天上の月影

勅命のほかに領解なし

(一九)基親の書信(1)

2018年06月30日 | 勉強日誌

『西方指南抄』巻下本

(一九)基親の書信

【本文】
兵部卿三位のもとより、聖人の御房へまいらせらるゝ御文の按。基親はたゞひらに本願を信じ候て、念仏を申候なり。料簡も候はざるゆへなり。

【講述】
前回の文(「基親の領解」)に付けた追伸です。「兵部卿」というのは兵部省の長官です。「三位」は実は従三位です。基親がその官位についたのは、『公卿補任』によれば、建久元年(一一九○)のことでした(『新訂増補 国史大系 公卿補任 第四篇』五二三頁)。「兵部卿三位」という官位をみずからの名としているのです。その基親のもとから、「聖人の御房」は法然聖人です。法然聖人へ送られた「御文」手紙ということです。「按」は考えということでしょうか。自分の考えを手紙に書いて法然聖人へ送ったということでしょう。その内容は、「基親はたゞひらに本願を信じ候て」基親はただひたすらに本願を信じて、です。「念仏を申候なり」お念仏を申しているというのです。「料簡も候はざるゆへなり」「料簡」は考え、思案です。ただ本願を信じて念仏申すのは、そのほかに何も考えがあるわけではないからですといっているのです。前回(「基親の領解)」の「一向に本願を信じて、名号をとなえ候、毎日に五万返なり。(中略)このほか別の料簡なく候」といっていたのと同じことです。ここに基親の純粋な信心のすがたがあります。

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(一八)基親の領解(7)

2018年06月28日 | 勉強日誌

 こうした称名報恩義は、親鸞聖人の弟子であった高田の覚信房の逸話があります。『親鸞聖人御消息』第十三通の蓮位添状によれば、覚信房は同行たちとともに関東を出発して京都の親鸞聖人のもとへ旅立ったのですが、「ふるいち」というところで病いになり、同行たちは帰るほうがいいと勧めたところ、「死ぬほどのことであれば、帰っても死ぬであろうし、とどまっても死ぬであろう。また病いが治るのであれば、帰っても治り、とどまっても治る出あろう。同じことなら、親鸞聖人のみもとで命終えたい」といって、旅を続け、親鸞聖人のもとへやってきたのでした。臨終には「南無阿弥陀仏、南無無碍光如来、南無不可思議光如来」と称えて、手を合わせ、静かに命を終えたということです(『註釈版聖典』七六六~七六七頁)。覚如上人の『口伝鈔』第十六条には、その臨終の前、覚信房が病いのなかで絶え間なくお念仏申しているのを親鸞聖人がご覧になって、「どういう思いでお念仏申しているのか」と問われたといいます。すると覚信房は「よろこびすでに近づけり。存ぜんこと一瞬に迫る。刹那のあひだたりといふとも、息のかよはんほどは往生の大益を得たる仏恩を報謝せずんばあるべからずと存ずるについて、かくのごとく報謝のために称名つかまつるものなり」と答えたと伝えています(『註釈版聖典』九○二頁)。この覚信房のことは門弟たちのあいだで語り草となったようで、唯円の『歎異抄』第十四条にも「一生のあひだ申すところの念仏は、みなことごとく如来大悲の恩を報じ、徳を謝すとおもふべきなり」(『註釈版聖典』八四五頁)といわれています。そして覚如上人が信心正因・称名報恩を真宗教義の綱格とされ、蓮如上人が普及されたのでした。

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(一八)基親の領解(6)

2018年06月27日 | 勉強日誌

  横道にそれました。本文に戻ります。「基親御弟子の一分たり、よてかずおほくとなえむと存じ候也」基親も法然聖人の御弟子の一人です。だから数多く称えようと思っているというのです。法然聖人の八万遍の念仏にならって五万遍を称えているということです。そして「仏の恩を報ずるなりと申す」基親は仏の恩に報いるためであるといったのです。次に『礼讃』前序の文を引きます。「相続してかの仏恩を念報せざるがゆゑに、心に軽慢を生じて業行をなすといへども、つねに名利と相応するがゆゑに、人我おのづから覆ひて同行善知識に親近せざるがゆゑに、楽ひて雑縁に近づきて、往生の正行を自障障他するがゆゑなり」(『七祖篇』六六○頁)という文です。「相続して」とは念仏相続のことでしょう。念仏相続して、かの仏恩を念じ報じようとしないから、心に驕り高ぶりが生じ、どのような行いを修しても、つねに名利、名聞利養です。名誉や利益のためとなり、人我、我執です。俺が俺がという自己にとらわれて、念仏の道を歩む同行や念仏を教えてくれる善知識に近づかず、逆に好んでさまざまな縁に近づいていき、往生の正行である念仏の道をみずから妨げ、他人をも妨げていくというのです。難しい文章ですが、ここに仏恩を念報するということがいわれています。それを根拠として、「基親いはく、仏恩を報ずとも、念仏の数返おほく候はむ」基親は、仏恩を報ずるにあたっても、念仏の数は多いほうがよい、といったのです。ここで称名報恩義が述べられています。周知のように真宗では信心正因・称名報恩をもって常教とします。基親は信心正因ということには7触れていないけれども、称名報恩を語っています。五万遍の念仏に報恩の意味を持たせているわけです。素朴な形での称名報恩義ということができましょう。

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(一八)基親の領解(5)

2018年06月26日 | 勉強日誌

【本文】
また聖人の御房七万返をとなえしめまします、基親御弟子の一分たり、よてかずおほくとなえむと存じ候也。仏の恩を報ずるなりと申す。すなわち『礼讃』に「不相続念報彼仏恩故、心生軽慢。雖作業行常与名利相続故、人我自覆不同行善知識故、楽近雑縁自障碍他往生正行故」〔云云〕 基親いはく、仏恩を報ずとも、念仏の数返おほく候はむ。

【講述】
先に基親は善導大師の指南によることを述べました。今度は一念義の論者に直接の師である法然聖人の念仏のすがたを出します。「また聖人の御房七万返をとなえしめまします」法然聖人は一日に七万遍のお念仏を申しているというのです。『和語灯録』「諸人伝説の詞」には「しかればすなはち源空は、大唐の善導和尚のおしへにしたがひ、本朝の恵心の先徳のすゝめにまかせて、称名念仏のつとめ、長日六万遍也。死期やうやくちかづくによて、又一万遍をくわえて、長日七万遍の行者なりと。〔『徹選択集』にいでたり〕」(『真聖全』四・六七七頁)とあります。『徹選択集』は弁長上人の著作ですから、弁長上人が法然聖人の一日七万遍のお念仏を伝えているのです。誇張したものではなく、実際にそうだったのでしょう。
『明義進行集』におもしろい話があります。隆寛律師が「法然上人に対面したてまつりて、後世の事談じ申すに、源空もはしめには、念仏の外に、阿弥陀経を毎日三巻読候き、一巻唐、一巻は呉一巻は訓なり、しかるにこの経に詮するところ、たゝ念仏を申せとこそとかれて候へは、今は一巻もよみ候はす、一向念仏を申し候なりと、隆寛すなはちこゝろへて、やかて阿弥陀経をさしうきて、念仏三万五千返を申云々」(『法然上人伝全集』一○○○頁)というのです。法然聖人ははじめ『阿弥陀経』を三巻、一巻は唐音、一巻は呉音、一巻は訓読の三巻読んでいたが、『阿弥陀経』が念仏申せと勧められているのだと気づいてから、それをやめ、いまは一向に念仏ばかりをつとめとしているといわれたので、隆寛律師もその日から『阿弥陀経』を読むのをやめて、一日に三万五千遍のお念仏を称えることにしたというのです。このように隆寛律師は多念の行者でした。そこで幸西大徳が一念義であるのに対して、隆寛律師は多念義の祖といわれ、その系統を長楽寺流といいます。しかし、隆寛律師は多念の行者であっても、決して多念義ではありませんでした。著作に『一念多念分別事』があることによって明らかです。「念仏の行につきて、一念・多念のあらそひ、このごろさかりにきこゆ。これはきはめたる大事なり、よくよくつつしむべし。一念をたてて多念をきらひ、多念をたてて一念をそしる、ともに本願のむねにそむき、善導のをしへをわすれたり」(『註釈版聖典』一三七一頁)といって、はじまっています。そしてそのなかに引用されている文を註釈する形で著されたのが親鸞聖人の『一念多念文意』です。親鸞聖人は隆寛律師を決して多念義とは見ておられなかったのです。多念義になったのは隆寛律師の弟子からです。それを師である隆寛律師に及ぼされて多念義の祖といわれるようになったのです。注意しておく必要があるでしょう。

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(一八)基親の領解(4)

2018年06月24日 | 勉強日誌

 ともあれ基親と「或人」「難者」の対論を見ましょう。「或人」は「本願を信ずる人は一念なり、しかれば五万返無益也、本願を信ぜざるなり」といったというのです。本願を信ずる人は一念で往生決定するから、一日五万遍も念仏申すのはまったく無益であると、多念の称名を否定しています。しかも本願を信じていないというのです。その意底は、一日に五万遍もお念仏申すことは、その功徳によって往生しようとするものであって、まったく本願をたのまず、自力であるということです。お念仏を数多く称えることを自力と見ているわけです。ここに一念義の論者が自力というものを誤解していることがわかります。それに対して「基親こたえていはく、念仏一声のほかより、百返乃至万返は、本願を信ぜずといふ文候や」と答えたのです。念仏一声のほかに、百遍ないし一万遍のお念仏を申すことは本願を信じていない者だという文があるか、あるなら文証を出してみよ、といったのです。すると「難者云、自力にて往生はかなひがたし、たゞ一念信をなしてのちは、念仏のかず無益なりと申す」と返したのです。難者は文証ではなく、数多くお念仏を称える自力によって往生はかなわず、ただ本願を信ずる一念で往生決定するから、念仏の数を多く称えても無益であるというのです。これはどこまでも理屈をいっているわけです。逆にいうと、文証などないのです。だから示せないのです。そこで「基親また申ていはく」基親はその理屈を攻めます。「自力往生とは、他の雑行等をもて、願ずと申さばこそは自力とは候はめ」自力往生というのは、他の雑行などを行じて、往生を願うことを自力というのだ、ということです。確かにそのとおりです。いくら一日五万遍のお念仏を申しても、その功徳によって往生するのではありません。阿弥陀仏が念仏申す者を必ず往生させるという本願の力、他力一つによって往生させていただくのです。それに対して雑行などを行じて往生しようとするのを自力というのです。みずからの行の力をたのんで往生しようとすることを自力往生といいます。いや、それは実は阿弥陀仏の本願にかなっていませんから、往生などありえません。自力心では往生できないのです。その自力心のすがたを一日五万遍のお念仏と見たのが「難者」である一念義の論者でした。その誤りをただすため、基親は逆に文証を出します。善導大師の『観経疏』「散善義」の就人立信釈の文です。「上百年を尽し、下一日七日に至るまで、一心にもつぱら弥陀の名号を念ずれば、さだめて往生を得ること、かならず疑なし」(『七祖篇』四六三頁)です。「上百年」というのは一生涯ということでしょう。「百年念仏すべしとこそは候へ」一生涯お念仏申せといわれているというのです。基親はこの善導大師の指南によって一日五万遍のお念仏を申しているわけで、「或人」「難者」がいう「五万返無益也」はまったくナンセンスであるといいたいのです。ちなみにいっておきますと、幸西は一念義ではありますが、著書のどこにも多念の称名を否定したところはありません。幸西が「五万返無益也」といったとは考えにくいです。先ほどもいいましたように、幸西はどこまでも念仏往生説の範囲内で一念義を立てているのです。また鎮西派が一念義を邪義とするのはここです。多念の称名を無益と否定するからでした。

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(一八)基親の領解(3)

2018年06月23日 | 勉強日誌

【本文】
しかるに或人、本願を信ずる人は一念なり、しかれば五万返無益也、本願を信ぜざるなりと申す。基親こたえていはく、念仏一声のほかより、百返乃至万返は、本願を信ぜずといふ文候やと申す。難者云、自力にて往生はかなひがたし、たゞ一念信をなしてのちは、念仏のかず無益なりと申す。基親また申ていはく、自力往生とは、他の雑行等をもて、願ずと申さばこそは自力とは候はめ。したがひて善導の『疏』にいはく、「上尽百年・下至一日七日、一心専念弥陀名号、定得往生必無疑」と候ぬるは、百年念仏すべしとこそは候へ。

【講述】
長くなるので、ここで切っておきましょう。先ほどいいましたように基親は一日に五万遍のお念仏申す多念の行者です。その基親と「或人」との対論が記されています。「或人」というのは名前は記されていませんが、のちに「難者」とあるのと同一でしょう。それについて『漢語灯録』本の文末には「私に云く、難者と云は成覚房也」という細註があります(『昭和新修法然上人全集』五五四頁)。『真宗聖教全書』四・二一一頁の下の対校にも記されています。つまり対論の相手は幸西大徳だというのです。幸西大徳の教学は一念義といわれています。ただし大徳自身はみずからを一念義といわれることはないのですが、一般には法本房行空とともに一念義の代表的人物として知られています。その教学は『玄義分抄』一巻が伝わっており、凝然の『浄土法門源流章』に引用されている『略料簡』などによって知ることができます。それらによって見ると、幸西大徳は確かに一念義ではありますが、梯實圓和上の『玄義分抄講述─幸西大徳の浄土教─』(永田文昌堂、一九九四年)四一頁に「幸西はどこまでも念仏往生説の範囲内で一念義を立てているようである」といわれています。けれども鎮西派では一念義を邪義と判じます。いまの「或人」「難者」は明らかに一念義の論者の主張するところですから、『漢語灯録』を編集した道光了恵は「私に云く、難者と云は成覚房也」といったのではないでしょうか。『西方指南抄』にそういう註記はありませんので、了恵が「私に」考えたところであって、信憑性は低いと思われます。

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(一八)基親の領解(2)

2018年06月22日 | 勉強日誌

 「上品」は『観経』九品段に、生前の因行がどのようであったかによって浄土往生の果報に優劣があると説かれているものです。上品上生から下品下生まで九種類あるので九品段と呼びます。そのなか基親は「上品」の往生を願っているわけです。それは法然聖人がたとえば、『和語灯録』「三部経釈」に、
    又善導和尚「三万已上は上品上生の業」との給へり。数遍によて上品にむまるべし。又三心について九品あるべし、信心によて上品にむまるべしと見えたり。(『真聖全』四・五六三頁)
等といわれています。基親はこうした法語によったのでしょう。ところが『西方指南抄』「十一箇条問答」には、
問、極楽に九品の差別の候事は、阿弥陀仏のかまへたまへることにて候やらむ。
    答、極楽の九品は弥陀の本願にあらず、四十八願の中になし、これは釈尊の巧言なり。善人・悪人一処にむまるといはゞ、悪業のものども、慢心をおこすべきがゆへに、品位差別をあらせて、善人は上品にすゝみ、悪人は下品にくだるなりと、ときたまふなり。いそぎまいりてみるべし。(『真聖全』四・二一四頁)
といわれいるのです。九品は弥陀の本願ではない、四十八願のなかに九品をもうけるとは誓われていないからだ、これは釈尊の巧みな方便説だというのです。その理由を、善人と悪人が同じ所に生まれるといえば、悪人は慢心をおこして、好き勝手にするであろう、そこで釈尊は品位差別、優劣区別をあらわして、善人は上品にすすみ、悪人は下品にくだると説かれたというわけです。この法語は禅勝房に示されたもので、彼が法然聖人に帰依したのは建仁元年(一二○二)ですから(建仁元年は一二○一年であるが)、それ以降の法語と考えられ、法然聖人の思想展開という説もあります。那須一雄氏「法然上人における『観無量寿経』九品段の解釈」(『龍谷教学』三三、一九九八年)です。また法然聖人が九品の差別を認めるのは起行門の所談で、認めないのは安心門の所談と見る考えもあります。梯實圓和上『法然教学の研究』(永田文昌堂、一九八六年)三一七頁です。各自でお考えください。いずれにせよ、『観経』に明らかに説かれているのに、法然聖人は「釈尊の巧言」を見るのです。四十八願に誓われていないからです。「経」より「願」という姿勢です。「いそぎまいりてみるべし」というのはその自信をあらわしていると見られます。これを承けたのが隆寛律師や幸西大徳や親鸞聖人です。いま親鸞聖人でいうと、「信文類」末に、
    大願清浄の報土には品位階次をいはず、(『註釈版聖典』二五四頁)
といい、『高僧和讃』「曇鸞讃」に、
    如来清浄本願の 無生の生なりければ
    本則三三の品なれど 一二もかはることぞなき(『註釈版聖典』五八六頁)
といい、『入出二門偈』に、
    諸機はもとすなはち三三の品なれども、いまは一二の殊異なし。(『註釈版聖典』五四五頁)
といわれています。こうした親鸞聖人などは、浄土において差別はないとされるのですが、基親は「上品に」といわれているのです。

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(一八)基親の領解(1)

2018年06月21日 | 勉強日誌

『西方指南抄』巻下本

(一八)基親の領解

【本文】
基親取信信本願之様
『雙巻』上云。「設我得仏、十方衆生、至心信楽欲生我国、乃至十念、若不生者、不取正覚。」
同下云。「聞其名号、信心歓喜、乃至一念、至心回向、願生彼国、即得往生、住不退転。」
『往生礼讃』云。「今信知、弥陀本弘誓願、及称名号下至十声、一声等、定得往生、乃至一念、無有疑心」
『観経疏』云。「一者、決定深信自身現是罪悪生死凡夫、曠劫已来常沒常流転、無有出離之縁。二者、決定深信彼阿弥陀仏四十八願摂受衆生、無疑無慮、乗彼願力、定得往生。」

【講述】
十八は平基親がみずからの領解を法然聖人に送った書簡です。「基親取信信本願之様」と題されています。「基親、信を取りて本願を信ずるの様」です。基親が信心をいただいて、本願を信ずるありさまということです。まず、その根拠となる文を四文挙げています。『大経』上の第十八願文、そして『同』下の成就文、『往生礼讃』の文、『観経疏』二種深信の文です。

【本文】
これらの文を按じ候て、基親罪悪生死の凡夫なりといえども、一向に本願を信じて、名号をとなえ候、毎日に五万返なり。決定仏の本願に乗じて、上品に往生すべきよし、ふかく存知し候也。このほか別の料簡なく候、

【講述】
「これらの文を按じ候て」、いま掲げた四つの文を、深く考えて、です。「基親罪悪生死の凡夫なりといえども」みずからの名を挙げて「基親」といいます。「罪悪生死の凡夫なりといえども」、『観経疏』二種深信の文のなか、機の深信の文から、「罪悪生死の凡夫」と自身を位置づけています。そうであるけれども、「一向に本願を信じて」、法の深信になりましょう。ひたすら本願を信じて、です。そして「名号をとなえ候」、名号を称えている、お念仏申しているというのです。本願に「乃至十念」とあるからです。その「乃至」は一多包容をあらわします。一乃至多、多乃至一があります。その両方を包んでいるのが「乃至」です。そのうち多乃至一という従多向少、多より少に向かえば、十念、十声です。成就文では「乃至一念」とあります。一声です。『往生礼讃』では「下至十声、一声等」とあります。これは安心門の立場で往生の因体をあらわします。一方、多乃至一という従少向多、少より多に向かえば、一生涯お念仏申していくのです。これは起行門の立場で、宗教生活をあらわします。基親はこの起行門の立場から、「毎日に五万返なり」といっています。五万返のお念仏を申しているというのですから、基親は多念の行者であったことがわかります。そして「決定」、必ず、です。「仏の本願に乗じて」、第十八願に「至心信楽欲生我国、乃至十念、若不生者、不取正覚」本当に間違いなく我が国に生まれるとおもうて、わずか十遍でも念仏申す者を、もし生まれさせることができなければ、正覚を取らない、と誓われた阿弥陀仏がいま、正覚を取られているのですから、「仏の本願に乗じて」、その本願のとおりに、願力によって、「上品に往生すべきよし」、必ず往生させていただくということを、「ふかく存知し候也」、深く心しております。「このほか別の料簡なく候」これ以外に別の料簡はありません。これが基親の領解です。ただこのなかで、「上品に」ということは少し問題があります。

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法本房行空上人と天台本覚思想の発表原稿(6)

2018年06月20日 | 勉強日誌

③また望月信亨氏は寂光土義を問題にされています。それは弁長上人の『授手印』に見えるもので、そこに記しておきました。
④これを弁長上人の曾孫弟子にあたる良心やそれを承けた江戸時代の鎮西派の学匠である妙瑞が解釈しています。とくに妙瑞は念仏に「称念称名」と「理念理解」の二種を立てたといっています。これが問題であると思います。
⑤それは弁長上人が伝える「称名往生は是れ初心の人の往生なり」といっているのが根拠でしょう。初心者が称名であるなら、上級者には何か外に行があることを予想させるからです。たとえば「津戸三郎に答ふる書」によると、法然聖人は無智の人に念仏を勧め、智者は必ずしも念仏に限らないといった人がいたようです。
⑥そうしたことを主張する人の背景にあるのは、称名念仏を低劣な行とする念仏観です。では念仏以外の行とは何かといえば、下の段です。『観心略要集』に説かれる理観、『真如観』に説かれる真如観などでしょう。良心や妙瑞はそれをいっていると思われます。
⑦しかし、行空が本願の念仏の外に「理念理解」を説いたとすれば、民衆に影響を及ぼす力はなかったでしょうし、興福寺から糾弾される理由が見つかりません。『三長記』には「偏執、傍輩に過ぐ」といわれています。本願の念仏を一筋に説いていたと考えられます。ただ行空の特徴は所期の浄土を「寂光土」と説いたところにありますが、それは伝道者として最上の浄土であることを示すためであったと思われます。そこには書いておりませんが、弁長上人は『念仏名義集』には「或る人は寂光土の往生を立つる。此の学文を我に随てせよ。若し此の心を知らずして念仏申さん者は往生すべからずと申す」と伝えております。念仏によって最上の浄土である寂光土に往生することが説かれています。住田智見氏が「一益計となる」、山上正尊氏が「来世の西方往生を軽賤する一益法門となる」といわれるのは、娑婆即寂光と説く天台の理解をしていると思われ、賛同することができません。
⑧なお重松明久氏は行空の房号を「法本」というのは『漢光類聚』からとったものかといわれていますが、『漢光類聚』は行空よりかなり後の成立なので、時代が異なっています。

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法本房行空上人と天台本覚思想の発表原稿(5)

2018年06月19日 | 勉強日誌

五、行空と天台本覚思想
①それは行空においても同様に考えることができます。『三長記』には「一念往生の義」「念仏往生の義」という言葉が見えます。「往生」というのですから、二元論に立っていたはずです。興福寺から糾弾されているところから見ますと、行空は伝道の最前線にいて、民衆に受容され、多大な影響力をもっていたことがうかがわれます。
②ところが重松明久氏は行空が、四頁です。皇覚以来の伝統に立ってといわれています。しかし皇覚、『事書』の著者ですが、一念成仏義であるのに対して、行空は一念往生義であり、皇覚『事書』に弥陀為本の思想はなかったことは既に述べました。皇覚から行空という線はないと見るべきでしょう。
③また望月信亨氏は寂光土義を問題にされています。それは弁長上人の『授手印』に見えるもので、そこに記しておきました。
④これを弁長上人の曾孫弟子にあたる良心やそれを承けた江戸時代の鎮西派の学匠である妙瑞が解釈しています。とくに妙瑞は念仏に「称念称名」と「理念理解」の二種を立てたといっています。これが問題であると思います。

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法本房行空上人と天台本覚思想の発表原稿(4)

2018年06月18日 | 勉強日誌

四、一念義と天台本覚思想
①一念義にも種々の義があり、弁長上人が伝える相続開会の一念義などは法然聖人滅後の亜流であるといえましょう。
②法然聖人在世中の一念義の主張を挙げてみました。三頁です。波線を引いているところに注意しておいていただきたいと思います。これらから当時の一念義は、多念を否定し、造悪無碍を主張するものであったことが知られます。
③こうした一念義に対する法然聖人の批判を挙げてみました。『西方指南抄』「光明房に答ふる書」によれば、一念義は経釈の文を「あしくぞ、みたる」ところから起こっています。具体的には「上尽一形」を廃し、一多包容をあらわす「一念までも」の「までも」を理解せず、「一念だけで」と誤解したものといえます。ただそれは、誤解とはいえ、先ほど注意しました波線のように、本願に望んだ主張であることを忘れてはなりません。また法然聖人は「一念往生の義」といわれています。そこに書いておりませんが、「往生」が「捨此往彼、蓮華化生」と定義されるなら、一念義といえども二元論に立った主張でもあります。
④ところが井上光貞氏や重松明久氏は「一念往生説」といわれ、『三十四箇事書』の「一念成仏の事」に見えるといわれています。一念義の源流が『事書』の「一念成仏の事」ということでしょう。下の段です。しかし平雅行氏は、『事書』には一念成仏説は説かれているが、一念往生説などどこにも説かれていないといわれ、『事書』の往生否定の文を例に挙げられています。すなわち、『事書』は一念成仏説であって、一念往生説ではありません。また弥陀為本の思想はありませんから、『事書』と一念往生説に連続性はないというべきでしょう。
⑤ただ『真如観』には往生極楽も説かれていますが、それは副次的に説かれているにすぎません。
⑥ともあれ、名字即における一念成仏を説くことは必然的に修行不要、造悪無碍の傾向をもつことになります。そこで天台本覚思想が先に成立していますから、一念義に影響を与えたと考えることに無理はありません。
⑦しかし、天台本覚思想は一元論に立ち、『事書』では「自身即仏」、『真如観』では「我心即真如』に基づいているのに対し、一念義は誤解であるにせよ、「一念往生」という二元論に立ち、本願に望んで主張しています。傾向としては類似していますが、本質的に異なる思想であると見るべきでしょう。

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法本房行空上人と天台本覚思想の発表原稿(3)

2018年06月17日 | 勉強日誌

三、法然と天台本覚思想
①法然聖人は『真如観』を『和語灯録』「百四十五箇条問答」のなかで批判されています。安達俊英氏はこれ以外に明確な本覚思想批判は見られないと指摘されています。
②それでも、法然聖人が反本覚思想の立場に立たれていたことは明らかです。明快ではありませんが、次のように法語類を分類してみました。
③「現実肯定」に対する現実否定として、三学無器の自覚と信機です。
④「あるがまま主義」に対する厭離穢土としての法語です。
⑤「絶対的一元論」に対する相対的二元論としての法語です。
⑥『観心略要集』の理観念仏に対する称名念仏としての法語です。
⑦もっとも法然聖人には本覚的表現、本覚的用語も見られます。それについて先ほどの安達俊英氏や梯實圓和上の所述がありますが、いずれにしても、仏徳や浄土の徳相をあらわすときには活用しても、決して凡夫の当相では語らないというのが法然聖人の立場です。

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法本房行空上人と天台本覚思想の発表原稿(2)

2018年06月16日 | 勉強日誌

二、天台本覚思想と浄土教
①天台本覚思想とは日本の中古天台において高揚された思想で、島地大等氏がその研究の必要性を強く提唱されました。
②島地大等氏ははじめ「本覚門」と呼ばれ、それは「本より覚る」ですから、多劫の修行を経ずして、本来、仏であるということで、これが「本覚門」の定義です。
③ところが袴谷憲昭氏が土着思想までを本覚思想と規定されたことから、議論に混乱が生じました。けれども、下の段です。従来の研究史を踏まえれば、中古天台において独自に醸成された思想をいうのが本筋です。ゆえに「天台」の限定語をつけ、天台本覚思想と呼ばれるわけです。
④その「天台」の本覚思想について、花野充道氏は、「本覚」の語の初出は『大乗起信論』ですが、それが真如縁起論、如来蔵思想であるのに対して、天台の教学は龍樹の空思想に立脚した諸法即実相論、円教理論であって、まったく思想構造を異にしています。それが安然あたりから両者がミックスされ、その系統のなかで成立しているのが『真如観』です。そして本来の天台実相論に基づいているのが皇覚の『三十四箇事書』です。智顗の四教判に配すれば、前者は別教立ちの本覚思想であり、後者は円教立ちの本覚思想であって、それらを「天台本覚思想」と呼ぶといわれています。
⑤その特色は、「具体的絶待論、絶待肯定の思想」「絶対的一元論」「あるがまま主義」といった言い方がなされています。
⑥その例を挙げてみました。
⑦こうした天台本覚思想は勝範あたりから口伝の形で伝えられ、やがて文献化、体系化されていきました。
⑧そして天台本覚思想は相対的二元論に立つ浄土教を吸収していきました。
⑨その浄土教の特色は、「唯心の弥陀、己心の浄土」を説くことにあり、二頁、阿弥陀三諦説の理観念仏も挙げることができます。
⑩そのようななかで、注意すべき文献は、『三十四箇事書』のとくに「一念成仏の事」、『観心略要集』、『真如観』です。

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遊蓮房円照のこと(補3)

2018年06月15日 | 勉強日誌

昨日とほとんど同じであるが、どうも落ち着きが悪いので、以下のように改変する。これでもまだ落ち着かないが、最終の推敲とする。

ただ門下の誰もそれを伝えていないというのはいささか不安が残る。円照が往生したのは一一七七年であり、法難時(一二○七年)を起点とすれば三十年も経っている。法然にとって感慨深い人であっても、門下には馴染みがなかったからであろうか。

 こうして、円照の配所には異説があり、佐渡国であったとしても短期間か、赴いていなかったかもしれない。とすれば法然がつねに円照のことを語っていたとしても、行空が配所に赴くにあたって、「遊蓮房と同じ所か」程度のものであったであろう。また円照は遠い人であるから、一体感をもったとするのも疑問である。田中圭一氏が円照の「再体験者であるという自覚をもっていたに違いない」といわれるのは、氏に教えられるところが多く敬意を表するが、考え過ぎであると思う。

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遊蓮房円照のこと(補2)

2018年06月14日 | 勉強日誌

本文を以下のように訂正、追加する。

信瑞(?~一二七九)の『明義進行集』は「第十一の男」といい、『尊卑分脉』は三男として記し、『公卿補任』は成範(成憲)を「通憲三男」といっている(3)。慈円(一一五五~一二二五)の『愚管抄』も「俊範大弁宰相・貞憲右中弁・成憲近衛司など(4)」という順で述べている。ただ『尊卑分脉』は長男の俊範の母を「近江守高階重仲女」とし、二男の貞憲、三男の是憲(円照)の母も「俊範と同じ」とするのに対し、四男の成範の母は「従二位朝子高倉院御乳母」といい、五男の脩範の母を「成範に同じ」といっている。長男・二男と母が同じで、四男・五男と異なるから、是憲(円照)は三男であったのかもしれない。あるいは生年が一一三九年であるから、『尊卑分脉』で十二男とする明遍(一一四二~一二二四)と近いので、『明義進行集』がいう十一男であった可能性も捨てきれない。

ただ門下の誰もそれを伝えていないというのはいささか不安が残る。円照が往生したのは一一七七年であり、法難時(一二○七年)を起点とすれば三十年も経っている。法然には感慨深い人であっても、門下にとっては馴染みがなかったからであろうか。
 こうして、円照の配所には異説があり、もし佐渡国であったとしても短期間か、赴かなかったかもしれない。また法然がつねに円照のことを語っていたとしても、行空が配所に赴くにあたって、遠い人である円照と一体感をもったとは考えにくく、せいぜい「遊蓮房と同じ所か」程度のものであったであろう。田中圭一氏が円照の「再体験者であるという自覚をもっていたに違いない」といわれるのは、氏に教えられるところが多く敬意を表するが、考え過ぎであると思う。

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