研究生活の覚書

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穏健派奴隷制反対論者の親子(2)

2007-06-15 18:59:23 | Weblog
ジョン・アダムズおよび息子のジョン・クインジー・アダムズが奴隷制度に反対していたというのは当時から知られていた。ただ、彼らがそれをいつ表明していたのかというと実はよく分かっていない。自由黒人の活動家たちの間では、アダムズ親子がちょっと不思議なほど崇敬されていたことをご存知の方は少ないと思う。それもそのはずで、その根拠が後世に何故か伝わっていないのである。

話は少し飛ぶが、1816年ころに「アメリカ植民協会」という組織が設立された。アメリカ合衆国にいた自由黒人の「アフリカ帰還」事業である。設立宣言の文言は非常に美しいが、要するに黒人の厄介払いであることは、ジェファソンやモンローといった南部のプランターたちが積極的に名を連ねていたことからも明らかで、ジョン・ジェイやダニエル・ウエブスター、ヘンリー・クレイといったフェデラリスト-ホィッグのラインの人々も同じような心情にあった。つまり「黒人はアメリカ独立宣言でいうとことの『人間』にはカウントされていないし、アメリカ市民として統合するのは不可能である」という一点で南部の奴隷所有者と北部の穏健派奴隷制廃止論者は一致していたことを、その設立趣旨は示していた。まもなくこの帰還事業は悲惨な結末に終わり、奴隷制廃止論者の非難を受ける。ちなみに帰還事業というのは必ず失敗する。ついでにいうと帰還事業は常に悪意である。

このアメリカ植民協会の名簿にはジョン・アダムズの名はあるのだが、活動の形跡はない。新たに設立される組織や団体に名士が名前を使用されるのは普通のことであり、アダムズの場合もそうだったのだろう。アダムズのこの時期の書簡にも日記にもアメリカ植民協会について触れた箇所は見当たらない。この帰還事業の精神そのものは後々まで残り、南北戦争終了後のリンカーンも、黒人の「アフリカ帰還」の可能性を模索しているのだが、アダムズ家(当時の「当主」はJ・Q・アダムズの息子チャールズ・フランシス・アダムズ。南北戦争期の駐英公使、連邦下院議員。)はやはりこれに携わっていない。

こうなると、「穏健派奴隷制反対論」というのも内実はもう一層ありそうである。当時の自由黒人のインテリたちからアダムズ親子はなぜ敬愛されていたのか?インテリの自由黒人の活動家の少なからざる人々が、アボリッショニスト(奴隷制即時廃止論者)の白人活動家に心理的距離を感じていた。もちろんそれ以上に、リンカーン型の穏健派の北部白人にも距離を感じていた。その彼らが、アダムズにはいつも特殊な親しみと畏敬を表し続けるのである。これが後世から見ると不思議なので、歴史上語られるジョン・アダムズは、気難しい人物で、およそ人に甘ったるい感動を与えることはない人物であった。

1799年、ブネールとの会談を終えたアダムズと打ち合わせを行ったマサチューセッツ選出のフェデラリスト、H・G・オーティスが上院にて口火を切る。「もしサン=ドマングが独立するならば、私たちにはこれを新たな政府として接する権利が生じましょう」。サン=ドマングが独立国家ならば、米仏同盟には縛られない。そして彼は次のように言う。「私たちはもはや肌の色を理由に、権威を正当化できないのです」。議場は凍りついた。

「話が違うじゃないか!」というのが独立戦争に「協力してやった」南部プランターたちの本音だが、もちろんそんなことは言えない。彼らは、「トゥサンのごときジャコバンを許してよいのか?」と言う。穏健派フェデラリスツは、「フランスとの完全な断絶は危険ではある」と沈黙する。ハミルトン派フェデラリスツは、「イギリス海軍との事実上の同盟がある限り、フランスはおそれるには当たらない。これを機に国内のフランス派を駆逐しよう」と勢いづく。アレクザンダー・ハミルトンは、サン=ドマングはトゥサンの軍事力を背景とした王国になるのもよいと考えていた。彼は、ニュー・オリンズの港が安泰ならば、「同盟国」の政治体制には頓着しなかった。

アダムズ政権はトゥサン統治下のサン=ドマング北部との貿易再開を決定し、1799年1月に領事を派遣し、合わせてトゥサンには機密費から資金援助が為された。資金の出どころはボストンの商人たちであると言われている。これによって、崩壊寸前であったトゥサンの軍事政権は息を吹き返す。南部を支配するリゴーには、美しい人種平等の言葉だけがパリから送られてきたが、艦隊も金も送られては来ない。

1799年2月、アダムズはサン=ドマングの南側の海上封鎖を開始し、リゴーの交易ルートを完全に遮断した。すると7月には今度はトゥサンが南部に進軍を開始する。それこそあっという間に、ハイチ全域はトゥサンの勢力下に入り、翌年には隣のスペイン領サント・ドミンゴ(現在のドミニカ共和国)もトゥサンに明け渡されることになる。

さあ後はフランスと戦うのみというその瞬間、1799年10月アダムズはフランス総裁政府(まもなくナポレオンの統領政府になる)との和平交渉を開始し、サン=ドマングの現状追認と米仏和平が達成された。返す刀で、アダムズ政権からハミルトン派の閣僚が次々解任され、政権からイギリス派が一掃された。

これがワシントンの「告別の辞」に対するジョン・アダムズの回答だった。

ジョージ・ワシントンが言う「できるかぎり政治的結びつきをもたない」ようにすべき「諸外国」とは、アダムズの解釈では「ヨーロッパ諸国」であり、カリブ海ではない。多くの教科書が誤解しているのだが、ジョン・アダムズはアングロフィルではない。彼は、フランスと同じくらいイギリスが嫌いだったのだ。
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