『メリー・ウィドウ』は『こうもり』とともに上演回数が多く、世界中で親しまれてきたウィーン・オペレッタの代表的作品です。
アン・デア・ヴィーン劇場支配人のカルチャクはこの作品の作曲を最初ホイベルガーに依頼しましたが、計画はとん挫。予定した初演までもう時間がない。劇場はここ数年の不入り状態で金もない。ないないづくしで失うものもない、と踏んだのか、それまでさして実績もなかったレハールに大急ぎで作曲をやらせてみることにしたものでした。
作品が出来上がっていく過程についてはいろいろなところで詳しく語られてきました。
最初に作曲されたのが、第二幕Nr.8の二重唱《Heia, Mädel, ausgeschaut》、いわゆるお馬鹿な騎兵さん、の歌でした。レハールは出来上がったばかりの曲を受話器を通して自らピアノを弾いて聴かせたと言います。カルチャクのところに現われたときにも、まだすっかり全体が完成していたわけではありませんでした。しかも、カルチャクに、「これはオペレッタじゃない。ヴォードヴィル音楽だ」って酷評されてしまいました。
台本のことで言えば、ポンテヴェドロがモンテネグロをあてこすったものだということは当時のウィーンの人には直ぐに分かったようです。また登場人物のそれぞれ、ダニロ、ツェータ、ニエグシュ、どれもモンテネグロに実在した人物名であり、それぞれの人物について、どういう人たちであったのかの解説も詳しく読むことができます。
ただ、わたしは、そうしたモンテネグロの歴史とこの作品の関係にさして意味を見出しません。むしろ、注目したいのは、この作品で造り出された人物たち、つまり、歴史上の人物と関係のない人たちです。
それは女性です。主人公のハナであり、ヴァランシエンヌです。
オペレッタは科白の部分を外して歌われる箇所だけ追って行っても筋がはっきりしません。その意味で、1966年に録音されたローベルト・シュトルツ指揮、ベルリン交響楽団の演奏によるCD (DENON) が一番気に入っていると同時に、筋を理解するうえでも示唆的です。
このCDではハナについて、ツェータがこのように紹介しています
「彼女の父親は借金まみれの小作人だった。しかし大金持ちの銀行家と結婚し、しかも夫が結婚して一週間後に死んでしまって、今や莫大な財産を相続した未亡人」
一方当のハナは登場の歌で、こう歌います。
「わたしはまだご当地の風習というものに不慣れなものですから、みなさまがちやほやされても、どうお応えしていいものやら、わからない田舎者ですのよ」
そして、ダニロですが、同じくツェータにパリ勤務になってどれくらいになるか、と尋ねられて、「4か月です」と答えています。
こんなに詳しく科白で時間的経過が語られているのは、わたしが知る限りこのシュトルツ指揮のバージョンだけですが、ほかのバージョンにしても、ハナがパリにきたばかりであること、その直前に夫が死んでいること、そして、さらにその少し前には、ダニロと恋仲だったけれども、ダニロのおじに身分が違う ― ダニロは伯爵、つまり貴族です ― と結婚を反対されたために、銀行家と結婚したのだという点ではどれも同じです。
このことから何が分かるかと言えば、ダニロは、愛するハナが人の妻になったショックから逃げるようにパリ勤務を志願したこと。
しかしそのハナは、夫が死んで、独身になり、なおかつ、今や前夫の莫大な財産を手にし、迷わず直ちにパリに乗り込んできたということです。
インターネットの国際版の乗り換え案内で調べてみると、交通の発達した現在でも、モンテネグロからパリまで来るのに、特急を乗り継いで17時間かかります。1905年当時であれば、2日かがりであったに違いないと思われます。喪に服する時間も惜しむかのように、ハナは故郷を出てまっしぐらにパリにやってきたのです。モンテネグロ (ポンテヴェドロ) はグーグルの地図で確かめると分かりますが、たしかに山岳地方です。花の都パリの作法が、田舎から出てきたばかりのハナに分かるはずがありません。
ところが、そのハナが第二幕で自宅にポンテヴェドロの人々、そしてパリの色男たちを招待し、さらに第三幕では、自宅をマキシムに設定してグリゼットたちにお客を接待させるのです。
なんという女性でしょう。ハナは自ら礼儀作法も知らない田舎者だといいながら、実際にはすべてがわかっているのです。
それはなぜかと言えば、ダニロを愛しているからなのです。女性は愛する男のことは手に取るように分かるからなのです。だからレハールは真っ先に、「あんたってわたしの気持もわからない野暮な騎兵さん」を作曲したのです。
ところで、日本でもこの作品のタイトルは『メリー・ウィドウ』で通っていますが、原題のDie lustige Witwe は、滑稽な未亡人、って意味になります。傍目から見て、仕草とか滑稽な人、っていうことです。豹柄のシャツ着た大阪のおばちゃん?
どこかの解説で、彼女のことをlebenslustigと書いてあるのを知り、目からうろこが落ちました。lebenslustigとは、まさに生きる意欲のことをあらわすもので、傍目の印象ではありません。ハナは自分が財産持ちの未亡人になった今、逆にダニロの方が自分に好き、と告白出来なくなってしまったことは分かっているのです。
勿論ハナの本心だってそこは同じです。大金持ちの自分だから、今度は愛してくれる、そうでしょう? なんて、夢にも思わないし、ダニロがそんな男であってほしくはないし、そんな男だったらもともと惚れたりはしなかったでしょう。そんなことを百も承知の上で、いたぶって、からかって、ダニロの方から「愛している」って言わせようとしているのです。それは、伯父に反対されたくらいで決断もできなかったダニロに対するちょっとした復讐なのです。
女は愛した男だから、このように手玉にとるのです。
これは甘ったるいメロディーに満ちた男女の他愛のない恋愛を描いた現実逃避のオペレッタなのではなく、実際には男にとって、とても恐ろしい話なのです。このことが分からない男はやがてぬれ落ち葉となって捨てられるだけです。
大成功を収めたウィーン・フォルクスオーパーの日本初公演 (1979年) でこの作品は熱狂的に受け入れられ、一気に日本にウィーン・オペレッタのファンが増えました。ただ本当に残念なことに、その後ひのまどか氏が綴ったため息は今に至るも解消されずじまいです。
「ところで、日本でも最近内外のオペレッタ公演が増えてきたが、こと客席に関する限り成熟した大人のムードとはほど遠い。これはつまり、亭主が自分の女房と遊ばないからだと、私は踏んでいる。そんな暇はない、チケットが高いから、などというのは不誠実な言い訳で、本音を明かせば妻にサービスする気がないのだ。妻の方も、そんな夫と観ても面白くもないから友達どうしで行くことになり、舞台上の色恋はうらやましいが、他人事。」音楽之友社刊『新編世界大音楽全集』の月報45 (「オペレッタは、大人の教材」1993年)
熟年離婚なんて言葉は、ちゃんとひのまどか氏の言うことに亭主が耳を傾けていれば予見できたはずです。女房なんか何もわかっとらん、と仕事三昧の生活をしてきた亭主、実は何もわかっとらんのは亭主のほうなのです。
ところでこのオペレッタ『メリー・ウィドウ』にはもう一人重要な役割をになう女性が出てきます。ヴァランシエンヌです。
シュトルツのCDでは、ツェータと結婚したばかりのパリ娘。18歳のまだまったくのおぼこ (unschuldig) と紹介されます。今や人妻とは言え、この若くてぴちぴちした可愛いヴァランシエンヌにカミィユがいれあげます。まあ、そんなことは彼の勝手でしょうが、聞き捨てならないのは二人が歌う二重唱《So kommen Sie!》Nr.2です。
この二重唱、よく聞けば、ヴァランシエンヌから二人の関係にピリオドを打ちましょうという内容です。
ん?
え?
なに?
ピリオドを打ちましょう?
っていうことはなにか、二人の間に物語があったということではありませんか?
通常、手をきりましょうという話を持ちかけるときに、そもそも「わたしは貞淑な人の妻」なんてフレーズが出てくるものでしょうか? 「夫にばれるとまずいから、ここらで手を切って」って言うのではありませんか?
この二重唱、美しくて、切ない愛のメロディーに乗せて歌われる、とてもロマンチックなシーンですが、よく耳を澄ませてどうぞCDで聞き直してみてください。わたしの空耳かもしれませんが、ヴァランシエンヌが「わたしは貞淑な人の妻」(Ich bin eine anständige Frau) と言うたびに、バイオリンがLüge! Lüge! (嘘ですよ、嘘ですよ) と伴奏しています。
第一幕のフィナーレはDamenwahl (女性の方からダンスのお相手を選ぶ) です。ハナにパリ男が自分を選んでくださいと群がってきます。ハナの頭にあるのはもちろんダニロに嫉妬の地獄を味あわせようという一点です。誰にしようか迷った、迷ったと、ちくちく、彼をいたぶるシーンですが、ここでもヴァランシエンヌが、口をすべらせています。
夫ツェータが故国の財産を守ろうと、ハナとパリ男の結婚をなんとしても阻止したがっているのを知っていながら、ヴァランシエンヌはハナにカミィユを推薦します。
なぜかと言うと「カミィユはポルカが上手い。わたしが経験済みだから知ってます。マズルカも上手、わたしが経験済みだから知っているのです。ワルツも上手ですよ、わたしが経験済みだから知っているのです」と。
やれやれ、とんだあばずれじゃありませんか。
決定的なのは、もちろん第三幕です。ヴァランシエンヌはとうとう第三幕では、なんの不思議もなく、グリゼットの大姉御として登場するのみならず、カンカンを踊ります。
さきほども書きましたが、ヴァランシエンヌはツェータの新妻です。パリ駐在公使のこのツェータはオペレッタの幕が開くや、そうそうに愛国心たっぷりに故国の君主の誕生日を祝っています。そしてハナの相続した財産が、ハナがパリ男と再婚でもして国外流失すれば国が破産すると、ダニロを呼びつけて、ハナとの結婚を強要するところからこのオペレッタは始まります。
Landesvater per procura (全権委任された国主の代理、といった意味です) と自認するこのツェータの新妻がパリ娘であることは、ダニロとハナの愛を際立たせるためのカリカチュアにもなっているのです。
レハールのこのオペレッタはダンス・オペレッタとも言われています。全編にリズム曲がちりばめられていることによります。そして、要所要所に、たとえば先のカミィユとヴァランシエンヌの二重唱、またハナとダニロの二重唱Nr.15《Lippen schweigen》、いわゆるメリー・ウィドウ・ワルツですね、こうしたロマンチックなメロディーが組み込まれています。
それこそがレハールが仕掛けたこの作品の最大の新しさだったのです。近松の歌舞伎の手法と似ているかもしれません。男女の心のどろどろした葛藤を、背景のさわやかで、楽しい祭囃子が聞こえるなかですすめていく手法です。
わたしは、今はやりの言い方をするとこのオペレッタ、草食男子と肉食女子の物語のようにも思われます。ううむ、げに女性は恐ろしき生き物かな。
ヨハン (2011/01/07)
アン・デア・ヴィーン劇場支配人のカルチャクはこの作品の作曲を最初ホイベルガーに依頼しましたが、計画はとん挫。予定した初演までもう時間がない。劇場はここ数年の不入り状態で金もない。ないないづくしで失うものもない、と踏んだのか、それまでさして実績もなかったレハールに大急ぎで作曲をやらせてみることにしたものでした。
作品が出来上がっていく過程についてはいろいろなところで詳しく語られてきました。
最初に作曲されたのが、第二幕Nr.8の二重唱《Heia, Mädel, ausgeschaut》、いわゆるお馬鹿な騎兵さん、の歌でした。レハールは出来上がったばかりの曲を受話器を通して自らピアノを弾いて聴かせたと言います。カルチャクのところに現われたときにも、まだすっかり全体が完成していたわけではありませんでした。しかも、カルチャクに、「これはオペレッタじゃない。ヴォードヴィル音楽だ」って酷評されてしまいました。
台本のことで言えば、ポンテヴェドロがモンテネグロをあてこすったものだということは当時のウィーンの人には直ぐに分かったようです。また登場人物のそれぞれ、ダニロ、ツェータ、ニエグシュ、どれもモンテネグロに実在した人物名であり、それぞれの人物について、どういう人たちであったのかの解説も詳しく読むことができます。
ただ、わたしは、そうしたモンテネグロの歴史とこの作品の関係にさして意味を見出しません。むしろ、注目したいのは、この作品で造り出された人物たち、つまり、歴史上の人物と関係のない人たちです。
それは女性です。主人公のハナであり、ヴァランシエンヌです。
オペレッタは科白の部分を外して歌われる箇所だけ追って行っても筋がはっきりしません。その意味で、1966年に録音されたローベルト・シュトルツ指揮、ベルリン交響楽団の演奏によるCD (DENON) が一番気に入っていると同時に、筋を理解するうえでも示唆的です。
このCDではハナについて、ツェータがこのように紹介しています
「彼女の父親は借金まみれの小作人だった。しかし大金持ちの銀行家と結婚し、しかも夫が結婚して一週間後に死んでしまって、今や莫大な財産を相続した未亡人」
一方当のハナは登場の歌で、こう歌います。
「わたしはまだご当地の風習というものに不慣れなものですから、みなさまがちやほやされても、どうお応えしていいものやら、わからない田舎者ですのよ」
そして、ダニロですが、同じくツェータにパリ勤務になってどれくらいになるか、と尋ねられて、「4か月です」と答えています。
こんなに詳しく科白で時間的経過が語られているのは、わたしが知る限りこのシュトルツ指揮のバージョンだけですが、ほかのバージョンにしても、ハナがパリにきたばかりであること、その直前に夫が死んでいること、そして、さらにその少し前には、ダニロと恋仲だったけれども、ダニロのおじに身分が違う ― ダニロは伯爵、つまり貴族です ― と結婚を反対されたために、銀行家と結婚したのだという点ではどれも同じです。
このことから何が分かるかと言えば、ダニロは、愛するハナが人の妻になったショックから逃げるようにパリ勤務を志願したこと。
しかしそのハナは、夫が死んで、独身になり、なおかつ、今や前夫の莫大な財産を手にし、迷わず直ちにパリに乗り込んできたということです。
インターネットの国際版の乗り換え案内で調べてみると、交通の発達した現在でも、モンテネグロからパリまで来るのに、特急を乗り継いで17時間かかります。1905年当時であれば、2日かがりであったに違いないと思われます。喪に服する時間も惜しむかのように、ハナは故郷を出てまっしぐらにパリにやってきたのです。モンテネグロ (ポンテヴェドロ) はグーグルの地図で確かめると分かりますが、たしかに山岳地方です。花の都パリの作法が、田舎から出てきたばかりのハナに分かるはずがありません。
ところが、そのハナが第二幕で自宅にポンテヴェドロの人々、そしてパリの色男たちを招待し、さらに第三幕では、自宅をマキシムに設定してグリゼットたちにお客を接待させるのです。
なんという女性でしょう。ハナは自ら礼儀作法も知らない田舎者だといいながら、実際にはすべてがわかっているのです。
それはなぜかと言えば、ダニロを愛しているからなのです。女性は愛する男のことは手に取るように分かるからなのです。だからレハールは真っ先に、「あんたってわたしの気持もわからない野暮な騎兵さん」を作曲したのです。
ところで、日本でもこの作品のタイトルは『メリー・ウィドウ』で通っていますが、原題のDie lustige Witwe は、滑稽な未亡人、って意味になります。傍目から見て、仕草とか滑稽な人、っていうことです。豹柄のシャツ着た大阪のおばちゃん?
どこかの解説で、彼女のことをlebenslustigと書いてあるのを知り、目からうろこが落ちました。lebenslustigとは、まさに生きる意欲のことをあらわすもので、傍目の印象ではありません。ハナは自分が財産持ちの未亡人になった今、逆にダニロの方が自分に好き、と告白出来なくなってしまったことは分かっているのです。
勿論ハナの本心だってそこは同じです。大金持ちの自分だから、今度は愛してくれる、そうでしょう? なんて、夢にも思わないし、ダニロがそんな男であってほしくはないし、そんな男だったらもともと惚れたりはしなかったでしょう。そんなことを百も承知の上で、いたぶって、からかって、ダニロの方から「愛している」って言わせようとしているのです。それは、伯父に反対されたくらいで決断もできなかったダニロに対するちょっとした復讐なのです。
女は愛した男だから、このように手玉にとるのです。
これは甘ったるいメロディーに満ちた男女の他愛のない恋愛を描いた現実逃避のオペレッタなのではなく、実際には男にとって、とても恐ろしい話なのです。このことが分からない男はやがてぬれ落ち葉となって捨てられるだけです。
大成功を収めたウィーン・フォルクスオーパーの日本初公演 (1979年) でこの作品は熱狂的に受け入れられ、一気に日本にウィーン・オペレッタのファンが増えました。ただ本当に残念なことに、その後ひのまどか氏が綴ったため息は今に至るも解消されずじまいです。
「ところで、日本でも最近内外のオペレッタ公演が増えてきたが、こと客席に関する限り成熟した大人のムードとはほど遠い。これはつまり、亭主が自分の女房と遊ばないからだと、私は踏んでいる。そんな暇はない、チケットが高いから、などというのは不誠実な言い訳で、本音を明かせば妻にサービスする気がないのだ。妻の方も、そんな夫と観ても面白くもないから友達どうしで行くことになり、舞台上の色恋はうらやましいが、他人事。」音楽之友社刊『新編世界大音楽全集』の月報45 (「オペレッタは、大人の教材」1993年)
熟年離婚なんて言葉は、ちゃんとひのまどか氏の言うことに亭主が耳を傾けていれば予見できたはずです。女房なんか何もわかっとらん、と仕事三昧の生活をしてきた亭主、実は何もわかっとらんのは亭主のほうなのです。
ところでこのオペレッタ『メリー・ウィドウ』にはもう一人重要な役割をになう女性が出てきます。ヴァランシエンヌです。
シュトルツのCDでは、ツェータと結婚したばかりのパリ娘。18歳のまだまったくのおぼこ (unschuldig) と紹介されます。今や人妻とは言え、この若くてぴちぴちした可愛いヴァランシエンヌにカミィユがいれあげます。まあ、そんなことは彼の勝手でしょうが、聞き捨てならないのは二人が歌う二重唱《So kommen Sie!》Nr.2です。
この二重唱、よく聞けば、ヴァランシエンヌから二人の関係にピリオドを打ちましょうという内容です。
ん?
え?
なに?
ピリオドを打ちましょう?
っていうことはなにか、二人の間に物語があったということではありませんか?
通常、手をきりましょうという話を持ちかけるときに、そもそも「わたしは貞淑な人の妻」なんてフレーズが出てくるものでしょうか? 「夫にばれるとまずいから、ここらで手を切って」って言うのではありませんか?
この二重唱、美しくて、切ない愛のメロディーに乗せて歌われる、とてもロマンチックなシーンですが、よく耳を澄ませてどうぞCDで聞き直してみてください。わたしの空耳かもしれませんが、ヴァランシエンヌが「わたしは貞淑な人の妻」(Ich bin eine anständige Frau) と言うたびに、バイオリンがLüge! Lüge! (嘘ですよ、嘘ですよ) と伴奏しています。
第一幕のフィナーレはDamenwahl (女性の方からダンスのお相手を選ぶ) です。ハナにパリ男が自分を選んでくださいと群がってきます。ハナの頭にあるのはもちろんダニロに嫉妬の地獄を味あわせようという一点です。誰にしようか迷った、迷ったと、ちくちく、彼をいたぶるシーンですが、ここでもヴァランシエンヌが、口をすべらせています。
夫ツェータが故国の財産を守ろうと、ハナとパリ男の結婚をなんとしても阻止したがっているのを知っていながら、ヴァランシエンヌはハナにカミィユを推薦します。
なぜかと言うと「カミィユはポルカが上手い。わたしが経験済みだから知ってます。マズルカも上手、わたしが経験済みだから知っているのです。ワルツも上手ですよ、わたしが経験済みだから知っているのです」と。
やれやれ、とんだあばずれじゃありませんか。
決定的なのは、もちろん第三幕です。ヴァランシエンヌはとうとう第三幕では、なんの不思議もなく、グリゼットの大姉御として登場するのみならず、カンカンを踊ります。
さきほども書きましたが、ヴァランシエンヌはツェータの新妻です。パリ駐在公使のこのツェータはオペレッタの幕が開くや、そうそうに愛国心たっぷりに故国の君主の誕生日を祝っています。そしてハナの相続した財産が、ハナがパリ男と再婚でもして国外流失すれば国が破産すると、ダニロを呼びつけて、ハナとの結婚を強要するところからこのオペレッタは始まります。
Landesvater per procura (全権委任された国主の代理、といった意味です) と自認するこのツェータの新妻がパリ娘であることは、ダニロとハナの愛を際立たせるためのカリカチュアにもなっているのです。
レハールのこのオペレッタはダンス・オペレッタとも言われています。全編にリズム曲がちりばめられていることによります。そして、要所要所に、たとえば先のカミィユとヴァランシエンヌの二重唱、またハナとダニロの二重唱Nr.15《Lippen schweigen》、いわゆるメリー・ウィドウ・ワルツですね、こうしたロマンチックなメロディーが組み込まれています。
それこそがレハールが仕掛けたこの作品の最大の新しさだったのです。近松の歌舞伎の手法と似ているかもしれません。男女の心のどろどろした葛藤を、背景のさわやかで、楽しい祭囃子が聞こえるなかですすめていく手法です。
わたしは、今はやりの言い方をするとこのオペレッタ、草食男子と肉食女子の物語のようにも思われます。ううむ、げに女性は恐ろしき生き物かな。
ヨハン (2011/01/07)