天上の月影

勅命のほかに領解なし

覚信房の臨終

2015年12月31日 | 水月法話

命がけで上洛した覚信房は、親鸞聖人の顔を見て安心したのか、また重病におちいり、やがて臨終をむかえた。蓮位房の添え状には次のようにいわれている。

をはりのとき、南無阿弥陀仏、南無無碍光如来、南無不可思議光如来ととなへられて、手をくみてしづかにをはられて候ひしなり。

この模様を覚如上人は『口伝鈔』にさらに詳しく述べられている。

重病をうけて御坊中にして獲麟にのぞむとき、聖人[親鸞]入御ありて危急の体を御覧ぜらるるところに、呼吸の息あらくしてすでに絶えなんとするに、称名おこたらず、ひまなし。そのとき聖人たづねおほせられてのたまはく、「そのくるしげさに念仏強盛の条、まづ神妙たり。ただし所存不審、いかん」と。覚信房答へまうされていはく、「よろこびすでに近づけり、存ぜんこと一瞬に迫る。刹那のあひだたりといふとも、息のかよはんほどは往生の大益を得たる仏恩を報謝せずんばあるべからずと存ずるについて、かくのごとく報謝のために称名つかまつるものなり」と云々。このとき上人(=親鸞)、「年来常随給仕のあひだの提撕、そのしるしありけり」と、御感のあまり随喜の御落涙千行万行なり。

危篤状態になった覚信房の病室へ親鸞聖人が入ってこられると、覚信房は呼吸も荒く、今にも息絶えそうななかで、一心にお念仏申されていた。そのとき親鸞聖人は尋ねたというのである。
「そのように苦しいなかでお念仏申されるのは、まことに殊勝なことであるが、どのような思いでお念仏申しているのか」
「よろこびすでに近づけり」
もうすぐお浄土に生まれさせていただく。そのよろこびがすでに近づいている。この世の〈いのち〉はもう一瞬に迫っている。たとえ一刹那であっても、息の続くかぎり、往生させていただくという大きな利益を恵んでくださった仏恩を報謝せずにおれないと思って、このように報謝のためにお念仏申している、と答えたのであった。それを聞かれた親鸞聖人は、「長年にわたって私によく世話をしてくれた。また教えもよく学んでくれた。その甲斐あって、いま見事な往生を遂げてくれる。まことに尊くありがたいことだ」と感激のあまり、千行万行の涙を流されたというのである。

この覚信房の故事を覚如上人が記しているということは、親鸞聖人の門弟たちのあいだで語り草になっていたからである。そして親鸞聖人が覚信房のお念仏申すこころぶりを聞いて感涙にむせばれたというところから、覚如上人が称名を報恩の営みとする原点があったといえよう。それが蓮如上人に受け継がれていったのである。

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親鸞聖人における宿縁の意義(一)

2015年12月30日 | 既発表論文

   ※『行信学報』一九、二○○六年に発表したものに加筆している。

親鸞聖人(一一七三~一二六三、以下敬称略)は、『教行証文類』総序と『浄土文類聚鈔』に、

たまたま行信(信心)を獲ば遠く宿縁を慶べ(1)。

といっている。たいへん有名な、周知の文ではあるが、いま宿縁の語に注目したいと思う。というのは、宿縁には宿因・宿善といった同類の語があるが、先哲の講録等を見てみると、宿因・宿善と宿縁を区別するか、同じと見るか、説が分かれているからである(2)。仮りに以下、A説・B説と呼ぶことにしよう。

まずA説として、智暹(一七○二~一七六二)の『樹心録』には、

宿縁とは謂く宿世の因縁なり。因縁は即ち感応なり。因は衆生に在り、縁は如来に在り。因に善悪有り。過去の見仏聞法等を名づけて宿善と為す。過去の毀仏謗法等を名づけて宿悪と為す。縁に順逆有り。……衆生は善根薄少にして、造悪強剛なり。仏、順逆二縁を以て之を摂して正趣に帰せしむ。今将に仏力を談ずべきが故に宿縁と云ふ。その結縁は法蔵菩薩の永劫修行の時に在ることを知らしめんが故に遠慶と云ふ(3)。

とある。宿縁とは宿世の因縁であり、その因縁を因と縁に分け、因は衆生の側、縁は如来の側として、因に宿善・宿悪、縁に順縁・逆縁があるとする。そして親鸞が宿縁といったのは、順逆二縁を施し救おうとする仏力を語るためであり、法蔵菩薩の修行時における結縁を宿縁と見ている。また深励(一七四九~一八一七)は『講義』に、宿因・宿善・宿縁の三語は同義に使う場合と分ける場合があるとして、親鸞が宿因・宿善でなく宿縁といったのは「心ありてのたまふことなり」といい、『樹心録』を引いた後、「衆生が過去でまいた種子は因なり。仏にあひ、法を聴聞して善根を植たは宿善なり。そのとき、如来の方から御縁を結ばせらるゝは宿縁なり。わけるときには宿縁と云ふは、如来の方から衆生に対しての縁なり」といっている。宿因・宿善は衆生の側につき、宿縁は如来の方から衆生に縁を結んでくることというのである。そしてその内容について、「弥陀の無始以来の御縁、別しては兆載永劫の御修行の中」での順縁・逆縁を宿縁と見ている(4)。

次にB説として、僧鎔(一七二三~一七八三)の『一録』には、『大経』「往覲偈」の「若人無善本」と「定善義」の「過去已曾修習此法」等を宿因、「往覲偈」の続き「清浄有戒者乃獲聞正法」を宿善、「曾更見世尊」「宿世見諸仏」を宿縁と配当するが、「畢竟は同じものなり」といい、「弘願にあひたてまつるに望むれば三名互に通ずべし」といっている(5)。また善譲(一八○六~一八八六)の『敬信記』には、

宿善・宿因・宿縁同じこと、必ずしも品物の違ひによりて、因縁善と分つにあらず。宿縁とは、具に云へば宿世の因縁と云ふ。諸善万行が、此の行信を得るの因縁となる。因縁となるから、或は宿因と云ひ或は宿縁と云ふ。其の善体に付いて、又は宿善とも云ふ(6)。

とある。宿世の諸善万行を因縁として行信を得るから、宿因とも宿縁ともいい、諸善万行を修したという、体について宿善とも呼ぶというのである。そして善譲は、名は挙げていないけれども、智暹の説を批判している。また、石泉(一七六二~一八二六)や月珠(一七九五~一八五六)・円月(一八一八~一九○二)等になると、宿縁とは宿善であるとおさえている(7)。ただ真宗における宿善については先哲の間で諸説あるが、いま当相自力・体他力と見ると、その体他力の辺が「遠慶宿縁」である。

そうすると、両説ともに親鸞が慶んでいる対象は如来の側にあると見るのであるが、A説は宿善と区別した如来の側からの結縁であり、B説は体他力としても衆生の側でなした宿善である。いったい親鸞は何を内容として宿縁といっているのであろうか。

(1)『教行証文類』総序(『真聖全』二・一頁)、『浄土文類聚鈔』(『真宗聖教全書』二・四四七頁)
(2)深励『広文類会読記』には「宿因宿善宿縁此の三つ同歟異歟と云ふに、此論古来よりあり」(『真宗大系』一三・五○頁)とある。
(3)智暹『教行信証文類樹心録』(『真宗全書』三六・六頁)
(4)深励『教行信証講義』(『仏大』四六・一八九頁)。A説は他に、宣明『教行信証講義』(『仏教大系』四六・一八一頁)、同『広文類聞誌』(『続真宗大系』五・一八頁)、深励『広文類会読記』(『真宗大系』一三・五○頁)、鳳嶺『教行信証報恩記』(『真宗全書』二一・一五頁)、法海『本典指授鈔』(『真宗全書』三四・一六頁)、同『略文類壬辰録』(『真宗大系』一八・四九二頁)、住田智見『教行信証之研究』四七一頁、山辺習学・赤沼智善『教行信証講義』教行の巻(七七頁)等がある。
(5)僧鎔『本典一録』(『真宗叢書』八・四一頁)
(6)善譲『顕浄土教行証文類敬信記』(『真宗全書』三十・五六頁)。B説は他に、道隠『教行信証略讃』(『仏教大系』四六・一九七頁)、同『浄土文類聚鈔挙燭篇』(『真宗叢書』九・三五六頁)、同『御文明灯鈔通関』(『真宗叢書』一○・三七九頁)、柔遠『顕浄土真実教行証文類頂戴録』(『真宗叢書』七・八頁)、玄智『顕浄土真実教行証文類光融録』(『真宗全書』二四・三二頁)、興隆『顕浄土真実教行証文類徴決』(『真宗全書』二二・四四頁)等がある。
(7)石泉『文類述聞』一・八丁左、同『教行信証文類随聞記』(『真宗全書』二六・三八頁)、月珠『広文類対問記』一・三五頁、円月『本典仰信録』(『真宗叢書』七・二一五頁)、是山恵覚『本典研鑽集記』上・二九頁。他に、義山『教行信証摘解』も宿縁を註するにあたり、真宗で宿善を語るについて四義を挙げ、第二の「獲信の行者をして多幸なることを慶喜せしめんが為の故に」が「遠慶宿縁」の意であるといってるが、やはり宿縁を宿善と結びつけている(『真宗叢書』八・四四四頁)。

 

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覚信房の上洛

2015年12月30日 | 水月法話

『親鸞聖人御消息』第七通(行信一念章)は覚信房が建長八年(一二五六)四月七日付で信の一念と行の一念について質問した御返事の御消息である。その最後に「いのち候はば、かならずかならずのぼらせたまふべし」と記されている。覚信房は下野国高田(栃木県芳賀郡)の住人であり、そのとき親鸞聖人は京都の三条富小路にある善法坊に住まわれていた。覚信房は親鸞聖人の言葉に応じて、二年後の正嘉二年(一二五八)に上洛してきた。その途中のことである。蓮位房の添状と呼ばれる文書には次のように記されている。

のぼり候ひしに、くにをたちて、ひといちと申ししとき、病みいだして候ひしかども、同行たちは帰れなんど申し候ひしかども、「死するほどのことならば、帰るとも死し、とどまるとも死し候はんず。また病はやみ候はば、帰るともやみ、とどまるともやみ候はんず。おなじくは、みもとにてこそをはり候はば、をはり候はめと存じてまゐりて候ふなり」と、御ものがたり候ひしなり。

覚信房は下野国を出発し、武蔵国か信濃国かわからないが、「ひといち」というところで、病気になったという。それはそうとう重い病気であったらしく、同行していた人たちが、もうこれから先は無理だ、引き返せと勧めた。しかし覚信房はそれを振り切り、何としてでも親鸞聖人のもとへと、命の危険をかえりみず旅を続け、やっとの思いで京都に着いた。そして出迎えた親鸞聖人に語ったという。「死ぬほどのことならば、帰っても死ぬだろうし、とどまっても死ぬだろう。また病気が治るのであれば帰っても治るであろうし、とどまっても治るであろう。同じことなら、あなたのもとで死にたいと思い、こうして上洛してきました」と。親鸞聖人を慕う、すさまじいまでの気迫である。蓮位房は「この御信心まことにめでたくおぼえ候ふ。善導和尚の釈の二河の譬喩におもひあはせられて、よに(=非常に)めでたく存じ、うらやましく候ふなり」といっている。

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寂光土義の論文(三)

2015年12月29日 | 法本房行空上人試考

それを踏まえて寂光土義を考察したいのであるが、まず一見すると、「寂光土の往生、尤も是れ殊勝也。称名往生は是れ初心の人の往生也」とあるから、天台の仏土論に基づいた義であるように映じる。智(五三八~五九七)は『維摩経略疏』に仏国を明かして、「今略して四と為す。一は染浄国、凡聖共に居するなり。二には有余方便人の住なり。三には果報純法身の居するなり。即ち因陀羅網無障礙土也。四には常寂光即ち妙覚の居する所也(1)」といい、伝智の『観経疏(2)』には「四種の浄土とは、謂く凡聖同居土、方便有余土、実報無障礙土、常寂光土也(3)」といって、四種の浄土を立てる。そのなか阿弥陀仏の浄土は「無量寿国は果報殊に勝れ比喩すべきこと難しと雖も、然も亦た染浄の凡聖同じく居するなり(4)」等と、最も低位な凡聖同居土と判じる。そこで最高位の常寂光土を目指してこそ殊勝であって、称名によって往生しても凡聖同居土にすぎないから、初心の人の往生であるといっているように見える。ただ天台では凡聖同居というように凡夫の往生を認めていることは注意すべきである。

また「称名往生は是れ初心の人の往生也」というのは、摂論宗・法相宗で盛んに論難を加えてきた念仏別時意説と通じるようにも映じる。懐感(七世紀頃)が『群疑論』に「摂論、此に至りてより百有余年、諸徳咸く此の論文を見て、西方の浄業を修せず(5)」と歎かしめたものである。そこに「摂論」というのは無着(三九五~四七○頃/三一○~三九○頃(6))の『摂大乗論』および世親(四○○~四八○頃)の『摂大乗論釈』を指している。それに仏陀扇多(六世紀)、真諦(四九九~五六九)、玄奘(六○二~六六四)の三訳があるが、まず真諦の門下たちによって摂論宗がおこったから、真諦訳によると、仏の説法形式に、平等意・別時意・別義意・衆生楽欲意の四意四依があるという。そのなかの別時意とは、別時は即時に対し、懈怠の者を励ますために別時に得られる利益を即時に得られるかのように設けられた方便説であって(7)、それを『観経』下下品に説かれた念仏往生の経説に適用し、唯願無行の別時意と論難したのであった。「称名往生は是れ初心の人の往生也」はその方便説のようにも見える。

そして摂論宗を吸収するかたちで成立した法相宗のなかでも依然として念仏別時意説は唱えられた。たとえば慈恩(=基、六三二~六八二)は『大乗法苑義林章』「三身義林」に自性身・受用身(自受用身・他受用身)・変化身の三身(四身)を立て(8)、対応する仏土を法性土・自受用土・他受用土・変化土とする(9)。その上で阿弥陀仏の浄土については「一に云く。摂大乗等に准ずるに、西方は乃ち是れ他受用土なり。(中略)二に云く。西方は報・化の二土に通ず。(中略)二釈は情に任せて取捨し、意に随ふべし(10)」といって、唯報説と通報化説の二釈を出しながら、取捨任情と是非を決していない。そこでいずれが慈恩の真意であるか。日本の鎌倉時代に編纂された『唯識論同学鈔』には「唯報の土の釈、宗家の所存の実義也と見たり(11)」と決している。また望月信亨氏も「彼は唯報の義を取るの意と解せられる(12)」といわれ、林香奈氏はそれを補完し、しかも慈恩が唯報説をとった背景には自身の弥勒信仰を勧める意図があったといわれている。阿弥陀仏の浄土は報土であるから往生しがたく、弥勒は化身であるから兜率天には往生しやすいというものである(13)。そして浄土経典に報土の浄土へ往生することが説かれているのは別時意とするのである。つまり慈恩は報土と判じることによって凡夫が即時に往生することはないというのである。

こうした学説に対して善導(六一三~六八一)が「古今楷定」をなしたことは周知のとおりである。智のほか浄影(=慧遠、五二三~五九二)、嘉祥(=吉蔵、五四九~六二三)の『観経』解釈、そして摂論宗・法相宗の念仏別時意説の謬りを打破し、『観経』開説の仏意を明らかにしていったのである。いま要点のみいえば、『観経』九品段に説かれる機類をみな凡夫と判じて(九品唯凡)、浄土教は為凡の教えであるとし、その凡夫が称える念仏は唯願無行の方便でなく六字釈をもうけて願行具足していることを示し(別時意会通)、阿弥陀仏の浄土を報土と断じたのである(是報非化)。そして「問ひていはく、かの仏および土すでに報といはば、報法は高妙にして、小聖すら階ひがたし。垢障の凡夫いかんが入ることを得ん。答へていはく、もし衆生の垢障を論ぜば、実に欣趣しがたし。まさしく仏願に託してもつて強縁となすによりて、五乗をして斉しく入らしむることを致す」といって、本願力による凡夫入報を明らかにしたのであった(14)。

これを承けたのが法然である。それまで諸宗の寓宗でしかなかった浄土教を独立させた意趣について、

或る時に云く、我れ浄土宗を立つる意趣は、凡夫往生を示さむが為也。若し天台の教相に依らば、凡夫往生を許すに似たりと雖も、浄土を判ずること至りて浅薄也。若し法相の教相に依らば、浄土を判ずること甚深と雖も、全く凡夫往生を許さざる也。諸宗の談ずる所は異なると雖も、惣じて凡夫の浄土に生ずると云ふ事を許さず。故に善導の釈義に依つて浄土宗を興す時、即ち凡夫の報土に生ずると云ふ事が顕はるる也(15)。

と述べている。天台・法相を斥け、善導の釈義によって凡夫が報土に往生することをあらわすために浄土宗を立てたというのである。

そうすると行空は、この浄土宗の布教伝道者であるから、法然の意趣を根本に据えていたはずである。そして法然教学をしっかりと身につけていたはずである。天台や法相に逆行することはないであろう。もしそうなら「不可思議の愚癡無智の尼入道によろこばれて」はないし、興福寺から名指しされるはずもない。また親鸞が『西方指南抄』に記名することもないであろう。寂光土義は表相だけ見ていてもよくわからない。江戸時代の鎮西派の学匠・妙瑞(?~一七七八)も「唯だ行空の一義は諸文在るも少きが故に、其の義髣髴として知り難し(16)」といっている。

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三本柱

2015年12月29日 | 水月法話

蓮如上人が徹底して私たちが称える「なまんだぶ、なまんだぶ」のお念仏を報恩の営みとされたことを称名報恩という。また阿弥陀さまの「必ず救う」という仰せを「ありがとうございます」といただいたご信心が往生のまさしき因であり、信心正因という。この信心正因と称名報恩は表裏の関係にある。信心が正因であるから称名は報恩なのであり、称名が報恩であるから信心が正因なのである。そしてご信心をいただいたときに往生が定まる。「時」を語るのはどこまでも信心である。お念仏は法であるから、「行住坐臥、不問時節久近(行住坐臥、時節の久近を問わず)」であって、「時」を超えている。ゆえにお念仏を申した時に往生が定まるのではない。ご信心をいただいたときに往生が定まるのである。お念仏という法が法のままであれば私の救いとはならない。法が私の中に受け入れられてはじめて私の救いが成立する。それを平生業成(へいぜい・ごうじょう)という。臨終にご信心をいただいたとしても平生業成である。この信心正因・称名報恩・平生業成が浄土真宗の三本柱であり、「浄土真宗の御常教」と呼ばれる。これを崩せば浄土真宗が浄土真宗でなくなってしまう。この三本柱を立てて、同じ法然聖人門下の門流と区別し、浄土真宗の特質をあらわしてきたのである。

ただ信心正因はいい。親鸞聖人も「不思議の仏智を信ずるを 報土の因としたまへり 信心の正因うることは かたきがなかになほかたし」「涅槃の真因はただ信心をもつてす」などといわれている。また親鸞聖人は平生業成という用語は使われないが、「信心の定まるとき往生また定まるなり」などといわれている。問題は実は称名報恩なのである。ある人はいうであろう。「お正信偈」に「唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩(ただよくつねに如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべしといへり)」とあるではないかと。しかし、それはお念仏申して仏恩を報じなさいといっているのであって、お念仏が報恩であると限定しているのではない。もともと称名報恩ということは一念義系の思想であった。極端な一念義は一声で往生に不足はないという。そうするとそれ以後のお念仏は不要ということになる。実際そのようにいった人がいたらしい。そこで一声以後のお念仏をどうするかというので報恩という意味があるとされたのである。『西方指南抄』所収の「基親、信を取て本願を信ずるの様」のなかに一念義系の人が「仏の恩を報ずるなりと申す」といったことを伝えている。そうした一念義系の思想が浄土真宗のなかに入ってきて、しかも「三本柱」の一つとして「御常教」とされるにあたっては、親鸞聖人のお弟子の一人・覚信房の故事があったからであろう。

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蜂ごろし

2015年12月28日 | 水月法話

また『蓮如上人御一代記聞書』一八○条には次のような有名な話が出ている。

ある人いはく、前々住上人(=蓮如)の御時、南殿とやらんにて、人、蜂を殺し候ふに、思ひよらず念仏申され候ふ。そのときなにと思うて念仏をば申したると仰せられ候へば、ただ、かわいやと存ずるばかりにて申し候ふと申されければ、仰せられ候ふは、信のうへはなにともあれ、念仏申すは報謝の義と存ずべし、みな仏恩になると仰せられ候ふ。

蓮如上人の晩年のことであろう。山科本願寺の南殿に住まわれていたとき、あるお弟子が蜂に刺されて、思わず殺してしまったようである。そのとき思わずお念仏申された。それを見ていた蓮如上人は、
「いま何と思ってお念仏申したか?」
「別に何と思うということはありません。ただ、かわいそうなことをしたと思って称えました」
すると蓮如上人は、
「信のうえは、そのようなお念仏も、仏恩報謝になるぞ」
といいきられたのであった。

近年の私たちは、虫を殺しても何とも思わない。お経本で虫を叩き殺した人を見たこともある。〈いのち〉を何とも思っていない。せめてお念仏申させていただこう。ああ、かわいそうなことをした。ふとこぼれたお念仏も、「報謝の義と存ずべし」報恩の営みになるというのである。そのお弟子は思わず殺してしまった蜂の死骸をそのままゴミのように捨てることはしなかったであろう。「報謝の義と存ずべし」と聞かされれば、「悪いことをした。このような私を阿弥陀さまはお救いくださるのか」とまたお念仏申されたのではなかろうか。はじめは「かわいそうなことをした」のお念仏が、「ありがとうございます。南無阿弥陀仏」となっていく。蜂がお念仏申させたのである。お念仏は何と思って申しても、仏恩報謝となる。蓮如上人は徹底しているのである。

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寂光土義の論文(二)

2015年12月27日 | 法本房行空上人試考

ただその前にこれまでほとんど顧みられることのなかった法然に仮託された偽書・『金剛宝戒章』を見ておこう。行空教学の性格がうかがわれると思うからである。それは「訓授章」「釈義章」「秘決章」の三巻から成り、かつては行空もしくはその輩の著と見られてきたが(1)、「訓授章」の「第七 授戒者」の最後に「叡空は源空上人に授け、源空は湛空上人に授く。〔乃至、時に随つて人人の名を書くべき也〕(2)」とあるから、おそらく湛空(一一七六~一二五三)の門流のなかで成立したものであろう(3)。顕智(一二二六~一三一○)の『聞書』によれば、「金剛宝戒章上云」として「訓授章」、「金剛宝戒律章下云」として「釈義章」の文を抜粋しているから(4)、当初はその二巻であったようであり、「秘決章」は後の付加ということになる。ただ道光了恵(一二四三~一三三○)が二十年かけて文永十一年(一二七四)から翌年に編纂した『黒谷上人語灯録』の跋文には「金剛宝戒章三巻」とある(5)。とすれば、その成立から二十年遡り、行空が佐渡島で一二一○年ころ往生したと仮定すると、遅くともその約四十数年後までには「秘決章」が付加されたと考えられる。
 その「秘決章」は幸西ら八人の門弟の名が挙げられ、「問曰」あるいは「疑曰」といい、法然が「決曰」という問答形式の体裁で一貫している。そのなかに行空の問いが五問あり、前四問は連続してあり、後の一問は離れた巻末に近いところにある。その五問を挙げれば次のようである。

    行空、問て曰く。濫行の人を以て説法布薩の導師と為すは、応さに其の咎有るべきや否や。
    行空、問て曰く。真言を知らざる人、応さに開眼導師と作すべきや否や。
    行空、問て曰く。一向専修の人、説法の法則を略すること有るべきや否や。
    行空、問て曰く。念仏の行人、説法導師と為すべきや云何。
    行空、問て曰く。正しく弥陀の来迎に預かると云ふべきや(6)。

これを行空の第一問の直前にある源智(一一八三~一二三九)の問いと比較してみると、「源智、問て曰く。倶舎成実律宗を学ぶ、利益有るべきや否や」とあるのに対し、行空は「説法布薩の導師」「開眼導師」「説法の法則」「説法導師」とあるから伝道説法に関心を寄せていることがわかる。つまりそれほど離れていない後の人にとっても行空といえば伝道説法者というイメージが強烈であったのである。事実、『三長記』には四箇所にその名が見え(8)、興福寺から名指しで訴えられている。伝道布教の最前線にいたわけである。慈円(一一五五~一二二八)には「又建永の年、法然房と云(いふ)上人ありき。まぢかく京中をすみかにして、念仏宗と号して、(中略)不可思議の愚癡無智の尼入道によろこばれて」等といっている(9)。その法然の念仏宗を説き弘めていた一人が行空であった。したがって行空が対象としていたは慈円の言葉でいえば「不可思議の愚癡無智の尼入道」であったのである。そこで従来の仏教からは見捨てられていた人々に救いを説くため必然的に安心門に立ち、過激な廃立になっていったのであろう。重松明久氏は「幸西・行空のごとき教学樹立者(10)」といわれているが、梯實圓氏は幸西が理論派であったのに対し、行空は行動派であったといわれている(11)。確かに幸西が幾多の著述を残しているのに対し、行空には著作のあった形跡がない。そこで行空は「教学樹立者」というような学匠を標的にしているのではなく、民衆に向かった布教伝道を場としたものであったと思われる。それは親鸞(一一七三~一二六三)が二回向四法という雄大にして緻密な教義体系を樹立したのに比べ、流罪以前という時期の上から見ても(12)、素朴な教学であったと考えられる。

(1)了祥(一七八八~一八四二)『異義集』巻一に「『金剛宝戒』『浄土布薩』等、かれ(=行空)が偽作にして」(『続真宗大系』一九・四頁)といい、「『金剛宝戒章』『浄土布薩式』亦是行空か」(『同』一九・一一頁)といっている。また円智(?~一七○三)・義山(一六四七~一七一七)の『円光大師行状画図翼賛』巻四十六には「長楽寺の鏡空上人の奥書に、此の書は法本房行空の輩、偽作して妄に上人の作と云。全く用ふるべからずと云云」(『浄土宗全書』一六・六六四頁)とある。
(2)『金剛宝戒章』「訓授章」(石井教道氏編『昭和新修法然上人全集』一○二三頁)
(3)石田瑞麿氏「『金剛宝戒章』の成立とその思想」(『奥田慈応先生喜寿記念 仏教思想論集』、一九七六年)参照。ただし大橋俊雄氏「金剛宝戒章の成立について─伝法然上人撰述書研究其二─」(『印度学仏教学研究』一○─二、一九六二年)には、「三書の内容を検討するに三章はそれぞれ異なる環境と人によつて成立されたように思はれる」といって、「訓授章」は「湛空の流れを汲む人であつたかも知れない」といい、「釈義章」は「天台大師を祖師と仰ぐ法流の人であつたという感を強くする」といい、「秘決章」は「禅に関心をもつ法然の流れを引く何れかの念仏僧によつて、禅浄融合思想の影響のもとに撰述されたものと思はれる」といわれている。
(4)『聞書』(『真宗史料集成』一・六一四~六一五頁)
(5)『拾遺語灯録』巻下(『真宗聖教全書』四・七七九頁)
(6)石井教道氏編『新修法然上人全集』一○五○、一○五八頁)
(7)『三長記』元久元年(建永元年、一二○四)二月十四、二十一、二十二、三十日条(『増補史料大成』三一・一七二、一七四、一七六、一八二~一八三頁)
(8)『『愚管抄』巻第六(『岩波古典文学大系』二九四頁)
(9)重松明久氏『日本浄土教成立過程の研究』(平楽寺書店、一九六四年)三六九頁。
(10)梯實圓氏『玄義分抄講述─幸西大徳の浄土教─』(永田文昌堂、一九九四年)四頁。同氏「親鸞聖人の生涯〈その22〉法難の顛末④」(『一味』七一四、二○○九年)
(11)拙稿「法本房行空上人の教学試考─弁長上人『浄土宗要集』の断片をめぐって─」(『龍谷教学』五一、二○一六年)に、行空の教学が他の有力門弟たちより相当早い時期のものであることを述べている。

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退転なく

2015年12月27日 | 水月法話

また『蓮如上人御一代記聞書』一七八条には次のようにいわれている。

信のうへは仏恩の称名退転あるまじきことなり。あるいは心よりたふとくありがたく存ずるをば仏恩と思ひ、ただ念仏の申され候ふをば、それほどに思はざること、大きなる誤りなり。おのづから念仏の申され候ふこそ、仏智の御もよほし仏恩の称名なれと仰せごとに候ふ。・

私たちが「なまんだぶ、なまんだぶ」と称える気持ちにはいろいろある。こころの底から「ああ尊いことだなあ、ありがたいことだなあ」と思うときもあれば、何とも思わないで「なまんだぶ、なまんだぶ」と称えるときもある。その二つを比較して、ありがたく思って称えるお念仏のほうが仏恩報謝となって価値があるように思い、何とも思わず称えるお念仏は価値がないように思いがちである。それを蓮如上人は「大きなる誤りなり」といわれるのである。お念仏は誰が称えても、どのような気持ちで称えても、同じ価値をもつ報恩の営みなのである。だから「仏恩の称名退転あるまじきことなり」といわれるのである。何とも思わないからお念仏はやめておこうなどと、意識して申さないのは誤りである。私たちのこころに関係なく、ありがたく思うて称えるお念仏も報恩、ふと称えるお念仏も報恩、「退転なく」「つとめて」お念仏申させていただくのである。なぜなら、阿弥陀さまはお念仏という行法を選び取られ、必ず助けると仰せくださっているだから、素直にありがとうございますといただき、命の限りお念仏申していくのである。自分の称えこころに目をつけるのではなく、称えさせた阿弥陀さまの仏智の御恩を仰がせていただくのである。

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のうれん

2015年12月26日 | 水月法話

『蓮如上人御一代記聞書』一八一条にもこのような話が出ている。

南殿にて、前々住上人(=蓮如)、のうれんを打ちあげられて御出で候ふとて、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と仰せられ候ひて、法敬この心しりたるかと仰せられ候ふ。なにとも存ぜずと申され候へば、仰せられ候ふ。これはわれは御たすけ候ふ、御うれしやたふとやと申す心よと仰せられ候ふ云云。

本願寺が山科にあったころ、蓮如上人は五男の実如上人に代を譲られ、南殿(みなみどの)にお住まいであった。あるとき、「のうれんを」といわれている。暖簾(のれん)のこととされるが、御簾(みす)のことではなかろうか。それを払いあげて、いつものように声高らかに「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とお念仏申しながらお出ましになった。そこに法敬房順誓という常随のお弟子がいた。お迎えに来ていたのである。蓮如上人はその法敬房の顔を見るなり、
「いま私が南無阿弥陀仏と申したこころがわかるか?」
「いえ、いっこうに存じません}
「これは私をお助け下さり、まことにうれしく尊いことでございますと申していたのだ。それが南無阿弥陀仏と申すこころだよ」

法敬房にしてみれば、蓮如上人がどのようなこころでお念仏申しているかなどわかるはずがない。人はそれぞれの思いのなかでお念仏申す。その人のこころのなかまでわかるはずはないであろう。しかし、法敬房は本当はわかっていたのかもしれない。なぜなら、いつも蓮如上人が仰せになっていたからである。それを「わかりません」と答えたのは、蓮如上人の口からまた仰せいただこうと思ったのではなかろうか。そして蓮如上人のお答えはいつもの通りであった。「ありがとうございます、南無阿弥陀仏」。「もったいのうございます、南無阿弥陀仏」。それを聞いて法敬房もまたお念仏申したことであろう。お念仏はそれぞれの思いを超えて、つねに報恩の営みなのである。

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寂光土義の論文(一)

2015年12月25日 | 法本房行空上人試考

法本房行空(生没年不詳)には自著がないので、その教学をうかがう資料としては三条長兼(生没年不詳)の日記・『三長記』に見られる記述と、弁長(一一六二~一二三八)の『浄土宗要集』に記された断片が確実なものといえるが(1)、もう一つ同じく弁長の『末代念仏授手印』裏書を検討しなければならない。そこには「近代人人の義」として三人の義を挙げ、「此の三人の義は近代興盛の義也」「已上の三義は是れ邪義也。恐るべし、恐るべし」「全く法然上人の義に非ず」等といっている。もっとも弁長はその三義について「或る人」というだけで名を挙げていないが、幸西(一一六三~一二四七)・證空(一一七七~一二四七)・行空の義とするのが鎮西派の一般的な見解である(2)。そこで第三義である行空の義を挙げると、

或る人の云く、寂光土の往生、尤も是れ殊勝也。称名往生は是れ初心の人の往生也。寂光土往生は尤も深き也(3)。

とある。『念仏三心要集』も同じである(4)。『念仏名義集』は少し文が違って、

或る人は寂光土の往生を立つる。此の学文を我に随てせよ。若し此の心を知らずして念仏申さん者は往生すべからずと申す(5)。

とある。この義をいま寂光土義と呼ぶことにするが(6)、これを行空の義と見るようになったのは良心(?~一三一四)が「美濃の国の法報房と云ふ人、此の義を立つ(7)」といってからである。ただ良心が何を依りどころにしていっているのかわからないので疑問視する意見がある(8)。しかし私は従来通り行空の義と見ていいと思う。というのは、①弁長は三人の義を挙げる直前に「然るに近代の人人、学文を先と為し、称名を物の員(かず)とも為ず。是れ則ち邪義也、邪執也」等といっている。②良忠(一一九九~一二八七)は弁長の言として「然るに上人(=法然)御往生の後、一念義と云ふ事繁昌せんよりこのかた、小坂弘願義、世に興るに至てん、人皆先師の御遺誡に背き多くは念仏の行を廃す」といい、「一念義・弘願義を立つる輩ら数遍を廃す。此の義を痛んで授手印を作る也(9)」と伝えている。それを聖冏(一三四一~一四二○)は「一念義等とは成覚房幸西の異義也。(中略)小坂弘願義とは西山恵善(ママ)上人證空の異義也(10)」といっている。そこで『末代念仏授手印』は幸西と證空を意識して述作されたものであり、邪義とする三人の義の第一義・第二義は幸西・證空と見ていいであろう。③『末代念仏授手印』は三人を邪義と判じた次に、「日本国同時西方の行人先達」として顕真(一一三一~一一九二)・明遍(一一四二~一二二四)・法然(一一三三~一二一二)の三人の名を挙げ、「已上三人は同時の学生、三人倶に善導の御義に帰して、西方を願じたまふ。三人同時の学生、倶に数遍の行儀也」等といっている。ここで顕真・明遍・法然の三人を数遍を行じた先達とし、念仏を廃する邪義の三人と対比させている。そのうえ数遍の三人を「同時」の人と強調していることは、邪義の三人も同時代の人であると察せられる。つまり法然の直弟である。④そこで第三義は幸西・證空と肩を並べ得る直弟で、かつ弁長の目に念仏を廃すると映じた者となるから、行空しかいないであろう。『浄土宗要集』に行空が「念とは思ひとよむ、されば称名には非ず」といったのを「此は念仏を習はざる也」と批判しているからである(11)。ただし弁長は「上人(=法然)御往生の後」といい、「近代興盛の義」といっている。確かに幸西・證空の門流は栄えたが(12)、静見(一三一四~一三八三)の『法水分流記』によると行空には「覚住」という門弟がいるだけである(13)。しかも行空は承元(建永)の法難によって佐渡島へ流罪となり、おそらくそこで往生していたと思われる(14)。それでも弁長は念仏を廃する者として幸西・證空を挙げれば、行空も無視できなかったのであろう。行空が第三義になっている所以と思われる。こうして寂光土義を行空の義とし、以下、その内実を試考してみることにしたい。

(1)拙稿「法本房行空上人の教学試考─邪義の評価と『三長記』に見られる教学の基本─」(『行信学報』二八、二○一五年)、拙稿「法本房行空上人の教学試考─弁長上人『浄土宗要集』の断片をめぐって─」(『龍谷教学』五一、二○一六年)を参照されたい。
(2)たとえば大橋俊雄氏「弁阿聖光本『末代念仏授手印』について」(『恵谷先生古希記念 浄土教の思想と文化』一九七二年)、高橋弘次氏「二祖聖光における教学の二面」(『坪井俊映博士頌寿記念 仏教文化論攷』一九八四年、のち同氏『続法然浄土教の諸問題』〈 山喜房仏書林、二○○五年〉所収)、花田玄道氏『鎮西上人』(大本山善導寺、一九八七年、四九~五一頁)、阿川文正氏『聖光上人伝と「末代念仏授手印」』(浄土宗大本山善導寺、二○○二年、一二六・一五○頁)などによる。
(3)『末代念仏授手印』(『浄土宗全書』一○・十一頁)
(4)『念仏三心要集』(『浄土宗全書』一○・三九一頁)
(5)『念仏名義集』巻下(『浄土宗全書』一○・三八二頁)
(6)山上正尊氏『一念多念文意講讃』(為法館、一九五六年)九○頁には「寂光往生義」、梯實圓氏『法然教学の研究』(永田文昌堂、一九八六年)四四七頁には「常寂光土義」、伊藤唯真氏『浄土宗史の研究』(法蔵館、一九九六年)一七二頁には「寂光土往生説」、『浄土宗大辞典』には「寂光浄土義」と呼ばれているが、『望月仏教大辞典』や石井教道氏の「鎮西教学研究序説」(『大正大学学報』二一・二二・二三、一九三五年)や阿川文正氏『聖光上人伝と「末代念仏授手印」』(浄土宗大本山善導寺、二○○二年)一二五頁などには「寂光土義」と呼ばれている。いまはそれらにしたがう。この義が「寂光土の往生」とはじまっているからである。
(7)『授手印決答巻下受決鈔』(『浄土宗全書』一○・一二二頁)
(8)松野純孝氏『親鸞─その生涯と思想の展開過程』(三省堂、一九五九年)一一九頁には「良心は何に基づいてこうした釈をなしたかわからない」といい、梯實圓氏『法然教学の研究』(永田文昌堂、一九八六年)四四七頁にも「何を根拠にそういっているのかわからないから、にわかに信用できない」といい、伊藤唯真氏『浄土宗史の研究』(法蔵館、一九九六年)一七二頁にも「寂光土往生説を行空の説とする見解(=良心の釈)もあるが、果たしてどんなものであろうか」といわれている。
(9)『決答授手印疑問鈔』巻下(『浄土宗全書』一○・二八頁)
(10)『決答疑問銘心鈔』上(『浄土宗全書』一○・六二頁)
(11)『浄土宗要集』第五(『浄土宗全書』一○・二二八頁)
(12)幸西の門流は浄土教の典籍を開版したり、證空の門流は東山・嵯峨・深草・西谷の四流、さらに西谷流から六角義、本山義が開かれている。
(13) 『法水分流記』(『真宗史料集成』七・八二六頁)
(14)福岡県八女市に高野堂(こうやんどう)「行空上人の墓」というのがあり、天福元年(一二三三)七月六日に九十歳で没したといい、いまの法本房の墓としているが、別人であると思われる。拙稿「親鸞聖人と法本房行空上人」(『行信学報』二四、二○一一年)参照。

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報恩の営み

2015年12月25日 | 水月法話

蓮如上人は私たちが称える「なまんだぶ、なまんだぶ」を報恩の営みであると徹底して教えられた。そのいくつかを紹介しよう。『御文章』二帖目第四通には、

昼夜朝暮は、如来大悲の御恩を雨山にかうぶりたるわれらなれば、ただ口につねに称名をとなへて、かの仏恩を報謝のために念仏を申すべきばかりなり。これすなはち真実信心をえたるすがたといへるはこれなり。あなかしこ、あなかしこ。

阿弥陀さまは私たちを救うため、五劫の思惟と兆載永劫の修行によって、お念仏という行法を選び取り、どうかこれを称えておくれよ、どうかこれで助かっておくれよ、喚びかけてくださっている。それをありがとうございますといただいたのが信心である。そこには雨のように多く、山のように高き御恩がある。今さら助けてくださいなどとお願いをする必要はない。必ず助けると仰せくださるのだから、昼夜朝暮、寝ても覚めても、「もったいない、ありがとうございます、なまんだぶ、なまんだぶ」とお念仏申すばかりである。それが信心を得たすがたであるというのである。

また『蓮如上人御一代記聞書』一七九条には、

蓮如上人仰せられ候ふ。信のうへは、たふとく思ひて申す念仏も、またふと申す念仏も仏恩にそなはるなり。他宗には親のため、またなにのためなんどとて念仏をつかふなり。聖人(=親鸞)の御一流には弥陀をたのむが念仏なり。そのうへの称名は、なにともあれ仏恩になるものなりと仰せられ候ふ云云

阿弥陀さまの必ず助けるという仰せをありがとうございますといただいた信心の上から申すお念仏は、ああ尊いことだなあと思うて称えるお念仏も、また、ふと申すお念仏も、どのようなお念仏であれ、みな仏恩を報じる営みになるんだよ、というのである。ここに「ふと申す念仏」とある。つねに「ありがたいなあ、もったいないなあ」と思えればいい。しかし私たちはなかなかそうはいかない。それでも信心の上から申すお念仏は、ふとこぼれたお念仏であっても、そのまま報恩の営みになるといわれるのである。阿弥陀さまのおこころにかなっているからである。

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点滅信号

2015年12月24日 | 水月法話

鎮西派は「助けて下さい、南無阿弥陀仏」、浄土真宗は「ありがとうございます、南無阿弥陀仏」、それはお念仏申すこころぶりを示されたものである。表面だけ見れば、どちらもお念仏申しているのであるから、同じである。しかし、受け取り方が違うのである。

次女がまだ小学生のころであったと思う。夜の10時を過ぎてから、「しまった。ビデオを返すのを忘れとった」といいだした。近くのレンタルビデオ店で借りていた返却期限が今日だというのである。明日になれば超過料金がかかってしまう。「それじゃぁ、今から返しに行こう」というと、長女まで「私もついて行く」という。そこで車を出し、後部座席に長女と次女が乗った。発進し、ズーッといくと、夜の10時を過ぎると点滅の赤になる信号がある。前々から坊守に、「あそこは気をつけや。パトカーがよう張ってるで」と聞かされていたが、私は11時になると店に子どもが入ることができないという地域の条例があるので、ちょっと急いでいたからか、うっかりそのまま通り過ぎてしまった。しばらく走ると、ルームミラーに赤いものが写り、ウーン!というけたたましい音が鳴った。そして私の車の後をついてくる。次女が、
「お父さん、この車ちゃうの?」
「えっ?」
そしたら、
「その車、止まりなさい!」
「ああ、しもた~」
路肩に車を止めると、パトカーがピタリと後ろにつき、おまわりさんが降りてきて、ドアをコンコンとする。開けると、
「さっきの信号、止まりませんでしたよね?」
「はい」
「あそこは一旦停止です。後ろのパトカーに乗って下さい」
私は仕方なく、いわれるままパトカーの後部座席に座らされ、免許証を見せられたり、理由を聞かれたりした。いわゆる切符を切られるというやつである。そして「点滅の赤信号は一旦停止ですからね。これから気をつけてください」と言われ、パトカーを降り、自分の車のドアを開けながら、
「くそっ!」
と乗り込むと、後ろの次女が、
「お父さん、パトカーに乗ったんやろ?ええなあ」
「何がええねん!おかげで罰金はらわなあかんやんけ!」
「でも、パトカーに乗れてよかったやん。私も乗りたかったわ~」

私がパトカーに乗ったのは一つの事実である。しかし私は「くそっ」と思った。次女は「ええなあ」と思った。同じ事柄であるのに、受け取り方が違うのである。お念仏も、お念仏申しているということは同じであるが、鎮西派と浄土真宗ではこころぶりが違うのである。鎮西派は「助けて下さい、南無阿弥陀仏」、浄土真宗は「ありがとうございます、南無阿弥陀仏」、間違ってはならない。

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境界線

2015年12月23日 | 水月法話

親鸞聖人が思想的境位として一念義的な傾向があったのに対して、弁長上人は多念義的な傾向があった。その系統である鎮西派では、前にお話したように、私たちが「なまんだぶ、なまんだぶ」と称えるお念仏を、十遍称えるんだという。最初の四遍で息を吸い、次の四遍で息を吸い、最後の二回はゆっくりと称える。そういう称え方をするようである。そしてその称えこころは、「助けてください、南無阿弥陀仏」である。これも前に「SOS」という題でお話したように、こちらからSOSのサインを送るようなものである。阿弥陀さまは私たちを救おうとしていらっしゃる。しかし、私たちがどこにいるかわからない。たとえば、井戸に落ちた子どもを探しに母親があっちに行ったり、こっちにいったりするが、姿が見えない。そこで井戸の底から「助けて~」というようなものである。こちらから「助けて~」といわなければ、阿弥陀さまも助けようがない、という理屈である。それは鎮西派の教えであるから、どうのこうのということではない。ただ、その鎮西派のお念仏と区別をするために、親鸞聖人の曾孫にあたるお方で、覚如上人という方がいらっしゃった。みずからは本願寺第三代とおっしゃるが、実際は本願寺の創立者である。この覚如上人が鎮西派の「助けて下さい、南無阿弥陀仏」に対して、親鸞聖人のお念仏はそうではない。「ありがとうございます、南無阿弥陀仏」だという、称名報恩ということを打ち出された。それを継承したのが本願寺第八代・蓮如上人である。たとえば皆さまよく御存知の『御文章』、「聖人一流章」の最後に、「そのうへの称名念仏は、如来わが往生を定めたまひし御恩報尽の念仏とこころうべきなり。あなかしこ、あなかしこ」と示されているであろう?「御恩報尽の念仏」とは、「ありがとうございます、南無阿弥陀仏」ということである。そのように、心得るべきである、あなかしこ、あなかしこ、と結ばれているのである。鎮西派の「助けて下さい南無阿弥陀仏」と浄土真宗の「ありがとうございます、南無阿弥陀仏」、この境界線、水際、境目というものをはっきりさせておかなければ、浄土真宗が浄土真宗でなくなってしまう危険がある。よくよく注意すべきである。

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法然聖人

2015年12月22日 | 水月法話

話を元に戻そう。親鸞聖人は決して一念義ではなかったが、思想的境位としては一念義的な傾向があった。それに対して弁長上人は多念義的傾向にあった。弁長上人についてはこれまでにお話したが、現在の知恩院を総本山とする浄土宗の第二祖である。第一祖である宗祖は法然上人と仰いでいるが、事実上はこの弁長上人の系統である。九州で活躍された方なので、私どもは鎮西派と呼んでいる。親鸞聖人と弁長上人、どちらも法然聖人の門弟であるが、比べてみるとずいぶん異なる点がある。同じ法然聖人から出ているのに、面白いものである。

と、ここで、また立ち止まってしまうが、いま私は「法然上人」「法然聖人」と違う表記をした。単純な書き間違いと思われた方もおられるかもしれないが、そうではない。鎮西派では「法然上人」、浄土真宗では「法然聖人」と表記するのである。少し前までは浄土真宗も「法然上人」と書いていたが、いまは「法然聖人」と書く。というのは、親鸞聖人が法然聖人を呼ぶとき、必ず「法然聖人」と書かれているからである。たとえば、親鸞聖人が編集されたと考えられる『西方指南抄』という書物があるのだが、その上巻に収録されている法語は「法然聖人御説法事」と題されている。同じものが鎮西派で編集された『漢語灯録』という書物では「逆修説法」と題されている。いま詳しいことは省略するが、これは法然聖人の説法なので、もともと題名などなかったのだが、親鸞聖人は「法然聖人御説法事」と題されたのである。親鸞聖人の、いわば癖のようなものである。そこで蓮如上人くらいまではみな「法然聖人」と表記していたのだが、その後は鎮西派にならって浄土真宗でも「法然上人」と書くようになった。しかし、それ以前の文献に「法然聖人」とあれば、これは真宗系のものだなということがわかるのである。

浄土真宗で「法然上人」からこの「法然聖人」という表記に戻されたのは、他の方もいらっしゃるが、おそらく強く提唱されたのは梯實圓和上ではないかと思う。私が学生時代、和上は講義のなかで、自分が書いた論文には「法然聖人」と書いているのに、すべて「法然上人」と訂正されていると、少し怒ったご様子でお話されていたことを思い出す。浄土真宗では「法然聖人」と表記するのが、親鸞聖人の門流である証拠なのである。

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師弟一味

2015年12月21日 | 水月法話

話が進まなくて申し訳ないが、梯實圓和上と天岸浄圓先生の師弟は、師弟でありながら、唯仏与仏(ただ仏と仏)、仏仏相念(仏と仏があい念じる)であった。

梯實圓和上が御往生になられたのは平成26年(2014) 5月7日であった。九州の知人にメールを書いている最中、先輩の大野孝顕先生から連絡が入った。衝撃であった。確かに前年の5月23日、行信教校の専精舎で利井鮮妙和上の100回忌法要が厳修され、「鮮妙和上の学説を偲ぶ」と題して御法話下さったとき、お痩せになられ包帯姿の和上は痛々しかった。しかしまた復活されるものと思っていた。それが御往生、巨木が倒れたときの大きな音がしたような気がした。

思えば和上にはよく質問させていただいた。行信教校卒業後も、行信教校に足を運び、講義と講義の間の休憩時間に、講師室の前で待っていると、私の顔を見つけ、笑顔で「やぁ森本くん、よく来たなぁ。まぁどうぞ」と講師室に入るよう促して下さった。そして質問をし、答えて下さるのだが、次の講義が始まる時間になってもお話が続くことがあった。和上に休む時間を与えず、事務員の高谷信善くんや岡島佳子さんたちは気が気でなかったと思う。またその後の和上の講義を一番後ろの席で聴講させていただき、講義が終わったとき、そばにいた学生さんたちが「今日の講義、めっちゃ難しかったなぁ」と言っていたことがあった。私がややこしい質問をしたために講義を難しくさせてしまったのだろう。和上や高谷くん・岡島さん、それに学生さんたちにも迷惑をかけてしまった。申し訳ないことであった。

その和上はいつもおっしゃった。「死んでいくんじゃない。生まれていくんだ」「昨日、梯さん、ここでワァワァ言うとったけど、死んでしもうたそうな、かわいそうに。と人は言うかもしれんが、ワシはかわいそうになんかならへんで。お浄土に生まれさせていただくんやさかいな」

9日に通夜、10日に葬儀が大阪の津村別院で執り行われたとき、おつとめの前に、まず天岸浄圓先生の御法話から始まった。演台の前に進まれた先生は、その左後方にある和上の巨大な御遺影に向かって深々とお礼をされ、涙をこらえながら、呼びかけるようにおっしゃった。
「和上、御往生おめでとうございます」
そこに師弟一味の信心があった。また人びとの語り草になっていくであろう。

 

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