天上の月影

勅命のほかに領解なし

研究序説の口頭発表(1)

2018年11月30日 | 勉強日誌
 私はこれまで法本房行空の研究を志してまいりました。その発端は梯實圓和上がおっしゃったお言葉にあります。レジュメ「はじめに」の傍線部、「ことに邪道といわれた法本房行空あたりは名誉回復しなければならない人だと思う」というものです。それから二十年近く経ってしまいました。どのように研究していいのか、突破口を見出せなかったからです。ところが八年前、天岸先生に質問をする機会を得、いろいろお話をお聞かせにあずかったいるとき、ふと先生が口にされたお言葉の中で、そうだと思うところがありました。そして同じころ福岡県八女市に高野堂「行空上人の墓」、それに関係する高野山の本覚院、また新潟県佐渡市に行空の旧跡といわれるお寺があることを知り、多くの方々との出会いがありました。そうしたことで機が熟したと申しますか、以来、行空についての論文をいくつか発表してまいりました。未発表の論文もあります。このたびの発表はそれらの前段階になる、研究の目的、方法論、問題点を述べようとするものです。それゆえ行空そのものに立ち入っておりません。あくまで序説であることを御諒解いただきたいと思います。ちなみに研究の結果、先ほど触れた八女市の「行空上人の墓」は法本房のものとは認められません。また佐渡の行空旧跡といわれるものも認められません。そのことは『佐渡郷土文化』という地方誌に論文を発表しておりますことを申し添えておきます。
 さて、「一、研究の目的」、①「法本房行空とは」法然聖人の高弟の一人で、親鸞聖人の兄弟子にあたります。法然門下では成覚房幸西とともに一念義の代表的人物として知られています。②〔一念義と鎮西派〕一念義は法然の正統を自認する鎮西派において、派祖の聖光房弁長以来、蛇蝎視されてきました。多念の称名を否定し、さらには造悪無碍に堕する傾向をもっているからです。③「行空の評価」弁長は行空の名を出して批判しているところがあります。『四十八巻伝』では「門弟の列にのせざるところなり」といっています。江戸時代になると、鸞宿は行空を「背師自立の人」、妙瑞は「邪義」と判じ、関通は「邪流」、法洲は「無道の者」といっています。真宗においても了祥、住田智見氏、とくに山上正尊氏は「行空は造悪を孕む邪念義である」と断定されています。他に大原性実氏、藤枝昌道氏、浅野教信氏、白川晴顕氏なども同様です。こうして行空は八百年来、背師自立の邪念義を唱えた弟子とされてきたのです。④〔研究の目的〕しかしはたしてそうでしょうか。私は大いに疑問を持っています(その理由は後述)。そこで行空を取り上げようとするのです。それは単に行空の実像解明を目的とするだけではなく、名誉回復を目指すものです。これは梯和上のお言葉に対応するものです。
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行空上人の研究序説レジュメ(1)

2018年11月24日 | 勉強日誌
法本房行空上人の研究序説
 ─『西方指南抄』の記名─

はじめに
①〔研究の発端〕梯實圓和上が一九九七年二月二十五日、大阪・朝日カルチャーの講義において、「法然門下のあいだで一念多念の諍論があったが、一念義といわれる人でも実はそうでなかったり、多念義といわれる人でも実はそうでなかったり、何百年も汚名を着せられたままの人がいる。彼らの名誉を回復しなければならない。それが私たちの仕事の一つである。それによってこんな生き方もあり得たのだなということがわかり、すごい財産になる。成覚房幸西や、ことに邪道といわれた法本房行空あたりは名誉回復しなければならない人だと思う」といわれたことにある。
②〔本稿の内容〕これまで行空に関するまとまった研究は見当たらない。そこで本稿は、行空の生涯や教学の全般を視野に入れてはいるが、その前段階として、研究の目的、方法論、問題点を述べようとするものである。それゆえ行空そのものには立ち入っていない。あくまで「序説」であることを御諒解いただきたいと思う。

一、研究の目的

①〔法本房行空とは〕法然房源空(一一三三~一二一二)の高弟の一人で、のちに浄土真宗の開祖と仰がれる善信房親鸞(一一七三~一二六三)の兄弟子にあたる。法然門下では成覚房幸西(一一六三~一二四七)とともに一念義の代表的人物として知られている。
②〔一念義と鎮西派〕一念義は法然の正統を自認する鎮西派において、派祖の聖光房弁長(弁阿、一一六二~一二三八)以来、蛇蝎視されてきた。多念の称名を否定し、さらには造悪をほしいままにする傾向をもっているからである。
③〔行空の評価〕弁長は『浄土宗要集』に「法本房の云く、念とは思ひとよむ。されば称名には非ずと〔云云〕答ふ、此は念仏を習はざる」(『浄全』一○・二二八頁)と行空の名を出して批判している。舜昌(一二五五~一三三五)が編集制作した『四十八巻伝』には行空と幸西と諸行本願義を立てた覚明房長西(一一八四~一二六六)を「門弟の列にのせざるところなり」(『法伝全』三一八頁)といっている。江戸時代になると、鸞宿(一六八二~一七五○)は行空を「背師自立の人」(『浄全』一九・一一八頁)、妙瑞(?~一七七八)は「邪義」(『同』八・一一五頁、『同』一○・四三三頁)と判じ、関通(一六九六~一七七○)は「邪流」(『同』九・一五四頁)といい、法洲(一七六五~一八三九)は「無道の者」(『同』九・二三八頁)といっている。真宗においても了祥(一七八八~一八四二)、住田智見氏、とくに山上正尊氏は「行空は造悪を孕む邪念義である」と断定されている。他に大原性実氏、藤枝昌道氏、浅野教信氏、白川晴顕氏なども同様である。さらにいえば一般にも五木寛之氏の小説『親鸞』のなかで行空は安楽房遵西(?~一二○七)とともに悪役に設定されている(1)。こうして行空は八百年来、背師自立の邪念義を唱えた弟子とされてきた。
④〔研究の目的〕しかしはたしてそうであろうか。私は大いに疑問を持っている(その理由は後述)。そこでいま行空を取り上げようとするのである。それは単に行空の実像解明を目指すだけではなく、名誉回復を目的とするものである。
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一念義と天台本覚思想(2)

2018年11月19日 | 勉強日誌
 まず『西方指南抄』「基親取信信本願之様」には平基親(一一五一~?)に対する一念義の論者の言葉として、

或人、本願を信ずる人は一念なり、しかれば五万辺無益也、本願を信ぜざるなりと申す。
難者云、自力にて往生はかなひがたし、たゞ一念信をなしてのちは念仏のかず無益なりと申す。
又念仏者女犯はゞかるべからずと申あひて候。在家は勿論なり、出家はこはく本願を信ずとて、出家の人の、女にちかづき候条、いはれなく候。善導は「目をあげて女人をみるべからず」とこそ候ぬれ(1)。

『西方指南抄』「聖人御房の御返事の案」には基親に対する法然の返信のなかに、

しかるに近来一念のほかの数返無益なりと申義いできたり候よし、ほゞつたへうけたまはり候。
またふかく本願を信ずるもの、破戒もかへりみるべからさるよしの事(2)、

真偽の問題があるが、『漢語灯録』「遺北陸道書状」にも一念義の論者の言葉として、

弥陀の願を憑みたてまつる者は、五逆を憚ること勿れ、心に任て之を造れ。
心に弥陀の本願を知れば身に必ず極楽に往生す、浄土の業、是に於て満足す。此の上何ぞ一念に過ぎん。一辺なりと雖も重ねて名号を唱ふべけんや(3)。

『西方指南抄』「七箇条制誡」にも、

念仏門に於て戒行無しと号して、専ら淫・酒・食肉を勧め、適たま律儀を守る者を、雑行と名づく。弥陀の本願を憑む者、説て造悪を恐るゝこと勿れといふことを停止すべき事(4)。

『興福寺奏状』にも、

専修の云く、「囲棊双六は専修に乖かず、女犯肉食は往生を妨げず、末世の持戒は市中の虎なり、恐るべし、悪むべし。もし人、罪を怖れ、悪を憚らば、是れ仏を憑まざるの人なり」と(5)。

『愚管抄』にも、
それらがあまりさへ云(いひ)はやりて、「この行者に成ぬれば、女犯おこのむも魚鳥を食も、阿弥陀仏はすこしもとがめ玉はず。一向専修にいりて念仏ばかりを信じつれば、一定最後ににむかへ玉ふぞ」と云て(6)、

これらによって一念義は多念を廃し、造悪無碍を主張していることが知られる。


(1)『西方指南抄』巻下本「基親取信信本願之様」(『真宗聖教全書』四・二一一、二一二頁)
(2)『西方指南抄』巻下本「聖人御房の御返事の案」(『真宗聖教全書』四・二一二頁)
(3)『漢語灯録』巻一○「遺北陸道書状」(『真宗聖教全書』四・五三七頁、五三九頁)
(4)『西方指南抄』巻中末「七箇条制誡」(『真宗聖教全書』四・一五三頁)
(5)『興福寺奏状』(『岩波日本思想体系一五・鎌倉旧仏教』四○頁)
(6)『愚管抄』巻第六(『岩波日本古典文学大系八六』二九四頁)
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一念義と天台本覚思想(1)

2018年11月18日 | 勉強日誌
   三、一念義と天台本覚思想

 次にその法然から出ながら天台本覚思想の影響を受けているといわれる一念義を見てみよう。ただし一口に一念義といっても種々の義があり、弁長は肥後国で「念と云ふ文字は人二たりが心とよむ也。一と云ふ文字をばひとつとよむ也。されば一念と云ふは人二たりが心を一つにするとよむ也。されば男女二人寄り合ひて我も人も二人が心よからん時に一度に只だ一声南無阿弥陀仏と申すを一念義と申す也」等という相続開会の一念義が行われていたと伝えている(1)。しかしそれは早くから真言立川流の影響であることが指摘されている(2)。一念義の亜流と見ていいであろう。いまは法然在世中の一念義の主張を見てみよう。


(1)弁長『念仏名義集』巻中(『浄土宗全書』一○・三七六頁)
(2)妙瑞『徹選択集私志記』巻中(『浄土宗全書』八・二○○頁)、同『鎮西名目問答奮迅鈔』巻第四(『同』一○・五三六頁)、了祥『異義集』巻一(続真宗体系』一九・九頁)
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法然聖人と天台本覚思想(改訂)

2018年11月17日 | 勉強日誌
   三、法然聖人と天台本覚思想

 法然の『真如観』批判とは次の法語である。
一。この真如観はし候べき事にて候か。
答。これは恵心のと申て候へども、わろき物にて候也。おほかた真如観をば、われら衆生は、えせぬ事にて候ぞ。往生のためにもおもはれぬことにて候へば、無益に候(1)。
安達俊英氏は、法然は少なくとも本覚思想を正面切って批判していない。これを除けば、明確な本覚思想批判は見られないといわれている(2)。ただそうはいっても、法然が反本覚思想の立場に立っていたことは明らかで、明快に分類できるものではないが、便宜的に次のように法語類を示してみよう。

 「絶待肯定」「現実肯定」に対する現実否定として、弁長は法然の求道の出発点に、
予が如きは已に戒定慧三学の器に非ず(3)。
という悲歎があったと伝えている。また善導(六一三~六八一)の有名な「決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず」「自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し」という信機は(4)、諸処に引用され、取意して述べられている(5)。

 また「あるがまま主義」に対する厭離穢土として、たとえば『選択集』三選の文に、
それすみやかに生死を離れんと欲はば(6)、
とあり、『和語灯録』「往生大要鈔」にも、
浄土門は、まづこの娑婆世界をいとひすてゝ(7)、
とある。ただ『和語灯録』の「禅勝房にしめす御詞」に「念仏申す機は、むまれつきのまゝにて申す也」、とくに「諸人伝説の詞」に「善人は善人ながら念仏し、悪人は悪人ながら念仏して、たゞむまれつきのまゝにて念仏する人を」という法語は(8)、「あるがまま主義」のようでもあるが(9)、後者はつづいて「念仏にすけさゝぬとは申す也」とあるから、助を必要としない「ひとりだち」の念仏のことを「むまれつき」「善人は善人ながら念仏し」等と表現していると見ていいであろう(10)。

 また「絶対的一元論」に対する相対的二元論として、たとえば『西方指南抄』「法然聖人御説法事」に、
かの極楽世界と、この娑婆世界とのあひだに、十万億の三千大千世界をへだてたり。
娑婆のほかに極楽あり、わが身のほかに阿弥陀仏ましますと説(とき)て、
とあり(11)、また醍醐本『法然上人伝記』には、
真言教に云ふ阿弥陀は是れ己心の如来なり、外に尋ぬべからず、此の教の弥陀は法蔵比丘の成仏也。西方に居す。
とあり、「其の意、大に異なり」といって(12)、みずからの教えでないことを断言している。

 そして『観心略要集』の理観念仏に対する称名念仏については、『一枚起請文』に、
もろこし・わが朝に、もろもろの智者達の沙汰しまうさるる観念の念にもあらず。また、学文をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず。ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して、疑なく往生するぞと思ひとりて申すほかには別の子細候はず(13)。
とあり、『西方指南抄』「実秀の妻に答ふる書」にも、
念仏といふは、仏の法身を憶念するにもあらず、仏の相好を観念するにもあらず、たゞこゝろをひとつにして、もはら阿弥陀仏の名号を称念する、これを念仏とは申也(14)。
とある。また阿弥陀三諦説に対しては『和語灯録』「三経釈」に、
いまこの宗の心は、真言の阿字本不生の義も、天台の三諦一理の法も、三論の八不生道のむねも、法相の五重唯識の心も、惣じて森羅の万法ひろくこれを摂すとならふ。極楽世界にもれたる法門なきがゆえに、たゞしいま弥陀の願の心は、かくのごとくさとるにはあらず、たゞふかく信心をいたしてとなふるものをむかえんとなり(15)。
と本願を信ずる念仏を説かれている。

 もっとも法然には本覚的表現、本覚的用語も見られ(16)、前掲の安達俊英氏は「本覚思想的概念は否定しないものの、自身の教学の中核には取り込まないというのが基本的スタンスと見なせよう」といわれ、三輪隆就氏はそれをさらに検討して何のために用いたのかと考えると、自身の教義を明確にするための一手段になっているといわれている(17)。すなわち自身の教学の中核には取り込まないが、それを明確にするために本覚的表現や用語が用いられているというのである。また梯實圓氏は本覚法門と法然教学との類型的な相似性として①信心の強調と信疑決判、②易行性、③速疾成仏説、④煩悩悪業に障られない無碍性、⑤人為的なはからいを越えた法爾自然性の強調、⑥同体の慈悲による自他の功徳の融通性の強調の六点を数えられ、これらが見られるのは、「実は法然は意外に多くの事柄を本覚法門から学んでいたからだといえよう」といわれている(18)。しかし生仏不二、煩悩即菩提など、如来のさとりの領域をあらわすときには活用しても、凡夫の当相では語らないのが法然である。煩悩に苦しむ現実を肯定することなく、阿弥陀仏が本願において選択された念仏を凡夫のままで称え摂取不捨されて浄土に往生するという教説は、天台本覚思想を充分に学んだ上で樹立されたのであるから、相似する点があっても、上来述べたように思想構造的には明確に対峙するものであった(19)。


(1)『和語灯録』巻五「百四十五箇条問答」(『真宗聖教全書』四・六四六頁)
(2)安達俊英氏「法然浄土教と本覚思想」(『印度学仏教学研究』五二─二、二○○四年)
(3)弁長『徹選択本願念仏集』上(『浄土宗全書』七・九五頁))
(4)『観経疏』「散善義」(『浄土真宗聖典 七祖篇〈註釈版〉』四五七頁)、『往生礼讃』(『同』六五四頁)
(5)たとえば『選択集』三心章(『浄土真宗聖典 七祖篇〈註釈版〉』一二三四頁、一二四七頁)、『西方指南抄』巻下末「要義問答」(『真宗聖教全書』四・二四三頁)、『和語灯録』巻二「浄土宗略抄」(『同』四・六一三頁)、『和語灯録』巻一「往生大要鈔」(『同』四・五七八頁)、『西方指南抄』巻下末「念仏大意」(『同』四・二二六頁)など。
(6)『選択集』三選の文(『浄土真宗聖典 七祖篇〈註釈版〉』一二八五頁)
(7)『和語灯録』巻一「往生大要鈔」(『真宗聖教全書』四・五六七頁)
(8)『和語灯録』巻四「禅勝房にしめす御詞」(『真宗聖教全書』四・六三二頁)、『和語灯録』巻五「諸人伝説の詞」(『同』四・六八三頁)。後者は醍醐本『法然上人伝記』(『法然上人伝全集』七八四頁)にも同様の文がある。
(9)後者の文について松本史郎氏『法然親鸞思想論』(大蔵出版、二○○一年)五二頁に「天台本覚法門に典型的に認められる表現であり、論理である」といわれている。
(10)安達俊英氏「『選択集』における諸行往生的表現の理解」(『阿川文正教授古稀記念論集 法然浄土教の思想と伝歴』〈二○○一年〉、一一二頁)に「表現はともかくとして、その意図に関しては本覚思想的な要素は希薄であるといえよう」といわれている。
(11)『西方指南抄』巻上本、巻上末「法然聖人御説法事」(『真宗聖教全書』四・七二頁、一二一頁)
(12)醍醐本『法然上人伝記』(『法然上人伝全集』七七八頁)。『和語灯録』巻五「百四十五箇条問答」(『真宗聖教全書』四・六七○頁)にもある。
(13)『一枚起請文』(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』一四二九頁)。『和語灯録』巻五「諸人伝説の詞」(『真宗聖教全書』四・六七八頁)に同様の文がある。
(14)『西方指南抄』巻下本「実秀の妻に答ふる書」(『真宗聖教全書』四・一八一~一八二頁)
(15)『和語灯録』巻一「三経釈」(『真宗聖教全書』四・五五八頁)。『三部経大意』(『同』四・七九二頁)もほぼ同じ。
(16)安達俊英氏「法然浄土教と本覚思想」(『印度学仏教学研究』五二─二、二○○四年)。氏は先行するものとして松本史郎氏『道元思想論』(大蔵出版、二○○○年)一一二~一一八頁、前川健一氏「書評:袴谷憲昭著『法然と明恵─日本仏教思想史序説─』(一九九八年、大蔵出版社)」(『仏教文化』三八、一九九八年)を挙げられている。
(17)三輪隆就氏「法然浄土教と本覚思想」(『浄土学』四七、二○一○年)
(18)梯實圓氏『法然教学の研究』(永田文昌堂、一九八六年)四三五~四三七頁。
(19)河智義邦氏「親鸞教学の思想構造と本覚思想─法然教学との関連─」(浅井成海氏編『法然と親鸞─その教義の継承と展開─』〈永田文昌堂、二○○三年〉一○五頁)参照。
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法然聖人と天台本覚思想(2)

2018年11月16日 | 勉強日誌
 また「絶対的一元論」に対する相対的二元論として、たとえば『西方指南抄』「法然聖人御説法事」に、

かの極楽世界と、この娑婆世界とのあひだに、十万億の三千大千世界をへだてたり。
娑婆のほかに極楽あり、わが身のほかに阿弥陀仏ましますと説(とき)て、

とあり(1)、また醍醐本『法然上人伝記』には、

真言教に云ふ阿弥陀は是れ己心の如来なり、外に尋ぬべからず、此の教の弥陀は法蔵比丘の成仏也。西方に居す。其の意、大に異なり、彼は成仏の教也、此は往生の教也。更に同ずべからず(2)。

と説かれている。

 そして『観心略要集』の理観念仏に対する称名念仏については、『一枚起請文』に、

もろこし・わが朝に、もろもろの智者達の沙汰しまうさるる観念の念にもあらず。また、学文をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず。ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して、疑なく往生するぞと思ひとりて申すほかには別の子細候はず(3)。

とあり、『西方指南抄』「実秀の妻に答ふる書」にも、

念仏といふは、仏の法身を憶念するにもあらず、仏の相好を観念するにもあらず、たゞこゝろをひとつにして、も
はら阿弥陀仏の名号を称念する、これを念仏とは申也(4)。

とある。また阿弥陀三諦説に対しては『和語灯録』「三経釈」に、

いまこの宗の心は、真言の阿字本不生の義も、天台の三諦一理の法も、三論の八不生道のむねも、法相の五重唯識の心も、惣じて森羅の万法ひろくこれを摂すとならふ。極楽世界にもれたる法門なきがゆえに、たゞしいま弥陀の願の心は、かくのごとくさとるにはあらず、たゞふかく信心をいたしてとなふるものをむかえんとなり(5)。

といわれている。


(1)『西方指南抄』巻上本、巻上末「法然聖人御説法事」(『真宗聖教全書』四・七二頁、一二一頁)
(2)醍醐本『法然上人伝記』(『法然上人伝全集』七七八頁)。『和語灯録』巻五「百四十五箇条問答」(『真宗聖教全書』四・六七○頁)には「成仏の教」「往生の教」はないが、同様の文がある。
(3)『一枚起請文』(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』一四二九頁)。『和語灯録』巻五「諸人伝説の詞」(『真宗聖教全書』四・六七八頁)に同様の文がある。
(4)『西方指南抄』巻下本「実秀の妻に答ふる書」(『真宗聖教全書』四・一八一~一八二頁)
(5)『和語灯録』巻一「三経釈」(『真宗聖教全書』四・五五八頁)。『三部経大意』(『同』四・七九二頁)もほぼ同じ。
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法然聖人と天台本覚思想(1)

2018年11月15日 | 勉強日誌
   三、法然聖人と天台本覚思想

 法然の『真如観』批判とは次の法語である。

一。この真如観はし候べき事にて候か。
答。これは恵心のと申て候へども、わろき物にて候也。おほかた真如観をば、われら衆生は、えせぬ事にて候ぞ。往生のためにもおもはれぬことにて候へば、無益に候(1)。

安達俊英氏は、法然は少なくとも本覚思想を正面切って批判していない。これを除けば、明確な本覚思想批判は見られないといわれている(2)。ただそうはいっても、法然が反本覚思想の立場に立っていたことは明らかで、明快な分類ではないが、次のような法語類を指摘することができよう。

 「絶待肯定」「現実肯定」に対する現実否定として、弁長は法然の求道の出発点に、

予が如きは已に戒定慧三学の器に非ず(3)。

という悲歎があったと伝えている。また善導(六一三~六八一)の「決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず」「自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し」という信機は(4)、諸処に引用され、取意して述べられている(5)。

 また「あるがまま主義」に対する厭離穢土として、たとえば、

それすみやかに生死を離れんと欲はば、
浄土門は、まづこの娑婆世界をいとひすてゝ、

などがある(6)。ただ「念仏申す機は、むまれつきのまゝにて申す也」、とくに「善人は善人ながら念仏し、悪人は悪人ながら念仏して、たゞむまれつきのまゝにて念仏する人を」といった法語は(7)、「あるがまま主義」のようでもあるが(8)、後者はつづいて「念仏にすけさゝぬとは申す也」とあるから、助さすことのない「ひとりだち」の念仏のことを「むまれつき」「善人は善人ながら念仏し」等と表現していると見ていいであろう(9)。


(1)『和語灯録』巻五「百四十五箇条問答」(『真聖全』四・六四六頁)
(2)安達俊英氏「法然浄土教と本覚思想」(『印度学仏教学研究』五二─二、二○○四年)
(3)弁長『徹選択本願念仏集』上(『浄土宗全書』七・九五頁))
(4)『観経疏』「散善義」(『浄土真宗聖典 七祖篇〈註釈版〉』四五七頁)、『往生礼讃』(『同』六五四頁)
(5)たとえば『選択集』三心章(『浄土真宗聖典 七祖篇〈註釈版〉』一二三四頁、一二四七頁)、『和語灯録』巻一「往生大要鈔」(『真宗聖教全書』四・五七八頁)など。
(6)『選択集』三選の文(『浄土真宗聖典 七祖篇〈註釈版〉』一二八五頁)、『和語灯録』巻一「往生大要鈔」(『真宗聖教全書』四・五六七頁)など。
(7)『和語灯録』巻四「禅勝房にしめす御詞」(『真宗聖教全書』四・六三二頁)、『和語灯録』巻五「諸人伝説の詞」(『同』四・六八三頁)。後者は醍醐本『法然上人伝記』(『法然上人伝全集』七八四頁)にも同様の文がある。
(8)後者の文について松本史郎氏『法然親鸞思想論』(大蔵出版、二○○一年)五二頁に「天台本覚法門に典型的に認められる表現であり、論理である」といわれている。
(9)安達俊英氏「『選択集』における諸行往生的表現の理解」(『阿川文正教授古稀記念論集 法然浄土教の思想と伝歴』〈二○○一年〉、一一二頁)に「表現はともかくとして、その意図に関しては本覚思想的な要素は希薄であるといえよう」といわれている。
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天台本覚思想と浄土教

2018年11月14日 | 勉強日誌
 そして天台本覚思想は相対的二元論に立つ浄土教を止揚あるいは包みこむ形で吸収するにいたった(1)。そのなかで成立したのが『観心略要集』『妙行心要集』『自行念仏問答』などの典籍である。その特色は「唯心の弥陀、己心の浄土」を説くことにある。たとえば『観心略要集』に「我身即ち弥陀、弥陀即ち即ち我身なれば、娑婆即ち極楽、極楽即ち娑婆なり。譬へば因陀羅網の互に相ひ影現するが如し。故に遙に十万億の国土を過て、安養浄刹を求むべからず。一念の妄心を翻して、法性の理を思はば、己心に仏身を見、己心に浄土を見ん(2)」とあり、『真如観』にも「我則真如なれば、十方諸仏も、一切菩薩も、法界衆生も、皆我身中に法然として具足せり。真如の一理を離たる者なきが故也。されば我本極楽を欣ふ□□□并に彼土の弥陀如来・一切聖衆菩薩も、皆悉く我身中に坐ます故に、遠く極楽世界に行かず。(中略)此土に有ながら極楽に生れり(3)」等とある。また阿弥陀三諦説の理観念仏も特徴として挙げられよう(4)。たとえば『観心略要集』に「仏の名を念ずとは、其の意、云何。謂く、阿弥陀の三字に於て空仮中の三諦を観ずべきなり。彼の阿とは即ち空、弥とは即ち仮、陀とは即ち中なり(5)」とあるのがそれである。
 そのようななかでいま注意すべき文献として、『三十四箇事書』「一念成仏の事」を挙げねばならない。最初に述べた井上光貞氏、重松明久氏、平雅行氏との関連からである。また『観心略要集』は法然教団において用いられていたことが推定されている(6)。そして『真如観』は法然にその批判が見られる。


(1)田村芳朗氏「天台本覚思想概説」(『岩波日本思想大系9 天台本覚論』解説、五一八頁)参照。
(2)『観心略要集』(『恵心僧都全集』一・二八八頁)
(3)『真如観』(『岩波日本思想大系9 天台本覚論』一四二頁)
(4)末木文美士氏「『観心略要集』の研究」(西村冏紹・末木文美士氏『観心略要集の新研究』〈百華苑、一九九二年〉一九三~二○二頁)に詳しい考察がある。
(5)『観心略要集』(『恵心僧都全集』一・二七七頁)
(6)末木文美士氏「『観心略要集』の研究」(西村冏紹・末木文美士氏『観心略要集の新研究』〈百華苑、一九九二年〉一四九~一五○頁)
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天台本覚思想とは(2)

2018年11月13日 | 勉強日誌
 その天台本覚思想について花野充道氏は、「本覚」の語の初出は『大乗起信論』であるが、その『大乗起信論』が真如縁起論、如来蔵思想であるのに対して、「天台」の教学は龍樹(一五○~二五○頃)の空思想に立脚した諸法即実相論、円教理論であり、まったく思想構造を異にしている。それが安然(およそ八四一~九一五)あたりから両者がミックスされ、その系統のなかで成立しているのが伝源信(九四二~一○一七)の『真如観』である。そして本来の天台実相論に基づいて成立しているのが皇覚の『三十四箇事書』である。智顗(五三八~五九七)の四教判に配すれば、前者は別教立ちの本覚思想であり、後者は円教立ちの本覚思想である。それらを「天台本覚思想」と呼ぶといわれている(1)。
 その特色は、「絶待思想の絶待的実現」「具体的絶待論、絶待肯定の思想」(島地大等氏(2))、「絶対的一元論」(田村芳朗氏(3))、「現実肯定」(大久保良峻氏など(4))、「あるがまま主義」(末木文美士氏(5))といった言い方がされている。その例として、たとえば『三十四箇事書』に「正報は正報ながら三身なり、依報は依報ながら三身なり。これを改めて三身と云ふにはあらず。ただ、正報ながら、三身の徳を具し、依報ながら、三身の徳を具するなり(6)」とあり、『真如観』(別教立ちだが円教立ちもある例)にも「地獄も真如也。餓鬼も真如也。畜生も真如也。真如を実相の仏と名くれば、十界本(もと)より仏なりと云ふ事明らか也(7)」などが挙げられる。こうした天台本覚思想は、勝範(九九六~一○七七)あたりから、口伝の形でおこって伝えられたと推定され、「口伝法門」とも呼ばれる。また切紙相承という伝授方法も行われた。それらがやがて文献化、体系化されていったのである(8)。


(1)花野充道氏「本覚思想と本迹思想─本覚思想批判に応えて─」(『駒沢短期大学仏教論集』九、二○○三年)、同氏『天台本覚思想と日蓮教学』(山喜房佛書林、二○一○年)三○一~三一一頁参照。
(2)島地大等氏「日本仏教本覚思想の概説」(同氏『仏教大綱』〈明治書院、一九三一年)所収、一○頁)、同氏「日本古天台研究の必要を論ず」(同氏『教理と史論』〈明治書院、一九三一年〉所収、一三五頁)
(3)田村芳朗氏「天台本覚思想概説」(『岩波日本思想大系9 天台本覚論』解説、四七八頁など)。
(4)大久保良峻氏『天台教学と本覚思想』(法蔵館、一九九八年)五、七頁など。梯信暁氏『インド・中国・朝鮮・日本 浄土教思想史』(法蔵館、二○一二年)一一三頁。
(5)末木文美士氏『鎌倉仏教形成論─思想史の立場から─』(法蔵館、一九九八年)二八○、二八六、二八九頁など。同氏『草木成仏の思想』(サンガ、二○一五年)一二六頁。ただし氏は『日本仏教思想史論考』(大蔵出版、一九九三年)三四○~三四一頁、『鎌倉仏教形成論─思想史の立場から─』(法蔵館、一九九八年)二九○~二九二頁、『鎌倉仏教展開論』(トランスビュー、二○○八年)一○二~一○五頁に、『漢光類聚』では「あるがまま主義」の段階を超える観心の段階が示されていることを指摘されている。
(6)『三十四箇事書』(『岩波日本思想大系9 天台本覚論』一七三頁)
(7)『真如観』(『岩波日本思想大系9 天台本覚論』一二九頁)
(8)田村芳朗氏「天台本覚思想概説」(『岩波日本思想大系9 天台本覚論』解説、五二○~五二一頁)参照。
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天台本覚思想とは(1)

2018年11月12日 | 勉強日誌
二、天台本覚思想と浄土教

 天台本覚思想とは日本の中古天台(平安末期ころから江戸中葉まで(1))において高揚された思想で、島地大等氏が研究の必要性を強く提唱され(2)、その後、硲慈弘氏、田村芳朗氏などによって研究が進められた(3)。
 島地大等氏が「本覚思想」という呼称を用いられたのは一九一九年の講義であったが(11)、一九○六年の講演では「まだ適当な新しい語を見出しませんから」といって「始覚門」に対して「本覚門」と呼ばれた(5)。簡潔に要約すれば、「始覚門」とは「始めて覚る」であるから、多劫の修行を経て、始めて仏に成ることであり、「本覚門」とは「本より覚る」であるから、多劫の修行を経ずして、本来、仏であるということになろう。これが「本覚門」の定義である。ところが袴谷憲昭氏が『本覚思想批判』を著され、議論に混乱が生じた。詳述する余裕がないが、氏は「天台」の限定語を付さず、広く土着思想まで「本覚思想」と規定されるのである(6)。そして末木文美士氏は袴谷氏を批判するとともに、本覚思想A(日本中世で展開した教学)、本覚思想B(「本覚」の語をキーワードとして展開する思想)と呼ぶ提案をされた(7)。しかし従来の研究史を踏まえれば、中古天台において独自に醸成された思想をいうのが本筋である(8)。ゆえに「天台」の限定語をつけ、「天台本覚思想」と呼ばれるのである。


(1)日本天台における時代区分とその範囲については硲慈弘氏『日本仏教の開展とその基調(下)─中古日本天台の研究─』(三省堂出版、一九五三年)一~二頁参照。ただし「中古天台」については末木文美士氏『日本仏教思想史論考』(大蔵出版、一九九三年)二八七頁に「国文学などでは『中古』は平安時代を指すから、天台学内部ではともかく、日本の思想史の広い次元では適切とは言えない」という批判がある。
(2)島地大等氏の最後の論文「日本古天台研究の必要を論ず」(同氏『教理と史論』〈明治書院、一九三一年〉所収)という題によくあらわれている。
(3)末木文美士氏『日本仏教思想史論考』(大蔵出版、一九九三年)二八五~二八六頁に「研究史概観」として、第一期(明治末~昭和十年頃迄)に島地大等氏など、第二期(昭和十、二十年代)に硲慈弘氏など、第三期(昭和三十年以降)に田村芳朗氏などの名を挙げられている。そして道元徹心氏編『龍谷大学仏教学叢書③ 天台─比叡に響く仏の声─』(自照社出版、二○一二年)所収の同氏「天台本覚思想論」にも「本覚思想研究史」があり、その一一六頁に第四期として花野充道氏を挙げられている。
(4)島地大等氏「日本仏教本覚思想の概説」(同氏『仏教大綱』〈明治書院、一九三一年)所収)
(5)島地大等氏「本覚門の信仰」(同氏『思想と信仰』〈明治書院、一九二八年〉五三二~五三六頁)
(6)袴谷憲昭氏『本覚思想批判』(大蔵出版、一九八九年)七~九頁。
(7)末木文美士氏『鎌倉仏教展開論』(トランスビュー、二○○八年)七五~七六頁。
(8)大久保良峻氏『天台教学と本覚思想』(法蔵館、一九九八年)七頁参照。
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行空研究の問題点(3)

2018年11月11日 | 勉強日誌
 そして何より『西方指南抄』の記名に照らして行空を考えてみるということは主観的であって客観性をもたない。内藤知康氏は恩師と仰がれる村上速水氏の「昔から、『文に依って義を立て、義によって文を捌く』と言われてきたが、最近は文に依らずに義を立てる人が目立つようになってきた」という言葉を引用されたのち、「古来、立義(現代的表現をとれば立論)に際して、理証と文証とが必要であるといわれてきた。(中略)理証とは立論に際しての論理的な根拠、文証とは立論に際しての文献上の根拠ということになるであろう」「道理は常に一つに限定されるわけではなく、場合によっては立場の違いからいくつもの道理が立つこともありうる。ここに、文献上の根拠が提示されなくてはならない理由がある」といわれ、「文証を無視した立論にならないよう念じ」ると結ばれている(1)。また花野充道氏も「私自身の研究方法論を確立するに当たって、最も影響を受けたのは佐藤哲英先生の方法論でした。それは一言で言えば、学問の客観性ということです。客観性の欠如した単なる主観的な論文は、砂上に築く楼閣のようなものである。これが佐藤先生の学問信条でした」と紹介され、「私の学問信条は、研究態度は客観的に、しかも主体的に、ということです」といい、「われわれが学問する場合、まず資料や文献を正確に理解し、先学の学説を謙虚に学んだ上で、自分の主体的な学説を構築していくという態度を心がけることが大切です。学ぶだけで、主体性がなければ、先学の論文の丸写しになってしまいますし、反対に、思うだけで、客観性がなければ、独りよがりの信仰(信念)告白のような論文になってしまいます。私が、『研究態度は、客観的に、しかも主体的に』と言う意味は、そういうことなのです」と説明されている(2)。それらによっていまの『西方指南抄』の記名による方法論を見ると、村上氏の義に依って文を捌くになり、内藤氏の文証のない立論であり、佐藤氏の砂上の楼閣であり、花野氏の独りよがりの信仰(信念)告白になるであろう。前述したとおり行空はこのようにいわれてきたが、親鸞が「行空」と記している以上、そうではないであろうという論法であるからである。それでは単なる推測に過ぎないといわれるに違いない。しかしながら客観的な文証を示そうにも資料が少なすぎて示せないのである。またそのわずかな資料もどこまで正確なことを伝えているのかわからない。あるいは何を意味しているのかわからないものもある。そこに行空研究の壁がある。それを乗り越えようとすれば、別の手段を用いるしかないであろう。そこで『西方指南抄』の記名によって考えてみようとするのである。たとえ主観的などと批判されても前に進もうと思う。先の花野氏の文章のなかに、

識者の批判を覚悟の上で、その時点で、自分があたう限りの資料や文献を駆使して、勇気を出して自分の主体的な「思い」を客観化(論文化)してこそ学者の価値があります。

という一文があるからである。ただその主体的な「思い」(考えること)は、『西方指南抄』の記名を鍵としているとはいえ、理証・文証をそろえた立論でないから、あくまで試論で過ぎない。それでも「あたう限りの資料や文献を駆使」し、「客観化(論文化)」しよう。それによって行空が再考される踏み台になり、名誉回復につながればと願うのである。


(1)内藤知康氏『龍谷教学』四八(二○一三年)巻頭言。
(2)花野充道氏「本覚思想と本迹思想─本覚思想批判に応えて─」(『駒沢短期大学仏教論集』九、二○○三年)
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行空研究の問題点(2)

2018年11月10日 | 勉強日誌
 しかし親鸞が破門されたというのは論外であるし、一念義でなかったことも『一念多念文意』の著作があることから明白である。また幸西の影響を受けていることは否めないが(1)、法然の直弟子であったことはいうまでもない。そうしたなかで注目したいのは、法霖(一六九三~一七四一)の『弁翼賛遺事』である。それは題が示すように義山の『翼賛遺事』に対するもので、親鸞を幸西の弟子と見なすことに反論している。そのなかに「念仏名義追録は、『成覚弟子善心』と言ふ。翼賛遺事は、唯だ『相い伴つて』と言ひ弟子と言はず。『相共捨戒受擯(相い共に捨戒し擯を受く)』は、彼の流の贋徒の妄作なること、知るべし。末学、念仏名義追録の妄説を以て吾祖を斥けんと欲す」といい、「其の何と我執の甚だしき也」といっている(2)。すなわち江戸時代の鎮西派の学匠がいうことは、親鸞を斥けようとする宗我によるものと見抜いているのである。望月信亨氏や藤堂恭俊氏の場合も一見すると客観的な推察のようであるが、無意識のうちに従来の宗我がはたらいていると思われる。しかしいまや私たちはそうした宗我を離れねばならないであろう。浅井成海氏がいわれるように、弁長も親鸞も「各々において独自の教義体系をなしている(3)」のであるから、宗我に根ざした見方をつつしみ、客観的に見ていく必要がある。そのとき親鸞が親鸞としてあらわれ、『西方指南抄』の記名から改めて行空を考えなおさねばならないであろう。それでもなお鎮西派の教義体系から見て親鸞は行空や幸西と同類もしくは相似するというなら、無理に再考を求めない。ただし少なくとも真宗に流れを汲むものは再考を要しよう。よっていまの方法論は普遍的なものでなく、真宗のものに限られることになる。


(1)たとえば梯實圓氏『玄義分抄講述─幸西大徳の浄土教─』(永田文昌堂、一九九四年)一五五~一五六頁、二二八~二二九頁。同氏『顕浄土方便化身土文類講讃』(永田文昌堂、二○○七年)一○○頁、三五三~三五四頁など参照。
(2)法霖『弁翼賛遺事』(『真宗全書』六二・三三四頁)
(3)浅井成海氏『法然とその門弟の教義研究─法然の基本教義の継承と展開─』(永田文昌堂、二○○四年)一○頁。
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行空研究の問題点(1)

2018年11月09日 | 勉強日誌
   四、問題点

 しかし方法論として、そういう論法を用いることは問題がある。まず第一節で行空は江戸時代の鎮西派から「背師自立の人」「邪義」「邪流」「無道の者」といわれてきたといったが、実はそのなかに幸西とともに親鸞も入っているのである。弁長が名指しして批判したのは行空であり、『四十八巻伝』では行空、幸西、長西を門弟の列にのせないといっていて、親鸞には触れられていない。(1)ところが時代が下がり、蓮如(一四一五~一四九五)の出現によって、それまでほとんど無名であった親鸞を開祖と仰ぐ真宗教団が瞬く間に勢力を拡大し、江戸時代になると幕府の僧侶に学問を奨励する政策もあって、親鸞の存在を無視できなくなったのであろう。鎮西派教団と真宗教団の対立である。そこで他にも、鎮西派の正統性を主張する意図が窺える『九巻伝』に「爰上人配国の後、成覚房の弟子善心坊といへる僧、越後国にして専此一念義を立けるを(2)」等という記述とほぼ同様の文が寛文八年(一六六八)に開本したという弁長の『念仏名義集』の最後に追録されているが、「善心房」に「親鸞のこと也」という頭註がある(3)。また義山(一六四七~一七一七)の『御伝翼賛遺事』には「従来(もとより)覚盛法師(=幸西)は源空上人に帰依し彼の会下に属す。然るに上人配国の後、覚盛法師は綽空〔後に親鸞と号す〕と相伴て越後の国に下向す。(中略)覚盛・綽空、相い共に捨戒し師の教誡を廃す。是に因て永く門弟を放たれ畢ぬ(4)」といっている。親鸞破門のことは義山・素中(生没年不詳)の『和語灯録日講私記』にもある(5)。さらに近代に至っても望月信亨氏は「真宗では親鸞聖人は元祖上人の弟子で、而kもそれが高弟であつたと云ふてゐるけれども、其主義の点から見ると、元祖上人よりは、幸西の方に能く似てゐるから、先づ一念義の別派と見做した方が適当だろう」「親鸞聖人の所立竝に品行が非常に能く此の幸西に類してゐるが、ドウモ親鸞は、元祖上人よりも、幸西から受けた影響の方が大であつた様に思はれる」といわれている(6)。また藤堂恭俊氏は『法然聖人絵(弘願本)』に収録された「七箇条制誡」連署名の最後の行が「善信 行空 成覚房(7)」と一行に記されていることについて、「善信以下の三名を別行に書した所以は、彼等三名を一念義の系統─少なくとも聖光房・勢観房・良忠の系統に属さないものとみなし、彼等と一線を画さんがためであると思われる(8)」といわれている。つまり、親鸞を行空・幸西とともに一念義とし、さらに幸西の弟子と見ているのである。それゆえ鎮西派では行空・幸西・親鸞の三人を一括りにして背師自立の邪義などというのである。そうすると『西方指南抄』にいくら親鸞が「行空」と記名してあるからといっても、妙瑞がいう「同穴野狐(9)」であって、説得力を持たない。逆に同類であるから記したということになるであろう。


(1)ちなみに高田文英氏「弁長・良忠上人の異義批判と親鸞聖人」(『龍谷教学』五○、二○一五年)に断定的なことはいえないが、弁長の資・良忠(一一九九~一二八六)の異義批判のなかに親鸞を対象とする可能性のあるものがあると指摘されている。
(2)『法然上人伝記(九巻伝)』巻第六下(『法然上人伝全集』四三○頁)
(3)弁長『念仏名義集』巻下(『浄土宗全書』一○・三八四頁)
(4)義山『御伝翼賛遺事』(『浄土宗全書』一六・九六七頁)
(5)義山・素中『和語灯録日講私記』第一巻(『浄土宗全書』九・六七一頁)
(6)望月信亨氏「元祖上人門下の異義」(同氏『浄土教之研究』所収、仏書研究会、一九一四年、八○五~八○六、八二七頁)
(7)『法然聖人絵(弘願本)』(『法然上人伝全集』五三五頁)。その写真版は井川定慶氏『法然上人絵伝の研究』(法然上人伝全集刊行会、一九六一年)八○頁、香月乗光氏「各種法然上人伝所載の『七箇条起請文』について」(『法然上人伝の成立史的研究 第三巻(研究編)』〈臨川書店、一九九一年復刻〉一九八頁)にある。
(8)藤堂恭俊氏「『法然聖人絵』の研究」(『印度学仏教学研究』一一─一、一九六三年)
(9)妙瑞『徹選択集私志記』巻上(『浄土宗全書』八・一一五頁)、同『鎮西名目問答奮迅鈔』巻第一、巻第四(『同』一○・四三三、五三五頁)
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再説・「七箇条制誡」連署名(3)

2018年11月08日 | 勉強日誌
それにひきかえ、親鸞はみずからの名のあと「行空」と記し、「已上」と結んでいる。安楽よりも行空を記さねばならなかったのである。そこに「行空」というわずか二字ではあるが、重大な意味があるであろう。梯實圓氏は「親鸞にとって彼は忘れることのできない重要な意味をもち、法然門下の一人として確認し、記録しておかねばならない人物であったからではなかろうか(1)」といわれている。さらにいえば親鸞は行空を高く評価していたといえるであろう。仮りに転写説をとっても同じである。最初にそれを提唱した赤松俊秀氏は、原本の第八十七番目にある「僧綽空」が『西方指南抄』では「善信」と改められていることについて、「転写の際でも可能なことである」といわれている(2)。その「善信」と改めた筆が次に「行空」と記しているのである。先行する底本に「行空」があったからといっても、行空が従来いわれるような造悪の邪義者であったなら、親鸞は記すことはなかったであろう。また真仏も異議を唱えていたであろう。「行空 已上」と記されているということは、そうでなかった証拠といえるのではなかろうか。この点に着目するとき、新たな行空像が浮かび上がってくる。私はそれを便宜上、「『西方指南抄』の記名」と呼び、史料の乏しい行空を解明する鍵としたい。いままでこのようにいわれてきたが、親鸞が「行空」と記している以上、そうではないであろうという論法である。いいかえれば親鸞に聞いてみるということになる。


(1)梯實圓氏『玄義分抄講述─幸西大徳の浄土教─』(永田文昌堂、一九九四年)二二頁。
(2)赤松俊秀氏「西方指南抄について」(『塚本博士頌寿記念 仏教史学論集』、一九六一年、のち同氏『続鎌倉仏教の研究』〈平楽寺書店、一九六八年〉二六三頁)
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再説・「七箇条制誡」連署名(2)

2018年11月07日 | 勉強日誌
その西意が承元(建永)の法難によって死罪となった。生涯「主上臣下、法に背き義に違し、忿りを成し怨みを結ぶ(1)」と抗議しつづけた親鸞にとって、許しがたいことであったに違いない。『歎異抄』流罪記録によれば、「死罪に行はるる人々」の第一番目に「西意善綽房」を挙げている(2)。その記録が親鸞より直接聞いたものであったとすれば(3)、そこに親鸞の西意に対する思い入れが読み取れる。それによって連署名は「西意」と記したから、終わりにしようと考えたと思うのである。そして「仏心、源蓮」と連ね、「蓮生(レンセイ)」を原本の順を繰り上げて記した。彼は熊谷次郎直実(一一四一~一二○八)のことで、史実かどうか疑わしいが、『御伝鈔』の「信行両座」の段に登場し、親鸞と同信であったことが描かれている(4)。先ほどの松野氏がいわれるように親交があり吉水時代の友であったから、省略することができなかったのであろう。ただ親鸞より年長であるので自分の前に記したものと思われる。そして改行し、「西意」と「善信」を並べた。その次が「行空」である。おそらく行空もまた年長であったと思われるのに、自分の後に置くのは不遜のようであるが、いちおう法然より破門を受けたからであろう(5)。その問題については別の機会に譲るが、翌年の法難には法然門下として佐渡へ流罪となっているから、名目上の破門であったと考えられる。それで「いちおう」といったのである。そして「已上」と締めくくり、行を変えて「已上二百余人連署了」と結んでいる。そのあたりの真蹟本の様子を写真版で示そう。(写真は略す)真仏本も同じであるが、「已上二百余人連署了」のあと、充分な余白がある。先の松野純孝氏は、西意と同じく法難で死罪となり、原本の第三十番目に署名している安楽房遵西(?~一二○七)の名がないことについて、「第十九番目の源蓮まで忠実に原本どおりに書写し、この辺で打ち切」ったので、第三十番目の安楽の名がなく、第四十番目の行空まで忠実に書写していれば、当然安楽の名があったといわれている(6)。ところが古田武彦氏は法難において「親鸞の心に、もっとも深い怒りを刻みつけたのは、同志、住蓮・安楽の死刑だ」とし、『親鸞の生涯をひと言でいえば、「生き残り、生き抜いた住蓮・安楽」としての一生だった」「わたしたちは『教行信証』を、何よりも「生きている住蓮・安楽の書」と見る視点を、『教行信証』理解の根本にすえねばならぬ」「承元の大弾圧の不条理なることを、〈生ける安楽〉として問いつづける」等と情熱的に語られている(7)。その住蓮は原本の第十六番目に記されているから『西方指南抄』にもあるが、安楽はどうなのであろう。「生ける安楽」というならば、親鸞はなぜ充分な余白がありながら、安楽の名を記さなかったのであろうか。また真仏もなぜ安楽の名がないことを指摘しなかったのであろうか。松野氏は「行空のことが思い出されて」行空の名を記したといわれていたが、親鸞は安楽をまったく忘れている。どうして「生ける安楽」といえようか。もっとも古田氏は別の論点から『西方指南抄』の連署名に触れられているが、安楽の名がないことには言及されていない。またそれは『親鸞聖人全集輯録篇1』の活字本によったもので、写真版は見られていないようである(8)。もし写真版を見たら、何と答えられるであろうか。なおも「生ける安楽」といわれるであろうか。古田氏の説には大いに疑問が残る。


(1)『教行証文類』後序(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』四七一頁)
(2)『歎異抄』流罪記録(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』八五五頁)。ほかに『拾遺古徳伝』巻七第一段(『真宗聖教全書』三・七三七~七三八頁)、『知恩伝』下(『法然上人伝全集』七六六頁)も同じである。
(3)梯實圓氏『親鸞聖人の生涯』(法蔵館、二○一六年)一○七頁参照。
(4)『御伝鈔』上・第六段(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』一○四九頁)。なお熊谷直実については先学に諸論文があるが、まとまった著作としては梶村昇氏『熊谷直実〈法然上人をめぐる関東武者1〉』(東方出版、一九九一年)がある。
(5)『三長記』元久三年二月三十日条(『増補史料大成』三一・一八三頁)によって傍証される。
(6)松野純孝氏『親鸞─その生涯と思想の展開過程』(三省堂、一九五九年)九九頁。
(7)古田武彦氏『人と思想⑧ 親鸞』(清水書院、一九七○年)表紙カバー、一二五頁。同氏『親鸞思想─その史料批判─』(富山房、一九七五年)二○一頁。
(8)古田武彦氏『親鸞思想─その史料批判─』(富山房、一九七五年)五五六頁。
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