天上の月影

勅命のほかに領解なし

再説・「七箇条制誡」連署名(1)

2018年11月06日 | 勉強日誌
三、方法論(二)

 その巻中末に収録されているのが「七箇条制誡」である。それは元久元年(一二○四)冬、比叡山の衆徒が法然の説く専修念仏を停止するよう天台座主・真性(一一六七~一二三○)へ訴えた。そこで法然は同年十一月七日、七箇条にわたる制誡を門下に示し、遵守するよう連署せしめたものである。これについてかつて疑撰説が唱えられたことがあったが、まず真撰と見て間違いないであろう(1)。原本が京都嵯峨の二尊院に所蔵されている(2)。それを『西方指南抄』本と対照すると、とくに連署名に相違がある。親鸞の真蹟本も真仏の書写本も次のようである。
信空  感聖  尊西  証空
  源智  行西  聖蓮  見仏
  導亘  導西  寂西  宗慶
  西縁  親蓮  幸西  住蓮
  西意  仏心  源蓮  蓮生(レンセイ)
  善信  行空  已上
     已上二百余人連署了(3)
ここに「二百余人」といわれているが、二尊院本では百九十名の連署である(4)。しかし二尊院本を写真版で見ると、第百九十番目の「向西」のあとに余白がなく、一紙ほど欠落しているように見える。そこで元々は「二百余人」の連署があったのかもしれない(5)。そのうち『西方指南抄』は二十二名だけ記し、あとを省略している。そして第十九番目の「源蓮」までは二尊院本とまったく同じである。ところが第二十番目の「蓮生(レンセイ)」は二尊院本では第八十九番目にあり、第二十一番目の「善信」は「僧綽空」として第八十七番目にあり、第二十二番目の「行空」は第四十番目に記されている(6)。そして「已上」と締めくくられている。ここである。『西方指南抄』が親鸞の編集であっても転写であっても、「行空 已上」について親鸞も真仏も納得しているのである。異論はなかったのである。この点に着目して、私は第一節で従来の行空観に疑問があるといったのである。
 それをもう少し詳しく述べよう。私はこの最後の三人の部分に親鸞の意思がはたらいていると思う。松野純孝氏は、「親鸞は第十九番目の源蓮まで忠実に原本どおりに書写し、この辺で打ち切り、第二十番目に自分の名『善信』を記して、あとの連署者二百名足らずを略そうとして、『已上二百余人連署了』としたのであろう。ところで、第二十番目に『善信』と記そうとしたが、蓮生房熊谷直実を忘れることができずに、自分の前に『蓮生』を記し、そして次に『善信』と記した。ところが、また行空のことが思い出されて、『行空』と書き加えたのではなかろうか。おそらく蓮生房熊谷直実や法本房行空は、親鸞の吉水時代の友として、特に生涯忘れることのできなかった人たちではなかったか(7)」といわれ、霊山勝海氏もそれを「事実に即していると思う(8)」といわれている。しかし私は「源蓮」まで記して、「この辺で打ち切り」という気まぐれ的なものであったとは思わない。「西意、仏心、源蓮、蓮生(レンセイ)」と記して改行し、その「西意」の横に自分の名「善信」を並べようとしたのではないかと思うのである。というのは、西意について詳しいことはわからないが、覚如(一二七○~一三五一)の『口伝鈔』第一条によれば、土御門院の御宇(一一九八~一二一○)、宮中で七日の逆修が行われるとき、聖覚(一一六七~一二三五)を唱導として、聖道門の外に別して浄土宗があることを論破させようとする勅請があった。これを聞いた法然は、事は重大であるとして、そのような主張がなされないよう、聖覚のもとへ使者をつかわすことにした。そこで親鸞が適任であると選ばれたが、重要な任務のため、親鸞は同行者を求めた。法然は「もつともしかるべし」といって、西意善綽房をさしそえたというのである(9)。これは親鸞の吉水時代における名誉を高調する逸話であろうが、覚如の創作でなく、親鸞と西意が聖覚を訪ねたとき、ちょうど聖覚は沐浴中で、急いで対面したというのはリアルである。龍口恭子氏は、「このように日常生活の描写を入れているのは、この話を単なる親鸞の行蹟の讃嘆に終わらせず、事実の叙述したものとして、より鮮明に印象づけている(10)」といわれている。ともあれ、ここで親鸞は西意と行動を共にしている。それはこのとき一回だけであったかもしれないが、二人は同じグループに属し、同志の間柄であったのではなかろうか。静見(一三一四~一三八三)の『法水分流記』には親鸞の次に「善綽」として西意を記している(11)。また武田正晋氏によれば静岡県撰要寺所蔵の『選択集入紙』には「善綽房の本で校合した」という記事があることを紹介され、西意も『選択集』を持っていたことになるといわれている(12)。西意が『選択集』の伝授を受けたという記録はないので、真偽のほどはわからないが、もし事実であれば親鸞の同志としてふさわしいであろう。さらに「善綽房」という房号から見ても、親鸞の「善信房」と並び、同志であった可能性は高いと思われる。


(1)坪井俊映氏「初期法然教団における法難について─特に七ヶ条制誡・送山門起請文の成立について─」(『印度学仏教学研究』六─一、一九五八年)は、「七箇条制誡」を「送山門起請文」とともに念仏迫害を避けるため嘉禄の法難以後、『四巻伝』成立の嘉禎三年(一二三七年)までの間に嵯峨門徒によってなされた偽作としている。しかしすぐに大橋俊雄氏「七箇条起請文偽撰説を疑う」(『印度学仏教学研究』七─一、一九五八年)、同氏「法然上人に於ける制誡と勧誡─特に制誡関係書の真偽撰と制誡内容を中心として─」(『日本仏教』六、一九五九年)、香月乗光氏「七箇条起請文と送山門起請文とについて─その偽作説に対する反論─」(『仏教文化研究』八、一九五九年)の反論が出た。のちに坪井氏も『法然浄土教の研究─伝統と自証について─』(隆文館、一九八二年)七二九頁に自説を訂正されている。
(2)辻善之助氏『日本仏教史 第二巻 中世篇之一』(岩波書店、一九四七年)三一七頁、鷲尾順敬氏「法然上人七箇条起請の原本検討」(『現代仏教』九─九八、一九三二年、のち同氏『日本仏教文化史研究』〈冨山房、一九三八年〉所収)、香月乗光氏「各種法然上人伝所載の七箇条起請文について」(『法然上人伝の成立史研究 第三巻(研究編)』〈臨川書店、一九九一年復刻〉)など。
(3)『西方指南抄』巻中末「七箇条制誡」(『親鸞聖人真蹟集成』五・四○二~四○三頁、『影印高田古典』五・四三五~四三七頁、『真宗聖教全書』四・一五五~一五六頁)
(4)「七箇条制誡」(『昭和新修法然上人全集』七九○~七九三頁)
(5)中野正明氏『増補改訂 法然遺文の基礎的研究』(法蔵館、二○一○年)四○○頁参照。なお「七箇条制誡」の写真版は、法然上人伝研究会編『法然上人伝の成立史的研究 第三巻(研究編)』(臨川書店、一九九一年復刻)一八六頁、中野正明氏『前掲書』三九九頁などに掲載されている。
(6)「七箇条制誡」(『昭和新修法然上人全集』七九一~七九二頁)。なお、この連署名では十人ごとに「十人」「廿」と注記されているが、「八十」の註記は実際は八十一人目で、以下、一名づつずれていることに注意しておかねばならない。
(7)松野純孝氏『親鸞─その生涯と思想の展開過程』(三省堂、一九五九年)九九頁。
(8)霊山勝海氏「『西方指南抄』の編者について」(『真宗研究』二三、一九七九年、のち『西方指南抄論』〈永田文昌堂、一九九三年〉所収、三五頁)
(9)『口伝鈔』第一条(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』八七一~八七三頁)
(10)龍口恭子氏「親鸞と聖覚」(浅井成海氏編『法然と親鸞─その教義の継承と展開─』〈永田文昌堂、二○○三年〉所収)
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