天上の月影

勅命のほかに領解なし

本願章法話(12)

2017年03月31日 | 利井鮮妙和上集

 私が南無阿弥陀仏と称えるのはこの石よりも重い。この南無阿弥陀仏を聴聞して軽く称えては相いすみません。永劫の御修行の功徳のあるだけを巻いて摂めてくだされた南無阿弥陀仏であるから重い。その重い名号の御精神は衆生をそのまま救済するという精神よりほかはない。この御精神が私のものになる。この名号をいただいて称えれば何ともない時の御称名も、ありがたい時の御称名も共にかわらぬ無量の功徳が具足しております。かようなけっこうな念仏が、こんなつまらぬ私が称えらるるとは実にありがたいことであります。これはまったく護念力のしからしむるところであります。こんな広大なる念仏を口に浮かぶにまかせて称える人ならば、社会交際上、大いに注意して王法を額にあてて今生の人道を大切に守らねばなりませぬ。これがすなわち仏恩報謝にかなう御徳があります。何分にも大切に相続して御法義に傷をつけぬように願います。(完)

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本願章法話(11)

2017年03月30日 | 利井鮮妙和上集

 人皇八十代高倉天皇の御時は大仏を再建したもうて落成式が挙行せられました。そのとき法然聖人が七日間説法せられた。その結願の日に七日間の法要も六字名号一つの智慧に及ばずといわれた。この説法中には余宗の僧侶方もたくさん聴聞しておられ、またなかには自分の身命を賭して供養したものもあったが、法然聖人の説法を聞きて、いかに智慧第一の法然房でも、諸行を劣とし弥陀名号を勝とするがごときは不都合なりと、わいわいといいだした。しかれども法然聖人は平然として帰らんとして籠駕に乗りかけたもう。ところが先に身命を賭して供養したる者や他宗の僧侶方が大騒ぎをおこした。そこで一人の同行来りて法然聖人に向かい、願わくば説法をしなおして、前の説法の誤りなりしことを説いてくだされませ、と申し上げた。そこで乱を嫌い和を好みたもう法然聖人なれば、左右なく承諾せられて、また再び説法せられて、この法然が七日間の説法よりも南無阿弥陀仏の一法が勝れておると申したとて少しも驚き騒ぎすることはない。華厳経を見よ。黄金仏千体を頂きて日々に供養すること数千年に至るよりは、南無阿弥陀仏が勝れておると申してある。そこでこの法然は経文のそのままを説法したのであるとのたまいしも、なお承知せぬから、法然聖人は紙に南無阿弥陀仏を御書きなさって、これと石とを秤にかけたまいしに、石の方が軽うて上の方にあがったということがある。今に京都に念仏石というのがあって、高座の太さくらいあります。

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本願章法話(10)

2017年03月29日 | 利井鮮妙和上集

 かような御慈悲と智慧とをもって御成就なされた南無阿弥陀仏なるが故に勝(すぐ)れておるに違いない。この名号を衆生に与えたもうには助ける一つで御与えなされ、衆生が貰うのは助かる一つで貰うのであります。阿弥陀様は単に過去現在の罪悪のみならず尽未来際の罪悪までを我らに代わりて皆な消滅してくだされて御成就なされたのが南無阿弥陀仏であります。これを法然聖人は『選択集』の中に喩えを上げたもうて「たとへば世間の屋舎の、その屋舎の名字のなかには棟・梁・椽・柱等の一切の家具を摂せり。棟・梁等の一々の名字のなかには一切を摂することあたはざるがごとし」とのたもうて、諸行は棟や梁や椽や柱のようなもので、これらの一つ一つをもってはいわれぬ。そこで諸行の一つをもっては仏にはなれぬ。南無阿弥陀仏は家のようなもので、棟・梁・椽・柱等の諸行ことごとくこの六字の名号の中に摂まってある。ハシラといえば字数が多くして、しかも家の一分である。イエといえば字数は少なくして、しかもそのうちには棟・梁・椽・柱等、皆な摂まってある。今我らが極楽参りはただ南無阿弥陀仏の一封の中にもろもろの功徳善根は皆摂まって、これで往生させていただくのであります。
 そこでこの南無阿弥陀仏は他の善根功徳に勝(すぐ)れてしかも易い。この御名号によって衆生は往生することに間違いはない。五劫の思惟、永劫の修行、すでに成就して、今は衆生を御済度なさるる真っ最中なるが故に実際(ほんとう)に参れるに違いはない。しかるに中には余り易す過ぎますので、どうか知らんと思いますなどと申す人があるが、決して易す過ぎはせぬ。根機相応の妙法(おみのり)であります。もし少しでも仏様の方から御要求があったら、ちょっとも出来ぬくせに、易す過ぎるなどと申すことは実にもったいないことであります。 

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本願章法話(9)

2017年03月28日 | 利井鮮妙和上集

 法蔵菩薩は師仏の所(みもと)に御出でになって、私はこんな誓願を発起(おこ)しましたといわれたとき、師仏が誠に結構なことであるが、大海の水を一人して升をもって汲みほして海底にある妙宝(たから)を取り出すようなものでなかなか難しいことであるといわれた。一切衆生のすべき行を自己独りに引き受けて御誓願を御建立なさって、修行なされたが、あまりにひどい修行じゃから、忍辱というて、たえしのぶことを試みんとしたまう。そのこと『賢愚経』といえる御経に自身の御身に千本の針をたてたもうとも、あの衆生を助くることと思えばこのくらいのことは物の数にならぬとて、その穴に脂をそそぎて中に灯心(とうしん)を入れ一時に火を点じたもうて炎々たる炎の御相(すがた)に御なりなさったが、もうかなわぬから修行は止めるという心は毫も起したまわず、どうしてもこうしてもあの一切苦悩の衆生を助けずんば正覚取らじと、にんわり御微笑(わらい)なされた。あなたがたは時には針をしたり灸をすえたりしましょうが、後生のために針や灸をしたことが一度でもありますか。菩薩は我らのために光炎の御相(すがた)に御なりなされた。御慈悲の広大なることはとても口や筆で顕わし尽くすことは出来ませぬ。あまり修行をひどいから天人が下(くだ)りて華を雨(ふ)らせていかに衆生のためとはいいながら、さぞ御修行がつらいことでござりましょうと申し上げた。ところが法蔵菩薩は笑いたまうて一切苦悩の衆生はただ悪業のみを造りて後生を少しも知らぬから、後生知らずのままで仏果にいたらすと思えば、嬉しうて嬉しうてつらいことは少しもないとのたもうたのであります。

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本願章法話(8)

2017年03月27日 | 利井鮮妙和上集

 ここをもって法蔵菩薩は衆生を救済するに最も易き方法は、自分が修行して成就しあげたものを、衆生に与えてやればこれが一番易いことである。故に聞いて忘るる爺婆に、そのまま与えて助けてやるという本願を起したまいて、その修行にかかりたもうたのであります。しかるに女人を救済するに千体の諸仏、これにかかりはてたまえども助くることあたわずというあさましきものである。そこで法蔵菩薩は無量の行を修して、衆生を南無阿弥陀仏でそのなり助けんという御願いを御建立(おたて)なさった。その南無阿弥陀仏が成就したならば十方三世の一切諸仏は皆な証誠しようと待ってござる南無阿弥陀仏であります。この南無阿弥陀仏を成就せんとて一人一人にかわって無量の行を御修しくだされました。しかもその衆生の数は無量であります。元来種子といいうものは少しでも果実は多くなるものであります。我らは悪因を造るその因は一つでも、一粒高倍となりて果にあらわるるものであるが、その悪報を招く因を我らが知らず知らずに数限りもなく造りております。それに代りて修行してその悪報を消滅してくださるるのでありまするから、法蔵菩薩は無量の修行をせられたのであります。

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本願章法話(7)

2017年03月26日 | 利井鮮妙和上集

 また諸仏浄土のなかには持戒をもって往生の行としたまう御浄土がある。持戒といえば戒行のことにて、最も易いので五戒である。五戒とは不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒の五つであります。生き物を殺さぬ。盗みはせぬ。女にふれぬ、妄語(うそ)をいはぬ、盃(さかづき)を手にもたぬ。これが五戒でありますが、このうち殺生戒一つでも保ち得ぬ。破戒無戒、放逸の我らであるから、とても持戒して助かることは出来ませぬ。そこでこれを選び捨てたもうたのであります。また諸仏浄土のうちには忍辱の行をもって往生させるという御浄土がある。忍辱とはこらえる修行であります。これも御互いはとても出来ぬから選び捨てたもうたのであります。また諸仏浄土のなかには精進の行をもって往生させるという御浄土がある。精進の行とはある人の頭に鳥が糞を落として、その糞に果実(たね)がありて松の木が生(は)え、それが成長して、その松の木の枝に鶴が巣をかけた。それまでも耐え忍んで精進に修行したということがある。精進の行とはこのようなものであります。親の精進でもうっかりすると御免蒙るようなものは、とても出来ぬからこれも選捨したもうたのであります。また諸仏浄土のなかには称名で往生が出来るという御浄土があるが、これは一切諸仏の名を称え、その上に善根をして往生が出来るというのであるから、これもなかなか難しい。故にこれまた選捨したもうたのであります。

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本願章法話(6)

2017年03月25日 | 利井鮮妙和上集

 これにつけても大悲の阿弥陀様が因位の時に身を捨てたまうことがいかほどにであったか、実に計り知ることが出来ませぬ。それを『拾遺古徳伝』に、

弥陀如来もと菩薩の道を行じたまひしとき、檀を修し劫海ををくる。『経』にいはく、ほどこすところのめは一恒河沙のごとし。乞眼の婆羅門のごとく、飲血の衆生ありて身分の生血をこふに、ほどこすところの生血は四大海水のごとし。噉肉の衆生ありて身分の脂肉をこふに、ほどこすところのしゝむらは千須弥山のごとし。しかのみならず、すつるところのしたは大鉄囲山のごとし、すつるところのみゝは純陀羅山のごとし、すつるところのはなは毘布羅山のごとし、すつるところの歯は耆闍崛山のごとし、すつるところの身河は三千大千世界の所有の地のごとし」と云云。衆生の貪欲これをもてしるべしと云云。飲血・噉肉の衆生はなさけなくも菩薩利生のはだへをやぶり、求食著味の凡夫ははゞかりなくサッタ慈悲のしゝむらを食す。かくのごとく一劫二劫にあらず、兆載永劫のあひだ四大海水の血をながし、千須弥山のしゝむらをつくす。すてがたきをよくすて、しのびがたきをよくしのびて檀度を満じ、尸羅波羅蜜を満足し、忍辱・精進・禅定・智慧、六度円満し、万行具足すと云云。(『真宗聖教全書』三・六八六~六八七頁)

とあります。
 かくのごときの御苦労下されたのであります。このように布施するときは助けるというのが諸仏の御浄土の中にある。こんな布施はとてもこの慳貪邪見の御互いは出来ませぬ。今日のものはそんな布施どころか財施でも出来ぬ。私はこのたび慈善事業のために一万円寄付いたしましたというから、財産の半分も寄付したのかと思うと、決してそうではない。百万円以上の財産を有しておりて、ようやく一万円寄付したのじゃ。それに我が娘のためには三万円も五万円も出す。まるで慈善を自慢道具、キョウ慢道具にしておる。そして娘のために出すのは少しも惜しまぬ。それでもなお恥ずかしくも思わぬ。しかもそれを自慢しておるような根性では布施の行をして往生するという真似も出来ませぬ。故に『選択集』には「第十八の念仏往生の願は、かの諸仏の土のなかにおいて、あるいは布施をもつて往生の行となす土あり。〔乃至〕かくのごとく往生の行、種々不同なり。つぶさに述ぶべからず。すなわちいま前の布施・持戒、乃至孝養父母等の諸行を選捨して、専称仏号を選取す」とのたまう。仏様が一切衆生を平等に救いたもうには布施の如き難しい行ではいかぬから、これを選び捨てたもうのであります。

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本願章法話(5)

2017年03月24日 | 利井鮮妙和上集

 さてその御浄土に参るについてどんな方法が一番易く勝れておるかと考えられました。諸仏の浄土のうちには布施の行さえすれば助けてやるという如来様がござる。この布施の行というには財施もあり、善なる布施もあれば悪なる布施もある。また自分の身命をなげうって布施するものもある。かの舎利弗尊者は布施行をせられておったが、あるとき乞眼婆羅門に会いしに、婆羅門が舎利弗尊者に向かっていわく、あなたはすずしき眼をもってござる。私にその眼をくだされますまいかと願いし故に、舎利弗尊者はただちに自分の目玉を抜き取りて、これを婆羅門に与えられた。しかるに婆羅門はこれを手に受け取りて見れば、血に染まって穢ないから、これを大地に投げつけて、土足をもって踏みつぶした。舎利弗尊者はこれを見て、せっかく大切なる眼を与えてやりしに、これを大地に投げつけ、しかも土足で踏みつぶすとは、あまりに乱暴なことをする奴であると思われた。その一念に菩薩の位が羅漢の位に降(さが)ったということがありますが。

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本願章法話(4)

2017年03月23日 | 利井鮮妙和上集

 このように法蔵菩薩は諸仏浄土を見たまいて、悪しきところを選捨(よりす)てて善いところのみを選取(よりと)りにしてたもうたのであります。故に『存覚法語』という御聖教に、
 

   安居院の大和尚の、この極楽世界は二百一十億の諸仏の浄土のなかに、悪をすてて善をとり、麁をすてて妙をとりて、さまざまにすぐり、いだせることを嘆ずるには、たとへば、やなぎのえだに、さくらのはなをさかせ、ふたみのうらに、きよみがせきを、ならべたらんがごとしといへり。おろかなるこころに、なお、あくところなく、あらまほしきは、かの、たおやかなるえだに、さきたらんはなの、春秋をわかず、ちることなくて、ひさしくにほひ、その名たかき、浦々の月の、かげをならべたらんが、よるひるの、さかひなくて、いつもてらさんを、みばやとおぼゆるは、この景色によせて、かの厳飾をおもひやらんとなり。

とのたもうて、阿弥陀様の御浄土は実にこのようにけっこうであるということを御示しなされてあります。我らが参らしていただく御浄土がかようにけっこうであることは、皆々喜ぶがよいが、このけっこうな御浄土は誰のために出来たのであるかというに、あなた方や私のように生死生死と迷うておるもののためであります。このけっこうな御浄土の荘厳を一々御話しいたしたところがとても話し尽くされるものではない。安養に至りて証すべしとのたもうてあるから、御浄土へ往生して目の前に見せていただかねばわかりませぬ。定めてけっこうなに違いありませぬ。

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本願章法話(3)

2017年03月22日 | 利井鮮妙和上集

 さて考えらるるには、十方には恒沙の諸仏がある。この諸仏たちには、おのおの衆生を救わるる法があろう。そのうちで最も易く最もすぐれた法を聞いて、それから衆生済度の法を考えたればよかろうと思し召されて、世自在王仏の所に行かれて、私は生死に沈む凡夫を助けてやろうと思いますが、諸仏の御浄土のうちで一番結構な御浄土はどこでござりまするか。またそこへ参る最易最勝の法はどのようにいたせばよろしゅうございましょうか。まず一度諸仏浄土を見せていただきたいと御願いなされた。そこで世自在王仏は二百一十億の浄土を一時に眼前に現じたもうた(実は無量であります)。菩薩がこれを見たもうに、三悪道のある浄土がある。浄土中に三悪道あるというは、おかしいように聞こえまするが、この娑婆界を釈尊の浄土というのと同じく、仏の方よりいうので、中には我らのごとき人間や牛馬等の畜生等がおるようなものであります。かかる三悪道のある浄土ではいけぬから、これを選び捨てて無三悪趣の願すなわち「たとひわれ仏を得たらんに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ」という本願を建立したまい、また三悪趣はなけれども一度生まれてまた三悪道へ戻る浄土がある故に、これではならんと不更悪趣の願すなわち「たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、寿終りてののちに、また三悪道に更らば、正覚を取らじ」という本願を御建立なされた。また諸仏浄土の中に色が白いとか黒いとかいうて争う浄土がある故に、そんな争いのないように悉く皆な金色にしてやるという悉皆金色の願すなわち「たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、ことごとく真金色ならずは、正覚を取らじ」と御誓いなされた。また色は皆な金色でも形が違うて、見好(みよい)もの醜形(みにくい)もののおる浄土があるから、これを選捨して無有好醜の願すなわち「たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、形色不同にして、好醜あらば、正覚を取らじ」と御誓いなされて、一味平等の仏にせんと誓いたまうたのであります。

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本願章法話(2)

2017年03月21日 | 利井鮮妙和上集

 さて弥陀如来は何故に念仏をもって救おうとの願を御起こしなされたかというのに、弥陀如来が昔し法蔵菩薩であったとき、大慈大悲の御心でもって、一切善悪の衆生を御覧なされると、まことにあわれなものであった。善はよいことと知りつつも行うだけの根気がない。悪いこととは知りつつも、進んで止めるだけの勇気がない。慈愛の親の御目から見ると、道楽者やらかたはものほどしほかはいく。ついに抜諸生死の大願を御建てなされたのであります。すなわちつらつら我ら凡夫のありさまを御覧じなされると、実にまたたくほどの間にも生死生死とよろずのものは移りいく。少しくこれを大きくすると、生まれては死に、死んでは生まれ、生じ生じて生の初めも知らなければ、死に死に死んで死の終わりも知ることが出来ぬ。実に曠劫以来流転して来て、この先もまた、無宿無辺に流転しなければならぬのが我々凡夫のありさまであります。これを御覧なされた法蔵菩薩は、どうかして再び迷わぬ仏の身分にしてやりたいものじゃとの大願を御起しなされた。
 そしてどうしたら救えるか。何の故に迷うているかということを御考えなされた。すると我々の生死生死と輪廻するのはまったく煩悩の因によることがわかりました。それではこの煩悩を断ったら生死の迷いがとまるだろう。煩悩を断つにはどうすればよいかとは、だんだん順を追うて考えなされた。すると自分で出来るなら自分で昔に煩悩を断じたろうが、それが出来なかったから今日までこうして迷って来たのじゃ。これは是非どうかしてこの弥陀が救うてやらねばと御考えなされました。

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本願章法話(1)

2017年03月20日 | 利井鮮妙和上集

弥陀如来、余行をもつて往生の本願となさず、ただ念仏をもつて往生の本願となしたまへる文。

 法然聖人の『選択集』は我が宗祖にたまわりて、宗祖はこの御聖教によりて浄土真宗を御開闢(ひらき)なされたものでありまするから、この『選択集』は浄土真宗の根基(もとい)であります。そこで我が宗祖もこの御聖教を「まことにこれ希有最勝の華文、無上甚深の宝典なり」とのたもうてあります。この真宗の根基(もとい)たる『選択集』について、本年より一月に一段づつ御話いたすことにしまして、一月と二月とで第二章まで済みまして、今月は第三章の本願章であります。
 この章の標文に「弥陀如来、余行をもつて往生の本願となさず、ただ念仏をもつて往生の本願となしたまへる文」とあります。これがすなわち浄土真宗の根基(もとい)でありまして、余行はみな善なれども、阿弥陀様の御本願は余行をもって往生させるという御願いではない。ただ念仏の一法をもって往生させたいという御願いであります。しかるに真宗はおかしな宗旨である。善もほしからず悪もおそれなしなど、途方もないことをいう。弥陀一仏ばかりを念じて往生しようなど、まことにもってヘンテコな宗旨であるなど申すものがありますが、これらの人は阿弥陀様の御本願を知らぬから、こんな心得え違いがおこりまするので、一向に念仏を称えておるのがすなわち阿弥陀様の御本願にかなっているので、われわれ凡夫の往生の道はこの念仏よりほかにありません。他のことは尋ねあるくには及びません。そこで『御文章』のなかにも「一心一向といふは、阿弥陀仏において、二仏をならべざるこころなり」とのたもうてあります。阿弥陀様は選択本願を御建てなされて、念仏をもって衆生を救おうと御誓いなされたによって、われわれは念仏して助けられたら、それで如来の本懐にもかないたてまつることができるのであります。

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二門章法話(10)

2017年03月19日 | 利井鮮妙和上集

 これを聞くには雑(まぜ)ものいらぬ。つづまるところ『選択集』のはじめ「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」とある。南無阿弥陀仏とは往生の仕事の根本である。そこで「往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して、疑なく往生するぞと思ひとりて申すほかには別の子細候はず」とのたもうてある。往生にはただ南無阿弥陀仏でよい。この御六字を聞くばかりじゃぞ。どういうふうに聞きますか。この南無阿弥陀仏は我らが往生の証拠じゃと聞くのじゃ。すなわち「疑なく往生するぞと思ひとりて申すほかには別の子細候はず」それでよい。それで極楽に参ります。なぜでありますか。南無阿弥陀仏とは『行巻』に「摂取して捨てざるが故に阿弥陀と名く」とあり、和讃にも「摂取してすてざれば、阿弥陀と名づけたてまつる」とありますから、助け救い、摂め取りて捨てぬが阿弥陀仏であります。故に疑いなく往生すると思うて称える。それで極楽参りします。
 人間の胎内に宿ったなれば人間に定まっておる。人間の胎内にあるのを男であろうか女であろうかとは疑うても、猫じゃなかろうか犬であろうかと疑う阿呆はない。よろしいか。聞こうぞ聞こうぞ。摂取不捨の大悲の御胸に宿れば仏様じゃぞ。かかる機様(きざま)かかえておりながら臨終一念の夕べには目出度く目出度く往生させていただくのであります。信心いただいたなら御光明も拝めそうなものというであろうが、母の胎内におって母の顔を見たものがありますか。十ヶ月が来て生み落とされてはじめて母の顔を見るごとく、摂取不捨の大悲の胎内では、大悲の弥陀の御顔を拝むことは出来ぬけれども、人間五十年の十ヶ月が済んで、極楽に往生してはじめて大悲の親様の御顔を拝ませていただくのであります。三毒五欲の疑い、こういうざまかかえておる。このままで参れるのが南無阿弥陀仏であります。竪(たて)からいただいても横からいただいても、かかる機様(きざま)で参れるがまことまことまことで、私は参る参る参るで如来様の子であります。かくのごとく聴聞して安心の上は称名相続が肝要であります。一声一声の御称名は如来様が私の口より出て下さる。何につけても何につけても御称名さしていただかねばなりませぬ。法の上からは何事をするも、落ち度がないようになるが法の御徳であります。されば相続いたさるるのが何よりの肝要であります。(完)

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二門章法話(9)

2017年03月18日 | 利井鮮妙和上集

 大丸呉服店に行くに、いろいろの品物を番頭が出して見せる。これは五円であります。これは七円であります。この品物もちょっと見たときにはよろしきように見えますけれども、長続きがしませぬ。直(じき)にいけぬようになります。この品物はちょっと素人目には悪いように見えまするけれども、この色ならばいつまで経っても、はげませぬという。番頭は商売故によく知っておるから、品物がよいといえばよいに違いはない。悪いといえば悪いに違いない。故に番頭のいうとおりにしたがうて品物を買えばよいのに、こちらから気を回して番頭奴め、あないなことをいうて悪い品を売ろうと思うておるなどと、気を回したらいけませぬ。浄土門はつまらぬようなれども、末法には行を起し道を修するものが一人もない。そこで気を回さず、すなおに、浄土門の御いわれ南無阿弥陀仏を聞きなさい。既にこの法然が南無阿弥陀仏で往生する安心の上に大安心しておると、法然様自身に信じておらるる故に、今日の御互いも安心せねばなりませぬ。決して講釈ではありません。あなた方の大事な後生は心配いらぬ。選択本願南無阿弥陀仏でほんとうに助かると御教え下されたのであります。

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二門章法話(8)

2017年03月17日 | 利井鮮妙和上集

 先年、行信教校に参りておりました讃岐の人が、たいへんに演説が好きでありまして、ご飯を食べるよりも好きじゃと申しておりました。御承知の如く讃岐は弘法大師の御生まれなされた土地でありまして、したがって真言も盛んであります。その真言宗のうちにまた極めて演説の好きな人がありまして、ふとしたことから同類あい集うとでもいいましょうか、心やすくなりまして一つ演説会を開こうではないか、そして世間の人の利益になることを話そうではないかということになりまして、演説会を開いて学校のことから農業商業工業医術等、何やらかやらのことを話しておりました。ところがよくよく考えてみれば御互いつまらぬことではないか、自分等は宗教家の身として宗教の話もせずして、いたずらに世間の助けをして演説するはいけないこととさとり、宗教についてだんだん話すうちに御慈悲により自信教人信で自分に心念がなければ人にも教ゆることが出来ぬと気づかせてもろうて、この御法(みのり)を聞かせてもろうた。ところが聞けば聞くほどありがたく、何とも申しようがありません。かの真言の僧も至りて精神家ではありまするが、いかにせん真言の法はむつかしい。故に安心立命が出来ぬ。そこであるときの演説に真言の僧が、真言宗の法は広大なれども、こいつがこいつがと胸を叩いて、この煩悩があるために出来ない。悪いこととは知りつつもやめられぬのがこの煩悩じゃと涙を流して前席をせられた。その後席に真宗のかの僧が出でて、その悪い悪いと知りつつもやめられぬ煩悩かかえた心中のままで往生出来るが、他力真宗南無阿弥陀仏であると喜ばさしていただき、聞く人も誠に喜びましたということでありましたが、いま法然様の御教化はここであります。
 このように聖道門に力の及ばぬことはこの法然房四十年行って見て来た。また御釈迦さまも『大集経』に「我が末法の時の中の億々の衆生、行を起し道を修し、未だ一人として得る者あらじ。当今は末法にして現に是れ五濁悪世なり。唯だ浄土の一門有りて通入すべき路なり」と説きおかせらられた。これは『御伝鈔』でも御聴聞せらるるでありましょう。御釈迦様が今聖道は説くけれども、末法になると一人もこれを修行するものがないと説きおかせられたのであります。決して聖道門が悪いとか、あかんとかいうのではない。何分根機がつたないから、「唯だ浄土の一門有りて通入すべき路なり」とのたもうたのであります。

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