コメント
墳墓?・・かどうか不明ですね。
(
崖 転岩
)
2007-11-19 04:57:47
墳墓かどうか不明ですね。
近くに集落の成り立つ、川か海が有りそうにも思えないし・・。
コップの水は雨水の可能性が有り・・・。
お墓の造り方は、概ね形式が有りますが珍しい形です。
歴史があれば、もう少し木々が生えているのが自然ですし。
写真は毎年、草刈の手入れをしてます。
炭焼き窯か雑器を焼く陶器窯の可能性が強いです。
墓跡でしたら奇特な人が、お地蔵さんの一つ位は置くでしょう?
炭焼き窯で木々の根で壊れない様に、手入れはしてると推測します。
つい50年位前迄、この晩秋から広葉樹を切り、炭焼きをする状景を想像しました。
炭焼きは8年措きに雑木を切り、また切り株から生える循環です。
栄枯盛衰の漂う景色に見えます。
でも、墳墓であれ炭焼き窯であれ、近江辺り迄は民度(大和民族の)の高い地域だと思います。
京都は全て周辺国に、生活物資を依存してる都でした。
僕の育った児島にも、巨大な中山前方後円墳や、御崎の[防人の丘]に直径3Mも有る、陶製の飲料用の水瓶が有ったり、山の上の御影石の岩に、採石の為の楔跡が有ったり、忽然と整然とした屋敷跡が有ったりと、少し歴史の無常感を思わせる場所が存在してました。
迷い道の旅も楽しいことでしょうね?(笑)
昔々、二、三人で松茸狩りに行き、栃木の山中で少し迷いました。
(下を見て探すので)
山深くはないのですが人が居ないのは、聞きようもないし困りました。
芒と夕焼けの美しい寒村でした。
この前、井の頭公園の一番大きな桂の樹を眺めましたが、かなり衰弱して昔々の桂らしい元気な面影が消えてました。
有名なお稲荷さんの近くに在る樹ですが、水溜まりが出来やすく、地面をモルタルで被ったのが原因ですね・・。
墳墓は死者の証。。。
(
T.S.
)
2007-11-19 08:44:51
日本のあちらこちらに点在する「古墳の主」がどうであったかは分かりませんが、エジプトのピラミッドの場合は「公共工事であった」という説があります。
毎年、ナイルの氾濫に苦しめられるナイル河畔住民に一定の生活基盤を提供するために、権力者である王がピラミッドを建設したとか。。。
何時だったかテレビで見たことがありますが、中国の秦の始皇帝陵などは「権力を象徴する」ために造営されたように感じます。また、日本周辺や、日本に点在する古墳群の場合、単なる「権力の象徴」であったのかもしれないと感じます。
もっとも、エジプトの場合とて、「同時に権力の象徴」となっていたことは間違いないのでしょうから。。。
また記事をひとつトラックバックさせて頂きました。。。
By T.S. on 19th Nov., 2007
再見のPhoto?削除願う。
(
崖 転岩
)
2007-11-19 11:15:40
二度ミスです。削除願う。
お写真を拡大して見たら、これは覗いてる高樹さんの、黒い後ろ姿が写ってるのでしょうか?(笑)
失礼しました、お耳があり何だろうと思い、拡大確認するのが遅れました。
黒い服も反射で気が付きません・・。
感想の前に、この饅頭型の祠のスケール感をPhoto上で探したのですが・・・見つかりませんでした(笑)。
入口の大きさも、炭焼き窯の可能性が強いです。
中の空間は確認不能でしたか?
拡がりが在れば焼き窯です。
焼く高温で粘土も、大谷石の様になってる筈ですが・・・。
緑がこんもり、風情のある写真ですね。
こんなに灯油が値上がりしたら、炭焼き窯も復活するかも・・。(笑)
温暖化防止でそうも行かないでしょうが、木炭や竹炭の多目的利用はいろんな分野にニーズは有ります。
日本の古墳の造築もピラミッドと同じで公共事業で、民に対価を支払いましたね。
或は税金がわりの労働です。
近代以前の都市や町の維持や発展は、とてつもない事業や築城、大仏の建立、それと戦争の放火による焼失や、地震等の災害の復興活動による、経済の循環によるものです。
江戸時代も参勤交代による各藩の蓄財の防止、水路開発の公共事業やお伊勢参り等を継続して、経済の循環を謀り祭事を安定させましたね。
連続して快晴の日々が続いて冷え込みそうです。
炭火も懐かしいですね。
風化したので、新しく炭火焜炉を一昨年買いましたが、松茸ならぬ椎茸の素焼きの予定でしたが、まだ未使用です。
その時に買った木炭も植物の土に砕いて混入したり、煙草の臭吸剤や空気清浄剤として、自室の棚に山積みになっています。(苦笑)
夏の高温の為か、椎茸は不作です。
33℃は椎茸菌は死滅しますから、今年の夏の38℃の猛暑はダメージを受けました。
来年からはホダ木を蓼科へ避暑に移動させましょうか・・。(笑)
墳墓?
(
♪墨あそび詩あそび土あそび管理スタッフ KENNTA♪
)
2007-11-19 15:27:53
[墨あそび詩あそび土あそびHP管理スタッフ」です。]
みんな雪に、隠れます。
墳墓って結構ありますが、おおむね建築過程の掘り起こしで見つかる場合が多いですね?
実は個人的に墳墓と思っているものありますが、地質上まったく考えられないと「博物館職員に否定されています。」
墨あそび詩あそび土あそびHP管理スタッフです。
Unknown
(
Unknown
)
2007-11-19 15:30:08
「♪墨あそび詩あそび土あそび管理スタッフ KENNTA♪」
結構真剣になちゃった。
もういいや
♪墨あそび詩あそび土あそび管理スタッフ KENNTA♪
墳墓?
(
崖 転岩
)
2007-11-20 09:21:13
昨夕、カフェで北陸出の喜寿の方に写真鑑定をして貰ったら、やはり炭焼き窯だそうです。(笑)
懲りず、またの機会に太古の入り口を発見して下さい。
毎年、黄砂や塵が3ミリは積もりますから、工事か崖崩れでもないと古墳は表出はしないです。
郷里の古墳は戦後に発見されました。
全長2キロ近い大古墳ですが、江戸時代以降、海の埋め立てや農地造成に、古墳の土を削り取って使用、変形したので発見が遅れました。
また、小学校も建つその古墳は40年前には半分(前方部分)を都市計画として崩し消失しました。(苦笑)
小3の時その古墳の入り口に面した教室でしたので、刀剣や宝物が出土した祠を眺めてました。
その辺りは良質の粘土が採れ、図工時間に使いました。(爆)
考えてみると太古に人がわざわざ良質の粘土を積み重ねた部分だった様です。(笑)
粘土層は防水性が有りますから、重要な部分の周りだった様です。
太古の皆さん申し訳ありませんでした。(笑)
忽然と現れた源氏のルーツと考えられる、三浦一族の北鎌倉[ヤグラ]形式のお墓も不思議な形態です。
アラビアを思わせる横穴にお墓が列んでます。
三浦一族の特徴は頬骨がペッタンコで骨格も大きな人種で、和人や帰化人やアイヌ人とも違い、海洋民族で伊豆七島経由か黒潮経由で直接渡来した仮説が今のところ有力です。
アラビア人も頬骨がペッタンコだしなぁ・・?
と勝手な想像をしてます。
炭焼き
(
高樹のぶ子
)
2007-11-20 10:48:41
古墳で無いとして・・
炭焼きにこんな巨大な大岩を据えて・・
入り口に湯呑がひとつ、備えてありました。
ま、炭焼きが無事に上手く行きますようにと、湯呑が備えられていてもいいのかもしれませんが・・
炭焼きというのを、直接知りません。
排気口も無いのでしょうね・・入り口を完全にふさぐのかしら。この小山は完全に土と草で覆われていましたから・・
たしかに古墳としてはちょっと小さいかな。
岩を据えてる?
(
崖
)
2007-11-20 11:25:24
岩を据えてる?
その岩はどんな質の岩でした?
触った感じを思い出して下さい・・・?
ぎざぎざした脆い大谷石の風化した様な岩でしたら、熱で粘土が焼きしめられ、岩の様な状態になっています。
テレビで紀州の備長炭の焼き窯作業を見たことは有ります。
商業的には炭焼き窯は大きなものでした。
吸気、排気は粘土と煉瓦で入り口も塞ぎ調整します。
蒸し焼きにするのですから、どちらも小さなものです。
本物の硬質の岩でしたら用途はなんでしょう?(笑)
昨夕は喜寿の方は始めは僕と隣席でしたが、囲碁の挑戦を受け相手中でしたので、また、じっくり鑑定して戴きます。(苦笑)
Unknown
(
のらくら上等兵
)
2007-11-20 14:08:39
先生が第一印象で古墳が出現したと想われたのでしたら
それでいいではありませんか。
どうぞ炭焼き釜だったなんて科学的に物証して
黒白付けないで。
作家としての目でご覧になって
>近江路に生きていた人間を感じることができます。
>本来はお墓は、歴史や考古学の宝の山ですね。
>タイムカプセルです。蓋をされて、
何百年も眠りについて・・
お墓と言えば近隣の大和路にも
異様な出来事を暗示していると思われる、
二上山がありますね。
古来、東の三輪山が朝日さす神の山で、
西の二上山は日の沈む死の山とされてきました。
二上の向こうには実際にも応神天皇から
雄略天皇期までの大王・貴人・豪族たちの墳墓が集中し、
その数は大小2500をこえていますので
そこを彷徨えば幽霊に出会えるかも。
二上山は死者の国の西の奥津城なので、
いま「ニジョウザン」と呼ばれており、
北の雄岳、南の雌岳の双峰からなるその雄偉な山容は、
神聖視されて万葉集では、大津皇子の墓が背を向けて
雄岳に建ち謀反の成否を書かれています。
近江路にも新たな着想が浮かんで
先生のロマン溢れる小説が生まれてほしいものです。
炭焼きの状景
(
崖 転岩
)
2007-11-20 15:49:07
NHKの紀州の備長炭の映像では、木は2.5M前後の長さが有り、それを窯の中に(立て掛けて)詰めていきます。
屋根付きの炭焼き窯の広さは縦長楕円形で15畳~20畳くらいに見えました。
詰めてから、焼きの調整から焼き上がった未だ赤い炭を、渇いた土に埋めてシメる作業迄の、三、4日?前後の夫婦を番組にしてました。
商業的な仕事ですから、陶芸家のように緊張感の連続の様に感じました。
安い炭は一人で山に篭って焼くようです。
好い音の備長炭を作るには、微妙な技術と材料の状態に依って、[感]が必要のようです。
ひと窯が大量ですから、大変な作業でした。
喜寿の方は旧農林省で現地(信州・東北・北海道)を回ってた方です。
固い岩だとすると、苔でこんなに草は生えないかも・・・?(笑)
写真のような暗い入り口があると、多分僕も好奇心は湧きますが・・・。
感性の保養
(
崖 転岩
)
2007-11-20 19:30:40
先程、カフェで再鑑定して戴きました。(笑)
やはり、炭焼き窯としか考えられないそうです。
少し違いますが僕も40年前、公園に在る何と小さな古いゴミ焼却施設の設計デザインが素晴らしく、写真を何枚も撮ったことが有ります。(笑)
こんな仕事で本気で設計した、名も知れぬ方を施設に手を掛け想像しました。
もちろんその施設は10年位で撤去されました。
目と感性の保養になれば、何でも楽しいことです。
それに十分、この写真は風情が有ります。
湖東の古墳群
(
marikome
)
2007-11-21 01:24:51
のらくろ上等兵さん同様、私も樹さんのイマジネーションがどんどん広がっていくことを期待しているひとりです。
湖東にはたくさんの古墳があります。古墳時代前期~中期の大墳墓ではなく、後期の比較的小規模な墳墓が多いようです。数十基もの横穴式石室が散在する古墳群もあります。写真がどこで撮影されたのかはわかりませんが、そんななかのひとつのように見受けられます(排気口もないですしね)。
古墳時代からは下がりますが、万葉の時代には蒲生野で恋模様(?)が繰り広げられたりもしました。千数百年も前に生きた人々が、私とそう変わらないメンタリティをもっていたことを知ると、とてもうれしかったりするものです(私は紛れもなく、彼らの後裔だ!なんて)。文字、文章、文学の力は偉大です。
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墳墓かどうか不明ですね。
近くに集落の成り立つ、川か海が有りそうにも思えないし・・。
コップの水は雨水の可能性が有り・・・。
お墓の造り方は、概ね形式が有りますが珍しい形です。
歴史があれば、もう少し木々が生えているのが自然ですし。
写真は毎年、草刈の手入れをしてます。
炭焼き窯か雑器を焼く陶器窯の可能性が強いです。
墓跡でしたら奇特な人が、お地蔵さんの一つ位は置くでしょう?
炭焼き窯で木々の根で壊れない様に、手入れはしてると推測します。
つい50年位前迄、この晩秋から広葉樹を切り、炭焼きをする状景を想像しました。
炭焼きは8年措きに雑木を切り、また切り株から生える循環です。
栄枯盛衰の漂う景色に見えます。
でも、墳墓であれ炭焼き窯であれ、近江辺り迄は民度(大和民族の)の高い地域だと思います。
京都は全て周辺国に、生活物資を依存してる都でした。
僕の育った児島にも、巨大な中山前方後円墳や、御崎の[防人の丘]に直径3Mも有る、陶製の飲料用の水瓶が有ったり、山の上の御影石の岩に、採石の為の楔跡が有ったり、忽然と整然とした屋敷跡が有ったりと、少し歴史の無常感を思わせる場所が存在してました。
迷い道の旅も楽しいことでしょうね?(笑)
昔々、二、三人で松茸狩りに行き、栃木の山中で少し迷いました。
(下を見て探すので)
山深くはないのですが人が居ないのは、聞きようもないし困りました。
芒と夕焼けの美しい寒村でした。
この前、井の頭公園の一番大きな桂の樹を眺めましたが、かなり衰弱して昔々の桂らしい元気な面影が消えてました。
有名なお稲荷さんの近くに在る樹ですが、水溜まりが出来やすく、地面をモルタルで被ったのが原因ですね・・。
毎年、ナイルの氾濫に苦しめられるナイル河畔住民に一定の生活基盤を提供するために、権力者である王がピラミッドを建設したとか。。。
何時だったかテレビで見たことがありますが、中国の秦の始皇帝陵などは「権力を象徴する」ために造営されたように感じます。また、日本周辺や、日本に点在する古墳群の場合、単なる「権力の象徴」であったのかもしれないと感じます。
もっとも、エジプトの場合とて、「同時に権力の象徴」となっていたことは間違いないのでしょうから。。。
また記事をひとつトラックバックさせて頂きました。。。
By T.S. on 19th Nov., 2007
二度ミスです。削除願う。
お写真を拡大して見たら、これは覗いてる高樹さんの、黒い後ろ姿が写ってるのでしょうか?(笑)
失礼しました、お耳があり何だろうと思い、拡大確認するのが遅れました。
黒い服も反射で気が付きません・・。
感想の前に、この饅頭型の祠のスケール感をPhoto上で探したのですが・・・見つかりませんでした(笑)。
入口の大きさも、炭焼き窯の可能性が強いです。
中の空間は確認不能でしたか?
拡がりが在れば焼き窯です。
焼く高温で粘土も、大谷石の様になってる筈ですが・・・。
緑がこんもり、風情のある写真ですね。
こんなに灯油が値上がりしたら、炭焼き窯も復活するかも・・。(笑)
温暖化防止でそうも行かないでしょうが、木炭や竹炭の多目的利用はいろんな分野にニーズは有ります。
日本の古墳の造築もピラミッドと同じで公共事業で、民に対価を支払いましたね。
或は税金がわりの労働です。
近代以前の都市や町の維持や発展は、とてつもない事業や築城、大仏の建立、それと戦争の放火による焼失や、地震等の災害の復興活動による、経済の循環によるものです。
江戸時代も参勤交代による各藩の蓄財の防止、水路開発の公共事業やお伊勢参り等を継続して、経済の循環を謀り祭事を安定させましたね。
連続して快晴の日々が続いて冷え込みそうです。
炭火も懐かしいですね。
風化したので、新しく炭火焜炉を一昨年買いましたが、松茸ならぬ椎茸の素焼きの予定でしたが、まだ未使用です。
その時に買った木炭も植物の土に砕いて混入したり、煙草の臭吸剤や空気清浄剤として、自室の棚に山積みになっています。(苦笑)
夏の高温の為か、椎茸は不作です。
33℃は椎茸菌は死滅しますから、今年の夏の38℃の猛暑はダメージを受けました。
来年からはホダ木を蓼科へ避暑に移動させましょうか・・。(笑)
みんな雪に、隠れます。
墳墓って結構ありますが、おおむね建築過程の掘り起こしで見つかる場合が多いですね?
実は個人的に墳墓と思っているものありますが、地質上まったく考えられないと「博物館職員に否定されています。」
墨あそび詩あそび土あそびHP管理スタッフです。
結構真剣になちゃった。
もういいや
♪墨あそび詩あそび土あそび管理スタッフ KENNTA♪
昨夕、カフェで北陸出の喜寿の方に写真鑑定をして貰ったら、やはり炭焼き窯だそうです。(笑)
懲りず、またの機会に太古の入り口を発見して下さい。
毎年、黄砂や塵が3ミリは積もりますから、工事か崖崩れでもないと古墳は表出はしないです。
郷里の古墳は戦後に発見されました。
全長2キロ近い大古墳ですが、江戸時代以降、海の埋め立てや農地造成に、古墳の土を削り取って使用、変形したので発見が遅れました。
また、小学校も建つその古墳は40年前には半分(前方部分)を都市計画として崩し消失しました。(苦笑)
小3の時その古墳の入り口に面した教室でしたので、刀剣や宝物が出土した祠を眺めてました。
その辺りは良質の粘土が採れ、図工時間に使いました。(爆)
考えてみると太古に人がわざわざ良質の粘土を積み重ねた部分だった様です。(笑)
粘土層は防水性が有りますから、重要な部分の周りだった様です。
太古の皆さん申し訳ありませんでした。(笑)
忽然と現れた源氏のルーツと考えられる、三浦一族の北鎌倉[ヤグラ]形式のお墓も不思議な形態です。
アラビアを思わせる横穴にお墓が列んでます。
三浦一族の特徴は頬骨がペッタンコで骨格も大きな人種で、和人や帰化人やアイヌ人とも違い、海洋民族で伊豆七島経由か黒潮経由で直接渡来した仮説が今のところ有力です。
アラビア人も頬骨がペッタンコだしなぁ・・?
と勝手な想像をしてます。
炭焼きにこんな巨大な大岩を据えて・・
入り口に湯呑がひとつ、備えてありました。
ま、炭焼きが無事に上手く行きますようにと、湯呑が備えられていてもいいのかもしれませんが・・
炭焼きというのを、直接知りません。
排気口も無いのでしょうね・・入り口を完全にふさぐのかしら。この小山は完全に土と草で覆われていましたから・・
たしかに古墳としてはちょっと小さいかな。
岩を据えてる?
その岩はどんな質の岩でした?
触った感じを思い出して下さい・・・?
ぎざぎざした脆い大谷石の風化した様な岩でしたら、熱で粘土が焼きしめられ、岩の様な状態になっています。
テレビで紀州の備長炭の焼き窯作業を見たことは有ります。
商業的には炭焼き窯は大きなものでした。
吸気、排気は粘土と煉瓦で入り口も塞ぎ調整します。
蒸し焼きにするのですから、どちらも小さなものです。
本物の硬質の岩でしたら用途はなんでしょう?(笑)
昨夕は喜寿の方は始めは僕と隣席でしたが、囲碁の挑戦を受け相手中でしたので、また、じっくり鑑定して戴きます。(苦笑)
それでいいではありませんか。
どうぞ炭焼き釜だったなんて科学的に物証して
黒白付けないで。
作家としての目でご覧になって
>近江路に生きていた人間を感じることができます。
>本来はお墓は、歴史や考古学の宝の山ですね。
>タイムカプセルです。蓋をされて、
何百年も眠りについて・・
お墓と言えば近隣の大和路にも
異様な出来事を暗示していると思われる、
二上山がありますね。
古来、東の三輪山が朝日さす神の山で、
西の二上山は日の沈む死の山とされてきました。
二上の向こうには実際にも応神天皇から
雄略天皇期までの大王・貴人・豪族たちの墳墓が集中し、
その数は大小2500をこえていますので
そこを彷徨えば幽霊に出会えるかも。
二上山は死者の国の西の奥津城なので、
いま「ニジョウザン」と呼ばれており、
北の雄岳、南の雌岳の双峰からなるその雄偉な山容は、
神聖視されて万葉集では、大津皇子の墓が背を向けて
雄岳に建ち謀反の成否を書かれています。
近江路にも新たな着想が浮かんで
先生のロマン溢れる小説が生まれてほしいものです。
NHKの紀州の備長炭の映像では、木は2.5M前後の長さが有り、それを窯の中に(立て掛けて)詰めていきます。
屋根付きの炭焼き窯の広さは縦長楕円形で15畳~20畳くらいに見えました。
詰めてから、焼きの調整から焼き上がった未だ赤い炭を、渇いた土に埋めてシメる作業迄の、三、4日?前後の夫婦を番組にしてました。
商業的な仕事ですから、陶芸家のように緊張感の連続の様に感じました。
安い炭は一人で山に篭って焼くようです。
好い音の備長炭を作るには、微妙な技術と材料の状態に依って、[感]が必要のようです。
ひと窯が大量ですから、大変な作業でした。
喜寿の方は旧農林省で現地(信州・東北・北海道)を回ってた方です。
固い岩だとすると、苔でこんなに草は生えないかも・・・?(笑)
写真のような暗い入り口があると、多分僕も好奇心は湧きますが・・・。
先程、カフェで再鑑定して戴きました。(笑)
やはり、炭焼き窯としか考えられないそうです。
少し違いますが僕も40年前、公園に在る何と小さな古いゴミ焼却施設の設計デザインが素晴らしく、写真を何枚も撮ったことが有ります。(笑)
こんな仕事で本気で設計した、名も知れぬ方を施設に手を掛け想像しました。
もちろんその施設は10年位で撤去されました。
目と感性の保養になれば、何でも楽しいことです。
それに十分、この写真は風情が有ります。
湖東にはたくさんの古墳があります。古墳時代前期~中期の大墳墓ではなく、後期の比較的小規模な墳墓が多いようです。数十基もの横穴式石室が散在する古墳群もあります。写真がどこで撮影されたのかはわかりませんが、そんななかのひとつのように見受けられます(排気口もないですしね)。
古墳時代からは下がりますが、万葉の時代には蒲生野で恋模様(?)が繰り広げられたりもしました。千数百年も前に生きた人々が、私とそう変わらないメンタリティをもっていたことを知ると、とてもうれしかったりするものです(私は紛れもなく、彼らの後裔だ!なんて)。文字、文章、文学の力は偉大です。