天上の月影

勅命のほかに領解なし

『天台四教儀』を読む(24)

2018年08月31日 | 勉強日誌
 長者窮子の喩え「誘引」

 【本文】
信解品に云く。而も方便を以て密かに二人〈声聞・縁覚〉の形色憔悴して威徳無き者を遣はす。汝彼(かし)こに詣で徐(おもむ)ろに窮子に語るべし。汝を雇ふことは糞(あくた)を除(はら)はしめんとなりと。此れは何(いか)なる義をか領せる。答ふ、頓の後に次いで、三蔵教を説き、二十年の中、常に糞を除はしむ。即ち見思の煩悩を破する等の義なり。

 【講述】
 『法華経』信解品の譬喩によって、鹿苑時が第二の誘引の説法にあたることを示します。まず「信解品に云く」といって出典をいいます。そして「而も方便を以て」という「方便」は仏が衆生を導くために、すぐれた智慧に基づいて教化する方法、あるいは巧みな手段です。「権」とも表現され、実(真実)と対になる概念です。『法華文句』十四には三種方便を挙げて解釈されています。第一釈は法用方便で「方は法なり、便は用なり」とあって、衆生に適応する方法を用いて、これを教化誘導することです。第二釈は能通方便で「方便は権なり」と解釈して謀をもって教え導くことです。第三釈は秘妙方便で、方法手段そのものが究極の目的と一致することですから、方便即真実といえます。
 ともあれ、信解品の概要は前に述べましたが、いまは「誘引」を述べます。長者は巧みな方便を設けました。「密かに」は長者の使いであることを秘めて窮子に気づかれないようにする意味です。「二人〈声聞・縁覚〉」は二乗の者です。実は『法華経』では声聞・縁覚・菩薩の三乗は特に重要視され、これら三乗の区別は方便であり、そのような区別のない全ての人が仏となる一乗こそが真実であると説くのですが、とくに二乗の人はそのことがわかりません。そこで二乗の者も成仏することを今は隠して三界の苦を離れて無余涅槃に入ることを諭していくので、まず「密かに」といったのです。「形色憔悴して威徳無き者を遣はす」の「形色憔悴して」は容姿が痩せ衰えることです。小乗ではこの世が無常であり、苦の世界であり、不浄であるから、世を厭うことのみを教えるのに譬えています。「威徳無き者」は威勢のないみすぼらしい格好です。小乗の人は仏の十力・四無畏などの具えられないことをいいます。長者はそうした二乗の人である二人を遣わそうとしたのです。そして「汝彼(かし)こに詣で徐(おもむ)ろに窮子に語るべし」といいました。「汝」は二人です。「彼(かし)こに詣で」は窮子の住居とする貧しい里へ出かけることです。「徐(おもむ)ろに窮子に語るべし」はゆっくりと窮子に語りかけなさいということです。どのように語るのかといえば、「汝を雇ふことは糞(あくた)を除(はら)はしめんとなりと」です。ここの「汝」は窮子です。「糞(あくた)を除(はら)はしめん」は便所掃除のことですから、窮子を便所掃除人として雇いたいということです。「糞(あくた)」は苦・集の二諦に譬えています。その苦・集の二諦を取り除いて、道・滅の二諦の利益を得ることが小乗の教えですから、小乗の教えを用いて小乗の機根に擬してあてがうことを意味しています。
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『天台四教儀』を読む(23)

2018年08月30日 | 勉強日誌
 第二時

 【本文】
若し時に約すれば則ち日(ひ)幽谷を照すなり。〈第二時〉

 【講述】
 これは『華厳経』の三照喩によって鹿苑時が第二時であることを示します。「若し時に約すれば」というのがそれです。「日(ひ)幽谷を照すなり」という「日(ひ)」は太陽です。太陽が昇って「幽谷」を照らすのです。「幽谷」とは華厳の説法の後に最も機根の劣った小機に阿含の法を説くことを譬えたものです。「〈第二時〉」は第二時にあたるということです。

 第二酪味

 【本文】
若し味に約すれば則ち乳従り酪を出すなり。此れは十二部経従り九部の修多羅を出すなり。〈二に酪味〉

 【講述】
 第二時である鹿苑時を『涅槃経』の五味の譬えに配当すると酪味になることを示します。「若し味に約すれば則ち乳従り酪を出すなり」というのがそれです。酪味とは『華厳経』の説法で少しも利益を得ることのなかった声聞たち、小乗の機根に対して、仏が『阿含経』を説かれたことを意味します。華厳を乳味というのに対して鹿苑時を酪味といったのです。「此れは十二部経従り九部の修多羅を出すなり」という「十二部経」は前に述べたように大乗の経であり、「九部」は小乗の経です。「修多羅」は契経、また経といいます。契経といったときは理に契い、声聞・縁覚・菩薩の機にも契う経という意味になります。経といったときは織物の縦糸のことで、仏の真理が一貫して常住不変であることを意味します。いずれにしても九部経です。仏は大乗の経である十二部経より小乗の経である九部経を出すといって、鹿苑時の所説をあらわしているのです。「〈二に酪味〉」は第二味の酪味にあたるということです。
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晃照寺旧跡説(6)

2018年08月29日 | 勉強日誌
 では晃照寺旧跡説はどうして生まれたのであろうか。御住職によれば、「法本房旧跡」の語が文献にあらわれる初見は明治二十八年(一八九五)出版の斉藤長三氏編輯『佐渡三郡町村統計明鑑』ということである。それは前年の明治二十七年(一八九四)の調査による佐渡三郡の町村即ち雑太郡二十ヶ町村、加茂郡二十ヶ町村一組合、羽茂郡十四ヶ町村の戸数、人口や神社、仏閣、雑件などについての統計を収録したものである(22)。いま「河崎村」の項の必要部分を示せば次のようである(23)。

◎仏閣 (同上)
一 真言宗二ヶ寺 ●福蔵院●宝珠院
一 真 宗一ヶ寺 ●西方寺
一 曹洞宗一ヶ寺 ●晃照寺

◎雑件 (同上)
○名勝旧跡 ◎法本房旧跡

このなか「同上」とあるのは明治二十七年調べであることを示す。そして「仏閣」の中に晃照寺があり、「雑件」の中に法本房旧跡があって、両者は関係をもっていない。推測でしかないが、その出版の五年後に金沢済美館の「旧境内図」が製作されているから、「雑件」の法本房旧跡を「仏閣」の最後にある晃照寺に当て、「法本房旧跡」という囲み文字を入れたのではなかろうか。そして晃照寺旧跡説が生まれたものと思われる。
 ただ『統計明鑑』は凡例に「名勝旧跡等に至りても之れが解を下さず(24)」といっているから、調査したままの記述であるが、「雑件」にある法本房旧跡の根拠がわからない。それでも明治二十七年の調査で何らかの情報を得たのであろう。御住職は安政三年(一八五六)まで埼玉県秩父郡横瀬町の小持山にいた足跡のある西賢〔明治八年(一八七五)八月二十八日寂〕と、賢海〔明治二十二年(一八八九)十二月八日寂〕という二人の浄土宗僧侶が来島して河崎に住んでいたことを突き止められた。『統計明鑑』と時期的に近いから、彼らが佐渡は行空の配所であると語って河崎に広まり、「雑件」の中に法本房旧跡と記されたのかもしれない。ただしそれも推測である。
 こうして晃照寺旧跡説は、明治三十三年の金沢済美館による「旧境内図」まで登場せず、大正十一年(一九二二)の『佐渡国誌』には晃照寺について旧跡に触れていない(25)。後に「旧境内図」を見た橘正隆氏が「石の記念塔」と早合点しただけで、認められるものではない。


(22)『佐渡叢書』九・「解題」一○頁。
(23)『佐渡叢書』九には頁数がない。刊本では二五丁右、国立国会図書館デジタルコレクションではコマ番号三二である。
(24)斉藤長三氏編輯『佐渡三郡町村統計明鑑』首一丁、国立国会図書館デジタルコレクションではコマ番号三。
(25)『佐渡国誌』(新潟県佐渡郡役所、一九二二年)四八五頁。
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晃照寺旧跡説(5)

2018年08月28日 | 勉強日誌
 ところで田中圭一氏は晃照寺のある河崎の原黒村に藤井の姓が多いことに注意されている(17)。それは法難のときに還俗させられた法然が藤井元彦、親鸞(一一七三~一二六三)が藤井善信(よしざね)という名が与えられたところから、法然以下すべて藤井姓であったと考えられているようであるが、還俗名が知られるのは法然と親鸞のみで(18)、行空ら他の人は史料がないのでわからない。ただ『血脈文集』や『拾遺古徳伝』には幸西(一一六三~一二四七)に「俗姓物部(19)」とある。それは出自なのか還俗名なのか明らかでないが、もし還俗名であれば藤井姓でないことになるし、出自としても還俗のとき本姓の物部氏に戻された可能性がある。とすれば、原黒村に藤井姓が多いからといって、河崎と行空との結びつきを証するものとはいえない。ちなみに橘正隆氏も「苗字分布一覧表」を作り、原黒村に藤井姓が多いことを示されているが、とくに行空との関連を述べることなく、「佐渡では昔神職の者にこの苗字が多かった」とのみいわれている(20)。
 また田中圭一氏は、江戸時代に浄土宗鎮西派の行者たちが全国から佐渡を訪れて河崎の地に足を運んでいることから、河崎が「佐渡浄土宗のメッカであったらしい」と述べ、その理由を「法本房行空の古跡であるということが、語り伝えにいわれていたからではなかろうか」といわれている(21)。しかし既に述べたように鎮西派は行空を法然門下と認めないうえ、背師自立の邪義を唱えた人と見る。その古跡があったとしても、鎮西派の行者が河崎を目指すことはあるまい。「佐渡浄土宗のメッカ」たる理由は他に求めるべきであろう。


(17)磯部欣一・田中圭一氏『佐渡流人史』(雄山閣、一九七五年)二四~二五頁、山本仁・本間寅雄氏編『定本佐渡流人史』(郷土出版社、一九九六年)一一四頁の田中圭一氏「法本房行空」の稿。他に花田玄道氏『鎮西教学成立の歴史的背景』(大本山善導寺、一九九六年)八三頁。また『定本佐渡流人史』一一九頁のコラム「流人と苗字」に本間雅彦氏も触れられている。
(18)『歎異抄』(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』八五五頁、『血脈文集』(『真宗聖教全書』二・七二一頁、『拾遺古徳伝』(『同』三・七三七頁)。なお法然の還俗名を「源元彦」とする伝記もあるが、還俗にあたって「源」の貴姓を与えられることはない。平雅行氏『歴史のなかに見る親鸞』(法蔵館、二○一一年)九六頁、同氏『法然〈貧しく劣った人びとと共に生きた僧〉』(山川出版社、二○一八年)七五頁参照。
(19)『血脈文集』(『真宗聖教全書』二・七二二頁)、『拾遺古徳伝』(『同』三・七三七頁)
(20)橘正隆氏『河崎村史料編年志』附録(両津市河崎公民館、一九五九年)八二、一○九頁。
(21)磯部欣一・田中圭一氏『佐渡流人史』(雄山閣、一九七五年)二七頁の田中圭一氏「法本房行空」の稿。山本仁・本間寅雄氏編『定本佐渡流人史』(郷土出版社、一九九六年)一一六頁や同氏「佐渡近世念仏教団覚書─お上人の系譜─」(地方史研究協議会編『佐渡─島社会の形成と文化』〈雄山閣、一九七七年〉一八○頁)にも触れるところがある。
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晃照寺旧跡説(4)

2018年08月27日 | 勉強日誌
 また『佐渡国寺社境内案内帳』や『子山佐渡志』にも晃照寺を取り上げているが、行空の旧跡であったという記述は見られない(8)。さらに『撮要佐渡年代記』では治承元年(一一七七)いわゆる鹿ヶ谷の謀議が露見して蓮浄(源成雅、生没年不詳)が佐渡へ流罪になったという次に、承久三年(一二二一)いわゆる承久の乱による順徳上皇の配流を記している(9)。その間にあるべき行空は忘れられているのである。それは伝える人がいなかったからであろう。『子山佐渡志』で見ると、佐渡に浄土宗寺院は三十七ヶ寺あり、大寺に「知恩院末」と記されているから(10)、その末寺も含め鎮西派である。鎮西派は行空の立てた一念義を蛇蝎視し、行空が法然から擯出されたこともあって(11)、背師自立の邪義を唱えた人と見る。『四十八巻伝』には「門弟の列にのせざるところなり(12)」とまでいっている。また行空の佐渡配流を記すのは『歎異抄』『血脈文集』『拾遺古徳伝』の真宗系文献と西山派・静見(一三一四~一三八三)の『法水分流記』、および『拾遺古徳伝』の影響を受けた『知恩伝』のみである(13)。『四十八巻伝』などは法然の土佐配流だけを述べている(14)。ただし『四十八巻伝』を註釈した円智(?~一七○三)・義山(一六四七~一七一七)の『行状絵図翼賛』には記されているので(15)一概にはいえないが、島内の住職たちが佐渡を行空の配所と知っていたかどうか、いささか疑問である。仮りに知っていたとしても、法然への不孝者であり、浄土宗の人ではないとして行空のことを声高に語ることなく、無視していたと思われる。それゆえ行空は忘れられ、江戸時代の文献に見えないのであろう。そこで橘氏が掲げられた銅版画は「旧境内図」であっても「古境内図」ではなく、御住職が歴史的根拠がないといわれるのは充分に首肯できることである(16)。


(8)『佐渡国寺社境内案内帳』(『佐渡叢書』五・一八九頁)、『子山佐渡志』(『同』五・七六頁)
(9)『撮要佐渡年代記』(『佐渡叢書』四・一七~一八頁)
(10)『子山佐渡志』(『佐渡叢書』五・六七~六九頁)
(11)『三長記』元久三年二月三十日条(『増補史料大成』三一・一八三頁)によって傍証される。
(12)『法然上人行状絵図(四十八巻伝)』第四十八巻(『法然上人伝全集』二二五頁)
(13)『歎異抄』(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』八五五頁、『血脈文集』(『真宗聖教全書』二・七二一頁、『拾遺古徳伝絵詞』(『同』三・七三七頁)、『法水分流記』(『真宗史料集成』七・八二六頁)、『知恩伝』(『法然上人伝全集』七六六頁)。なお『知恩伝』が『拾遺古徳伝』の影響を受けていることは田村圓澄氏『法然上人伝の研究』(法蔵館、一九七二年)五三頁参照。
(14)『法然上人行状絵図(四十八巻伝)』第三十三巻(『法然上人伝全集』二二五頁)、『法然上人伝記(九巻伝)』巻第六上(『同』四二二頁)など。
(15)『円光大師行状絵図翼賛』巻三十三(『浄土宗全書』一六・五一七頁)
(16)ちなみに花田玄道氏『鎮西教学成立の歴史的背景』(大本山善導寺、一九九六年)八二頁によれば、平成二年(一九九○)七月に調査のため訪ねられたようで、境内のの立看板に、「曹洞宗龍寿山晃照寺由来」「現在地に承元元年(一二○七)二月、法然の弟子、法本房行空が佐渡に流されて住んでいたと伝えられており、明治四十年まで『法本房旧跡』の記念塔が建っていたが明治三十九年の堂宇の火災前後に取り払われたのであろうか、現存しない」と書かれていたと報告されている。しかし御住職によれば、それは先代御住職のときのもので、現在は新しく改められているということである。
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晃照寺旧跡説(3)

2018年08月26日 | 勉強日誌
 確かに『佐州巡村記』を繰ってみると、たとえば「赤泊村」の項に「〔真言宗〕善長寺」とあるあとに、「一、善長寺毘沙門堂大納言為兼卿左遷之時住居の旧跡也」とあり、「後山村」の項にも「〔法花宗〕本光寺」につづいて「日蓮上人旧跡の石あり」とあり、「戸中村」の項には寺院ではないが、「一、かの浦と云あり往古丹後国山庄太夫と佐渡の太郎と云者人を買取此所に置栗の鳥追せし旧跡之由申伝細き溝一筋あり毒水流る由也」とあって、「旧跡」の語が見える。また「真浦村」の項には「一、日蓮之石塔あり」とあり、「竹田村」の項には「人王九拾九代後醍醐天皇御宇正中二年七月日野中納言資朝卿此国〔江〕配流(中略)彼卿書写の一紙一部法花経阿仏坊妙宣寺にあり亦墓所は同寺に石塔あり」とあって、「石塔」の語が見える。また「真野村」には「順徳院御廟 〔別当〕真輪寺」とあって、順徳上皇(一一九七~一二四二)の「御廟」であることを述べている。またそうした語はなくとも、「松ヶ崎村」の項には「〔法華宗〕本行寺」につづいて「此寺に日蓮御槻と云あり」とあり、「市野沢村」の項にも「〔法華宗〕実相寺」につづいて「日蓮袈裟掛の松あり」とあって、旧跡であることを示していよう(7)。それらに照らして「川崎村」の「〔禅宗〕晃照寺」とだけあるのを見れば、「石塔」の類はなく、「旧跡」の伝えはなかったということができるようである。


(7)『佐州巡村記』(『佐渡叢書』一○・七一、一二三、一八、七二、一一五、一一一、六四、一六四頁)
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晃照寺旧跡説(2)

2018年08月25日 | 勉強日誌
 御住職はまず橘正隆氏が用いられる「晃照寺古境内図」という言葉を問題にされる。先の写真では読みづらいが、これは明治三十三年(一九○○)十二月に金沢済美館が製版した銅版画で、「新潟県佐渡国佐渡郡河崎村 曹洞宗龍寿山晃照寺之景」と題されている。明治三十年前後、各地の名所旧跡を紹介するために盛んに制作されたものの一つと考えられる。しかし橘氏はそれを明らかにせず、「古境内図」という言葉を使うことによって、何もわからない読者には江戸時代以前に作られた古い絵図のように誤解させると批判され、「旧境内図」と呼ばれる。
 そして御住職が最も力を入れられるのは、橘氏がいわれる「石の記念塔が建っている」ということである。「旧境内図」を見ると、山門、鐘楼、玄関、本堂、庫裏、真更川などが描かれ、その上に、それが何であるかを示す文字を四角で囲っている。つまり四角で囲まれた文字は事物の名称をあらわしているのである。ところが「法本房旧跡」という囲み文字の下には何の事物も描かれていない。かろうじて樹の幹があるようにも見えるが、少なくとも「石の記念塔」ではない。おそらく橘氏はその「法本房旧跡」の囲み文字を「石の記念塔」と見なしたのであろう。それは早合点といわざるをえない。
 ただ「石の記念塔」はないにせよ、「旧境内図」には「法本房旧跡」の囲み文字があって、晃照寺境内が行空の結庵の跡であることを示している。しかしそれがまた問題である。御住職は一七五七年九月の『龍壽山晃照禅刹寺像因由記』によって、晃照寺境内が行空の旧跡であったという寺伝はないといわれる。そのうえ「旧境内図」を見ても、右上、左下の余白に晃照寺の由来が書かれているが、そこにもまったく行空に触れるところはない。
 さらに御住職は、宝暦年代(一七五一~一七六三)のものとされる『佐州巡村記』を取り上げられる。それは「佐渡奉行が新たに着任し、島内各町村を巡視するに際し、あらかじめ管内の実状を知るために、奉行所で編集したもの」で、「各町村における当時の家数、人数、(中略)寺院、神社、名勝、旧跡を記した」、佐渡の「巡村記のなかでは最古のものであろう」といわれるものである(5)。その「川崎村」の項を見ると、寺社を挙げるなかに「〔禅宗〕晃照寺」(=括弧内の宗名は小字、以下同じ))とあるだけである(6)。御住職はもし晃照寺境内が行空の旧跡と伝えられていたら、当然取り上げられるはずであるのに、それがないということは、そういう伝えはなかった証左であるといわれるのである。


(5)『佐渡叢書』一○・「解題」九~一○頁。
(6)『佐州巡村記』(『佐渡叢書』一○・五一頁)
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晃照寺旧跡説(1)

2018年08月24日 | 勉強日誌

 行空の佐渡における旧跡について、住田智見氏は「一説には同島相川の法界寺行空の遺跡を伝ふと云へり。(維新に廃寺となると云ふ)(1)」といわれている。しかし『浄土宗大辞典』などは佐渡市河崎の曹洞宗・晃照寺とされる(2)。いま便宜上、晃照寺旧跡説と呼ぶことにする。それは橘正隆氏が『河崎村史料編年志』(一九五九年)に下の写真を掲げ、

現晃照寺の境内は、そのかみ法本房結庵の跡であつたらしく、晃照寺古境内図にみると、「法本房旧跡」と刻んだ石の記念塔が建つている(3)。

といわれたのが始まりのようである(4)。その記念塔には矢印で指示されているので、拡大して示しておこう。ただし明治四十年(一九○七)に堂舎が焼失し、現堂宇を再建するにあたり、記念塔は行方不明になったとされる。


そこで晃照寺御住職に直接お尋ねすると、二○一○年十月五日にA4用紙六頁の論文草稿「晃照寺旧境内図と法本房旧跡について」を送っていただき、その後もお電話やお手紙を通じて幾度も御教示を得た。ここに甚深の謝意を表する。その御住職によれば、結論を先取りしていうと、晃照寺旧跡説はまったく歴史的根拠がないということなので、以下、御住職に導かれながら、検討してみよう。

(1)住田智見氏『浄土源流章解説』(法蔵館、一九二五年、一九八二年再刊)二三一頁。
(2)『浄土宗大辞典』一(山喜房仏書林、一九七四年)、大橋俊雄氏『法然上人事典』(双樹社、一九九六年)、藤井正雄氏ほか編『法然辞典』(東京堂出版、一九九七年)など。
(3)橘正隆氏『河崎村史料編年志』(両津市河崎公民館、一九五九年)二四四~二四五頁。龍谷大学図書館所蔵本は見返しに拡大写真が貼られている。いまの写真はそれによる。
(4)磯部欣一・田中圭一氏『佐渡流人史』(雄山閣、一九七五年)二三頁、山本仁・本間寅雄氏編『定本佐渡流人史』(郷土出版社、一九九六年)一一三頁の田中圭一氏「法本房行空」の稿などに引用されている。

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『天台四教儀』を読む(22)

2018年08月23日 | 勉強日誌
 本文に戻って「舎那(しゃな)珍御(ちんご)の服を脱いで丈六弊垢(へいく)の衣(ころも)を著(ちゃく)す」といいます。「舎那(しゃな)珍御(ちんご)の服」の「舎那(しゃな)」は盧舎那身で『華厳経』の教主のことです。「珍御(ちんご)の服」は珍宝で飾られた天子の御服のことで、盧舎那身を形容した言葉です。それを「脱いで」というのは、『華厳経』の教主である盧舎那身を離れて、という意味を持ちます。そして「丈六弊垢(へいく)の衣(ころも)」は劣応身の釈尊を形容した言葉です。「丈六」はすぐれて尊い釈尊を表現するのに、人間の身長八尺(周尺)に対して、その倍量の一丈六尺(4.85メートル)あったとする信仰に基づいています。「弊垢(へいく)の衣(ころも)」は破れて垢じみた衣の意味で、先の「珍御(ちんご)の服」に対します。それを「著(ちゃく)す」というのは小乗の経典である『阿含経』を説く劣応身の釈尊として姿を現わされたことを意味しています。それはいわゆる八相成道です。八相とは釈尊が八種の相を示して説法教化されたことで、(1)下天、(2)託胎、(3)出胎、(4)出家、(5)降魔、(6)成道、(7)転法輪、(8)入涅槃をいいます。ただし八相には多少の』説があります。まず「兜率従り降下し」は(1)下天の相です。「兜率」は兜率天のことです。仏教では天部を欲界の六天、色界の十七天、無色界の四天とします。兜率天は欲界の第四天にあたります。釈尊が衆生済度のためにこの世に降れてこられる時の天界です。その兜率天より降下されたことをいっています。「摩耶の胎に託し」は(2)託胎の相です。「摩耶」は釈尊の母である摩耶(マーヤー)夫人です。釈尊の母であり、釈迦族の王妃であるから夫人と呼ばれます。その摩耶夫人の胎内に託生したことをいっています。伝説では釈尊を託胎するとき、胎内に白像が入ってくる夢を見たといわれています。「胎に住し、胎を出て」は(3)出胎です。摩耶夫人の胎内にあることを「胎に住し」といい、「胎を出て」といっているのがそれです。「胎に住し(住胎)」は八相の上では託胎のなかに含めて別の一相とはしません。「妃(ひ)を納(い)れ、子を生じ」は八相のなかに入っていませんが、妃としてヤショーダラ姫を迎え、一子ラーフラをもうけたことです。「出家し」は(4)出家です。「苦行すること六年の已後(いご)」は苦行に励まれること六年の後です。(5)降魔は略され、「木(もく)菩提樹の下(もと)にて草を以て座(しとね)と為し」は菩提樹の下で吉祥童子が捧げた草を敷き、その上に座したということです。「木(もく)」は通教の仏が七宝菩提樹下に座することに対し、三蔵教(小乗)の成道をあらわしています。それを「劣応身(れっとうじん)を成ずることを示し」というのです。(6)成道です。「劣応身(れっとうじん)」は勝応身(報身)に対する言葉で化身のことです。大機を化益するために八万四千乃至無量数の大相好を示現した仏が勝応身で、いわば『華厳経』の教主を指します。一方、化身は小乗の教主で三十二相八十種好を具した仏のことで、劣応身はそれをいいます。「初め鹿苑に在(ましま)して先づ五人の為に四諦十二因縁、事(じ)の六度等の教えを説きたまふ」は(7)転法輪です。最初に鹿野苑でかつて修行を共にした五人の比丘に対して四諦・十二因縁・六度の教えを説かれたというのです。つまり仏は、華厳の寂滅道場を動ぜずして、しかも衆生の機感に応じて鹿野苑に遊び、三乗の徒が舎那尊特の勝応身を見ることができないので、その報身の姿を隠し、丈六の劣応身の肉体を示現して、説法されたということです。
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『天台四教儀』を読む(21)

2018年08月22日 | 勉強日誌
 第一 鹿苑時

 【本文】
次に三乗の根性、頓に於て益無きが為の故に、寂場を動ぜずして、而(しか)も鹿苑に遊び舎那(しゃな)珍御(ちんご)の服を脱いで丈六弊垢(へいく)の衣(ころも)を著(ちゃく)す。兜率従り降下し摩耶の胎に託し、胎に住し、胎を出て、妃(ひ)を納(い)れ、子を生じ、出家し、苦行すること六年の已後(いご)、木(もく)菩提樹の下(もと)にて草を以て座(しとね)と為し、劣応身(れっとうじん)を成ずることを示し、初め鹿苑に在(ましま)して先づ五人の為に四諦十二因縁、事(じ)の六度等の教えを説きたまふ。

 【講述】
 漸教の初め、鹿苑時を明かします。「次に三乗の根性」という「三乗」とは、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗をいいます。「乗」は運載の義で、迷いの衆生を載せて悟りの世界へ導く教えを乗り物に譬えたものです。声聞は四諦の理を「乗」となし、縁覚は十二因縁を「乗」となし、菩薩は六波羅蜜を「乗」となすように、機根に随って「乗」とする教えが異なります。「頓に於て益無きが為の故に」とは、頓教の『華厳経』の説法を聞いても意味がわからず少しの利益も得ることがなかったことです。そのために「寂場を動ぜずして」といいます。「寂場」は寂滅道場の略で、釈尊の菩提樹下で悟りを開いた成道の場所、すなわち『華厳経』説法の場所ということになります。そこを離れることはなかったというのです。「而(しか)も鹿苑に遊び」という「鹿苑」は鹿野苑のことで、『阿含経』説法の場所をいっています。「遊び」は遊化です。菩提樹下の成道の場所から鹿野苑へ遊化して『阿含経』を説かれたのです。ただ前は「寂場を動ぜずして」といい、今は「鹿苑に遊び」といっています。『華厳経』説法の悟りの場を動かずに、しかも鹿野苑に遊化して説法されたことになります。それは仏の悟りの心境に動と静の二面性があるからです。悟りの心は成道の境地を離れることがないけれども、衆生済度の慈悲心からそれぞれの衆生にはたらいていくのです。それを「不動而遊」といいます。「寂場を動ぜずして、而(しか)も鹿苑に遊び(不動寂場而遊鹿苑)」を略したものです。また「二始同時」ともいいます。大乗・小乗同時に教化されたことです。「寂静」は大乗の機根を教化することをいい、「鹿苑」は小乗の機根を教化することであるからです。しかも「寂静」を動かずに「鹿苑」に遊化されたのです。あたかも天空に月は一つしか輝いていませんが、万川にその影を映すようなものであると譬えられます。仏はこの衆生に大乗を与え、あの衆生に小乗を与えるといった思いを持っていないけれども、「寂静」を動かずに機根に応じて自在に教化されたのです。ただ大乗の機根の側から見れば「寂静」において華厳を説いておられるように見えるし、小乗の機根の側から見れば「鹿苑」において阿含を説いておられる姿に見えます。しかし仏の立場からは大乗・小乗の思いを持たずに法を説いておられるのです。それが「不動而遊」です。
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先行研究の概観

2018年08月21日 | 勉強日誌
  「法本房行空上人と天台本覚思想」

    一、先行研究の概観

 法本房行空(生没年不詳)は法然(一一三三~一二一二)の門下のなかで、成覚房幸西(一一六三~一二四七)とともに、一念義の代表的人物である。本稿は天台本覚思想と行空の教学との連続性を検討しようするものである。先行研究において、一念義は天台本覚思想の影響を受けていると指摘されているからである。論稿としては望月信亨氏「一念往生説と天台の本覚思想」、石田瑞麿氏「一念義と口伝法門」などがある(1)。また井上光貞氏は一念往生説が皇覚(約一○九六~約一一七六(2))の『三十四箇事書』(=『枕雙紙』)「一念成仏の事」に見えるといわれ、それを承けた重松明久氏は「皇覚の思想の最大の特色は一念往生説にあり」といい、「一念義というのは、(中略)中古天台の例えば皇覚らの間に盛んに唱えられ、それがさらに法然門下の幸西や行空らに継承されたものを意味する」、「法然門下に盛行した一念義の思想的先蹤をなした中古天台の口伝法門」といわれている(3)。田村芳朗氏も「とくに、『一念義』などは、天台本覚思想とむすびつき」、「一念義は、天台の不二本覚思想との融合による産物とみらるべく」といい、末木文美士氏も「本覚思想の影響の著しい法然門下の一念義」といわれている(4)。これらは主として幸西の一念義を問題にしているようであるが(5)、行空に言及しているものとして、望月信亨氏は「法本房行空の主唱した寂光土義の如き、(中略)恵心流の口伝法門に属する」といい、重松明久氏は皇覚以来の般若系口伝法門の伝統に立って一念義を唱えたのではないかといい、さらに行空の法本房という房号を天台本覚思想の文献である『漢光類聚』に「三千法本有、而一念名法性常寂」というごとき意味の「法本」からとったものかと思うともいわれている(6)。
 こうした天台本覚思想と一念義との関連について、先学には三つの姿勢が見られるようである。受容しているのは大橋俊雄氏で「一念義の思想は、皇覚の『枕雙紙』に見られるから、天台の影響があったと考えられる」といい、慎重なのは黒田俊雄氏で「一念義や本願ぼこりの類の『邪義』には、しばしば顕密主義のなかの真言立川流や天台本覚法門などの影響があると指摘されている。その相互の関係を正確に判断するのは困難なことではあるが、少なくとも酷似する面があるのは事実である」といい、批判するのは平雅行氏で「一念義が天台本覚思想の影響の下で形成されたという論者が多いが、従いがたい」といわれている(7)。それらのなかで私は平雅行氏と意見を同じくする。以下、検討をはじめよう。


(1)望月信亨氏「一念往生説と天台の本覚思想」(同氏『浄土教概論』第十八章〈弘文堂書房、一九四○年〉所収)、石田瑞麿氏「一念義と口伝法門」(『伝道院紀要』一、一九六三年、のち同氏『日本仏教思想研究 第三巻 思想と歴史』〈法蔵館、一九八六年〉所収)
(2)皇覚の生没年は花野充道氏『天台本覚思想と日蓮教学』(山喜房仏書林、二○一○年)五九四頁による。
(3)井上光貞氏『新訂 日本浄土教成立史の研究』(山川出版社、一九五六年、新訂一九七五年)二九二頁、重松明久氏『日本浄土教成立過程の研究─親鸞の思想とその源流─』(平楽寺書店、一九六四年)三一五、三八五、四○四頁。
(4)田村芳朗氏『鎌倉新仏教思想の研究』(平楽寺書店、一九六五年)二○九、五二一頁。末木文美士氏(『日本仏教思想史論考』(大蔵出版、一九九三年)三一六頁。同様の文言が同氏『鎌倉仏教形成論〈思想史の立場から〉』(法蔵館、一九九八年)三八三頁にもある。ただし氏は『前掲著』三三四頁に「本書(=『三十四箇事書』)の一念成仏説と何らかの関係があったものと思われる」と慎重な言い方もされ、七三頁に「一念成仏の浄土教版」ともいわれている。
(5)他に石田瑞麿氏「幸西の四捨行について」(同氏『日本仏教思想研究 第三巻 思想と歴史』〈法蔵館、一九八六年〉所収)、同氏『浄土教の展開』(春秋社、一九六七年)二八二~二八五頁などがある。ただし石田氏の幸西における四捨行については末木文美士氏『日本仏教思想史論考』(大蔵出版、一九九三年)二九五~二九六頁に批判されている。
(6)望月信亨氏「一念往生説と天台の本覚思想」(同氏『浄土教概論』第十八章〈弘文堂書房、一九四○年〉二二七頁)、重松明久氏『日本浄土教成立過程の研究─親鸞の思想とその源流─』(平楽寺書店、一九六四年)三八三、三九○、三九二、四○○、四○四、四一七、四三九、六五一頁。同氏『親鸞・真宗思想史研究』(法蔵館、一九九○年)五六頁。房号のことは『前掲書』四三九~四○○頁。『漢光類聚』の文は『岩波日本思想大系九 天台本覚論』三八七頁。なお氏は行空が般若系口伝法門の立場に立つのに対し、幸西は法華系口伝法門の影響を受けているといわれるが、その「法華系」「般若系」について、花田充道氏『天台本覚思想と日蓮教学』(山喜房佛書林、二○一○年)五三八頁には「私としては、重松氏のこのようなカテゴリー化による論述は、単に本人の主観に基づくものであって、学問的に承認されたものではない、とだけ言っておきたい」と評されている。
(7)大橋俊雄氏『法然─その行動と思想─』(評論社、一九七○年)二○二頁、同氏『法然入門』(春秋社、一九八九年)二三三頁。黒田俊雄氏「中世における顕密体制の展開」(『同氏著作集 第二巻 顕密体制論』〈法蔵館、一九九四年〉一三○頁)、平雅行氏『日本中世の社会と仏教』(塙書房、一九九二年)三二二頁。
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『天台四教儀』を読む(20)

2018年08月20日 | 勉強日誌
 第二項 漸教

 総説

 【本文】
第二に漸教とは。〈此より下の三時三味を総じて名けて漸と為す〉

 【講述】
 ここから漸教について述べます。まず総標です。「第二に漸教とは」といいます。化儀四教の第二である漸教ということです。「漸教」は頓教に対します。「漸」は「ようやく」と訓み、漸々といって「だんだん」「次第次第に」の意味です。浅い教えから深い教えへと次第・順序を追って説く教えのことです。華厳時では仏自ら悟ったそのままの法を説かれたので、声聞たちの多くは如聾如唖で少しもその説法の意味を理解することができませんでした。そこで仏は法を聞く衆生の機根を徐々に開発していくように配慮されたのが漸教です。漸々に衆生を導いて、低いところから段々と高い境地へと誘っていく方便です。その深まりを初・中・後の三つの段階で説明します。(初)鹿苑時、(中)方等時、(後)般若時です。概略的にいえば、鹿苑時は小乗教、方等時は小乗に対して大乗を説き、般若時は専ら大乗教を説きます。五時に配すれば、この鹿苑時・方等時・般若時の三時になります。また五味に配すれば、酪味・生酥味・熟酥味となります。これら三時・三味が漸教です。そこで「此より下の三時三味を総じて名けて漸と為す」というのです。これより下に明かすところの三時・三味をまとめて漸教と名づけるということです。
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『天台四教儀』を読む(19)

2018年08月19日 | 勉強日誌
 この譬喩の内容を教義的に①擬宣、②誘引、③弾訶、④淘汰、⑤開会に配当します。いまは①擬宣です。本文の「即ち傍人を遣はして」というのは、「即ち」は時を隔てない頓速をあらわし、「傍人」は傍らの側近です。長者がはぐれた窮子を見るなり直ちに傍らにいる側近を遣わして窮子を捕らえさせようとしたことをいいます。「急(にわか)に追ふて」は急いで追いかけてというだけですが、教義的には相手の状態を見ずに仏の所懐を説くことを「急」といいます。天台ではこれに擬宣の二字をあてます。擬宣とは「あてがう」の意味で、仏は『華厳経』をもって仏弟子にあてがい、信受させようとしたことをいいます。「将(ひき)いて還らしむ」は窮子を連れ戻そうとしたことです。とくに「還らしむ」というのは、窮子はもともと長者の子であるから還らせるというのですが、仏の本性に立ち還らすことを「還」の字で喩えています。仏は窮子という小機にも無上の大法を得させたいという思いから、せっぱつまった心持ちで『華厳経』という大乗教をあてがったのです。ところが「窮子驚愕して怨(あだ)なりと称して大(おおい)に喚(よば)ふ等と」でした。窮子は驚いて何の怨があって捕らえるのかと、大いにわめき叫んだのでした。「等」とあるのは「信解品」を省略していっているからです。この「即ち傍人を遣はして急(にわか)に追ふて将(ひき)いて還らしむ」を略して「傍追」といいます。そしてこれに対して「此れは何(いか)なる義をか領せる」と問います。これはいったいどのような意味を喩えたものであろうかというのです。「答(こと)ふ、諸の声聞、座に在(あ)れども聾の如く唖の如し等、是れなり」と答えます。「声聞」は釈尊の教えを聴聞する者の意味で、原始経典では出家・在家ともに用いられましたが、大乗仏教では彼らは小乗と呼ばれ、自利に専念し利他行を欠いた出家僧とされました。『法華経』「授記品」で釈尊の記別にあずかった四人の仏弟子、迦葉・須菩提・迦旃延・目連を四大声聞と読んでいます。彼ら声聞たちは『華厳経』の説法の座では如聾如唖であって、何の利益も得ることができなかったことを意味しているというのです。まだ機が熟していないからです。こうして『華厳経』三照譬、『涅槃経』五味譬、『法華経』長者窮子譬をもって、『華厳経』が頓教であることを示しているのです。
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『天台四教儀』を読む(18)

2018年08月18日 | 勉強日誌
 長者窮子の喩え「傍追」

 【本文】
法華の信解品に云く、即ち傍人を遣はして急(にわか)に追ふて将(ひき)いて還らしむ、窮子驚愕して怨(あだ)なりと称して大(おおい)に喚(よば)ふ等と。此れは何(いか)なる義をか領せる。答(こと)ふ、諸の声聞、座に在(あ)れども聾の如く唖の如し等、是れなり。

 【講述】
 次に『法華経』第四「信解品」の長者窮子の譬喩(『大正新脩大蔵経』九・一六頁下~一七頁中)を引きます。「信解品」は迦葉・目連・迦旃延・須菩提の四大弟子が『法華経』の説法を聞いて自らの領解を述べる一品です。それに際して長者窮子の譬喩が説かれるのです。「窮子」は貧窮の子の意味で乞食です。長者とその窮子の譬喩です。概略をいうと次のようです。一人の長者がいました。その長者に一人の子供がいましたが、幼いときに長者とはぐれてしまい、以来、諸国を転々とした乞食(窮子)の生活を送っていました。しかし父の長者は少しも我が子のことを忘れることができず、あらゆる手を尽くして捜しましたが、その存在は知れませんでした。ある日、窮子は乞食をしながら長者の門前にやってきました。当然ながら父の家とは知りません。しかし父は一目見てそれが我が子であることを見抜きました。そこで側近の者を遣って追わせ、窮子を連れて家へ帰らせようとするのですが、窮子にとってみれば、なぜ捕らえられるのか意味が分かりません。大いに抵抗しましたが、無理矢理捕らえられようとしたので、ついには気絶して地に倒れてしまいました。長者はそれを見て、窮子の心が卑劣になっていることを思い、強いて連れもどすことを諦めました。そして一計を案じます。窮子と同じようなみすぼらしい男を窮子の元へ行かせて、長者の家で便所掃除をするアルバイトを求めていることを話させました。窮子は自分に相応しい仕事だと思って早速その仕事に就きました。その後、年月を重ねるにしたがって、その子の心もようやく打ち解けてきて、長者の部屋に出入りすることに怖れを感じなくなりました。また長者の叱りを受けることがあっても怒りの思いは起こらず、自分を反省して慚愧の心すら生じていました。ただ窮子は依然として乞食部屋に住んでいました。そこで長者は次の段階として、窮子を番頭に抜擢して蔵にも自由に出入りできるようにして、家の会計をすべて任せました。しかし窮子はあくまで長者の財産を取り扱う使用人としての思いでいたのは当然です。この蔵の全てが自分の財産だとは思いもよりません。ところが長者は窮子に財産を相続させる思いがありました。それでさらに年月を経て、窮子に真実を明かしても疑うっことがないことを知って、長者は臨終において初めて全てを話して真実の親子であることを打ち明けました。そして窮子に家業を譲り全ての財産を譲渡したというのです。
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『天台四教儀』を読む(17)

2018年08月17日 | 勉強日誌
 第一乳味

 【本文】
涅槃に云く、譬へば牛(ご)従り乳(にゅう)を出(いだ)すが如しと。此れは仏従(よ)り十二部経を出(いだ)すなり〈一に乳味〉。

 【講述】
 「涅槃に云く」は前に述べた『涅槃経』聖行品の五味譬です。五味は①乳味・②酪味・③生酥味・④熟酥味・⑤醍醐味でした。①乳味にあたるのが『華厳経』です。それを「譬へば牛(ご)従り乳(にゅう)を出(いだ)すが如しと」というのです。牛がまず最初に乳を出すようであるということです。「牛」は仏にあたります。そこで「此れは仏従(よ)り十二部経を出(いだ)すなり〈一に乳味〉」といいます。「十二部経」は仏の所説の教法を内容・形式によって十二に分類したものです。後に出る「九部経」を小乗経とするのに対して大乗経をあらわします。その「十二部経」とは、①長行で散文です。②重頌は長行で説いた内容を重ねて詩文で説くことをいいます。③授記は仏が将来において弟子が成仏すると証明することです。④孤起は重頌以外の独立した讃文をいいます。⑤無問自説は弟子の問いを待たずに仏がみずから説法することです。以上は文章や説法の形式上の区別になります。⑥因縁は事柄の来由を説くことです。⑦譬喩は喩えを説くことです。⑧本事は他者の過去世における事実を説くものです。⑨本生は仏の過去世における事実を説くものです。⑩方広は広く道理や真理を説くことです。⑪未曾有は神通などの奇跡を説くことです。⑫論議は問答往復して理論の究明をすることです。これら⑥因縁以下は説法の内容に関する区別になります。そしてこのなかから、⑩方広と⑤無問自説と③授記を除いたのが「九部経」です。これは大乗の側から小乗を非難した内容といえます。すなわち小乗は中道真如を語らないので⑩方広がなく、また小乗は仏の本懐でないから⑤無問自説がありません。そして小乗には一切衆生に仏性があることを説かないので③授記がないということです。いまは十二部経の大乗経であることを示し、五味でいえば乳味にあたるといって、『華厳経』が頓教であると明かすのです。
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