研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

南部政治理論の最期(1)

2005-10-01 23:45:25 | Weblog
南北戦争以前のアメリカには、経済構造上三つのセクションが存在していた。それは、北部の工業資本主義地帯、西部の個人農業資本主義地帯、南部の奴隷制大規模農業資本主義地帯である。これは、バリントン・ムーアの分析である。そして、この当時のアメリカ経済を牽引していたのは、南部のプランテーションが生み出す綿花だった。すなわち、南部のみが外貨を稼ぎうる輸出製品をつくることができた。

北部の工業は、ヨーロッパ諸国、とりわけイギリスから輸入される製品にまったく太刀打ちできなかった。北部は主に、西部に工業製品を売り、西部は農産物を北部に売り、なんとか経済をまわしていた。しかし、南部の綿花は、産業革命期のイギリスの紡績工業への補給基地であり、ヨーロッパ諸国の経済成長とともに躍進し、堂々たる計画的資本主義を展開していた。独立直後のアメリカ経済を支えていたのは南部だった。南部だけが輸出超過の黒字地帯だったのである。

南部はジェイムズ・タウンへの最初の入植以来、タバコ栽培で成功し、その後は綿花栽培でアメリカ経済を牽引した。とくに、綿花栽培というのは、大規模重労働の典型のようなもので、ここから奴隷労働の必要が生まれた。この奴隷への依存というのが、南部が先進資本主義地帯でありながら、近代資本主義地帯に成長することを阻んだ要因であることは言うまでもない。奴隷制プランテーション社会は、明らかにアメリカにおいて異質な社会を形成していた。ごく少数のプランターが南部の富の9割を握り、その下には膨大なプア・ホワイトという貧しい白人層が存在し、さらにその下にはその数倍に上る黒人奴隷人口が存在していた。プア・ホワイトは、自らの境遇の不満を白人であることで慰めるという歪んだ精神構造を作り出す。極端なピラミッド構造の頂点に、プランターという貴族たちが君臨する異様な社会だった。

奴隷制度。当時は、この制度はorganic sinと呼ばれていた。有機的罪とか体系的罪とかいうよりも、これはもっと陰惨な語感である。「罪」とはもっと宗教的なニュアンスがある。生きることに伴う十字架といおうか。地獄と引き換えに快楽を選ぶような罪というニュアンスがある。奴隷制がもつ最大の害悪は、人間の精神を腐食させることだと言われていた。こうして、南部には独特なメンタリティーが形成されていく。

独立戦争において、南部の力は絶大であった。イギリスの「強圧的諸法」の主たる被害者はニューイングランドであった。つまり北部である。サミュエル・アダムズやジョン・ハンコックらボストンの過激派に率いられて武装蜂起したマサチューセッツ率いるニューイングランドであったが、イギリス正規軍の前に、なすすべもなかった。独立戦争を生き抜くには、ヴァージニア率いる南部の力が不可欠だった。それゆえ、独立宣言起草の際に、何故、若年の自分が起草者になれるのかを問うたジェファソンに対し、ジョン・アダムズは、「君は、ヴァージニア人だからだ」と応えたのである。それほど、ヴァージニアの独立戦争におけるプレゼンスは重要だったのである。

さて、独立してみると、南部にとって不愉快なことが続く。連邦下院の議席は各州の自由人男性の人数に比例して与えられるが、南部の人口の多数は黒人奴隷であった。例えるなら、北海道の酪農地帯みたいなものである。人口のほとんどは牛なのである。「人口に黒人も加えろ」と主張すると、北部の連中は、「だって、奴隷は人間の権利を剥奪されているじゃないか。普段は人間扱いしないでいて、選挙のときだけ人数に加えるのは都合がよすぎるだろう?」と応える。結局、両者の話し合いの結果、「黒人は3分の2人としてカウントする」ときまった。3分の2だけ人間だという話である。数字にしてみると、奴隷制のエグサが逆にはっきりしてしまう。

また、第一議会では、ペンシルヴァニアのクエーカー教徒たちが、奴隷制禁止法案なるものを持ち出してきた。見ると、ベンジャミン・フランクリンの署名がある。ジョージアやサウス・カロライナの代表たちは逆上する。「あのボケ爺が・・・!」という気分もみんなが内心持っていた。このとき、フランクリンはボケていたという人々もいた。しかし、威信はあるので無視できない。なによりも、副大統領(副大統領は上院議長も兼務)ジョン・アダムズが議案として握りつぶさなかったし、財務長官ハミルトンもニューヨークの奴隷制廃止協会の設立会員でもあった。

とにかくデリケートな問題だった。まず、当の南部の紳士たちも内心うしろめたかったのである。いろいろな奴隷制擁護論はつくれたが何を言っても説得力が乏しい。それが独立宣言の精神に反していることは明らかだった。だからと言って、すでに100年間運営してきた社会システムを即時廃止するなど不可能である。だから、南部のインテリたちなどは、「奴隷制を擁護するつもりはない。あれは悪であるに決まっている。ただ、即時廃止などはできないし、そんなことをすれば我々も困るが当の黒人も困るだろう。これからはこれ以上奴隷は増やさない。今後の奴隷貿易は廃止する。漸次なくする方向で進む。緩やかになくなればいい。」という方針だった。これは、南部と北部の紳士たちのひそやかな協定であった。この問題には触れないというのが、独立戦争に南部が協力する暗黙の了解であった。だから、これが議題になるなど、掟破りなわけである。結局、この法案はジェイムズ・マディソンの議会工作により、どうにか棚上げにされた。