天上の月影

勅命のほかに領解なし

安心決定鈔法話(12)

2018年03月10日 | 利井鮮妙和上集

利井鮮妙和上述

今家の安心はそうではない。十劫の一念に願行円満して、衆生往生の因果となるべき名体不二の正覚を成じたもう。これを衆生が信ずるとき、仏の廻向によりて三世の業障消滅して、不可称不可説の功徳を得る。この信心相続して報恩の行となり、臨終一念の夕べ、大般涅槃の往生を得、かの浄土に往生して、滅度のさとりをひらくのでありまして、この土で仏になるのではない。いわんや十劫の昔に仏になるということは、ゆめゆめありません。このところを今鈔末〔三十二丁〕に「不退の報土に往生すべきことわりを成就す」とのたもうてあります。かように心得るが今家相承の正意であります。

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安心決定鈔法話(11)

2018年03月08日 | 利井鮮妙和上集

利井鮮妙和上述

 ここに注意をせねばならぬことがある。それは我らはいまだこのように流転の凡夫たるに、すでに十劫正覚の一念に、十方衆生の生死のきずなきれはてて、不退の報土に往生せしなりということでありますが、ここは十劫秘事の安心と、西山派の安心と、今家の安心との、朱紫(ちがいめ)を分別了知せぬときは、咫尺(ひとあし)千里の誤りをなすことであります。よほど心を静めて聞いてもらいたい。十劫計は十劫正覚の一念に、十方衆生の信も行も往生も、すでに成就したもうてある。しかれば我らははや往生即成仏の身なるを、今まで知らずにおりしゆえ、今日まで生死を彷徨(さまよう)たのである。すでに往生したるわが身、もはや仏になりしこの身と知るを、信心であると申しております。ゆえに信心の一念に廻向にあずかるというでもなく、往生の因を成ずるのでもない、これをもって蓮師は「信心をおしのけて沙汰せず」と仰せられてあります。また西山家は、法蔵比丘の願行を、一の南無阿弥陀仏名体不二の即是其行と成就したまい、正覚の一念に十方衆生の心中に入りて、一切の善根は一名号のはらきにして、かつてわが善根功徳でないのである。この仏行をわが功徳善根と思うが故に、雑行雑善と名づけられ、これを廃せられる。しかし廃するはただ機執を廃するのみで、一切の諸善名号の胎内の功徳にして、即是其行なりと信ずるを帰仏の一念というて、信ずるとき初めて他力廻向にあずかるにあらずと申します。これを傍正(ぼうしよう)開会(かいえ)の安心と名づけるのです。

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安心決定鈔法話(10)

2018年03月06日 | 利井鮮妙和上集

利井鮮妙和上述

今も、もったいない話でありますが、それと同じく我らの往生を先とし主として誓いたまえども、我らに先立ちて正覚をとりたもうは、もし我らを先にすれば、生死の闇夜に足元が見えねば、往生決定の期(ご)あるべからず、我らは迷いに迷いを重ねて、いずれの時、いずれの劫か往生することを得ましょう。ゆえに従者の仏が先に正覚とりて、我らの往生の足元を見せたもうたのであります。相伴(しようばん)の仏がすでに正覚なりたまえば、主人たる我らの往生は必定なるべしと、決定心をとらしめたもうこころを『御文章』には「阿弥陀如来には光明と摂取という二つのことわりを以て、衆生を済度したまへり」とのたもうて、光明摂取の提灯を持って済度して、決定信を生ぜしめたもうのであります。給仕人が先に飯を喫(た)べるのは、客人を寛々(ゆるゆる)饗応(もてなし)せんためというごとく、衣服の垢を去らんとて洗濯すれば、衣服より先に自己の手の垢が除かるるがごときものであります。

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安心決定鈔法話(9)

2018年03月04日 | 利井鮮妙和上集

利井鮮妙和上述

 ここにおいて疑問が起ってまいります。というは衆生の方には「に」の手仁波(てには)をつかい、衆生を正(しよう)とするのこころをあらわし、仏の方には「も」の傍らに及ぶ文字までもつかいたまいて、衆生をさきに往生させて、傍らに仏が後に自らの正覚を取ると約束して、しかもすでに十劫の一念に正覚をとりたもう。しかるに我らは今に生死流転の凡夫の身であります。さすれば本願の約束は虚説に似たようになるではないか、という不審であります。『往生論註』下〔二十八丁〕に「その身を後にして而も身をさきにするを以ての故に巧方便と名づく」とありまして、その身とは法蔵菩薩の御身、後にするとは衆生の往生を先にして、自らの正覚を後にすると誓いたまいて、しかも御身を先にするとは、われわれの往生に先だちて、自身の正覚をとりたもうを、これを自ら先(○○○)にするとのたもうたのであります。これを巧方便廻向であると申したもうたので、たとえてみますと主人は先、従者は後というのが当り前なれども、夜分になると従者は先、主人は後となる。なぜならば提灯持ちとするからである。従者が先にゆくは主人の足元を見せるためであります。

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安心決定鈔法話(8)

2018年03月03日 | 利井鮮妙和上集

利井鮮妙和上述

また『御文章』四帖目八ヶ条に「阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、衆生仏に成らずはわれも正覚ならじと誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり」
等と、のたもうてあります。しからば仏はすでに十劫の一念に正覚成就したもうとき、我らが願行もまた、すでに成就せられたのであるから、一衆生の願行でも成せざることありて、漏らしたもうことあらば、仏も正覚をとりたもうことあるべからずと、というこころであります。そうしてみれば、われわれも十方衆生のうちなれば、よもやこの私の願行も漏らしたもうべからず、もし一人の願行にても、欠目(かけめ)があらば決して正覚はとらじ、五劫思惟は仕直して救うべしとの大誓約であります。その誓約すでに成就したる名号なれば、わが往生は、はやすでにすでに成就ましましたる証拠が、南無阿弥陀仏であります。
 古歌に、
  われなくば弥陀も正覚よもとらじ
     われこそ弥陀の知識なりけり
と。また一休の歌に、
  極楽へさのみゆきとうなけれども
     弥陀をたすけにゆかにゃなるまい
と詠(えい)せられたれば、このこころであります。

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安心決定鈔法話(7)

2018年03月02日 | 利井鮮妙和上集

利井鮮妙和上述

第一節 機法一体

 この機法一体の義ははなはだ広博にして、お話しするには容易ではありませぬが、今、簡易(わかりやすさ)を旨としてお話しいたしますに、便利上二門に分別いたします。一には法体成就門、二には機法上受得であります。また初めの一門に二重ありまして、一には往生正覚一体、二には生仏互入一体であります。また後の一門にも初帰一念の一体と、後念相続の一体との二重あります。これをはっきりさすために図を作れば左のごとくになります。

(略)

  (い)法体成就の一体
 往生正覚の一体というのは、本願の文に「若不生者不取正覚」とありて仏の正覚は衆生の往生より成じ、衆生の往生は仏の正覚より成ずるゆえに、今鈔〔三丁〕の文に、「仏は衆生にかはりて願と行とを円満して、われらが往生をすでにしたためたまふなり」、また同〔七丁〕「衆生往生せずは仏に成らじと誓ひたまひし法蔵比丘の、十劫にすでに成仏したまへり……仏の正覚成りしとわれらが往生の成就せしとは同時なり」、また同〔十二丁右〕「面々衆生の機ごとに願行成就せしとき、仏は正覚を成じ、凡夫は往生せしなり」、同〔十一丁〕「一衆生のうへにも往生せぬことあらば、ゆめゆめ仏は正覚成りたまふべからず」、同末〔一丁〕は「衆生の往生をかけものにして、もし生ぜずは、正覚取らじと誓ひたまひし」、また同末〔三十三丁〕につぶさに示して、「この願行の功徳は、ひとへに未来悪世の無智のわれらがために、かはりてはげみ行ひたまひて、十方衆生のうへごとに、生死のきづなきれはてて、不退の報土に願行円満せしとき、機法一体の正覚を成じたまひき」等、このほか類文は少なくありません。

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安心決定鈔法話(6)

2018年03月01日 | 利井鮮妙和上集

利井鮮妙和上述

第二章 本鈔の大綱

 本鈔の大綱要領(たいこうかなめ)と申すは、経(たて)には機法一体の義をもって、始中終を尽くしてあります。ゆえに〔二丁〕「この文のこころは」というに始まりて、終りは仏心凡心一体をもって結んである。また緯(よこ)には三文四事ありまして、三文とは初めに『往生礼讃』の第十八願引釈の文のこころをお釈しなされてあります〔上巻の終りまで〕、二に『浄土論』をお引きなされてその意(こころ)を御解(おんげ)しなされてあります〔末巻の初めより二十九丁までなり〕、三には『法事讃』をお引きなされてその意をお述べなされてあります〔二十九丁より三十八丁まで〕、次に四事とは、一に自力他力のこと〔末三十八丁より四十丁まで〕、二には四種往生のこと〔四十丁より四十五丁まで〕、三には機法相応のこと〔四十五丁より四十六丁まで〕、四には仏心凡心一体のこと〔四十六丁より終りまで〕であります。

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安心決定鈔法話(5)

2018年02月28日 | 利井鮮妙和上集

利井鮮妙和上述

 今、例を取りてみますれば『選択集』は元祖大師の真撰(おえらび)なれども、わが高祖大師へお付属のみぎり、ご真筆をもって釈の綽空とあそばされたうえは、わが大師の『選択集』なりと仰信したてまつると同じく、『決定鈔』は中祖大師の真撰として、しかも中祖のご自督(じとく)なるものと、我らは敬うて真宗安心の真面目(しんめんぼく)なりと、信仰せねばならぬのであります。かく五ヶ条も立ててお話をすると知らず知らず研究的(がくもんばなし)になる恐れがあるが、とりもなおさず中祖のお取り扱いを審(つまび)らかにして、いよいよ厚く信仰せられんことを望むためであります。そのうえ中祖は覚祖(かくによさま)の御真撰(おのべ)であると、見抜かせられたるかの不審もあるが、それも中祖が覚祖と仰せられたれば覚祖と信ずべきことで、その詮議(しらべ)には及ばず、信仰すべしと申し定めおかせられたれば、『安心決定鈔』は誰人(だれひと)の撰述かは知らざれども、中祖が信仰せよと仰せたもう故に信仰するのみであります。『歎異抄』に「念仏は地獄の業にてやはんべらん、浄土に参るべきたねにてやはんべらん、総じてもて存知せず候、ただよきひとの仰せを信じて念仏して弥陀にたすけられ参らすべし」とのたもうごとく、もしや西山(せいざん)の書にて候や、確かに覚祖の真撰にて候や、総じてもって私に存知ぜず候、ただわが相承(そうじよう)の中祖大師の仰せをまこととして、『決定鈔』にて往生をとぐるなりと信じて、中祖にすかされ地獄におつるともなんの後悔も候わず、『御文章』即『決定鈔』、『決定鈔』即『御文章』なりとは、私の年来の所存(おもい)であります。このほかに歴史的にお話を申すべきこともありますが、仰信に碍(さわ)りなきうえは、これ以上にお話しする必要はありません。

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安心決定鈔法話(4)

2018年02月27日 | 利井鮮妙和上集

利井鮮妙和上述

 次に四十余年が間ご覧じあかぬと仰せられたるを、他流の鈔なれども取捨すれば面白事(おもしろきこと)をも掘り出す故に、あかぬと仰せられたるなりと解するは、大変な曲解であります。それでは『末灯鈔』や『口伝鈔』、『改邪鈔』はご覧じあきたもうということになる。伝え聞くに『決定鈔』は表紙が三遍も破るまでご覧あそばされたと、また本典も表紙が三遍までも破らせたまいしといえば、ご覧じかぬ故である。これも土砂あるために金を掘り出すが面白うてあきたらぬ故と申さねばならぬことになります。また次に『御一代聞書』末〔六十丁〕「この大事の聖教を所持の人は、をさなきものに剣を持たせ候ふやう」と仰せられたは、『決定鈔』ばかりを仰せられたのではありません。すべて大切なご聖教をさしたもうのであります。『実悟記』の中には、ご本書は二十年未満のものには拝見を許したまわず、大切のご聖教なれば誤ってはならぬと思し召されてのことなれば、幼きものに剣をもたせるように思し召したもうので、他流の『決定鈔』なるゆえ禁じたもうのではありません。またところどころにおん依用(もちい)あそばすは、『決定鈔』の信仰すべきことをご指南なされたものにして、『御一代聞書』末「他力の願行をひさしく身にたもちながら」等のご文には「ききわけえてえ信ぜぬもののことなり」、同「弥陀の大悲常没の凡夫の身にいりたまう」ということを「領解の心中をさしてのことなり」、また「極楽という名をきかば、あは我(わが)往生」等の文をば、夏(げ)のお文に引きたまいて、「これは安心をとりての上のことどもにてはべるなり」といお指図(さしず)なされ、ご文章の八ヶ条にも「阿弥陀仏のむかし……」を引きて、「いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし……南無阿弥陀仏の六字なりと落居すべきものなり」とお示しくだされたれば、このお指図に任せて一部始終文々句々を仰信すれば、一言半句も中祖の思し召しに叶うゆえ、私は中祖大師の『決定鈔』なりと信仰するのであります。

 

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安心決定鈔法話(3)

2018年02月26日 | 利井鮮妙和上集

利井鮮妙和上述

西福寺恵空と申す人が、『翼註』という書物を著して、本鈔を西山の書であると決し、西山の書二十七部を牽強附会し(ひつけあわせ)て、もし覚祖(かくによさま)の真撰(おえらび)とせば四理十難不通のことあり、また蓮師の引用(おもちい)に転用と申すもので、言(ことば)をそのまま彼に取り、義を取り換えてお扱いなされてあるなどと、歴史的研究や教理の比較から申してありますけれども、今、私が中祖のお格(さだめ)を信仰するに、「かたはし」と仰せられたは、この間申すことはかたはしから(『決定鈔』の義であるということであります。故に次の文に「安心決定鈔の儀いよいよ肝要なり」とあります。もし一分のことなれば『決定鈔』のうち、この文のみ肝要なりと仰せおかせられねばならぬ。さもなければ『決定鈔』の中には土砂もあれば、土砂も肝要と申すことになります。ゆえにかたはしとは一分のことではない、かたはしからのことで全分(まるまる)ということとうかがわねばならぬ。また次に金を掘ると仰せられたは文々句々みな金ということにして、土砂の中より堀り出すことではありません。中祖は、いまだかつて『決定鈔』の中には金もある土砂もあるから取捨(とりすて)せよと、仰せられたことは私はいっこう存じません。中祖が土砂ありと仰せられたならば土砂あると信じ、全文を金を掘るようなりと仰せられたならば、そのごとく信ずればよいのであります。しかるに土砂ありと仰せられたることなきうえは、私の憶断をもってお聖教を会釈(えしやく)するはよろしくありません。句面のごときう師伝のごとく信仰するがご当流の正義であります。

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安心決定鈔法話(2)

2018年02月23日 | 利井鮮妙和上集

利井鮮妙和上述

世間にこの中祖のお依用(もちい)について、不審を起して種々(いろいろ)のことを申すものがあります。『決定鈔』の「かたはしなり」と仰せられたは、片端(かたはし)ということで、取るべきところもあり、取るべからざるところもあるということであるとか、また金(こがね)を掘り出すと仰せられたは、土砂(つちすな)の中より掘り出すことで、文々句々が金にあらず、土砂もあると申すこころであるとか、また四十余年が間、ご覧じあかぬとのたまいしはご覧なさるるうちに、取るべきところ、取るべからざるところがありて、その取るところを見ぬかせられること故に、あかぬと仰せられたのであるとか、また『御一代聞書』末〔六十丁〕の「この大事の聖教を所持の人は、をさなきものに剣を持たせ候ふやうに思し召し候ふ……重宝になるなり」と仰せられたは、この『決定鈔』のことであるとか、またところどころに引用(ひきもち)なされてあるは、みな片端の取るべきところだけであるとかいうようなことを勝手に申す者がありますによって、私は一々について話すことにしましょう。

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安心決定鈔法話(1)

2018年02月22日 | 利井鮮妙和上集

利井鮮妙和上述

安心決定鈔法話 巻上

 第一章 本鈔の撰者

 この『安心決定鈔』の製作の人については古来より種々(いろいろ)の説がありまして浄土宗西山派の書にして、開山証空善恵房の作とも申し、あるいは西山上人の弟子の作といい、あるいは二尊院の歴代慶椿(きようちん)の作とも伝え、また浄土宗一遍上人の作といい、あるいは覚如上人の撰といい、または存覚師の述とも申し、あるいは真仏上人の造ともいい、あるいは乗専法師の作といい、あるいは仏光寺了源の述とも申して、異説紛々(まちまち)互いに是非を争うておりますが、老拙(わたくし)はこれを眼違(まなこちが)いの議論と思います。歴史的研究ならばいざ知らず、宗教的信仰眼をもってこれを見るときは、この鈔は真宗相承の正義(しようぎ)なるか、または他流の法義を撰述(かきあらわ)したるものなるかは、ただちに明瞭(あきらか)になることと思います。よって思うに、この鈔は蓮如上人の深く信用したまえる書なれば、決して他流の義ではない、相承の華文(かもん)なりと心得べきことであります。すでに『御一代聞書』末〔四十六丁〕「大坂殿にておのおのへ対せられ仰せられ候ふ。このあひだ申ししことは『安心決定鈔』のかたはしを仰せられ候ふよしに候ふ。しかれば、当流の義は『安心決定鈔』の義、いよいよ肝要なりと仰せられ候ふ」、また同〔四十八丁〕に「『安心決定鈔』のこと、四十余年があひだ御覧候へども、御覧じあかぬと仰せられ」、また「金(こがね)をほりいだすやうなる聖教なりと仰せられ候ふ」、また『御一代聞書』の中に所々に『決定鈔』を引きたまい、夏(げ)の御文にも明らかにこの意(こころ)を示し、また『帖外御文』の文明十八年の七ヶ条にも、「安心決定鈔をよくよく披見すべし」と仰せられて、蓮師もご真筆にて、幾度もお写しあそばされてあります(四法大意のごとき)。そのご真筆は信州康楽寺、また常州中野郡鷲子村照願寺にあると『法輪集』二〔十八丁〕、六〔十三丁〕に載せてあります。しかれば中祖(れんし)を信ずる私どもにおいては同じく『決定鈔』も信ぜねばなりません。私は中祖の『決定鈔』と心得て信仰するのであります。

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機法権実法話(11)

2017年11月30日 | 利井鮮妙和上集

 此の有難い身分にさせて戴いた上からは御恩報謝のために、三宝を崇敬し、おのおのが根機に契ふた朝な夕なのお勤めをなし、御恩を喜ぶ称名を忘れぬ様、油断なく相続をせねばなりませぬ。又世間の上は士農工商、自分自分の職業を誤りなく、心をつけて勤めをすれば、昼夜朝暮の世間・出世間の勤め悉く仏恩報謝となる。
 かくつとめて行く一歩一歩が浄土へ近づくので、如来様も御照覧遊ばしてお喜び下さるのであります。南無阿弥陀仏。

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機法権実法話(10)

2017年11月28日 | 利井鮮妙和上集

 或時、法然上人が結構な品物をお手にお持ちなされて、これを其の方にやるが、私の手にあるが確か、其の方の手に受け取つたが確かと仰せられた。皆々それは吾手に戴いた方が確かなと申しあぐれば、法然上人の仰せに此の法然は往生を我手に取つた心持ちして念仏するなりと、又日々六万七万の称名を称ふれども一声も半声も不定の称名は称へぬ。これは疑いなく往生するぞと思ひ取りて往生一定の思ひで称ふるからであります。皆々同行も法然上人と同じく必然往生させて戴けるものと信じて念仏すれば往生は間違いないのであります。
 此の有難い御教化を聴聞させて戴き、いよいよ往生させて戴く身分になつたのは三部経の御教化で、此の三部経は机の上にあるのではない、我々の胸の中心の底に入つて下さるから、自ずから口から出る称名は三部経の御所内(おいはれ)其の儘である。三部経が一南無阿弥陀仏の称名中に籠もるのみならず、一切の聖教も籠もってゐるのであるから、御文章には一切の聖教といふも南無阿弥陀仏を信ぜしめんが為なりとあります。
 愚痴の婆々の口にも浅間しい爺の心にも尊い三部経が籠つて下さる上は今度といふ今度の生には間違ひなく往生させて戴きます。何と大きな仕合せではありませんか。

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機法権実法話(9)

2017年11月27日 | 利井鮮妙和上集

 「疑ひながらも念仏すれば往生す」近頃わたしの許(もと)へ所々の僧侶や同行が不審を訂(ただ)しに来られた。「疑(うたがい)がどうも晴れませぬが如何のものでせう、御教化の御助けには間違い(註、間違いない、か)、このまま往生させて戴くのであると思ひながらどうも疑が晴れませぬ」と申す者が度々あります。法然上人の御時分にもこの様な疑を持つた人があつたので、法然上人は疑ひが晴れぬなら疑ながら念仏せよ、念仏さへして居れば念仏の御徳で遂に疑が晴れて往生が出来る。疑ひながらの往生ではない(註、このまま文章が続くが、ここで切るべきではないか)念仏して居すれば自ずから疑がなくなつて往生が出来るのである。故に念仏にて往生すると心得れば三心が此の中に具はると仰せられてある。一枚起請文にも「たゞ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して、疑ひなく往生するぞと思ひとりて、申すほかには別の子細候はず。但し三心四修と申すことの候は、みな決定して南無阿弥陀仏にて、往生するぞと思ふうちにこもり候なり」と仰せられた如く、己が心で気張るのではない(註、ここで切るべきでないか)南無阿弥陀仏で往生するぞと露塵ほども間違いないと心得て念仏するのであります。

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