映画に 乾杯! / 知の彷徨者(さまよいびと)

名作映画に描かれている人物、物語、事件、時代背景などについて思いをめぐらせ、社会史的な視点で考察します。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

日本の刑事(警察)ドラマを観る Ⅱ その3

2012-05-28 21:22:16 | 現代日本社会
■■刑事警察の役割に対する問題提起■■

 ところで、主人公、一見遠回りに見える捜査=調査を丹念に続ける加賀恭一郎の次の言葉は、警察、より具体的には刑事警察の機能=役割に対する鋭い問題提起になっている。
 犯罪の真犯人を捜し出すことだけではなく、事件によって傷ついた関係者の心(や人間関係)を修復することもまた、刑事(警察)の役割=仕事だ、という台詞だ。

◆ポリスという組織=機能◆
 ヨーロッパ社会のなかで警察(police)という行政装置の観念や機能(職務)が、試行錯誤のなかから、ようやく確定・定着していくのは、16~18世紀のイングランド王国とフランス王国においてであった。絶対王政への動きと市民革命の時期に重なる。
 「ポリス(polis)=都市」の統治と密接に関連しながら、王権(の現地組織としての都市統治機関)による都市の平和や秩序全般を統制・調整する組織活動=機能をめぐって、集権化の試みと権力闘争をつうじて、警察の機能は制度化されていったという。

 その当時、警察=ポリスの機能には、たとえば
・都市のさまざまな商人団体、職人団体への特権の付与(認可・許可)、
・その見返りとしての納税や都市規制の受容をうながす作用、
・商業や製造業などの経営活動の監視と誘導、統制、
・貧民の救済と統制、
・傷病者の手当て援助、都市の衛生問題への対処、
・外国人や下層民衆の監視、
・都市への食糧や工業材料・原料の供給の確保、
・食品などの庶民の必需品の価格統制(高騰すると民衆暴動・蜂起につながることもあって、都市平和秩序の維持のためには、不可欠だった)
 という広範な機能がそっくり包括されていた。都市行政の大事な機能の大半が警察=ポリスの機能とされていたわけだ。

 やがて市民法観念や市民権思想の普及とか市民革命での論争を経て、警察は市民社会の「上」または「外部」に立って、もっぱらレジームの秩序維持の機能を占有することになった。
 客観的に見れば、そのレジームのなかで富と権力において最優位にある階級や身分の利益に沿って動くということになる。とはいえ、いわゆる経済的支配階級と直接に結びつくというわけではないし、容易にそういう階級の意のままになる道具・手段であるというわけでもない。
 事情はずっと複雑だった。

 で、ブルジョワ法観念の普及(罪刑法定主義:犯罪と刑罰の等価交換の論理)とともに、国家による裁判のための犯罪=刑事捜査に専念する刑事警察の機能が自立化した。刑事警察は裁判制度・刑罰制度と一体になって、刑罰などによる心理的および物理的威嚇作用によって、公共秩序からの逸脱・破壊としての犯罪(秩序や平和の破壊への意図)抑止する役割を期待されるようになった。

 だが、その陰では、レジーム秩序維持、国家秩序擁護のための公安(警備)警察の機能は、強制力装置・国家装置としての機能の中枢に居座ることになった。レジームへの脅威となりうる勢力や動きへの警戒と監視、抑圧とか排除という機能である。
 これは、国民社会の内部にいるレジーム反対派に対しする監視・調査や抑圧・威嚇だけでなく、多数の国民国家が対抗するシステムのなかで、敵対する外国の介入や侵入、要人攻撃、国家機密の盗み出しなどを阻止する防御機能であって、軍事組織や諜報組織と連携する機能が期待されてきた。
 日本でも最近、《外事警察》や《SP》など警察の公安部門を扱ったすぐれたドラマや小説がつくられるようになったので、いずれ取り上げたいが、まだ材料がそろわない(簡単にそろうようでは、秘密=守秘こそ鍵となる公安部門の任務が泣くだろうが)。

 ここでは、テーマの刑事警察の役割・機能についてだけ関説することにする。

◆刑事警察の機能◆
 上に述べた伝統的な刑事警察の機能からすれば、刑事警察の役割は、司法と一体となって、法の執行、言い換えれば法秩序の維持の役割を果たすことだ。
 犯罪(殺人や破壊、盗みなど秩序と平和の破壊者)の実行者、首謀者などを追及、捜索し、罪科の重さに見合った期間・度合いにおいて、彼らを市民社会から排除し刑罰を科す(隔離しペナルティの与える)という、一連の司法過程(刑事訴訟)のある部分を担うことになる。
 現代的なセンス(意味合い)でいえば、容疑者の追及・割り出しと拘束、取り調べは、犯罪の証拠(秩序逸脱・破壊の程度の示す証拠、動機=意図を示す証拠、手段や方法(共謀や教唆含む)を示す証拠)を解明し、裁判で事実認定と可罰性(程度)判断の資料を探し出すためである。
 要するに「犯罪捜査」であって、「容疑者追及」「証拠確保」ということだ。

 このような機能=役割は、全体としての市民社会の秩序・平和の維持が究極の目的であって、そのために個々の逸脱・破壊を可罰的な犯罪として捜査するということになる。逸脱者・破壊者の追及・拘束=排除が目的であって、そういう撹乱要因を除去することで市民社会の秩序・平和を維持することだ。
 したがって、個々の犯罪の被害者の救済や手当ては、さしあたりは目的や機能からはずされることになる。

 というのも、近代市民社会のなかでの刑事司法は、貴族などの武装特権を持つ人びとによる私的制裁や私的闘争裁判(フェーデ)から切り離して、国家の公的な機能として犯罪捜査や刑罰を制度化する動きによって形成されてきたからだ。
 犯罪者への制裁=刑罰は、被害者個人がもたらすのではなく、国家=国民ないし人民全体がおこなう制度という建前にする必要があった。
 つまり、被害者が犯罪者や容疑者への私的な報復をおこなうことを阻止することが、近代刑事司法の眼目だったからだ。
 とはいえ、その時点では、被害者の被害・損失の救済には目が向けられていなかった。慈善団体とか宗教団体や近隣組織などによる救済に期待したのかもしれないし、被害者の権利については配慮が払うという社会意識や政策の土壌がなかったからかもしれない。
 もちろん、犯罪でもたらされた被害=損害を民事賠償によって金銭的に回復・救済するという手はあったが、その法理が確立されるのは、20世紀後半となってからだ。

 ところが、近年になって、ことに日本では、被害者の救済・補償ないしは被害者心理・感情の配慮・修復という側面に、刑事司法(+司法全般)が関与すべきだという意見が広まってきた。
 だが、難しいのは、被害者感情には「報復」とか「復讐」の要素がないとはいえないことだ。被害者の感情の「修復」というか「癒し」のなかには、加害者により重い刑罰が与えられることによってもたらされることも多い。
 そのことが、きわめて安易な事情で犯罪に走る人びとに、国家(公的権力)は被害者の心情に配慮して「重い刑罰を与えるぞ」という威嚇・威圧を与えるとすれば、それはそれで、犯罪抑止の効果を持つことになる。なさけないが、日本では今それくらい公徳心とか公共性の順守、他者への配慮が欠如しているということでもある。

 というわけで、問題は底なしに難しい。

 ところが、加賀恭一郎は、犯罪によって傷つけられた公共性ないし社会生活の回復という課題のなかに、刑罰や制裁ではなく、捜査員(カウンセラー的役割を担う)による聴き取りによるコミュニケイションで、被害者も含めた関係者(市民)の心情、人間関係への配慮、手当て⇒修復・癒しをもたらしていくのだ、と課題を提起する。
 この場合には、究極的には(全体としては)容疑者の絞り込み、追及につながるのだが、さしあたっては、関係者が抱える事情を見つけ出し(聞き出し)、手当てするということになる。

 とはいえ、それが刑事警察の機能に含めるべきかどうかは、私にはわからない。
 場合によっては警察による執拗な聴取が、関係者を傷つけることだってあるだろうし。
 ただ、犯罪によって毀損ないし破壊された市民社会の秩序というもののなかに、被害者や関係者の心理とか人間関係などを含めるべきだとは思う。
 加賀の言葉は、刑事司法の課題への重いメッセイジであることは間違いない。

2 退職刑事の「のどかな生活」

 さて、以上にちょっぴり肩の張る問題を考えてきた。次は、多少ズッコケ気味のホームドラマ風味の「退職刑事」の物語を考察する。
 ただし、あらすじ(ストーリー)についてかなり丁寧な紹介が、BS朝日のホームペイジ(www.bs-asahi.co.jp/keijiteinen/)に出ているので、ここではストーリーの紹介はしない。

 まずはじめに言っておきたいことは、このドラマは「かなり予算的にチープなつくりになっている」ということだ。ドラマの場面は、先頃、警察を定年退職した猪瀬直也(主人公)の自宅だけだ。キッチンと居間、小さな座敷、そして2階の2間だけ。
 そらだけの空間で舞台喜劇風の仕立てになっている。家の外部の風景は1つも出ない。ただし、家のなかでの会話(電話の会話も含む)によって、自宅の外部でのできごとや様子が語られ説明される。こうして、かなり限定されたシテュエイション(状況設定)のなかで物語が展開する。

◆刑事の退職(の特殊性?)と主人公の個性◆

 現役中は仕事中毒で自宅には食事と睡眠を取りに帰るだけ、というような生活は何も警察官(刑事)に限ったことではない。が、一般サラリーマン(男性)の退職後と一味もふた味も違う退職後の生活状況を設定しないと、題名からいっても、目の肥えた視聴者を惹きつけるためにも、うまくいかない。
 では、刑事の退職後の生活の特殊性は何か、ということになる。
 これが、考察の1つ目の視点(問題点)である。

 2つ目は、一般男性サラリーマンと共通する問題として、家庭や近隣社会とのつきあいを拒否・等閑視して仕事中毒(組織人間)として洗脳され管理されてきた男たちは、退職後家庭に戻ると、妻や家族との関係を再構築しなかればならず、近所づきあいのノウハウや楽しみを身につけていかなけれなならないという課題だ。

 そして、刑事だった経歴による特殊な退職後の環境が、この2つ目の生活(直面する課題)に独特の色合いや風味をもたらすことになる。

 さらに、主人公、猪瀬直也は1人の個人(パースナリティ)として、どのような刑事(職業人)だったのか。どんな職場環境や同僚に取り囲まれていたのか。彼が出会った容疑者や事件関係者などに対して、どのような接し方(関係性)を取ってきたのか。
 というわけで、このドラマをつうじて、主人公の人間性というか個性がどのように描き出されているかを考えること、それが3つ目のテーマとなる。
 「人間を描き出すこと」は、演劇やドラマのごく当たり前のテーマであるのだから、以上の視点はことさら変わった視点ではない。ごく当たり前のものだ。

①嘘と女

 退職前に刑事だったという経歴の特殊性、そしてこの特殊性によってもたらされた退職後の生活環境の特殊性は、シリーズ第1回目の物語「嘘と女」できわめて明確に示される。
 というのも、いきなりの冒頭場面。現役の刑事時代につき合いのあった「やくざの親分」大場義成が、直也の定年退職祝いに訪れた場面なのだ。
 やくざとはいっても、この親分、墨田区(たぶん向島一帯)で香具師を束ねる頭で、暴力団ではないらしい。とはいえ、仕事=業種が業種なので、一般市民やだいたいの警察官からは「色眼鏡」で見られ警戒されている。
 ところが、直也は人情味のある刑事で、この親分と「対等に」「ごく普通に」つき合ってきたらしい。というのも、地区・近隣社会の行事とか寺社の縁日、催事などで、この親分がイヴェントを活性化するために出店を仕切ったり、子分を総動員したりと、腰を低くしてコミュニティに尽くしたらしいからだ。
 しかし、直也の妻の早季子は、刑事を退職したのにこの手の人物が家にやって来るのが気に入らない様子。
 そのうえ、退職後に夫が毎日、家に居座っているのも煙たい感じのようだ。それというのも、長いあいだ直也が早季子との会話を怠ってきたため、コミュニケイション・ギャップがあるためだ。
 で、早季子は自分の楽しみ(趣味のフランダンス)のために、朝から家を出た。

 そこにやって来たのが、今西素子という奇妙な中年女性。
 素子は精神的に不安定で、夫との関係が悪化したりすると、「放火をした」「万引きをした」と虚偽の犯罪の告白をしに警察にやって来る習慣があった。刑事たちは、こういう手合いを極力避けたのだが、人情家の猪瀬直也は親身になって話を聞いてやっていたらしい。
 で、退職したのちも、「告白」をしに直也の自宅に(たぶん元同僚で今でも現役の多田野刑事に自宅を教えられて)やってきたようだ。その日は「夫をバットで殴り殺した」といって、調書を取るように直也に迫った。

 というわけで、退職し立てということもあって、刑事時代の「しがらみ」がいまだに直也に身にしっかりと絡みついて回っているわけだ。

 現役の刑事時代、猪瀬直樹は容疑者追及・逮捕の成績を追いかけるよりも、容疑者に同情して愚痴や境涯を聞いてやったり、軽犯罪を見逃し、更生・立ち直りを援助してやったりすることに関心を向けていたらしい。だから、犯罪捜査=刑事の成績はぱっとしなかったが、彼の世話になった余刑者や市民たちに慕われていた。
 同僚の多田野も、そういう猪瀬を高く買っていた。

 そういう性格・行動スタイルの直也だったから、出世できなくて退職直前まで警部補で、やめる1週間前に温情で警部に昇進させてもらったという。そして、自分の出世や目先の業績にしか目配りできない署長(墨田署)には侮蔑され(いや敬遠)されていたらしい。
 上に覚え目出たくないから、退職後も「天下り」の再就職の口は回してもらえなかった。そのために、職探しをしながら、自宅にくすぶっているわけなのだ。

 直也が素子に迫られているところに、早季子はフラダンスの仲間と戻って来た。いまだに刑事時代の腐れ縁というか面倒な「しがらみ」にまといつかれている直也にあきれ果てる。
 だが、やがて彼女は夫の面倒見の良さや人情家の側面に気がついて、直也の素子対策に協力し始めた。
 仲睦ましい男女を見ると無性に腹を立てる素子の性格を引っ張り出そうと、直也と早季子は仲良し夫婦の振りを始めた。というのも、素子の疑いを晴らすためだった。そして、自宅に戻って夫との関係を修復する努力を決意させた。
 というわけで、めでたく素子を家に帰す算段は成功した。 

②消えた妻

 直也は昼間出かけたきりの早季子が夜になっても帰ってこないことを心配していた。
 机の引き出しから、女性の手による手紙を見つけ出した。手紙には、夫への不満が書き連ねてあった。
 早季子は家出してしまったのか? と疑念がわき、これまで会話を怠ってきたことを直也は後悔し始めた。
 そんなとき、たまたま実家に帰ってきた娘、真紀から、「ラヴ・アゲイン」症候群かもしれないわよ、と言われ、さらに動揺する。

 そのとき、テレヴィでは街中の交番の警官の銃が奪われたことを報道していた。

 そのうち、大場とその子分の若者がやって来て、「早季子が知らない男と寄り添って(体を密着させるように)商店街を歩いていった」と知らされた。ますますラヴ・アゲイン症候群の疑念が高まる。

 やがて、早季子から訳のわからない電話が入った。直也に「お兄ちゃん…」と話しかけるのだ。そして、達男という男を連れて家に戻る、達男の妻の「みっちゃん」もまもなく家を訪れるはず、という。
 しばらくして、早季子が達男という男とともに帰宅した。あろうことか、達男は警官から奪った銃を早季子に突きつけていた。
 達男は気に入らないことがあると、逆上して妻に乱暴をはたらく習癖(DV)があり、妻への暴行傷害事件で検挙され服役していたという。出獄してみると、妻は行方不明になっていた。というよりも、女性の親友の助言で乱暴な夫から逃れるために遠くに旅行に出かけたらしい。
 その親友の女性は、前々から乱暴な夫と別れろと強く勧めていたらしい。
 達男は早季子をその女性と勘違いして拉致して連れ回していたのだ。妻を呼び寄せ銃殺して自殺するつもりで。

 早季子としては、元警察官の妻として、銃を携行する男が暴発しないように、勘違いを正さないで言いなりになって、自宅に連れ帰り、そこで直也(や元同僚の多田野とともに)事件の解決をはかろうとしていたようだ。一般市民に被害がおよぶことを防ごうとして。

 はじめはトンチンカンなやり取りをしていた直也だったが、しだいに事態をを飲み込み、早季子や(わけのわからない電話を暗号と勘違いして駈けつけた)多田野刑事とその部下の佐伯などともに、達男の拘束を試みる。
 そして、日本の警官が携行する銃は、リヴォルヴァーの設定によって、最初の引き金にかかるのは空弾であることを利用して、達男を怒らせて銃の引き金をひかせ、その隙に飛びかかり銃を奪い拘束することに成功した。

 こうした経緯から見えるのは、早季子はコミュニケイション不足に不満を持ちながらも、直也の言葉の端々から刑事や警察官の行動を理解し「警察官の妻としての心得」を身につけていたということだ。その意味では、夫の職務を深く理解していたことがわかる。
 しかも、そのうえで夫=直也を上手に操っていたことも。直也もまた、早季子の上手な操縦・管理にまんまと乗せられて安心していたことも。
 やはり、「割れ鍋にとじ蓋」ということわざにもあるとおりの夫婦のようだ。

③疑惑の一夜

 この物語では、まじめな刑事たちがいかに愛妻家で恐妻家であるかが示される。

 多田野刑事の妻は、先頃「一緒に暮らせない」と言い捨てて家を出て戻らない。彼は、人一倍の愛妻家で恐妻家だ。だが、目に見えるような夫婦のコミュニケイションの努力をしてこなかった。妻は、多田野の心持が理解できず、「影のように存在感のない男だ」と思い込んで、家を出たのだ。
 あるいは、多田野は腫れ物に触るように妻を大事にしすぎた(いや、慕い、恐れたというべきか)。

 妻に別居されてしまった多田野は落ち込んでいる。そして、その寂しさ、虚しさを、行きつけのクラブでこぼしまくっていた。彼の相手をしたマリア(源氏名)というグァテマラ出身の美貌の若い女性に、多田野は「女々しい愚痴と泣き言」をぶつけたらしい。
 じつは、マリアはグァテマラでは文化人類学の研究者で、研究のために日本に滞在している。クラブのホステスは、研究材料を収拾するためのアルバイトなのだ。最近では、とりわけ日本の男性の妻(あるいは女性一般)へのコミュニケイション・ハザードに強い関心を向けている。
 そこに、多田野が妻を失いかけているということで、ひたすら「女々しい態度」(そういう精神文化)を見せつけた。きわめて興味深い研究対象となった。
 で、その前の夜、マリアは多田野の「ひたすら女々しい愚痴と泣き言」につき合い、研究方々、慰めることにした。やがて、マリアは多田野を立ち直らせようと奮起した。
 で、多田野の家に行って服を脱いで励まそう(?)としたが、多田野は「今のおれには女房しかない。悪い!」と言って相手にしなかった。マリアは頭に来て、帰ってしまった。

 ところが、その翌朝、多田野の妻が帰宅した。だが、妻は何も言わずに家中の掃除を始めた。多田野はどうしていいかわからず、逃げるように猪瀬の家に来た。

 前夜のことで、多田野は(たまたまマリアが勤めていたクラブのホステスの1人に売春の嫌疑がかけられたため)警察=同僚からは買春容疑をかけられてしまい、多田野の部下の佐伯は、多田野を取り調べ調書を作成するために猪瀬の家に来た(警察では多田野の面目丸つぶれになるから)。そして、証人としてマリアを呼び出した。

 しかも、このまずい状況のなかで、早季子のはからいで多田野の妻が猪瀬家に来ることになった。そして、多田野は妻や早季子からは浮気の疑いをかけられてしまった。問い詰められる多田野。
 そのとき、マリアが多田野の弁護を買って出た。多田野がいかに愛妻家で恐妻家であるか、どれほど妻を慕い、家出されたことで女々しく泣き言を吐いているかを暴露した。そして、この女々しさは、ある意味で芯の通った強さ(原則に強固にこだわる精神)を意味している、と。すなわち、妻への愛の強さだと。
 多田野の妻は、多田野の思いを知り、家に戻ることになった。

 猪瀬直也は、こういう親友と心を通じ合わせているのだ。親友から反射的に、直也の性格や心性が知れるというわけだ。


コメント   この記事についてブログを書く
« 陪審評決は金で買え! その2 | トップ | 文明史の岐路!? »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

現代日本社会」カテゴリの最新記事