映画に 乾杯! / 知の彷徨者(さまよいびと)

名作映画に描かれている人物、物語、事件、時代背景などについて思いをめぐらせ、社会史的な視点で考察します。

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マルクスの《資本》を読む その5

2010-01-31 17:01:39 | 世界経済
■8■ 世界市場的文脈で〈資本の支配〉の歴史を追う■

 ここでは、近代世界市場の形成過程の様相を追いかけながら、〈資本の支配〉の構造の変遷を分析する。
 だが、そのさい、そもそも〈資本〉とは何かという問題への回答が前提となる。〈資本〉という概念の理解の仕方によって、〈資本の支配〉の歴史のとらえ方はまるきり異なるからだ。この問いへの私の答えは、この論述全体をつうじて示されるはずだが、とりあえずの予備的な簡便な答えを示しておく。
 ウォラーステインは、世界市場での利潤(貨幣形態での剰余価値)獲得をめざす生産構造は、それが奴隷労働に基づくものであれ、農奴制に基づくものであれ、「自由な賃労働」に基づくものであれ、それは資本主義的である、と述べている。そして、資本主義とは世界経済の総体としての再生産様式である、と。
 フェルナン・ブローデルは、中世後期のヨーロッパで商業都市とともに出現した構造であって、各地の王権や領主権力と結びついて独占的特権を獲得した商人(団体)の、世界貿易を支配し、この支配によって各地での生産構造を支配統制する権力構造である、と見ている。この場合には、資本主義とは世界市場ヒエラルヒーの頂点に君臨する権力構造または支配装置がイメイジされている。
 私としては、マルクスの規定を少し変形して、世界市場を舞台として剰余価値=利潤の生産・領有をめざす企業(団体)群が競争し合うシステムである、と定義しておく。このシステムには、王権、都市や都市同盟、領主権、国家などからなる政治的・法的・軍事的構造がともなう。

■世界経済のヘゲモニー■
 〈資本の支配〉が世界市場的規模=文脈で認識されるべきものであるとすれば、その極点は〈世界経済ヘゲモニー〉である。というわけで、世界経済ヘゲモニーとは何か、という問題の考察から始めよう。とはいっても、恐ろしく巨大な問題(でっかい煎餅)だから、その問題領域を少しずつ断片に齧り取りながら、分析を加えることになる。
 ここでは、世界市場には資本主義的生産様式のほかにいくつもの生産様式・形態が複合的に存在すること、世界市場が諸王権や諸都市、はたまた諸国家へと政治的・軍事的に分割されている状況を、論理的に前提しておく。ただし、この前提自体が、説明の進行とともに、より大きな文脈のなかで重層的に説明されていくことになる。

 世界経済ヘゲモニーとは、
 世界市場での資本蓄積競争のなかで、特定の資本グループが自らの利害を、持続的・系統的にほかのどのグループよりも大きな度合いで実現できる状態である。この状態を創出し、維持、拡大再生産するための諸装置や仕組み、制度を組織化し動員する能力=権力を、この資本グループは保持しているわけだ。
 このような能力=権力が、特定の1つの国民国家という制度構造をつうじて組織化されている限りで、世界経済ヘゲモニーは、1つの特殊な国民国家のヘゲモニーとして現れる。
 もとより、これは考察の出発点をとりあえず定めるための、単純かつ貧弱な内容の規定にすぎない。
 このなかで、最も重要なことは、世界経済のヘゲモニーはつねに単一の国民国家によって組織化・制度化されるわけではないということだ。
 つまり、国家ないし国民国家という形態をとらない場合もあるし、また、単一の国民国家によっては担われなくなる場合もあるということだ。この後の方の場合については、将来、アメリカ合衆国(資本)の世界経済ヘゲモニーが衰退、解体した局面で、ヘゲモニー装置があまりに巨大になりすぎてしまい、もはや単独の国民国家によっては(そのリスクとコストが)担いきれなくなり、複数の国民国家や単独の国家を超えた組織やグループによって分有される状態もありうる、ということを考えてもらえば理解できると思う。
 で、前の方の場合は、中世後期、世界経済や世界貿易システムが形成されたが、まだ国家が成立していなかった局面におけるヘゲモニーの事情を考えてもらえばいいだろう。

■世界市場とヘゲモニーの歴史■
 それでは、世界経済ヘゲモニーの歴史構造を追いかけてみよう。

①地中海世界経済

 小ブログのあれこれの記事で、12世紀から16世紀までの北イタリアや地中海ヨーロッパの社会と歴史を扱ってきた。たとえば、「チェーザレ・ボルジア…」「ミレニアムトレンド」「市場と資本主義を考える」参照。
 それらで見たように、地中海地域では12世紀から14世紀に、すでに世界貿易システム(世界市場)が形成され、有力な商業諸都市(商人団体)のあいだで世界貿易におけるヘゲモニー(優位)をめぐる闘争が本格的に展開されていた。都市と商人団体は融合して、独特の政治体=軍事的単位をなしていた。それゆえ、ヘゲモニー争いを繰り広げる主体は、北イタリアの有力な諸商業都市だった。「都市国家」という言い方ができるが、現代の「国家」とはまったく異なる(その先駆となるさまざまな装置や材料が出現していたが)組織だった。
 それゆえ、私たちは、世界経済での最優位やヘゲモニーの争奪戦について、国民国家どうしが角逐する18世紀以降とは、かなり異なる状況や様相を取り扱うことになる。
 だが、商業資本(グループ)のあいだの軍事的闘争をともなう競争や資本蓄積競争は、実在していた。遠距離貿易=世界市場での取引と闘争からより多くの利潤(貨幣形態での剰余価値)を引き出そう、蓄えた利潤をふたたび経済活動や政治的・軍事的活動に投下=投資しようとするメカニズムは、明白にはたらいていた。
 この世界市場競争=闘争に引き込まれ統合されていた主要な地域は、地中海沿岸のヨーロッパ、バルカン半島、北アフリカ、アナトリア、中東、黒海沿岸地方だった。それらの地方には、さまざまなレジームと生産様式・形態、経営様式が並存していた。
 それらを商業資本の貿易ネットワークが、全体としてゆるやかに結合した、そしてあれこれ局地的には濃密・密接な内的連関に絡めとられた、単一のシステムに編合していた。
 そして、地方ごとの制約や障壁を超えた生産過程や流通過程を組織化されていた。たとえば、黒海沿岸の穀物はジェノヴァやヴェネツィアの商人によってイタリア地方に運ばれ、有力都市の相当数の人口の再生産に役立っていた。アジアから移植されてバルカン半島南部の諸地方で栽培された綿花は、北イタリア船団によって、これまた北イタリアに持ち込まれ、精製されて織布の工程に投入された。綿布は、当時、超高級衣料・繊維として、ヨーロッパ各地の特権諸階級に売りさばかれた。
 イベリア半島や北アフリカで生産された羊毛も北イタリアや南フランスの諸都市に持ち込まれて毛織物に加工された。
 これら繊維の生産には、黒海方面やアナトリアのミョウバンが原料の1つとして費消されていた。
 「国境」(国籍)という制度がどこにもない時代、まさに商人(団体)の資金力や交渉能力しだいで、原料の調達や生産工程などの諸段階は、商人たちが統制管理しやすい場所ならどこにでも配置・移植することができたのだ。
 というわけで、資本家的経営様式にあっては、その生成当初から、生産過程の分析は単一の国家の単位(一国的規模)では成り立ちようがないということになる。「一国史観」は、のちにヨーロッパに多数の国民国家が形成され始めてからのイデオロギー=歴史観として、国家のエリートによって人為的につくり上げられたものである。

 この当時のイタリアの軍事的・政治的環境がどういうものであたかについては、このブログの記事「チェーザレ・ボルジアまたは《Il Principe》」にそこそこ詳しく書いてあるので、参照してほしい。北イタリアそ都市国家群のなかでのヘゲモニー争奪戦の模様についても。

 12世紀から15世紀まで、地中海世界経済ではヴェネツィアが総体として最優位を確保してきた。これに対抗していたのがジェノヴァだった。
 あるいは局地的権力としては、そして金融的力量においては、ジェノヴァの方がヴェネツィアに対して優位を見せつけた局面もしばしばあった。だが、ジェノヴァは都市国家としての集合的権力の構築に失敗した。いや失敗というよりも、ジェノヴァの支配層は恐ろしく自己中心的でバラバラで、自らを統治階級として凝集・組織化しようという意思を持たなかった。それぞれの商業資本グループが、地中海各地の自己の特権を排他的に独占して、同じジェノヴァ出身の商人に対しても、特権構造を共通の公共財として利用することを峻拒していた。同胞どうしが激しく競争・敵対していた。本土での統治をめぐっても、それぞれの門閥家門が私兵団を組織して敵対していた。
 それゆえ、ジェノヴァの商業資本は、個々にはすこぶる強力だったが、結集して集合的権力=ヘゲモニーを打ち立てることも、行使することもできなかった。
 ヴェネツィアは対照的だった。ヴェネツィア本国を中核とする共通の権力構造を組織化することに、大きな努力を注いでいた。そのヘゲモニー装置の特徴を見ておこう。
 ヴェネツィア政庁(多数の委員会の集合組織)は、特殊な門閥家門が頭抜けた富と権力を保有するのを厳しく牽制・抑制した。古くからヴェネツィア市内の居住権と市民権を保有する住民(人口の数%の寡頭支配層)の均質性を保持しようと努力した。だから、ヴェネツィアの世界貿易事業においても、特定の少数者への特権・利権の集中を禁じて、事業への投資機会をできるだけ平均化した。
 たとえば、ガレー船による冒険航海事業の計画にさいしては、政庁の委員会が監督して事業計画を立案させ、出資者をできるだけ広範に募集した。手持ちの貨幣資本が少ない者には、ガレー船への乗り組みを現物出資の1形態として認めていた。そして、寄港地での特産物の買い付けと販売について共通の計画を立てて、ガレー船が本土に帰還してからの収益の分配でも(もちろん出資額に応じた多寡はあったが)平等な基準でおこなった。
 特定の権力者の台頭によって権力を拡張するよりも、支配集団の均質化で長期的に安定した権力ブロックを維持することに心を砕いたようだ。
 さて、この当時、地中海貿易での優位を確保するための通商拠点や軍事拠点を建設するさいには、一定の地理的範囲を「領土」として一円的、面状に支配するという仕組みも観念もなかった。通商や海運の優越を確保するためには、点のような局地的な要衝、拠点のネットワークを組織化した。これを、「交易拠点帝国:the trading post empire」と呼ぶ。
 たとえば、キュプロスヤクレタ島では古い有力家門にヴェネツィア人が入り込んで貴族・領主身分を獲得し、現地の再生産体系を、ヴェネツィアの海運(軍船の運航でもある)や通商ネットワークに引き入れ、大きく依存するように仕向けていく。こうして、獲得した富と権力を土台に、現地での影響力=権力を拡大していく。そして、現地に古くからある統治組織そのものは、そのままの構造で維持していくのだ。
 こうして、各地での統治組織は表向きほとんど変化しないが、生産や流通の仕組みがそっくりヴェネツィアの最優位に依存=従属する仕組みをつくり上げる。
 こういう拠点が、黒海沿岸あるいはアナトリア、エーゲ海、シリア海岸の諸港や都市に続々と建設されていった。
 ヴェネツィア本土の政庁は、本土の評議会や委員会に、これらの地方のヴェネツィア系家門の議席や役職を与えて、決定や諮問の会議に参加させた(義務づけた)。各地の有力者=代表からの意見や情報が、収益を上げるための冒険航海に材料を提供し、ジェノヴァやフィレンツェとの通商的・軍事的対抗において有利な地歩を築くために利用されたことは言うまでもない。
 この秩序を優先する思考スタイルは、ヴェネツィアの都市建設=設計思想にも反映されている。サンマルコを中心とする整然とした建物や道路、運河の配置などに、その痕跡が残っている。
 ヴェネツィアの通商権力に対抗している地方の君主権力に対しては、その弱体化を企図した。というのも、その地方の領主や貴族が所領の特産物をヴェネツィアの言いなりの値段や取引条件で売り渡すように仕向けるためだった。バルカン半島南部では、王権の弱体化と従属的な農業(綿花やブドウの栽培)が移植されていった。
 まるで、1980年代までのアジア、アフリカ、ラテンアメリカの低開発構造のような仕組みが、13~15世紀の地中海各地に出現した。

 やがて、地中海世界経済がヨーロッパ全域と融合して、ヨーロッパ貿易の中心地が北西部のネーデルラントに移行し、また有力ないくつもの王権=領域国家(フランスやイングランド、エスパーニャなど)が出現して、北イタリア諸都市の覇権が衰退していく。その頃、ヴェネツィアは貿易や金融から資本をしだいに引き上げて、内陸部の土地(所領=農地や都市域)の獲得=支配に資本を投下していくようになる。農業とともに、また、域内での製造業(高級毛織物、絹織物、精密金属製品、ガラス工芸品、兵器など)に特化していくようになる。
 もちろん、原料の供給や販売市場については、ネーデルラントやドイツ、イングランド、フランスの商人に依存=従属するようになっていく。

 さて、15世紀末に、エスパーニャ王権とフランス王権がイタリアでの争乱に本格的に介入すると、小規模な都市国家どうしの覇権争いで優位を確保していたヴェネツィアの優越の政治的・軍事的環境が崩れ去った。
 しかも、ポルトゥガルの冒険商人=航海者たちがアフリカを回航するインド洋への航路を開拓すると、アジアの香辛料や特産物の供給路(地中海東部からレヴァント方面・紅海・ペルシャ湾を経てインド洋にいたる交易路による)のヴェネツィアによる独占が崩れ去った。
 しかも、オスマントゥルコが地中海東部に軍事的権力を拡大した。ヴェネツィアが確保していた貿易・軍事拠点が次々に奪われていった。
 こうして、16世紀はじめに、ヴェネツィアのヘゲモニーは没落した。

②長い過渡期

 ところが、ジェノヴァは北イタリアの本土からの資本と権力基盤の離脱を試みたように見える。ジェノヴァの有力商人は、生産物の貿易から資本を引き上げていき、エスパーニャ王室やフランス王室、ポルトゥガル王室、イングランド王室、あるいは有力貴族層への金融に特化していく。
 当時、王室財政への融資は、商人への王権からの特権=特許状の付与と引き換えにおこなわれた政治的ゲイムだった。たとえば、ある税目の課税権や徴収権とか、特権的貿易への参加・出資権、さらにはアメリカ大陸との貿易収益における王室の取り分を抵当にして、巨額の資金を王権や君侯に貸し出していた。
 当時の王権の財政は急速に膨張していた。ヨーロッパでの覇権争いやら、域内での貴族の反乱への軍事活動やら、植民地建設などのために、毎年、膨大な出費を強いられていた。しかも、王室財政の顧問官や会計官吏は、収支のバランスを勘案することもなければ、税収のきめ細かな管理に慎重に目配りする心性、行動スタイルがなかった。ネーデルラントを除いて。
 要するに、恐ろしくバブリーな世界だった。
 エスパーニャ王室やフランス王室は、15世紀から17世紀まで、王が代わるたびに「支払停止令」(これは王室の自己破産の申し立てに等しい)を出していた。そのたびに、財政破綻に巻き込まれて借款=債権の回収に失敗した、多くの金融商人家門が没落していった。
 エスパーニャ王権は、イタリアやネーデルラントでの戦争が長引くたびに財政破綻に陥った。フランス王権も似たようなものだった。王権は、停戦で一息つくごとに、数年間の「正常な課税」を回復したり、議会に賦課金や課税を納得させて財政収入を増やした。だが、王室財政が潤うのは一瞬で、収入は過去の膨大な借金の返済に回され、こうしてようやく次の借入条件を整えたり、リスク込みの借款の(恐ろしく高い)利率をを引き下げてもらった。

 16世紀前半から、ネーデルラントがヨーロッパ世界経済でのヘゲモニーを掌握する、この世紀の後半までのあいだに、長い過渡期がある。
 この時期に、「本国」のレジームは混乱していたにもかかわらず、バブリーな王室金融で富と権力を急膨張させたジェノヴァ商業資本が、ヨーロッパ世界市場で最優位を占めた。
 なにしろ、さまざまな特権が見返りに付くうえに、目をむくような高利の金融で、収益率はほかの実物貿易や手堅い金融とは比べ物にならなかった。またたくまに、ジェノヴァの金融商人はヨーロッパ市場をわがもの顔にのし歩くようになった。ただし、エスパーニャの権力が傾くまでは。

◆考察視座の再確認◆
 さて、ここまでは、地中海世界における都市で高度に発達した資本家的生産様式とその政治的環境を考察してきた。
 そして、次にはいよいよ、本源的蓄積の分析においてマルクスが「全地球を舞台とするヨーロッパ諸国民のあいだの通商戦争」と呼んだ生成しつつある世界経済におけるヘゲモニー争奪戦、世界的規模での権力闘争を追跡することになる。

 「エスパーニャからのネーデルラント(諸地方)の離脱によって開始され、イングランドの反ジャコバン戦争で巨大な範囲に広がり、中国に対する阿片戦争で今なお続いている。
 本源的蓄積のいろいろな契機は、いまや、多かれ少なかれ時間的順序をなして、ことにエスパーニャ、ポルトゥガル、ネーデルラント、フランス、イングランドのあいだに振り分けられている。イングランドでは、これらの契機は、17世紀末に植民地制度、国債制度、近代的租税制度、保護貿易制度として体系的にまとめあげられる。」
 というようにマルクスが概観している問題群である。
 ただし、彼はここで直観的な洞察を示しているだけで、問題群の分析をしているわけではない。だから、概観はかなり粗雑である。
 16世紀後半から始まるネーデルラントのエスパーニャ(ハプスブルク王朝)からの離脱=独立闘争は17世紀の初めに、あらかた決着がつき、1648年のヴェストファーレン(ウェストファリア)条約――ドイツ=中央ヨーロッパでの宗教紛争に介入して権威を回復しようと企図したハプスブルク王朝の冒険がついに完全に挫折した――においてネーデルラントの独立はヨーロッパ諸国家間の公式的制度として承認される。
 このときから、今度は、ネーデルラントを急追するために独特の国民国家を世界ではじめて構築したイングランドがネーデルラントのヘゲモニーに執拗な挑戦を仕かける。そして、約1世紀後にイングランドは世界の頂点に登りつめる。すると、今度はフランス王国がイングランドのヨーロッパにおける優越に挑戦を企てる。
 その間には、実に多くの歴史変動が横たわっている。この変動過程が現実の支配権力としての〈資本〉と資本蓄積に多くの独特の刻印(性格付け)を与える。
 そこで、この過程をいくつかの時期に区分して分析しておこう。
 時期区分は、
 ・16世紀後半から17世紀半ばまで…ネーデルラント地方=ユトレヒト同盟がハプスブルク王権の集権化に抵抗して独立闘争を繰り広げて、政治的・軍事的独立を達成する時期:ネーデルラント連邦はヨーロッパ世界経済でのヘゲモニーを獲得する。
 ・17世紀後半から19世紀半ばまで…ネーデルラントとの闘争を経てイングランドがヘゲモニーを掌握し、その権力装置を世界的規模で構築する時期。そして、貿易・工業生産においてヨーロッパ諸国民の激しい追い上げ、闘争が試みられる。
 だが、その考察の前に、ヨーロッパ世界貿易の経済的ならびに政治的・軍事的環境を見ておこう。

③商業資本の蓄積とヨーロッパ諸国家体系 

 レコンキスタをつうじてイベリア半島ではいくつかの強力な王権が形成された。15世紀後半に最有力になったのが、レオン・イ・カスティーリャ王権(以下、カスティーリャ)。一方、半島の東部で隆盛したのがアラゴン(カタルーニャと連合)王権だった。15世紀末、この2大王権は(カスティーリャの女王イサベルとアラゴンの王子フェリーペとの)婚姻によってエスパーニャ王国に編合された。やがて、アラゴン王フェリーペはイサベルとともにエスパーニャを共同統治する(同君連合)。
 やがて、エスパーニャ王室はオーストリア王室ハプスブルク家と政略結婚によって同盟し、イサベルとフェリーペの孫、カルロスがエスパーニャ王位を継承した。16世紀のはじめ、カルロスは、祖父のオーストリア王にして神聖ローマ帝国の皇帝だったマクシミリアンから、ヨーロッパ各地にある支配地や所領を引き継いだ。
 こうして、エスパーニャ王位を獲得したハプスブルク家は、イベリアに加えて、ネーデルラント、ブラバント、ブルゴーニュ、フランシュ=コンテ、オーストリア、イタリアだけでなくシチリア、サルデーニャ、マジョルカなどの地中海諸島を統治することになった。そのうえ、新世界アメリカ大陸やカリブ海のあまたの植民地をも統治することになった。
 だが、これらの諸地方は1つの政治体をなしているわけではなかった。
 カルロスは、ネーデルラントではフランデルン伯やホラント伯として君臨するというように、それぞれの支配地や所領の統治にそれぞれ個別の君主・領主として臨んでいたにすぎない。それらの諸地方はそれぞれ固有の法を持ち、独立の政治体・軍事単位として振る舞っていた。
 そして、それらの諸地方がカルロスに臣従するのは、カルロスがそれぞれの地方の固有の法を尊重する(在地の権力者の地位に手を触れず妥協する)限りでのことで、この条件を破れば反乱を起こす権利が正当なものとして認められていた。しかも、それぞれの支配地や領地のなかには、たとえばブルゴーニュやフランシュ=コンテでは、カルロスと敵対するフランス王やらザクセン侯やらに臣従する領主の支配地や所領が数え切れないくらい数多く割り込み、散在していた。
 なにしろ、国境によって政治体の領土を一元的に画定するという仕組みがなく、そういう観念もなかった時代なのだ。

 それゆえ、カルロスの広大な統治圏域を「ハプスブルク帝国」と呼ぶことがあるが、それは全体の統合がとれない「つぎはぎの帝国」でしかなかった。「帝国」のつねにどこかしらで反乱や戦乱が起きていた。

 ハプスブルク王朝の家門的権力は、こうしてフランス王国(外形的版図)をぐるりと取り囲んでいた。フランスではヴァロア王権が、分立化傾向の強い諸地方(貴族所領や都市)に対する統制を強化しながら、統合を進めようとしていた。だが、諸地方の分立傾向や分裂は容易に克服できなかった。
 にもかかわらず、ヴァロワ王権はハプスブルク王朝との対抗を強く意識しながら、イタリアやフランデルン・ネーデルラント方面で軍事的に敵対する。戦争と軍備のために王室財政は過酷な負担を強いられた。

 長らくヨーロッパ大陸の植民地か属領のような地位にあったイングランドも、ロンドンを中心とする商業資本の成長と結集を背景に、これと緊密に結びついて王権が成長し集権化を開始した。王権は域内の商業資本の要求を受けて、羊毛原料産地から毛織物生産と輸出を域外商業資本への従属から離脱させる政策的試みを持続的に打ち出していく。

 一方、中央ヨーロッパでは、数百にものぼる数の中小規模の領邦=君侯権力が分立・対抗し合っていた。強力な王権が出現して、ドイツを国民的規模で統合しようと試みるのは、まだ数世紀先だった。
 
 いずれにせよ、ヨーロッパでは多数の王権や君侯・領主たちが領域国家の形成をめざして互いに対抗し合うシステムができ上がってきた。王や君主たちは、ヨーロッパの辺境での政治的・軍事的状況の変化に対しても、自己の優位の確保や劣位の克服のため、あるいは敵対者の増長を回避するために、移り気な同盟を取り結んだり対抗したりした。
 


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