風塵社的業務日誌

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顔を隠したがる女子(02)

2020年01月13日 | 出版
前回、基本的な確認を怠っていたことに気がついたので補足しておきたい。まず、忍者モノなどの場合、覆面などで顔を覆っている女子キャラがたくさん出ていることだろう。そこで、ストーリーなり作品世界上、仮面を必然とする女子キャラは今回考察対象から除外することにする。次に、マンガ『キングダム』にも触れてしまったが、ググってみると、それは2006年から連載が始まっているようだ。現在も連載中とはいえ、したがって、最近の作品とはいえないだろう。河了貂に関してはよくわからないが、楊端和については仮面をかぶるという生活文化の人物であると設定されている。そこで前回に述べたことを繰り返すが、「素顔で人に接するのが恥ずかしい」ゆえに仮面をかぶる女子キャラが増えたのはどうしてなのだろうか、というのが小生の疑問点であるというところに立ちもどりたい。
立ちもどりたいと記してはみたものの、その前に、なんで仮面をかぶる必要がそもそもあるのかという点は確認しておくことにしたい。よく言われる説明は、内心を相手に見せないためだろう。これまた人類学的になってしまうのかもしれないが、戦闘中、おびえていることを敵なり味方なりに見せたくないため、怖そうな装飾をほどこした仮面をまとって戦場に出る。きらびやかな甲冑をまとう日本の武者も同じような心理なのかもしれない。
実際に、戦場での心理が仮面の起源であるのかどうかは知らないが、そこから仮面というものが発展し、主に祭儀や舞踏、演劇などでおなじみのものとなっていったのではなかろうか。つまり、ある仮面をかぶることで、その人がどういうキャラなのかを観客にわからせる機能を果たすようになったのではないかと、見当をつけてみることにする。観たことはないけれど、劇団四季が『ライオンキング』を上演するとき、役者さんが各動物のお面を頭にかざしているようなものである。
その結果、ギリシア語だったかラテン語で仮面を指すペルソナpersonaが、英語のパーソナリティpersonalityの語源となった。したがって、パーソナリティを人格とか個性と和訳するのは、本義からは真逆ということになるだろう。なぜなら、仮面は代替可能なものであるのに、人格なり個性というものはそうそう変えられるものではないからだ。三つ子の魂百までであり、多重人格者という人がもしも本当に存在すれば、その多重人格者の人格がコロコロ変わる場面にこそパーソナリティなる語は適切な輝きを持つということになる。
一方、心理学の用語にパーソナリティ理論(ペルソナ理論だっけ?)というものがある。人は無意識下で、その場のTPOに合わせたキャラを演じるというものだ。その理論ならば、仮面の代替可能性をたしかに含意しているので、パーソナリティという語が適切に使用されていると理解できる。ということは、三島由紀夫の出世作である『仮面の告白』という退屈な小説(半分くらいまで読んで飽きてしまい、投げ出してしまった記憶がある)での仮面という語の使われ方には、どこか違和感を抱かざるをえない。アレッ?三島の使い方でいいのかな?オツムが混乱してきてよくわからなくなってきたぞ。だいたい、どんな小説だったっけ?
冷静に考え直してみることにしよう。『仮面の告白』に言及したらよくわからなくなってしまったので、そこからは離れる。つまり、パーソナリティ理論に基づけば、われわれに個性なり人格なりというものがあるのだろうか、という疑問を記したかっただけであった。この問いというのは、ジャック・ラカンなどに代表される、いわゆるポスト・モダンの発想の範疇に入るのかもしれない。しかし、『アンチ・オイディプス』なんてチンプンカンプンであった小生にしてみれば、ポスト・モダンなんて語はその当時からきらいであったし、自分自身がポスト・モダンなるものに属していると思ってもいないし、さらには、この21世紀になってポスト・モダンなんてどこに行っちゃったのかいなという気分である。
そこで、ここから考えを推し進める補助線を想定してみたい。ポスト・モダン的な言説に捕らわれず、おのれの腐りかかっている脳細胞でも現実世界を認識する方法を考えるためである。補助線のひとつは、ひとそれぞれに個性というものがある、という認識の仕方だろう。そしてその対極の線は、ひとに個性などというものはない、というものだ。前者を仮説Aとし、後者を仮説Bということにしよう。これは性善説と性悪説との対立のような構図になってしまっており、結局、妥協点はその中間の灰色のグラデーションの問題なのだとするのがオトナの理解とされることだろう。
しかし、ここにあえて腹巻の仮説Cをぶち込めば、バカな官僚どもが仮説Aを教育政策として推進してきたがゆえに、素顔をさらすことに抵抗を示す女子キャラが登場したのではないのか、ということである。そこで、教育政策の息苦しさを緩和するために発明されたのが仮面であり、したがって、そこには女子のみならず、息苦しさを感じている男子も感情移入しているのではないかというのが、仮説Cの謂いとなる。

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