研究生活の覚書

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穏健派奴隷制反対論者の親子(1)

2007-05-22 20:10:12 | Weblog
アメリカ合衆国の外交文書を調べていると、Quasi-Warという大きな括りがある。日本語では「宣戦布告なき戦争状態」と訳されていて、建国期における米仏のカリブ海における緊張状態をさす。年表では1798年から1800年としているのが多い。

アメリカ政治史の教科書によれば、ジョージ・ワシントンは1797年かの有名な「告別の辞」の中で、合衆国が「諸外国」との通商を行うに当たっては、「できるかぎり政治的結びつきをもたないように」することを言い残し、これを受けるように1800年に第三代大統領に就任したトマス・ジェファソンがルイジアナをフランスから購入した(1803年)のを契機に、外交的には孤立主義を確立し、大陸国家の建設を行ったという風に整理されている。日本の教科書もアメリカの教科書もそんなに大きく違わない。

お分かりのように、Quasi-Warの期間がスポンと抜けている。要するにジョン・アダムズ政権期が無いわけである。ワシントンの「告別の辞」からジェファソンの大陸国家建設の間に何があったのかというのは、実はジェファソンという神の如き人物にとって都合の悪い部分が多くて、案外そういうイデオロギー的な理由がヒストリオグラフィーに空白の四年間を作ったのではないかという気がする。

経緯を簡単にふり返ってみよう。1776年独立宣言をしたアメリカ諸邦連合は、1778年フランスとの間に米仏同盟を結ぶ。ところが独立を達成し1789年に初代大統領に就任したワシントンは、英仏戦争のさなかの1794年にイギリスに非常に融和的な「ジェイ条約」を締結した。これに激怒したフランスはカリブ海域を航行するアメリカ商船の拿捕を開始するとともに、「フェデラリスト」に属するアメリカからの駐仏公使受け入れを拒否する。こうした中で第二代大統領に就任したのがジョン・アダムズである。1798年にアダムズはフランスとの和平特使を派遣するが、フランス外相タレーランはこの特使を侮辱した上追い払う。こうして米仏間は「宣戦布告なき戦争状態」に突入する。

フランスはフェデラリスト政権が任命した外交使節の受け入れを拒否していたので、アダムズはフランスの周辺国に有能な人物を送り込むことにした。イギリスにはルーファス・キング(初代、第二代の大統領候補に名を連ねた大物)、オランダにはウイリアム・V・マレー(建国期の名高い外交官。後のモンロー宣言にも影響を与える)、そしてプロイセンにはジョン・Q・アダムズ(アダムズの息子。後の第六代大統領)を公使として配した(この時代、アメリカはまだ「大使」を許されていなかった)。さらにアルジェリアで領事を務めていたジョエル・バーローをパリに潜伏させた。

ちょうどそのころ、カリブ海のフランス領サン=ドマング(現在のハイチ共和国)では奴隷反乱が勃発し、同島の北部と南部に二人の指導者が生まれていた。北部を勢力下においたのは黒人軍の将軍トゥサン=ルベルテュール、南部を勢力下においたのはムラート(混血)軍の将軍アンドレ=リゴーである。ちなみにこのフランス領サン=ドマングでは白人(フランス人)司令官の下に、「黒人軍」と「ムラート軍」というのが存在していた。トゥサンとリゴーはそれぞれの司令官である。

この奴隷反乱によりサン=ドマングでの支配力を失ったフランスは、遠いパリから「奴隷解放宣言」を行う。ここで二人の指導者の間に見解の相違が生まれた。南部を支配していたリゴーはパリへの忠誠を誓う。一方、トゥサンはそんなものは信じられなかった。もちろん歴史を見る限りトゥサンが正しかった。後にナポレオンがサン=ドマングの奴隷制を復活させるのだから。トゥサンは新国家アメリカ合衆国に支援を求めた。

さて、このアメリカ近海で起こった出来事にどう対処すべきか。トゥサンを支援すればフランスとの対立は必至である。リゴーを支援すればカリブ海にフランスの勢力を回復させることになる。放置すれば大西洋の海戦をネルソンによって優位に進めているイギリスの侵略を許すことになる。イギリスは信用できるかどうかは分からない。

このカリブ情勢をプロイセンから眺めていたJ・Q・アダムズは一つの結論に達していた。それはトゥサン支援である。彼はオランダ公使のマレーに「我々にとっては奴隷主よりはこの将軍(トゥサン)と契約を結ぶ方が自然だと思われます」とした上で、「彼(トゥサン)は、アフリカのジャコバンではない」という見解を示す。そしてトゥサンのもとで「自由で独立したサン=ドマング」との同盟構想を提案した。

オランダ公使マレーは、「黒人共和国」との同盟という思い切った発想に驚きつつもトゥサンについては同様の見解に達した旨を返信した。これに自信を得たJ・Q・アダムズは大統領である父親に、「トゥサン=ルベルテュールは黒いバークです」と書き送った。反乱軍ではあるが、ジャコバンではないという意味である。反乱軍なのにジャコバンではないということは、要するにジョージ・ワシントンではないか。これでアダムズの意志は決まった。

1798年、サン=ドマングから一人の特使が大統領アダムズとの会談を求めてやってきた。トゥサン=ルベルテュールの側近ジョゼ・ブネールである。アダムズは、この黒人革命政権からの使者を親しく公館に招きいれ遅くまで語り、翌朝は二人きりで朝食をとった。この黒人の使者がどれほどアダムズに心を開いたかは、トゥサンの軍が実は崩壊寸前にあり、それゆえアメリカの支援を必要としているのだということをアダムズに告白していることからも推測できよう。閣僚たちは「反乱奴隷と大統領」が二人きりで語り合うのを呆然と見つめていたという。それに気づいたアダムズは彼らをドアの外に締め出し、声をひそめてブネールとの打ち合わせを始めた。ジェファソンはすでに副大統領を辞し、モンティチェロの自邸に引きこもっていた。
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