天上の月影

勅命のほかに領解なし

浄土教の一考察(1)

2016年09月30日 | 小論文

     一

 法然の主著『選択集』は浄土宗独立の宣言書と見られている。その第一・二門章はまず、

道綽禅師、聖道・浄土の二門を立てて、聖道を捨ててまさしく浄土に帰する文。

と標し、道綽の『安楽集』を引いたあと、私釈において、

いまこの浄土宗は、もし道綽禅師の意によらば、二門を立てて一切を摂す。いはゆる聖道門・浄土門これなり。

といっている(1)。これが有名な聖浄二門判である。釈尊一代の仏教を聖道門と浄土門の二門に分判したのである。そして聖道門を捨てて浄土門に帰することを勧める。いわゆる「三選の文」のはじめにも、

それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし(2)。 

といっている。

 親鸞の『教行証文類』「化身土文類」本には、

おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、(中略)安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく(3)、

といっている。これによって、聖道門とは此土において聖者となる教えであるから此土入聖の法門とよび、浄土門とは浄土において証を得る教えであるから彼土得証の法門とよびならわしてきた。

 したがって法然が勧めるのは、此土入聖の法門でなく、彼土得証の法門ということになる。そこでは明らかに法門の違いを見ている。しかし法然以前、浄土門は聖道門の修行を補完するための寓宗でしかなかった。すなわち仏道は一つであったのである。それを独立したのが法然であった。いいかえれば、二つの法門として立てたのである。今回、寓宗としての浄土門とはどのようなものであったのか、法然が浄土門を勧めるのはなぜか、その門下において浄土門はどのように捉えられたか、また聖道門をどのように見たかを考えてみたいと思う。

(1)『選択集』二門章(『浄土真宗聖典 七祖篇〈註釈版〉』一一八三、一一八五頁)
(2)『選択集』三選の文(『浄土真宗聖典 七祖篇〈註釈版〉』一二八五頁)
(3)『教行証文類』「化身土文類」(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』三九四頁)

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『西方指南抄』の編者(10)

2016年09月29日 | 法本房行空上人試考

その真蹟本は現在、緞子の表紙をつけて袋綴となっているが、江戸時代の修理による装幀である。宝永五年(一七○八)のことのようである(1)。旧表紙は各巻頭にそれぞれ綴じ込んで保存されており、中央に「西方指南抄」の外題と左下部に「釈真仏」の袖書がある(ただし下末には袖書がない)。そのうち上本は「西方指南抄上末」となっているから、もともと上末のものであったものを上本の外題としていることがわかる。「上末」とあるのに気づかなかったのであろうか。上末は「上末」と書かれている。本紙は透かしてみると細かい横シマが全面にある薄手の粗末な料紙であって、上末と下末の表紙だけが本文と同じ料紙に書かれ、親鸞の真筆である。他の表紙は厚手の鳥の子紙を用いており、筆蹟はすべて室町時代と考えられている(2)。問題は上末の「釈真仏」という袖書である。親鸞の真筆であって、真蹟本が真仏に授与されたことを示している。親鸞の真筆であるから、のちに追記されたものではないことはいうまでもない。真仏は前に述べたように、真蹟本が成立して間もなく、それを底本として書写している。その袖書には「釈覚信」とあるから、病床の覚信房に与えたのであろう。真蹟本のほうは真仏に授けられたことになる。真仏は正嘉元年(一二五七)三月以降に帰国しているようであって、翌二年(一二五八)三月八日に五十歳で往生している。京都滞在中に授与されたのか、帰国後の往生するまでに授与されたのかわからないが、梯 實圓氏は『親鸞聖人御消息』第三十八通の「銭二十貫文、たしかにたしかに給はり候ふ(3)」とある文に注目されている。この消息は「十一月二十五日」の日付があるだけであるが、正嘉元年(一二五七)のものと推定されている(4)。この「銭二十貫文」は相当な金額であって、「『西方指南抄』を伝授されたことへの御礼の懇志であったかも知れない」といわれるのである(5)。宮崎円遵氏は『親鸞聖人御消息』第四十一通に「教忍御坊より銭二百文、御こころざしのものたまはりて候ふ。さきに念仏のすすめもの、かたがたの御中よりとて、たしかにたまはりて候ひき。ひとびとによろこび申させたまふべく候ふ(6)」といわれているところから、帰洛後の親鸞の経済生活を支えていたのは門弟たちの懇志で、それに「こころざしのもの」と「念仏のすすめもの」の二種があった。前者は門弟個人の懇志であり、後者は「毎月二十五日のお念仏」に集会した同行たちが醵出したものと見られている(7)。いまの「銭二十貫文」はあえていえば「こころざしのもの」にあたるであろうが、あまりにも高額である。それにたとえば『親鸞聖人御消息』第七通の「こころざしの銭三百文、たしかにたしかにかしこまりてたまはりて候ふ(8)」という言い方と比べると、そっけない感がする。やはり何かの礼金であろう。それは『西方指南抄』真蹟本の伝授であったかもしれない。
 ともあれ、いま重要なことは、高田専修寺に『西方指南抄』に親鸞の真蹟本が所蔵されていることであり、真仏にそれの書写を許していることである。

(1)新 光晴氏「国宝本『西方指南抄』応急処理における新知見─新出の親鸞自筆断簡をめぐって─」(『高田学報』一○○、二○一四年)に、平成十一年(一九九九)五月から八月末まで真蹟本の応急処理がほどこされ、新たに親鸞自筆の断簡等が発見されたことを口絵写真の解説という形で述べられている。
(2)平松令三氏『親鸞聖人真蹟集成』六・「解説」九二五~九二六頁参照。
(3)『親鸞聖人御消息』第三十八通(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』八○二頁)
(4)霊山勝海氏『末灯鈔講讃』(永田文昌堂、二○○○年)二四二頁。
(5)梯 實圓氏『西方指南抄序説』(西本願寺安居講本、一九八六年)四頁。霊山勝海氏『末灯鈔講讃』(永田文昌堂、二○○○年)二四二頁も同様の推考をされている。
(6)『親鸞聖人御消息』第四十一通(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』八○四~八○五頁)
(7)宮崎円遵氏「帰洛後の親鸞聖人」(『親鸞の研究(上)宮崎円遵著作集 第一巻』〈永田文昌堂、一九八六年〉一四三~一四四頁)
(8)『親鸞聖人御消息』第四十一通(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』七五○頁)

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『西方指南抄』の編者(9)

2016年09月28日 | 法本房行空上人試考

           五

 こうして高田専修寺に所蔵される二部の『西方指南抄』は、一本が親鸞の真蹟本であり、他の一本は前五冊が真仏の筆になり、後一冊が顕智の筆になる直弟本である。親鸞真蹟本はその奥書によれば、康元元年十月ころよりはじめて翌二年一月二日にかけて書写されていることがわかる。直弟本の真仏筆は上末の奥書を欠いているが、他の奥書からみて真蹟本がなってまもなくの一月の終わりか二月よりはじめて三月二十日に書写されていることが知られる。この両本を並べてみるとき、『西方指南抄』の編者をめぐる重要な点がある。それは平松令三氏が原本にあたって指摘されたことであるが、上本の「西方指南抄上本」という内題である。「本」の字は筆勢や墨色からみて、「西方指南抄」の五字とは一筆とは思えない。それ以上に問題は「上」の字である。「この文字は、もとは何か別の字が書かれてあったのを、磨り消して、その跡をなるべく覆い隠すように、わざと肉太に書き直している有様が歴然と看取される」といわれるのである。そして「これを同じ箇所を覚信本(森本・註、当時の氏は真仏の筆ではなく覚信房の筆とみられていた)について見ると、驚いたことに覚信本も同様に一字を磨り消して、その上に書き直していることが、真蹟本以上に明らかに見られる」といい、

当初は何という文字であったか、両本について仔細に観察した結果、「曰」という字以外に読みようがないという結論に達した。(念のためにいうが、「中」とも読めない)とすると、「西方指南抄曰」ということになり、これは内題ではなく、引用書名を示す文句である。つまり真蹟本に先行する『西方指南抄』の存在を示すものであり、しかも自分で編集したものであれば、こんな言い方をするはずはないから、その本は親鸞以外の者の編集ということにならざるを得ない。

といわれて、親鸞編集説を覆す指摘をされているのである(1)。これをめぐって霊山勝海氏は「曰」でなく「甲」ではないかといわれ(2)、中野正明氏は「中」と見られている(3)。しかしすでに平松令三氏は括弧書きで「中」とは読めないと述べられており、清水谷正尊氏は詳しく次のようにいわれている。

直弟本を実際に見てみると、そこに見えている縦棒は裏の「ミモトニシテ」の「ト」の字の縦棒が裏写りしているだけで、表の紙面にはない(4)。

そうすると、平松令三氏がいわれるように「親鸞以外の者の編集」ということになり、親鸞転写説が浮上してくる。しかしまた氏は、

では転写本説によって、編集は親鸞以外と断定するべきかというと、(中略)本文の大幅な取捨選択が親鸞によって行われた形跡が濃厚である上に、(中略)真蹟本には親鸞自身による調巻操作が見られることから、今見られる『西方指南抄』の成立には親鸞の意志が大きく加わっていることはまちがいない。
ともいわれており、最後に、

要するに単純に親鸞編の草稿本とも、他人編の転写本とも、きめつけるべきでなく、両者を併せたような成立事情が想察されるべきではないか、と思うのである。

と論づけられている(5)。そこで真仏筆の直弟本は、わずか「上」の一字であるが、『西方指南抄』の編者を決定させないのである。それでも親鸞の意志がなければ、いまの『西方指南抄』はないわけであるから、問題は残るものの、親鸞が成立させたというべきであろう。

(1)平松令三氏「西方指南抄の編集をめぐって」(『井川定慶博士喜寿記念論集 日本文化と浄土教論攷』、一九七四年、のち同氏『親鸞真蹟の研究』〈法蔵館、一九八八年〉所収、一三五~一三七頁)。そのほか同氏「西方指南抄をめぐって─宝物展観の問題点─」(『真宗研究』二二、一九七七年)など、諸処にいわれている。
(2)霊山勝海氏『西方指南抄論』(永田文昌堂、一九九三年)五五頁。
(3)中野正明氏『増補改訂 法然遺文の基礎的研究』(法蔵館、二○一○年)九八頁。
(4)清水谷正尊氏「『西方指南抄』の成立について」(『高田学報』一○○、二○一四年)
(5)平松令三氏「西方指南抄の編集をめぐって」(『井川定慶博士喜寿記念論集 日本文化と浄土教論攷』、一九七四年、のち同氏『親鸞真蹟の研究』〈法蔵館、一九八八年〉所収、一三八、一四○頁)

 

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『西方指南抄』の編者(8)

2016年09月27日 | 法本房行空上人試考

 ただ引っかかるのは『三河念仏相承日記』である。それは愛知県岡崎市の上宮寺所蔵本が唯一の写本であったが、昭和六十三年(一九八八)の火災により原形は大きく損なわれ、それ以前に撮影されていた写真版のみが残ることになった。ところが平成十八年(二○○六)同市の東泉寺に古写本のあることが発見された(1)。それによって上宮寺本では不明であった箇所が判明するなど、史料的価値は高い。そこで「二十一世紀初頭における真宗史上最大の発見と言いうるべきものである(2)」とまでいわれている。その東泉本の末尾には、

建長八年〔丙辰〕より貞治三年申辰まて
百九年。つきのみのとしより、ひらたの
たうちやうはしまる、たつのとしまて百八年也。
法然上人辰まて百五十三年
親鸞上人辰まて百三年
  貞治三年〔申辰〕九月二日(森本・註、原本に句読点はなく、私に付した)

という奥書がある。上宮寺本もほぼ同様である(3)。したがって『三河念仏相承日記』の成立は貞治三年(一三六四)であることが知られる。奥書にあるように、法然滅後百五十三年であり、親鸞滅後百三年である。しかし注意すべきは最初の「建長八年〔丙辰〕より」という年である。本文は次のようにはじまっているのである。

建長八年〔丙辰〕十月十三日に薬師寺にして
念仏をはしむ。このとき真仏聖人・顕智聖
専信法〔俗名弥藤五殿下人弥太郎男、出家後随念〕そうして主従
四人御上洛のとき〔やはきの薬師寺につきたまふ〕御下向
顕智聖は京のみもとに御とうりう、三人
すなはち御くたり。ときに真仏上人おほせにて
顕智坊のくたらん
をは、しはらくこれにとゝめて
念仏を勧進すへしと。おほせにしたかひて顕智
ひしり、おなしきとしのすへに御下向のとき権守
との〔出家の後、円善房云云〕のもとにわたらせたまふ〔かのひのへたつより、つちのへむまにいたるまて、そうして三年、このあいた薬師寺より称名寺にうつりたまふ。正嘉二〕(森本・註、原本に句読点はなく、私に付した)

すなわち、建長八年(一二五六)に真仏・顕智・専信・下人の弥太郎の主従四人が上洛してきて、その途中、矢(や)作(はぎ)の薬師寺に立ち寄って念仏を始めたというのである。小山正文氏によれば、その薬師寺は「三河最古の四天王寺式伽藍配置で有名な岡崎市(旧碧海郡矢作町)北野廃寺址にほかならない(4)」といわれている。そして念仏を始めた月日が十月十三日である。それは奇しくも、親鸞が京都で『西方指南抄』上末の書写を終えた日と同じである。そのとき親鸞は奥書に「康元元年」と記している。ところが『三河念仏相承日記』は「建長八年」である。実は建長八年は十月五日に改元して康元元年になっており、親鸞が新年号を記したのに対して、『三河念仏相承日記』は旧年号のままである。三河地方にはまだ改元になったことが伝達されてなかったからに違いない。そこから読み取れるのは、成立が貞治三年(一三六四)であっても、建長八年(康元元年、一二五六)当時の記録であるということである。奥書の最初、本文の冒頭に「建長八年」という年号を用いているのは実に重要な意味を持ち、信憑性を高めているのである。

 ともあれ、真仏たち四人が上洛してきたのは、その年の五月に善鸞を義絶するという事件のあった後始末のためであったと考えられている。そして薬師寺での念仏を終え、歩みを京都にのばして親鸞と面謁している。それは十月二十五日までのことである。というのは、親鸞真筆の名号が高田専修寺に二幅(八字名号と十字名号)所蔵され、裏書に「方便法身尊号 康元元丙辰十月廿五日書之」とあり、また岡崎市妙源寺に一幅(十字名号)、西本願寺にも一幅(六字名号)所蔵され、賛銘の末尾には「康元元丙辰十月廿八日書之」とある。これらはこのとき親鸞によって四人に書き与えられたものと見られているからである(5)。こうして真仏は親鸞のもとに滞在することになったのであるが、『三河念仏相承日記』には「御下向、顕智聖は京のみもとに御とうりう、三人すなはち御くたり」とあって、顕智一人が京都に残り、真仏たち三人はすぐに帰国したように読める。そうすると真仏が康元二年に『西方指南抄』を書写することはできないことになる。しかし清水谷正尊氏は、

国宝本『正像末和讃』には、康元二年二月九日の夜に、親鸞聖人が夢の告げによって和讃を書き付けたと記されている。(中略)この『正像末和讃』は、初めの九首が親鸞聖人の真筆で、第十首目以降と初めの九首の左訓は真仏上人の筆からなるものである。また、真仏上人が写された字の上から朱筆で親鸞聖人が書かれたと思われる左訓もあるので、この『正像末和讃』も、この滞在中に書写されたのではないだろうか。もし、そうであるならば、この『正像末和讃』には、「正嘉元年丁巳壬三月一日」(康元二年は三月四日に正嘉元年と改元されている)の奥書があるので、それまで真仏上人は京都に滞在されていたことになる。そうすると、『影印 高田古典』に掲載した『如来二種回向文』も奥書が正嘉元年壬三月二十一日であるから、これもこの時の京都滞在中の書写のようである。したがって、真仏上人が京都から下野に帰られたのは、それ以降ということになろう。ちなみに、この『如来二種回向文』は袖書に真仏上人の筆で「覚信」と書かれている。

といわれて、『正像末和讃』『如来二種回向文』の奥書から、真仏の帰国を正嘉元年(一二五七)三月二十一日以降と見られている。そして、『三河念仏相承日記』の冒頭の記述については、

必ずしも建長八年つまり康元元年に真仏上人や顕智上人らが帰国したとは限らないのではないだろうか。ここで問題となるのは、「同じき年の末」と「総じて三年」という言葉であろう。しかし、「同じき年」とは真仏上人が帰国したのと同じ年の末という意味であろうし、「総じて三年」というのも、上洛の時に三河に寄った建長八年、帰国の途中三河で暮らし始めた正嘉元年、そして顕智上人が三河を離れた正嘉二年の三年間で、初めは薬師寺に滞在していたが、その後称名寺に移ったと考えれば、何も問題はない。

といい、考察をめぐらされたあと、

『三河念仏相承日記』は康元元年に帰国したと主張していない。真仏上人が帰国したのと同じ年の末に、顕智上人が三河へ来たと述べているだけである。

といわれている(6)。したがって従来のように真仏は康元元年に上洛して、すくに帰国したと読む必要はあるまい。正嘉元年以降の帰国であって、そのあいだに『西方指南抄』を書写したと考えることができる。平松令三氏は康元二年三月ころまでの滞在とみられているが、たとえそうであっても、「聖人の許に通って『西方指南抄』を書写し、病床の覚信に与えたのではあるまいか(7)」という推定は当を得ていると思われる。すなわち、真仏は長期間滞在し、『西方指南抄』を書写して、病床の覚信房に与えたから、「釈覚信」という袖書があるのであるのであろう。

(1)平松令三氏「新発見の古写本『三河念仏相承日記』」(『教学院紀要』一五、二○○七年)、安藤章仁氏「新発見の古写本『三河念仏相承日記』について」(『真宗研究』五二、二○○八年)。前者には影印が掲載され、後者にはそれを翻刻されている。以下、東泉寺本の本文はそれらによって示すことにする。上宮寺本は後者にも翻刻されているが、ほかに細川行信氏『真宗成立史の研究』(法蔵館、一九七七年)付録・二六一~二六二頁、『真宗史料集成』一・一○二五~一○二五頁にもある。
(2)安藤章仁氏「新発見の古写本『三河念仏相承日記』について」(『真宗研究』五二、二○○八年)
(3)東泉寺本の「つきのみのとしより、ひらたのたうちやうはしまる、たつのとしまて百八年也」という文はは上宮寺本にはない。また上宮寺本にはそのあとに四行の文があるが、東泉寺本にはない。
(4)小山正文氏「三河念仏相承日記の一考察」(『日本歴史』三九一、一九八○年)。また同氏「『三河念仏相承日記』の薬師寺─『岡崎市史研究』第三号を読んで─」(『日本歴史』四○三、一九八一年)にも再論されている。
(5)平松令三氏『親鸞真蹟の研究』「親鸞聖人真筆の名号について」(法蔵館、一九八八年)に詳しい。ほかに同氏『親鸞の生涯と思想』「親鸞真蹟名号四幅にまつわる思い出と問題点」「西本願寺本真蹟六字名号が意味するもの」(吉川弘文館、二○○五年)がある。
(6)清水谷正尊氏「直弟本『西方指南抄』」(『影印高田古典』六・解説)
(7)『増補親鸞聖人真蹟集成』第六巻・平松令三氏「解説〈補記〉」九三九頁。

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『西方指南抄』の編者(7)

2016年09月26日 | 法本房行空上人試考

 ところが平成二十年(二○○八)に出版された『影印高田古典』第五・六巻には前五冊を真仏の書写、後一冊を顕智の書写として「直弟本」の名のもとに収録されているのである。第六巻の末尾に記された島 義厚氏の「あとがき」によれば、前五冊を真仏筆とみるのは「その後の平松令三先生の研究によって」といわれている。生桑完明氏が覚信房の書写と断定されて以来(1)、平松令三氏もそれを継承されていたのであるが、平成十八年(二○一八)に刊行された『増補親鸞聖人真蹟集成』第六巻の「解説〈補記〉」において氏は、

その後よく検討してみると、それは誤りであって、真仏筆とすべきことが判明したので、ここにお詫びして訂正すると共に、

といい、その理由として、

その筆致を見ると、若々しい生気があり、とても病気に冒された老人の筆とは思われない。そこで高田山所蔵の古聖教の筆跡と照合してみると、真仏の筆跡と一致する。

といわれている(2)。また常磐井慈裕氏は「近年になって真仏上人の筆跡に関する研究が進むと共に、これも真仏上人の筆跡と見る見解が優勢となっている(3)」と述べられている。真仏の筆跡については私の及ぶところではないが、考えてみれば、覚信房は病いをおして上洛したのであり、親鸞と面謁をはたしたからといって、すぐさま病いが治るとは思えない。上洛中は病中であったといえよう。しかも覚信房の子の慶信房が自身の領解をしたためて親鸞に教示を仰いでいる(慶信上書)。それは「十月十日」とだけあって年を記していないが、正嘉二年(一二五八)のものであろうといわれている(4)。覚信房が往生してまもないころである。そのときに子の慶信房が自身の領解を書けるということは真宗の教えを深く理解しているからで、それを踏まえると、覚信房はかなり老齢であったと考えられる。したがって病中にして老齢の覚信房が大部な『西方指南抄』を書写できるとは思えない。やはり別筆とみるほうが至当であろう。では誰の筆かというと、筆跡の研究から真仏であるといわれれば、それにしたがわざるをえない。ゆえに前五冊は真仏が書写したということになる(5)。

(1)『定本親鸞聖人全集』第五巻・生桑完明氏「輯録篇解説」四一三頁。
(2)『増補親鸞聖人真蹟集成』第六巻・平松令三氏「解説〈補記〉」九三八~九三九頁。なお『影印高田古典』が前五冊を真仏筆としていることについて、平成二十六年(二○一四)高田学会に問い合わせたところ、論文として発表されたものはない。文章としてはいまの氏の「解説〈補記〉」しかないとのことであった。
(3)常磐井慈裕氏「『西方指南抄』直弟本」(『影印高田古典』四・解説)
(4)霊山勝海氏『末灯鈔講讃』(永田文昌堂、二○○○年)二○九頁。
(5)なお、その真仏本の体裁や真蹟本との対照等については、常磐井慈裕氏「『西方指南抄』直弟本」(『影印高田古典』四・解説)、とくに清水谷正尊氏「直弟本『西方指南抄』」(『影印高田古典』六・解説)に詳しく述べられている。

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『西方指南抄』の編者(6)

2016年09月25日 | 法本房行空上人試考

 覚信房は下野国高田の住人で、『親鸞聖人御消息』第七通、五月二十八日付の「覚信御房 御返事」の最後に「いのち候はば、かならずかならずのぼらせたまふべし」と書かれている。その包紙には別筆で「建長八年丙辰五月二十八日親鸞聖人御返事」とある(1)。そこで覚信房は建長八年(康元元年、一二五六)の時点で下野国高田にいたのである。真蹟本の『西方指南抄』が書きはじめられる年である。そして覚信房は親鸞の言葉に応じて、実際に上洛している。その様子を述べたのが有名な『親鸞聖人御消息』第十三通の蓮位添状である。覚信房の子である慶信房の上書に対する親鸞の返書に添えられたものである。

そもそも覚信坊のこと、ことにあはれにおぼえ、またたふとくもおぼえ候ふ。そのゆゑは、信心たがはずしてをはられて候ふ。また、たびたび信心存知のやう、いかやうにかとたびたび申し候ひしかば、当時まではたがふべくも候はず。いよいよ信心のやうはつよく存ずるよし候ひき。のぼり候ひしに、くにをたちて、ひといちと申ししとき、病みいだして候ひしかども、同行たちは帰れなんど申し候ひしかども、「死するほどのことならば、帰るとも死し、とどまるとも死し候はんず。また病はやみ候はば、帰るともやみ、とどまるともやみ候はんず。おなじくは、みもとにてこそをはり候はば、をはり候はめと存じてまゐりて候ふなり」と、御ものがたり候ひしなり。この御信心まことにめでたくおぼえ候ふ。善導和尚の釈の二河の譬喩におもひあはせられて、よにめでたく存じ、うらやましく候ふなり。をはりのとき、南無阿弥陀仏、南無無碍光如来、南無不可思議光如来ととなへられて、手をくみてしづかにをはられて候ひしなり。

とあり、最後に、

この文のやうを御まへにてあしくもや候ふとて、よみあげて候へば、「これにすぐべくも候はず、めでたく候ふ」と仰せをかぶりて候ふなり。ことに覚信坊のところに、御涙をながさせたまひて候ふなり。よにあはれにおもはせたまひて候ふなり。

と結んでいる(2)。すなわち、覚信房は上洛途中の「ひといち」というところで病気になり、同行の人たちが国に帰るように勧めたけれども、「死するほどのことならば、帰るとも死し、とどまるとも死し候はんず。また病はやみ候はば、帰るともやみ、とどまるともやみ候はんず。おなじくは、みもとにてこそをはり候はば、をはり候はめと存じてまゐりて候ふなり」といって、病いをおして上洛したというのである。そして親鸞と面謁を遂げ、その後しばらくは小康を得たようであるが、やがて臨終を迎え、「南無阿弥陀仏、南無無碍光如来、南無不可思議光如来」と称えて、手を組み静かに息を引き取った。その様子を含めた文章を蓮位が親鸞の前で読みあげたとき、親鸞はとくに覚信房のところで涙を流されたというのである。覚如の『口伝鈔』にも覚信房の臨終のことが述べられている。

聖人[親鸞]の御弟子に、高田の覚信房[太郎入道と号す]といふひとありき。重病をうけて御坊中にして獲麟にのぞむとき、聖人[親鸞]入御ありて危急の体を御覧ぜらるるところに、呼吸の息あらくしてすでに絶えなんとするに、称名おこたらず、ひまなし。そのとき聖人たづねおほせられてのたまはく、「そのくるしげさに念仏強盛の条、まづ神妙たり。ただし所存不審、いかん」と。覚信房答へまうされていはく、「よろこびすでに近づけり、存ぜんこと一瞬に迫る。刹那のあひだたりといふとも、息のかよはんほどは往生の大益を得たる仏恩を報謝せずんばあるべからずと存ずるについて、かくのごとく報謝のために称名つかまつるものなり」と云々。このとき上人、「年来常随給仕のあひだの提撕、そのしるしありけり」と、御感のあまり随喜の御落涙千行万行なり(3)。

すなわち、臨終のときの覚信房は病いのため呼吸の息も荒かったが、称名を怠ることがなかった。そのとき親鸞は「どのような思いで念仏しているか」と尋ねたところ、「よろこびすでに近づけり、存ぜんこと一瞬に迫る。刹那のあひだたりといふとも、息のかよはんほどは往生の大益を得たる仏恩を報謝せずんばあるべからずと存ずるについて、かくのごとく報謝のために称名つかまつるものなり」と、浄土に生まれるという喜びのときはすでに近づいている。たとえ一刹那であっても往生の大益を与えてくださった仏のご恩に報謝するため称名していると答えた。親鸞は感激のあまり随喜の涙を流したというのである。覚如がこれを記しているということは親鸞の門弟のあいだで語り草になっていたのであろう。ともあれ、覚信房が往生した年については、『親鸞聖人御消息』第十五通、閏十月二十九日付、「高田の入道殿御返事」に「ふるとしごろ(4)」といっている。建長八年から十月が閏月となるのは正元元年(一二五九)であるから、その先年ということになる。遅くとも前年の正嘉二年(一二五八)であろう。そうすると、康元二年(一五七)三月二十日に書写を終えている『西方指南抄』の門弟書写本は、覚信房が上洛していた時期とほぼ一致する。また前に述べたように「釈覚信」という袖書があることから、覚信房の筆になると見られていたのである。

(1)『親鸞聖人御消息』第七通(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』七五○頁)
(2)『親鸞聖人御消息』第十三通・蓮位添状(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』七六六~七六八頁)
(3)『口伝鈔』第十六条(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』九○二頁)
(4)『親鸞聖人御消息』第十五通(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』七七○頁)

 

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『西方指南抄』の編者(5)

2016年09月24日 | 法本房行空上人試考

              4

 高田専修寺に所蔵される他の一本は親鸞の真蹟本を底本として門弟が書写したものである。各冊の奥書はまず底本の奥書を記し、ついで書写の年時が記されている。いま底本の奥書は省略し、書写の奥書をあげると次のようである。
  (上本)康元二年三月五日 書写之
  (上末)なし
  (中本)康元二年〔丁巳〕二月廿七日
  (中末)康元二年〔丁巳〕三月廿日
  (下本)※康元二歳〔丁巳〕二月五日 書之  愚禿親鸞〔八十四歳〕
  (下末)徳治三歳〔戌申〕二月中旬〔第五〕書写之
このなか下本の奥書は、底本の奥書であって、その「康元元丙辰十月卅日」とあるのを右記のように改めている。おそらく「康元二歳〔丁巳〕二月五日」が書写の年時で、それを親鸞の書写の年時として誤記したものであろうといわれている(1)。これをみると、親鸞真蹟本が成立した康元二年(一二五七)正月二日からまもなく書写をはじめ、二月五日に下本、二月二十七日に中本、三月五日に上本、三月二十日に中末が書写し終わっている。奥書のない上末もそのころの書写であろう。ただ下末だけはかなり遅れて徳治三年(一三一○)二月二十五日に書写されていて、筆跡も前五冊とは明らかに別筆である。先学は顕智の書写といわれている(2)。顕智は延慶三年(一三一二)に八十五歳で往生しているから、その二年前の八十三歳のときということになる。もともと下末が欠けていたか、何かの事情で紛失したので、顕智が補ったのであろう。その下末が顕智の筆になるということにはまったく異論がないのであるが、問題は前五冊である。いずれも表紙に「釈覚信」という袖書があるので覚信房の所持本であったことはわかる。しかしその筆者である。従来は覚信房の筆になるとされ、「覚信本」と呼ばれてきた。


(1)『定本親鸞聖人全集』第五巻・生桑完明氏「輯録篇解説」四一二頁。
(2)『定本親鸞聖人全集』第五巻・生桑完明氏「輯録篇解説」四一三頁など。

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『西方指南抄』の編者(4)

2016年09月23日 | 法本房行空上人試考
      3

 ただその真蹟本も問題が残る。というのは、奥書の日付の順によると、上末(康元元年十月十三日、康元二年正月一日校了)→中末(康元元年十月十四日)→下本(康元元年十月卅日)→下末(康元元年十一月八日)→上本(康元二年正月二日)・中本(同、校了)となっていて、書写年時が巻の順序を追っていないのである。これによって宮崎円遵氏は「少なくともこれより先本書の輯録が成っていて、この真蹟はその書写であることを認めねばならぬ」といわれ、親鸞転写説を語られるのである。もっとも氏は法然に対して必ず「聖人」の敬称を用いられていることなどから「こうした宗祖独自の風格が本書において看取され、しかも本書が宗祖以外の手になったとする微証が存しない限り本書は宗祖の輯録と考えて大過あるまいと思う」と、結論的には親鸞編集説をとられている(1)。しかしながら奥書の順序はきわめて不自然であり、親鸞転写説の根拠ともなりうるものである。この問題を解明したのは浅野教信氏であった。氏は次のようにいわれている。

先ず書写年時の不順についてであるが、聖人にあっては、初めにわりつけされざる個々の資料が手もとにあって、初めは三冊の予定ではなかったかと考えられるのである。そして上巻・中巻は共に筆を進められたために、康元元年〔丙辰〕十月十三日(上末)・康元元年〔丙辰〕十月十四日(中本)という一日の差が出来たと考えられるのである。上本と中本の朱書との「康元丁巳正月二日」とある同日奥書と、上末の「康元二歳正月一日」の校了の日付とを考え合わすと、中巻を完成した頃に六冊に分冊しようという考えに達して下本・下末の完成を見、その後、上巻の校了を終えた翌日、中巻の校正にかかって中巻を二分し、それとともに上巻を本と末との二冊に分ったために同日の奥書が生じたのではなかろうか(2)。

すなわち、親鸞ははじめ上中下の三冊にする予定で上巻と中巻を併行して筆を進め、中巻が完成したころに六冊に分冊しようという考えに達し、下巻を下本・下末として完成させた。それから上巻の校了を終えた翌日に中巻の校正にかかり、中巻を本と末に二分して、それとともに上巻を本と末の二冊に分けたために同日の奥書が生じたというのである。この説によると、上末(実は上巻)は康元元年十月十三日、中末(実は中巻)は同年十月十四日、下本は同年十月卅日、下末は同年十一月八日となり、上末(上巻)の校了後、中巻と上巻を本末に分冊したから、中本と上本ができ、それそれ翌年正月二日という同日の奥書をもつということになる。つまり上巻と中巻をあとから本末に分冊したというところがポイントである。これを真蹟本の原本にあたって実証されたのが平松令三氏であった。氏は次のようにいわれている。

真蹟本の上本の末尾頁を見ると、一頁六行の文字が全面に詰めて書かれており、最後に一行の余白もなく、上末の巻頭頁をピッタリ接続させることができる。仮りに上本の奥書が書かれている料紙をとりはずし、上末の表紙をとりはずして、上本に上末をくっつけたら、完全に接続して、何の不自然さもなく一冊の本となり得るような状態である。(中略)上本の奥書が書かれている料紙は、紙質はそれまでの頁と同頁と見てよいが、天地の端がちぎり棄てられたかのように、ケバ立っていて、寸法も少し短くなっている。前の頁と連続していない形で、浅野説のように、この紙だけあとから挿入された、とも考えられるような状態を示している。つまり、真蹟本の原本について見たとき、浅野氏が推定せられた、上巻と中巻がもとは一冊ずつであったのを、親鸞の手によって二分冊された、という説は、十分に成立するような状況証拠が現われた、と言えよう(3)。

すなわち、真蹟本の原本状況は上本と上末は連続したものであり、もともと一冊であった上巻を分冊したことは明らかである。また上本の奥書の料紙だけはあとから挿入された状態を示しているといわれるのである。つまり上巻を分冊したから、上本という形ができ、その奥書をあとから書いて挿入されたのである。これによって浅野教信氏の説は明証を得たのであった。しかし氏の「上巻・中巻は共に筆を進められたために、康元元年〔丙辰〕十月十三日(上末)・康元元年〔丙辰〕十月十四日(中本)という一日の差が出来たと考えられるのである」という点に平松令三氏は疑問を呈されている。上末と中末の奥書がわずか一日しかへだたっていない不自然さである。浅野教信氏は「上巻・中巻は共に筆を進められた」といわれているが、霊山勝海氏も「親鸞の上にそのような例をみないところからわたしも同様の疑問をもつところであった」といわれている。そして「その後、『親鸞聖人真蹟集成』の『西方指南抄』をなんどもくっているうちに気づいたことが、不自然な日付の謎をとく手がかりとなった」といわれ、上末の「法然聖人御説法事」の最後のあたりは、数頁前から墨がずい分とねばった様子で、濃い墨色でありながら、きわめてかすれが多い。その墨色は「法然聖人御説法事」を終わって筆を置くことなく、中巻へと書きすすめられている。ところが中巻の中途あたりまで書き終えたころ、「公胤夢告」を記した断簡が史料の中に紛れていたのを発見し、それを挿入する場所がないので、やむなく上末の末尾、「法然聖人御説法事」のあとの空白のところに追記した。また上末の奥書も追記であって、それらは前の「法然聖人御説法事」と違い、あざやかな調子のよい墨色を示している。そのあたりをまとめて氏は、

書写は用紙を開いたまますたであろうし、また開いたまま積み重ねていったであろう。上巻から中巻へと書きすすむときも、書き終えた上巻をすぐ製本することなく、中巻をほぼ書き終えるころまで積み重ねていたであろう。「公胤夢告」の断簡を発見追記し、上巻に奥書していなかったことに気付いて奥書して上巻を製本したのが十月十三日であったのではないか。翌十月十四日、中巻の「名号の勝徳……」の残りを書写、奥書を施して製本したのではないか、と考える。

といわれている(4)。すなわち氏によれば、上巻と中巻は連続して書写されており、その時点では上巻に奥書はなかった。それを「公胤夢告」と奥書を追記して製本したのが十月十三日であり、中巻の残りを書写、奥書を施して製本したのが翌十月十四日であるということになる。

 したがってすべてを総合すれば、親鸞は上中下の三巻の構想をもって上巻から書きはじめているのであって、中巻を書きすすめるなかで「公胤夢告」を発見して上巻末尾に追記し、奥書を挿入して製本したのが康元元年十月十三日である。そして中巻の残りを書写し、奥書を施して製本したのが同年十月十四日である。そのあいだに本末に分冊しようという考えに達し、下本の書写を終えたのが同年十月卅日、下末の書写を終えたのが同年十一月八日である。それから上巻の校了を終えたのが翌康元二年正月一日であり、上巻と中巻を本末に分冊して、上本と中本の奥書を記したのが同年正月二日ということになる。このようにみてみると、真蹟本の奥書の不順、不自然さの問題は解消するであろう。そしてこのようなことができるのは編者しかいないのであって、親鸞編集説の有力性を示している。


(1)宮崎円遵氏『真宗書誌学の研究』(永田文昌堂、一九四九年、のち同氏『真宗書誌学の研究 宮崎円遵著作集 第六巻』〈永田文昌堂、一九八八年〉所収、一六一頁)
(2)浅野教信氏「『西方指南抄』の研究序説」(『龍谷大学仏教文化研究所紀要』三、一九六四年、のち同氏『親鸞と浄土教義の研究』〈永田文昌堂、一九九八年、所収〉一二五頁)
(3)平松令三氏「西方指南抄の編集をめぐって」(『井川定慶博士喜寿記念論集 日本文化と浄土教論攷』、一九七四年、のち同氏『親鸞真蹟の研究』〈法蔵館、一九八八年〉所収、一三四~一三五頁)
(4)霊山勝海氏『西方指南抄論』(永田文昌堂、一九九三年)四九~五三頁。
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『西方指南抄』の編者(3)

2016年09月22日 | 法本房行空上人試考
 それに対して、中野正明氏も先行研究を踏まえたうえで次のようにまとめられている(ただし梯 實圓氏の所論は見られていない)。

(一)上巻本の内題の「上」は「中」と一旦書いたうえに肉太に「上」と訂正したものであることを確認し、それが中巻本との混同から生じたものであるとすると、六本各冊の奥書、奥の朱筆等の検討によって、各冊の底本となった六冊の存在を想定して筆記過程を再現することがもっとも納得のいくものと考えられた。
(二)自筆本には他の記述との比較によって随所に欠落箇所が認められるが、そのうちとくに「法然聖人御説法事」の場合は一貫して『観経』の説示のうちなかでも定散二善の諸行往生に関するものを欠落しており、また「七箇条制誡」「起請没後二箇条事」などの場合にも、総じて親鸞のある一定の主観にもとづく記述の脱落ばかりであって、少なくとも改変というようなものではない。
(三)内容的に遺文そのものの記述ではなく附記と見られるものが数箇所存するが、これは筆記方法がおもに六行筆記の体裁をよく維持している点を基準にすると、すでに底本となったものに存在していた附記と、親鸞によって加筆された転写時の記述とに分けて理解することができる。
(四)「建久九年正月一日記」「法然聖人御夢想記」「法然聖人臨終行儀」「聖人御事諸人夢記」は『醍醐本』所蔵「御臨終日記」の記述の形成過程においてその原型をなす記述であると考えられ、また「公胤夢告」「或人念仏之不審聖人に奉問次第」などの『醍醐本』との親近性と併せて、『指南抄』の記述はかなり原型に遡り得るものであることが確認され、そのことは『指南抄』が相当に正確な資料の提供を得て成立したものであることを示していることが確認され、そのことは『指南抄』が相当に正確な資料の提供を得て成立したものであることを示しているものと言える。
(五)「公胤夢告」の記述はその直前に位置する「法然聖人御説法事」の公開に正統性・威厳性を加えようと置かれたもので、このあとに続く法然の宗教体験を中心とした記録類はその霊験を証するための遺文類であり、「七箇条制誡」「起請没後二箇条事」を含めたこれらの全体を、「公胤夢告」と法然を勢至菩薩の垂迹とする解説を末尾に掲せる『私日記』によって強調し、なおかつこれらを証明しようと多数の消息・法語類を添付するといった構成が確認されることによって、所収遺文の配列順序から編者の意図が想定できる。
これらの諸点はいすれも親鸞編集説を肯定するには矛盾を生ずる問題であり、それ以前に底本あるいは原型が存在したとする転写説を裏付けることになると思う。

といわれている。そしてその成立の下限として、

宝治二年(一二四八)の著述とされる『浄土高僧和讃』源空章においては、第五・第六・第七・第八・第九首、第十四・第十五・第十六首等の記述に、それぞれ『私日記』「法然聖人臨終行儀」等の記述を土台にして作られた形跡を認めることができ、親鸞はすでにこの宝治二年には『指南抄』を目にしていたものと考えられる。

とし、上限については『私日記』の法然と善導の夢中対面の記事が『醍醐本』に依拠していると見られるところから、『醍醐本』が成立した仁治二年(一二四一)とされている。したがって『西方指南抄』の成立時期は、

  仁治二年(一二四一)から宝治二年(一二四八)の間とすることができる。

といわれるのである。またその編者については、「あるいは『私日記』の作者と『指南抄』の編者は同一人であるのかもしれない」といわれ、

『私日記』の編者の候補として信空から円頓戒正嫡の後継者である湛空などをあげることができよう。したがって、『指南抄』の編者も同様に湛空その人かまたはその周辺の者に求めてもよいと考えるのであるがいかがであろうか。『指南抄』の原典の成立時期を仁治二年(一二四一)から宝治二年(一二四八)頃としたが、湛空の没年は建長五年(一二五三)であるので年代的にも受容できる。

といわれている(1)。

 こうした両氏の所論は先行研究の前提を示さないと理解しがたいが、ともかく親鸞編集説と親鸞転写説にはそれぞれ根拠のあることはわかっていただけたと思う。ではどちらが正鵠を得ているのかは、にわかに断定できない。しかし多くの先学は親鸞編集説をとっているようであり、私もそれにしたがいたいと思う。その根拠は梯 實圓氏が示されたとおりである。中野正明氏も「筆写はいまだ原本に接しておらず少しく大胆な仮説を述べる結果になってしまい」と、「大胆な仮説」といわれている。もしその親鸞転写説が正しいとしても、いま重要なのは、高田専修寺に親鸞の真蹟本が所蔵されているということである。


(1)中野正明氏『増補改訂 法然遺文の基礎的研究』(法蔵館、二○一○年)一二九~一三五頁。
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『西方指南抄』の編者(2)

2016年09月21日 | 法本房行空上人試考
        2

 さて、この『西方指南抄』を編纂したのは誰であろうか。その問題について先学は種々に論じられている。それは大きく親鸞編集説と親鸞転写説に分かれる。すなわち、親鸞自身が編集したという説と、親鸞以前にすでに成立していて親鸞が転写したという説である。いま親鸞編集説として梯 實圓氏、親鸞転写説として中野正明氏の所論を見てみたいと思う。

 まず梯 實圓氏は、宮崎円遵氏・生桑完明氏・赤松俊秀氏・浅野教信氏・平松令三氏・三田全信氏・霊山勝海氏の先行論文を概観したうえで、

 親鸞聖人によって編集されたと考えられるのは、各氏が述べられているように、(一)調巻操作が行われていること、(二)専修寺所蔵本のほかに原本が伝わらず、又引用された例もないこと、(三)「七箇条制誡」の署名を略抄し、源空を入れて二十名を連ねた後は「蓮生、善信、行空」の三名を順不同であげ、自署も綽空から善信に改められていること(森本・註、これが行空解明の鍵となることは前節に示した。詳しいことは次節で述べる)、(四)「法然聖人御説法事」「源空聖人私日記」「法然聖人御夢想記」「法然聖人臨終行儀」等いずれも法然を「聖人」号で尊称されているが、恐らく親鸞聖人が変更されたと考えられることなどである。その他(五)「法然聖人御説法事」という題は他の諸異本と対校するとき、親鸞聖人の命名である可能性が強く、(六)後述するように異本にくらべて極端に省略が多いが、その略し方からみて親鸞の略抄と推定することができる。(七)また上末の末尾に、建保四年四月二十六日の「公胤夢告」が記されているが、これは「法然聖人御説法事」を写し終って、その余白にギリギリに詰め込むような形で書かれている。余白にみあった短文だったからここへ入れたので、余白がなければ別冊にまわされた可能性がある。これは編者でなければできないことである。
 (八)中本所収の「聖人御事、あまた人に夢にみたてまつりける事」という題は、親鸞聖人がつけられた可能性があるが、そこにでてくる夢想十六条のうち、十五条までは『行状絵図』三八「諸人夢想」の記事とほぼ合致する。しかし第十六条に、丹後国しらふの庄の別所の僧で、京の五条の坊門、富小路に住んでいたものの夢想が集録されているが、これは管見するところでは他にみられない。その住処からみて、聖人がみずから見聞されたのを収録された可能性がある。
 (九)又本書にのみ収録されているもので、中末の「決定往生三機行相」と「名号の勝徳と本願の体用」は、一念義的な傾向の強い法語であるが、これを法然聖人の御法語と決定して収録されたのは親鸞聖人であろう。
 (一○)又下本に収録されている「浄土宗の大意」も本書にのみあるものだが、これは親鸞聖人自身の聞き書きである可能性が強い。聖人はこれを『末灯鈔』第八条所収の閏三月三日(康元二年)の消息のなかで解説されている。それは「浄土宗の大意」の一連のが、親鸞聖人のノートのようなものだったから、本書を見た人物が特に解説を聖人に依頼したのではなかろうか。
 (十一)親鸞聖人が集められた法然関係の法語のなかで、ここへ収録されなかったと考えられるものに『本願相応集』がある。奥書に「建長七乙卯六月三日、以九条欣阿弥陀仏之本、愚禿釈親鸞書写之」と書かれた後世の写本が岐阜県安養寺や大谷大学に所蔵されている。恐らく偽作の疑いがあって『西方指南抄』には収録されなかったのではなかろうか。

等といわれている(1)。この説をとれば、親鸞が編集したときが『西方指南抄』の成立年時ということになる。法然滅後四十四年後、親鸞は法然を追慕して編纂したのであろう。


(1)梯 實圓氏『西方指南抄序説』(西本願寺安居講本、一九八六年)一三~一五頁。
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『西方指南抄』の編者(1)

2016年09月20日 | 法本房行空上人試考
 二 『西方指南抄』の編者

       1

 『西方指南抄』は上中下の三巻をそれぞれ本末に分けた六冊からなる大部な書である。高田専修寺に二部所蔵されていて、いずれも国宝に指定されている。その一本は六冊すべて親鸞の真蹟である。他の一本はそれを底本にした門弟の書写本であるが、問題があるので後に項を改めて述べることにする。いま取り上げようとするのは親鸞の真蹟本である。その六冊の奥書は次のようになっている。
  (上本)康元元丁巳正月二日書之  愚禿親鸞〔八十五歳〕
  (上末)康元元年〔丙辰〕十月十三日  愚禿親鸞〔八十四歳〕
      〈朱書〉康元二歳正月一日 校之
  (中本)〈朱書〉康元元丁巳正月二日  愚禿親鸞〔八十五歳〕校了
      愚禿親鸞〔八十五歳〕書之
  (中末)康元元年〔丙辰〕十月十四日  愚禿親鸞〔八十四歳〕書写之
  (下本)康元元丙辰十月卅日書之  愚禿親鸞〔八十四歳〕
  (下末)康元元丙辰十一月八日  愚禿親鸞〔八十四歳〕書之
このなか上本と中本の朱書に「康元元丁巳正月二日」となっているが、康元元年は「丙辰」であって「丁巳」ではない。「丁巳」は康元二年である。そして「愚禿親鸞〔八十五歳〕」という年齢よりすると、「康元二」とするところを誤って「康元元」としたのであろう。親鸞八十五歳は康元二年であるからである。そこで親鸞の真蹟本は康元元年(一二五八)十月ころから翌二年一月二日にかけて、親鸞の年齢でいえば八十四歳の終わりから八十五歳のはじめにかけて書写されたことがわかる。
 そして内容は次のようになっている。
(上本)
 〈1〉法然聖人御説法事
(上末)
 〈1〉法然聖人御説法事(つづき)
 〈2〉公胤の夢告
(中本)
 〈3〉建久九年記
 〈4〉法然聖人御夢想記
 〈5〉十七条法語
 〈6〉法然聖人臨終行儀
 〈7〉諸人霊夢記
(中末)
 〈8〉七箇条制誡
 〈9〉葬家追善の事
 〈10〉源空聖人私日記
 〈11〉三機分別(決定往生三機行相)
 〈12〉二位の禅尼に答ふる書
 〈13〉四箇条問答(名号の勝徳と本願の体用)
(下本))
 〈14〉実秀の妻に答ふる書
 〈15〉実秀に答ふる書
 〈16〉正如房へ遺す書
 〈17〉光明房に答ふる書
 〈18〉基親の領解
 〈19〉基親の書信と法然上人の返書
 〈20〉十一箇条問答(或人念仏之不審聖人に奉問次第)
 〈21〉浄土宗大意
(下末)
 〈22〉四種往生事
 〈23〉黒田の聖へ遺す書
 〈24〉念仏大意
 〈25〉九条殿北政所に答ふる書
 〈26〉熊谷入道へ遺す書
 〈27〉要義問答
 〈28〉津戸三郎に答ふる書
以上の二十八篇である。これをわずか三ヶ月あまりで書き上げるとは、すさまじいまでの筆力というべきであろう。
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『西方指南抄』の位置(5)

2016年09月19日 | 法本房行空上人試考
 そうした法然の法語、消息、伝記、行状などを集成したのが『西方指南抄』である。その成立年時について明確なことはいえないが、次項で述べるように、親鸞が康元元年(一二五六)十月から翌二年一月にかけて書写している。法然滅後四十四年から四十五年である。それ以前のものとしては醍醐本『法然上人伝記』がある。大正六年(一九一七)醍醐三宝院の宝蔵から発見された。醍醐寺第八十代座主・義演(一五五八~一六二六)が書写させたものである。翌・大正七年(一九一七)に望月信亨氏によって紹介され(1)、大正十二年(一九二三)中外出版社から『浄土古典仏教叢書』の一つとして『法然上人伝記附一期物語』の題のもとに出版された。その題の下に「見聞出勢観房」とあるから、源智の門下らによって編集されたものであろう(2)。それは仁治二年(一二四一)ころといわれている(3)。法然滅後二十九年ころである。またその巻末にある望月信亨氏の「解説」によれば、全文漢文にして六篇あり、第一篇は「一期物語」と題して法然の物語二十条を集め、第二篇は禅勝房の問いに答えたもので十一問答あり、第三篇は三心料簡以下二十七条の法話を録し、第四篇は「別伝記云」と題して法然の略伝を掲げ、第五篇は「御臨終日記」と題して法然の臨終の祥瑞等を記し、第六篇はいわゆる三昧発得記で法然みずから三昧発得のことを筆録されたものといわれている。そのなか第二篇の「禅勝房との問答」、第五篇の「御臨終日記」、第六篇の「三昧発得記」は、『西方指南抄』所収の「十一箇條問答」、「法然聖人臨終行儀」、「建久九年記」と同じである。それらは独立して伝えられていたのであろう。そして遡れば、『源空聖人私日記』の浄土を観じた記事や夢中で半身金色の善導と対面した記事が「建久九年記」、臨終の様子の記事が「法然聖人臨終行儀」である。『源空聖人私日記』はそれらを素材として再構成し法然伝の形にしたものと考えれている(4)。醍醐本『法然上人伝記』や『西方指南抄』はその独立して伝えられていたものを「三昧発得記」「建久九年記」、「御臨終日記」「法然聖人臨終日記」として収録したのであろう。こうして『西方指南抄』以前に醍醐本『法然上人伝記』が法然の法語・伝記・行状などを集成しているが、『西方指南抄』に比べれば規模は小さい。もっと大がかりなものとしては良忠の門弟・道光了恵によって編纂された『黒谷上人語灯録』がある。その構成は『漢語灯録』一○巻として漢文体のものを二十二篇、『和語灯録』五巻として和文体のものを二十四篇、『拾遺語灯録』三巻として漢文体のもの三篇、和文体のもの八篇となっている。跋文に「予、二十年来、偏く此を華夷に索し、慎みて真偽を撿して撰集する所なり(5)」といっている。二十年の歳月をかけて真偽を見極め編纂したのである。分量において醍醐本『法然上人伝記』や『西方指南抄』をはるかに超えている。しかしその成立は文永十一年(一二七四)から翌十二年にかけてである。法然滅後六十二年から六十三年にあたる。したがって法然の法語類を集成したものとしては醍醐本『法然上人伝記』→『西方指南抄』→『黒谷上人語灯録』の順になる。ここに『西方指南抄』の位置があるといえよう。すなわち醍醐本『法然上人伝記』に次ぎ、『黒谷上人語灯録』に先立つ法然全集である。


(1)望月信亨氏「醍醐本法然上人伝記に就て」(『仏書研究』三七・三八、一九一七)など。
(2)梶村 昇氏「醍醐本法然上人伝記について」(『亜細亜大学教養部紀要』四、一九六九年)によれば、「一期物語」「禅勝房との問答」「三心料簡事」の三篇は源智の執筆になるといわれている。
(3)中野正明氏『増補改訂 法然遺文の基礎的研究』(法蔵館、二○一○年)八二頁。
(4)田村圓澄氏『法然上人伝の研究』(法蔵館、一九七二年)一七頁。
(5)『黒谷上人語灯録』跋文(『真宗聖教全書』四・七七九頁)
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『西方指南抄』の位置(4)

2016年09月18日 | 法本房行空上人試考
 また法然の伝記については室町時代以前の成立になるものとして『四十八巻伝』はじめ十五種を数えるが、それらの原形となったのは信空の法系による『源空聖人私日記』と指摘されている(1)。そしてその成立の上限は法然滅後四年の建保四年(一二一六)まで遡ることができるといわれている(2)。それは嘉禄の法難(一二二七)に関する記事がないことと、建保四年閏六月に七十二歳で没した三井寺・公胤(3)の夢告の記事があることによる。また『源空聖人私日記』で注意すべきは、公胤の夢告の記事とともに、夢中で半身金色の善導と対面した記事のあること、年時は示していないが浄土を観じた記事のあること、臨終の様子の記事があることである。そのほか皇円の桜池伝説の記事や九条兼実が法然を勢至菩薩の化身と見た記事もあるが、ともかく、そうした記事が『源空聖人私日記』にあるということは、それ以前に成立していて流布していたのであろう。早くから法然の伝記が作られ、行状が伝えられていたのである。


(1)中沢見明氏『真宗源流史論』「法然上人諸伝成立考」(法蔵館、一九五一年)参照。
(2)田村圓澄氏『法然上人伝の研究』(法蔵館、一九七二年)二○頁。なお福井康順氏「源空上人私日記について」(『大原先生古希記念 浄土教思想研究』、一九六七年)はそれについて若干の批判を加えられている。
(3)『吾妻鏡』建保四年閏六月二十日条。公胤については中野正明氏『増補改訂 法然遺文の基礎的研究』(法蔵館、二○一○年)五三頁の註(13)に述べられている。
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『西方指南抄』の位置(3)

2016年09月17日 | 法本房行空上人試考
 とはいえ、それは消息であって著作ではない。先の「文章に善からず」が誤解であるとしても、「自製の書記なし」までは及ばないであろう。廬山寺本『選択集』の筆跡状況がそのことを示している。主著さえそうであるから、長西が挙げる他の著作も同様に考えられる。ただ長西は法然の最晩年まで常随給仕した直弟である。その長西が法然の著述としているところをみると、あながち法然の撰述でないとはいいきれまい。少なくとも長西にとっては法然の著作と認めているのである。しかしそれがただちに法然の「自製の書記」、すなわち法然が筆をとって著したことを意味しないであろう。廬山寺本『選択集』の例からみて、おそらく法然の講義を門弟たちが筆記したものと思われる。それがやがて一巻の書という体裁をととのえ、長西をして法然の撰述と挙げしめたのではなかろうか。もしかすると、長西自身が筆写していたものを、のちに一巻の書としたのかもしれない。

 いずれにせよ、法然は消息を除き、みずから撰述することはなかった。現存する講義や法語の類は門弟たちの筆記によるといっていいであろう(1)。逆にいえば、法然の講義や法語は門弟が記録しなければ伝わらなかったことになる。さらにいえば、とくに法語は記録されなかったものもそうとうあったはずである。梯 實圓氏は「法然上人のような、自らあまり書かなかった人の言葉には、残っていないけれども、言われていた重大なことが随分あったとしなければなりません」といわれている。そして「直弟子の方々が、『俺はこう聞いたんだ』と言われていたら、これはもうすなおに信用すべきだと思います」ともいわれている(2)。その例として挙げられるのは、いわゆる自然法爾章の「自然といふは、もとよりしからしむといふことばなり。弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひてむかへむと、はからはせたまひたるによりて、行者のよからむとも、あしからむともおもはぬを、自然とはまふすぞときゝて候(3)」である。ここに「きゝて候」というのは法然から聞いたということである。「自然法爾」という言葉はこれ以外にない。親鸞が伝えなければ消え失せていたであろう。またその直前に「他力には義なきを義とす」という言葉もある。これを親鸞は『御消息』などに「聖人の仰せごとにてありき」、「大師聖人の仰せにて候へ」、「大師聖人の仰せに候ひき」等といって、法然の言葉として伝えている(4)。この言葉は真偽未詳の『護念経の奥に記せる御詞』にも「義なきを義とし、様なきを様とす(5)」とあり、『一言芳談』にも「正信上人云。念仏宗は、義なきを義とする也(6)」とある。「正信上人」とは堪空のことで、法然の言葉を聞き逃さなかったのである。とくに親鸞は異常なほどの感動をもって聞いたのであろう。それで『御消息』などに幾度も記しているのである。しかしそのほかの人が伝えていないところをみると、ほとんど聞き流されてしまったとしか考えられない。幸い堪空や親鸞が伝えたから残ったものの、法然には記録されなかった言葉も多くあったはずである。それを忘れてはならないであろう。そのうえで法然自身が「自製の書記なし」であっても、門弟たちによって講義や法語類が記録されたのである。


(1)たとえば後述する『和語灯録』巻五「諸人伝説の詞」には「隆寛律師のいはく」とか「ある時又の給はく」などといって、第三者の筆になることは明白である(『真宗聖教全書』四・六七二~六八四頁)。
(2)梯 實圓氏「真宗学の諸問題─法然教学と親鸞教学との交際─」(『真宗研究会紀要』一七、一九八四年)
(3)梯 實圓氏はこれを『真宗史料集成』一・四二六頁から引かれている。ほかに『正像末和讃』の末尾、『親鸞聖人御消息』第十四通(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』六二一~六二二頁、七六八~七六九頁)にもほぼ同様の法語がある。また自然法爾に関する研究は数多いが、梯 實圓氏『親鸞教学の特色と展開』(法蔵館、二○一六年)に三篇の論文が収録されている。ぜひ参考にすべきである。
(4)『親鸞聖人御消息』第六通、第十九通、第二十通(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』七四六、七七六、七七九頁)。ほかに『尊号真像銘文』末、『如来二種回向文』(『同』六七三、七二三頁)などにもある。なお「義なきを義とす」については、多屋頼俊氏『同氏著作集 第四巻 歎異抄新註』(法蔵館、一九九二年)八一~九一頁を参照されたい。ほかに瓜生津隆雄氏「無義為義の語釈について」(『真宗学』一三・一四、一九五五年、のち同氏『真宗転籍の研究─語学と義学─』〈永田文昌堂、一九八八年〉所収)などがある。
(5)『護念経の奥に記せる御詞』(石井教道氏編『昭和新修法然上人全集』一一七九頁)
(6)『一言芳談抄』巻之下(『浄土仏教古典叢書』本・八頁)
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『西方指南抄』の位置(2)

2016年09月16日 | 法本房行空上人試考
 もっとも法然がまったく何も書かなかったわけではない。消息が幾通か伝わっている。誰かが代筆したという可能性もないことはないが、昭和三十七年(一九六二)四月に奈良・興善寺の阿弥陀如来立像の胎内から法然とその門弟・證空たちの一連の消息が発見された(5)。その法然の筆跡をみると、京都嵯峨・清涼寺所蔵の法然の消息の筆跡と完全に一致するという。それは長らく真偽の評価が定まらなかったのであるが、興善寺の消息によって清涼寺の消息が真蹟と断定されたのである(6)。そしてそれにともない、清涼寺が所蔵する文書、すなわちいまの法然の消息と證空の消息が第一巻、つづく「熊谷直実自筆置文」「熊谷直実自筆夢記」が第二巻、「迎接曼荼羅由来記」が第三巻となっている。その熊谷直実関係の文書も注目を集めるようになったが(7)、別の機会に譲る。ともあれ、清涼寺の法然の消息は、後に述べる『拾遺語灯録』に「熊谷の入道へつかはす御返事」として収録され、最後に「御自筆也(8)」という註記がある。それを信用するなら、清涼寺所蔵本によったということになるが、両者のあいだには字句にかなりの相違がある。斎木一馬氏は「二通のうちどちらかが熊谷入道に送られた正文であり、他は同じく自筆の草(下書き)若しくは案(控え)ということになろうか」と想定されている(9)。そして「今その文章を見るに、その書は気品高く、文章は平明で條理をつくしている」といい、「ともすれば源空を文章の不得手な人、あるいは無筆の人のようにさえ一般には誤解されがちであったと思うが、それは明らかに誤解である」と注意されている(10)。


(1)堀池春峰氏「興善寺蔵・法然聖人等消息並に念仏結縁交名状に就いて」(『仏教史学』一○─三、一九六二年)に詳しい。またそれを解読し翻刻されている。そのほか斎木一馬氏「興善寺所蔵の源空・證空書状覚え書」(『藤原弘道先生古希記念 史学仏教学 乾』、一九七三年)がある。
(2)辻善之助氏『日本仏教史 第二巻 中世篇之一』(岩波書店、一九四七年)に、すでに「源空の自筆なること確かなものであり」「今自筆なることを確め得て」(三○六、三○七頁)といわれていたが、他に法然の筆跡として参照するものが少なかったので、注目されなかった。
(3)赤松俊秀氏『続鎌倉仏教の研究』「熊谷直実の上品上生往生立願について」(平楽寺書店、一九六六年)に翻刻、研究されている。そのほか福田行慈氏「熊谷直実自筆誓願文について」(『印度学仏教学研究』三○─一、一九八一年)、丸山博正氏「法然の九品観と熊谷直実の上品上生往生立願」(『三康文化研究所年報』一九、一九八二年)などがある。また熊谷直実全般にわたっては梶村 昇氏『知恩院浄土宗学研究所シリーズ3 熊谷直実─法然上人をめぐる関東武者1─』(東方出版、一九九八年)がある。
(4)『拾遺語灯録』巻下「熊谷の入道へつかはす御返事」(『真宗聖教全書』四・七六一頁)
(5)斎木一馬氏「清涼寺所蔵の源空自筆書状について」(『櫛田博士頌寿記念 高僧伝の研究』、一九七三年、のち『日本名僧論集第六巻 法然』〈吉川弘文館、一九八二年〉所収)
(6)斎木一馬氏「興善寺所蔵の源空・證空書状覚え書」(『藤原弘道先生古希記念 史学仏教学 乾』、一九七三年)
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