爺さんのつぶやき

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カラシニコフとストーナー

2005年12月09日 | Weblog
 写真は、ベトナム戦争で宿敵だったカラシニコフとストーナーの対談風景である。冷戦が終結した当時彼らは、有能な武器設計者として、お互い意見交換を行った。左がミハイル・カラシニコフ(AK47の開発者)、右がユージン・ストーナー(M16の開発者)である。武器は例外なく人の生命を絶つ悪しき人類の発明品である。しかし、いつまでも武器はなくならない。

 ベトナム戦争ではソビエト連邦や中華人民共和国から、北ベトナム軍(NVA)や南ベトナム解放民族戦線(NLF)に向けて大量のAKが送り込まれた。戦場は熱帯雨林を中心とする過酷な環境であったが、AKはその中でも確実に動作したことで知られている。

 ソビエト連邦は冷戦期、東側友好国に対して大量のAKを供与している。また、一部の国に対してはライセンス生産という形で生産も認めた。このため、AK系列の銃は莫大な数が生産され、特に7.62mm口径の銃は世界で最も大量に生産された小銃といわれている。また、AKは構造がシンプルなことから、密造も多く、それらを含めたAKの総数は8000万丁から1億丁以上ともいわれているが、あまりに数が多いためはっきりしないのが現状である。

 特にアフリカ諸国においては、1960年代の独立闘争の際や、冷戦終結後、東欧諸国などから流入したAKで銃があふれており、それが内戦の終結を難しくしているという指摘もある。近年、虐殺の発生などで小火器の脅威は強まっており、国連を中心とした対策が必要だとの声がある。

 ソビエト連邦崩壊後、ロシアのAK生産拠点は民営化され、Izhmash社(イズマッシュ社、または、イジェマッシ社)として再出発した。Izhmash社は銃器の他に、オートバイや自動車を生産する機械メーカーとして存続している。Izhmash社は現在もAKシリーズの生産、改良を続けており、様々なバリエーションが発表されている。輸出を意識したモデルが多く、口径も西側NATO弾に対応するものなどがある。

この稿は終了します。Wikiペディアから引用させていただいた。

 以下別項を投稿します。


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