研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

doux commerceという物語(1)

2007-01-17 23:10:13 | Weblog
1778年の米仏同盟条約(Franco-American Treaty of Amity and Commerce)は、18世紀初頭から激化してきたイギリスとフランスとの間の商業戦争の文脈の中で締結された。商業戦争、すなわち重商主義政策どうしの衝突であり、具体的には1701年から1714年のスペイン継承戦争、1740年から1748年のオーストリア継承戦争そして1756年から1763年の七年戦争がそれである。もちろん、これらの戦役にはいろいろな説明が存在するだろうが、このように整理すること自体は可能であろう。

七年戦争はアメリカ大陸においては、イギリス系植民者とフランス人・インディアン同盟との戦闘という形で行われ、前者が勝利したために、「フレンチ・インディアン戦争」といわれている。この七年戦争の西インド諸島方面の海戦において、イギリスはフランスのシュガー・コロニーズを奪い取った。ここが歴史を見るとき案外重要である。

北米植民地のイギリス系住民と、グアデループ(Guadeloupe)やマルティニク(Martinique)といった西インド諸島の砂糖農園を経営していたフランス系植民者たちとの仲は基本的に悪かったのだが、貿易自体は密貿易というかたちで活発に行われていた。ところが七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)の結果イギリス本国がこの地域を直接支配してみると、今度は北米植民地の貿易業者、特にボストンの商人たちは、イギリス本国から厳しい貿易規制を受けるようになったのである。彼らは当初、この海域からフランスの影響力を一掃することによって、利権をすべて得られると考えていたのに、不愉快なフランス人が支配していた時より悪くなっているのである。ここにアメリカ独立戦争における米仏同盟の一つのきっかけがあった。ボストンの商人たちは、この海域からイギリス本国の勢力を追い出したかったのである。彼らは、イギリス海軍に比べれば、フランス人植民者たちの方がはるかに御しやすかったことに気づいた。ちなみに、1797年から1800年までのジョン・アダムズ政権の西インド諸島政策も基本的にはこのラインにたっている。

そういうわけで、1778年の米仏同盟条約の内容は七年戦争でフランスが被った損害を補填する内容になっている。だからこれだけならアメリカの独立戦争もフランスにとっては英仏間の重商主義政策の衝突という中でなされたものということで整理しやすくなるのだが、当時の資料を読んでいくと、いかにもフランスらしい臭いが漂ってくる。それは、アメリカ革命というこの戦争のもう一つの呼び名にまつわるものである。

この米仏同盟条約のフランス側実務担当者の一人、Etienne Claviéreは、アメリカの体制を「philanthropic systemで」あり、「自然法にかなったものである」としたうえで、次のような見解をフランス外務省への報告に記している。

武力によってフランスは、自由なるアメリカの独立の主張への支持を表明する。両国の利益に基づいた商業条約は、両国をよりいっそう親密にするに違いない。二つの国民の道徳的・政治的安寧は、これらの商業的絆の主要な目的であり結果でなければならない。

この一文を理解するには、18世紀の後半になって、「重商主義(mercantilism)」と「商業(commerce)」とが次第に別の概念として認識され始めたことを知っておかなければならない。より正確にいうと、「商業」に特別な意味が込められるようになった。

いわゆる商業はそれこそ紀元前から存在した。しかし、中世後期から初期近代に入り集権化が進んでくると、それは絶対主義国家の力の源泉と認識されるようになり、重商主義が生まれた。もちろんそれは、ゼロ・サム・ゲームの世界理解である。要するに、地上に限りのある富を奪い合うという概念である。しかし啓蒙主義の時代になって、この重商主義とは違う概念が模索された。それは、限りある富を奪い合うのではなく、互いの利益を増大させあうプラス・サムな概念である。これをAlbert Hirschmanという学者は、「doux commerceという物語」と言った。英訳を見ると、gentle and soft commerceとある。どうやら、この時代の文脈でいう「商業」とはこれのことをさすらしい。

重商主義と比較した場合の商業とはどのようなものかというと、前者がinvidiousで、local and nationalで、不平等を増大させるものであるのに対して、後者はirenic(平和的、協調的)で、cosmopolitanで、社会的平等を促進するものなのだそうだ。それで、フランスの知識人たちは、アメリカ革命こそ後者を断固としてイギリスに主張するものだと考えた。例えば、コンドルセ(1743-1794)は次のように言う。

アメリカ革命の功績は、イングランドで名誉革命の際に確認された自由と財産を尊重する精神と、自己中心的なマキャベリ的重商主義政策との間の矛盾を解消したことである。

コンドルセは、Machiavellianという言葉を重商主義を形容するのに使用している。そして彼はこれは悪いものだと言っている。なぜならそれは他者の自由と財産を否定するからであると。しかし、「商業」は違うのだと言う。「商業」は、自他ともに発展させていくから素晴らしいのだという。そしてアメリカ革命の提示した価値観はこういった「商業」なのだと言う。

科学とスピリチュアリズム

2007-01-17 02:42:03 | Weblog
19世紀後半から20世紀初頭のアメリカ文化をみるとき、無視しようとしてもどうしても無視できないのが、スピリチュアリズムのブームである。交霊会があちこちで催され、霊媒師を通して霊魂との交流が行われた。ソローやエマソンの作品もこういう時代の雰囲気を知っていないと、本当には理解できないんだろう。特に、スゥエーデンボルグの霊界探訪の記述は、この時代の文学者にベッタリと影響を与えていて、確かエマソンの母親はスゥエーデンボルグの信者だったはずである。

実はこういう心霊主義のようなものは、アメリカには植民地時代からわりと多くて、それは定期的に起こる信仰復興運動とは、また別の位相のものとしてずっと存在してきた。理由はよく分からないが、一つ考えられるのは、アメリカにはヨーロッパにおけるような確立した教会組織があまりなくて、こうしたキリスト教的には異端的ものが比較的存在しやすかったというのはあるだろう。魔女裁判のようなものも、キリスト教の支配力が不安定になった時――宗教改革の時代、あるいは世俗化の急速に進行した植民地時代後期のアメリカ――に活発に行われている。

こうしたブームは、世俗化が進み科学的思考様式が勢力を拡大するにつれて大きくなる傾向があって、ヨーロッパでもキリスト教会の力が弱まる時ほど心霊現象が起こりやすい。プロテスタントの思想家カール・ヒルティは、「正しい信仰が衰えると、裏口から邪教が入り込む」という言い方をしているが、なんらかの形でエスタブリッシュな宗教が弱くなると、こういうものが出てくると考えられている。つまり、信教の自由の副産物である。

歴史をみるかぎり、近代的合理的思考様式と前近代的思考様式、あるいは科学対宗教という対立構造自体が立論として間違っているということが分かる。「科学が発展している時代に、なぜこのような霊魂だのの話が出てくるのか?」という疑問自体が不自然で、科学とスピリチュアリズムは、歴史的に常に同じ時期に力を伸ばしていて、それはどちらも「支配体系としての宗教」と対立してきたのである。つまり、オカルト的なものは科学的思考能力の欠如によって発生するとは、歴史的には言えない。どちらもエスタブリッシュな宗教が欠如しているときに、同時に発生するもので、人類史全体からみるならば、「正統宗教」・「オカルト」・「科学」は、相互に補完関係にある。繰り返しになるが、いわゆる中世ヨーロッパのようなキリスト教が絶対的な権限をもっていた時代には、「不思議な霊現象」は無いことになっていた。心霊現象や魔術が熱心に研究されたのは、近代に入ってからである。アイザック・ニュートンが錬金術に夢中になっていたのは有名な話だが、なんでも彼が実験室で必死に捜し求めていたのは、「賢者の石」だったそうだ。そもそも科学的関心と魔術的関心は、起源においては似たようなものだったのだろうということである。そういえば、現代アメリカにおける説教者もテレビ・エヴァンジェリカルズという名の示すとおり、新興宗教とテクノロジーは妙に相性がいいのである。

建国期ニュー・イングランドの風土もこういう側面を無視してみることは出来ない。カトリック世界においては、膨大な時間を費やした公会議によって、イエス・キリストとは、「完全なる人」にして「完全なる神」ということに収まり、三位一体論が正統神学となり、それ以外の諸宗派は異端となった。こうした正統神学の確立の事情はプロテスタントでも変わらない。ルター派はメランヒトンによってトマス・アクィナスと似たような構造で神学が固まり、カルヴァン派も厳格な二重予定説のもとにやはり似たような神学が確立した。ヨーロッパ世界で心霊現象が一掃されたのはこの瞬間だけである。科学の出現によって一掃されたのではない。

しかしながら、アメリカ革命前夜の北米植民地では、ここの部分が驚くほど抵抗なく否定されていたのである。アルミニウス派やユニテリアンといった三位一体論も予定説も否定するような宗派が普通に活動を行っていた。特にニュー・イングランドにおいては、神学教育の場であるハーヴァード大学ではユニテリアンが主流を占めていた。

ユニテリアリズムの歴史を詳細に語ることは出来ないが、要するにキリストの神性を否定し、神と人とを直接結びつけるわけだが、そこでは予定説と聖書の絶対性は否定され、来世の救済は、人間の意志とその道徳性にかかってくる。もはやカルヴァンとは無縁であるこの宗派は、必然的に汎神論的色彩を持つようになり、そこに心霊の働きが入り込む余地が生まれる。救済は予定にもとづくものではないことから、道徳的緊張感をもった自己改革の努力がそこに生まれると同時に、祈りの効用が認識されるようになる。そして科学技術の躍進もこれとまったく同じ時期に進行している。

そういうわけで、ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』はやはりおかしくて、ベンジャミン・フランクリンの「13の徳」というのは、プロテスタントのそれとは無縁なものである。彼が活躍していたフィラデルフィアは、最初から正統プロテスタント(ヘンな言い方だが)とは、無縁の土地柄であった。「理念型」とかそういう問題以前に、ニュー・イングランドとその周辺にはまったく場違いな感じなのである。あの界隈は、道徳的関心と心霊現象の中心地だったのだから。

最近は収まってきたが、ここ数年、霊能者や占い師の類がテレビのゴールデンタイムに出演するようになっているが、こういった風潮にあまり心配をする必要はないように思う。科学の進展とオカルティズムあるいはスピリチュアリズムの流行はいつでも同時期なのであり、そういうのが無い時代というのは、エスタブリッシュメント・チャーチが世の中を支配している時代だったことを考えれば、自由を謳歌できていることの一つの証左といえるのかもしれない。