風塵社的業務日誌

日本で下から258番目に大きな出版社の日常業務案内(風塵社非公認ブログ)

ヒロヒトの誕生日

2020年05月12日 | 出版
わが家の契約の更新があり、某日、妻と不動産屋さんへと行く。更新手続きはすぐに終わり雑談モードとなると、「このコロナ騒動で、うちに限らず困っている不動産屋さんは多いと思いますよ」と、話好きなご主人が語り出す。「ほう、どうなされました?」とたずねれば、店子には引きこもり状態になっている人が多く、「騒音トラブルの苦情を言ってくる人を、うちだけでも3、4人抱えているんですよ」とのこと。これまでも昼間在宅だった人にしてみれば、周囲の部屋からの生活音が日中でも聞えてしまうだろう。そしてそれよりも、「精神状態が不安定になってくると、まず言い出すのが騒音なんです」と不動産屋さん。
コロナの影響で、一日中、知り合いと会うこともなく、家からほとんど出ないという人は多いことだろう。そのうえ、目先の生活費の問題から雇用不安までも抱え込まなければならないのであるから、精神的に弱い人には耐えられないことになる。こうした記述は、上から目線とでも見られるのだろうか。しかし小生にしてみれば、それどころではない。経済的な不安をダイレクトに抱えこんでから20年以上が経つ。会社に引きこもって仕事をしていれば、ほとんど人と話さない日も多い。そもそもが、副交感神経優位の引きこもり体質なのである。
それはともかく、思い出したことがあった。5月4日のことである。朝、妻と近くのジョギングに出かけ、毎日と日経を扱っている新聞販売店の前を通りかかった。そこでは、両紙の一面を店頭に飾っている。そこにチラッと目をやれば、毎日新聞の一面がグリーンに飾られている。「あれ?毎日ってイメージカラーをブルーからグリーンに変えたのか?」と疑問が生じた。日々の生活のなかで、毎日新聞を目にすることはそうそうない。コンビニに立ち寄ったとき、その新聞スタンドにささっているのを見るくらいだ。
その翌日だったか、「今年の旗日は結局どうなっているの?」と妻にたずねられた。知るかそんなことと、まずは思う。確か、オリンピック前提だったので、夏場にヘンな旗日を集中させたのではなかったのだろうか。オリンピックが見送りになっても、それはいまさら変更できないことだろう。社会混乱を招くだけである。しかし、来年の旗日はどうするのだろうかという疑問が湧き起こりつつも、なぜ、旗日の変更ということが可能なのかというさらなる疑問に包まれた。
以前は、10月10日が体育の日という旗日であった。それは、祝日法だかなんとかという法律によって制定されたものであり、なぜ10月10日でなければならないのかという理由も、そこに記されていたはずである。ここで問題にしたいのは、法改正うんぬんという手続き的なことではなく、体育の日なるものをスポーツの日などという名称に変えてしまい、それどころか日にちすら恣意的に変更してしまったとき、原初の体育の日制定時の理念なり熱意はどのような変容を遂げたのだろうかという疑念である。
ところがごめんなさい、実は、それはどうでもいいのであった。より根深い問題は、日にち変更のできない旗日の方にある。特に2/11と4/29だ。改めてカレンダーを見てみたら、5/4はいつの間にか、みどりの日となっている。それって以前は4/29ではなかったのか。そこでようやく、毎日新聞が5/4に一面をグリーンにした意味を理解した。毎日新聞もなにをやっているのかねえ。そして、昭和の日なんてアホなものができたという、遠い昔の不快な記憶がよみがえってきたのであった。
旗日なるものは本来、法律的には等価でなければならないだろう。ところが、日にち変更のできるものと、できないものという、あからさまなダブルスタンダードがそこにはある。これはなんなのか、ということを指摘しているだけである。加藤典洋氏いうところの「日本の二重思考」そのものだ。二重思考(Doublethink)とはジョージ・オーウェルの『1984』(ハヤカワ文庫)に出てくる思考操作のあり方を指し、くわしくはそちらを参照してもらいたいのだが、白を黒と言いくるめ、黒を白と言いくるめる内面化された思考様式のことである。そしてそれが、日本の旗日のあり方にも如実に現れているということを、いまさらながら確認することになったと述べている。
戦前の紀元節にあたる2/11は日にち変更できない。1964年の東京オリンピック記念である10/10は、名称も日にちも変更できる。4/29というヒロヒトの誕生日は、名称を一度変えたあと、昭和の日なんていう実質上の天皇誕生日にもどしている。ここから透けて見えてくるのは、日本はいまだに神権政治なのだということである。しかも、米帝の占領下に置かれた神権である。漢の保護を求めた卑弥呼の昔から、日本は変わっていないのかもしれない。
しかもそこに、新たな二重思考が挟み込まれている。日本は独立国であるというレトリックだ。日本がいまだ米帝の植民地下にあることを忘れさせるための装置が、天皇制である。天皇制を保持しているから日本は独立国であるという倒錯した論理がまかりとおり、多くの日本人がそれを内面化している。そこに気がつかなければ、アヘ政権批判も薄っぺらなものになってしまう。(この話は長くなりそうなので、続きは次の機会に)

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