天上の月影

勅命のほかに領解なし

親鸞聖人伝の疑問(3)

2018年02月16日 | 水月随想

親鸞聖人は越後流罪ののち赦免となって関東におもむかれました。その途中、佐貫というところで三部経千部読誦を発願したけれども、四・五日して中止したことが『恵信尼消息』に伝えられています。

この十七八年(=一二一四、五年)がそのかみ、げにげにしく三部経を千部よみて、すざう利益のためにとてよみはじめてありしを、これはなにごとぞ、〈自信教人信難中転更難〉(礼讃)とて、みづから信じ、人を教へて信ぜしむること、まことの仏恩を報ひたてまつるものと信じながら、名号のほかにはなにごとの不足にて、かならず経をよまんとするやと、思ひかへしてよまざりしことの、(中略)三部経、げにげにしく千部よまんと候ひしことは、信蓮房の四つの歳、武蔵の国やらん、上野の国やらん、佐貫と申すところにてよみはじめて四五日ばかりありて、思ひかへしてよませたまはで、常陸へはおはしまして候ひしなり。

先学の研究がきっとあると思いますが、私はまだ見ておりません。ただ素朴に疑問に思っているだけです。なぜ聖人は「名号のほかにはなにごとの不足にて、かならず経をよまんとするやと、思ひかへして」佐貫をあとにしたのでしょうか。補足しますと、なぜ佐貫で名号、お念仏の教えを説かず、常陸におもむかれたのでしょうか、ということです。飢饉で苦しむ佐貫の人々を見捨てたように感じられます。ただ少し私なりに思うところもあるのですが、疑問として記しておきます。

 

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親鸞聖人伝の疑問(2)

2018年02月15日 | 水月随想

昨日、親鸞聖人に質問の手紙を送った門弟には訛りが見られないと述べました。おそろく文章を学んだのでしょう。けれどもそれは一部の人で、大部分は文字も知らない人々であったと思います。有名な『一念多念文意』や『唯信鈔文意』の最後には、

ゐなかのひとびとの文字のこころもしらず、あさましき愚痴きはまりなきゆゑに、やすくこころえさせんとて、おなじことをとりかへしとりかへし書きつけたり。こころあらんひとは、をかしくおもふべし、あざけりをなすべし。しかれども、ひとのそしりをかへりみず、ひとすぢに愚かなるひとびとを、こころえやすからんとてしるせるなり。

といわれいます。聖人のお心はわかりますが、「ゐなかのひとびと」を「文字のこころもしらず」、とくに「あさましき愚痴きはまりなきゆゑに」といわれているのはどうでしょう。何か非常に上から目線のように思われます。実際、教養の面からいえばそうなのでしょうが、慈円が『愚管抄』に、

又建永の年、法然房と云(いふ)上人ありき。(中略)不可思議の愚癡無智の尼入道によろこばれて、

といい、「愚痴無智の尼入道」と見下しているのと同じように感じられます。聖人は民衆に目を向けながら、実は「こころあらんひと」を念頭に置いているようです。それでも「やすくこころえさせんとて、おなじことをとりかへしとりかへし書きつけたり」なのですが、『一念多念文意』や『唯信鈔文意』の読者は「あさましき愚痴きはまりなき」「愚かなるひとびと」といわれて、教養の格差を感じ、ここまで「やすくこころえさせん」としてくださったのかと思ったのでしょう。けれども聖人が「あさましき愚痴きはまりなき」といわれる点に、

れふし・あき人、さまざまのものは、みな、いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり。(『唯信鈔文意』)

という言葉と異質なものを感じるのは私だけでしょうか。

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親鸞聖人伝の疑問(1)

2018年02月14日 | 水月随想

親鸞聖人の御生涯には多くの問題があります。いまは先学の方々が焦点を合わせて議論されている問題ではなく、私が素朴に思う疑問を取り上げることにします。読者諸賢から御教示、御助言をいただければ、と思います。

まず現代はテレビなどが普及して、日本全国どこに行っても言葉が通じますが、学生時代、地方から来ている友人が実家に電話しているのを横で聞いていると、まったく何をいっているのかわかりませんでした。いわゆる方言です。中世はどうだったのでしょうか。親鸞聖人は三十五歳のときに承元(建永)の法難に連座して越後に流罪となりました。またその後、二十年間を関東で過ごされました。言葉が通じたのでしょうか。すごく疑問に思います。ただ関東の門弟からの質問のお手紙を見ますと、どこにも方言らしきものは感じられません。中世といっても少し教養のある方は標準語のようなものを習得していたのでしょうか。そして彼らが通訳のような役割をはたしたのでしょうか。聖(ひじり)の存在が想起されますが、親鸞聖人が越後や関東で言葉が通じたのかということを素朴に疑問に思うのです。

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行空上人と天台本覚思想ノート(13)

2018年01月31日 | 水月随想

論文化してみました。

    一、はじめに

 法本房行空(生没年不詳)は法然門下のなかで成覚房幸西(一一六三~一二四七)とともに一念義の代表的人物として知られているが、先行研究において一念義と天台本覚思想との関連が指摘されている。たとえば田村芳朗氏は、
    とくに、『一念義』などは、天台本覚思想とむすびつき(後略)
    一念義は、天台の不二本覚思想との融合による産物とみらるべく(後略(1))
といわれ、末木文美士氏も、
    本覚思想の影響の著しい法然門下の一念義が(後略(2))
といわれているごとくである。ところが平雅行氏は、
    一念義が天台本覚思想の影響の下で形成されたという論者が多いが、従いがたい。(中略)むしろ一念義は本覚論の否定として把握すべきだろう(3)。
といわれ、真っ向から意見が対立している。いずれが当を得ているのであろうか。ただし一口に一念義といっても種々の義がある(4)。幸西のような深遠な教説から(5)、相続開会と呼ばれる邪説までである(6)。そうしたなかで天台本覚思想の影響というとき主として幸西の一念義のことのようであるが(7)、いまは行空について検討してみたい。重松明久氏が行空は般若系口伝法門の伝統に立って一念義を唱えたのではないかといわれ(8)、さらに行空の法本房という房号を天台本覚思想の文献である『漢光類聚』に「三千法本有、而一念名法性常寂」というごとき意味の法本からとったものかと思うとまでいわれているからである(9)。

(1)田村芳朗氏『鎌倉新仏教思想の研究』(平楽寺書店、一九六五年)二○九、五二一頁。
(2)末木文美士氏「中世天台と本覚思想」(同氏『日本仏教思想史論考』〈大蔵出版、一九九三年〉三一六頁)。同様の文言が同氏『鎌倉仏教形成論〈思想史の立場から〉』(法蔵館、一九九八年)三八三頁にもある。
(3)平雅行氏『日本中世の社会と仏教』(塙書房、一九九二年)三二二頁。
(4)たとえば山上正尊氏『一念多念文意講讃』(為法館、一九五六年)八一頁には一念義を分類して十種を数えられている。
(5)梯實圓氏『玄義分抄講述─幸西大徳の浄土教─』(永田文昌堂、一九九四年)参照。ほかに住田智見氏『浄土源流章解説』(法蔵館、一九二五年、一九八二年再刊)、安井広度氏『法然門下の教学』(法蔵館、一九四三年復刊)、石田充之氏『法然上人門下の浄土教学の研究』上巻(大東出版社、一九七九年)などがある。
(6)弁長が『念仏名義集』巻中(『浄土宗全書』一○・三七六頁)に伝えている。
(7)たとえば望月信亨氏『浄土教概論』第十八章「一念往生説と天台の本覚思想」(東洋文化出版、一九四○年)二二○~二三○頁、田村芳朗氏『鎌倉新仏教思想の研究』(平楽寺書店、一九六五年)五三七~五三八頁、石田瑞麿氏「一念義と口伝法門」「幸西の四捨行について」(同氏『日本仏教思想研究3 思想と歴史』〈法蔵館、一九八六年〉所収)、同氏『浄土教の展開』(春秋社、一九六七年)二八二~二八五頁など。ただし石田氏の幸西における四捨行については末木文美士氏『日本仏教思想史論考』(大蔵出版、一九九三年)二九五~二九六頁に批判されている。
(8)重松明久氏『日本浄土教成立過程の研究─親鸞の思想とその源流─』(平楽寺書店、一九六四年)三八三、三九○、三九二、四○○、四○四、四一七、四三九、六五一頁。同氏『親鸞・真宗思想史研究』(法蔵館、一九九○年)五六頁。なお氏は行空が般若系口伝法門であるのに対し、幸西を法華系口伝法門の影響を受けているといわれるが、その「法華系」「般若系」について、花田充道氏『天台本覚思想と日蓮教学』(山喜房佛書林、二○一○年)五三八頁には「私としては、重松氏のこのようなカテゴリー化による論述は、単に本人の主観に基づくものであって、学問的に承認されたものではない、とだけ言っておきたい」と評されている。
(9)重松明久氏『日本浄土教成立過程の研究─親鸞の思想とその源流─』(平楽寺書店、一九六四年)四三九~四○○頁。『漢光類聚』の文は『岩波日本思想大系九 天台本覚論』三八七頁。ただし『漢光類聚』の成立について重松氏は「鎌倉期のものらしい」といわれるだけであるが、田村芳朗氏「天台本覚思想概説」(『岩波日本思想大系九 天台本覚論』五四○~五四一頁)は「鎌倉中期一二五○~鎌倉末期一三○○」とされ、花田充道氏『天台本覚思想と日蓮教学』(山喜房佛書林、二○一○年)六○八頁も「鎌倉中期ごろ」とされているから、行空の房号の出拠は容認できない。

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行空上人と天台本覚思想ノート(12)

2018年01月21日 | 水月随想

昨日のまとめを400字の小論文にしてみました。

 法本房行空は法然門下の中で一念義の代表的人物である。先行研究において一念義と天台本覚思想の関連が指摘されているが、一念義はいずれの義も弥陀の本願を望んで主張しているのに対し、本覚思想は『真如観』でいえば我心即真如の理に基づいている。ここに根源的な相違があると思われる。行空の義は必ずしも明らかでないが、『三長記』に「一念往生の義を立つ」等と「往生」とあるから、彼此相待の二元論の義であったと見られる。鎮西派では弁長が「寂光土の往生」等と伝える義を行空所立とし、念仏に称念と理念の二種を立てたと解釈する。それは本覚思想の常寂光土義との混同も考えられる。しかし行空が専修念仏のほかに理念を唱えたとすれば、広く民衆に受容されるはずはないし、興福寺から「偏執、傍輩に過ぐ」と糾弾されることもなかったであろう。行空の一念義は本覚思想の影響より、あくまで法然の安心門における廃立義を徹底したと見るべきであると思う。

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行空上人と天台本覚思想ノート(11)

2018年01月20日 | 水月随想

まとめるのはまだ早いですが、いちおう次のように考えているということを示したいと思います。出発点は平雅行氏『日本中世の社会と仏教』(塙書房、一九九二年)三二二頁に、

一念義が天台本覚論の影響の下で形成されたという論者が多いが、従いがたい。
 
といわれていることにあります。それを踏まえ、
 
1,行空が一念義の代 表的人物であることは周知の通りですが、
どのような一念義でも弥陀の本願を望んで主張しているのに対し、
本覚思想は法然の遺文に出る『真如観』でいえば、
我心即真如の理という一元論に基づいています。
ここが根本的に相違するところと考えます。
 
例)
『西方指南抄』巻下本「基親取信信本願之様」
・或人、本願を信ずる人は一念なり、しかれば五万辺無益也、本願を信ぜざるなりと申す。
『漢語灯録』巻十「遺北陸道書状」(ただし真偽の問題あり)
・弥陀の本願を憑みたてまつる者は、五逆を憚ること勿れ、心に任て之を造れ。
・心に弥陀の本願を知れば身に必ず極楽に往生す、浄土の業、是に於て満足す。
 
 
『真如観』(『岩波日本思想体系9 天台本覚論』一二○頁)
・疾く仏に成らんと思ひ、必ず極楽に生んと思はゞ、我心即真如の理也と思べし。
・哀哉、我等無間地獄に堕せん事も、極楽世界に生ぜん事も、
只此度の心に任たりと。我等則真如なり。信ぜずは決定して地獄にをちなむ。
深信じて疑ずば極楽に生なむ。
既に極楽に生じ、地獄にをちん事、真如を、信じ信ぜざるとの不同に、よるべし。(『同』一二三頁)
 
註)『真如観』は即身成仏とともに往生極楽も説いています。
それは現身往生でもあるようです。
・されば我本極楽を欣ふ□□□并彼土の弥陀如来・一切聖聚菩薩も、
皆悉我身中に坐ま す故に、遠く極楽世界に行ず。
され共、此土に有ながら極楽に生れりといへ共、
真如の理を知ざれば、我身弥陀如来と其体不二也と知ざればかひなし。(『同』一四二頁)
 
2,行空は『三長記』元久三年二月十四日条に、
「法々房は一念往生の義を立つ」
「其の操行に於ては、縦ひ不善たりと雖も、勧むる所、執ずる所は、
只だ念仏往生の義也」
といわれています。
「一念往生」「念仏往生」と「往生」という限り、
あくまで彼此相待の二元論に立っていたとうかがわれます。
 
3,鎮西派の祖・弁長の『末代念仏授手印』裏書に、
 
「寂光土の往生、尤も是れ殊勝なり。
称名往生は是れ初心の人の往生な り。寂光土往生は尤も深きなり」
 
という義があったことを伝えています。(『念仏名義集』巻下は少し文言が異なる)
 
それを行空の義と明言したのは、
弁長の曾孫弟子にあたる良心(?~一三一四)で、
『授手印決答巻下受決鈔』(『浄土宗全書』一○・一二二頁)に、
「美濃国の法報房と云ふ人、此の義を立つ〔云云〕」といっています。
そして、
「或人云等とは極楽世界に於て体相同じからず。
称名をば相の土に属して浅と為す。寂光浄土を欣ふは理解、因と為すべし。
何ぞ称名の事行を要と為すや」
と解釈し、
 
それによって妙瑞(?~一七七八)は
『鎮西名目問答奮迅鈔』巻第 一(『浄土宗全書』一○・四三三頁)のなかに、
「念仏に於て称念理念の二種を立て」とあります。
 
その「理念」は本覚思想の三重七箇法門中に娑婆即寂光と説く、
常寂光土義との混同ではないかと思われます。
 
4,しかし行空が専修念仏のほかに「理念」を説いたとすれば、
民衆に受け入れられることはなかったであろうし、
『三長記』元久三年二月二十二日条の、
興福寺から「偏執、傍輩に過ぐる」と弾劾されることはなかったであろうと思います。
 
5,したがって行空の一念義は、天台本覚思想の影響というより、
あくまで法然の安心門における廃立義を徹底したものと考えます。
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行空上人と天台本覚思想ノート(10)

2018年01月18日 | 水月随想

ただ『真如観』で興味深いのは、往生極楽を説いている点です。先に平雅行氏が指摘された『三十四箇事書』では明確に往生を否定していましたが(一六八頁)、『真如観』は「疾く仏に成らんと思ひ、必ず極楽に生んと思はゞ、我心即真如の理也と思べし」(一二○頁)とあり、「必ず極楽に生んと思はゞ」といっています。そして、

又真如を観ぜん者、極楽に生と思はゞ、心に任て決定して生む事疑なし。其故はは、仏に成ん事は極て難し。自行化他の無量の功徳、法界に満て仏に成が故也。極楽に生む事極て易し。悪業を作る者も、命終の時、心を至て、一々に十度南無阿弥陀仏と唱れば、必ず生る。(一二一頁)

故而(かるがゆへにしかる)に真如を観ずれば、成難き仏にだにも、とく成。況や生じ易き極楽に生む事、決定して疑なし。されば、必生ぜんと思はん者は、只真如を観ずべし。(一二一頁)

哀哉、我等無間地獄に堕せん事も、極楽世界に生ぜん事も、只此度の心に任たりと。我等則真如なり。信ぜずは決定して地獄にをちなむ。深信じて疑ずば極楽に生なむ。既に極楽に生じ、地獄にをちん事、真如を、信じ信ぜざるとの不同に、よるべし。(一二三頁)

又娑婆世界人は、必極楽を願べし。有縁の国なるが故也。されば、我も口には弥陀の名号を唱へ、一心に真如の理を思へば、須臾の間に仏に成。況や弥陀宝号を唱れば、念念に、八十億劫の生死の罪を滅、十念成就すれば、決定して極楽に生る。殊勝の功徳にかねて真如を観ぜむは、云ふ限りに非ず。(一四一~一四二頁)

などといっています。往生極楽は「真如を、信じ信ぜざるとの不同に、よるべし」といいますが、また念仏往生も説いています。「命終の時、心を至て、一々に十度南無阿弥陀仏と唱れば、必ず生る」とあり、るのがそれです。

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行空上人と天台本覚思想ノート(9)

2018年01月17日 | 水月随想

というのは、先に取り上げた法然の遺文に出てくる『真如観』でいえば、まず最初に『摩訶止観』巻第一上(『大正新脩大蔵経』四六・一頁下)の「一色一香無非中道。己界及仏界衆生界亦然」の文を挙げ、その「中道」について「異名、一にあらず。或真如・実相・法界・法身・法性・如来・第一義となづく」といい、「此等の多(おほく)の名の中に、且く真如と云(いふ)名によせて、諸経論の中に多く明せる中道観の義を明すべし」といっています(『岩波日本思想体系九、天台本覚論』一二○頁、以下、頁数のみ記す)。異名は多いがいまは「真如」の語によって「中道観の義」を明かすというのです。つまり観法です。実際、「真如を観ぜん者」「真如を観ずれば」(一二一頁)、「真如観」(一二八頁)、「真如を観ずるより」(一三三頁)などといっています。法然が「われら衆生は、えせぬ事にて候ぞ」(『真宗聖教全書』四・六四六頁)というのは、われら衆生にとって堪えられない行法であるからです。それに対して勝易二徳を具した本願の念仏を説いたのでした。

そして『真如観』は、

疾く仏に成らんと思ひ、必ず極楽に生んと思はゞ、我心即真如の理也と思べし。(一二○頁)

といいます。「我心即真如の理」が全体の底を流れています。これが天台本覚思想です。

此思を成す時、万法は心が所作なりければ、万行を一心に具し、一念に一切の法をしる、此を坐道場とす。此を成正覚と云也。此を捨ずして仏に成れば、此を即身成仏といふ。(一二一頁)

今我等は骨もくだかず、命をも捨ずして、只我真如なりと思ふ計の事によりて、須臾に仏に成ると云ふ、(一二八頁)

仏に、とく成る事は、真如を観ずるより外に、余事なかりけりと知ぬ。万(よろづ)の善悪の事、皆真如の障と成事なしとしりぬ。(一三三頁)

などといっています。「我心即真如」と知ることによって即身成仏するというのです。

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行空上人と天台本覚思想ノート(8)

2018年01月14日 | 水月随想

ところで「遺北陸道書状」には真偽の問題があります。いまはそれについて触れませんが、ただ行空の義とされる、

弥陀の本願を憑みたてまつる者は、五逆を憚ること勿れ、心に任て之を造れ。(『真宗聖教全書』四・五三七頁)

という文も、幸西の義とされる、

心に弥陀の本願を知れば身に必ず極楽に往生す、浄土の業、是に於て満足す。(『同』四・五三九頁)

という文にも、「弥陀の本願」とあることに注意すべきです。確実な資料である『西方指南抄』巻下本「基親取信信本願之様」にも、

或人、本願を信ずる人は一念なり、しかれば五万辺無益也、本願を信ぜざるなりと申す。(『同』四・二一一頁)

とあり、それに対する法然の返書のなかにも、

またふかく本願を信ずるもの、破戒もかへりみるべからざるよしの事、これまたとはせたまふにもおよぶべからざる事か。(『同』四・二一二頁)

とあります。『西方指南抄』巻下本「光明房に答ふる書」には、


『雙巻経』の下に「乃至一念信心歓喜」といひ、また善導和尚は「上尽一形下至十声一声等定得往生乃至一念無有疑心」といへる、これらの文をあしくぞ、みたるともがら、大邪見に住して申候ところなり。(『同』四・二○八頁)

とあります。そこで数遍無益あるいは破戒もよしとする一念義といっても、「弥陀の本願」を根拠にしながら、「あしくぞ、みたる」ところから出ているのです。言い換えれば「弥陀の本願」の誤解です。ただ誤解といっても、「弥陀の本願」を前提にしているところが天台本覚思想と根本的に違うといえましょう。

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行空上人と天台本覚思想ノート(7)

2018年01月13日 | 水月随想

なお、これについて『漢語灯録』巻十「遺北陸道書状」にも注意しておきたいと思います。末尾に「承元三年〔己巳〕六月十九日 沙門源空 御判」とありますから、法然が箕面の勝尾寺に滞在中に書かれたというものです。そのなかに北陸道の一人の誑法者が次のようにいったとあります。

法然上人七万遍の念仏は、是れ只だ外の方便也。内に実義有り、人未だ之を知らず。謂ふ所は心に弥陀の本願を知れば身に必ず極楽に往生す、浄土の業、是に於て満足す。此の上何ぞ一念に過ぎん。一辺なりと雖も重ねて名号を唱ふべけんや。彼の上人の禅房に、門人等、二十人有り。秘義を談ずる処には、浅智の類は、性鈍にして未だ悟らず、利根の輩、僅に五人有り、此の深法を得。我は其の一人なり。彼の上人、己心中の奥義なり。容易く之を授けず、器を択で伝授せしむべしと。(『真宗聖教全書』四・五三九頁)

法然の七万遍の念仏は方便で、内に実義、深法、己心中の奥義があるというのです。それは「心に弥陀の本願を知れば身に必ず極楽に往生す、浄土の業、是に於て満足す」とあるものでしょう。この「弥陀の本願を知れば」というのは天台本覚思想に似ています。ただし円智・義山『円光大師行状画図翼賛』巻二十九(『浄土宗全書』一六・四五四頁)には凝然の『浄土法門源流章』によって幸西の義と見ています。妙瑞の『鎮西名目問答奮迅鈔』巻第四にも「已上眉(=妙瑞)云く、上来挙ぐる所の邪義の法門は其の張本を言はば是れ幸西の義也。其の末流を言はば是れ愚禿所立の義也」(『浄土宗全書』一○・五三四頁)といっています。妙瑞はいまの『鎮西名目問答奮迅鈔』巻第一や『徹選択集私志記』巻上に法然門下を「正義」「不正義」「邪義」と分けるなかで、幸西・行空・親鸞の三人を「邪義」と判じています(『浄土宗全書』一○・四三三頁、『同』八・一一五頁)。そのうちの幸西・親鸞の所立としているわけです。行空はその次に寂光土義を出しています。もっとも懐音は『諸家念仏集』巻之八に「遺北陸道書状」の最初に出てくる「姧しく一念の偽法を弘めて、無行の過を謝すこと無し。剰へ無念の新義を立てて、猶ほ一称の少行を失ふ」を行空の所立と見ています(『浄土宗全書』一五・七八八頁)。「心に弥陀の本願を知れば」については触れていません。したがって鎮西派の理解のおいて「遺北陸道書状」から天台本覚思想を導こうとすれば、幸西ということになります。

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行空上人と天台本覚思想ノート(6)

2018年01月11日 | 水月随想

それは天台本覚思想ではないでしょうか。黒田俊雄氏は、

顕密主義の最も典型的なものとしてここでふれておきたいのは、おそらく院政期に本格的に展開しはじめたとみられる、かの天台本覚法門である。(『同氏著作集 第二巻 顕密体制論』七六頁)

天台本覚思想が顕密主義の典型であり、(『同』七八頁)

といわれています。法然当時、天台本覚思想が盛行していたのです。『和語灯録』巻五「百四十五箇條問答』の第三問答に、

一。この真如観はし候べき事にて候か。(『真宗聖教全書』四・六四六頁)

という問いが出ています。それに続く第四問答には『空観』が問われています。その法然の答えのなかに、「女房なんどの」という文言がありますので、梯實圓氏『法然教学の研究』四二七~四二八頁には、

これによって質問者は宮廷か貴族に仕えている女房だったということがわかる。すなわちおそくとも十三世紀の初めには、すでに女房たちが読むことができるほど一般化していたのであるから、……

といわれています。法然の周囲に『真如観』や『空観』の理観をすべきかどうか問う人たちがいたわけです。それは「女房なんどの」質問ではあるけれども、その質問をする背後には理観を説く者がいたからに違いありません。すなわち天台本覚思想の一般化がうかがわれます。黒田俊雄氏のいわれる「顕密主義の典型」です。それを愚痴のもののために念仏が説かれたという者に合わせると、有智の人には天台本覚思想の理観があると考えていたと思われます。図示してみると、

愚痴の人……念仏

有痴の人……理観(天台本覚思想)

ということになりましょう。

 

 

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行空上人と天台本覚思想ノート(5)

2018年01月10日 | 水月随想

弁長が伝える寂光土義をよく見ると、『末代念仏授手印』と『念仏名義集』とでは少し違いがあります。『名義集』は「或る人は寂光土の往生を立つる。此の学文を我に随てせよ。若し此の心を知らずして念仏申さん者は往生すべからずと申す」ですから、裏返せば、我に随い学文して此の心を知り念仏すれば往生するとなります。そのときの念仏は「申さん者」ですから、称名念仏とうかがえます。そして「此の心を知り」とは、おそらく親鸞の言葉でいえば「仏願の生起本末」のことであろうと思われます。つまり本願を聞信して称える念仏と不信の念仏が立ちます。「寂光土の往生」というのが問題ですが、不信の念仏では往生できないと語っているのが『名義集』といえるでしょう。

ところが『授手印』のほうでは「称名往生は是れ初心の人の往生なり」といっています。称名を「初心の人」というのです。『名義集』と合わせると、いまだ仏願の生起本末を聞信していない不信の称名と考えられますが、「初心の人」というとき、機に利鈍が立つようです。すなわち、称名往生は鈍根の者ということです。無智の者といってもいいでしょう。彼らのために称名が説かれたということになります。それはそれで間違いではありません。

ただ、その背景として『西方指南抄』巻下末「津戸三郎に答ふる書」(『真宗聖教全書』四・二五五頁)には、

くまがやの入道・つのとの三郎は、無智のものなればこそ、念仏おばすゝめたれ、有智の人には、かならずしも念仏にかぎるべからずと申よし、きこえて候覧、きわめたるひが事に候。

『拾遺語灯録』巻中「津戸へつかはす御返事」(『真宗聖教全書』四・七三三頁)にも、


無智の人にこそ、機縁にしたがひて念仏をばすゝむる事にてはあれと申候なる事は、もろもろの僻事にて候。

すなわち、熊谷直実や津戸三郎は無智の者であるから念仏を勧めたといった者がいたようです。しかし法然の説く専修念仏は有智無智をえらばないのが根幹です。平等の慈悲に催されて建立され選び取られた本願の念仏であるからです。それゆえ「きわめたるひが事」「もろもろの僻事」と痛烈に批判しています。それでも念仏は無智の者のための行と考えていた人がいたことが上の消息によって確かめられます。

そうすると有智の者は何を行ずるのかという問いが出てきます。『西方指南抄』巻下本「実秀に答ふる書」(『真宗聖教全書』四・一八七頁)には、

ある人申していはく、いかなる罪をつくれども、念仏を申せば往生す、一向専修なるべしといふとも、ときどきは『法花経』おもよみたてまつり、また念仏申さむもなにかはくるしからむと申ければ、

とあります。念仏のほかに『法華経』の読誦をいったものがいたようです。しかしそれでは専修念仏になりません。安心門においてはあくまで称名が正定業です。「助さす」ことはなく、称名の「ひとりだち」です(『和語灯録』巻五「諸人伝説の詞」、『真宗聖教全書』四・六八二頁)。ところが念仏を無智の者のためと語る人にとっては、有智の者には念仏以外の行があると考えていたことになります。ではそれは何か、が問題になってきます。

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行空上人と天台本覚思想ノート(4)

2018年01月08日 | 水月随想

私が寂光土義を行空の所立と見る理由は次のとおりです。

①弁長は三人の義を挙げる直前に「然るに近代の人人、学文を先と為し、称名を物の員(かず)とも為ず、是れ則ち邪義也、邪執也」等といって、「称名を物の員(かず)」ともしない人々としている。②良忠(一一九九~一二八七)は弁長の言として、「然るに上人(=法然)御往生の後、一念義と云ふ事繁昌せんよりこのかた、小坂弘願義、世に興るに至てん、人皆先師の御遺誡に背き多くは念仏の行を廃す」といい、「一念義・弘願義を立つる輩ら数遍を廃す。此の義を痛んで授手印を作る也(1)」と伝えている。それを聖冏(一三四一~一四二○)は「一念義等とは成覚房幸西の異義也。(中略)小坂弘願義とは西山恵善(ママ)上人證空の異義也(2)」といっている。そこで『末代念仏授手印』は幸西と證空を意識して述作されたものであり、邪義とする三人の義の第一義・第二義は幸西・證空と見ていいであろう。③『末代念仏授手印』は三人を邪義と判じた次に、「日本国同時西方の行人先達」として顕真(一一三一~一一九二)・明遍(一一四二~一二二四)・法然(一一三三~一二一二)の三人の名を挙げ、「已上三人は同時の学生、三人倶に善導の御義に帰して、西方を願じたまふ。三人同時の学生、倶に数遍の行儀也」等といっている。ここで顕真・明遍・法然の三人を数遍を行じた先達とし、念仏を廃する邪義の三人と対比させている。そのうえ数遍の三人を「同時」の人と強調していることは、邪義の三人も同時代の人であると察せられる。つまり法然の直弟である。④そこで第三義は幸西・證空と肩を並べ得る直弟で、かつ弁長の目に念仏を廃すると映じた者となるから、行空しかいないであろう。『浄土宗要集』に行空が「念とは思ひとよむ、されば称名には非ず」といったのを「此は念仏を習はざる也」と批判しているからである(3)。ただし弁長は「上人(=法然)御往生の後」といい、「近代興盛の義」といっている。確かに幸西・證空の門流は栄えたが(4)、静見(一三一四~一三八三)の『法水分流記』によると行空には「覚住」という門弟がいるだけである(5)。しかも行空は承元(建永)の法難によって佐渡島へ流罪となり、おそらくそこで往生していたと思われる(6)。それでも弁長は念仏・数遍を廃する者として幸西・證空を挙げれば、行空も無視できなかったのであろう。行空が第三義になっている所以と思われる。

こうして決定的とはいえないまでも、まず行空の義と見ていいと考えています。

(1)『決答授手印疑問鈔』巻下(『浄土宗全書』一○・二八頁)
(2)『決答疑問銘心鈔』上(『浄土宗全書』一○・六二頁)
(3)『浄土宗要集』第五(『浄土宗全書』一○・二二八頁)
(4)幸西の門流は浄土教の典籍を開版したり、證空の門流は東山・嵯峨・深草・西谷の四流、さらに西谷流から六角義、本山義が開かれている。
(5) 『法水分流記』(『真宗史料集成』七・八二六頁)
(6)福岡県八女市に高野堂(こうやんどう)「行空上人の墓」というのがあり、天福元年(一二三三)七月六日に九十歳で没したといい、いまの法本房の墓としているが、不審な点が多く、実在したとしても同名異人であると思われる。拙稿「親鸞聖人と法本房行空上人」(『行信学報』二四、二○一一年)を参照されたい。

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行空上人と天台本覚思想ノート(3)

2018年01月07日 | 水月随想

行空上人と天台本覚思想との関連を考える切り口として、鎮西派の寂光土義解釈を用いたいと思います。寂光土義とは、弁長の『末代念仏授手印』裏書(『浄土宗全書』一○・一一頁)に、

或る人の云く。寂光土の往生、尤も是れ殊勝なり。称名往生は是れ初心の人の往生なり。寂光土往生は尤も深きなり。

とあるもので、『念仏三心要集』(『浄土宗全書』一○・三九一頁)も同様ですが、『念仏名義集』巻下(『浄土宗全書』一○・三八二頁)は少し文が違って、

或る人は寂光土の往生を立つる。此の学文を我に随てせよ。若し此の心を知らずして念仏申さん者は往生すべからずと申す。

といっています。この義を山上正尊氏『一念多念文意講讃』(為法館、一九五六年)九○頁には「寂光往生義」、梯實圓氏『法然教学の研究』(永田文昌堂、一九八六年)四四七頁には「常寂光土義」、伊藤唯真氏『浄土宗史の研究』(法蔵館、一九九六年)一七二頁には「寂光土往生説」、『浄土宗大辞典』には「寂光浄土義」と呼ばれていますが、『望月仏教大辞典』や石井教道氏「鎮西教学研究序説」(『大正大学学報』二一・二二・二三、一九三五年)や阿川文正氏『聖光上人伝と「末代念仏授手印」』(浄土宗大本山善導寺、二○○二年)一二五頁などには「寂光土義」と呼ばれています。いまはそれらにしたがいます。この義が「寂光土の往生を立つる」とはじまっているからです。

さて、この義は「或る人の云く」というだけで、それが誰であるか示されていませんが、鎮西派では伝統的に行空の義と見てきました。最近の先学においても、たとえば大橋俊雄氏「弁阿聖光本『末代念仏授手印』について」(『恵谷先生古希記念 浄土教の思想と文化』一九七二年)、高橋弘次氏「二祖聖光における教学の二面」(『坪井俊映博士頌寿記念 仏教文化論攷』一九八四年、のち同氏『続法然浄土教の諸問題』〈 山喜房仏書林、二○○五年〉所収)、花田玄道氏『鎮西上人』(大本山善導寺、一九八七年)四九~五一頁、阿川文正氏『聖光上人伝と「末代念仏授手印」』(浄土宗大本山善導寺、二○○二年)一二六・一五○頁などがそのように見ています。ただしこの義を最初に行空の義といったのは後述する良心(?~一三一四)『授手印決答巻下受決鈔』(『浄土宗全書』一○・一二二頁)が最初で、松野純孝氏『親鸞─その生涯と思想の展開過程』(三省堂、一九五九年)一一九頁には「良心は何に基づいてこうした釈をなしたかわからない」といい、梯實圓氏『法然教学の研究』(永田文昌堂、一九八六年)四四七頁にも「何を根拠にそういっているのかわからないから、にわかに信用できない」といい、伊藤唯真氏『浄土宗史の研究』(法蔵館、一九九六年)一七二頁にも「寂光土往生説を行空の説とする見解(=良心の釈)もあるが、果たしてどんなものであろうか」といわれ、疑問視されています。しかし私は行空の義と見ていいと考えています。その理由は明日述べることにしましょう。

いまはとりあえず行空の義として、これを解釈した最初はまた先に触れた良心の『授手印決答巻下受決鈔』(『浄土宗全書』一○・一二二頁)で、

或人云等とは極楽世界に於て体相同じからず。称名をば相の土に属して浅と為す。寂光浄土を欣ふは理解、因と為すべし。何ぞ称名の事行を要と為すや。美濃国の法報房と云ふ人、此の義を立つ〔云云〕

といっています。そして妙瑞(?~一七七八)の『鎮西名目問答奮迅鈔』巻第一(『浄土宗全書』一○・四三三頁)は良心の釈によって、

信智契合の一念を領解して開会不二の一念と為すと立て、極楽に於て体相二種の浄土を立て、念仏に於て称念理念の二種を立て、称念称名は浅近の故に相の浄土に生ず。理念理解は深遠の故に体の浄土に生ず。是を以て安心門の日は開会の理解を以て生因の法と為して寂光浄土に生ず。是を体の浄土と為す。〔是れ幸西所立、本門の弥陀に同ず〕 起行門の時は称名の一念を以て生因の行と為す。中に於て鈍根の人は辺胎の土に生じ、利根の人は報仏の土に生ず。是を相の浄土と為す。〔是れ幸西所立、迹門の弥陀に同ず〕

といっています。難しい文章ですが、良心の釈に即していえば「寂光浄土を欣ふは理解、因と為すべし。何ぞ称名の事行を要と為すや」とあり、「称名の事行」のほかに「理解」を立てています。妙瑞の釈も「念仏に於て称念理念の二種を立て」とありますから、称名のほかに「理念理解」を立てています。これが問題です。この「理解」とか「理念理解」というのは天台本覚思想のことをいっているのではないでしょうか。末木文美士氏「天台本覚思想論」(道元徹心氏編『天台〈比叡に響く仏の声〉』一○七頁には「何々思想」というのは近代に入ってからの用語といわれていますので、良心や妙瑞はその語を用いていませんが、天台本覚思想のことをいっているように思えてなりません。つまり鎮西派の良心や妙瑞は行空の寂光土義を釈するにあたって、天台本覚思想を導入しているのです。いいかえれば行空は法然の専修念仏のほかに天台本覚思想の「理解」を立てたと見ているのです。しかしはたしてそうでしょうか、という切り口から考えてみたいと思います。

 

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行空上人と天台本覚思想ノート(2)

2018年01月06日 | 水月随想

昨日、平雅行先生が「一念義が天台本覚思想の影響の下で形成されたという論者が多いが」といわれていることを取り上げました。そこでその「論者」をいくつか集めてみました。多くは幸西のことをいっているようですが、なかには行空に言及するものもあります。おおよそ次のようです。

○望月信亨氏『浄土教概論』(弘文堂書房、一九四○年)

幸西と同門なる法本房行空の主唱した寂光土義の如き、又聖光が法然にその信否を質した鏡像円融説の如き、共に恵心流の口伝法門に属するのを見ると、(二二七頁)

総じて安心領解派は天台の所謂本覚法門を取入れ、以て浄土の宗義を改組したものと認めなければならぬ。(二二八頁)

(幸西の所論について)本覚思想に魅せられて諸祖の文献を無視し、大胆にも一念往生の新義を主張した所に彼の特色があり、(二三○頁)

○井上光貞氏『新訂 日本浄土教成立史の研究』(山川出版社、一九五六年、新訂一九七五年)

「観心略要集」から「自行念仏問答」へとひきつがれてきた本覚門的な理観念仏は、別の方向に発展して一念往生説をうみだしている。(二九二頁)

○重松明久氏『日本浄土教成立過程の研究』(平楽寺書店、一九六四年)

恐らく幸西が法華的な本覚門的一念義の立場から出発したのに対し、行空は恵心流のなかでも観心といわれた、皇覚以来の般若系の信心本位の伝統に立って一念義を唱えたのではなかろうか。(三八三頁)

一念義というのは、簡単にいえば、一念の信心が確立する時、往生が決定するという思想で、中古天台の例えば皇覚らの間に盛んに唱えられ、それがさらに法然門下の幸西や行空らに継承されたものを意味する。(三八五頁)

行空や親鸞らの般若系口伝法門の系譜に連がる人たちの思想の、源流的位置にあったとおもわれる皇覚のごときも、「聞思修行証只一時也」(三十四箇事書)として、平常の時、信心獲得の一刹那に、往生が定まるとするのであり、(四○○頁)

法然門下に盛行した一念義の思想的先蹤をなした中古天台の口伝法門の立場は、(中略)ことに、行空や親鸞らの思想の源流をなしたと考えられる皇覚の一念往生説では、(四○四頁)

○重松明久氏「日本浄土教史をめぐる諸問題」(同氏『親鸞・真宗思想史研究』〈法蔵館、一九九○年〉所収)

幸西の念仏思想には、天台の口伝法門のうちの檀那流に属する思想傾向が認められる。(中略)法本房行空は、幸西とは思想的立場を異にしながら、(中略)恐らく天台口伝法門のうち、般若系統の恵心流の思想に影響を受けていたと推測される。(五六頁)

○田村芳朗氏『鎌倉新仏教思想の研究』(平楽寺書店、一九六五年)

とくに、『一念義』などは、天台本覚思想とむすびつき、(二○九頁)

一念義は、天台の不二本覚思想との融合による産物とみらるべく、(五二一頁)

(幸西の所論に対して)あきらかに、天台本覚思想の影響をうけたものであると評せよう。(五三八頁)

○田村芳朗氏「天台本覚思想概説」(『岩波日本思想大系九、天台本覚論』解説、一九七三年)

法然以後になると、また天台本覚思想が顧みられるようになった。法然門下では、特に西山派祖の証空(一一七七~一二四七)と一念義の幸西(一一六三~一二四七)に、それが顕著である。(五四六頁)

○石田瑞麿氏『浄土教の展開』(春秋社、一九六七年)

以上によって、法然門下の幸西の一念義が、念仏は法然に受けながら、他方に天台の口伝法門の影響を強く吸収していたことを述べた。(二八五頁)

○大橋俊雄氏『法然─その行動と思想─』(評論社、一九七○年)

幸西ははじめ叡山西塔南谷に住した天台宗侶であったが、三十六歳のとき法然の弟子となった。一念義の思想は、皇覚の「枕雙紙」に見られるから、天台の影響があったと考えられる。(二○二頁)

○大橋俊雄氏『法然入門』(春秋社、一九八九年)

上と同じ論述。(二三三頁)

○黒田俊雄氏「中世における顕密体制の展開」(『同氏著作集』第二巻 顕密体制論)

一念義や本願ぼこりの類の「邪義」には、しばしば顕密主義のなかの真言立川流や天台本覚法門などの影響があると指摘されている(*)。その相互の関係を正確に判断するのは困難なことではあるが、少なくとも酷似する面があるのは事実である。
(*)大原性実『真宗教学史研究』第三巻(一九五六年)本篇第二章、石田瑞麿「一念義の周辺」(『仏教学研究』一八・一九合併号、一九六一年)、同「「一念義と口伝法門」(『伝道院紀要』第一号、一九六三年)

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