ニートと同じくらい里山という表現が好きになれない。
猫も杓子も里山というと明るいイメージを抱いている(ように思える)のが嫌で仕方無い。
そもそも里山とは何か?
漠然としたイメージの中に郷愁だけを求めているのではないだろうか?
つまり、願望と虚像。
里山はこうあるべきという主張。
言うのは自由だが、守ろうとか維持しようという言葉が出る場合、対処療法であって根本的な対策には
なりにくい気がしている。例えば、トキのように。
里山が人為的なものによって成り立っていたとした場合、衰退の理由は人間にある。
一方で、里山の熱狂的なファンが居て、一方で里山を捨てて都会に向かう人が居る。
熱狂的なファンの一部は田舎に定着するのかもしれないが、口を出すだけの人々の方が圧倒的に多い。
だから、この状態がある。
里山と呼ばれる地域に住む人は、果たして里山を守ろうなどと思って住んでいるのかどうか。
生活の場として結果としてそうなっているのであって、意識を持って守るということは無い気がする。
自身が田舎出身だけに、そういう思いが強い。
田舎は交通の便が悪い、医療格差がある、買い物できる店も無いと苦労が多い。
確かに飯は美味いが、だからと言って里山を好きだとは思わない。
せいぜい、当り前の景色としての認識しかない。
残念ながら、衰退するモノ、分野にはそれなりに理由がある。
例えば、器。
手仕事を選ぶか、機械が作ったもを選ぶかと言ったら、安いという理由で機械製を選ぶ人が多いだろう。
もちろん、手仕事を選ぶ人もいる。
そういう共存が妥当なところで、過剰な保護はかえって物事を硬化させるように思う。
世の中そんなものだろう。
里山を本気で守りたいという人が居るならば、それはそれで結構。
ただし、ちゃんと行動を伴わなければならない。
主張だけでは、単なる野党体質であり、その辺の三流評論家と同類となる。
里山をダシに商売している人々(民間、研究者)も限りなく怪しい。
結局、イメージだけで物事を判断するのは危ういということ。
そして行動を伴わなければ、何事も空論のままで発展しないということ。
難しい事であるけれど、常に本質を見極められるようになりたい。
猫も杓子も里山というと明るいイメージを抱いている(ように思える)のが嫌で仕方無い。
そもそも里山とは何か?
漠然としたイメージの中に郷愁だけを求めているのではないだろうか?
つまり、願望と虚像。
里山はこうあるべきという主張。
言うのは自由だが、守ろうとか維持しようという言葉が出る場合、対処療法であって根本的な対策には
なりにくい気がしている。例えば、トキのように。
里山が人為的なものによって成り立っていたとした場合、衰退の理由は人間にある。
一方で、里山の熱狂的なファンが居て、一方で里山を捨てて都会に向かう人が居る。
熱狂的なファンの一部は田舎に定着するのかもしれないが、口を出すだけの人々の方が圧倒的に多い。
だから、この状態がある。
里山と呼ばれる地域に住む人は、果たして里山を守ろうなどと思って住んでいるのかどうか。
生活の場として結果としてそうなっているのであって、意識を持って守るということは無い気がする。
自身が田舎出身だけに、そういう思いが強い。
田舎は交通の便が悪い、医療格差がある、買い物できる店も無いと苦労が多い。
確かに飯は美味いが、だからと言って里山を好きだとは思わない。
せいぜい、当り前の景色としての認識しかない。
残念ながら、衰退するモノ、分野にはそれなりに理由がある。
例えば、器。
手仕事を選ぶか、機械が作ったもを選ぶかと言ったら、安いという理由で機械製を選ぶ人が多いだろう。
もちろん、手仕事を選ぶ人もいる。
そういう共存が妥当なところで、過剰な保護はかえって物事を硬化させるように思う。
世の中そんなものだろう。
里山を本気で守りたいという人が居るならば、それはそれで結構。
ただし、ちゃんと行動を伴わなければならない。
主張だけでは、単なる野党体質であり、その辺の三流評論家と同類となる。
里山をダシに商売している人々(民間、研究者)も限りなく怪しい。
結局、イメージだけで物事を判断するのは危ういということ。
そして行動を伴わなければ、何事も空論のままで発展しないということ。
難しい事であるけれど、常に本質を見極められるようになりたい。
通りがかりの者です。
日頃思っていたことが書かれていて
私だけじゃなかったんだと思うと
とても嬉しくなりました。
「里山」って変です。
自然とか言いながら全然自然じゃない。
と思います。
里山と書くと自然そのもののようなイメージですが、実際は人間が作り出した景色なんですよね。たまに行くと自然そのものに見えるから、自然だと思う人が大半だとは思いますが‥。イメージ先行の危ういところですね。