天上の月影

勅命のほかに領解なし

機法権実法話(11)

2017年11月30日 | 利井鮮妙和上集

 此の有難い身分にさせて戴いた上からは御恩報謝のために、三宝を崇敬し、おのおのが根機に契ふた朝な夕なのお勤めをなし、御恩を喜ぶ称名を忘れぬ様、油断なく相続をせねばなりませぬ。又世間の上は士農工商、自分自分の職業を誤りなく、心をつけて勤めをすれば、昼夜朝暮の世間・出世間の勤め悉く仏恩報謝となる。
 かくつとめて行く一歩一歩が浄土へ近づくので、如来様も御照覧遊ばしてお喜び下さるのであります。南無阿弥陀仏。

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機法権実法話(10)

2017年11月28日 | 利井鮮妙和上集

 或時、法然上人が結構な品物をお手にお持ちなされて、これを其の方にやるが、私の手にあるが確か、其の方の手に受け取つたが確かと仰せられた。皆々それは吾手に戴いた方が確かなと申しあぐれば、法然上人の仰せに此の法然は往生を我手に取つた心持ちして念仏するなりと、又日々六万七万の称名を称ふれども一声も半声も不定の称名は称へぬ。これは疑いなく往生するぞと思ひ取りて往生一定の思ひで称ふるからであります。皆々同行も法然上人と同じく必然往生させて戴けるものと信じて念仏すれば往生は間違いないのであります。
 此の有難い御教化を聴聞させて戴き、いよいよ往生させて戴く身分になつたのは三部経の御教化で、此の三部経は机の上にあるのではない、我々の胸の中心の底に入つて下さるから、自ずから口から出る称名は三部経の御所内(おいはれ)其の儘である。三部経が一南無阿弥陀仏の称名中に籠もるのみならず、一切の聖教も籠もってゐるのであるから、御文章には一切の聖教といふも南無阿弥陀仏を信ぜしめんが為なりとあります。
 愚痴の婆々の口にも浅間しい爺の心にも尊い三部経が籠つて下さる上は今度といふ今度の生には間違ひなく往生させて戴きます。何と大きな仕合せではありませんか。

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機法権実法話(9)

2017年11月27日 | 利井鮮妙和上集

 「疑ひながらも念仏すれば往生す」近頃わたしの許(もと)へ所々の僧侶や同行が不審を訂(ただ)しに来られた。「疑(うたがい)がどうも晴れませぬが如何のものでせう、御教化の御助けには間違い(註、間違いない、か)、このまま往生させて戴くのであると思ひながらどうも疑が晴れませぬ」と申す者が度々あります。法然上人の御時分にもこの様な疑を持つた人があつたので、法然上人は疑ひが晴れぬなら疑ながら念仏せよ、念仏さへして居れば念仏の御徳で遂に疑が晴れて往生が出来る。疑ひながらの往生ではない(註、このまま文章が続くが、ここで切るべきではないか)念仏して居すれば自ずから疑がなくなつて往生が出来るのである。故に念仏にて往生すると心得れば三心が此の中に具はると仰せられてある。一枚起請文にも「たゞ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して、疑ひなく往生するぞと思ひとりて、申すほかには別の子細候はず。但し三心四修と申すことの候は、みな決定して南無阿弥陀仏にて、往生するぞと思ふうちにこもり候なり」と仰せられた如く、己が心で気張るのではない(註、ここで切るべきでないか)南無阿弥陀仏で往生するぞと露塵ほども間違いないと心得て念仏するのであります。

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機法権実法話(8)

2017年11月26日 | 利井鮮妙和上集

 今、南無阿弥陀仏は他力の水である。往生はこのまま出来るとお説きなされるお言葉を聞きながら、往生は出来まいと思う者は往生出来ぬ。餓鬼が水を火と見ると同じく往生の間違はぬ証拠を間違ふから間違ふ。間違いないと聞けば間違はぬのである。この意(こころ)を「往生は一定と思へば一定、不定と思へば不定なり」と御示しなされたのであります。
 此の教化の通りお助けに間違いのであるから、今度の往生は一定ぞと心得て安心すればよい。それで兼好法師もここを喜んで『是(これ)も尊し』と云はれた。

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機法権実法話(7)

2017年11月25日 | 利井鮮妙和上集

お経によつて伺ふと、釈迦如来様が御在世の時に恒沙の上に一の餓鬼が居つた。其の餓鬼が水の辺(ほと)りに立ち寄って首を延ばし舌をのべて水を飲まんとしては驚きたる様にて水より離れる。かくの如き事を幾度も繰り返してゐる。これを釈迦如来様が御覧遊ばして何故そんな事をするかと御尋ねなされたら、餓鬼の云(いへ)るやうは、『私は何百年といふ永い月日を水一滴米一粒をも食ふ事も飲む事も出来ず飢饉飢渇の苦しみにかかつて居ります。所が此の川辺に参りますと清々とした水が溢れて流れてゐますから、それこそ思ふまゝに飲もふと首を差し出し舌をのべて将に水に接せんとすれば水悉く火焔となつて一滴の水もなく、驚いて舌を引けば豆ばかりの火はなくて清い清い水が流れてゐる。で又飲まんとすれば水忽ち火となつて飲むことが出来ぬのであります』と、申しました。釈迦如来様はさらに『何故お前は餓鬼になりたのであるか』とお尋ねなされたら、餓鬼の云へる様は、『私は前生に仏の真実(まこと)の教えを聞きながら虚偽(うそ)と思ひまして信じませんために遂にこの様な餓鬼となり水を水として飲むことが出来ぬのあります』、そこで釈迦如来様の仰せられる様は、『水は水に違ひないから飲め』と仰せられた。餓鬼は嬉しげに前の如く首をのべ水を飲もうとしては驚いて首を引きました。釈迦如来様はこれを見て、『そなたは餓鬼の根性をあてにしてゐるから又火になりはせぬかと恐れを抱いて首を引くのである。仏が水ぢゃといふをまだ疑ふて居れば何時までも家である。仏が水なりといへば決して間違はぬから水と信ぜよ』と、餓鬼は仏語に虚妄はない、燃えても水に違ひないと信じられた遂に水が水と飲めた。これは水が水と燃ゆると執じてゐたから飲めなんだが、仏様からお真実(まこと)をお真実(まこと)と聞き、水は必ず水なりと教へられた如く水なりと心得たる時、餓鬼根性が転じて仏の語(ことば)通り水が水と飲めた。

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機法権実法話(6)

2017年11月22日 | 利井鮮妙和上集

 「往生は一定と思へば一定なり、不定と思へば不定なり」とは、私が往生決定と思ひ堅めたなら往生が出来、私が往生如何か危ぶのは往生は出来ぬから、我心を確か歯をかみしめ拳握りいよいよ往生と心得よと、自力で思ひ堅めて往生が定まるかの様に聴聞すれば大きな誤りである。南無阿弥陀仏と申すは大悲の親様が五劫に思惟し永劫に修行していよいよ衆生の往生は一定と御定めなされた。其の証拠が南無阿弥陀仏でなれば、其の南無阿弥陀仏の通りに往生一定と聴聞が出来れば往生が一定する。往生の証拠たる南無阿弥陀仏を不定と思ふたら不定になり、決定と信ずる者は往生の決定を得るのであります。喩へば水は元より水であるが水が火であらう筈がない。それを餓鬼は餓鬼の根性を以つて水を見て火と思ふて焼かれる。故に「餓鬼は水を火と見候」と仰せられた。

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機法権実法話(5)

2017年11月20日 | 利井鮮妙和上集

 「目の覚めたらんほど念仏し給へ」お寺参りをしてよくねむたがる人があり、此の座の中でもとかく眠って懈怠がちで称名をせぬ人はありませんか。もしありとすれば、そんな方には如来様に眠らぬ様になつて参れと仰せられぬ。目の醒めた時に御相続をせばそれでよい。聖覚法印が師匠法然上人の御教化を聴聞なされてそれを我々にお伝へ下された御教化がありまして、其の教化の中に「ひめもすに遊びたはふるるは散乱増のものなり、夜もすがらねむるは睡眠増のものなり、これみな煩悩の所為なり、たちがたく伏しがたし、遊びやまば念仏をとなゑ、ねむりさめなば本願をおもひいづべし」と仰せられて、遊びたはむれても遊びやまば本願のありがたさを思ひ出せ、眠り伏しても醒めば称名をせよ、それでよいといふ御教化であるから、こんな手安い事で煩悩成就の私を助けて載くことのありがたさよと心得て称名さればよい。故に御文章には思ひ出さんときは南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称すべきであるとお勧めなされてある。決して遊んではならぬ眠りてならぬとは仰せられぬ。眠りさめた時、遊びやんだ時に喜ぶと仰せられるのである。誠に易いありがたい御教化ではないか。

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機法権実法話(4)

2017年11月19日 | 利井鮮妙和上集

 兼好法師が法然上人のお物語りを聞いて、それを徒然草に載せてある。ある人、法然上人に念仏の時、眠りに侵されて行をおこたり侍(はんべ)ることいかがして、この障りをやの侍(はんべ)らんめ申しければ(註、誤植か)、目のさめたらんほど念仏したまへと答へられける。いと尊かりけり。又往生は一定と思へば一定、不定と思へば不定なりといはれけり。これも尊し。又疑ひながら念仏すれば往生すともいはれけり。これも又尊しと。
 法然上人は源平戦乱の時の方で、兼好法師はそれより二百年の後、南北朝時代の有名な仏門の歌人であります。
 今この兼好法師の言葉によつて話しを致します。

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機法権実法話(3)

2017年11月18日 | 利井鮮妙和上集

 で今爰(ここ)の本堂は阿弥陀経でお立ち相は大経、参詣のおのおの方のあさましい事を御知らせなされたが観経、私等は諸仏でなけれどもこの名号の御所由(おいわれ)をおのおの方に御話しするが諸仏の御説法と同じいのである、そこで此のお座が機法の出合い三部経の御真実(おまこと)の顕はれである。
 こう伺ふて見れば三部経は昔の尊い話が説かれてあるのではなく、今ここで我等凡夫に幸福(しあはせ)をさせようとて三千年の昔にわざわざお出ましなされて説いて聞せて下されるのが三部経であります。
 前回に出世の本懐と申す事を御話し申して釈迦如来が此の上もない大悲を以て西方浄土で衆生をお済度遊ばすのを止めて、驚いて此の娑婆に出でて未来のためにとて三千年の末に今日此の御座の有様をお説きなされていよいよ往生は出来るぞと三部経にお説きなされた。
 仏語に虚妄がない、仏語に虚妄がないから真実(ほんとう)に聞いたら聞いたままで行ける、それで応信如来如実言と仰せられてあります。
 根機拙(つた)なしとて卑下すべからず、仏に下根を助くる大悲あり、行業疎かなりとて疑ふべからず、経に乃至一念の文あり、仏語に虚妄なし本願豈(あに)誤りあらんや。
 機のあさましいにつけても、かかるあさましい愚かな懈怠ものを助けたまふ本願と真実(まこと)ぞろへの御教化を聴聞すればいよいよ安心し何の苦労も造作もいらぬ、ただ仏の御慈悲の独り働きで御浄土へ参らして戴くのであります。
 いよいよ参れる間違はず助かると頂いて見ればこれほど尊い、これほどありがたい事はなく、またこれほど心やすい事はないのであります。同行方は安心決定してお慶びなさい。

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機法権実法話(2)

2017年11月17日 | 利井鮮妙和上集

 これを喩へて申しますと、大無量寿経の説き方は医学校で医学博士が医学校の生徒に肺病の治療の法を講釈する様なものであります。観無量寿経は肺病人が彼方(あちら)の医者にかかっても、此方(こちら)の薬を用いても、少しも効(ききめ)が見へず、悶(もだ)え悶(もだ)えて、とても治る見込みがないといふ事を説いたのであります。次に阿弥陀経は其の治る見込みのない肺病人が先きに医学博士より講釈した療法薬を施して其の肺病の治る有様を御説きなされたのであります。
 今一つわかりやすく申せば、大経は此の本堂であって、この本堂には如来さまがお座らせられ、前には御経文や御聖教が安置してあって、助くる如来様や助かる法を明かにしたのが大経であります。また観経はおのおのがたが我が家にあって、すむわすまぬわ、なるはならぬは、あるいは煩悩悪業で日暮ししている有様をお説きなされたのであります。阿弥陀経は其のあさましい煩悩悪業の身が此の本堂へ煩悩ぐるめに参っている、家にいても悪業こしらえ参っていても煩悩つくり、かかるあさましい凡夫をお助けがあの如来様、あの御経文ぢゃと、法と機とつき合わして造悪不善の身ながら、南無阿弥陀仏一つにて往生するぞとお説きなされたが阿弥陀経であります。

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機法権実法話(1)

2017年11月15日 | 利井鮮妙和上集

機法権実法話(真宗論題法話其二)
                             利井鮮妙述

 前回に出世本懐と申すお話しを致しましたが、今席は機法権実と申すお話を致します。
 さて『口伝鈔』と申す御聖教の中にこんなお言葉があります。
 
『大無量寿経』は、法の真実なるところを説きあらはして対機はみな権機なり。『観無量寿経』は、機の真実なるところをあらはせり、これすなはち実機なり。いはゆる五障の女人韋提をもつて対機として、とほく末世の女人・悪人にひとしむるなり。『小阿弥陀経』は、さきの機法の真実をあらはす二経を合説して、「不可以少善根福徳因縁得生彼国」と等説ける。無上大利の名願を、一日七日の執持名号に結びとどめて、ここを証誠する諸仏の実語を顕説せり。これによりて「世尊説法時将了」(法事讃・下)と等釈[光明寺(善導)]しまします。(『註釈版聖典』九○○~九○一頁)

と、この意は、大経は法実機権、観経は法権機実、小経は機法合説したことになる。大経をお説きなさる時の御対手(あいて)は権人(ごんじん)である。権人といふのはお浄土から仏菩薩が権(かり)に姿を人に現わした方々で、この聖者方に釈迦如来様が弥陀の大悲の誓願を説いてきかされたのが大無量寿経の説相でありますから、この経を法は真言(まこと)で機は権(かり)であると申すのであります。また観無量寿経は法権機実といふて、五障垢穢の韋提希夫人を対手(あいて)として、これで勤まるか、これで勤まるかと、自力の諸善万行を次から次と説いて聞かせて、これもいけず、彼も勤まらずと、つとまらぬことを承知させて、唯一作悪の悪の塊りたる凡夫の助かるべき道は更にないといふ事が現はれたのが観経の説相であります。で阿弥陀経には大無量寿経の真実(まこと)の法と観無量寿経のあさましき機のありべかかり(註、誤植か方言か)とを合説されたのあります。

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法要御礼

2017年11月10日 | 水月随想

 謹啓 慈光照護のもと 貴院益々御清祥にて二利御双行の御事お慶び申し上げます。
 さて、先日は拙寺におきまして親鸞聖人七百五十回大遠忌法要を修行させていただきましたところ、法務何かとお忙しいなか、御出勤たまわりまして、まことにありがとうございました。そのうえ過分なる御懇志を頂戴し、重ねて御礼申し上げます。そして当日は天候にも恵まれ、無事満行できましたこと、ひとえに仏祖と皆さまがたのおかげであると、ただただ「感謝」の言葉しかありません。
 ただ、日程のなかへ稚児に本堂を行道させるという、はじめての試みを組み入れたため、また諸役員との記念撮影のため、皆さまがたにお待ちいただく時間が長くなってしまったであろうこと、申し訳ありませんでした。そのほか、諸事不行き届きの点が多々あったかと思いますが、何とぞ御海容いただきたく、お願い申し上げます。
 今後はいっそう、親鸞聖人がお示しくださいました、浄土真宗のみ教えをいただいて、阿弥陀さまの御本願を仰ぎ、お念仏申しつつ、お浄土を目指す人生を歩んでまいりたいと思いますが、みずからをかえりみれば、浅学不徳の身、どうぞ今まで以上の御指導をたまわりますよう、お願い申し上げまして、御礼の言葉とさせていただきます。ありがとうございました。
 あとになりましたが、これから寒さに向かいます。御法体、くれぐれも御自愛くださいませ。
                                   合 掌

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どっちやねん

2017年11月03日 | 水月随想

 ガードマンと呼んでいいのでしょうか。たいへんな仕事であると思います。夏の暑い日、冬の寒い日、ずっと立たれています。ご苦労さまですといわずにおれません。
 ところが先日、車で走っていると、向こうのほうで道路工事があるらしく、ガードマンの方の姿が見えました。右手に赤い旗、左手に白い旗を持たれています。近づいていくと、赤い旗を振られていますので、ブレーキを踏み、減速しました。すると、その赤い旗で、大きな動作ではありませんが、「進め」というような形をされるのです。でもそれは赤い旗ですから、さらに車を減速し、ほとんど止まる寸前に、今度は大きな動作で赤い旗を振り、怒ったような顔で「進め」といっているようです。何度もいいますが、それは赤い旗ですよ。左手には白い旗を持っているのですよ。「進め」というんだったら、白い旗を振るべきでしょう。それが赤い旗を振るのです。「どっちやねん」思わずいいそうになりました。そのままガードマンの指示とおり進みましたが、あの白い旗は何のために持っていたのでしょうか。どうでもいい話ですが……。

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法要表白

2017年11月02日 | 水月随想

敬って
大慈大悲の阿弥陀如来
宗祖・親鸞聖人の御前に申し上げます
本日ここに
御縁の深い○○市内の御住職
そして御門徒の皆さまとともに
恭しく尊前を荘厳して
親鸞聖人七百五十回大遠忌法要を
おつとめさせていただきます
つらつら思いますに
親鸞聖人の九十年の御生涯は
まさに波瀾万丈でありました
そのなかで元仁元年 西暦一二二四年
五十二歳のころより書きはじめられ
晩年にいたるまで手を加えつづけられた
顕浄土真実教行証文類 一部六巻は
本願力回向のみ教えを浄土真宗と名づけられ
組織体系化してくださいました
総序と呼ばれる全体の序文には
次のように仰せられています

ひそかにおもんみれば
難思の弘誓は難度海を度する大船
無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり
しかればすなはち浄邦縁熟して
調達 闍世をして逆害を興ぜしむ
浄業機彰れて 釈迦 韋提をして安養を選ばしめたまへり
これすなはち権化の仁 斉しく苦悩の群萌を救済し 
世雄の悲 まさしく逆謗闡提を恵まんと欲す
ゆゑに知んぬ 円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智
難信金剛の信楽は疑を除き証を獲しむる真理なりと
しかれば凡小修し易き真教 愚鈍往き易き捷径なり
大聖一代の教 この徳海にしくなし
穢を捨て浄を欣ひ 行に迷ひ信に惑ひ
心昏く識寡なく 悪重く障多きもの
ことに如来の発遣を仰ぎ かならず最勝の直道に帰して
もつぱらこの行に奉へ ただこの信を崇めよ
ああ 弘誓の強縁 多生にも値ひがたく
真実の浄信 億劫にも獲がたし
たまたま行信を獲ば 遠く宿縁を慶べ
もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば
かへつてまた曠劫を経歴せん
誠なるかな 摂取不捨の真言 超世希有の正法
聞思して遅慮することなかれ
ここに愚禿釈の親鸞
慶ばしいかな 西蕃月支の聖典 東夏日域の師釈に
遇ひがたくしていま遇ふことを得たり
聞きがたくしてすでに聞くことを得たり
真宗の教行証を敬信して
ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ
ここをもつて聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと

今ここに私たち
愚禿と名のられた親鸞聖人のみ言葉をいただき
それぞれの生死出づべき道 生と死を超えていく道
阿弥陀如来の本願を仰ぎ お念仏申しつつ
お浄土への人生を歩み続けて参りますことを
つつしんで申し上げます

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