Blog of 俺 by 俺 for 俺

自分の自分による自分のためのブログ。
だったけど、もはや自分の備忘録としての映画やドラマの感想しかないです。

合コンからの始まりと、友達からの始まり、そこには絶対に超えることのできない見えない壁がある。

2009年09月09日 08時24分05秒 | Weblog
社会人になって、合コンの機会が増えた
(といってそんなに多くないですが)。

いろんな人と出会い、遊んだりもしたけれど、
そこで1つ思ったことがある。
「やはり合コンスタートと友達からのスタートでは、
 明らかに違いがある」
ということだ。
これは俺だけが思っていることなのだろうか。

そもそも合コンとは何か、なぜ合コンをするのか、
根本的なところから自分自身を見つめ直したいと思う。



【合コンの定義】

合同コンパの略。
もともとコンパとは
仲間と親睦を深めるために行う飲み会のことを指す。
主に日本の学生や若者の使う俗語で、
語源はドイツ語Kompanie、英語company、フランス語compagnie
などに由来する。

現在一般的にコンパという名称で思い浮べられることが多いのは
合コン(合同コンパ)である。
これは主として男女の出会いを求めるために行われるコンパで、
女子の大学進学率が急激に上昇し始める
1970、1980年代ごろから盛んになり、
その後学生同士に限らず、広汎に行われるようになった。
合同コンパという名称は、
男子のコンパと女子のコンパを合同で開催する
というところに基づいている。

(出典:ウィキペディアに筆者がほんの一部加筆)



【合コンの目的】

人はなぜ合コンをするのか。
もちろん、単に友達を作るためだとか、
飲み会が好きだからという人もいるだろうが、
基本的には恋人、もしくはそれに準ずる人(※1)を探すために、
合コンに行くものと考えられる。

なぜなら上記の通り、合コンとは男女が合同で行うコンパであるから、
そこには男女の出会いがあることは周知の事実であり、
つまりは、そこにロマンスの誕生を予感させるからだ。
それも種の保存本能により、
生物学的に男女はお互いに異性を求めるので、
出会いの場として機能する合コンに行く目的は、
上述した通りといえよう。

※1 いわゆるグレーゾーン。遊び相手、セックスフレンド、
   そのポジションは人によって様々。あーコワイコワイ。



【合コンの姿勢】

「どもー!」といって初顔合わせ。
基本的に男女の幹事以外は初対面であるから、
当然相手の情報は何も持ち合わせていない。

『人は見た目が9割』という本にもあったが、
それは人間が外部から得る情報の90%を視覚から得ているため、
初対面の人の判断ポイントは、どうしても外見になってしまう。

さらに第一印象ときたら、顔の良し悪しが大半を占め、
オマケ程度に雰囲気や話し方が付随してくるだろう。
特に女性は男性以上に外見を見られる生き物であるので、
女性にとっての第一印象というのは、
男性以上に気を遣う場面かもしれない。

飲み会が始まり、酒を飲みつつ、いろいろおしゃべりを交わし、
会が盛り上がればゲーム(※2)へ移行するのが
王道かつ大体楽しめるパターンとなっている。はず。

※2 最近気づいたが、実はみんなゲームが好きなのだ。
   ゲームは誰も傷つけない。
   ゲームはみんなを幸せにする。



【合コンの後】

そんなこんなで合コンを終え、
気に入る人がいたらその後デートへと発展するのだが。。。

さっきも書いたように、
基本的に初対面で、お互いの情報は持ち合わせていないのだ。
いくらその場で盛り上がって、メールも交わしたところで、
友達暦10年の人に勝てるわけがない。
ということは、その人の判断材料のほとんどが、
やはり外見に基づいていることは簡単に想像できるだろう。


さて、今日は楽しいデート!
とルンルン気分でいざ再会!!
しかしここで不思議な現象が起こる。

「あれ?」

という気持ち。
この「あれ?」には実は2つあるのだ。


<①あれ?もっとかわいいと思っていたんだけどな>

一番ダメなパターン。
明るいところでよく見ると実はかわいくなかったという驚愕の事実。
相手の情報はそのほとんどが見た目。
その見た目が違う。
つまりは、その人自身の全否定につながる可能性がある。

もちろん、友達だったらこんなことは決してない。
決してないが、合コンという特殊な環境下においてのみ、
この時点で、関係が終了する可能性は非常に高い。

そういった「見間違い」の理由は簡単で、
基本的に合コンのときはお酒が入ることで、
脳が麻痺していることと、
お店の照明が暗くて相手がよく見えず、
顔の認識がはっきりしないため、
お酒で麻痺した脳が勝手に美化してしまうからだ。

ご愁傷様。


<②あれ?なんかちょっと違うな>

ちょっと曖昧な書き方だけど、
要は外見の相違はなく、楽しいデートを予感させるのだが、
いっしょにいることで、
ちょっと話が合わなかったり、ノリが合わなかったりする。

みんなでいるときと二人でいるときは違うことも多いし、
合コンのときは酔っ払っていたからノリがよかったっていうのもある。
二人の共通事項は合コンの思い出しかないため、
相手の内面の部分でギャップができてしまうと、
ちょっとがっかりする。

こういうときはペンディングになることが多い。
そこでおしまいにするか、もう少し相手を知ろうとするか(※3)は、
神のみぞ知る。

※3 ただしかわいい子に限る。
   これ本音。
   でも女の子だって「ただしイケメンに限る」だろ!


ちなみに外見もよし、中身もギャップなしだと、
とても楽しいデートになるであろう!!


【友達の場合】

友達になるとき、普通は外見は気にしないだろう。
合コンのときは極端に言えば、
外見ですでに勝敗が決まることがあるが、
友達のときはそんなことは関係ない。

いっしょにいて、話して、遊んで、学んで、飲んで、
そんなことを繰り返していくうちに
お互いを知り、絆が深まっていく。

もちろん、最初会ったとき、
かっこいいなー、かわいいなー、気持ち悪いなー
そんないろんな印象はもつだろうが、
付き合っていくうちにそんなことはどうでもよくなってくる。

相手の情報が外見だけでなく、
性格、好み、特技、いろんな項目が増えてくる。
相手の情報のほとんどが中身に基づいたものになってくる。

そうなると嫌なところや苦手なところが出てきても
他のところでそれをカバーしてくれたり、
そういったマイナス面も含めて
人として愛せるようになる。



【合コンスタートと友達スタートの違いってつまりは……】

一般的には、
友達から恋人へと発展していくだろう。
友達は、いろいろな部分を含めて相手を知ることになるから、
ちょっとぐらい粗があったとしても許せちゃうこともある。
そこから恋愛に発展することもある。

例えばちょっとかわいくなくても
なんかすげーときめいちゃうこともあるのだ。


ただ合コンの場合は、
外見から相手を判断することから始まり、
そして恋人探しという目的もあるため、
ちょっとしたギャップや粗でさえ、
その関係を終わらせるのには十分な破壊力を持っていることもある。

要は外見から入るか、中身から入るかの違いなんだと思う(※4)。

※4 この日記の趣旨。


だから、今友達として大好きな女の子の友達も、
合コンで知り合ったら即効終わっている人もいるかもしれないし、
合コンで知り合って終わっちゃった女の子も、
友達から始まっていれば、
意外と末永くお付き合いすることになったかもしれない。

ならば普通に友達になればいいじゃんという声が聞こえてきそうだが、
やっぱり合コンというくくりでスタートすると、
どうしても友達になろうという気はなく、
完全に恋人がそれに準ずる人を探すようになってしまうのだ。


でも合コンという言葉も曖昧で、
俺の話をすると、
例えば友達から、
「今日いろんな会社の人と飲むけど来る?」
と誘われて参加した場合、
仮に男と女の数がピッタリ合っていても、
それは合コンという感じはなく、
普通に友達を作る雰囲気になる。

単に女性と男性の数が合っているだけでは
合コンとはいえない気がする。

そこは、もう、いろいろあるよね。

だって人間だもの。

ご意見募集中。



次回は、顔と性格の相関について語ろうと思う。

『脚本家という生き方』を読んだら、心がちょっと整理されました

2009年05月26日 00時29分09秒 | Weblog
まったく同じではない。

同じではないが、
小林雄次という脚本家の生い立ちを読んで、
僕自身と重ね合わせることができる部分を数多く発見した。

そして、この本を読んで僕自身も
「ちょっとやってみよう」
そう思うきっかけとなった。

もともと本はあまり読まない方だ。
世の中に数多く存在する本の中で、
たまたま一冊手にとって、
そこに書いてある小林さんの生い立ちを読み、
自分と似ている部分があるというのは、
誠に勝手ながら、運命的なものを感じた。

趣味、性格、そして誰のために脚本を書くのか、
大きく分けてこの3つに、僕は大いに共感することになる。


小林さんはこの本を通じて、
自身の幼少期から学生時代の生活や自分の性格を
細かくつづっている。
それは、作品の冒頭で触れられていたように
「脚本家とはどういう生き方をしているのか」
という疑問を小林さん自身も持っていたからであろう。

「脚本家」としての答えを出すのではなく、
「結果として脚本家になった小林雄次」として
脚本家になるというゴールに至るまでの一つの生き方が、
この本には記録されている。

そう、まるで過去の自分の疑問や不安に答えるかのように。


小林さんの趣味は、文章を書くことと映画を見ること。
それ自体を趣味にしている人はたくさんいるし、
もちろん僕もその一人である。
そして小林さん自身は、それを仕事にしたいと思っていた。

今、僕は24歳。一浪しているので、社会人2年目だ。
僕は今、まったく違う分野で働いている。
小林さんと同じ趣味を持ち、それを仕事にしたいと思いながら、
違う道に来てしまった。

その理由は後ほど書くことにするが、
本を読んだ限り、小林さんとは共通点が多いせいか、
あまり他人という感じがしなかった。


陸上部の話を読んで、僕自身も部活時代のことを思い出した。

高校生のとき、僕は水泳部に所属していた。
(今思うと)教育ママだった母親のしつけの一環で、
幼いころから習い事はいくつかやっていたが、
その中で僕自身がもっとも熱中し、もっとも楽しかったのが
この水泳である。

小・中では地元のスイミングスクールに通っていたが、
高校では水泳部に入り、毎日練習をしていた。
部内の人間関係があまり良好ではなく、
大好きだった水泳を離れるのは非常に残念だったけれど、
高校2年の夏に退部した。

それからは受験に向けて勉強を始めた。

行きたい大学はあったが、
将来何をやりたいのかという観点から決めたのではなく、
有名だし、楽しそうだし、という多くの学生と同じ気持ちだった。

でもやりたいことがないわけではなかった。

小さい頃から映像に触れる機会が多かった。
映画好きの父親の影響で、
映画はよく見ていたし、
小・中学生の頃は暇さえあればテレビドラマばかり見ていた。
(90年代のトレンディドラマは最高だ!)

しかし僕が最も影響を受けたのは、映像は映像でもテレビゲームであった。
中でも『ファイナルファンタジーⅥ』という作品には衝撃を受けた。
こんなに感動するストーリーがあるのか!!
当時、小学4年生だった僕は、あまりにも感動しすぎて、
将来はゲームクリエイターになると文集に書いたぐらいだ。
「いつしか、自分のつくった作品で世の中の人々を感動させたい」
そんな思いが当時10歳の僕に生まれた。

その想いは今でも強くある。
けれど、その夢に向けて進むことはなかった。
僕は安定した道を選んでしまったのだ。
儲かるかわからない、日の目を浴びないかもしれない、
それなら普通のサラリーマンの方がいいのかもしれない。
そう思いつつも、やはり映像関係の仕事に就きたいという思いで、
就職活動のときはテレビ局や広告代理店ばかり受けていたが、
すべて落ちてしまい、
今はIT関係の仕事に落ち着いている。

「僕は本当にクリエイターになりたいのかな、本気度が足りないのかな」
今でもそう思う。
本当にやりたいなら、その道に進んでいるはずなのに、
今はまったく違うところにいる。
それなのに、ゲームや映画に触れては、
自分なりのアイディアを膨らませている毎日。
そんな中途半端な日々が続いている。


安定した道を選んでしまった理由は、
おそらく小林さんと性格の部分で似ているところがあったからかもしれない。
つまり、「競争が苦手」なのだ。

小学生の頃、漫画『スラム・ダンク』にあこがれて
バスケットボール同好会に入部した。
いろんなクラスの人が集まるから、
当然話したこともない人も多く、
最初はぎこちない感じがあったけれど、
練習を通じて、仲はよくなっていった。

けれど、試合のときミスをすると必ず責められる。
自分がよかれと思ってやったプレーに非難がくる。
それをはねのけられるぐらいの強さがあればいい。
でも僕にはそれがなかった。
バスケ自体は楽しかったかったから、
卒業するまで続けたけれど、
人に非難されるのが嫌で、
練習でも試合でもなるべくボールに触れないところにいた。
わざと敵にマークされたりもした。

単純に気が弱いのだ。

川を飛び越えることができずに突っ立っていた小林さんに
そんな自分を重ねたりした。

しかし1歳の頃から水泳だけはずっとやっていた。
個人競技だから、ミスをして怒られることがない。
自分の泳ぎを非難されることもない。
だから楽だった。
遅いも速いも自分の責任。
笛の合図でスタート台に立ち、
銃声が鳴り響くと共にプールに飛び込む。
地面から足が離れた瞬間、すべては自分との闘いになる。

確かに競泳だから隣を見れば他の選手がいるが、
基本的に下を向いて泳いでいるので、
あまり人がいようがいまいが関係ないのも
僕が水泳を続けられた理由なのかもしれない。

そんな個人競技の水泳は今でも続けている。


妄想だけを膨らませる毎日。
といっても具体的な案はなく、
本当にぼんやりしたものばかり。
こんなキャラクターがいて、こんなポーズとってて。

そんな僕がひょんなことから映像制作に携わることになった。
大学三年でゼミに所属した。
毎年1月にOB会なるものがあり、
歴史の長いうちのゼミは毎年200人あまりのOBが集まる。
その会の仕切りは三年生が行うのだが、
必ず何かコンテンツをつくらねばならない。

ここ二年、映像をつくるという流れがあると先輩から伺った。
テーマは自由。

最初僕はまったくやる気がなかった。
でも他にやることもなかったから、
とりあえず映像制作班に入った。

いろいろ話し合っていくうちに、
ゼミの先生へビデオレターをつくろうという結果にまとまった。
うちの先生は当時50代半ば。
でも趣味のウィンドサーフィンをやったり、
ゼミの合宿を海外で行ったりと、
いろんなことに挑戦し続けている。

そんな先生のもとで学んでいたOBの方たちは
これまでどんなことに挑戦したのか。
それがテーマとなった。

幸いビデオも編集機材もすべて学校で貸し出してくれた。

撮影に参加してくれるOBを募り、
ビデオを片手にインタビューを行った。

特に誰がやると決まっていたわけではないものの、
僕が編集をすることになった。
これも本当にその場の流れでそうなったのだ。

でもこれが楽しかった。
誰も教えてくれる人がいなかったので、完全に手探り状態ではあったが、
アドビープレミアというソフトを使って、
いらない部分は削り、必要なところはくっつけた。
そんな作業がなぜだかとても楽しかった。
おそらく、昔からゲームや映画などの映像作品に触れていたこと、
もともとものづくりが好きだったこと。
この2つが大きな要因だろう。
BGMをつけ、特殊効果をつけ、オープニングとエンディングをつけ、
まさに映画そのものをつくっているかのような感じになった。

編集室は朝の9時から夜の10時まで使えたけれど、
OB会本番までの2週間、
就職活動真っ只中だったにも関わらず、
毎日通いつめ、飯も食わず、トイレも行かず、
ずっと編集を続けた。
これを見て、OBの方たちが喜んでくれればいい。
ただそれだけを考えていた。

おかげで体調を崩し、OB会当日は39度の熱があったものの、
OBからの評判は高く、ものすごい達成感を得ることができた。
それから卒業までの間、
僕はゼミでの出来事をビデオに納めては編集し、
みんなに見せるようになった。
これなら一生の仕事にできると思った。

ここまで思えるのは、誰のためでもない自分のためだからだ。

プロデューサーや監督や視聴者のために作品をつくるのはもちろんだが、
真実はそこではなく、あくまでも自分を救うため。
そう小林さんは言っていたが、
僕も自分のためである。
ただ単純にこれを見てくれる人を感動させたい。
そういう想いもあるけれども、
映像作品をつくることが、自分の生きた証のような気もするし、
自分の存在価値をアピールする手段だからこそ、
また現実を生きようという気にもなった。

でも僕のつくっているものはあくまでも内輪ネタ。
外部の人がみても何も面白くないし、認められることはないと思い、
テレビ局と広告代理店がすべて落ちた時点で、
映像業界への夢を捨ててしまった。

小林さんは自分の今の仕事に未練があったといっていた。
でも僕はそれは未練ではなく、執念だと思う。
かつて『北斗の拳』という漫画で
主人公のケンシロウが恋人のユリアを助けるために宿敵シンを倒したとき、
「執念」があったからここまできたと言っていた。
「執念」があったからこそ、ケンシロウはユリアに再び会うことができた。
(実際は死んでしまっていたけれども)
小林さんも自分のやりたいことを求め続け、
その環境に身を置くことで結果として脚本家になることができた。

むしろ、未練があるのは僕の方だ。

何をどうすればいいのかわからないまま、
どこまで本気なのかがわからないまま、
日々過ごしている。
一歩を踏み出す勇気がない。


何かをやるには、何かを続けるには、
執念が必要であると、この本を読んで改めて思った。


ここまで書いてきたことが読書感想文といえるのか、
もはやわからなくなってしまった。

しかし、ただ単に面白かった、つまらなかったということではなく、
この本を読むことで自分の考えや想いを改めて整理できたことに
とても感謝している。


僕も偏りはあるけれど、文章を書くことは好きです。
これからも小林雄次さんの作品を楽しみにしています。

身体に気をつけて、がんばってください。

友人からのプレゼント

2009年05月24日 22時28分28秒 | Weblog
日焼けがヒリヒリして、
自由に寝返りが打てない今日この頃。

外は雨。
それも大雨だ。
雷の轟音もすごく、
思わず階段からすべり落ちそうになってしまったよ。

散らかった俺の部屋。
ふと壁に目をやると、とある人形が飾られていた。

それは大学4年の夏、
友人に頼んで買ってきてもらったお守りだった。



ボージョボー。



男性と女性を模した人形がペアでくっついており、
叶えたい願い事によって手足の結び方が変わるという。

2年前の夏、俺が望んでいたことは当然1つだったけれど、
結局、それも叶うことはなかった。

夢見る妄想人の俺は
すぐにファンタジーにつなげようとする傾向がある。
だから俺はボージョボーの前で毎日お祈りをしたものである。

ちなみに俺は占いとかも自分の都合のいいようにしか解釈しないので、
例えば朝の星占いなんかも、
運勢がいいと、
「おお、今日は何かいけそうだ」とテンションあがるし、
運勢が悪くても
「運命は自分で切り開くものだ」と占いの結果を無視する。

よく思うのが、
もうちょっとファンタジーでもいいと思うんだ。この世の中。
例えば金運がいいと、道で100円拾うとかさ、
仕事運がいいと、発注もらえるとかね。

このボージョボーもそうだったけど、
本当に他の要因ではどうしよもうないんだよね。
つまり、他の事象に願うだけではダメなんだよ。

多くの人がそんなことわかってるけど、
でもみんな占いとか好きだし、信じてる。
いいことがあっても悪いことがあっても
何かと占いの結果に結び付けたがる人もいる。

でもそれは仕方ないのかもしれない。
なぜなら昔から人間はそうやって
非現実に逃れようとしていたのだから。

縄文時代、人々はあらゆるものには命がある
と思い込んでいたらしい。
これをアミニズムというそうだけれど。
卑弥呼も占いをしていたというし、
あまりに現実的過ぎる世の中に対して、
ちょっとでも気休めになればと、
何か神霊的なものの存在を生み出すことで、
辛いことや悲しいことを乗り越えてきたのだろう。

もっとも昔は今と比べると技術も知識もなかったから、
わからないことが多く、
本当に神とか霊とか、
そういったものがあると思っていたのかもしれないけれど。


世界観の多重人格化


とでも言うべきかね。

つまりね。
自分の生きている環境が劣悪で、
辛くて悲しくてどうしようもないことがあると、
人は別の人格を作り出すことがあるそうなんだ。
そういった辛いことを引き受ける人格。
何か悲しいことがあると、その人格を出して、
すべてそれに押し付ける。

もちろん別の人格が出る条件なんて人それぞれだから、
一概には言えないんだけれど、
上記のようなことがあるとするならば、
神とか占いとか、
何か辛いことがあったときにそこに頼ろうとするのは、
別の世界観を生み出したってことだと思うんだよね。

辛いことがあったとき、神や占いに押し付ける。

世界観の多重人格化。


もはや1つの宗教だと思うよ。占いとか。

死んだら極楽浄土に行けるっていうのも、
人間死んだらどうなるんだろうっていう不安を取り除くために
昔の人が作り出した世界なんだからさ。


まあそんなこんなで、
ボージョボーにお祈りしていたことはまったく無意味で、
本当にお金と恋愛だけは思うように行かない人生です。


------------------------------------------------------
この世界のどこかにいるあなたへ
すべての悲しみが消えるようにとか、
すべての心がつながるようにとか、
願うだけでは届かない想いをかなえるために
私は進もうと思っています。

新しい旅立ちは、意外に簡単なことかもしれない。
もしかしたらそれは、もう始まっているのかもしれない。
この空のつなぐ世界で
辿り着く場所は一緒だと信じています。
------------------------------------------------------


うお!
ゼミの掲示板に何やらとんでもないことが。

俺まだ2年目だし、わからないことだらけですよ。
仕事のこと。
業界のこと。

いいんでしょうか。

日本のテレビドラマは面白くなくなってしまったのだろうか②

2009年03月21日 17時08分04秒 | Weblog
では、「一途な恋愛」と「タブーな表現」を盛り込めば、
視聴率は回復するのかというと、そうでもないと思う。

それが今の時代背景に合っているのかどうかという疑問もあるが、
テレビという媒体を取り巻く環境が一番大きな原因である。

昔はテレビが最高の媒体だった。
みんなテレビを見ていた。
むしろ、テレビぐらいしか面白いものがなかった。
だからみんなテレビを見ていた。
次の日、学校で、
「昨日の○○見た?」
という会話は日常茶飯事で、
テレビを見ないと会話についていけないということがよくあった。
それを避けるためにテレビを見ていたという人もいるのではないか。

多くの人がテレビを見るわけだから、
当然視聴率も高い。
おそらく広告媒体としての価値もトップだっただろう。

しかし、今はテレビ離れと言われているように、
テレビを見ている人が少ない。
テレビがつまらなくなったからか、
それともテレビよりも面白いものが出てきたからなのか、
まあどちらも原因ではあると思う。

インターネットの台頭。

これは絶対にあると思う。
テレビを見ないで、みんなネットばっか。
ネットにはいろんなコンテンツがあるから、
テレビなんか見なくても十分に楽しめる。

そんなこんなで、みんなテレビを見なくなったから、
視聴率も下がった。
テレビの媒体としての価値も下がる。
広告出さない。
お金入らない。
制作費がない。
作品に影響が出る。
ますますつまらなくなる。
ますます見なくなる。

負のスパイラル。

でも、ネットでドラマ見ている人、いるよね?
you tubeで見たり、落としたりして見てる人。
そういった人たちが何のドラマ見ているのか、わかればいいのに。
もしかしたら、意外と今やっているドラマ、見られているかも。
そして昔のドラマも見られているかも。
DVD借りている人もいるでしょ。
そう考えると、ドラマが享受されている数って、
そんなに変わっていないのかも。
むしろ上がってたりして。

ドラマを、
単純にコンテンツとして
好きで見ている人ってどれぐらいいるんだろうか。

みんなと話を合わせるためだけに、
つまりはコミュニケーションツールの一つとして捉えている人は、
インターネットの普及に伴って、
ドラマは見なくなったかもしれない。
チャットや掲示板、他のコンテンツを通じて、
コミュニケーションができるからね。

ドラマを享受できる媒体がテレビ以外にもあること、
ドラマ以上に面白いコンテンツが、
世の中にたくさん生まれてきたこと、
それらを踏まえて、人々の好みが多様化してきたこと、
これらが視聴率が下がっている原因だと思う。
まあ当たり前のことだけど。

だから、ドラマの中身的には、
時代の移り変わりと共に、当然変化はしてきているだろうけど、
質が下がったと結論付けるのは早いかもしれない。
さっきから言っている
「一途な恋愛」と「タブーの表現」がなくなったことが、
質の低下と結びつくかどうかはわからないからである。
そもそも「質って何?」
というところから考えないといけないしね。
そこはまた今度にしよう。

ドラマをもっと見てもらえるようにするには、
どうしたらいいんだろうか。

まず、すべての会社の退勤時刻を早めようか。
21時には完全に家にいるようにしよう。
それが無理なら、会社で21時~23時の間、
1時間だけテレビを自由に見ていい時間を設けるとか。

あとテレビだけじゃなくて、他の媒体でも流そう。
ネットとかでストリーミング。
今やってるっけ?

街頭テレビとか、居酒屋にテレビを置いて、流す。

放映時間を30分にして、拘束時間を減らすとか。

何とかして、ドラマというコンテンツを
人々に享受させなくてはいかんね。

日本のテレビドラマは面白くなくなってしまったのだろうか①

2009年03月21日 17時07分26秒 | Weblog
今も昔も、
日本のテレビでは多くのドラマが放映されている。

そしてテレビっ子の俺は、
高校生ぐらいまで、そのほとんどは見てきたと思う。

しかし今はまったく見ていない。
なぜなら、ドラマの放送時間に、
テレビを見れる環境にいないからである。

それでもごくたまに1話、2話見ることがあるけれど、
なんだか昔のドラマと変わってしまったなとよく思う。

今のドラマはほとんど見ていないので、
面白いかどうかの議論はできない。

が、昔のドラマと比べると何かが違う気がする。

今まで日記にもアップしてきたが、
俺が昔見ていたドラマは圧倒的に
フジテレビとTBSが多い。
たまに日テレ(金田一、銀狼怪奇ファイル)、
テレ朝(音無可憐、ハンサムマン)があるぐらい。

フジとTBSのドラマの視聴率は
今では考えられないぐらい高い数値を出している。
平均で20%台、最高で30%以上も出している。
今のドラマなんて最高でも10%台である。

これはドラマの質が下がったことの証拠になるのだろうか。

昔のドラマは本当に「恋愛」のみを主軸に置いたものが多い。
トレンディドラマと呼ばれるそれらは、
主人公とヒロインの恋愛模様を中心に、
ストーリーが展開されていく。

織田裕二と鈴木保奈美で有名な『東京ラブストーリー』、
武田鉄也と浅野温子の『101回目のプロポーズ』、
中山美穂と唐沢寿明の『おいしい関係』などなど。

職場恋愛や偶然の出会いなど、
環境は現実の日常生活そのものだけれど、
その中でも「こんな展開、ありえない」みたいな
非日常を描いているものが多いように思う。

それは、視聴者の
「こんなことがあったらいいなぁ」
という願望を具現化したものもあると思うし、
それが共感を呼んだのかもしれない。

また、『神様、もう少しだけ』や
『愛していると言ってくれ』のように、
恋愛におけるどちらか片方が障害や病気を抱えていて、
それを乗り越えて恋を成就させるという
シンデレラストーリー的なものも、
視聴者の共感を呼んだのかもしれない。

そんなわけで、
昔は恋愛を扱ったものが多いけれど、
今のドラマはどうなのだろうか。
見ていないからなんとも言えないけれど、
今のドラマも恋愛をテーマにしたものは多いと思う。

が、昔のドラマの方が
「一途」だったように思う。
いろんなところでいろんな恋愛が発展するというよりも、
主人公とヒロイン、その二人だけに焦点を当てている。
と、思う。記憶が曖昧だけど。

今の世の中は昔と比べたら、
国民の趣味・嗜好は多様化しているし、
携帯電話やインターネットの普及で、
コミュニケーションのあり方も変わってきている。

だからその分だけ、恋愛のあり方も変わるだろうし、
今やっているドラマはそれを反映しているのかもしれない。

個人的には、俺は一途な恋愛の方が好きだし、
また、過去を美化する傾向があるので、
今のドラマよりは昔のドラマが好きだ。
そして昔の方が面白い。
見ていて「切なさ」を感じる。

と、これは俺の好みの問題だが、
他の人はどうなんだろうか。

今、俺がドラマを見ていないのは、
そのときにテレビを見れる環境にいない
というのが大きな理由だが、
昔だって、働いている人はやはりドラマを見る時間はなかったはず。
当時から働いている人たちは、ドラマをどう思っているのだろうか。
見ていないのだから、何とも言えないかもしれないが。
もしかしたら昔は、働いていても、
ドラマがやる時間には家に帰れたのかもしれない。
ぜひ彼らの意見を聞いてみたいものだ。

現在だと、40歳以上ぐらいの人たちかな。

また、今の若い世代に、昔のドラマを見せたら何て言うのだろうか。

それらすべての意見を取り入れて、
それでも「昔のドラマが面白い!」と感じるのならば、
やはり昔と今とでは、ドラマの内容が違うということになるだろう。

その理由として、「一途な恋愛」と
もう一つ考えられるのが、「タブーの表現」であるように思う。
『高校教師』、『ひとつ屋根の下』、『家なき子』など、
衝撃的な展開が多い作品には、
セックスや暴力などの表現が多く流されていた。

性や暴力に関わる部分は、
おおっぴらに言うことが控えられる。
これは人間社会において、タブーとされているからだが、
その部分を見ると、心がえぐられるような感覚を覚える。

特に『ひとつ屋根の下』の小梅がレイプされてしまうシーンは、
当時の視聴者に大きな衝撃を与えたといえるだろう。

確かにそれを見ると、とても心が痛むシーンではあるが、
「見てはいけないものを見てしまった」という
ある意味、好奇心を揺さぶられるところでもあり、
それだけ、感情が大きく動いたとも言える。

人が作品を見て面白いと感じるとき、
それは泣いたり、笑ったり、怒ったりと、
人間の喜怒哀楽を大きく刺激されたときだと思うが、
タブーを表現することで、
感情の刺激が大きくなるように思う。

そういった意味で、
タブーをよく用いている昔のドラマは、
大きな感情の波を人々に与えたことになり、
結果として「面白い」と感じさせるといえる。

それを脚本に盛り込んだ脚本家
(特にタブーの部分で言えば、野島伸司)は、
大きな存在であったといえるし、
実際に彼の手がけたドラマは面白いものが多い。

野島伸司について↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%B3%B6%E4%BC%B8%E5%8F%B8


今の若い人たちが、
「今のドラマの方が面白い!」というならば、
俺が大人になってしまったということなのだろう。
昔と比べたら、いろんな知識がついて、
小さなことでは単純に感動できなくなってしまっている。
だから今のドラマには共感できないということである。

多くの人に見せるからには、
多くの人に共感させる必要があるので、
そのときの時代背景に合った作品づくりが必要であるとは思うが、
それを差し引いても、
「一途な恋愛」、「タブーの表現」については
今と昔で差がある。

それが今と昔の面白さの境界線になっている可能性があるのは
揺ぎない事実であると俺は思う。

つづく

ゲームのプロモーションの難しさ

2009年02月24日 00時17分38秒 | Weblog
前々からマーケティングには
「いかに人々の生活に入り込めるか」
が大事であるということをを書いてきているけれども、
今you tubeを見てちょっと考えたのが、
やはりそれはモノにもよるんじゃないかということだ。

以前、次世代ゲーム機を例にあげたが、
あれは本当にわかりやすい例だと思う。

そのゲーム機があることで、
どれだけ生活が変わるかということを
最もうまく示したWiiはやはり売上も多いし、
実際にそのことは大切なことであろう。
ゲームの映像画面しか見せていないXboxやプレステは、
既存顧客はついてきても、
なかなか新規顧客は取り込めないだろう。

でも、ゲームや映画などの映像コンテンツは、
それがあることでどれだけ生活が変わるか
ということを主張するのは少し違う気がする。

あれは生活を変えるためのものではなく、
単純に感動や刺激を享受するためのものであるからだ。

Wiiのようにみんなで遊ぶゲームであったら、
ライフスタイルの提案はできるかもしれないし、
特に新しい層も取り入れるなら必要な手法である。

しかし、例えばFFのように
基本的に一人でプレイして一人でエンディングを迎えるゲームは、
ライフスタイルの提案は難しい。
ならば、映像のきれいさや、ストーリーの面白さが
伝えるべき項目になるであろうが、
15秒~30秒のCMでストーリーを伝えるのはけっこう難しい。

一時期、本編の映像さえ流せばいいのだから、
ゲームや映画のCMは楽だろうなんて思っていたけれど、
とんでもない。
シリーズもののように認知されているものなら、
それだけでもそこそこ商品のよさや雰囲気を伝えられるが、
新作の場合なんかは相当難しいのではないか。

そういった場合、
ライフスタイルの提案というよりは、
「いかにこのゲームで感動できるか」
「この映画でこんなことを思い出させることができる」
など、ゲームや映画によって喚起される部分を
多くの人が共通して持っている何かに置き換えられなければならない。

つまり、狭義での「感動」である。

「小さい頃、友達と遊んだこと」や、
「両親からほめれらたこと」など、
多くの人が経験しているであろうこと、
多くの人が共感できるであろう経験を、
そのゲームや映像が思い起こさせてくれるということを
伝える必要があると俺は思う。

既存顧客や絞られたターゲットだけへの訴求と、
新規顧客を視野に入れた広くリーチのとれる訴求とでは、
やはり内容も変わるだろう。

以下一例。

http://www.youtube.com/watch?v=bTKcUcQ2x9I&feature=player_embedded

これは『ファイナルファンタジーⅨ』のCM。
ゲーム画面しか映していない。
歴代のファイナルファンタジーシリーズを、
『ファイナルファンタジーのテーマ』という名曲と共に、
順番に流している。
FF好きなら、これだけでFF9を3本は
買ってしまうんじゃないかというぐらい、
「FFならきっとワクワクさせてくれる」
「FFなら感動できる」
という想いを、見ている人に与えてくれると思う。
が、いかんせん、既存顧客向け。
初めて見る人からすると「なんのこっちゃ?」という感じだ。


しかし次のは違う。

http://www.youtube.com/watch?v=JYxariOiWOI&feature=player_embedded

これは『ファイナルファンタジーX』のCM。
FF9と比べるとゲーム画面が少なく、
マンネリ化してきたカップルを主に映している。
彼女は寂しげな目をしなら、
「もう無理かなー、こういうの」と言っているが、
初めて見る人でも、FFをまったく知らない人でも
これを見れば、
「ああ、きっとラブストーリーなんだ」
「感慨にふけってしまうぐらい感動的な話なんだ」
という感想ぐらいは持つと思う。

FF10は世界を救うために旅する女性召還士と
それを守る青年の物語であるが、
「忘れていた何かを感じさせてくれそう」
「ピュアな気持ちを思い出させてくれそう」
と、別に特定の誰かではない、
多くの人が感じるであろうこと、
多くの人がイメージしやすそうなことを喚起させてくれる。

そういう点で見れば、新規顧客向けではあると思う。

ちなみに滝沢秀明も起用したバージョンがあるが、
あれも何が言いたいのかよくわからん。

ライフスタイルにせよ、感動にせよ、
消費者に何かを感じ取ってもらわなければいけない。
「で、結局これで何ができるの?」
というところが大事なんだと思った。

って、当たり前のことですね。

約束のない明日であろうと

2007年12月03日 00時23分22秒 | Weblog
波が去って、ようやく落ち着けると思ったのになぁ。

また一荒れしそうだよ。

本当に。

なんでこうなるんだろうね。

ま、仕方ないよね。

俺一人の世の中じゃないもんね。

さっきゼミの先輩の日記読んで思った。

素直が一番だよ。

『クライシスコア ファイナルファンタジーⅦ』

2007年10月09日 21時59分09秒 | Weblog
一番最後のURLに飛べば、ここに書いてあることがわかるだろう。

もっとも涙を流したゲーム。
そう言わざるを得ないだろう。

この一言でしか表せない自分がとてもやるせない。

「とても面白かった」

この感動はプレイした人にしかわからない。
この感動を伝えたいけれど、言葉じゃ表現しきれない。
ああ、悔しい。

俺ら世代の特に男子ならほとんどが
『ファイナルファンタジーⅦ』をプレイしたことがあるだろう。
その7年前の物語が今作の
『クライシスコア ファイナルファンタジーⅦ』である。

全部書くと長くなるから、もうわかる人にしかわからないけれど、
主人公はザックス。
クラウドの親友であり、エアリスの初恋の相手。

こいつの生き方、学びたいわ。
夢を捨てず、常に前向きなところが。

他にもⅦで登場する人物も出てくる。
もちろん、7年前だからみんな若い。

クラウドが幼い。
なんか女々しい。
Ⅶやアドベントチルドレンのときとは全然違って弱いイメージがある。
こいつ、すげー成長したんだなって思った。

セフィロス。
最初は普通だった。
でもニブルヘイムでおかしくなった。

エアリス。若い。かわいい。
ザックスとエアリスとのやりとりがとても切ない。
お互い「好き」という気持ちは伝えていなくても、
気持ちが通じ合っているところがいい。
エアリスの仕草や言動がかわいい。
ネタバレだけど、
ザックスにしてもらいたいこと、23個あるのに、
ザックスはきっと覚えきれないだろうからって
1つにまとめる。
「もっと一緒にいたいです」だってさ。
それを思い出したザックスが、物語の最後の方で
「俺、ミッドガルに行かなくちゃ」って。
泣けたね。

そしてラストシーン。
ああ、涙が止まらない。止まらない。
ニブルヘイム事件の後、ザックスとクラウドは実験対象にされ、
しばらく魔晄に浸される。
すぐに脱走したかに見えたけど、
実は4年の歳月が流れていて、
エアリスはその間に88通も手紙をザックスに出している。
全部ツォンが預かっていたけれど、
最後の1通だけザックスに届く。
それを見たザックスはクラウドを担いで
急いでミッドガルに向かうんだけど、
目の前には無数の神羅兵が。
そこで戦っているうちに、ザックスはついに力尽きる。
あのイベントは生々しい。
ザックスの体には銃弾の穴があいていて、血だらけ。
最後は抵抗できないザックスに向かってマシンガンで撃ちまくり。

クラウドは魔晄中毒でほとんど身動きがとれない状態。
やっと動けるようになってザックスのもとに這ってたどり着くも、
すでにザックスは死の直前だった。
クラウドに「俺の分まで生きろ」と言い残し、
バスターソードと共に自分の夢と誇りも託す。
ミッドガルまであと少しだったのに……
あと少しでエアリスに会えるところだったのに……
ザックスはそこで命を落とした。
意識がもうろうとする中、ようやく事実を把握したクラウドは、
雨が降り注ぐ中、叫び声をあげる。

その場所こそが、
アドベントチルドレンでバスターソードが刺さっていた丘の上。
「おまえの分まで生きよう。そう決めたんだけどな」
というセリフ、ずっとエアリスへの言葉だと思っていたけれど、
ザックスのことだったんだな。あれ。

エアリスがⅦでピンクの服を着ているのも、
実はザックスとの約束だった。
「会うときの約束事をつくろう。
 例えばピンクの服を着てくるとかさ」って言ってたなぁ。
エアリスの髪に巻いているピンクのリボンも、
ザックスが買ってあげたものである。
このように、細かいところまでⅦにつながるようにできている。

また、オープニングで、ザックスは列車に侵入し、ミッドガルに行く。
Ⅶのオープニングもそうだった。
そしてクライシスコアの一番最後のシーン、
それはオープニングでザックスが登場したのと
同じようなことをクラウドがやっている。
それがそのままⅦのスタートになるのだ。
あのバスターソードも、
アンジールの両親がアンジールがソルジャーになった記念に買い与え、
アンジールが死ぬときにザックスに託し、
ザックスが死ぬときにクラウドに託した。
そしてアドベントチルドレンにおいて、
ザックスの墓標となっている。

ザックスとエアリスとの初対面のシーン、
ザックスは空から降ってきた設定。
クラウドも魔晄炉の爆発によってスラムに落ちた。
二人とも落ちた場所は教会のお花畑。
エアリスはびっくりしただろう。
同じソルジャー1stの服を着た人が、
同じ大きな剣を持って空から落ちてくるなんて。
エアリスは、クラウドにザックスを重ねていたのかもしれない。
だから、クラウドに対して恋愛感情を抱くというよりは、
クラウドとかぶらせたザックスに対して
想いを抱いていたのかもしれない。

ザックスの死は、本当に悲しかった。
主人公が死ぬのは、
ファイナルファンタジーにおいて初めてのことだったろう。
そしてザックスの死から2年後、
エアリスもセフィロスによってその命を絶たれることになる。
クラウドは、大切な人を2度も失っているのだ。
なんて、なんて悲しい運命なのだろう。

もう一度プレイしよう。
ついでにⅦもプレイしよう。
ついでにアドベントチルドレンも見よう。
ダージュオブケルベロスもやろうかな。
あ、ダージュに続く部分もイベントあったな。

関係ないけど、エンディングで「電通」の名前が。
いいなぁ。やっぱ代理店はいいなぁ。
動画のってたのに、俺の入る会社の名前はなかった……。

オープニング:http://jp.youtube.com/watch?v=q35VapK7x3Y
エンディング:http://jp.youtube.com/watch?v=TTsbuTWg-NQ

『ファイナルファンタジーⅡ』

2007年09月17日 00時40分13秒 | Weblog
操作するキャラクターに
固有の名前がついた初めてのファイナルファンタジー。
6月に買ったけど、ゆっくりやってたらかなり時間かかった。
大体35時間ぐらい。
追加要素やって、モンスター図鑑をコンプリートするのが、
かなりめんどくさかった。

この作品、なんかつまんない。
「皇帝」率いる帝国が世界を支配しようとするのを防ぐ
というありきたりな話なんだが、
なんかいまいち面白いと感じないんだよな。
ストーリーに幅がないというか。
レベルという概念がなく、
使った武器しか強くならないのもちょっとやりづらい。
だから攻略サイト見ながらのやっつけ仕事。
まあ一度すでにやったことあるからいいんだけど。

でも追加シナリオのソウルオブリバースはちょっと感動した。
あれはよかったね。

『エヴァンゲリヲン 新劇場版:序』

2007年09月06日 09時54分22秒 | Weblog
今までの総集編という感じ。
テレビやっていたものを短くしてくっつけただけ。
後、映像をきれいにした感じかな。
CGとか使ってたし。
ちょこっとプラス要素もあったけど。
だから、ストーリーは別に何も変わっていない。
でも大画面で観るとやっぱ違うね。
初めて見る人にはわからないんじゃないかなぁ。

エンドロールの後に次回予告があった。
これはテレビと同じスタイルだ。
次回作の方がなんだか面白そうだな。

そんな感じ。

『Life 天国で君に逢えたら』

2007年08月29日 15時00分28秒 | Weblog
プロウィンドサーファー、飯島夏樹さんのお話。
がんに侵されながらも懸命に生きようとするその姿が
とてもかっこよかった。
といっても、いくら実話をもとにしているとはいえ、
この手の映画はやはり流れが似たり寄ったりになってしまう。

最初は元気→病気発覚→ちょっと欝→懸命に生きようとする

こんな感じ。
この映画、もちろん泣いたし、感動したけれど、
セカチューや1リットルの涙との違いはと聞かれると、
やはり根底に流れるものは変わらないと思う。
つまり「一瞬一瞬を一生懸命生きようとする」ということだ。
それが悪いということではない。
素晴らしいことだ。
でも、やっぱ同じなんだなぁと。
どんなに大きな困難があっても、
それを乗り越えて懸命に生きようとする姿は
多くの人に勇気と感動を与えるということなのだろう。

この作品の中で、一番涙したのは、
飯島夏樹さん(大沢たかお)の師匠である
藤堂さん(哀川翔)が亡くなったところだ。
その奥さん(真矢みき)が
「死ぬその直前まで、あなたのこと心配してたのよ」
というセリフ、とても感動した。
自分が死ぬそのときに、他人のことを思いやれる
その心の広さ、大きな思いやりに感動した。
俺は自分が死ぬそのときに、
他の人のことなんて考えられるのかな……。

大沢たかおは演技がうまい。
パニックになって暴れだすシーンがあるのだが、
人間、そんなに壊れるなんてことはないと思うし、
ましてや大沢たかお自身、壊れたという経験はないと思う。
でも見ている人に「これやべー」と思わせるぐらい、
人が壊れる演技ができるところがすごいと思う。
自分の知らない、経験したことないことを表現できるのが、
とてもうらやまく思う。

こういう感動系の映画を見て、必ず思うことがある。
自分はなんてちっぽけなんだろうと。
たとえフィクションだろうが、ノンフィクションだろうが、
劇中の登場人物は大きな運命とぶつかり、
それを乗り越えようと必死である。
その必死の果てに、死んでしまったり、別れてしまったり、
いろんな結末があるのだが、
彼らの乗り越えなければならない運命を考えると、
俺の普段の悩みとか生活ってちっぽけだなぁとつくづく思う。

伊藤美咲はやっぱりスタイルがいい。

『トランスフォーマー』

2007年08月27日 20時34分03秒 | Weblog
映像がすごすぎた……。
やばい。やばすぎる。
今まで観たどの映画よりも
CGの技術がド派手でエキサイティングで、
思わず体が乗り出してしまうほどだった。

ストーリーはね。普通。
アメリカのヒーロー映画だなぁって感じ。
悪いやつがいて、地球を支配しようとしていて、
それをいいやつが阻止するみたいな。
でも彼らは金属生命体だから、
機械なんだけど、生き物なんだよね。
主人公の男の子と仲間としての絆を感じさせるシーンとか、
けっこう感動した。

小さい頃から遊んでいたあのロボットたちが、
実写で動いている姿が見れて本当によかった。
変身するとこがすごい!!
車からガチャガチャ変わって、ロボットに変身する。
それがかっこよすぎる!!
細かいところまでちゃんと表現されていて、
クリエイターの方にはマジ感服するよ。

俺のケータイかパソコンも変身しないかなぁ。

もう日本はCGでは勝てんよ。きっと。

『アメリカン・パイ2』

2007年08月27日 14時17分02秒 | Weblog
くだらねー。
くだらなすぎて笑える。

大学1年の夏、女の子とヤることを目的に集まった5人の男子の物語。
ホント、アメリカン青春グラフティって感じ。

でも日本人もあれぐらいの積極性や開放性は学んで欲しいものである。