天上の月影

勅命のほかに領解なし

念仏の道場(6)

2017年06月30日 | 水月法話

(これは山本佛骨和上『現代人のための親鸞』(雄渾社、一九八六年)からの転載である)

 かくて源信僧都は、すべてのものを拝んでいかれた。その心はただひとすじに、地上の浄穢善悪一切を、菩提をうるためと味われたのである。世の苦しみに目を閉じて、顔をそむけていくのは逃避である。逃避には絶対の喜びは起こらない。むしろ、つき進んで、世の苦しみをじっと正視しつつ、それが救われ尽す本願の道に立たねば、真の克服もなく、人生の喜びは味われないであろう。このようにして菩提を欣う、浄土への道に立たしめられてこそ、悪を転じて徳と成す、世の喜憂を超えた法悦が光るのでありましょう。

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念仏の道場(5)

2017年06月29日 | 水月法話

(これは山本佛骨和上『現代人のための親鸞』(雄渾社、一九八六年)からの転載である)

 それは、けっして負けおしみでも、意地でもない。そんなものをいっさい越えしめられ、み仏の願いに引かれていく、怨親ともに救われる永遠の真理への道である。み仏の願いは、あらゆる階級や差別、人のひがみや悲しみを摂して、自利利他円満の浄土を与えられるのである。このような信仰の世界は、もちろん単なるあきらめではない。単なるあきらめには、どうしてこんな大きな喜びが生まれようか。むしろそんな意地やひがみを離れて、如来の本願に摂取されていく、永遠のやすらかな超克に立たしめられるのであります。
 源信僧都が「世のすみ憂きは厭うたより、人かずならぬ身のいやしきは、菩提を欣うしるべきなり。このゆゑに人間に生まれたることをよろこぶ」といわれたのはこれであろう。自分にとって、最も痛ましいと泣き悲しんだことさえも、かかる信仰も世界には、喜びと転ぜられていくのである。親鸞聖人は「悪を転じて徳と成す正智」といわれている。かくてすべてのものが信仰の世界に消化され尽すのであります。
  かくの身になりたまふともやごとなき、仏とおもひおろがみており
 これは尾道千光寺の先徳が、詠まれた歌だと聞いているが、敬虔にお念仏をいただく日からみれば、自分の敵でも、また拝む心が起きるであろう。そしてそこにこそ、敵も味方も救われる。自他不二の世界が開かれていくのであります。

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念仏の道場(4)

2017年06月28日 | 水月法話

(これは山本佛骨和上『現代人のための親鸞』(雄渾社、一九八六年)からの転載である)

わたくしには、これほど感激した話はない。恨んだものも恨まれた者も、敵も味方も、ともに一つの世界に救われていく。それはお念仏をおいて他に何があろうか。この世のいかなる理屈も、かかるうるわしい信仰の前には及ばないであろう。しかも「この世はお念仏をいただかせてもらう訓錬の道場であった」と味わっておられる。つらい悲しい訓錬をへて、そこに人間の計らいも、我執も捨てしめられ、ただみ仏の前にひれ伏すことができるのである。そして永遠の真理に直結せしめられていくのである。小さなわれわれの足跡が、そのまま大きな真理に直結せしめられてこそ、おおらかな人生目的が鮮活によみがえっていくのでありましょう。
 それは、けっして負けおしみでも、意地でもない。そんなものをいっさい越えしめられ、み仏の願いに引かれていく、怨親ともに救われる永遠の真理への道である。み仏の願いは、あらゆる階級や差別、人のひがみや悲しみを摂して、自利利他円満の浄土を与えられるのである。このような信仰の世界は、もちろん単なるあきらめではない。単なるあきらめには、どうしてこんな大きな喜びが生まれようか。むしろそんな意地やひがみを離れて、如来の本願に摂取されていく、永遠のやすらかな超克に立たしめられるのであります。(

 

 

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念仏の道場(3)

2017年06月27日 | 水月法話

(これは山本佛骨和上『現代人のための親鸞』(雄渾社、一九八六年)からの転載である)

 そして、その娘さんがさらに言いつづけられた。「それはわたしも、離縁になった当初は、悲しくて悲しくて、それこそ二晩も三晩も、枕の底に涙がとおるほど、人知れず泣き明かしたことが、どれほどあったかわからない。夫が憎い、姑がうらめしい、残してきた子どもがかわいい。恨みと愛着に焼かれ溺れて、胸もはりさける苦悶の中をのたうちまわった。自分で自分を押さえきれない。いまにも胸がはりさけて狂いだすか、天地が砕けて目の前に落ちてくるかと思った。しかしご法義を聞いてから味わってみれば、恨んだむかしがむしろ恥ずかしい。あの人たちは、みんなわたしにご法義を聞かすためにおってくださった、善知識さまであったと、今ここから手を合わせて拝んでおりますよ。わたしさえ救われれば、みんな救われていくのです。ひっきょうこの世は、お念仏をいただかせてもらう訓錬の道場でありました。訓錬にはらくな訓錬のあろうはずがありませんものね─」と澄みとおった笑顔の中に、手を合わせてお念仏を喜ばれたということであります。

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念仏の道場(2)

2017年06月26日 | 水月法話

(これは山本佛骨和上『現代人のための親鸞』(雄渾社、一九八六年)からの転載である)

 「人はこの世へ、お念仏をいただきに来たのですよ」ああ、なんという力強い言葉であろう。これこそ三千世界にも響きわたる、覚者の声にもひとしかろう。たくさんな理屈を覚えたよりもかかる一言こそ、活きたお経文のごとく味わえるのである。はたの目から見て、いかに幸福そうに見える人でも、その人自身が、意義ない心で、一生終っていくならば、これほど哀れなことはない。たとえ人からなんとみえようとも、その人自身に、生まれた意義が明確に味わわれているならば、これにまさる幸福はないといわねばならない。人はみんな死んでいく。みんな落ちていかねばならないのです。たとえ結婚して、一生はなやかそうに暮しても、ひっきょう最後は落ちていく生活ならば、なんの意義も幸福も感ぜられないのは当然であります。

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念仏の道場(1)

2017年06月25日 | 水月法話

(これは山本佛骨和上『現代人のための親鸞』(雄渾社、一九八六年)からの転載である)

 (前略)金沢から二里ほど離れた所に、九谷焼をつくるかまもとの家があった。そこに娘さんが二人あって、姉のほうが嫁入りしてから一年ほどして、男の子まで出来ていたのに、どうした事情か、離縁になって家へもどされた。いくら親の家だといっても、いったんかたづいたものが、離縁になって帰ったのだから、そこには遠慮も、気がねもいるというわけである。それから毎日、日蔭者のような気持で、破鏡の悲しみに歎いていたが、それからしばらくして、二十八の年に、その娘さんが亡くなっていかれた。亡くなる一週間ほど前に、妹が姉の枕元へいって「姉さん、世の中に、あんたほど不幸な人はありません。嫁入りすれば離縁になる。家へもどれば日蔭者の日暮しをして、わずか二十八の年をもって死んでいく。姉さん、ほんとにあんたの人生は短いものでした。この短い人生を、なんのために生まれてきた、まるで姉さんは、この世へ泣きに生まれてきたようなものですね……」と姉の手をとって泣き伏した。
 すると病気の姉が寝間の中からにっこり笑顔をうかべて、静かに首を横に振りながら、「いいえ、すみこさん(妹の名)世の中にわたしほど幸せ者はないと、喜んでおりますよ」と言った。妹はおどろいて、「姉さん、そんな気がねはやめてください。あんたの悲しい心は、よくわかっております。それに、真実の親にも妹にも、心配をかけまいと思って、悲しい涙をおしつつんで、そんな意地をいわれる、姉さんの、いじらしい気持がわかればわかるほど、わたしは気のどくでなりません」とさめざめと泣きだすと、病気の姉が寝間の上にガバッと起きあがって、「なにをいうか、人は此世へ、お念仏をいただきに来たのですよ」とお念仏を唱えたということであります。

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浄土真宗のかなめ

2017年06月24日 | 水月法話

 江戸時代の終わりごろ、一蓮院秀存(一七八八~一八六○)という学徳兼備の名僧がいた。美濃国(岐阜県)の出身であったが、のちに播磨国(兵庫県)赤穂の萬福寺(真宗大谷派)に入り、第十八世の住職となられた方である。多くの逸話が伝わっているが、いまは梯實圓氏『妙好人の言葉』(法蔵館、一九八九年)によって、ひとつ紹介しよう。

 あるとき四、五人の同行が、一蓮院の役宅をたずねてきて、御本山に参詣した思い出に、浄土真宗のかなめをお聞かせいただきたいとお願いしたとき、一蓮院は、一同に、
「浄土真宗のかなめとは、ほかでもない、そのままのおたすけぞ」
といわれました。すると一人の同行が、
「それでは、このまんまでおたすけでござりますか」
と念をおすと、師は、かぶりをふって、
「ちがう」
みはな驚いて、しばらく沈黙していましたが、また一人が顔をあげて、
「このまんまのおたすけでござりますか」
とたずねました。しかし師は、またかぶりをふって、
「ちがう」
といったきり、お念仏されます。皆はもうどう受けとっていいかわからなくなって、お互いに顔を見合わせていましたが、また一人が、
「おそれいりますが、もう一度お聞かせくださいませ。どうにも私どもにはわかりませぬ」
というと、師はまた一同に対して静かに、
「浄土真宗のおいわれとは、ほかでもない、そのままのおたすけぞ」
それを聞くなり、その人は、はっと頭をさげて、
「ありがとうございます。もったいのうござります」
といいながらお念仏いたしますと、一蓮院は、非常によろこばれて、
「お互いに、尊い御法縁にあわせてもらいましたのう。またお浄土であいましょうぞ」
といわれたそうです。

 この話を梯實圓氏が解説されて次のようにいわれています。

 浄土真宗の法義を聞くというのは、ただ話を聞いて理解すればいいというものではありません。また、法話に感激して涙をながせばいいというものでもありません。煩悩にまみれた日暮しのなかに、ただようている私に向って「そのまま助けるぞ」とおおせくださるみことばを、はからいなくうけいれて「私がたすけにあずかる」と聞きひらかねば所詮がないのです。私のたすかることを聞くのが聴聞なのです。

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本間能忠(2)

2017年06月23日 | 水月随想

 橘正隆氏『河崎村史料編年志』(両津市河崎公民館、一九六四年)二三二頁に、


    古佐渡本間系図に能忠を、「保安三年(一一二二)生れ、八十三歳死」、としてある、

と述べられています。新潟県佐渡郡二宮村教育会編『二宮村志』(一九三八年)所載の「〔定本〕佐渡〔雑太及河原田〕本間系図」に括弧書きで「保安三年生」(三九頁)とあるのをいっているのでしょうか。ただそれには「八十三歳死」という記述はありません。そこでその元となった別の系図があるようですが、いまだそれを見つけることができません。『佐渡名勝志』にもないようです。橘氏がいわれる「古佐渡本間系図」というのは、行空が忠綱に念仏の法門を授けたという註記のある系図(これはおそらく『佐渡名勝志』所収の「中興村西蓮寺本間系図」と思われます)と同じく、何を指しているのかわからないもどかしさを感じます。それでも橘氏が何の根拠もなくいわれることはないでしょうから、どこかにそういう系図があるのでしょう。そこで保安三年(一一二二)生まれで八十三歳で歿したとすると(数え年として)、歿年は元久元年(一二○四)ということになります。つまり能忠の生没年は一一二二~一二○四です。これによって能忠の生涯を見てみると、文献にあらわれるのは、『吾妻鏡』元暦二年(一一八五)四月十五日条に、頼朝が内挙なく任官して本国に下向することを停止せしめた御家人のなかに、海老名季定の嫡男である季久の子・季綱とともに「馬允能忠」とあります。二人とも「御勘当すこし免してあるべきところ、由なき任官かな」といわれています。六十四歳のときにあたります。その後、文治五年(一一八九)七月十九日条、建久元年(一一九○)十一月七日条、十一月十一日条、建久二年(一一九一)二月四日条、建久六年(一一九五)三月十日条、三月三十日条に名が見えます。とくに建久六年三月三十日条には、

    将軍家御参内。殿下(=九条兼実)御参会ありと云々。この門前において、本間右馬允、犯人を搦め取ると云々。

と記されています。七十四歳のときです。そのような高齢で犯人を搦め取ることなどできるのかと思いますが、逆にそのような高齢で搦め取ったからこそ特筆されたのかもしれません。

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本間能忠(1)

2017年06月22日 | 水月随想

 本間氏の諸系図によれば、本間氏の祖・能忠は海老名季定の子とされています。ただ季定の子に五人あり、能忠は養子ではないかという説があるようです。本間高明氏『佐渡羽茂(はもち)本間家 滅亡した先祖からの伝言』(新人物往来社、二○○三年)八二~八三頁に紹介されています。鈴村茂氏「武士団・海老名党の構成(二)」という論文らしいです。それは『県央史談』という雑誌に掲載されているらしいのですが、近くの図書館にないので見ることができません。そこで本間高明氏の著書を引用すると、「能忠養子説」として次のように述べられています。
  

  ところで、さきに能忠は季定の子と書いたが、『佐渡国誌』記載の『守護本間系図』には、「五郎能忠」と書かれており、その他の『本間系図』も、能忠はすべて兄弟の五番目に記載されている。『海老名・荻野系図』と『小野系図』では二番目である。このことに関連して、能忠は季定の実子ではなくて、養子または庶子(正妻外の子)ではないかという説がある。『本間系図』(丸山本)の能忠の注記に、「実源満政次孫忠重次子、母横山権守右馬亮姉相子」とあり、このことについて、『県央史談』の「武士団・海老名党の構成(二)」(鈴村茂)の中で、
    (1)海老名の家紋は、「庵に二つ木瓜」または「海老紋」であるのに対して、本間の紋は系統の異なる「十六目結」であり、これは近江源氏佐々木氏の目結紋系統の紋であること。(後略)
    (2)季定の子五人のうち四人が「季」の字を用いているが、能忠のみは、これを用いていない。
    の二点をあげて、養子または猶子説をとっている。説得性のある指摘のように思う。

そして本間高明氏自身も鈴村説と同じ結論に達したといわれています。詳しいことは省略しますが、確かにいわれてみると、能忠にだけ「季」の字がないのは不自然に思われます。かといって、ではなぜ二番目に位置づけている系図があるのかと問えば、何と説明するのでしょうか。ただ、それだけでは「能忠養子説」の反論になりませんので、そういう説もあるということでとどめておきたいと思います。

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海老名季定

2017年06月21日 | 水月随想

 本間氏は海老名季定の子・能忠からはじまります。その能忠について新潟県佐渡郡二宮村教育会編『二宮村志』(一九三八年)所載の「〔定本〕佐渡〔雑太及河原田〕本間系図」には括弧書きで「保安三年生」とあります(三九頁)。一一二二年です。本間高明氏『佐渡羽茂(はもち)本間家 滅亡した先祖からの伝言』(新人物往来社、二○○三年)二二二頁も「概ね一一二○年前後と推定される」といわれています。ただし、それが正しいのかどうかわかりません。そこで年代を特定するため、まず父である海老名季定の動向を見てみたいと思います。『保元物語』上によれば、保元の乱(一一五六年)において源義朝に随う手勢の者、二五○余騎のなかに「海老名の源太季定」とあります(『岩波新日本古典文学大系四三』四一頁)。他にも「海老名の源八」(五七頁)、「海老名の源八季貞」(五九頁)、「海老名源八季貞」(六五頁)と出てきます。みな季定のことです。そして平治の乱(一一六○年)には参加していないようですが、その戦さによって源義朝は敗れ、頼朝は伊豆に流されました。『曽我物語』巻第一によれば、安元二年(一一七六)伊東の館に来ていた頼朝を慰めるため、相模・駿河・伊豆各国の武士が集まり宴が開かれました。その相模の武士のなかに「海老名源八」がいます。また能忠の弟である「荻野五郎」の名も見えます。そして奥野の巻狩がおこなわれたあと、柏峠で酒盛りがなされ、みな酔いがまわって乱舞の状態になったとき、季定が盃をひかえて次のように言ったと伝えています。
 

   これは、めでたき世の中を、夢現(うつつ)ともさめがたく、昔がたりにならん事こそ、かなしけれ。老少不定といひながら、わかきは、たのみあるものを、若殿ばらのやうに、まいうたはんとおもへども、膝ふるい、声もたたず、りうせきが、塚よりいでて、はんらうが茫然とせしやうに、酒もれや、殿ばら。あはれ、きみかくありし時は、これほどの盃(さかづき)二三十のみしかども、座敷にふす程の事はあらねども、老のきはめやらん、腰膝のたたざるこそ、かなしけれ。(『岩波日本古典文学大系八八』七九~八○頁)

この言葉には少し意味のわからないところもありますが、このとき季定はすでに老齢にあったようです。それでも『吾妻鏡』治承四年(一一八○)十一月二十三日条には「平家被官の輩、三千余騎の精兵」のなかに「海老名源三季貞」の名が見えます(『続国史大系』四・二四頁)。石橋山の合戦です。このとき平家の被官になっていることが注意されますが、老いの身をおして参加したのでしょう。その後、季定の名はあらわれないようです。そこで間もなく亡くなったのでしょう。そうすると、治承四年(一一八○)時点で八十歳であったとすれば能忠は二十歳の時の子ということになります。『二宮村志』がいうように一一二二年誕生として二十歳のときの子とすれば七十八歳であり、あるいは八十歳であったとすれば二十二歳のときの子となり、考えられなくもありませんが、ただそのような高齢で合戦に参加できるか疑問に思われます。もう少し年代を下げるべきではないでしょうか。

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承元元年と承久元年

2017年06月20日 | 水月随想

 橘正隆氏『河崎村史料編年志』(両津市河崎公民館、一九六四年)二四五頁に、

    古佐渡本間系図「忠綱」の註記に、「承元元年流人法本房来りて念仏の法門を授く、法名法心云々」とある(後略)

といわれていることについて、その「古佐渡本間系図」とはおそらく『佐渡名勝志』(新潟県立佐渡高等学校同窓会編、一九九七年)四七九頁所収の「中興村西蓮寺本間系図」のことであろうと思われます。その「忠綱」の註記に、
 

   播磨守 承久元年流人法本坊来りて念仏法門を授く 承久二年順徳院預り奉る 承久三年二月十五日卒 法名法心

とあります。橘氏はこのなかから必要部分を抜粋して引用したのでしょう。ただ、これがとても重要なことであるにもかかわらず、いままで気づかなかったのですが、橘氏の所引は「承元元年」(一二○七)であり、「中興村西蓮寺本間系図」は「承久元年」(一二一九)となっています。「中興村西蓮寺本間系図」に誤植がないとすれば、橘氏は「承久元年」を「承元元年」と誤ったことになります。それも無理はないでしょう。行空が佐渡に流罪になったのは承元元年なのですから。その承元元年に流人である行空が忠綱のもとに来て念仏の法門を授けたと理解をすれば、筋が通ります。また『佐渡国誌』(新潟県佐渡郡役所編纂、一九二二年)四九頁所収の「守護本間氏系図」の註記には、

    承元元年法本坊に戒を受く承久三年 順徳院奉預

とあり、「承元元年」と記しています。これと混同したのかもしれません。あるいは合揉したのかもしれません。「中興村西蓮寺本間系図」の「承久二年順徳院預り奉る」は明らかな間違いであるからです。もし順徳院を預かったというなら、「守護本間氏系図」がいうように承久三年(一二二一)であるはずです。そこで「中興村西蓮寺本間系図」を全面的に信用するわけにはいきませんが、行空が忠綱に念仏の法門を授けたのは承久元年であれば、法然や親鸞が赦免になったのは建暦元年(一二一一)ですから、行空も同じく赦免になったと思われます。「流人」という言葉がひっかかりますが、その後も佐渡にいて、忠綱に念仏の法門を授けたということになります。行空の佐渡における活動といえるでしょう。

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『愚管抄』の「行向」(6)

2017年06月19日 | 水月随想

 前回、三田全信氏が『愚管抄』巻第六の「行向」を「行空」と理解されたのは誤りであると結論づけました。いまもそれに変わりありませんが、新たな資料を入手したので、記しておきます。まず氏が「行向」を「行空」と理解される理由は、慈円が言語障害であったということです。そこで代筆者が慈円の発音のまま記したので「行空」が「行向」となったという見解ですが、その言語障害であったことは多賀宗隼氏編『慈円全集』(七丈書院、一九四六年)七三二頁に収録されている慈賢の仁治元年(一二四○)十二月四日付の消息に「故和上御房(=慈円)も六十六の御年御中風御違例候き」とあり、中風であったことが確認されます。それがただちに言語障害を意味するものではありませんが、その可能性がなかったとはいえないでしょう。
 また古川哲史氏「『愚管抄』の一考察」(『国語と国文学』四一─五、一九六四年)は『愚管抄』の文型の特色から全体を二つのグループに分け、第一は「第三」「第四」「第五」、第二は「第六」「附録」とされます。そして第一のグループが「口述筆記」であり、第二のグループが「慈円じしの執筆であろう」といわれています。「口述筆記」ということは代筆者がいたということになりますが、それは問題の「行向」とある巻第六ではありません。巻第六は慈円自身の執筆と考えられています。ということは「行向」は慈円が記したのです。
 ところが鈴木正道氏『慈円研究序説』(桜楓社、一九九三年)は『愚管抄』の「すべてが『口述筆記』によってなったものであろう、私は考えたいのである」と結ばれています。そうすると、巻第六も代筆者がいたということになります。つまり慈円が「行空」のことを「ぎょうこう」と発音したのを、代筆者がそのまま「行向」と記したのです。
 しかし私が思うに、慈円はそれを見て校正しなかったのでしょうか。「行空」のことであったなら、「行向」ではない、「行空」だと書き直しを命じたと思います。文体の乱れなどはいたしかたないとしても、語句の間違いは正すでしょう。やはり「行向」は「いきむかう」であって、「行空」のことではないと見るべきです。何度もいうように、「行向どうれい」を「行空と」「うれい」と切れば、意味が通じないからです。

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出世本懐法話(6)

2017年06月18日 | 利井鮮妙和上集

 「応信如来如実言」、如実とは「ほんま」といふ事、ほんまとは虚(うそ)でないといふ事、「唯(ただ)弥陀の本願海をとかんとなり」とのお言葉は、「うそ」ぢやない、「ほんま」ぢやから聞き果して遅慮する事なく信ずべしと仰せられた。
 海の水が塩からいとて海へ淡水(まみず)をつき込む様な馬鹿もなければ、海の水が塩がたらんからとて塩を入れて加減せうとする阿呆もあるまい。南無阿弥陀仏は海の様な広大なものであるから本願海とも智慧海とも慈悲海とも功徳海とも仰せられた。此の大きな南無阿弥陀仏の海に向ふて徳を往けるか往けんかと聞いて遅慮するのは、丁度海の水に加減を心配する様な馬鹿な事であるから、そんな事に遅慮し孤疑する事なく如来様の仰せを聞いたまゝを思ふべしとのお言葉である。聞いたまゝを思ふべしとは聞いた通りを思ふので、助くると聞いたりそのまゝに助かると思へといふ事である。誠に有難い事ではないかよく聴聞せねばならぬ。(終)

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出世本懐法話(5)

2017年06月17日 | 利井鮮妙和上集

 能く世間では法華と念仏は犬と猿の様な間柄で、法華は念仏を無間の業ぢやといえば、真宗からは法華が仏になれば犬の糞も肥(こや)しとなるなどゝ争ふ。真宗が出世本懐を談ずるは此様(こんな)争(あらそひ)が根さした様に考へるものもあるが、出世本懐の議論はこんな浅薄な所から出来たのではない。
  高祖上人が弥陀の御法(みのり)は出世本懐ぢや本意ぢやと仰せられたのは深くお自身に引受けて、是非しらぬ邪正もわかぬ造悪不善の凡夫にて、地獄を一定の住家とする我は未来証(さと)りに至るには少しの手がゝりもないものであるが、これを助け救はんと思召(おぼしめ)されたは弥陀の御本願、釈迦如来様此の土に御出世遊ばしたは「唯説弥陀本願海」吾は正に此の法を釈迦如来様のお言葉によつて往生させて戴くなりと、お喜びの余り「出世本懐」をお説きなされたのであつて、犬と猿の様な喧嘩からをこりた出世本懐の論ではない。
 経道滅尽ときいたり
  如来出世の本意なる
   弘願真宗にあひぬれば
    凡夫念じてさとるなり
 さすれば、犬猿の争ひの様な法華との喧嘩(いさかい)は止めて、法華の本懐は聖者の本懐、易行易証の念仏は凡夫のため本懐なりと聴聞すればそれでよいのである。

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出世本懐法話(4)

2017年06月16日 | 利井鮮妙和上集

 或人と人の物語に、「貴殿は沢山に子をお持ちですが、何(ど)の子が一番可愛(かわい)でせうか」と問へば、
 「子は沢山にありますが、どの子が悪い、どの子が可愛といと区別がありませぬ。従順(おとなし)い子は従順(おとなし)いで可愛く、手に合はぬ子は手に合はぬで可愛いものであります」
 「貴殿の子の長男は四十近くなつて一番長く親の許に居り立派な男となつておゐでてすべの自由がきく。末子の九歳のむすめ子は親に養はれる年月に短かく殊に女なればすべての物事に権利がない。この通りに違ふた長男と末子を同じ様に思はれませうか」聞く阿爺はほつと涙を流して。
 「私は六十を越した此の歳(とし)で何時(いつ)死んでもよい様なものゝ、あの末の娘を思ふては思ひ余つて寝られぬ夜も幾度もある。女の子は殊に女の親をたよりにするならひなるに、東西も弁(わきま)へぬ頃、母親に別れて母の慈悲を味はず、私は此の老年で何時(いつ)死別するやらわからぬ身なれば末の子が可愛さに、他から来た嫁にも頭をさげ、云ひたい事も辛抱し、せめて田地の一枚なりともつけてやりたい思ふて兄の手を煩はさずに頼母子講にいるなどいろいろ苦労を致します」と、物語つたさうなが、五人十人の子を平等に親は愛するとしても殊に力ない幼ない末子は可愛いもの。
 仏の大悲、西方浄土の化益を止めて御娑婆世界にお出ましなされたは、五濁悪時の吾等の如き罪悪の凡夫は外(ほか)並の御法(みのり)では助からぬから我等を特に憐れみましまして南無阿弥陀仏をお説き下されたのである。こゝを正信偈には次に「応信如来如実言」と仰せられた。天台真言は法は結構な法でもあらうが五濁悪時の我等凡夫が迷ひを離れる事の出来ぬ法である。

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