ウィーンわが夢の街

ウィーンに魅せられてはや30年、ウィーンとその周辺のこと、あれこれを気ままに綴ってまいります

ウィーンの路面電車に関するトリビア

2010-03-13 15:59:46 | ウィーン
ウィーンの交通手段としては現在地下鉄も充実していますし、Sバーンも勝手がわかれば、便利な上速いのですが、やはりゆったり車窓に街並みを眺めながらの路面電車、時間があればよく使います。わたしたちが1年暮らした1983年は、ヨーン・シュトラーセから49番を使いました。今は地下鉄も開通し、駅界隈はそのときに比べずいぶん賑やかになりました。むかしはオペラなど見た帰り、路面電車の発車するDrカール・レンナー・リングまで、余韻を楽しみながら歩いて、49でゆったり、ことこと帰りました。一度だけ帰りの49番で居眠りをしてしまい、気がついたら終点のヒュッテルドルフまで連れていかれてしまったこともあります。懐かしい想い出です。

ところで懐かしいと言えば、路線J、これは車内アナウンスで「イェー」と言われるのが、なんとも習ってきたドイツ語のアルファベートと違って、ウィーン独特だなあ、って思ったものですが、いつの間にか、この路線も姿を消してしまいました。
そこで調べてみました。

ウィーンの路面電車はもともとA~Zまでのアルファベート路線がありました (なかったのは他と紛らわしいI、Q、Xです)。そのうち現在も走っているのは、わずかにDとOだけになりました。

この市内交通の電化は1897年から、それまでの馬車鉄道、蒸気鉄道など、ばらばらの経営母体、線路幅の違う規格で営業していたものを市営に一本化、統括する形で進められました。

名誉ある路面電車の路線第一号は、1897年1月28日、今日の路線5の区間を走りました。なにより騒音、悪臭を出さないということで評判は上々、いっきに市内交通の主役に躍り出ていきます。

1907年に路線のアルファベート化、ナンバー化が導入されました。1907年運行を開始したアルファベート路線は、AK、AR、BK、BR、ER、EK、F、G、H、J、K、L、N、P、S、TK、TR、Z の18路線です。(*参考にした資料では、すでに廃止された路線のみが挙げられているので、現役のD、Oがいつから走り出したのか分かりません)

ウィーンの街を路面電車が走るようになっても、郊外地区を結ぶいくつかの路線では1922年まで蒸気鉄道が運行されていました。

路面電車は20世紀の半ばまで、人々に「ディ・エレクトリッシェ」と呼ばれていました。

ウィーンはリングとギュルテル、二つの輪の内外に発展してきた街で、1区、2区の並びもパリのようにカタツムリ状に外に向かって出来上がっていきました。中心部はモーツァルト・クーゲルの断面のようです。その円を描く路線と放射状に郊外地区へと延びる路線が結合したコンビネーション路線がA~Zのアルファベートであらわされました。時計の反対回りでAからZへと命名されていきました。(*このアルファベート路線は将来的にはすべて1~4のナンバー路線に変更されるようです)

ナンバー路線の5~20は、都心部相互を円を描くように結ぶ路線です。

ナンバー路線の21~82は放射状に都心と郊外地区を結ぶ路線です。

AKとかAR、あるいはF2というように、アルファベート路線は、お客さんにどういうルートを通っていくか分かりやすくするため、K は Kai (運河)、R は Ring (リング)というように、経由も示していました。

リングには貨物車 (今で言えばトラックですね) が入ってこられなかったため、リングとパラレルの道路は貨物車通り (Lastenstraße) と呼ばれました。そこを経由する路面電車には、F2のように2がつけられました。ウィーンの人々はこれを「Zweierlinien、2の路線」、と呼びました。

参照している資料によると、現在運行されている路面電車は、次の28路線です。
D、O、1、2、5、6、9、10、18、26、30、31、33、37、38、40、41、42、43、44、46、49、52、58、60、62、67、71

ウィーンの路面電車は、馬車鉄道の後継者として登場しましたから、こんな特徴を持っていました。
馬車鉄道では、運転手は御者ですからね、馬の手綱を引いて運転しているわけです。つまり、フィアカーと同じで、運転台から直接手綱を引いているわけです。なぜ電化された後にもこの方法を真似しなくてはならなかったのか、今となっては首をひねるようなことですが、市内鉄道が電化されて、手綱が不必要になったにもかかわらず、伝統の名の下、運転手は、周りに蔽いのない、いわば吹きさらしの運転台にたっていました。ウィーンですからね、この前も書いたように、寒波がくる冬はマイナス30度の日だってあるんですよ!! 可哀そうに運転手さんは1910年までこの状態でした。

わたしたちの子供のころには路面電車にもバスにも車掌さん、という方が乗っていましたね。ウィーンももちろんそうでした。ウィーンでは、車両が連結されて運転されるほうが結構普通ですから、車掌さんも、前の車両と、後ろの連結車両に、それぞれ乗っていたようです。
いやな言葉ですが、人件費がかさんだわけです。ということで、経費削減の声のもと、1964年に先ず連結車両の車掌さんがいなくなり、1972年以降は原則として車掌さんは完全廃止となりました (そう言われれば、schaffnerlosって車体に書いてありますなあ)。ただ、平気で派遣切りするどこかの国と違って、生首はきれませんからね、実際は1996年まで車掌さんを載せた路面電車が走っていたようです。ちなみにその最後の車掌さんが勤務していたのは46の路線だということです。

第一次世界大戦で、男たちが出征し、路面電車の運行に支障がでたため、1916年から女性が穴を埋める形で勤務することになりました。

ヒトラーによってオーストリアがドイツ帝国に併合されたことにともない、1938年9月19日から路面電車も含め、それまでの左側通行から、右側通行に変更になりました。(*Sバーン、ÖBBは、今も左側通行です)

第二次大戦の空襲で、ウィーンはすっかり破壊されました。
そのため1948年アメリカからマーシャル・プランの一環としてアメリカ製の中古の路面電車が送られてきました。しかし「アメリカーナー」と呼ばれたこの電車は、車体幅が広く、またウィーンの路面電車の線路幅には合いませんでした。そこで蒸気鉄道が使用していた路線、たとえば路線331のシュタマースドルフ方面行などに使われました。
空気圧によってドアを自動開閉できるとか、モダンなこの車両は、座席も進行方向に合わせて向きを変えることができました。

ウィーンの路面電車に低床車両が登場するのは1995年で、これはULF (Ultra Low Floor)と呼ばれます。

100以上のナンバーの路線は、郊外をむすんだかつての蒸気鉄道区間を走る路面電車に使われました。

ウィーンの路面電車は今でも街のいたるところを走っていて、路線の充実ぶりには驚くばかりですが、これはそもそも建設にあたってのコンセプトとして、どんな郊外に住んでいる住民でも、多くても二回の乗り換えで都心部に来られるようにネットが張られたからです。利用客が最大を数えた両大戦間の時期、たとえば1922年の路面電車の運行ダイヤを見ると、Dr.カール・レンナー・リング停留所には9つのコンビネーション路線が乗りいれていました。
しかし、現在は、乗客数の減少、バス路線への転換、そして地下鉄の整備によって、路面電車の路線網は縮小を余儀なくされています。

しばらく前までリング、フランツ・ヨーゼフス・ケー (ドナウ運河) を路線1 (時計回りに内側を) と、反対回りで外側を路線2が、いわば終点のない路線として巡回運行していました。いつの間にか、黄色い表示のVTR (Vienna Ring Tram) という観光客向けの別途料金 (6オイロ) の電車に変わってしまいました。これは2009年4月4日導入され、30分間隔で運行されています。
路線1、2はその前年2008年10月26日から、歴史的にもともとコンビネーション路線であったものが、元に戻った形で、今は、路線1が、ファヴォリーテン地区のシュテファン・ファーディンガー広場から路線65、78を経由して、プラーター・ハウプトアレーまで運行され、路線2はオタクリングから45 (例のJ路線)、29 (N路線) を経由して、タボール通りまで運行されるようになったのです。

ウィーン南駅が、再開発により、ウィーン中央駅に衣替えすることにともない、路線Dは現在の終点南駅から延伸されて、地下鉄U2に計画中の新駅グードルン通りを経由し、アプスベルクガッセまで運行し、そこで路線6と接続する予定だそうです。
また、アルファベート路線は廃止され、路線Dは路線3となるようです (資料では2009年から、となっていますが、わたしたちがいた昨年9月にはまだDとなっていました。今年はひょっとするともう路線3に変わっているのでしょうね)

各路線の終電は行き先が青い照明で表示されたり、また、車体に青色の半月プレートを掲げていましたので、「ディ・ブラウエ」と呼ばれました。
路線廃止が決定し、最終運行をする電車も、この呼び名を真似て「最後のディ・ブラウエ」と呼ばれます。

ヨハン





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