久秀らしくない終わりだ、やはり歳の衰えだったのだな、ちょっと共感してしまう。ともかく久秀も何をしたかったのか不明だ。人物が人物なだけに惜しかった・・まあ、十分生きたとは言える。

 次の、最後ついに謀反に成功した明智光秀だが、彼の本意もまるでわかっていない。その後の行動はまったく計画合理性を感じさせない。これは極楽ブログで何度も触れてきた。

 この謀反の三者に共通するのは、成功後のグランドデザインが全く見えないことである。時代を斬り上げていく新時代のデザインを持っていた信長を殺すなら、それに代わるビジョンは必須だったはず。三人ともそれは全くない、こう考えれば「守旧派による既得権益の確保」が目的だったことは明白だ、真犯人は別にいる。

 信長を亡き者にしたあと完全に遂行されたことは、ただひとつ、何者か(不明)によって、安土城の破壊炎上と、ヨーロッパ以外では最大だったイエズス教会の破壊だった。まるで、光秀謀反に乗じて誰かがやったことのように・・である。すべて信長とイエズス会の居城は灰塵に帰したのだ。

 光秀は、本能寺の変直後に、朝廷から「京都警護の大将位」を任命されているが、思わぬ秀吉の登場で、事態は大混乱、6月1日が信長暗殺の決行日だったが、ことの成り行きを見ながらか、6月7日から14日間の朝廷記録がすっぽりと削除されるのである。これは、秀吉によって厳しく追及されたが、ある時点から秀吉は追及を止めている。
 
 このあたり、我々日本人は、かなりくすぐったいはずである。われわれはそのような文書管理から数百年経っても、あまり変わらない指導者をお上に頂いているのだから・・

 今回、最後に付け加えておくが、唯一謀反が成功した場所、奇蹟の本能寺襲撃、本能寺が信長の常宿だったかどうかさえ疑問があるらしいのだが、本能寺は「法華宗総本山」であった。 1569年の日乗対フロイス論争で敗北したあの法華宗ということになる。では、本能寺はむしろ敵地ではなかったのか?
 わざわざ敵地(信長は感じていない)に宿泊しては、いくら堀を巡らし城塞化していても、ひとたまりも無かったろう、暗殺の場は、信長のために堀を創ったり、大量の爆薬を用意したりと、長く上手に用意されたものだったのではないか? これも極楽仮説ですから信じてはいけませんよ。

つ・づ・く
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