天上の月影

勅命のほかに領解なし

本願力回向の宗義(6)

2019年01月12日 | 勉強日誌
 なお、ここで「他力」ということについて触れておきたいと思います。近年、「他力」あるいは「他力本願」という言葉は誤った用い方がなされています。他力本願ではダメだ、自力本願でなければならない、などといわれるごとくです。そのときの「他力本願」は棚からボタ餅のような、自分は何もせず、他人まかせにするといった意味でしょう。けれども「他力本願」という言葉は、親鸞聖人の上では『唯信鈔文意』に「これすなはち他力本願無上のゆゑなり」(『註釈版』七○七頁)とあり、『親鸞聖人御消息』第二六通に「他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし」(『註釈版』七八五頁)といった用例があります。蓮如上人はもっと多用され、一、二を挙げれば『御文章』三帖目第二通に「そもそも、阿弥陀如来の他力本願をばなにとやうに信じ」(『註釈版』一一三六頁)とあり、同じく三帖目第三通にも「これによりて阿弥陀如来の他力本願と申すは」(『註釈版』一一三九頁)などとあります。おそらくこの蓮如上人の多用が一般に普及し、やがて誤用されるようになったのではないかと思われます。けれども親鸞聖人にせよ蓮如上人にせよ、「他力本願」とはいわれますが、「自力本願」といわれた例はありません。「他力本願」の他力の対語である自力を加えて「自力本願」という言葉を勝手に造ったのです。「本願」の意味は既に述べたとおりですから省略し、問題になるのは自力と他力です。自力は自分の力であることはいうまでもありません。それに対すると、他力は他人の力と思ってしまいます。実際、『蓮如上人御一代記聞書』第一条には「されば他力とは他のちからといふこころなり」(『註釈版』一二三一頁)といわれています。ただしそれは通俗的にいわれただけで、親鸞聖人は「行文類」他力釈に、

他力といふは如来の本願力なり。(『註釈版』一九○頁)

と定義されています。親鸞聖人がAはBであるといわれたとき、AはB以外の何ものではないということを意味します。したがって「他力」という言葉は阿弥陀仏の本願力だけを指すのです。それ以外は決して「他力」とはいわないわけです。他人の力はどこまでも他人の力です。それを「他力」と誤用するのは、他の力、と考えるからです。けれども親鸞聖人の場合は、実は利他力のことで、「利」が省略されているのです。その利を加えて利他力、他を利する力という意味で使われているのです。阿弥陀仏は自他一如のさとりを開かれていますから、自も他もないのですが、いちおう阿弥陀仏を自とし、他である私たちを救う力、それが他力です。このとき主体と客体が逆転していることに注意しなければなりません。他の力といったときは、主体は私たちです。客体は他の人です。その他の人の力を「他力」と誤用しているのです。いまは利他力です。阿弥陀仏が主体になって他である私たちを救う力、それが本来の「他力」です。私たちは客体なのです。そしてその「他力」を「如来の本願力なり」とおさえることは、他力=本願力、ということです。本願力は私たちを往相させ、還相させるものでした。そこで「正信偈」には、

往還回向由他力(往還の回向は他力による)(『註釈版』二○六頁)

といわれているのです。『教行証文類』は浄土真宗という宗名から往相・還相を開いていました。『浄土文類聚鈔』は本願力回向から往相・還相を開いていました。「正信偈」はその往相・還相は他力によるというのです。それは『教行証文類』や『浄土文類聚鈔』とは言い方が違い、往相・還相の本源は他力であると述べられたものですが、意味に変わりはありません。そこで浄土真宗=本願力回向=他力ということになりますから、他力の誤用は許されるものではないわけです。あくまで他力とは利他力であり、阿弥陀仏の本願力を指すとおさえていただきたく思います。
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