コメント
 
 
 
おそらく (一葦)
2009-06-29 23:31:59
おそらく、天才と言われる人は、一般人から見ると外れているから、どのジャンルでも、おかしかったり、変だったりする部分を持ち合わせているでしょう。
波長が違ったり、先取りしていたり、少し住んでいる、というか立っている磁場が違うのでしょう。一般人があまり使わない脳の部分を使っているのだと思います。

評価は後の時代であらわれるのでしょうか!?

 
 
 
世間を意識していたからこそ (sae)
2009-06-29 23:45:22
先生のご意見とはちょっと違った見方もできそうです。
マイケル・ジャクソンが自意識過剰なのは、世間というか自分が他にどう見られるかを意識しすぎていたからという側面もあるのでは。ただし、それが実際にはどう見られるのか、本人は常識的なモノサシを持ち合わせていなかったように思えます。

かのライブドアの元経営者さんも、会社の方針が「時価総額世界一」で、まったくもって相対的です。「社会に貢献する」みたいな絶対的な価値基準ではなかったわけですよね。で、自らの行動が世間的なモノサシからどう評価されるかわからないままに突っ走る。批判にさらされると過剰反応する…その連鎖のなせる言動に見えました。

村上さんのは偽悪的な挑発…、世間の目がなければあんなこと言いやしません、きっと。

それにしても、先生のおっしゃることを考えるにつけ、メディアの短絡的、単視眼的な誘導には空恐ろしさを感じます。どの新聞も、TVも、同じ論調というのは気味が悪いですね。
 
 
 
現場では… (さくら)
2009-06-30 01:34:18
介護の現場では、答えがありません。同じケアでもその過程に至るまでは、それぞれが試行錯誤しながら統一したサービスが提供できるように努めるのです!


状態変化や気付きもそれぞれで、多方面からの観察、情報が必要となり、また要求されます。知識がなければ、多数の意見に流されることもあるのが現実です…。それが実際には正しいことなのか?その方に必要なサービスであるのか?自問自答の毎日ですが、その瞬間に感じたことを共有できる時間は人としての温かい関わりを持てやりがいにも繋がります!
 
 
 
天性の人 (みずうみ)
2009-06-30 03:55:16
天才と呼称される人々の生き方に強い興味を持っています。
芸術家もしかりです。

「本物の芸術家はおおむねそうです」という高樹先生の御意見、納得して読みました。

学生時代、天才の生き方や脳の構造を研究する「病跡学」という分野の学問にはまっていた事があります。天才の生き方って、変わっているけれど妙に魅力的なのです。

俗に「世間からはずれている」という言葉がありますが、私は、はずれていることが悪いことだとは思いません。

特に、日本人って、はずれている人を蔑視する傾向が強いように思います。どうしてなんでしょうね。

エジソンは学校に行っていなかった(なじめなかった)というし、斎藤茂吉は中学生になっても夜尿症が治らなかったそうです。一見、はずれているように見える子供時代を送った彼らも今や偉人ですからね。

 
 
 
作家の病跡 (一葦(いちい))
2009-06-30 12:26:32
作家の病跡について、島崎藤村、の項で、「ツヅブロ」で少し触れていますので、時間がありましたら覗いてみてください。
上の、青くなっている名前をクリックして、リンク先、左側サイドバー検索窓(右にもありますがブログ内検索なので左側のもの)に、島崎藤村、と入力検索。
内村鑑三の項を含めて3つ現れると思います。

作家の病跡については、漱石、芥川・・と。

内村鑑三のご子息が東大精神科教授で、神谷美恵子さん、島崎藤村のいとこも同じ研究グループです。ご存知かもしれませんが。
 
 
 
「作品」と「人間性」は別モノ (moko)
2009-06-30 17:45:55
高樹先生は、「わたしは打たれる釘であるほどの芸術家ではないし」と言っておられますが、人間性を疑われることをしたら、たとえ一般人でも批判されるはずです。芸術家であろうが何でろうが関係ないと思います。

プロのアーティストであるのならば、その「作品」が批評されるのは仕方のないことですし、その批評に否定的な意見も含まれることも許容せねばならないはずです。ですが、「作品」への批判と「アーティスト自身の人間性」への批判は別モノです。
高樹先生は「作品」への批判と「アーティスト自身の人間性」への批判をごちゃまぜにしておられませんか?

この記事は最初の方はアーティストの「人間性」について述べており、アーティストの生み出した「作品」についての批評や批評については述べていないのに、何故、最後の方では「わたしは打たれる釘であるほどの芸術家ではないし」…などという書き方をしているのでしょうか? これでは、まるで「アーティスト自身の人間性への批判」と「アーティストの生み出した作品への批判」を同一視しているように取れます。

あと、「大勢が思っていることを、もっともらしく大声で言う」のが、何故、恥ずかしいのでしょうか。「大声」はともかく、「正しいこと」を言うのが恥ずかしいとしたら、世の中はどんどん悪い方向に行くと思います。「正論」はそんなに恥ずかしいものなのでしょうか?

長々と書き込みしてしまって申し訳ありません。
 
 
 
おっとと? ()
2009-06-30 19:31:15
おっとと、どういうことだろう?

mokoさんのご指摘の中で少し異議有りかな。

あらゆるクリエーションの世界では、その作品とクリエーターの人間性は明らかに一致していると、私は感じていますがそうではない例が度々有りますか?

Michael Jacksonについては、多様な音楽を聴いていた子供達も興味はなかったし、もちろん僕も彼の音楽に楽しみを覚えたこともなかったので、前コメントをしました。
ビートルズやプレスリーやミック・ジャガーやスティービー・ワンダーとは違い、人間性も壊れていてかなり遠い人物だったと思います。
尚、近年、私はテレビを一切見ていませんので。

私は少し偏見が有るかももしれませんが、例えば若い頃に昔の建築家の作品や図面を見て、その造形や図面だけで、その建物に流れている人間性を感知し読み解き、優劣や好き嫌いを判断してましたし、現在もその判断を限りなく信じていますね。
建築とてある意味では幻想です。
夜露をしのげる空間から、何等かの作為や目的の有る空間に進んだ時点で、必ずその作り手の人間性が方法論やデティールに滲み出て来ます。
音楽や建築や数学は近い分野でしょうね。(作り手側の専門的な意味合いで。)

尚、文学と絵画の作り手は、それぞれ独立していると感じています。

その他のmokoさんのご意見には何も反論や意見は有りません。


 
 
 
クロワッサン (浜田英季)
2009-06-30 21:02:13
今月号のクロワッサンpremiumの記事を読みました。
 
 
 
なぜでしょう (樹のぶ子)
2009-06-30 22:57:14
「大勢が思っていることを、もっともらしく大声で言うのは、恥ずかしい」と書いたことに、コメントで??マークが付いたのを機会に、あらためて、なぜだろう、と考えてみました。

天の邪鬼な自分が見えてきます。

みんながある流れに乗っているときは、私一人が大きい声で賛成しようがしまいが、声はかき消されるという「実効性のなさ」が見えてしまいます・・別の理由は、生理的な問題かもしれません・・つまり、リスクをとらなくては、大きい声が出ないんですね。
世間の流れに抗した意見(もちろん、自分でそれを信じるからですが)だと、説得するべき相手が大勢多数ですから、張り切って大きい声が出てくるものです。

「~恥ずかしい」という感覚は、何か自分以外の力に乗っかっているような負い目があるんです。だからそういうときは小さい声になってしまうわけです。

いろいろ考えるチャンスをありがとうございます。
 
 
 
批判ではなく、疑問 (夢の中へ)
2009-07-02 00:53:02
コメントを拝見して、ちょっと疑問。
「大勢が思っていることを言うこと」=「正しいことを言うこと」あるいは「正論」何でしょうか?
何を持って「正しい」と判断するのでしょうか?数ですか?
意見は、ある前提条件やある立場からのもので、その範囲内では論はありますが、絶対的な正論などないと思います。

高樹先生のニュアンスはよく分かります。
「天邪鬼」ではなく、ひとつのことについて、大多数の意見が一致することに本能的(生理的)にブレーキが掛かったのだと思います。
前提条件が変われば、正しいことがそうではなくなり、常識が非常識になります。
いろんな意見があるのが正常です。最初から全員一致(一致するはずがないので再検討)であればとりあえず否決というルール(ユダヤ系?)も聴いたことがあります。
単に数だけで決定してしますのは、多数決ではなく、多数支配です。
民主主義の原理としての「多数決」は、多数意見による少数意見の尊重にあります。
「最大」多数の「最大」幸福は、常に少数意見を尊重しながら、弁証法的に最大化を図るため、多数意見の制御が必要です。
したがって、「恥ずかしい」という感覚は、「躊躇を覚える」という意味かなと理解しております。
 
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