天上の月影

勅命のほかに領解なし

現生の正定聚

2016年02月29日 | 水月法話
ずいぶん久しぶりになってしまった。論文を書いていたのだが、どうしても、ある一つの文がさばけず、さばきようによっては全体にひずみが出るので、悪戦苦闘していたのである。お許しいただきたい。さて、「三定聚」のつづきである。

仏道には五十二位の階位があるとされる。それを十信・十住・十行・十回向・十地・等覚・妙覚といいならわしている。そのなかで、一般的には初信位に入るまでを邪定聚といい、初信位から第十回向位までを不定聚といい、初地以上を正定聚という。その正定聚に現生において住するといわれたのが親鸞聖人であった。「現生」とは、『三経往生文類』に略本と広本の二種があるが、その略本のほうに親鸞聖人は「このよをいふ」と左訓されている(『真聖全』二・五四三頁)。ただし広本にはそれがない。ともあれ、「このよをいふ」というのは、阿弥陀さまが「必ず救う」と仰せくださっている。それを、疑うことなく、考えることなく、ありがとうございますといただいた、そのとき、のことである。つまり、信心をいただいたとき、あるいは、いま生きているうちに、ということである。それを「このよをいふ」というのは、お浄土に生まれてからではないということをあらわしている。

しかし、阿弥陀さまが四十八願を誓われたなかの第十一願には次のようにある。

たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ。

すなわち、たとえ私が仏陀となりえたとしても、浄土に生まれた人や天が正定聚に入り、やがてかならずさとりに至らなければ、私は決して仏陀とはならない、という誓いである。これは、普通に読めば、浄土に生まれたら正定聚の位に住させるということが誓われている。それが願事、誓われた内容である。その証拠に第十一願が成就した文を見れば次のようにある、

それ衆生ありてかの国に生るるものは、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑはいかん。かの仏国のなかにはもろもろの邪聚および不定聚なければなり。

浄土に生まれたものはことごとく正定聚に住する。なぜなら、かの浄土には不定聚や邪定聚はいないからであるというのである。つまりお浄土には正定聚のものしかいない。すべて正定聚の人ばかりであるということである。ゆえに正定聚というのは、お浄土に生まれてからの利益(りやく)として説かれているのである。曇鸞大師も「かの清浄の土に往生を得、仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る」といわれているように、浄土の往生して正定聚に入るとされている。ついでいえば、他の宗の人でも浄土を願った。それは、この世は悪縁が多いから、仏道がなかなか進まない。浄土に往生すれば悪縁はなく、正定聚に住し、観音菩薩や勢至菩薩などのすぐれた方々に導かれて、仏道が進んでいく。それで浄土を願ったのである。したがって、正定聚というのは、あくまで彼土の益であったのである。それが浄土を願う魅力でもあった。それを親鸞聖人は彼土でなく現生で住するといわれたのである。前にお話したように親鸞聖人の先輩であった幸西大徳もそれらしきことをいおうとされているが、いいきられていない。いいきられたのは親鸞聖人だけである。それはまったく仏教の常識を超えた破天荒な思想であった。
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舎衛国

2016年02月29日 | 阿弥陀経を読む
【阿弥陀経を読む(30)】

つぎは、「在舎衛国祇樹給孤独園(舎衛国の祇樹給孤独園にましまして)」である。これは、六事成就の第五・処成就で、釈尊が『阿弥陀経』を説かれた場所を示している。そこにまず、「舎衛国」とある。『阿弥陀経』は、舎衛国で説かれたのである。

釈尊当時、インドはいくつもの国に分かれていた。よく十六大国といわれるが、そのなかでもっとも有力であったのがマガダという国である。その王の名前をビンビサーラといい、頻婆沙羅と音写する。釈尊に深く帰依し、竹林精舎を寄進したりした。精舎というのは僧院のことである。そして、その妃の名前をヴァイデーヒーといい、韋提希と音写する。その二人のあいだにアジャータシャトルという子どもがあり、音写して阿闍世という。のちに、釈尊の従兄弟であり、弟子でもあったデーヴァダッタ、提婆達多と音写し、提婆と略する。悪人の代名詞のようにいわれる人であるが、その提婆に阿闍世はそそのかされたのである。父・頻婆沙羅王を牢獄に幽閉し、マガダ国の王位に即くというクーデターを起こした。そして、頻婆沙羅へは食べ物どころか飲み物さえも与えなかったのであった。ただ、韋提希がひそかに運んでいただが、ついに露見して、阿闍世は母・韋提希を殺そうと刀を振り上げた。しかし、耆婆、月光という二人の大臣が諫めたことにより、韋提希は一命をとりとめたものの、同じく牢獄に幽閉されてしまった。釈尊は、悲しみに打ち震える韋提希のために、牢獄のなかにあらわれ、教えを説かれた。それが『観無量寿経』である。そのことはまた、別の機会にお話しよう。

ともあれ、『観無量寿経』の発端となった事件は一般に、王舍城の悲劇と呼ばれている。王舍城というのは、マガダ国の首都で、ラージャグリハの漢訳である。城というが、日本の城のようなものではなく、まち、都市の意味である。現在のビハール州ラージギルにあたる。

そのマガダ国と並んで有力であったのがコーサラ国である。釈尊が生まれた釈迦族の国はこのコーサラ国に従属していた。王の名前はパセーナディという。波斯匿(はしのく)と音写される。第一夫人はマッリカーで、末利、摩利と音写する。仏教を篤く信仰していた。その影響でパセーナディ王も熱心な信者になった。そして、二人のあいだの王女が勝鬘夫人で、『勝鬘経』の中心人物としてたいへん有名である。

それはともかく、コーサラ国の首都は、シュラーヴァスティーで、舎衛城と音写される。現在のウッタル・プラデーシュ州のサヘート・マヘートのあたりと推定されている。その舎衛城のことをここに「舎衛国」といっているのである。どうして「国」というのか、コーサラ国という国名より舎衛城という都市のほうが有名であったからといわれる。あるいは、コーサラ国は南北に分かれ、南コーサラ国に対して、北コーサラ国を別して舎衛国という場合があるともいわれている。そうすると、舎衛国は都市名ではなく、国名ということになるが、一般にはやはり舎衛城のことといわれている。

そこで説かれたのが『阿弥陀経』であるが、『大無量寿経』と『観無量寿経』は王舍城で説かれた。前に触れたように、中国では当初、『大無量寿経』と『阿弥陀経』は、同じく「無量寿経」の名で呼ばれていた。同名であるがゆえに、曇鸞大師は、『大無量寿経』を「王舍城所説の無量寿経」、『阿弥陀経』を「舎衛国所説の無量寿経」と呼んで区別されたのであった。
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一時と仏

2016年02月28日 | 阿弥陀経を読む
【阿弥陀経を読む(29)】

つぎに「一時」とある。六事成就の第三・時成就である。「あるとき」と訓じる。英語でいえば one day あるいは at one time である。釈尊の説法がなされた時を示すのであるが、具体的な日時は示されていない。「昔昔、あるところで」といったように、時間をぼかしているようにも見える。しかし、仏教では時間をあらわすのに、カーラとサマヤがある。カーラは実時といい、何年何月何日、あるいは一時間、一分といった具体的な時間である。ただし、実体的な時間があるといわないのが仏教の特徴である。サマヤは仮時といって、ある事柄が生起している状態を時間的に表現したものである。いま、「一時」はサマヤなのである。

それを源信僧都の『阿弥陀経略記』では、「聞持和会(わえ)の時」といわれている(『恵心全』一・三八四頁)。釈尊の説法がなされるについて、すべての因縁が和合した時である。釈尊が説こうとされても、聞き手がいなければできない。また、場所もなければできない。逆に、聞き手が聞こうとしても、釈尊がおられなければ成り立たない。そうしたさまざまな因縁が和合した、そのときを「一時」といわれたのである。

つづいて「仏」とある。六事成就の第四・主成就である。それについては経題の「仏説」のところで述べた。経の説主である釈尊を指す。釈尊が『阿弥陀経』を説かれたのである。
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阿難陀の聞

2016年02月27日 | 阿弥陀経を読む
【阿弥陀経を読む(28)】

つぎの「我聞」の二字は、六事成就の第二・聞成就である。「われ聞きたてまつりき」あるいは「われ聞きたまへき」と訓じる。わたくしはお聞かせにあずかった、というのであるが、それは、これから説かれる経の内容が、阿難陀の考えたことではなく、釈尊から聞いたことのそのままであって、仏説であることあらわしている。だからこそ信ずべきなのである。

ただ、「きいた」ということをあらわすのなら、「聞」でなく「聴」でもよいではないかと思う。ともに「きく」と読むのであるから、「我聞」でなく「我聴」でもよいようである。しかし、「聴」は「きく」の意であり、こちらからのはたらきかけがある。それに対して「聞」は「きこえる」の意で、はたらきかけなしにきこえてくるのである。いま「我聞」といって「我聴」といわないのは、阿難陀のがわにまったくはからいがないことを示しているのである。

もっとも、その仏説を聞いたのは阿難陀一人ではない。のちに説かれるが、舎利弗や摩訶目◇連など千二百五十人の仏弟子たち、また文殊菩薩や弥勒菩薩などの大菩薩たち、さらに帝釈天などの無量の諸天が同じく聞いたのであった。そのなかから、仏説を伝える役割を担ったのが阿難陀であったのである。

その阿難陀が聞いたところを伝えるというので、「我聞」というのであるが、なぜ、「わたくしは」といい「阿難陀は」といわないのかという問題がある。確かに、「わたくしは」とあるだけでは誰のことかわからないので、「阿難陀は」といったほうがすっきりする。しかし、それについては昔から、「わたくしは」といっても、それは阿難陀のことに決まっているから、わざわざ「阿難陀は」といわないのだといわれまる。また、「わたくしは」といえば、阿難陀が釈尊から親しく聞いたことがわかるが、「阿難陀は」といえば、阿難陀が他の人から又聞きしたという意味も出てくる。そこで、阿難陀の親聞、直聞であることをあらわすために、「わたくしは」といったのだと解釈されている。

しかし、「わたくしは」という「我」は、仏教では否定されるものである。経のなかに、「聞如是」といって「我」の語を出さない場合があるのはそのためかもしれない。このことについて、曇鸞大師の『論註』に議論がなされている。いま、詳しいことは省略するが、曇鸞大師は「我」について、邪見語・自大語・流布語の三種類あることを示されている(『七祖篇』五二頁)。そのなかで「我聞」の「我」は、流布語にあたる。それは他人と区別するために自分のことを「我」といったもので、世間一般に用いられている言葉である。何も特別な意味はもっていないのである。
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如是の信

2016年02月26日 | 阿弥陀経を読む
【阿弥陀経を読む(27)】

まず「如是」の二字は、六事成就の第一・信成就である。「かくのごとく」と訓じ、このように、ということである。いずれの経においても同じであるが、何を指すのかといえば、これより以下に説かれる経の内容である。それはかつて釈尊が説かれた教えであった。それを阿難陀はそのまま聞いたのである。はからいなく、釈尊の口から聞こえてくるままを聞き入れたのである。そこにはまったく私心がない。信のこころをもって聞き受けたのである。信がなければ、別な聞きようになっていたであろう。信があったからこそ、仏説はまず、そのまま阿難陀に受持されたのである。

そして、それを阿難陀は、少しの私心もまじえず、聞いたとおり伝えた。「かくのごとく」とは、釈尊から聞いたそのまま、ということでもある。釈尊の説法と一字一句違わない、寸毫の誤りもないことを知らせているのである。したがって、以下に説かれる経の内容は、阿難陀が伝えたものではあるが、まったく釈尊の金口(こんく)の説法である。だからこそ、信ずべきなのである。

こうして、「如是」の言は、阿難陀の信をあらわし、経の内容が仏説であることを示している。そして同時に、わたくしたちの姿勢をも教えている。阿難陀がはからいなく聞き、はからいなく伝えたのであるから、わたくしたちもまた、はからいなく聞き受けていかねばならない。私心をまじえたら、仏説は聞こえない。龍樹菩薩が『大智度論』第一に、

仏法の大海は信を能入となす。(『大正蔵』二五・六三頁下)

といわれたように、仏法の世界に入るには、まず信がなければならないのである。それをあらわすのが経のはじめにある、「如是」の言葉でもある。

ところで、浄土真宗では信心がもっとも肝要とされる。有名な『御文章』「聖人一流章」に、

聖人(親鸞)一流の御勧化のおもむきは、信心をもつて本とせられ候ふ。(『註釈版』一一九六頁)

といわれているとおりである。

ただし、信心を肝要とするのは浄土真宗だけでなく、他の宗教も同様であろう。それらの信心がどのようなものかは別にして、浄土真宗の信心には、信順、信任、信憑、真実心といった意味もあるが、無疑をもって当義とする。それは、親鸞聖人が『一念多念文意』に、

「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(『註釈版』六七八頁)

といわれたように、疑いごころのない状態をいう。

ここは浄土真宗の法義になってしまうが、「疑いのないこころ」ではなく、「疑うこころさえない」ということである。では、何があるのかといえば、阿弥陀仏の「必ず救う」という勅命である。それをそのまま受け入れたのが信心なのである。あたかも〈わたくし〉というコップのなかに、「必ず助ける」という水が満ちているがごとくである。満ちたらどうなるか、〈わたくし〉は「必ず助かる」となる。ならないのは、あいだに疑いの蓋をさしはさんでいるからである。それを除いて、「必ず助ける」という仰せを素直に聞いていくのである。はからいをまじえず、そのまま聞けば、「必ず助かる」となるであろう。それが信心である。そして、〈わたくし〉の「必ず助かる」という信心は、阿弥陀仏の「必ず助ける」という仰せのほかにはない。そこのところを利井鮮妙和上(一八三五~一九一四)は、
  左文字 おさば右文字 助くるの
   外(ほか)に助かる こゝろやはある
と詠(うた)われたのであった。

そうすると、浄土真宗の信心とは、阿弥陀仏の仰せをはからいなく聞き入れている状態をいうのであるから、まさに「如是」の心相と同じである。そこで親鸞聖人は、「化身土文類」本において、

三経の大綱、顕彰隠密の義ありといへども、信心を彰して能入とす。ゆゑに経のはじめに「如是」と称す。「如是」の義はすなはちよく信ずる相なり。(『註釈版』三九八頁)

といわれるのである。「浄土三部経」は、その説き方には隠顕があるが、いずれも信心こそが往生の正因であり、涅槃の真因であることを知らせるために、経のはじめにまず、「如是」といったのだというのである。また、その「如是」とは、「よく信ずる相なり」、はからいなく聞き入れていくことだというのである。したがって、「浄土三部経」の最初にある「如是」はまた、浄土真宗において信心が根本であることを知らせる言葉でもあったのである。
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如是我聞

2016年02月25日 | 阿弥陀経を読む
【阿弥陀経を読む(26)】

ともあれ、冒頭に「如是我聞」とある。これがあるものを経というといわれるくらい、あまねく知られた句である。もっとも、『大無量寿経』には「我聞如是」とあり、『大阿弥陀経』や『平等覚経』にはこれにあたるものがない。また、「聞如是」とする経典もある。「如是我聞」の語は、鳩摩羅什以後に確定したといわれている。『観無量寿経』や『阿弥陀経』の異訳である『称讃浄土経』、また『大無量寿経』の異訳である『如来会』『荘厳経』も、ひとしく「如是我聞」となっている。

この四字は、六事成就として科段を切るなら、「如是」と「我聞」の二つに分けねばならない。そして、「如是」は信成就、「我聞」は聞成就として解釈される。しかし、文章としては「如是我聞」で一句である。ただし、近年、「如是我聞一時」とするほうがサンスクリット原典に忠実であるという説が出されている。確かにそうかもしれないが、中国や日本では、古来、「一時」は下の「仏在」以下にかけて、「如是我聞」で切るのが普通である。

さて、「如是我聞」を【本文】では、「かくのごとく、われ聞きたてまつりき。」と読んでいる。浄土宗では「かくのごときをわれ聞きき」と訓じる。浄土真宗では「かくのごとく、われ聞きたまへき」と読んできた。『浄土真宗聖典(原典版)』(一四九頁)がそのようになっている。「たまふ」というと、一般には相手の行為につけて、尊敬をあらわす助動詞として理解されるが、その場合は四段活用である。しかし、「たまへき」といった場合は、下二段活用で、謙譲の意をあらわすのである。古文のなかにはそうした用法もあるわけである。

いずれにしても、「如是我聞」というのは、わたくしはこのようにお聞かせにあずかりました、ということである。何でもない言葉のようであるが、実は深い意味がある。それについてはのちに述べるとして、そこに「我」という、わたくしは、というのは、阿難陀がみずからのことをいったと見るのが伝統的な理解である。

阿難陀は、仏滅後、第一結集(けつじゅう)と呼ばれる経典編纂会議において、釈尊の侍者として、その説法をすべて聞き、しかもすべて記憶していたことから、集まった大衆を前に、それをそのまま誦出(じゅしゅつ)し、一同の承認を得た。それによって釈尊の説法は、経として後世に伝えられることになったのであった。そのとき阿難陀は、「このようにわたくしはお聞かせにあずかりました」といって、説きはじめたといわれている。その「わたくしは」というのが、いまの「我」なのである。

もっとも、結集はその後にも行われ、『阿弥陀経』のような大乗経典は、仏滅後、数百年を経て編纂されたものである。そのころ、もちろん阿難陀は存命していない。にもかかわらず、どのような経であっても、「如是我聞」の「我」は阿難陀であると解釈されているのである。
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六事成就

2016年02月24日 | 阿弥陀経を読む
【阿弥陀経を読む(25)】

【原文】
如是我聞.一時仏在.舎衛国.祇樹給孤独園.与大比丘衆.千二百五十人倶.皆是大阿羅漢.衆所知識.長老舎利弗.摩訶目◇連.摩訶迦葉.摩訶迦旃延.摩訶倶◇羅.離婆多.周利槃陀伽.難陀.阿難陀.羅・羅.◇梵波提.賓頭盧頗羅堕.迦留陀夷.摩訶劫賓那.薄拘羅.阿◇樓駄.如是等.諸大弟子.并諸菩薩.摩訶薩.文殊師利法王子.阿逸多菩薩.乾陀訶提菩薩.常精進菩薩.与如是等.諸大菩薩.及釈提桓因等.無量諸天.大衆倶.

【本文】……▼『註釈版聖典』一二一頁
かくのごとく、われ聞きたてまつりき。ひととき、仏、舎衛国の祇樹給孤独園にましまして、大比丘の衆、千二百五十人と倶なりき。みなこれ大阿羅漢なり。衆に知識せらる。長老舎利弗・摩訶目◇連・摩訶迦葉・摩訶迦旃延・摩訶倶◇羅・離婆多・周利槃陀伽・難陀・阿難陀・羅・羅・◇梵波提・賓頭盧頗羅堕・迦留陀夷・摩訶劫賓那・薄拘羅・阿◇樓駄、かくのごときらのもろもろの大弟子、ならびにもろもろの菩薩摩訶薩、文殊師利法王子・阿逸多菩薩(弥勒)・乾陀訶提菩薩・常精進菩薩、かくのごときらのもろもろの大菩薩、および釈提桓因等の無量の諸天・大衆と倶なりき。

【講述】
経典というのは、さきに述べたように、序分・正宗分(しょうしゅうぶん)・流通分(るづうぶん)の三段に分かれる。『阿弥陀経』の序分は、上に掲げた「如是我聞」から「無量諸天.大衆倶」までである。

『大無量寿経』の序分は、非常に長く、証信序と発起序の二段に分かれる。証信序とは、可信を証誠(しょうじょう)する序文ということで、その経が信頼すべき仏説であるということを証明し、もって人々に信をすすめる序である。発起序とは、その経が説かれるようになった因縁・由来を説く序である。証信序は、諸経に共通するので通序ともいわれ、発起序はそれぞれの経によって異なるので別序ともいわれる。その科段の切り方には、異説もあるが、一般には「我聞如是」から「一時来会」までが証信序、「爾時世尊」から「願楽欲聞」までが発起序と見られている。

いま、この『大無量寿経』の科文(かもん)と比較すると、『阿弥陀経』の場合は、分量に違いがあるが、『大無量寿経』の証信序にあたる部分しかない。そこで、『阿弥陀経』は、証信序だけで発起序はないと見られている。

しかし、なかには、「如是我聞」の四字を証信序とし、「一時仏在」以下を発起序と見る説がある。それは、浄影寺慧遠の科文であるが、また、善導大師が『観経疏』において、『観無量寿経』を註釈するときに用いられた科文でもある。その善導大師を指南として、『阿弥陀経』を見ていこうとするのである。『大無量寿経』にも同様の説がある。

そうした両説あるなか、いまは前説を採ることにする。したがって、『阿弥陀経』には発起序はなく、証信序だけで序分が成り立っていると見ておく。

その証信序は、普通、六事成就が説かれている。六事とは、信・聞・時・主・処・衆で、成就とは具足円満の義といわれる。この六つの事柄が一つでも欠けることなく、まどかに具わってはじめて仏の説法が成立するのである。そして、それを正確に伝えたのが経であるから、そこに説かれるところはまさしく仏説であり、信ずべきなのである。そのことを知らせるために、証信序として、六事成就が説かれるのである。

いま、『阿弥陀経』の経文によって示すと、
  如是…………………………信成就
  我聞…………………………聞成就
  一時…………………………時成就
  仏……………………………主成就
  在舎衛国祇樹給孤独園……処成就
  与大比丘衆~大衆倶………衆成就
となる。

この六事成就が経のはじめに説かれることは、『大般涅槃経』後分巻上・遺教品(『大正蔵』一二・九○一頁下)や龍樹菩薩の『大智度論』第二(『大正蔵』二五・六六頁下)によると、釈尊が入滅の際、阿難陀の質問を受けて、一切経のはじめには六事成就を説くよう、いいのこしたといわれている。そこで、前に述べたようにすべての経にこれがあるので、証信序はまた通序ともいわれるのである。しかし、実際には必ずしもそうではない。「浄土三部経」関係でいえば、『大無量寿経』の異訳である『大阿弥陀経』や『平等覚経』には、信成就、聞成就にあたる語句がない。したがって、『大般涅槃経』や『大智度論』の所説は、経典の形式が整備されてからできた伝説といえるのではなかろうか。
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鳩摩羅什の翻訳

2016年02月23日 | 阿弥陀経を読む
【阿弥陀経を読む(24)】

羅什を表舞台に登場させたのは、後秦の第二代・姚興(ようこう)(三六六~四一六)であった。それよりさき、先代の姚萇もまた、羅什の招請をはかったが、呂光に断られ、実現しなかった。その後、後涼国は、呂光から呂纂、呂隆と王位が遷ったが、姚興は四○一年、使者を遣わして呂隆に羅什の長安入りを要請した。しかし、またもや拒否したため、涼州に兵を差し向け、後涼国を討った。そして、支配下におさめ、羅什を長安に迎え入れたのである。ときに弘始三年(四○一)十二月二十日、羅什は五十二歳であった。

長安に入った羅什は、姚興から国師の礼をもって迎えられ、以後、亡くなるまでの八年間、姚興の庇護のもとに、国家事業として、仏典の翻訳に専念した。僧祐の『出三蔵記集』によれば、三十五部二九四巻といわれている。智昇の『開元釈教録』によれば、七十四部三八四巻といわれている。『法華経』『維摩経』『中論』『百論』など、主要な大乗経論が訳出されたのである。

その翻訳は、中国訳経史上に一時代を画するものであった。羅什以前の翻訳を古訳というが、それに比べると、訳語がすぐれていて、訳文も非常に流暢であることから、それ以後の翻訳の規範となったのである。また、羅什の訳した訳文によって、それ以前の誤った仏教理解がただされ、飛躍的に研究が進んでいった。

なお、羅什以後の翻訳を旧訳(くやく)といい、玄奘(六○二~六六四)以後を新訳という。旧訳は意訳であり、新訳は直訳であることが特長である。いま、羅什訳の『阿弥陀経』と玄奘訳の『称讃浄土経』がまさにそうである。しかし、新訳の『称讃浄土経』はあまり用いられず、もっぱら羅什訳の『阿弥陀経』が用いられてきた。

羅什が『阿弥陀経』を翻訳したのは、費長房(生没年不詳)の『歴代三宝紀』(五九七年成立)によれば、弘始四年(四○二)二月八日といっている。とすれば、羅什が長安に入ったのが前年の十二月二十日であるから、三ヶ月にも満たないあいだに翻訳されたことになる。それは「奉詔訳」とあるから、姚興の命を受けてのことであった。
 また、羅什はそうした翻訳事業のかたわら、仏典の講義もおこない、門下は三千人といわれている。そのなかでもとくに、僧肇・僧叡・道生・道融を関内(かんだい)の四聖(しせい)といい、それに道恒・曇影・慧観・慧厳を加えて八宿という。

そうした門下を前に講義するとき、いつもこのようにいったということである。

譬えば臭泥(しゅうでい)の中に蓮華を生ずるが如し。いたずらに蓮華を採りて臭泥を取ることなかれ。

羅什は呂光に捕らえられ、破戒を余儀なくされたが、また、姚興にも天才の子孫を残すため美女十人を与えられたという。別の伝では、羅什のほうから要請したともいう。そこで自分は泥のなかに生まれた蓮華である、そうした破戒僧である泥の部分は見習わず、清らかな蓮華の部分だけ見習えと語ったというのである。当時としては、異色の高僧であった。

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鳩摩羅什の遍歴

2016年02月22日 | 阿弥陀経を読む
【阿弥陀経を読む(23)】

当時の中国は、五胡十六国と呼ばれる時代(三○四~四三九)であった。周辺の異民族、すなわち、モンゴル系の匈奴(きょうど)と羯(けつ)、トルコ系といわれる鮮卑(せんぴ)、チベット系の氐(てい)と羌(きょう)という、いわゆる五胡が、華北に侵入して割拠し、全部で十六もの国を次々に建て、激しい興亡を繰り返していたのである。一方、漢民族は江南において、東晋を建国していた。

この五胡十六国のなかで、前秦(三五一~三九四)は、チベット系の氐(てい)族であるが、長安(現在の西安)を都として、諸国を滅ぼし、三七六年、華北を統一した。

その王・符堅(三三八~三八五)は、僧・順道(四世紀ころ)を朝鮮半島の高句麗に派遣し、仏教を伝えた。それが朝鮮仏教のはじまりで、高句麗の小獣林王二年(三七二)のことであった。

符堅は、さらに天下統一を目指し、三七九年、江南の東晋を討つ前哨戦として、襄陽(じょうよう)(湖北省)を攻略した。そして、その地に滞在していた道安(三一二~三八五)を長安に迎えたのである。道安は、中国の名高い高僧であった。さきに述べた三分科経も、彼がはじめた。また、仏教徒は釈尊の弟子であるから、すべて釈をもって姓とすべきであるとして、みずから釈道安と名のった。それで、法名に「釈○○」とあるのである。それはともかく、道安は羅什の名声を聞きおよび、つねづね符堅に対して、羅什を長安に招致してほしいと要請したのである。そこで符堅は、三八二年、将軍・呂光(りょこう)(三三七~三九九)を西域に派遣した。

そして、翌三八三年、符堅は東晋を討つため、兵を率いて長安を出発した。しかし、淝水(ひすい)の戦いで無惨にも敗れてしまった。符堅自身も傷を負い、敗走した。この敗北によって華北は、ふたたび分裂状態となり、また諸国が並び建つことになった。そのなかで、チベット系羌(きょう)族である姚萇(ようちょう)(三三○~三九三)は、後秦(こうしん)国(三八四~四一七)を建て、符堅を死に追いやり、長安に入った。この姚萇の後秦国はまた、姚秦(ようしん)ともいわれる。『阿弥陀経』の訳者名に「姚秦(ようしん)」とあるのは、そのことである。

一方、符堅の命を受けた呂光は、七万の兵を率いて亀茲国を攻め、ついに落城させた。そして羅什を捕らえたのであるが、このとき呂光は、羅什に破戒を迫った。しかし、拒否されたため、酒を飲ませたうえ、亀茲国の王女とともに一室に閉じこめたのである。それによって羅什は、破戒せざるえなかったといわれている。三十五歳のことであった。

ともあれ、呂光は羅什を連れて、凱旋しようとするのであるが、途中、符堅の死を知った。そこで呂光は、思案の末、涼州の姑臧(甘粛省武威県)を都に、後涼(こうりょう)国(三八六~四○三)を建て、独立した。それにしたがい、羅什もまた、姑臧の地にとどまることになったのである。三十六歳から五十二歳の長きに及んだ。しかし、このあいだに中国の漢語や漢籍を学んだと考えられる。
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訳者・鳩摩羅什

2016年02月21日 | 阿弥陀経を読む
【阿弥陀経を読む(22)】

さて、「姚秦三蔵法師鳩摩羅什奉詔訳」とあるのは訳者名で、『阿弥陀経』が鳩摩羅什によって、漢訳されたことを示している。鳩摩羅什は、真諦(四九九~五六九)、玄奘(げんじょう)(六○二~六六四)、不空(七○五~七七四)とともに、中国における四大翻訳家の一人に数えられている。

原名はクマーラジーヴァといい、それを音写して、鳩摩羅什というのである。ただし、鳩摩羅が姓で、什が名なのであるが、伝統的に、羅什と呼びならわしている。また、尊称して羅什三蔵ともいう。三蔵とは、前に述べたように、経・律・論の三蔵で、それに精通した人をまた三蔵、あるいは三蔵法師というのである。孫悟空で有名な『西遊記』では固有名詞として用いられているが、本来、普通名詞である。いまも「三蔵法師」とあるが、それは鳩摩羅什に対する尊称である。年代については、羅什の門弟・僧肇(三八四~四一四?)の『鳩摩羅什法師誄(るい)』(『広弘明集』巻第二三所収)には、三四四年から四一三年といわれている。しかし、これに疑問をいだき、三五○年から四○九年と見る学者もある。いまは、後説にしたがっておく。

羅什が生まれたのは、西域の亀茲(きじ)国であった。西域というのは、中国から見て、西方の異邦の国々を指し、広い範囲に用いられる言葉であるが、一般には現在の中国・新疆ウイグル自治区を指す。そのなかで亀茲は、いまのクチャ(庫車)のことで、ちょうど、天山山脈の南麓にあたり、その南にはタクラマカン砂漠が広がっている。豊かな物産に恵まれたオアシス都市で、古くから仏教文化も栄えていた。

父は、インド貴族の血を引く僧で、鳩摩炎(くまえん)という。流浪の旅の末、亀茲国に入り、国王から国師として迎えられた。その国王に、耆婆(ぎば)という名の妹がいたが、鳩摩炎に一目惚れをした。そして、どうしても結婚したいといい、王もそれを許したので、出家者である鳩摩炎は還俗し、結婚した。その二人のあいだに、長男として生まれたのが鳩摩羅什である。

母である耆婆は、仏教への志があつく、羅什を立派な僧にすべく、英才教育をほどこした。また、みずからも出家を望んだが、次子・弗沙提婆(ふつさだいば)が生まれたため、断念せざるをえなかった。それでも、羅什五歳のとき、ついに念願の出家をした。そして、二年後、七歳の羅什もまた、母にともなわれて出家したのである。残された父・鳩摩炎は、ふたたび僧となることも許されず、王室の被護も失って、いずこともなく姿を消した。

羅什ははじめ、亀茲の国内にある寺で小乗の論書を学んでいたが、母が王の妹であるということから、どうしても甘やかされたようである。そこで母は、羅什を連れて、北インドの◇賓(けいひん)国へおもむいた。現在のカシュミールと考えられている。羅什九歳のときであった。

◇賓国に入ると、当時、名高い高僧・槃頭達多(ばんずだった)に師事し、小乗の三蔵を深く学び、究めた。三年後、母とともに帰国の途についたが、途中、疏勒(そろく)の地に一年間滞在する。疏勒は、中国・新疆ウイグル自治区にあるオアシス都市で、カシュガルといわれる。そこで、ヴェーダなどのインドの諸学問を修めたが、また、須利耶蘇摩(すりやそま)について、はじめて大乗の教えを受けたのである。それは衝撃的だったようで、須利耶蘇摩と対論をくりかえし、ついに小乗から大乗へ転向したのである。そして帰国後、二十歳で正式に受戒し、さらに『放光般若経』によって、大乗の奥義に達した。とくに、ナーガールジュナ(龍樹菩薩)の論書に通じた。

のち、・賓国で師事した槃頭達多が亀茲国をおとずれ、小乗対大乗の構図で対論し、負けることがなかったことから、新進の大乗学者として、羅什の名声は、西域諸国にとどろき、さらに中国にまで響いていったのであった。
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経の語義

2016年02月20日 | 阿弥陀経を読む
【阿弥陀経を読む(21)】

ともあれ、そうしたスートラはインドで成立したが、それが中国に伝わったとき、すべて漢訳された。そして、スートラの語は「経」と訳されたのである。今日、経といえば、仏教だけにあるように思いがちであるが、スートラと同じく、中国でも仏教以前から用いられていた。儒教の基本的な典籍である「四書五経」がそれである。「四書」とは『大学』『中庸(ちゅうよう)』『論語』『孟子』であり、「五経」とは『詩経』『書経』『易経(えききょう)』『春秋』『礼記(らいき)』をいう。

その場合の「経」は、「たて糸」を意味する。『詩経』や『易経』などを竹片や木片に書き、それをたて糸で綴じていたため、そのように呼んだと思われる。梵語のスートラは、花輪を貫く糸に由来し、漢語の経は、竹片を綴じる糸に由来するのである。ともに糸を意味するというのは、偶然かもしれないが、興味深い。

ともあれ、中国ではすでに「経」と呼ばれるものがあり、それは、時代によって変わることのない、聖者の教えを指していた。それで、仏教が入ってきたときにも、釈尊の説法であるスートラを、「経」と漢訳したのであろう。

それで、仏教でも経は、「常」の意味で解釈されている。すなわち、僧肇(三八四~四一四?)の『注維摩経』第一には、

経とは常なり。古今殊なりと雖も覚道改まず、群邪沮むこと能はず、衆聖異とすること能はず、故に常と曰ふなり。(『大正蔵』三八・三二七頁)

とあり、曇鸞大師の『論註』にも、

「経」とは常なり。……よく衆生のために大饒益をなす。つねに世に行はるべきがゆゑに名づけて経といふ。(『七祖篇』四九頁)

といわれている。これらによれば、経とは、常住不変の真理を説いたものであり、常に世に行われるべき法であるから、経と名づけるのである。

ところが、善導大師はまた、経を経(けい)(たて糸)の意味で解釈されている。すなわち、「玄義分」に、

「経」といふは経(たて)なり。経よく緯(ぬき)を持ちて疋丈(ひつじょう)を成ずることを得て、その丈用あり。経よく法を持ちて理事相応し、……(『七祖篇』三○四頁)

といわれている。これによれば、経(けい)は緯(い)に対する言葉で、たとえば、布を織るときに、まず、経(けい)(たて糸)を張り、そこへ緯(い)(よこ糸)を加えて、美しい布を織りあげてい。そのとき、経(けい)が緯(い)をしっかりと保っている。そして、できあがった布によって着物が作られ、着物によって寒さをしのぐはたらきをもつ。それと同じように、経の言葉は、種々の法義を保って失わず、人々をさとりにいたらしめるはたらきをもっているから、経というと解釈されるのである。

ところで、そうした解釈は、あくまで仏説としての「経」に対するものである。しかし、中国ではもっと広い意味でも「経」の語が用いられた。さきに述べたように、仏教聖典は経・律・論の三つに分かれるが、それらを総括して、「大蔵経」あるいは「一切経」という語が生まれたのである。そのなかには律や論も含まれるが、すべてを「経」という言葉のなかにおさめたのである。

それは、日本において、さらに広く用いられる。今日、仏教研究のテキストとして標準的に用いられているのは、日本で、大正十三年から十年かけて、出版刊行された『大正新脩大蔵経』である。その内容を見ると、経・律・論のほかに、釈と呼ばれる、中国で著された経論に対する註釈書もある。また、日本の祖師の撰述や歴史書、さらには外道(異教)の書まである。それらを「大蔵経」という枠のなかに含めているのである。
 
そこで、経というのは、もともと釈尊の説かれた教説ではあるが、広く、仏教に関係するすべての文献に拡大して呼ぶ場合もあるのである。それは「経」という言葉の、もっとも広い意味での用い方である。したがって私たちが、たとえば親鸞聖人の作られた「正信偈」を「お経」と呼んでも、あながち間違いとはいえない。しかし、いまはあくまで、仏説としての経を意味する。
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大乗の経典

2016年02月19日 | 阿弥陀経を読む
【阿弥陀経を読む(20)】

ところで、釈尊が入滅されてから、百年ほどして、仏教教団は二つに分裂した。上座部と大衆部である。それを根本分裂という。そして、その後も分裂を繰り返し、新たに十八部が生まれた。それを枝末分裂という。さきの二部と合わせて二十部になったわけであるが、そうした仏教を一般に、部派仏教と呼んでいる。

それはその後も続いていくが、一方、紀元前後、あるいはそれをあまりさかのぼらないころから、新しい仏教の波がおこりはじめた。やがて彼らは、みずからを大乗と呼び、先行する部派仏教を小乗と呼んだ。乗とは乗り物ということで、大乗は大きな乗り物、小乗は小さな乗り物という意味である。つまり、みずからの大乗に対して、小乗とけなしたわけである。

というのは、既成の仏教では、民衆を離れて僧院に住まいし、研究に没頭する姿勢が濃厚であったからである。それによって、三蔵の一つ、論蔵の論が生まれていったのであるが、そこでは、みずからのさとりだけにとどまり、大衆はなおざりにされていた。いわゆる、みずからを利する自利に主眼があり、他を利する利他に欠けていたのである。

それに対して大乗は、利他を根本精神とする。そして、その実践者を菩薩という。『阿弥陀経』のなかにも文殊菩薩などの名が出てくる。それはもともと、釈尊の伝記である仏伝のなかで、釈尊の前生を指す呼称であった。そこでは、釈尊がみずからの命をなげ捨てて、他のいのちを救う物語などが説かれている。それを実践者の理想としたのである。したがって菩薩は、みずからはたとえ地獄に堕ちたとしても、他を救うことに重きをおいた。それで大乗と名のったのである。同時に、自利に明け暮れる既存の仏教を小乗とけなしたのである。いわば、仏教の革新運動であった。

その大乗のなかからまた、多くの経が生まれた。成立年代のうえで、初期・中期・後期と分けられる。釈尊滅後、数百年を経過しているが、釈尊の声を聞き、彼らが編纂したのである。それらは、釈尊のこころをあらわしていったものであるから、仏説として、スートラ、経と呼ばれる。

初期大乗経典としては、今日、有名なものに、『般若経』『維摩経』『法華経』『華厳経』などがある。そのなかに、『大無量寿経』や『阿弥陀経』も入るのである。

中期大乗経典としては、『涅槃経』『楞伽経』『勝鬘経』『解深密経』などがある。

後期大乗経典としては、『大集経』『地蔵十輪経』などや、『大日経』『金剛頂経』などの密教経典も入る。

また、大乗仏教のなかから、偉大な思想家も出て、大乗の教えを組織大系化していった。いま、ナーガールジュナ(龍樹菩薩 一五○ー二五○ころ)とヴァスバンドゥ(天親菩薩 四○○ー四八○ころ)を挙げておく。ナーガールジュナの教えは中観といわれ、ヴァスバンドゥの教えは唯識といわれている。

しかし、のちの親鸞聖人は、龍樹菩薩を真宗相承の第一祖とし、その著『十住毘婆沙論』『大智度論』を敬われた。また、天親菩薩を真宗相承の第二祖と仰がれたが、その著『浄土論』は、法然聖人が浄土宗独立にあたって所依の論と選定されたものである。
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スートラの語義

2016年02月18日 | 阿弥陀経を読む
【阿弥陀経を読む(19)】

ともあれ、釈尊の説かれた教えは、経と呼ばれるようになりった。経というのは、梵語スートラの漢訳で、修多羅と音写する。それは、さきに見た「仏」と同じく、仏教だけにあるように思いがちであるが、そうではない。仏教以外にも用いられているのである。中国の「経」についてはのちに述べるとして、インドにおけるスートラも同じである。仏教以前のバラモン教でも、同時代のジャイナ教でも、さらにのちの哲学諸派においても用いられている。仏教がその語を採用したにすぎないのである。

スートラというのは、もともと線(糸すじ)という意味で、「線経」とも訳される。それは、一本の糸に美しい花を通して花輪を作り首にかけるように、花にたとえられる金言や要語をいくつも並べつらねたものをいう。そこには韻文の詩偈は含まれず、短い散文のものだけをスートラといった。仏教も最初はそうであったのである。

釈尊の教えは、その説法の形式や内容によって、九分教あるいは十二分教といわれる分類がなされた。伝承によって多少の異同があるが、いちおう、十二分教を挙げると、
  
①スートラ     〈修多羅、契経、経〉
②ゲーヤ     〈祇夜、応頌、重頌〉
③ヴヤーカラナ   〈和伽羅那、授記〉
④ガーター      〈伽陀、諷頌、孤起頌〉
⑤ウダーナ 〈優陀那、無問自説〉
⑥ニダーナ     〈尼陀那、因縁〉
⑦アヴァダーナ 〈阿波陀那、譬喩〉
⑧イティヴリッタカ 〈伊帝目多伽、本事〉
⑨ジャータカ 〈闍多伽、本生、前生〉
⑩ヴァイプルヤ 〈毘仏略、方広〉
⑪アドブタ・ダルマ 〈阿浮達磨、未曾有〉
⑫ウパデーシャ 〈優波提舎、論議〉

九分教は、⑥⑦⑫を除いた分類である。そのなかの①スートラというのは、散文の要語集のことである。それが元来のスートラであり、もっとも狭い意味でのスートラである。

しかし、そうした用い方はほとんどなされない。のちには十二分教全体を指すようになり、長文のものも作られた。釈尊の説かれた教えをすべてスートラと呼ぶようになったのである。そして、それは経蔵としてまとめられていった。また、釈尊の定められた律は、律蔵としてまとめられた。蔵はピタカの漢訳で、容れ物という意味である。経蔵とは経の集成のことであり、律蔵とは律の集成である。

さらにのちには、経に対する研究がなされ、多くの註釈書、解説書が著された。それらを論といい、その集成を論蔵という。

この経蔵・律蔵・論蔵の三つを合わせて三蔵という。仏教聖典の総称である。『阿弥陀経』の訳者名のところに、「三蔵法師」とあるのは、この三蔵に精通した人のことをいうのである。
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第一結集

2016年02月17日 | 阿弥陀経を読む
【阿弥陀経を読む(18)】

葬儀を終えた摩訶迦葉は、さきの決意をもとに、大衆を集めて、釈尊の教えを確認することを提案した。一同に異論はなく、会議は三ヶ月後の雨期のあいだに行われることになった。参加者は、すでにさとりを得て阿羅漢と呼ばれる四九九人の仏弟子と、一人・阿難陀である。阿難陀はこのときまださとりに達していなかった。彼を加えることに問題もあったが、除くことはできなかった。彼は、釈尊の侍者として二十五年間つきしたがい、釈尊の説かれた教えをすべて記憶していたからである。また、侍者となる前の教えも、他の仏弟子から聞いて覚えていた。多聞第一、記憶第一であったのである。その彼を除いて釈尊の教えを集めることなどできず、例外的に認められたのであった。

しかし、阿難陀がその例外に甘んじたわけではない。会議の開かれる日までに、何とかさとりを得ようと努めたのであるが、どうしてもさとりに達しなかった。やがてその前夜となり、遅くまで頑張ってみたものの、やはりダメで、仕方なくもう寝ようと頭を枕につけた瞬間、突如さとりが開けたといわれている。五○○人目の阿羅漢となったのである。

その日、五○○人の阿羅漢は、王舍城の郊外にある、七葉窟という山腹の洞窟に集まった。摩訶迦葉が議長となり、阿難陀には釈尊の説かれた教えを、また、優波離(ウパーリ)には釈尊の定められた律を誦出(じゅしゅつ)させた。優波離は「浄土三部経」には名前が出てこないが、重要な仏弟子である。かれは、律という、出家教団の生活規則をふかく理解し、かつ厳格に守ったので、持律第一とたたえられている。

大衆は、阿難陀が記憶にしたがって説きだす教えの一つ一つ、また、優波離が記憶にしたがって説きだす律の一つ一つを、釈尊の説かれた教えであり、定められた律に間違いないと確認し、全員でそれを合唱した。そこでこの会議をサンギーティ(合誦(ごうじゅ))という。一緒に唱えるという意味であるが、普通は結集(けつじゅう)と訳されている。

そして、こののちも結集がなされたことから、これを第一結集と呼ぶ。また、五○○人の阿羅漢が集まったことから、五百結集ともいう。ちなみに、第二回目は仏滅後百年ころ、第三回目は仏滅後二百年ころ、第四回目は紀元後二世紀ころであったといわれている。

なお、こうした第一結集によって、釈尊の教えと律が確認されたが、仏弟子たちはそれらをすべて記憶した。当時、すでに文字はあったが、彼らは筆記するというようなことはせず、すべて記憶したのである。そのころの人たちはみなそうであった。そして、口から口へと伝承されていった。やがて、少なくとも二百年以上経ってから、文字に写されていったのである。
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釈尊の入滅

2016年02月16日 | 阿弥陀経を読む
【阿弥陀経を読む(17)】

やがて釈尊は、八十歳という老齢になられた。死期の近いことを感じ、望郷の念にかられたのか、生まれ故郷であるカピラヴァストゥを目指して、旅をはじめられた。そのあいだも伝道を怠ることはなかった。しかし、ついにクシナガラというところで、偉大な生涯に幕を閉じられたのである。それを「入滅」とも「入涅槃」ともいう。

最期を看取ったのは、常随の弟子で、アーナンダという方であった。彼は、釈尊晩年の二十五年間、影のごとくつきしたがい、よく仕えていた。『阿弥陀経』に「阿難陀」とあり、あるいは『大無量寿経』や『観無量寿経』に「阿難」とあるのは、彼のことである。

もっとも、釈尊には偉大な弟子がたくさんおられた。十大弟子といった言葉もあるが、さきに挙げた舎利弗と目連は、もっともすぐれ、二大弟子といわれる。しかし、二人とも、釈尊より早く亡くなられていた。

そのころ、仏弟子の第一と目されていたのは摩訶迦葉である。その名も『阿弥陀経』に出てくる。タッキナギリ国というところで伝道していたとき、釈尊の入滅の近いことを耳にし、その国にいた五百人の仏弟子をともない、釈尊のもとへ向かった。途中、パーヴァーという村を過ぎたとき、クシナガラから来たという異教徒に出会った。彼はマンダーラの華を手にしていた。消息をたずねたところ、釈尊はすでに七日前に入滅され、持っている華は遺骸に供えてあったものをわけてもらったのだという。それを聞いた仏弟子たちは、あるいは無常の理をぐっとかみしめ、あるいは取り乱して悲しみに泣いた。ところが一人、こんなことをいったのである。

「友よ、泣くのはやめよ。釈尊が亡くなられたのなら、われらは自由の身になれるではないか。いつも『これをしなさい、あれはしてはならない』と束縛されてきたが、これからは好きなことをし、嫌なことはしなくてもよいのだ。悲しむどころか、むしろ喜ばしいことではないか。」

彼の名前は、ウパナンダともスバッダともマハッラカともいわれ、定かではない。ともかく、それを耳にした摩訶迦葉は、このまま放置すれば、釈尊の教えは好き勝手にゆがめられ、煙のように滅んでしまう。釈尊は何を説かれ、何を定められたのか、それをきちんと確認しておかねばならない、と決意されたそうである。

摩訶迦葉は、急いで入滅の地・クシナガラへ向かった。そこから二十キロほどの距離だったようである。実は、摩訶迦葉と異教徒が出会ったそのときが、釈尊の遺体に点火する時刻であったといわれている。それまでの七日間、遺体は華や音楽によって供養されていた。しかし、到着してみると、火葬はまだなされていなかった。火がつかなかったそうなのである。ところが、摩訶迦葉と五百人の仏弟子が釈尊を拝し終わると、待っていたかのごとく、ひとりでに荼毘の炎が燃え上がったといわれている。
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