ワットケーク奉賛会宝物殿

東洋の王道を開闢しませう

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地域に還ろう おやじ溜まりの提言

2006年01月29日 14時33分24秒 | Weblog
 やんちゃな中学生の無法にビビる大人ほど、見苦しい存在はない。
 余所でどんなに貫禄を取り繕おうと、薄っぺらな大人はすぐに底を露見させてしまうものである。

 昨今は、学童を狙った凶悪犯罪がしばしば発生し、一人暮らしのお年寄りが委曲を尽くした詐欺の被害に遭い、自然界では震災も現実的な脅威になっていて、何かと剣呑な時代である。こうした”世の中の現場”にあって、使命感をいだく人間一人の存在意義は決して小さくないはずだ。
 転職、リストラ、倒産、めまぐるしい企業の吸収合併。二昔前のバブル崩壊は、戦後日本の社会構造を特徴づけてきた『終身雇用制』に大きな転機をもたらした。職場が必ずしも『在所』としての安定感を保障できない情勢は現在にいたる。
 漠然と居場所が定まらなくなってきたのは世のお父さんに限った話ではないだろうが、本稿では『おやじ溜まり』と銘打ち、人間と地域のささやな再生策を提唱してみたい。

 早速、悪徳業者のような問いかけになるが、市内にお住まいの高齢者の方で、道路を見通せる庭に面したお部屋を「屯所」に提供して頂ける方はいらっしゃらないだろうか?
 次に、さしあたって「新撰組ごっこ」なら満更でもないといった近在の方に、空いている時間、そこへ詰めて頂く。特に「おやじ」である必要はない。独身者でも、引き篭もりに飽きたニートでも、もちろん女性だって構わない。最近は宮仕えであっても勤務シフトが多様化しており、平日の昼間でも時間をとれる人が珍しくない。『おやじ溜まり』へ足を運べば誰かに会える、というのも無理な相談ではないだろう。
 メンバーは、IDを兼ねたネームプレートを胸元にぶら下げ、小中学校の登下校時刻には市中見回りを行う。やんちゃな中学生だって、毎日、「おはよう」、「おかえり」とウザい挨拶をして来る無邪気な大人を、いつかは可愛いと感じるようになるだろう。陰湿な悪意は、沈黙の町にこそ、もぐりこむものである。
 パトロール以外の時間は、将棋を指そうが、防災訓練や街の美化活動に取り組もうが、雑談に興じていようが構わない。消防や、他の地域活動への協力も選択肢である。原則は二人以上でチームを組むことくらいか。利害関係のない人同士なら、日頃職場で口に出来ない与太話や大言壮語も罪にはならないし、反対に思いがけず仕事上のコネクションだって作れるかも知れない。屯所の提供者は常に「若い用心棒」に囲まれ、認知症になるヒマも、悪質なセールスにつけ込まれるスキもなくなるだろう。
 こうした『おやじ溜まり』が市内に幾つも出来上がれば、『開かずの踏み切り』に代わる、しかしポジティブな小金井名物になるかも知れない。

 ちなみに、甲武鉄道会社線新宿・立川間が開通したのは明治二十二年のこと。柄鏡形住居の時代から明治の半ばまで、小金井人は小金井の地で人生の多くの時間を過ごしてきた。本提言は別段、未知なるプロジェクトでもなんでもない。


(H18/1/29 広報公聴課宛 原文)
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既存の「日本仏教」の検証2

2006年01月24日 02時08分14秒 | Weblog
 「激増する自殺者」は、目に見える、わかりやすい課題である。
 自殺者が多いことは、一言で言って、日本仏教者の敗北に他ならない。
 自殺を止めさせるのではなく、現世の虚しさを悟らせ、ひいては自殺の無意味さを理解させることが、仏教者の使命なのである。
 宇宙の時間から見れば、文字通り刹那に過ぎない一生を、煩悩のために、自らさらに短く切り刻む滑稽性を、自殺願望者と共に考える姿勢が大切である。

 宗派や教団は、目的を共有する者たちが相乗りした客船のようなもの。船頭である僧侶は、乗客である信徒より「海」の知識をもっていて、適切な安全確保の責務を負うが、とどのつまりは同じ海を航海する身。先輩風を吹かすことは許されても、乗客を精神的に支配するほどの権限は与えられていない…と、考えておくべきだろう。
 それが日本式宗教改革に必要な認識のたたき台である。
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既存の「日本仏教」の検証1

2006年01月14日 14時00分25秒 | Weblog
"葬式産業"は、本来の仏教とは根本的に相容れない。
人が死ぬのは諸行無常で当たり前。死んだ人間のために石を削り、その下に遺骨と言う生命活動の残骸を埋めて亡き人の人格に見立てることも、死者の傍らに僧侶が主賓としてはべることも、仏教の本来の教えからすると「本末転倒の奇習」である。回向は、一遍上人が路傍に打ち捨てられた死者を土に埋め、たまたま「生きる者」に接するのと同じ慈悲からお経をよんだことが始まりだが、凡庸な人々は上人の「特例措置」を理解できず、根付いた勘違いは独走して今日に至っている。
もっとも現代、チベットやインドシナの葬儀でも僧侶はVIPとして立ち会う習慣になっている。どこの国にも、僧侶になる人格者の中に、一遍上人同様、死者を生者と分け隔てなく慈しもうとした人があったことの証左ではあるが、いずれも原則的には間違い。チベットのバルドゥトゥドゥル(死者の書)が偽書と言われる根拠も、じつはここにある。

本来の仏教における死生観は、教条主義的な共産主義者の死生観と、外観上においてほぼ一致していることを忘れるべきではない。両者の差異は、前者は「諦めること」、後者は「憎むこと」を結論に置いている点だろうか。
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「仏教」とは何か?

2006年01月12日 17時38分26秒 | Weblog
 お釈迦様が「偉い」のは、無の境地(ニルバーナ)へ達したと残された人々、後世の人々に考えられているからである。
 俗名ゴーダマ・シッダールタという人の魂は、金ピカの極楽の蓮池へ移動したのではなく、欲望や心残りといった煩悩を一切断ち切り、完全に消滅した…ということである。
 「本来の仏教」にとっては、極楽も地獄も、この「現世」で体験、見聞する景色にすぎない。後から生まれて来る者たちを救う、という義務感もまた、煩悩である。ゴーダマ・シッダールタにとって、我々の「いま」は、まったく関係がないし、責任の対象でもない。我々の指導のため、大川隆法として生まれ変わって来るようでは、結局、お釈迦様はちっとも偉くなかったことになってしまうのである。お釈迦様の偉さは、我々を救ってくれることではなく、我々に解脱の成功例を残してくれたことなのではないか?「前に成功した人がいるんだから、自分も成功できるかも知れない」…それで、充分だ。希望が人間にとって勇気の主原料であるならば、「ゴーダマ先輩」は、たしかに偉いのである。

 仏教とは、ニヒリズムあるいは無神論である。キリスト教やイスラームのような「宗教」ではない。むしろ諦観を悟る「修行の方法」と認識しておいたほうが、間違いが少ないはずだ。
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