風塵社的業務日誌

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金沢へ(5)

2018年10月30日 | 出版
それにしても、京急で金沢文庫まで行ってきただけなのに、そんなことをよくもウダウダ長く書けるなあとわれながら感心してしまう。この件にかぎらないが、どこかでなにをしたという記憶からどうでもいい連想が生じてしまい、それを文中に付け加えていくからついつい長くなってしまう。きっと悪い文章のお手本にちがいない。それはともかく、ようやく称名寺の仁王門にたどりついたところだ。境内図を見ると、そもそもは赤門から入るのが正式のルートのようである。ここにも赤門があるんだねえ。
京都や奈良の人に言わせれば、鎌倉時代の建物など新しすぎることだろう。しかし、建築年代の古さを競っても詮方ない(しかもこちとら縄文ばい)。とりあえずは、往時の盛況を想像してみる。赤門をくぐってから現在は石畳となっている道を進むと仁王門が出迎えている。そこを抜けると大きな池が広がり、池には朱塗りの橋がかけられていて池の向こうに本堂が見える。本堂までの正確な距離はわからないが、感覚的には少し遠く感じる。そして池に蓮でも咲いていたら、そこは極楽浄土を模しているということにでもなるのだろうか。そうすると、仁王によって害悪の侵入は拒まれ、清浄なもののみが入ることが許された極楽を意味しているのだろう。なんだかつまんねえエリート意識だなあとは思いつつも、その思惟は現在のものであるから、往時をしのぶうえでは無意味な考えである。
一方、橋は現在改修中で上ることはできない。極楽浄土の気分を少しでも味わいたかったけれどしょうがない。そもそも、小生のような仏敵が極楽気分を味わおうなんてことが不遜なのだ。ボランティアガイドのおじさんに、妻が裏山を登るルートをたずねている。大きく回りたければ、本堂の右側から進みなはれ的な説明をされている。どうもありがとうございます。じゃあ、そうしましょうと池を回りつつ本堂に向かう途中、北条家の家計図の看板が出ている。なんでも金沢文庫と称名寺を建てたのは北条実時という人物だそうだ。といわれても、その人だれ?と教養のなさを露呈するしかないのである。
そもそも、どうして北条家というか鎌倉幕府は滅んだのだろうか。小生はよく知らない。チコちゃんにでも聞いてみたい質問ではあるけれど、こういうものは何百字以内で答えられる性格のものでもないし、また、諸説あることだろう。したがって、チコちゃん的な解答のあり方には眉唾する必要もある。カーの『歴史とは何か?』に、「どうして第二次大戦が起きたのかという問題が試験に出たとき、『それはヒトラーが戦争したかったから』と学生が答えたら、50点ももらえないでしょう」というようなことを記されていた(引用はうろ覚え)。
これもまたうろ覚えではあるが、元寇があって国難を防いだけれど、その恩賞の支給が充分でなく幕府に不満を抱く御家人が増加し、それで倒幕となったという説明があったようななかったような感じもある。そういう説明があったとしたら、それも眉唾的なものにちがいない。当時の論功行賞は土地の支給によってなされており、そして土地がほしさに『蒙古襲来絵詞』まで描かせた者もいた。しかし、国土防衛戦ならば土地がもらえるわけもないことは、武士にもわかりきったことではなかったのだろうか。
どこかの土地をゲットしたわけではないのだから、そこで鎌倉幕府が与えられる土地となると、寺社貴族天皇系の荘園を強奪して手柄を立てた武士に与えるしか道は残っていないわけである。したがって、土地を奪われたり圧迫を受けている荘園系領主と、充分な恩賞に預かれず不満を抱いた武士とが結託して鎌倉幕府を倒したという説明が一応は成り立つのかもしれない。そうすると現代的な視点では、国難に耐えた鎌倉幕府をたかが金(ここでは土地)の問題でギャーギャーいちゃもんつけた後醍醐天皇なるものは、非国民であったのだということになる。
後醍醐こそが非国民であるとは愉快な話ではあるけれど、しかし、こうした性急な結論を求めているのではない。まずは、どうして鎌倉幕府が滅びることになったのか、その点をきっちり考究している文献があれば読んでみたい、ということだ。次に、鎌倉幕府が滅んだからといって、それ以降も武士が政権を担うわけであり、そこにはどういう合理性が潜んでいたのかという疑問がある。さらにこの称名寺にからめて考えると、そもそも当時の寺社は寄進領をもとに経済的に成り立っていたわけであり、鎌倉幕府系のお寺が鎌倉幕府亡きあとどうやって生き残ったのかという疑問も生じる。
皇国史観や司馬遼史観的なものは問題外の外としても、これは小生の性格的な問題なのかもしれないが、段階発展説なり階級史観というような単線的なものの見方は好きではない。当時の人々の日常に即したところで引き出されるものの見方が好きである。その時代その時代で、人々は懸命に自堕落な生を生きていた。したがって、悲喜こもごもさまざまなドラマがときには生じる。その果てに鎌倉幕府がつぶれちゃったという事態が生じた。鎌倉時代のお寺を訪れて、それって、どうして?という非常に素朴な疑問を抱いたわけである。そこに、わかったような答えを求めているわけではないということだ。
わかったような答えをなぜ求めないのか。単純な話なのであるが、割り切れなさを考えることこそが学問であると考えているからだ。1足す1は2である。しかし、それがどうして2になるのかを説明できる人はごく少数だろう。その割り切れなさを考えることが必要であるという意味である。嗚呼、こうして、仁王門からまだ数メートルも移動していないというのに、字数がオーバーしている。

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