天上の月影

勅命のほかに領解なし

極重悪人唯称仏

2018年09月07日 | 水月法話
 一昨日に取り上げた問題で改めて気づかされたことがあるので、これを機会に記したい。ただし、あえて参考書の類を見ていないから、諸賢は先哲・先学の講録等を読んで味わっていただきたいと思う。

 「正信偈」源信章に、
   極重悪人唯称仏
  我亦在彼摂取中
  煩悩障眼雖不見
  大悲無倦常照我
とある。
  極重の悪人はただ仏を称すべし。
  われまたかの摂取のなかにあれども、
  煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、
  大悲、倦きことなくしてつねにわれを照らしたまふといへり。
と訓む。
 この一段をお話させていただくとき、私は一行目の「極重悪人唯称仏(極重の悪人はただ仏を称すべし)」を省略してきた。『高僧和讃』源信讃に、
  煩悩にまなこさへられて
  摂取の光明みざれども
  大悲ものうきことなくて
  つねにわが身をてらすなり
とあるからでもあるが、「極重悪人」をどのように語ればいいか、定見をもっていないからである。確かに論題には「悪人正機」があり、「悪人」について議論される。しかし、私には何かしっくりこないものがあった。安居に懸席される学識のある方々にとってはそれで済むかもしれないが、はたして御門徒のすべての方々が御理解いただけるだろうか。そういう疑念があって、定見をもっていないというのである。
 ところが最近、ふと自分自身の行いを省みて、改めて思うことがある。普通「極重悪人」と聞けば、極悪きわまりない犯罪者を思い浮かべるのではなかろうか。「極重悪人」は少なくとも自分のことではないと思うであろう。しかし、私たちは犯罪者ではなくとも、日々小さな罪を犯している。たとえば私は部屋にゴキブリが現われたとき、坊守に殺虫剤はどこや?と聞く。ゴキブリを殺したら殺生罪である。また自動販売機でコーヒーを買おうとしてお金を入れ、お釣りをとろうとしたら、前の人が取り忘れていたお金があった場合、ラッキーと思う。それを取ったら窃盗罪である。確かにゴキブリを殺したからといって警察に逮捕されるわけではない。お釣りを取ったからといって人に見つからなければわからないし、見つかったとしても警察に通報されるようなことはない。それでも罪は罪である。その罪を小罪だからというので、罪を犯したことさえ、時間が経てば忘れてしまう。そして善人ぶって生活し、犯罪者の報道があれば、それについてどうのこうのと評論家になる。犯罪者は自分が罪を犯したことを自覚しているが、私たちは小罪というので罪を犯したことを自覚していない。その自覚の有無である。自覚があれば改めることができる。けれども自覚がなければ小罪とはいえ、罪を造り続けるばかりで歯止めがきかない。しかも罪を罪とも思わずに。それが「極重悪人」ではなかろうか。善人ぶって罪を造り悪を犯し続けている。だから「極重悪人」といわれるのであろう。それは犯罪者のことをいっているのではない。私たち、いや私のことがいわれているのである。その私をあわれみたもうたのが阿弥陀さまであった。「極重悪人よ」と呼びたまい、私のあり方を知らせて下さっているのである。それは救われようのない私であった。そこで阿弥陀さまは私を救うために、みずからの善根功徳のありだけを南無阿弥陀仏の六字にこめて、どうかこれを受け取っておくれよ、どうかこれを称えておくれよと、恵み施し与えて下さっていたのである。その南無阿弥陀仏をいただくところに救いの道があるということを「唯称仏(ただ仏を称すべし)」と勧めて下さっていたのであったと味わうことである。
コメント

百点満点(3)

2018年06月07日 | 水月法話

 このあいだ何気なしに、<ひろさちや>という人の本を開いておりましたら、おもしろいことが書いてありました。<ひろさちや>という人は、仏教の教えを平易に説かれる人で、たくさんの本を書かれています。本屋に行けば、一冊や二冊は<ひろさちや>氏の本があるはずです。結構おもしろいです。

 この<ひろさちや>氏、子供さんがおられまして、その子供さんがまだ小学校、中学校のころ、「お父さんが小学校、中学校、高校のころ、学校の成績はどうだった? よかった?」<ひろさちや>氏は東京大学の出身ですから、もちろんよかったのだけれど、もし「よかった」といえば、子供たちが、では自分もよくなければならないと思うのではないか、変に負担に感じるかもしれないと考えて、「忘れた」と答えたそうです。すると子供たちは、
「どうして忘れたのか」
「お父さんは自分で自分の成績が百点だと信じていた。だから忘れたんだよ」
「百点なら成績はよかったんじゃないか」
「いや、そうじゃない。お父さんは自分で自分の成績を百点とつけた。で、学校から試験の答案が返ってくる。それが仮に六○点だったとすると、これは先生が問題の出し間違いをしたんだ。お父さんが百点を取れないような問題を出した先生がおかしいんだ。先生はお父さんが百点を取れるような問題を出すべきだ。そういう問題を出さなかったのだから、先生が間違いだと思っていた。学校の試験問題なんか全然気にしなかったんだ」
「へぇー!」
そこで<ひろさちや>氏は子供たちにいうんです。
「あなたたちの成績はお父さんやお母さんがつけているんだよ。だから学校の成績なんて心配しないでいいんだよ。お父さんから見たらあなた方は百点満点の子供だ。お父さんはあなた方を百点だと思っている。お母さんもあなた方を百点だと思っている。そりゃ、お父さんもお母さんも、時には学校の成績を参考にはするけれど、学校の成績は他人がつけた成績だ。お父さんはそんなものであなた方を見ていない。あなた方を見ているのはお父さんだ。お父さんはあなた方を百点満点だと思っている。だから安心しなさい」
 それから後に子供さんたちはいわれるそうです。「あのとき、お父さんがああいってくれたんで助かったよ。変にしゃにむに勉強しなくてよかったので、ゆったりできてよかった」

 確かに世間では、学校に行けば学校の成績がある。社会にあっても社会の成績がある。世間は相対の世界ですから、そうした成績評価というものは必ずついてまわります。それは仕方のないことでしょう。けれども、家庭にあっては、親が子供を見るときには、百点満点と見てあげるべきでしょう。また夫が妻を見るときも、妻が夫を見るときも百点満点、最高の点数であるからこそ、家庭が安息の場所となるのです。世間ではたとえ六十点の評価でも、疲れて家に帰れば百点満点であるからこそ、安らいでいけるのです。

 いま、如来様もまた、わたくしたち一人一人を百点満点と見てくださる。かけがえのない大切な大切な如来の子よ、と見てくださる。世間の成績評価はさまざまで、それによって悩んだり苦しんだりしても、如来様はいつも百点満点をつけてくださるのだから、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とお念仏申すとき、また、お仏壇の如来様の前でぬかづくとき、あたかも家庭で安らぐように、安心をさせていただくばかりであります。

コメント

百点満点(2)

2018年06月06日 | 水月法話

 そこで「十方衆生」といわれるのは、如来様の相手です。「十方」というのは、東西南北上下四維、あるゆる方角を指します。「衆生」というのは、よく用いられる仏教用語で、あるゆる生きとし生けるもの。あらゆる方角の、あらゆる生きとし生きけるもの、つまり、あらゆる人たち、すべての人たち、ということです。


 如来様が相手にされるのは、この「十方衆生」あらゆる人たちです。あらゆる人たちですから、わたくしたちもその中に入っているのです。第十八願に「十方衆生」といわれているのは、他の人のことではない、わたくしたち一人一人のことなのです。前に座っている人も、後ろに座っている人も、右に座っている人も、左に座っている人も、そして何より自分が「十方衆生」の中に入っているのです。

 わたくしたち一人一人を如来様は相手にされる。そして、わたくしたち一人一人に大いなる慈悲のこころ、大悲心をかけておって下される。それはあたかも、親が子に対するが如くであります。

 わたくしは子供が一人なのでわかりませんが(註、平成6年のとき)、聞くところによると、二人の子供がいれば、上の子供に五十パーセントの愛情、下の子供にも五十パーセントの愛情をかけるというのではないそうですね。上の子供にも百パーセントの愛情、下の子供にも百パーセントの愛情をかけていくものだそうですね。

 同じように如来様は、前に座っている人にも百パーセントの大悲心、後ろに座っている人にも百パーセントの大悲心、横に座っている人にも百パーセントの大悲心、そして自分にも百パーセントの大悲心をかけておって下されるのであります。

コメント

百点満点(1)

2018年06月05日 | 水月法話

 浄土真宗とはどのような教えであるか。さまざまな言い方ができます。ある人は、如来様のお浄土に生まれていく教えであるという。ある人は、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とお念仏を申す教えであるという。ある人は、迷信にこだわらない教えであるという。
 確かにその通りです。浄土真宗では、お浄土こそこの人生の行方、いのちの行方と聞き開いていく教えであり、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とお念仏を申しながら人生を乗り越えていく教えであります。また、迷信にまどわされることなく、お浄土に向かってのお念仏の道を歩んでいく教えであります。
 ただ、浄土真宗の本質、根本は何であるか。親鸞聖人の御指南をいただきますと、『末灯鈔』第一通には「選択本願は浄土真宗なり」とあります。第十八願が浄土真宗の根幹なんだよ、浄土真宗とは第十八願の教えなんだよ、第十八願によって浄土真宗という教えが成り立っているんだよ、といわれております。
 ここに第十八願という。これは、『大無量寿経』の中で、「設我得仏」「設我得仏」と繰り返す一段があります。だいたいお経様というのは、繰り返しが多いんですね。例えば『阿弥陀経』の中では、「舎利弗」「舎利弗」「舎利弗」と繰り返す。また終わりの方では、「恒河沙数諸仏、各於其国、出広長舌相、遍覆三千大千世界」等と繰り返します。お経様は繰り返しが多いのです。そうした中で『大無量寿経』の中でも、「設我得仏」「設我得仏」と繰り返しています。それをわたくしどもは四十八願と呼んでいますが、その前から第十八番目、十八番目にあるから第十八願というのです。そのほか、選択本願と呼んだり、本願、それに丁寧語・尊敬語の御をつけて御本願と呼んだり、また念仏往生の願と呼んだり、至心信楽の願と呼んだりいたしますが、いまは簡単に第十八願といっておきます。この第十八願が浄土真宗の要、本質なんだといわれるのです。
 ちなみに、カラオケなどで、一番得意の歌を十八番といいますが、もしかしたらこの数字は、いまの第十八願からきたものかもしれません。違うかもしれませんが、とにかく浄土真宗の本質は第十八願にあります。
 この第十八願、「設我得仏、十方衆生、至心信楽、欲生我国、乃至十念、若不生者、不取正覚、唯除五逆、誹謗正法」わずか三十二文字ですが、これが浄土真宗の本質というのですから、その意味は深く広く、そのすべてをお話することはとてもできませんので、いまはただ「十方衆生」といわれている、そのおこころを味わってみたいと思います。

コメント

選択本願は浄土真宗なり

2018年06月04日 | 水月法話

 親鸞聖人はたいへん筆マメなお方で、たくさんのお書物をお書きになり、たくさんなお手紙をお弟子の方々に送られています。現在、四十三通のお手紙が伝わっておりますが、そのなかの一通に「選択(せんじやく)本願は浄土真宗なり」といわれております。「選択(せんじやく)本願」とは、たいへん難しい専門用語でありますが、一般には「御本願」とも「第十八願」などとも呼ばれます。どういうことかというと、阿弥陀さまが私たち一人一人を「かけがえのない大切な大切な如来の子よ」と慈しみあわれみたまうて、「どうかお願いだから、たとえ十遍でもいい、お念仏申す身になっておくれよ。そのあなたを必ずわが浄土に生まれさせる」と仰せくださっている、そのみ言葉、その仰せを「選択本願」とも「御本願」とも「第十八願」ともいい、それが浄土真宗の本体であるといわれるのです。そこで私たちはそのみ言葉を、どうだろうか、こうだろうか、と考えることなく、けっこうですと拒むことなく、その通り聞き入れさせていただくのです。それを浄土真宗では「信心」と呼びます。皆さまよくご存知の御文章、聖人一流章には「聖人一流の御勧化けのおもむきは、信心をもって本とせられ候」とあります。信心が肝要なんだよ、信心が根本なんだよ、というお示しでありますが、その根本である、肝要であるところの信心とは、何も私たちが信じよう信じようと心を思い固めていくことではなく、阿弥陀さまの仰せをその通りいただいている状態のことをいいます。そうしますと、その信心のすがたというのは、阿弥陀さまが「お念仏申す身になっておくれよ」との仰せでありますから、私たちがその通りいただいたら、口に南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とお念仏申している、また阿弥陀さまが「その念仏申すものを必ずわが浄土に生まれさせる」との仰せでありますから、私たちがその通りいただいたら、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、この念仏申す私はやがて娑婆の縁つきて命終わったならば間違いなくお浄土に生まれさせていただきますと、人生の行方、命の行方を聞き定めていること、それが信心のすがたとなります。そこで、もしも人から「お前、信心があるんだったら出してみよ」といわれたら、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とお念仏申せばいいんです。またこの命終わったならばお浄土でございますと言い切ればいい、それが信心のすがたでありますから。こうして浄土真宗とは、お浄土を目指しながら、お念仏の人生を歩んでいくこと教えであるということが知られます。そこに、生きるということはお念仏申すことだ、死ぬということはお浄土に生まれさせていただくことだと、生きることの意味と、死ぬことの意味が知らされます。意味があれば、生と死を同じ価値をもって受け入れていくことができます。それを生と死を超えるというのです。あるいは「生死(しようじ)出づべき道」といいます。親鸞聖人が求めたのはその道でした。ところが私たちは生に迷い、死に怯えながら、日々を過ごしています。ゆえにこそ本当に聞かねばならないのは阿弥陀さまの選択本願、御本願のみ言葉といえるでしょう。

コメント

響く仏説

2018年06月03日 | 水月法話

 御法事のおり、当然ですが、お経さまをおつとめいたします。ただ何をおつとめするかは宗派、宗派、あるいは同じ宗派でもお寺、お寺によって異なります。それはそれぞれの宗派、御住職のお考えによります。
 浄土真宗では一般に「浄土三部経」(『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』)をおつとめすることが多いように思います。ただし都会のほうでは「お正信偈」と何か、というような場合もあります。けれどもこ私どもの地方では、やはり「浄土三部経」が多いです。

 ところで、いま、お経さまと簡単にいっておりますが、お経さまとは何かと問われると、難しい問題があります。けれども普通にいわれるのは、経とは仏説である、ということです。それゆえ経題に「仏説」の二文字がついているのです。このときの「仏」はお釈迦さまのことです。お釈迦さまが説きたもうた、というので「仏説」といい、それを「経」と呼ぶのです。ですから、「経」といった場合、「仏説」に決まっておりますので、しばしば「仏説」の二文字は省略して呼ばれます。たとえば『阿弥陀経』というようにです。

 そうすると、読経とはお釈迦さまのお説法を再現するという意味を持ちます。そのなかで「浄土三部経」は阿弥陀さまのおいわれを説かれたものですから、阿弥陀さまがましますぞ、という、お釈迦さまの み言葉が響いていることになるのです。

コメント

栄枯盛衰のなかでも

2018年06月02日 | 水月法話

親鸞聖人がお生まれになられたのは承安三年(一一七三)という年でした。このころは平家全盛の時代で、「平家にあらずんば人にあらず」とまでいわれました。けれども平家はやがて壇ノ浦で滅び、代わって源頼朝が鎌倉に幕府を開くのですが、頼朝のあと頼家・実朝の三代で源氏が滅び、今度は頼朝の奥さんであった北条政子の一族、北条氏が権力を握っていきます。その北条政子の異母弟に時房という人がいて、彼の子の朝直の系統を大仏(おさらぎ)北条氏といいます。そしてその子の宣時(のぶとき)のとき、佐渡国の守護となりました。ただ幕府の要職にありましたから、実際は佐渡国におもむくことなく、本間能忠(よしただ)の一族が守護代として代々、佐渡国を支配することになりました。佐渡本間氏といいます。いくつもの分流ができて繁栄しましたが、やがて戦国時代、有名な上杉謙信の養子・上杉景勝によって滅ばされてしまいました。けれども生きのびた本間氏もあります。それが酒田本間氏です。山形県酒田市に移ったのです。そして江戸時代には大名をしのぐほどの豪商となりました。こんな歌が残っています。「本間さまにはおよびもせぬが、せめてなりたや殿さまに」というのです。その栄華のほどが知られます。日本一の大地主といわれましたが、第二次世界大戦後、農地改革によって解体されて、今に至っています。ここにいくつもの栄枯盛衰があります。世の常です。それは「世」だけではありません。「私」という存在のなかでも、栄枯盛衰があるはずです。子供のころからだんだんと年老いていきます。けれども、どれほど世の中が移り変わろうとも、どれほど「私」が変化していこうとも、阿弥陀さまはいつもいつも、私たち一人一人をかけがえのない大切な大切な如来の子よといつくしみあわれみたもうて、「どうかお願いだから、お念仏申しておくれよ、その念仏申すあなたを必ず浄土に生まれさせる」と仰せくださるのでした。

 

コメント

摂取不捨印

2018年06月01日 | 水月法話

 いまあなたはどこにいらっしゃいますか。

時間があるようでしたら、ちょっとお仏壇の前に座ってみてください。そして御本尊である阿弥陀さまのお姿をご覧になってください。

おわかりになるでしょうか。いくつか特徴があるのですが、そのなかで手の形、指の形に注目してみてください。右の御手を上げたまい、左の御手を下げたまい、親指と人差し指を捻(ねん)じるというのですが、輪っかを作っていらっしゃいますよね。これを印相といいます。その仏さまが私たちに何をいおうとしているのか、どういうおこころでいらっしゃるのかを、手の形、指の形であらわすものです。

 いま阿弥陀さまの印相は摂取不捨印といわれています。それは『仏説観無量寿経』のなかに「念仏衆生、摂取不捨」と説かれているのが出どころです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とお念仏申す私たちに向かって、「摂取不捨であるぞ、摂(おさ)め取って捨てないぞ」と仰せくださっているのです。

 親鸞聖人はこの摂取不捨というお言葉をたいへん深くお味わいになられ、「ひとたびとりて永く捨てぬなり」「ものの逃ぐるを追はへとるなり」といわれています。そのうち昔からとくに注目されてきたのは後者のお味わいです。私たちはいま、何気なくお念仏申していますが、実は始めなき遠い過去世から阿弥陀さまに背を向け、逃げどおしに逃げてきたのではないでしょうか。それがいま、阿弥陀さまに追わえ取られてお念仏申す身に育てられたのです。明治時代に活躍された利井鮮妙和上は、「逃ぐるをば 逃がしたまはぬ お慈悲なり 逃げなば逃げよ 逃がすものかは」と詠われましたが、そこに私たちを決して見捨てたまわぬ阿弥陀さまのお慈悲があったのでした。

 そして前者のお味わいである「ひとたびとりて永く捨てぬなり」は、摂取不捨をそのまま訓じたもののようですが、親鸞聖人は一つ言葉を加えていらっしゃいます。それは「永く」です。この一言がなければ、いくら捨てないといわれても、何かあったらもう止めたと捨てられる可能性をもちます。そこで「永く」を加え、決して捨てないというおこころをあらわしてくださっているのです。いいかえれば、私たちはこれから先、何が起こるかしれません。何が起こっても不思議でないのが私たちの人生です。そのなかで、たとえ私たちが阿弥陀さまを忘れることがあったとしても、阿弥陀さまは私たちを決して忘れてはくださらないのです。だからこそ安心して生きていくことができます。そしてやがて娑婆の縁つきて命終わるときには、阿弥陀さまに摂取不捨されたまま、そのおさとりの領域であるお浄土に生まれさせていただくのです。それを往生といいます。死ぬという暗闇に消え去ってしまうのではありません。往き生まれさせていただくのです。そこに未来が光り輝き、安心して命終わっていける道が開けます。

 こうして私たちはどこかにいるのではありません。いつでもどこでも阿弥陀さまの摂取不捨というお慈悲のなかに包まれてあったのです。阿弥陀さまに抱かれているからこそ、安心して生き、安心して命終わることができるのでした。

コメント

赤ちゃんのはたらき

2017年10月27日 | 水月法話

 これまでずっと考えてきたが、いい譬喩が思い浮かばなかった。これも適切とはいえないかもしれないが、ここ数週間、毎火曜日の夜にお参りをさせていただいている若いお父さんのことである。おつとめを終えて御布施を出してくださる手に入れ墨が見えるから、昔はヤンチャをしていたのであろうと思う。ところが数週間前、わずか五ヶ月の赤ちゃんが突然亡くなった。あまり詳しいことは聞けていないが、うつぶせで寝ていて、窒息死したそうである。奥さんはただただ泣き崩れるばかりであった。祖父も祖母も、また親戚の方々も同じである。「かける言葉がない」と言葉を詰まらせていた。その先に小さな棺のなかで寝ている赤ちゃんがいた。若いお父さんは涙をこらえながら気丈に、「五ヶ月の子だからといって簡単に済ませるのではなく、成人と同じように通夜・葬儀をしてあげてほしい」と私にいった。むろん私もそう思った。そして悲しい通夜・葬儀・初七日法要を終えた。すると、お父さんは「満中陰までの七日、七日のお参りもしてほしい」といった。それで毎火曜日の夜にお参りをさせていただいているのである。

 拙寺ではそうしたおり、『阿弥陀経』のおつとめをしている。しかも皆さんと一緒にである。それがいつしか習慣になって、私がお参りに行かせていただくと、皆さんはお経本をそれぞれ手にするようになっている。「では、『阿弥陀経』のおつとめをさせていただきます。その本の○○ページからです」と声をかけ、カネを鳴らして、「仏説阿弥陀経、如是我聞、一時仏在……」と音木を打っていると、そのお父さんもたどたどしく、ついてくる。おそらくはじめてお経をおつとめするから、なかなかうまく読めない。そこで私は、音木をゆっくり、お父さんの声に合わせて打っている。普段よりはそうとう長い時間がかかっていると思う。そしておつとめを終え、ちらっとお父さんを見ると、顔の前で両手を合わせている。正しい合掌の作法ではないが、私は何もいわず、お父さんの気がすむまで合掌を終えるのを待っている。また先日は、お父さんのお父さんがお参りに来ていて、おつとめのあと、お経本を手にして「これは床に置いたらアカンねんな」というので、私が「そうです。こうした念珠やお経本は足で踏むところに置かないというのが最低限の作法ですね」というと、みな一様に床にあったお経本を膝の上に置いた。それを見ていて思った。お父さんたちは赤ちゃんのためにと思って、おつとめし、合掌し、お経本を膝に置いたのかもしれない。しかし、そうした行為は自分でしていることに間違いないが、実は赤ちゃんがそうさせている。今までお経本など手にしたこともなかったであろう、お父さんたちを、赤ちゃんが、おつとめせしめ、合掌せしめ、膝の上に置かしめているのではなかろうか。そこから、お念仏というものは、確かに自分の行でありながら、実は阿弥陀さまが私の上にはたらいて、お念仏申させている、如来の行であったと味あわせていただいた。「しかるにこの行は大悲の願より出でたり」 阿弥陀さまが諸仏さまに讃嘆させ、お名号が私に届けられていた。それをいただいてお念仏申しているが、お念仏の根源は阿弥陀さまにあったのである。

コメント

悪人正機の教え

2017年09月20日 | 水月法話

 浄土真宗の究極の教えとして、悪人正機(あくにん・しょうき)ということがいわれます。阿弥陀さまは、善人よりも悪人をまさしき目当てとしてお救いくださるということです。これを究極というのは、阿弥陀さまの大悲の焦点を言葉であらわすのにギリギリの表現を用いているからです。人間の常識からいえば、悪人よりも善人が救われると思うでしょう。それが当然です。けれども、阿弥陀さまは違うのです。善人よりも悪人に大悲の焦点を当てておられるのです。悪人は救いようがないからです。その救いようのないものを救おうとするのが阿弥陀さまの大悲というものなのです。
 けれども、誤解しないでください。その悪人というのは、いわゆる犯罪者のことをいっているのではありません。日々、悪を作らずに生きていけないわたくしたちのことをいっているのです。それに対して善人とは仏道修行にひたすら励み、仏陀に近づこうとしている人たちのことです。そうした人たちを傍(かたわ)らにして、日常生活のなかに埋没しているわたくしたちに焦点を当てて、救おうとしてくださっているのが悪人正機ということです。
 わたくしたちは阿弥陀さまの正客(しょうきゃく)なのです。お相伴(しょうばん)ではありません。それをありがたいことと阿弥陀さまにおまかせ申し上げていくのが浄土真宗でいう信心ということです。

コメント

ビールかけ

2017年09月19日 | 水月法話

 プロ野球で広島カープがリーグ優勝しました。おめでとうございます。広島へは何度も行っておりますので、嬉しく思います。けれども、申し訳ありませんが、心の底から喜べません。私の応援しているチームではないからです。人間って勝手なものですね。
 ところで、優勝すると、ビールかけがあります。選手たちが喜びを弾けさせています。でもあれは全員が参加しているのでしょうか。というのは、拙寺の御門徒のなかには驚くほどアルコールに強い方がいます。とくにある方は、朝・昼・晩、ずっとお酒を呑むので、一升瓶の蓋をしないそうです。ところがある人は反対に、弁当のなかに奈良漬けが入っていると、蓋を開けた途端に、その匂いで酔ってしまうそうです。そうしたアルコールに弱い方もおられるので、優勝のビールかけはどうなんだろうと思ってしまいます。しょうもないことですが……。
 蓋といいますと、浄土真宗では阿弥陀さまのご本願のみ言葉をそのまま聞き入れている状態をいいます。そこに蓋をすることは許されません。蓋をすれば阿弥陀さまのみ言葉が入ってこないからです。奈良漬けの場合はその方の体質ですから、どうしようもありませんが、阿弥陀さまのみ言葉を前にしたときは、一升瓶の蓋をしないというように、開けっぱなしにしておくことです。どんどん入ってきます。それが信心です。そしてお念仏が口に出て下さいます。お酒と一緒にするのは適当でないかもしれませんが、広島優勝から思いあわされます。

コメント

幸せはどこに

2017年09月18日 | 水月法話

 浄土真宗というのは、一言でいえば、口に南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とお念仏を申させていただき、やがていのちが終わったならば間違いなく阿弥陀さまのお浄土に生まれさせていただき、即座に仏陀としてのおさとりを得させていただく教えです。逆にいえば、おさとりのお浄土を目指し、お念仏申させていただく教えです。それが真実まことの道であると説くのです。
 そうしますと、ある人がいいます、「それで幸せになれますか」と。この問いは、一見、筋が通っているように見えますが、実は、問い自体が間違っているではないでしょうか。というのは、幸せというものがどこか遠くにあって、それを得られるか得られないか、と思っているようですが、そのように考えていれば、一生涯幸せは得られないでしょう。不平と不満と愚痴の生活しかありません。世の中には、幸せという名の幻を餌(えさ)にして勧誘する宗教がわんさとありますが、決してだまされてはいけません。幸せというのは、自分自身が感じていくものです。感じられないのは心が貧しいからです。目が見える、手が動く、心臓が動いている、当たり前だというけれど、その当たり前を不思議なことであるといただき、お念仏のなかで心豊かに幸せを味わっていくのです。

コメント

大寂定にいりたまひ

2017年09月17日 | 水月法話

 静かな朝を迎えました。テレビをつければ、台風十八号がもうすぐ鹿児島に上陸すると伝えています。やがて私どものほうへ進んでくるでしょう。本堂で予定していた敬老会も中止になりました。小学校の運動会も順延になったと聞きました。今日の月参りの家からも「また来月でいいですよ」と電話がありました。けれどもいまは、静かな朝です。
 親鸞聖人は『浄土和讃』「大経讃」に
  大寂定にいりたまひ 如来の光顔たへにして
  阿難の慧見をみそなはし 聞斯慧義とほめたまふ
と詠われています。ここでは『大経』の異訳である『如来会』によって造語されています。正依の『大経』で申しますと、お釈迦さまがマガダ国の首都・王舍城の郊外にある耆闍崛山(ぎしゃくっせん)の山上で一万二千人のお弟子と無数の菩薩方とともにおられたとき、突如、光り耀くお姿をあらわされました。それを見た常随の弟子である阿難尊者が驚いて立ち上がり、「私はいままであなたのそばを離れたことがありませんが、今日のようなお姿を拝見したのははじめてでございます。これはいったいどういうわけでありましょう」と、お釈迦さまのお徳を五つに分けてたたえたところ、お釈迦さまは「そなたは誰かに教えられて問うているのか」と逆に問われました。阿難尊者が「いえ、誰かに教えられたわけではありません。私自身が不思議に思い、お尋ねしたのです」と答えますと、「おまえ、ええこと聞いたなあ」(むかし、梯實圓和上が大阪弁で翻訳してもええやろ、とおっしゃった言い方)といわれ、みずからの出世本懐なることを述べ、阿弥陀さまのおいわれを詳しく説かれていくのでした。これが『大経』の発起序(ほっきじょ)と呼ばれる一段の概要です。
 そのなかで、お釈迦さまが光り耀くお姿をあらわされたというのは、阿弥陀さまに溶け込み一体になっているということで、弥陀三昧と呼ばれます。阿弥陀さまと一体になって説かれるのが『大経』です。お釈迦さまの言葉はそのまま阿弥陀さまの直説であることをあらわします。それを『如来会』では「大寂定(だいじゃくじょう)」といわれています。そこで先ほどの和讃では「大寂定にいりたまひ」と詠われているのです。ただ語感からですが、いまの静かな朝、「大寂定」という言葉が思い浮かびました。

コメント

新米をいただいて

2017年09月16日 | 水月法話

 昨日、ご門徒から新米をいただきました。今年は不作であろうかと思っていたら、わりと豊作であったらしいです。そのお仏米でした。
 真宗学で「行信半学」という言葉があります。行と信の問題がわかれば、親鸞聖人のみ教えの中心はほぼ学ぶことができるという意味です。それは真宗学全体の半分を占めるというので「行信半学」と呼ぶのでしょう。そのなかでもとくに問題になるのは大行論です。先哲は心血をそそいで微に入り細に入り研鑽され、蘭菊の美を競うがごとく、幾多の学説が生じました。大別すれば、能行か所行かに分かれます。ただし所行といっても、先哲によって定義が異なることがあるので注意しなければなりませんが、おおよそ能行とは衆生の称名、所行とは法体名号です。そのどちらであるかという問題です。私は学生時代、なぜ大行論に二説、細分すれば諸説あるのか疑問でした。親鸞聖人はそんなはっきりしないようなことをおっしゃったのだろうかと不思議でなりませんでした。いまは思うところがありますが、それはさておき、利井鮮妙和上(一八三五~一九一四)の大行論は能所不二の法体名号とするものでした。その理由として、一に行信次第の行なるが故に、二に第十七願建立の行なるが故に、とされます。ところがここに問題が出てきます。法体名号を行とすると、それは阿弥陀さまが成就された果ではないか、行とは衆生往生の因である、その因である名号をただちに行といえるかということです。そこで鮮妙和上は譬喩をもって示されました。すなわち、今年収穫した米は果に違いないが、来年に向かえば籾種の因となるといわれるのです。阿弥陀さまは五劫の思惟と兆載永劫のご修行によって南無阿弥陀仏のお名号を成就されました。南無阿弥陀仏は確かに果です。しかし、その果である南無阿弥陀仏は私たちにとってそのまま往生の因となるのです。それを頂戴するのが信心です。信心は仏果である南無阿弥陀仏という法体名号を頂戴した状態をいうのですから、私たちの上で信心が正因となるわけです。ご門徒からいただいた新米を見て、鮮妙和上の譬喩を思い浮かべたことでした。

コメント

りゅうちゃん

2017年09月15日 | 水月法話

 五、六年くらい前でしょうか。まだ梯實圓和上がご健在のころ、大阪の「行信会」という勉強会で、ある先学の論文を高く評価されお話をされたのですが、それがどこの学術誌にあるのかわからず、お電話でお尋ねしたことがあります。ご回答いただいたそのついでに、「犬は浄土に往生できるのか」という質問をさせていただきました。ちょっとしたことがあったからです。ただし和上がどのようにお答えになったかは控えさせていただきます。
 月参りをさせていただいておりますと、いろいろな犬に出くわします。たいていは吠えて吠えて仕方ありません。とくにある家ではお仏壇の前に座った私のすぐ近くで吠えっぱなしです。家の人がおられれば、すぐ奥に連れて行ってくださるのですが、お留守のときはもう吠えっぱなしです。あまりのうるささに、
「光顔巍々、威神無極……」
「やかましいわ!!」
となったこともあります。まさに「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」(『歎異抄』第十三条)でした。またある家では吠えはしませんが、私が家に上がってお仏壇に向かおうとした瞬間に目が合い猛ダッシュで走ってきてスネをガブッとされたこともあります。逃げる間もありませんでした。けれども、そうした犬ばかりではありません。玄関の戸を開けて声をかけると、出迎えてくれて、読経中はずっと伏せています。私が帰ろうとしたときには玄関まで見送ってくれるような、おとなしい犬もいます。
 その一人、ではない、一匹が「りゅうちゃん」という名の犬です。一時期は首に赤いバンダナを巻いてもらうのが嬉しいらしく、「これ見て。オシャレでしょ」といっているようでした。昨日は首に念珠のようなものを巻いてもらっていました。読経中は私の後ろで気持ちがいいのか、すやすやと居眠りしていたそうです。そして読経が終わって振り返り、ご夫婦と何気ない会話をしていると、ずっと黙って聞いています。犬の姿はしていますが、まるでおとなしい人間のようです。それでも犬はやっぱり犬です。話しかけても、答えはありません。何か悲しく思います。「この子(りゅうちゃん)が喋れたらいいですのにねえ」と思わず口に出ました。今生(こんじょう)の生(せい)を終えたら、どうか人間に生まれ、ご信心をえて、お念仏申す身になってくれよと、見送ってくれる、りゅうちゃんの顔を見ながら、家をあとにしました。

コメント