天上の月影

勅命のほかに領解なし

赤ちゃんのはたらき

2017年10月27日 | 水月法話

 これまでずっと考えてきたが、いい譬喩が思い浮かばなかった。これも適切とはいえないかもしれないが、ここ数週間、毎火曜日の夜にお参りをさせていただいている若いお父さんのことである。おつとめを終えて御布施を出してくださる手に入れ墨が見えるから、昔はヤンチャをしていたのであろうと思う。ところが数週間前、わずか五ヶ月の赤ちゃんが突然亡くなった。あまり詳しいことは聞けていないが、うつぶせで寝ていて、窒息死したそうである。奥さんはただただ泣き崩れるばかりであった。祖父も祖母も、また親戚の方々も同じである。「かける言葉がない」と言葉を詰まらせていた。その先に小さな棺のなかで寝ている赤ちゃんがいた。若いお父さんは涙をこらえながら気丈に、「五ヶ月の子だからといって簡単に済ませるのではなく、成人と同じように通夜・葬儀をしてあげてほしい」と私にいった。むろん私もそう思った。そして悲しい通夜・葬儀・初七日法要を終えた。すると、お父さんは「満中陰までの七日、七日のお参りもしてほしい」といった。それで毎火曜日の夜にお参りをさせていただいているのである。

 拙寺ではそうしたおり、『阿弥陀経』のおつとめをしている。しかも皆さんと一緒にである。それがいつしか習慣になって、私がお参りに行かせていただくと、皆さんはお経本をそれぞれ手にするようになっている。「では、『阿弥陀経』のおつとめをさせていただきます。その本の○○ページからです」と声をかけ、カネを鳴らして、「仏説阿弥陀経、如是我聞、一時仏在……」と音木を打っていると、そのお父さんもたどたどしく、ついてくる。おそらくはじめてお経をおつとめするから、なかなかうまく読めない。そこで私は、音木をゆっくり、お父さんの声に合わせて打っている。普段よりはそうとう長い時間がかかっていると思う。そしておつとめを終え、ちらっとお父さんを見ると、顔の前で両手を合わせている。正しい合掌の作法ではないが、私は何もいわず、お父さんの気がすむまで合掌を終えるのを待っている。また先日は、お父さんのお父さんがお参りに来ていて、おつとめのあと、お経本を手にして「これは床に置いたらアカンねんな」というので、私が「そうです。こうした念珠やお経本は足で踏むところに置かないというのが最低限の作法ですね」というと、みな一様に床にあったお経本を膝の上に置いた。それを見ていて思った。お父さんたちは赤ちゃんのためにと思って、おつとめし、合掌し、お経本を膝に置いたのかもしれない。しかし、そうした行為は自分でしていることに間違いないが、実は赤ちゃんがそうさせている。今までお経本など手にしたこともなかったであろう、お父さんたちを、赤ちゃんが、おつとめせしめ、合掌せしめ、膝の上に置かしめているのではなかろうか。そこから、お念仏というものは、確かに自分の行でありながら、実は阿弥陀さまが私の上にはたらいて、お念仏申させている、如来の行であったと味あわせていただいた。「しかるにこの行は大悲の願より出でたり」 阿弥陀さまが諸仏さまに讃嘆させ、お名号が私に届けられていた。それをいただいてお念仏申しているが、お念仏の根源は阿弥陀さまにあったのである。

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法要挨拶文

2017年10月19日 | 水月随想

 平成17年(2005)、本願寺前門主さまから「御消息」が発布され、「親鸞さまの御法要を皆でおつとめいたしましょう」と呼びかけられました。

 それを受けて当山○○寺では、平成29年(2017)11月5日に親鸞聖人七百五十回大遠忌法要を厳修させていただきます。皆さまにおかれましては出費多端の折りにもかかわらず、御理解をいただいたうえに、御懇志をたわりましたこと、あつく御礼申し上げます。ありがとうございました。また当日は、諸役員の方々にたいへんお世話になりますが、何とぞよろしくお願い申し上げます。

 親鸞聖人は「選択(せんじやく)本願は浄土真宗なり」とお示しくださいました。「選択(せんじやく)本願」とは、「第十八願」とも単に「本願」ともいわれますが、阿弥陀さまが私たち一人一人を「かけがえのない大切な大切な如来の子よ」と慈しみたまい、「どうかお願いだから、たとえ十遍でもいい、お念仏申す身になっておくれよ。そのあなたを必ずわが浄土に生まれさせる」と仰せになる、み言葉のことです。それが浄土真宗の本体であるといわれるのです。私たちはそのみ言葉を、どうだろうか、こうだろうか、と考えることなく、けっこうですと拒むことなく、その通り聞き入れさせていただくのです。それを浄土真宗では「信心」と呼びます。その「信心」のすがたは、阿弥陀さまが「お念仏申す身になっておくれよ」との仰せでありますから、口に南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とお念仏申していることです。また「わが浄土に生まれさせる」との仰せでありますから、この命終わったならば間違いなくお浄土に生まれさせていただくと、人生の行方、命の行方を聞き開いていることです。いいかえれば、お浄土を目指しながら、お念仏の人生を歩んでいくことです。そこに、生きるということはお念仏申すことだ、死ぬということはお浄土に生まれさせていただくことだと、生きることの意味と、死ぬことの意味が知らされます。意味があれば、生と死を同じ価値をもって受け入れていくことができます。それを生と死を超えるというのです。あるいは「生死(しようじ)出づべき道」というのです。親鸞聖人が求めたのはその道でした。ところが私たちは生に迷い、死に怯えながら、日々を過ごしています。ゆえにこそ本当に聞かねばならないのは阿弥陀さまのみ言葉といえるでしょう。このたびの法要はまさに私たちにとっての御勝縁にほかなりません。ぜひとも御参詣いただき、一人一人が「生死(しようじ)出づべき道」を切り開いていきたいと存じます。
                                   合 掌

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