風塵社的業務日誌

日本で下から258番目に大きな出版社の日常業務案内(風塵社非公認ブログ)

お休みモード

2014年04月28日 | 出版
2月の後半くらいから、ありがたいことに超ハードなこととなり、一生懸命に仕事をしてきていたところであるけれど、ようやく、今抱えているものの終わりと、そのあとの展開が見えてきた。
このあとやるべきは、まだ初校段階の『メディア・リテラシーの倫理学』を5月末までには納品しないといけない。定例の仕事である5月分の「救援」をやっつける(そういえば、まだ1枚も割付の指定が届いてないぞ)。5/9発送予定のミニコミ誌も、連休中にはある程度終わらせないといけない。5/17に予定している某集会の資料(2種)は、連休中に90%くらいはやっつけてしまいたい。
小生の気合としては、『メディア・リテラシー~』からの順になるわけで、それは仕事の順番でもあるわけで致し方ないことだろう。そうやって、ミニコミ制作に気の抜けた態度で臨んでいると、またHさんの憤激を買うことになる。
それでも、5本同時進行という一時的な状況よりは、だいぶ緊張感も緩和されたものである。そうすると、どういう状況なのかは自分としてもわかっているつもりではあっても、体が脳の指令を拒絶するようになる。つまり、集中モードにスイッチが入らないのだ。
某土曜日、作図しないといけないのはわかっているのだけれど、社内の掃除をしたり、洗濯をしたりしていたら疲れちゃった。生産的なことを何もしなかった言い訳にブログだけ更新して帰宅することにする。それで、酒を飲んでとっとと寝付いたところまではよかったけれど、23:00近くに目が覚めてしまった。それまでTVを観ていた妻と交替で起き出すことになる。
寝ている時に気がついたのだけれどという表現もヘンか、睡眠中にいやな夢を見てうなされて起き出し、その夢を思い起こして(どんなだか忘れちゃったけれど)、「あぁ、まだ若いときのトラウマを克服していないんだなあ」と改めて自覚し直してしまったのである(もしかしてSRのせいか?)。
どうせ、しばらく眠れるわけもないやと観念し、久しぶりに夜の散歩に出かけることにした。ポケットの中にはタバコと500円しかないので、缶ビールを買うのが関の山である。
夜の散歩をするとき、理由はわからないけれど、なぜか足は繁華街に向いてしまう。誰かと会うわけでもないし、人と触れ合いたいわけでもないのだから、それなら人のいない方に向かうという選択肢もあると思うのだけれど、やはり明るいほうに行ってしまうから不思議だ。
小生の住まう茅屋から一番の繁華街といえば池袋である。結局は、毎朝走っているコースを、夜中に歩いていることになる。栗本慎一郎の『パンツをはいたサル』(光文社)だったかなんだかに、「人間は同じ行動をたどるのが好きで、だから馴染みの居酒屋に行くのが倣いになる」旨述べていたように記憶しているけれど、そういうことなのだ。
歩きながら、今現在も自分が抱えているトラウマとどう向き合えばいいのかねえと考えてみるけれど、そういうものに答えがあるわけではないのである。そこで歩きながら、もう少し腑分けして考えてみつつ、小生のトラウマとは承認願望の欠如なんだなあと思い至った。
オーウェルの『1984』的な洗脳の仕方が、小生のオツムをよぎる。つまり、そこで承認願望の充足を求めることは、過去に承認されなかった相手の権威性を受け入れることであり、それは過去に否定した世界観を内面化するということである。
それはいやだなあ。若い頃、きらいだからきらいであった世界であったわけであり、それを内面化することによって、そのきらいから生じたトラウマを消去するくらいならば、トラウマをトラウマとしてそのまま残しておいた方が、よっぽど健全なのではないだろうか。ルサンチマンはそのままキープしておくべきなのだ。
なんて考えながら池袋の街を歩いていると、10人ほどの女の子が元気に明るく笑いながら、地下の出口から出てくるところに遭遇した。瞬間、なんやこいつらと思わなくもないのであるが、そのお店の看板を見上げたら某ソープランドであった。
あぁという納得の気持ちが3分の1生じ、一方で、みんな可愛くて元気でなんだかうらやましいなあ(今度行こうかなあ)という気持ちが3分の1生じ、そして、ようやくいやな1日が終わって今からどうやってうさ晴らししようかという彼女らの華やいだ高揚を残りの3分の1で感じ、なんだか小生も幸せな気分になれる。
そうなんだよねえ。みんな、今生きている現実に必死なわけである。アベがどうのとか、TPPがどうのとかという前に、今日メシが食えなければしょうがない。
その現実を前に、過去のトラウマにウダウダしているおのれの姿というのは、それなりに可愛いものだろう(というかバカっぽい)。また一方で、下方への平準化(泡姫ちゃんゴメン)が幸せな方向でもないわけである。泡姫ちゃんという存在が、それだけで尊敬されるわけでもないのだ。
つまりは、個という問題と社会の問題は大きくズレていくわけであり、そこでどう生きればいいのかなんて、誰にもわかるわけがない。足掻くしかないのだ。

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