天上の月影

勅命のほかに領解なし

行空上人と佐渡島(8)

2016年06月30日 | 法本房行空上人試考
          6

 それにしても、先に述べたように河崎村に法本房旧跡があるとは『佐州巡村記』などに記されていなかったことである。にもかかわらず、突如、明治二十八年(一八九五)の『佐渡三郡町村統計明鑑』に出てくるのはどうしてであろうか。御住職は「河崎には江戸末期から明治二十二年まで法本房と同じ浄土宗の僧侶が二人相次いで来島して住んでいた」といわれる。安政三年(一八五六)まで埼玉県秩父郡横瀬町の小持山にいた足跡のある西賢〔明治八年(一八七五)八月二十八日寂〕という人と、明治十年(一八七七)ころに来た賢海〔明治二十二年(一八八九)十二月八日寂〕という人である。時期的に見ても『佐渡三郡町村統計明鑑』と近い。そこで御住職は彼らが浄土宗布教の便法として「法本房旧跡」ということをいい、このころ河崎にひろまったのかもしれないといわれるのである。しかし浄土宗布教の便法というのはどうであろうか。その二人の浄土宗僧侶というのはおそらく鎮西派であろう。第三章第二節で述べるように、鎮西派では行空を背師自立の邪義を唱えた人という評価がなされている。そのうえ行空は法然から破門された人というのが定着している。そのような人を担ぎだしても、布教の便法にはならないであろう。同じように磯部欣三・田中圭一氏共著『佐渡流人史』二七頁にも、

徳川時代佐渡を修行地としてやってくる浄土宗鎮西派の行者たちにとって河崎の地は、佐渡浄土宗のメッカであったらしい。(中略)鎮西派といえば、浄土宗のなかでももっとも修行を重んじた流派の一つである。そうしたお上人(しょうにん)、道心(どうしん)たちが全国各地から佐渡を訪れ、この河崎の地に足を運んだのは、河崎が浄土教の行者法本房行空の古跡であるということが、語り伝えにいわれていたからではなかろうか。

といわれているが、「語り伝えに」というのはともかく、前にも触れたし第三章第一節でも詳しく述べるように、行空は一念義の代表的人物である。鎮西派は一念義を邪義と見なすから、その行者がわざわざ行空を慕って佐渡島を訪れるということはないであろう。また鎮西派が行を重んじるのに対して、行空は第三章第六節で明らかにするように、信を重んじたと考えられる。そこで、いってみれば鎮西派と行空は水と油である。その行空をもって、足を運ぶことはないはずである。河崎の地が「佐渡浄土宗のメッカ」たる理由は他に求めるべきであろう。
コメント

行空上人と佐渡島(7)

2016年06月29日 | 法本房行空上人試考

            5

 それでは晃照寺境内説が出てくるのはいつか。御住職によると、その文献上における初見は、明治二十八年(一八九五)八月に出版された斉藤長三氏編輯『佐渡三郡町村統計明鑑』ということである。それは『佐渡叢書』第九巻に収載されている。解題によれば、「明治二十七年(一八九四)の調査による佐渡三郡の町村即ち雑太郡二十ヶ町村、加茂郡二十ヶ町村一組合、羽茂郡十四ヶ町村の戸数、人口、段別地価、税、吏員、小学校、学齢児童、納税者、官庁、神社、仏閣、雑件、牛馬舟車、物産についての統計を収録したものである」といわれている。そしてその凡例においては、「本書編纂の要旨は本州の事物に就て利害得失を論究するに非ずして反別、地価、其他万般の統計を知らんとするの階梯たらしむぬにあり。故に物産或は名勝、旧跡等に至りても之れが解を下さず」といわれている。御住職はとくにこの「解を下さず」という一語に注目されている。自分の見解を述べないという意味である。したがって明治二十七年に調査したままを記すのみで、各町村の物産、名勝、旧跡等、それらが正しいか正しくないか検討したものではないということになる。そこで「河崎村」の項を見ると、二頁目の二段目に次のように記されている。

 ◎神社 (同上)
一 村社三社 ●水尾●諏訪●日吉

 ◎仏閣 (同上)
一 真言宗二ヶ寺 ●福蔵院●宝珠院
一 真 宗一ヶ寺 ●西方寺
一 曹洞宗一ヶ寺 ●晃照寺

 ◎雑件 (同上)
○名勝旧跡 ◎法本房旧跡

(なお『佐渡叢書』には頁数が記されていない。刊本では二五丁右、国立国会図書館デジタルコレクションではコマ番号三二である)

これが「法本房旧跡」の初見の書き方である。「同上」というのは、一段目の「◎学齢児童(廿七年調)」とあるのと同じという意味であろう。つまり本書の表紙にも「明治二十七年調」とあるように、その年の調査であることを示している。そして一見してわかるように、「法本房旧跡」は「晃照寺」と関係をもっていない。河崎村の「仏閣」とは別に「雑件」として記されているだけである。それが河崎村のどこであるか記しているわけではないのである。「解を下さず」であるから、河崎村に「法本房旧跡」という何らかの調査を得たのであろう。それだけの記述がどうして晃照寺境内説になったのであろうか。推測であるが、「仏閣」の最後の行に「晃照寺」とある。そしてこの書が出版された五年後の明治三十三年(一九○○)に「旧境内図」が製版されている。それらを合わせてみると、そのとき金沢済美館が「雑件」の「法本房旧跡」を「仏閣」の最後の「晃照寺」に当て、「旧境内図」のなかに「法本房旧跡」という囲み文字を入れたのではなかろうか。それを橘正隆氏が「記念塔」と早合点し、晃照寺境内説が唱えられるようになったのではないかと考えられる。

コメント

行空上人と佐渡島(6)

2016年06月28日 | 法本房行空上人試考
 問題はむしろ法然のほうである。『法然上人行状絵図(四十八巻伝)』第三十三巻には、次のようにいわれている(『法然伝全』二二五頁)。

(前略)弟子のとがを師匠にをよばされ、度縁をめし、俗名をくだされて、遠流の科にさだめらる。藤井元彦〔云云〕かの 宣下の状云
  太政官符  土佐国司
   流人藤井の元彦
   使左衛門の府生清原の武次 〔従二人〕
   門部二人         〔従各一人〕
右流人元彦を領送のために、くだんらの人をさして発遣くださむのごとし。国よろしく承知して、例によりてこれをおこなへ。路次の国、またよろしく食済具馬三疋をたまふべし。符到奉行
 建永二年二月二十八日   右大官史中原朝臣〔判〕
  左少弁藤原朝臣

と「宣下の状」の内容を示しているが、そこにはやはり「藤井元彦」とある。

 ところが『法然上人伝記(九巻伝)』巻第六上(『法然伝全』四二二頁)、『本朝祖師伝記絵詞(筑後本)』巻三(『同』四八九頁)、『法然上人伝法絵流通(国華本)』下(『同』五○五頁)、『法然上人伝絵詞(琳阿本)』巻六(『同』五六七頁)、『法然上人伝(十巻伝)巻第八(『同』七一一頁)、『黒谷源空上人伝(十六門記)』(『同』八○四頁)には、「源元彦」と記されているのである。藤井姓でなく源姓である。それについて『法然上人行状絵図(四十八巻伝)』第一巻には「抑上人は、美作国久米の南條稲岡庄の人なり、父は久米の押領使漆の時国」とあり、「かの時国は、先祖をたづぬるに、仁明天皇の御跡西三條右大臣〔光公〕の後胤、式部太郎源の年、陽明門にして蔵人兼高を殺す。其科によりて美作国に配流せらる。こゝに当国久米の押領使神戸の太夫漆の元国がむすめに嫁して男子をむましむ。元国男子なかりければ、かの外孫をもちて子としてその跡をつがしむる時、源の姓をあらためて漆(うるま)の盛行と号す。盛行が子重俊、重俊が子国弘、国弘が子時国なり」(『同』四~五頁)とある。つまり法然の先祖をさかのぼれば、源氏になるといっているのである。そこで田村圓澄氏『新訂版 法然上人伝の研究』(法蔵館、一九七二年)一六四頁には、「もし法然の先祖が仁明源氏の出であるとすれば、源元彦とすべきであろう。それを藤井元彦としたのは、兼実(=藤原兼実、一一四九~一二○七)と関係を結ばせようとしたからである」といわれるが、つづいて「ただし法然の属する漆間氏が、仁明源氏の系統であったか否かは確証がなく、(中略)『四十八巻伝』の漆間家の系譜は、還俗名の源元彦に示唆してつくられたものではなかろうか」といわれている。ここで田村圓澄氏は漆間家の系譜に疑問を呈しながら、法然の還俗名は源元彦であったというのが腹の据わりのようである。ゆえに氏の『人物叢書 法然』(吉川弘文館、一九五九年)一八九頁には「法然は還俗せしめられ、源元彦の俗名を付けられた」と、藤井姓に触れるところはない。また大橋俊夫氏『法然─その行動と思想─』(評論社、一九七○年)一七七頁や同氏『法然入門』(春秋社、一九八九年)二○八頁も同じである。こうして法然には藤井姓ではなく源姓であったという伝承もあるわけである。

 ただそうすると、『歎異抄』や『血脈文集』が法然と親鸞は同じ藤井姓であったとして、師弟一味の信に生きた証しであるとするのは誤りということになる。また『四十八巻伝』も藤井姓であったことを記しているから、単純に真宗と鎮西派における伝承の違いというだけでは済まない。これはどう考えればいいのであろうか。どちらかが正しくて、どちらかが誤っているのであろうか。そこで思うに、田村圓澄氏が「藤井元彦としたのは、兼実と関係を結ばせようとしたからである」といわれ、梯 實圓氏も「法然聖人が『藤井』姓をつけられたのは、恐らく藤原兼実(九条家)の縁故によるものでしょう」といわれているところから、もともと法然の還俗名は源元彦であったが、法然の最大の庇護者であった藤原兼実が無理にみずからの藤原姓から藤井元彦と変更させたのではなかろうか。推測にすぎないが、そのように考えれば両者は両立する。

 ともあれ、法然には源姓であったという伝承があり、藤井姓に変更させられたといっても、その姓を与えられたと文献に記されているのは法然と親鸞だけである。行空などの還俗名は記述がないから不明といわざるをえない。そして親鸞の藤井姓は藤原氏(日野家)の出身であったからであり、法然の藤井姓は藤原兼実の関係による。源姓であったとしても、疑問はあるが、仁明源氏の出身であったからのようである。このように出身が還俗名に反映しているとすれば、先の『血脈文集』や『拾遺古徳伝』の幸西のところにだけ、「俗姓物部」と記されているのは何を意味するのであろうか。梯 實圓氏『玄義分抄講述─幸西大徳の浄土教─』(永田文昌堂、一九九四年)四頁に幸西の生涯を述べるにあたって、この記事により「俗姓は物部氏であったといわれているが、それ以上のことは不明である」といわれ、出自が物部氏であることを示していると見られている。安井広度氏『法然門下の教学』(法蔵館、一九六八年)一四三頁も小伝として「俗姓は物部氏」と記され、石田充之氏『法然上人門下の浄土教学の研究』上巻(大東出版社、一九七九年)三八一頁も略伝として「俗姓物部氏」と記されている。いずれもいまの記事によるものであろう。幸西にだけそうした記事がある明確な理由はわからないが、幸西が物部氏の出身であったとすれば、その還俗名も物部氏に関係するものであった可能性がある。もしかすると、『血脈文集』にそれがあるのは、法然と親鸞が藤井姓であるのに対して、幸西は違う還俗名を与えられたということを示唆しているのかもしれない。さらにいえば、幸西の還俗名が物部であったことをいっているのかもしれない。

 ちなみに、嘉禄の法難に関して、藤原定家(一一六二~一二四一)の日記・『明月記』安貞元年(嘉禄三年、一二二七)七月六日の条には、隆寛・空阿弥陀仏・幸西らが流罪になったと記しているだけであるが(『国書刊行会本』三・四○頁)、編著者不明ながら鎌倉時代後期成立と考えられる『百錬抄』第十三・安貞元年七月七日の条には、隆寛の還俗名を「山遠里」、空阿弥陀仏のそれを「原秋沢」、幸西のそれを「枝重」と記している(『国史大系』一四・二一六頁)。その記事がどこまで史実を伝えているのかわからないが、およそ名前とは思えない名前である。そうした還俗名をつけられる場合もあるのである。もちろん嘉禄の法難といまの承元(建永)の法難における還俗名を同一に考えることはできないが、法然・親鸞が藤井姓であるからといって、他の人も藤井姓であったとは限らない。また幸西の還俗名が物部氏に関係する、もしくは物部であった可能性があることを踏まえると、行空も藤井姓ではない還俗名であったかもしれない。したがって、河崎の原黒村に藤井姓が多いからといって、河崎の地が行空と関係が深いとはいいきれないと思われる。
コメント

行空上人と佐渡島(5)

2016年06月27日 | 法本房行空上人試考
 確かに僧尼を罪科に処するとき還俗させることは「僧尼令」で定められている(『国史大系』一二・七三頁)。親鸞自身も『教行証文類』後序に、「真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、猥りがはしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて遠流に処す。予はその一つなり」(『註釈版』四七一頁)といって、「僧儀を改めて姓名を賜う」と述べている。ただしそこには何という姓名を賜うたのか記されていない。そこで『歎異抄』流罪記録をよると次のようにいわれている(『註釈版』八五五~八五六頁)。

一 法然聖人ならびに御弟子七人、流罪。また御弟子四人、死罪におこなはるるなり。聖人(=源空)は土佐国〔幡多〕といふ所へ流罪、罪名、藤井元彦男云々、生年七十六歳なり。
 親鸞は越後国、罪名藤井善信(よしざね)云々、生年三十五歳なり。
浄聞房[備後国]澄西禅光房[伯耆国]好覚房[伊豆国]行空法本房[佐渡国]
幸西成覚房・善恵房二人、同遠流に定まる。しかるに無動寺の善題大僧正、これを申しあづかると云々。遠流の人々、以上八人なりと云々。(後略)

これによると、遠流に処せられた八人のうち、法然は藤井元彦、親鸞は藤井善信(よしざね)という俗名を与えられたことが知られる。もっともこの『歎異抄』の流罪記録については、写本によって有るものと無いものがあり、本文とどのような関係があるのか、後序の「大切の証文」や「目安」に関連して従来から問題とされてきた。三栗章夫氏は「『歎異抄』罪科記録の考察─新出『中井本』をめぐって─」(『真宗学』九九・一○○、一九九九年)に、流罪記録は「『歎異抄』の原本に、もしくは蓮如が書写した底本にあったというべきである」といわれ、本来『歎異抄』に備わっていたものであるとして、法然と親鸞が一味の信に生きていることをあらわすのが「後序の信心一異の論であり、罪科記録に現れている法然と親鸞がともに同じ藤井の俗名で流罪になっているということである。つまりここは『血脈文集』と同じように法然と親鸞が同じ信に住しているということを、罪科記録によって証明したものといえる」といわれている。そこに『血脈文集』というのは、その末尾に次のようにいわれているものを指す(『真聖全』二・七二一頁)。

一。法然聖人者〔流罪土佐国 俗姓藤井元彦〕
    善信者〔流罪越後国 俗姓藤井元彦〕
坐罪科之時勅宣に儞く
藤井元彦俗姓藤井
善信者俗名善信(よしざね)
善恵者無動寺大僧正御房あづからしめをはしき
幸西者俗姓物部常覚房 (後略)

すなわち、法然と親鸞がともに藤井姓を与えられたということで、同一の信に生きた証しであると見られるのである。それで法然と親鸞の二人のみ俗名を挙げている理由がわかる。逆にそれ以外の人たちの俗名を挙げる必要はなかったのである。また、とくに『歎異抄』を参考にしたのではないかと思われる覚如(一二七○~一三五一)の『拾遺古徳伝』巻七・第一段にも、

聖人(=法然)の罪名藤井の元彦おとこ、配所土佐くに〔幡多〕、春秋七十五。このほか門徒あるひは死罪、あるひは流罪。流罪のひとびと、浄聞房[備後のくに]・禅光房澄西[伯耆のくに]・好覚房[伊豆のくに]・法本房[佐渡のくに]・成覚房幸西〔阿波のくに俗姓物部云云〕・善信房親鸞〔越後のくに国府〕罪名藤井の善信(よしざね)・善慧房〔たゞし無動寺前大僧正これをまふしあづかる〕已上流罪、師弟ともに八人。(後略)(『真聖全』三・七三七頁)

とあって、法然と親鸞の俗名のみを挙げている。

その二人の藤井姓について、梯 實圓氏『聖典セミナー 歎異抄』(本願寺出版社 一九九四年)三五九頁には、

このとき親鸞聖人が「藤井善信」と名づけられたのは、もともと藤原氏(日野家)の出身だったから「藤」の一字が用いられたわけで、「善信(よしざね)」は、法名をそのまま訓読にしたものでした。なお、法然聖人が「藤井」姓をつけられたのは、恐らく藤原兼実(九条家)の縁故によるものでしょう。

といわれている。もっとも今井雅晴氏『親鸞聖人の越後流罪を見直す』(自照社出版、二○一五年)四八~四九頁には、

親鸞聖人がなぜ藤井という姓にさせられたのか。理由はまだ分かっていません。このとき法然聖人が藤井元彦という姓名にさせられたのと関係がありそうです。

といわれている。しかし、親鸞の藤井姓はやはり梯 實圓氏のいわれるように藤原氏(日野家)の出身であったからであろう。『拾遺古徳伝』巻七・第三段には、親鸞もはじめは死罪の噂が流れたが、八人の参議による会議がもたれ、そのなかに権中納言親経がいて、同じ日野家の出身者であったから、死罪に処することは納得できないと皆をなだめ、死一等を減じて越後国に流罪になったという(『真聖全』三・七四一頁)。また『公卿補任』によれば、親鸞の伯父にあたる日野宗業は建保五年(一二二七)に従三位に昇進しているが、その註記に二十年前の承元元年(一二○七)正月十三日に越後権介に任ぜられたことが記されている(『国史大系』九・六一九頁)。事件のおこる一ヶ月前である。それは実際には任地に赴かない遙任であったであろうが、越後の高官であることにはかわりない。そこでその庇護下におくため流罪地を越後に選定したのであろう。このように見ると、親鸞の越後流罪の背景には日野家の大きなはたらきかけがあったことが考えられてくるから、藤井姓が与えられたというのも肯けるのではなかろうか。
コメント

行空上人と佐渡島(4)

2016年06月26日 | 法本房行空上人試考
         4

 なお、磯部欣三・田中圭一氏共著『佐渡流人史』は、橘正隆氏の晃照寺境内説を承けつつ、晃照寺の開基が建暦二年(一三八○)であるから行空の時代とかけ離れているとして、晃照寺のある河崎の地を行空とゆかりがあるとして論を進められているが、そのなかで次のようにいわれている。

僧を配流するときには、還俗させて名字をつけて流すならわしがあった。法然事件のとき配流された人びとは、みんな藤井という姓を与えられた。そこで私は、佐渡に分布する藤井という姓がどこに多いかを調べてみることにした。そうしてわかったことは、河崎の原黒という村が、村ほとんどが藤井という姓であることがわかった。(後略)(二四~二五頁)

そして花田充道氏『鎮西教学成立の歴史的背景』も、これを承けてであろう、次のようにいわれている。

 行空がこの地に居住していたのか、或は誰かに招かれて、この地にやってきたのか、それは判らない。然し、当時、僧を配流するときには還俗させて、俗名を付して流す習わしがあったことを思い出した。
  法然─藤井元彦
  親鸞─藤井善信
  行空─?
 法然の弟子である親鸞が藤井善信という俗名で流されているので同じ弟子兄弟であるので行空も俗名があったに違いないと思われる。同じ罪科で流された行空も当然、藤井姓を名乗ったのではないかという思いにかられた。
 そんな思いから佐渡両津市内の電話帳を繰ってみると藤井姓を名乗る人々が多い。殊に河崎の原黒という村に多い。(中略)行空とこの藤井姓は何らかのつながりがあるのではなかろうか。(八三頁)

行空が流罪にあたって還俗させられ藤井姓を与えられたのではないかというところから、河崎の原黒村に藤井姓が多いという事実により、藤井姓をもって河崎の地と行空の関係を考えられているのである。
コメント

行空上人と佐渡島(3)

2016年06月25日 | 法本房行空上人試考

              3

 ただ「記念塔」はないにせよ、「旧境内図」には「法本房旧跡」という囲み文字があって、晃照寺境内が行空の結庵の跡であることを示している。しかしそれがまた問題である。御住職は一七五七年九月の『龍壽山晃照禅刹寺像因由記』によって、晃照寺境内が法本房旧跡であるという寺伝はないといわれる。そのうえ「旧境内図」を見ても、右上・左下の余白に晃照寺の由来が書かれているが、そこにも法本房旧跡であるとはまったく触れられていない。それゆえ、まず法本房旧跡というのは寺伝にないことなのである。

 そして御住職は山本修之助氏編『佐渡叢書』第十巻(一九七七年)所収の『佐州巡村記』にも晃照寺境内が法本房旧跡であるという記述がないことを強調される。『佐渡叢書』の解題によると、『佐州巡村記』は「佐渡奉行が新らたに着任し、島内各町村を巡視するに際し、あらかじめ管内の実状を知るために、奉行所で編集したものである。各町村における当時の家数、人数、石高、林、秣場、用水、郷蔵、寺院、神社、名勝、旧跡を記した現在の『町村勢要覧』ともいうべきものであろう」といい、「今回、本叢書に収載したものは、宝暦年代(一七五一~六三)のものと云われ、巡村記のなかでは(=他にも同類の書がある)最古のものであろう」といわれている。そのなかで「川崎村」の項を見てみると、家数や人数などのあと、寺社を挙げて、

  水尾大明神  十王堂
   〔禅宗〕源秀院  〔禅宗〕晃照寺
   〔浄土宗〕正源寺  〔真言宗〕福蔵寺
   〔一向宗〕西方寺

と示されている(五一頁。なお括弧内の宗名は小字。以下同じ)。そこには「〔禅宗〕晃照寺」としかないのである。ただしそれは珍しいことでなく、むしろ宗名と寺院名のみの記述のほうが圧倒的に多いのであるが、御住職はもし晃照寺境内が法本房旧跡と伝えられていたとしたら、当然取り上げられるはずであるのに、それがないということはそういう伝えはなかった証左であるといわれるのである。

 確かに『佐州巡村記』を繰ってみると、たとえば「赤泊村」の項に「〔真言宗〕善長寺」とあるあとに、「一、善長寺毘沙門堂大納言為兼卿左遷之時住居の旧跡也」(七一頁)とあり、「後山村」の項にも「〔法花宗〕本光寺」につづいて「日蓮上人旧跡の石あり」(一二三頁)とあり、「戸中村」の項には寺院ではないが、「一、かの浦と云あり往古丹後国山庄太夫と佐渡の太郎と云者人を買取此所に置栗の鳥追せし旧跡之由申伝細き溝一筋あり毒水流る由也」(一八頁)とあって、「旧跡」の語が見える。また「真浦村」の項には「一、日蓮之石塔あり」(七二頁)とあり、「竹田村」の項には「人王九拾九代後醍醐天皇御宇正中二年七月日野中納言資朝卿此国〔江〕配流(中略)彼卿書写の一紙一部法花経阿仏坊妙宣寺にあり亦墓所は同寺に石塔あり」(一一五頁)とあって、「石塔」の語が見える。また「真野村」には「順徳院御廟 〔別当〕真輪寺」(一一一頁)とあって、順徳上皇(一一九七~一二四二)の「御廟」であることを述べている。またそうした語はなくとも、「松ヶ崎村」の項には「〔法華宗〕本行寺」につづいて「此寺に日蓮御槻と云あり」(六四頁)とあり(六四頁)、「市野沢村」の項にも「〔法華宗〕実相寺」につづいて「日蓮袈裟掛の松あり」(一六四頁)とあって、旧跡であることを示していよう。それらに照らして「川崎村」の「〔禅宗〕晃照寺」とだけあるのを見れば、「石塔」の類はなく、「旧跡」の伝えはなかったということができるようである。

 ちなみに、御住職は触れておられないけれども、『佐渡叢書』第五巻(一九七四)所収の『佐渡国寺社境内案内帳』は、その解題によれば、編者も編集年代も不明であるが、「宝歴の寺社帳」と呼ばれてきたというから、前の『佐州巡村記』と同時期のものといえよう。それを見ても晃照寺は次のようにいわれているだけである。 

当寺越後国滝谷の雲洞庵末、開基説心、康歴二申年建立。境内五反六畝八歩御除、米三石弐斗四升七合四勺、反歩三畝九歩、三ヶ一御除、川崎、城之腰両村より納む。(一八九頁)

また同じく『佐渡叢書』第五巻(一九七四)所収の『子山佐渡志』は、その解題によれば、藤沢子山(一七三一~一七九八)が天明から寛政(一七八一~一八○○)ころに編集したものといわれている。それを見ても、

                   加茂郡河崎村
  肇基 康歴年中   越後雲洞庵末   晃 照 寺

とあるだけである(七六頁)。これらのことから、御住職が晃照寺境内説は歴史的根拠のないものであるといわれるのは充分に首肯できることである。

コメント

行空上人と佐渡島(2)

2016年06月24日 | 法本房行空上人試考

             2

 御住職はまず橘正隆氏が用いられる「晃照寺古境内図」という言葉を問題にされる。前の写真では読みづらいかもしれないが、これは明治三十三年(一九○○)十二月に金沢済美館が製版した銅版画で、「新潟県佐渡国佐渡郡河崎村 曹洞宗龍寿山晃照寺之景」と題されている。明治三十年前後、各地の名所旧跡を紹介するために盛んに製作されたもののひとつと考えられる。製作会社はいくつもあるが、金沢済美館が製版したものとして、愛媛新聞は二○一三年三月十九日に宇和島市の金剛山大隆寺を俯瞰した銅版画の原版が発見されたと報じている。そこには「金剛山大隆寺之景」の題字と「明治三十五年(一九○二)二月刻」「金沢済美館製版」という文字があるということである。また金沢済美館は明治三十四年(一九○一)一月に和田文次郎氏編輯『越佐宝鑑』上下二巻を出版し、「挿画」としてそうした銅版画をまとめている。ただ、いまの「晃照寺之景」は前年の十二月製版であるから、間に合わなかったのであろうか、掲載されていない。ともあれ、御住職はその銅版画の最後に「明治卅三年十二月刻」とあるにもかかわらず、橘正隆氏はそれを明らかにせず、「古境内図」という言葉を使うことで、何もわからない読者にはそれが江戸期以前に作られた古い絵図のように思われてきたといわれるのである。つまり読者に誤解を与える言葉遣いであると批判されるわけである。確かに「古境内図」というと、読者はそのような印象を持つであろう。そこで御住職は「旧境内図」と呼ばれるのである。現境内に対すれば、旧境内であり、明治三十三年のときの図であるから、それのほうが誤解を招かなくてすむであろう。

 そして御住職がもっとも力を入れられるのは、橘正隆氏が、
 

「法本房旧跡」と刻んだ石の記念塔が建つている(左図参照、矢印の処がそれ)。

といわれていることである。「旧境内図」を見ると、「山門」「鐘楼」「玄関」「本堂」「庫裏」などの文字を四角で囲んでいる。そしてその囲み文字の下にはちゃんと建物が描かれている。また「真更川」という囲み文字もあるが、その下にもちゃんと川が流れていて、手前に橋も描かれている。つまり囲み文字はその下に描かれている事物の名称をいっているのであって、事物そのものではないのである。当たり前のようであるが、御住職はこのことを強調される。なぜかというと、橘正隆氏が「矢印の処がそれ」と指示される「法本房旧跡」という囲み文字は、囲み文字があるだけで、その下に「記念塔」などは描かれていないからである。

上に御住職から送っていただいた、より鮮明な写真で示してみよう。わかっていただけるであろうか。橘正隆氏はこの「法本房旧跡」の囲み文字をもって「記念塔」といわれているようであるが、御住職はこの「法本房旧跡」の囲み文字は地面の上に書かれているのではなく、地面の空中に書かれている。もしこれが「記念塔」であるならば、空中浮揚してしまうことになるといわれるのである。そこでこれは、晃照寺境内が法本房旧跡であるということを示しているのであって、決して「記念塔」ではない。橘正隆氏の早計すぎる思い込みといわざるをえないであろう。また『浄土宗大辞典』なども、よく確かめもせず、ただ鵜呑みにしているにすぎないということもわかるであろう。「記念塔」など、そもそも存在していないのである。それゆえ橘正隆氏が現在「記念塔」は失われてしまったといい、「日本仏教史上にとつても甚だ惜しまるべきである」といわれているのは、情熱的であっても当を得たものではない。

コメント

行空上人と佐渡島(1)

2016年06月23日 | 法本房行空上人試考

 第一章 行空上人の事蹟

第五節 佐渡島の旧跡と活動

  一、遊蓮房連照のこと

(後述)

  二、晃照寺境内説

     1

 行空が佐渡島のどこに住したのか、その旧跡について、住田智見氏は『浄土源流章解説』(法蔵館、一九二五年、一九八二年再刊)二三一頁に「一説には同島相川の法界寺行空の遺跡を伝ふと云へり。(維新に廃寺となると云ふ)」といわれているが、一般には現在の佐渡市河崎にある曹洞宗・晃照寺境内とされる。それは橘正隆氏が『河崎村史料編年志』(両津市河崎公民館、一九五九年)の二四五頁に左の写真を掲げ、次のようにいわれているのがはじまりのようである。

現晃照寺境内は、そのかみ法本房結庵の跡であつたらしく、晃照寺古境内図にみると、「法本房旧跡」と刻んだ石の記念塔が建つている(左図参照、矢印の処がそれ)。ところが明治四十年五月八日旧堂舎が自火焼失し、現堂宇を再建するにあたり、もとの図取りを模様がえし、記念塔のある場所へ庫裡を建てたのはよいとして、その塔をどこへどうしたものか、今では皆目わからなくなつてしまつた。近世の人達に法本房の何者であるかを知らなんだせいでもあろうが、とにかく日本仏教史上にとつても甚だ惜しまるべきである。(二四四~二四五頁)


 その著者である橘正隆氏は、先の磯部欣三・田中圭一氏共著『佐渡流人史』六九頁によると、日蓮研究のために佐渡島へ行き、そのまま果てられた人で、「佐渡史の鬼」といわれ、従来の佐渡史の著者や論文の欺瞞をきびしく論難し、独特の論法で新説のかずかずを提示されたそうである。いまの晃照寺境内を行空の結庵の跡とするのも、そのひとつなのであろう。それを仮りに晃照寺境内説と呼ぶことにするが、その後、『浄土宗大辞典』(山喜房仏書林、一九七四~一九八二年)や藤井正雄氏ほか編『法然辞典』(東京堂出版、一九九七年)の「行空」の項に記されている。また三田全信氏『改訂増補 浄土宗史の諸研究』(山喜房仏書林、一九八○年)三○三頁などにも述べられているから、晃照寺境内説は通説化しているといっていいであろう。そして先の花田玄道氏は、『鎮西教学成立の歴史的背景』七六頁によると、平成二年(一九九○)七月、調査のために訪ねられたようで、『同』八二頁には境内の立看板に、「曹洞宗龍寿山晃照寺由来」「現在地に承元元年(一二○七)二月、法然の弟子、法本房行空が佐渡に流されて住んでいたと伝えられており、明治四十年まで『法本房旧跡』の記念塔が建っていたが明治三十九年の堂宇の火災前後に取り払われたのであろうか、現存しない」と書かれていたと報告されている。

 そこで私は晃照寺御住職に直接お尋ねしてみたところ、二○一○年十月五日にA4用紙六頁の論文の草稿(平成二十一年十一月二十五日記とある)を送っていただき、その後もお電話やお手紙を通じて何度も御教示を得ることができた。ここに甚深の謝意を表する次第である。その御住職によれば、結論を先取りしていうと、晃照寺境内説はまったく歴史的根拠のないものであるということである。そして花田玄道氏が見られた立看板は先代御住職のときのもので、いまは新しく書き換えられているということであった。そこに現御住職の通説に対する御研究がある。以下、それに基づいて、晃照寺境内説を考証してみることにしたい。『浄土宗大辞典』などは橘正隆氏のいうところを鵜呑みにしているだけで、何らの検討も加えていないと思うからである。

コメント

聴聞にきはまる(3)

2016年06月22日 | 水月法話
 三番目に、聞いたらどうなるかというと、聞いたら死ぬということがなくなる。それは何も、永遠に生き続けるといっているのではない。オギャーと生まれてきた以上、いつか〈いのち〉終わるときが来る。当たり前のことだ。しかし、その〈いのち〉終わること、イコール、お浄土に生まれさせていただくと聞き入れたならば、死ぬという言葉が成立しなくなる。何か言葉遊びしているようだが、人間は言葉によって生きているのだから、死ぬという言葉がなくなれば、死ぬということがなくなるのである。それゆえ私は死んでいくとは思っていない。お浄土に生まれさせていただくのだと思っている。そこで私が今日の帰り、あるいは今晩、何かあって、〈いのち〉終わったとする。誰も明日の〈いのち〉を保証してくれる人はいないから、あり得ることである。百パーセントないとはいいきれない。それを皆さまがたが耳にされて、「えっ?さっきまで法事で一緒やったがな」「昨日、法事で一緒やったがな」それはいい。「わからんもんやなぁ」それもいい。「お説教であんだけワァワァいうとったのに」それもいい。しかし「かわいそうになぁ」とはいってくださなくてけっこうだ。私は「かわいそうに」はならないから。なぜなら、お浄土に生まれさせていただくんだから。お浄土に生まれさせていただいたら、阿弥陀さまと同じおさとりを開かせていただき、自由自在に人々を導くことができる。またお浄土には親鸞聖人や蓮如上人がいらっしゃる。質問したいことが山のようにある。それを尋ねることができる。待ち遠しくてたまらない。だから「かわいそう」には決してならない。いってくださるんだったら、「お浄土に生まれなさったそうな」といってくださればいい。皆さまがたも、死ぬという、滅びでしかない、闇に向かって生きていくか、お浄土に生まれさせていただくという、実りある、光に向かって生きていくか、面々の御はからいである。

 そして、お浄土に生まれさせていただくと聞きとられたからといって、急いでお浄土に生まれていく必要はない。〈いのち〉あるかぎり、お念仏申させていただくのである。そのお念仏は、ありがとうございますというご恩報謝のお念仏である。人に何かしてもらったら、お礼するのが当たり前であろう?それが人間の道というものだ。いまも阿弥陀さまがお浄土に生まれさせてくださるんだから、南無阿弥陀仏とお礼申しながら、生きていくんだ。どれだけお礼すればいいか。阿弥陀さまは五劫があいだお考えくださったんだから、五劫かけてお礼申すんだ。そんなことはとても無理だと思われるであろうが、五劫かけてというのは、生きている全体がお念仏申して、お礼していく時間だということである。そしてお念仏を中心として生活全般に及んでいく。生活のすべてがご恩報謝である。それで新しい生きる意味が出てくる。何のために生きているんだろう。ご恩報謝のためである。なぜ生きねばならないのだろう。ご恩報謝するためである。すべてがご恩報謝である。愚痴をこぼしながら生きていくのも一生、人をねたんで生きていくのも一生、人を憎んで生きていくのも一生、同じ一生なら、ありがとうございますと感謝しながら生きていくほうが豊かな人生といえるのではないか。

 こうして、阿弥陀さまのご本願のみ言葉を、そのとおり聞かせていただけば、生と死を超え、豊かな人生が恵まれてくるのである。
コメント

聴聞にきはまる(2)

2016年06月21日 | 水月法話
 二番目は、聞くとはどういうことか、である。そのようなこと、わざわざ説明してもらわなくてもわかるといわれるかもしれないが、阿弥陀さまのご本願のみ言葉を前にして、本当に聞いているだろうか。聞くとは、聞いたとおりになるということである。そうでなければ、ただ耳にしただけである。聞いたとはいわない。たとえば私はいつも、お経本やお念珠は決して畳の上などには置かない。置かねばならないときは、何でもいいが、ハンカチのようなものを敷いて、その上に置く。それが最低限のマナー、作法であるといっている。それこそ口うるさくいっている。そこでたいていの人はそれにしたがい、そのとおりにしてくださる。なかには、私に向かって、どうだといわんばかりの顔をされる方もおられる。ところが、私がそのようにいっているのに、どこ吹く風で、畳の上に平気で置いておられる方がいる。いっこうに何かの上に置こうとする気配がない。「それはアンタのことや!」といいたくなるが、カドが立ってはいけないので、それ以上いわずにいると、最後まで畳の上である。自分のことだと聞いていないのである。いや、聞いたとはいわない。耳にしているだけである。あるいは耳にもしていないのかもしれない。また私は仏事に臨むときは、いつも門徒式章を着用してくださいといっている。お葬式のときは?と尋ねられる方もおられるが、そのときも同じですと答える。仏事にはお経本とお念珠と門徒式章が三点セットであると口をすっぱくしていってきた。しかし、お経本とお念珠はまぁたいていお忘れにならないが、どうしたわけか門徒式章を着用される方はまれである。気恥ずかしいのかもしれない。しかし門徒式章を着用されないということは、私のいうことを聞いていないのである。聞いたら、着用するのである。それであってこそ、聞いたといえるのである。このように聞くとは聞いたとおりになるということである。だから、お経本やお念珠は畳の上には置かない。門徒式章は着用する。それを周りの人やお子さん、お孫さんに伝えていただきたい。そして阿弥陀さまのご本願のみ言葉は、とくに聞かせていただかねばならない。すると聞いたとおりになるはずである。阿弥陀さま、お念仏申しておくれよとの仰せであるから、私たちは口に南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とお念仏申すのである。また阿弥陀さま、〈いのち〉終わったならば必ずお浄土に生まれさせるとの仰せであるから、私たちはこの〈いのち〉終わったならば間違いなくお浄土に生まれさせていただくことよと、〈いのち〉の行方、人生の行方を聞き開いてこそ、聞いたといえるのである。聞くとはそういうことである。
コメント

聴聞にきはまる(1)

2016年06月20日 | 水月法話
 こうした御法事とは、いまは亡き人を偲んでいくと同時に、また私たちに与えられた仏縁でもある。私たちが仏法、仏教というものに出会っていく、触れていく場でもある。もっとも一口に仏法といってもいささか教えが広く、仏典には「八万四千の法門」とも「八万の法蔵」ともいわれている。そうしたたくさんある仏法のなかから、いま私たちが出会っている仏法を浄土真宗という。浄土真宗とは、ご承知のとおり、親鸞聖人と申し上げるお方を宗祖とも開祖ともご開山とも仰いでいる教えである。その親鸞聖人の浄土真宗では、決して厳しい修行をしなさいとはいわない。また難しい学問をしなさいともいわない。ただ聞かせていただくばかりの教えである。それゆえ本願寺八代目の蓮如上人と申し上げるお方は「ただ仏法は聴聞にきはまることなり」と仰せになった。浄土真宗という仏法はただ聴聞、聞かせていただくことにきわまるんだよというお示しである。そこで今席はその聞かせていただくということについて、一番目に何を聞かせていただくのか、二番目に聞くとはどういうことか、三番目に聞いたらどうなるのか、という三つに分けてお話させていただきたいと思う。

 まず一番目に何を聞くのかというと、何でもかんでも聞けばいいというものではない。阿弥陀さまのご本願と呼ばれるみ言葉を聞かせていただくのである。阿弥陀さま、私たち一人一人をかけがえのない大切な大切な如来の子よといつくしみ、あわれみたもうて、どうかお願いだから、本当に間違いなくわが浄土に生まれると思うて、たとえわずか十遍でもいいからお念仏申しておくれよ。そのあなたをこれから先、どんなことがあっても見捨てたり見放したりすることなく一生のあいだ護りつづけ、〈いのち〉終わるときには阿弥陀の名にかけて必ず浄土に生まれさせる、と仰せくださっている。このみ言葉を聞かせていただくのである。聞く対象はこれである。

 『大無量寿経』というお経さまによれば、阿弥陀さまはこのご本願を建立されるにあたって、五劫があいだお考えになられたと説かれている。その五劫については、いつもお話しているので省略するが、途方もない時間である。それを聞いたある人がいう。地球が誕生して四十六億年、どうなっているのかと。違うのである。お経さまというのは、新聞記事のように、何年何月何日どこそこで、どんなことがあったという事実を説くものではない。真実、真理を説くものである。お経さまの言葉にこめられた意味を聞きとっていかねばならない。たとえばこういうことである。お葬式になると、皆さま方は黒い礼服を着られるが、私ども僧侶は色の衣に七条袈裟というキンキラキンのガバッとした大きなものを身につける。このあたりでは導師をされる方に限って、それに頭の後ろに三角形の襟のようなものをつけ、足下に袴をはく。導師以外は色の衣と七条袈裟だけである。それがこのあたりの一般的な装束である。むかし、お葬式の案内があった。どこでかと尋ねると舞鶴だという。はじめてのところであったので、こまかく地図を書いてもらって、いつものように色の衣と七条袈裟をカバンに入れ、行かせていただいた。休憩所はお寺であった。挨拶やら世間話などしているうちに時間となり、ご住職が「お着替えをお願いします」といわれるので、私は色の衣を着て、七条袈裟をつけようとすると、「このあたりでは七条袈裟をつけるのは導師だけで、あとは五条袈裟です」というのである。「えっ!?」私はいつものつもりで来ているので、五条袈裟を持っていない。場所はお寺であるから、余分に五条袈裟はあるはずである。「申し訳ありませんが、貸していただけませんか」というと、「せっかく遠いところから来てくださっているし、七条袈裟をお持ちなら、それをつけてくださったらいいですよ」そこで他のご住職方が五条袈裟をつけているのに、導師と同じく七条袈裟をつけることになってしまい、何か気恥ずかしい思いがした。それから一週間か二週間かして、またお葬式の案内があった。今度は福知山だという。前の舞鶴のことはすっかり忘れてしまっていて、またいつものように色の衣と七条袈裟をカバンに入れて行かせていただいた。ところが今度は導師だけでなく、みな袴をつけるというのである。私はもちろん袴を持って来ていない。どうしようと思っていると、他のご住職方が「それだったら、ワシらも袴をつけずに統一しよう」といってくださったので、助かった。それ以来、「はじめて行くところはタンスごと持って行かなあかんなぁ」そのようにいうとたいていの人は笑われるのであるが、ある人は非常に冷めた目で「何もタンスまで持って行かんでもよろしやん」これである。私が「タンスごと」といったのは「一切合切持って行かねばならないな」という意味である。誰がお葬式へ行くのにタンスを背負っていくアホがいるか。それを聞き取らず、「タンスごと」を文字通り、タンスを背負っていくように聞いているのである。いまも阿弥陀さまが五劫があいだお考えになられたというのを聞いて、地球が誕生して四十六億年どうのこうのというのは、言葉だけ聞いて、いおうとする意味を聞き取っていないのである。阿弥陀さまが五劫があいだお考えになられたというのは、私たちはもう考える必要がないということである。考えたかったら五劫以上考えてみろ、ということである。そんなことできるわけではない。ではどうするか。そのままいただけよ、ということである。それがいいたいのである。そこで二番目の聞くとはどういうことかということになる。
コメント

高野山にて(3)

2016年06月19日 | 水月法話
 高野山はウィキペディアでよると次のようにある。

高野山は、和歌山県北部、和歌山県伊都郡高野町にある周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの平坦地に位置する。平安時代の弘仁7年(816年)に嵯峨天皇から空海(弘法大師)が下賜され、修禅の道場として開いた日本仏教における聖地の1つである。現在は「壇上伽藍」と呼ばれる根本道場を中心とする宗教都市を形成している。

 確かに高野山は宗教都市であった。一つの町になっている。私が車を止めたところは大門の近くであったが、そこから目的地の本覚院まで歩いていると、お寺のほかに、お土産屋さんや食堂はもちろん、民家のような建物やコンビニ、銀行などもあった。人々がそこで生活をしている。なかでも驚いたのは、スナックがあったことである。般若湯と書かれた大きな看板も目についた。修行僧が入ることはないであろうから、宿坊に泊まっている観光客が利用するのであろう。それはそれでとやかくいうことではないが、高野山を開いた弘法大師が見たら、驚くのではなかろうか。わざわざ都から遠く離れたこの高野山を開いたのは、俗世間を離れた聖なる地として、修行に打ち込むためであったと思うからである。

 それに思いをいたすと、大ざっぱな分類をすれば、浄土真宗のお寺とそれ以外の宗のお寺との違いは、平地に建っているか山の上に建っているかである。ただしそれは一概にはいえない。浄土真宗以外のお寺でも平地に建っている場合もあるし、逆に浄土真宗のお寺でも山の上に建っている場合もある。そこできっちりと分類できるわけではないが、おおよそそのようにいえるであろう。真言宗の総本山・金剛峯寺はいま宗教都市になっているとはいえ高野山の山の上にある。また天台宗の延暦寺は比叡山の山の上にある。また曹洞宗の永平寺は小高い山の中腹らしいが、都からは遠く離れている。それはなぜかというと、先ほどの繰り返しになるが、俗世間の誘惑から切り離して修行に励むためである。つまり浄土真宗以外のお寺は僧侶の修行道場として建てられているのである。それに対して浄土真宗のお寺が平地に多いのは、僧侶のためでなく、ご門徒の方々がお参りしやすいように建てられているからである。それが一番よくわかるのは、本堂のなかである。浄土真宗以外のお寺では平地に建っていても内陣が広く外陣が狭い。僧侶が修行するための道場であるからである。一方、浄土真宗のお寺は内陣にそれほどの広さをとらず外陣を大きくとっている。多くのご門徒がお参りできるようにである。浄土真宗のお寺の特徴である。それが何を意味するかというと、浄土真宗以外の宗の教えはまず出家して修行に励み、さとりを得ようとするものであるのに対して、浄土真宗は家庭生活を営むなかで阿弥陀さまのご本願のみ言葉を聞かせていただき、生と死を超えていこうとするものであるということである。いいかえれば、浄土真宗以外の宗は修行を積むことによって聖者(しょうじゃ)になっていく道であり、浄土真宗は一般大衆に開かれた救いの教えであるということになる。
コメント

高野山にて(2)

2016年06月18日 | 水月法話
 高野山の山道に入ると、グニャグニャと曲がるカーブが連続する。そして少しづつ上に登っていくのである。前に登ったときにはあまり車とすれ違うことはなかったけれども、今回は違った。上から降りてくる車が何台もあるのである。しかも観光バスが何台もあった。カーブを曲がるのが難しいのであろう、バスとのすれ違いのたびに私の前を走っている車が止まり、渋滞した。平日であるのに、観光する人が多いんだなぁ、高野山は人気なんだろうかと思った。そのうち道ばたに634メートルと書いた看板が見えた。東京のスカイツリーと同じ高さということであるらしい。あともう少しかと思って走っていると、やがてカーナビが目的地に設定している本覚院まで900メートルと出た。そしてその先を左折するように指示している。ところがその左折するところに警備員の人が三人ほど立っていて、一台一台の車に何か話しかけているのが見えた。何だろうと思って走って行くと、一人の警備員が私の車を止め、「どこまで行かれますか」という。「本覚院です」と答えると、簡単な地図を私に見せ、「それはどこですか」というのであるが、本覚院がどこにあるのかわからない。地図が大ざっぱすぎるようである。困っていると、「そこは金剛峯寺の手前ですか、向こうですか」「さぁ」「これから先は交通規制がかかっているんです」「じゃぁ、どうすればいいんですか。近くに役場のようなものがあったように思うのですが」「それだったら、ここから引き返して、駅のほうから行かれたらどうですか」「わかりました。そうします」警備員の人に駅へ行く道を聞き、来た道をUターンして、駅とやらを目指したのであるが、カーナビの画面を見ていると、山ばかりで本覚院からどんどん遠ざかっていく。このまま走って行くとどうなるかわからないと思い、もう一度Uターンして、先ほどの警備員が立っているところに帰り、「ここから先が行けないんだったら、このあたりでどこか車を止めるところはないんですか。あとは歩いていきます」というと、警備員の人はすぐそばの舗装されていない細い坂道を指さして、「あそこに車が一台止まっているでしょう。あのうしろにでも止めてくれたらいいですよ」「そうですか。そうさせてもらいます」私はそこに車を止めて、外に出た。バスとのすれ違いで時間がかかり、またこんなことで大はばに時間が奪われてしまった。早く本覚院に行こう。確かこっちのほうだったよなと以前に来たときの記憶をたどりながら、歩いた。途中に町の細かい看板があったので、立ち止まって見てみると、本覚院を見つけた。この先にある信号を左折してまっすぐ行ったところにあるようである。よし!というので、そこを目指しながら歩いていて、道の左右にあるお土産屋さんなどの店の前に同じようなポスターが貼られているのに気がついた。見れば、今日六月十五日は宗祖降誕会の青葉まつりと書いてあった。そしてしばらく行くと、広場のようなところがあって、聖なる高野山には似つかわしくないのではないかと思うような、吹奏楽の楽隊が音楽に疎い私でも聞いたことのある曲を大音響で演奏しているのが聞こえた。またたくさんの人が集まっている。さらに2メートルか3メートルかあるような弘法大師の座像が乗っている、神輿というとおかしいが、そのようなものがあった。それをメインにパレードをするようである。ポスターに書かれていた宗祖降誕会の青葉まつりとはこのことであるようである。だから観光客が多く何台ものバスとすれ違ったのだろう。また警備員を配して交通規制をかけていたのだろう。警察も来ていた。なるほどと納得したのだが、六月十五日が弘法大師の誕生日であるとはまったく知らなかった。何という日に来てしまったのか、違う日に来ればよかったと思った。そして高野山の真言宗でも宗祖降誕会というんだと思った。私たち親鸞聖人の浄土真宗に流れを汲むものにとって宗祖降誕会といえば五月二十一日であり、降誕会という言葉を浄土真宗の専売特許のように思っていた私の無知を思い知った。また宗祖という言葉を私たちは親鸞聖人のこととして論文などで使うが、当たり前のことであるけれども、真言宗では弘法大師空海のことである。他宗の方も目にされる論文などで宗祖という言葉を使うのは紛らわしい。敬意をこめてのことではあるにせよ、親鸞聖人のことをいうなら、親鸞聖人と書くのがいいと思った。
コメント

高野山にて(1)

2016年06月17日 | 水月法話
 先日の六月十五日、梅雨の晴れ間の日であった。二年ぶりか三年ぶりかで高野山へ登った。本覚院というお寺を訪ねるためである。ここ数年、私は法然聖人の上足の弟子であった法本房行空上人という人物の研究をしているが、本覚院の開基も行空上人であるとされているのである。そしてその墓が福岡県八女市星野村の黒木谷に高野堂(こうやんどう)「行空上人の墓」として現存し、市の指定文化財になっている。姫野恭子氏のブログ「かささぎの旗」によって知ることができた。傍らに解説版があり、その行空上人はもと法然聖人の弟子であったが、追放の身となって諸国を巡錫し、筑後に赴いたとき、とくに平安時代末期から鎌倉時代初期の有名な女流歌人である待宵小侍従の帰依を受け、高野山に本覚院を建立したという旨が書かれている。そこで本覚院の開基である行空上人は法本房行空上人であるということになり、時代的にもピタリと合う。しかし私は別人であると考えている。むしろそれは伝説であろうと思う。というには、福岡県在住の民俗学者・國武久義氏は一九九七年に「唱導文学としての『黒木物語』─待宵小侍従説話について─」(『九州大谷国文』二六)という論文を書かれているが、そのなかに引用されている文献について疑問があり、質問の手紙を送らせていただいたところ、二年前の夏、二回にわたって手書きの総数二十一頁に及ぶ論文にも似たお返事のお手紙を頂戴した。先ほど私が氏のことを民俗学者といったのは、お手紙のなかに「私は歴史学者ではなく、さゝやかながら民俗学をかじる者です」という一文があったからである。その氏の論文やお手紙によると、八女市の黒木星野地方に伝わる待宵小侍従の説話や行空上人のことは伝説であって、歴史的事実ではないとされている。そして『聖方紀州風土記』に本覚院は「天正十六年(一五八八)罹災、稲葉公の再興」とあるのをもって、高野聖たちが本覚院建立の勧進のために作りあげた物語であろうといわれている。私はその『聖方紀州風土記』という文献に疑問をもったのである。氏が所蔵するそれは、今村和方氏という方が書写したものであるらしい。そのコピーも姫野恭子氏を通していただいたが、書写本であるので、原本はないものかと本覚院に尋ねると、古文書類はすべて大分県立先哲史料館に寄贈しているから、いまはないといわれた。そこでその大分県立先哲史料館に問い合わせると、約970点の本覚院関係の史料があるが、そういう書名のものはないということであった。ただその史料の目録が今年の三月に出るからということで事は止まっていた。そこへまた動きはじめたのは、行空上人は親鸞聖人が越後へ流罪となった承元(建永)の法難で佐渡島へ流罪になったが、その旧跡に関する新しい史料が手に入ったので、それを先に調べるか、前々から気になっていた本覚院や待宵小侍従関係を先に済ませるかと思いかけたからである。そして先の國武久義氏がお手紙のなかで指示されていた書物が福岡県立図書館にあって、大分県立先哲史料館の目録もそこにあるということがわかったので、一石二鳥、福岡へ行ってみようと思い至った。ただ、その前に本覚院には山門をくぐった右手に「本覚院累代記」という石碑がある。それは明治二十七年に建立されたものであるから、彫りが甘くなっている文字があったり、コケなのかカビなのかわからないが、ところどころにあって、以前、何とか前半部分だけを書き写したのだが、後半部分は何が書かれているのだろうと気になってきた。それで、福岡へ行く前に高野山へ登って、その石碑を見ておこうとしたのである。そして「天正十六年罹災」の文字を見つけた。國武久義氏が用いた『聖方紀州風土記』の記事はここにもあったのである。こちらのほうが史料的には価値が高い。やった!と思った。しかし、それにともなって、また調べねばならないことが出てきた。石碑にはつづいて「豊後臼杵城主稲葉一□(鐵?)□(玉?)建之」とあることである。次から次に問題が出てくる。佐渡島のこともである。ふと思った。私はささやかながら真宗学をかじるものであるのに、民俗学に向かっていると。

*なお私は平成二十三年(2011)に発行された『行信学報』第二十四号に「親鸞聖人と法本房行空上人」という論文を発表し、本覚院や待宵小侍従、高野堂「行空上人の墓」などについて触れている。それをこのたびの調査で増補し、後にこのブログにおいて述べる予定である。
コメント

御法事の表白(2)

2016年06月16日 | 水月法話
 「教行信証」といえば、一般的には親鸞聖人の主著・『顕浄土真実教行証文類』の略称として用いられている。ただ、ほかに『本典』などと呼ばれる場合もあり、私どもは『教行証文類』と略称している。それは親鸞聖人が『顕浄土真実教行証文類』といって、教・行・証の三法で立題されているからである。『顕浄土真実教行信証文類』というように教・行・信・証の四法で立題されてはいない。三法で立題されているところにこの書がもっている意味があるのである。それは仏教の時代観である正・像・末の三時思想と関わりがある。仏教ではお釈迦さまがおかくれになって五百年もしくは千年のあいだを正法といい、教えがあり、それを実践する行があり、その結果さとりを得るという証があるとする。その期間は教・行・証の三つがそなわっているのである。そして次の千年を像法といい、像は似ているということで、正法に似た時代である。その期間は教えがあり、それを実践する行があるが、証を得るものがない。すなわち教と行のみである。そして次の一万年を末法といい、教えのみあり、実践する行もそれによって得る証もない時代である。法然聖人の開かれた浄土宗以外の仏教を聖道門というが、そこではいま述べたような衰退があるのである。しかし法然聖人の浄土宗にはそれがない。三時を通じて救いの道が開かれている。親鸞聖人が、

聖道の諸教は行証久しく廃(すた)れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり。(『註釈版聖典』四七一頁)

といわれる所以である。このように聖道門が正・像・末の三時において衰退があるのに対して、法然聖人の浄土宗は三時を通入し、万人を救済しつづける不滅の法門であるということをあらわすために教・行・証の三法で立題されていると考えられる。そのときはお念仏という行法によって阿弥陀さまと同じさとりを開かせていただくという念仏成仏の法門をあらわすものであった。しかし『教行証文類』の内容は行から信を開き、教・行・信・証の四法であらわされている。三法でいわれる行は、行中摂信といって、行というなかに信がおさめられていたのである。それを別開して四法と立てたのが親鸞聖人であって、むかしから親鸞聖人独自の御己証の法門といわれている。親鸞聖人の特徴である。そこでは信と証が直接し、信心こそ往生成仏の真因であるという信心正因の法門となって、浄土宗から浄土真宗という新しい教義体系が生まれたのである。それゆえ覚如上人の著作とも存覚上人の著作ともいわれる『教行信証大意』には、

当流聖人(=親鸞聖人)の一義には、教・行・信・証といへる一段の名目をたてて一宗の規模として、この宗をば開かれたるところなり。(『註釈版聖典』九四九頁)

といわれ、蓮如上人の『御俗姓』にも、

教行信証の名義、いまに眼前にさへぎり、人口にのこれり。たふとむべし信ずべし。(『註釈版聖典』一二二二頁)

といわれている。この教・行・信・証という名目、名義を立てて、阿弥陀さまのおはたらきを浄土真宗と名づけたというのが、表白の「教行信証に顕わして 浄土真宗と名づけたまへり」である可能性があるのではなかろうか。もっともその場合は「教行信証と顕わして」というように、「と」の助詞を用いるのが適切であるとも思われる。それが「に」の助詞を用いているところからいえば、やはり『教行証文類』のこととするのが文脈にも即しているであろう。それでも「顕わして」と「顕」の字を用いている限り、書名ではなく四法の可能性もわずかながらぬぐいされない。
コメント