天上の月影

勅命のほかに領解なし

行空上人破門の問題(1)

2018年01月23日 | 小論文

 『三長記』元久三年(一二○六)二月三十日条にはその日の宣旨を掲載したあとに、次のような記述がある。
 

   行空に於ては殊に不当なるに依つて、源空上人一弟を放ち了る(1)。

法然は行空を破門したというのである。このことは行空の生涯を語るうえできわめて重要である。『四十八巻伝』には「法本房行空、成覚房幸西は、ともに一念義をたてゝ、上人の命にそむきしによりて、門徒を擯出せられき」といい、諸行本願義を立てた覚明房長西も挙げて、「この三人随分名誉の仁たりといへども、上人の冥慮はかりがたきによりて門弟の列にのせざるところなり」といっている(2)。ただし幸西が擯出された事実はないが、行空が破門されたというのはいまの『三長記』によって傍証されよう。そして「門弟の列にのせざるところなり」といい、法然門下として認めないというのである。おそらくこれが大きな要因となって行空は鎮西派から背師自立の邪義を唱えたといわれるのであろう。

 ところが松野純孝氏はこの破門について疑問視されている。すなわち、

    もし行空が、この元久三年二月三十日にほんとうに源空から追放されていたら、これから約一年も経過した承元の弾圧で、なにゆえになおも行空が源空の弟子の名において配流に処せられたか、その事由が理解しがたいからである。「三長記」の記載は行空追放という単なる風聞に基づいていたのではなかろうか。(中略)源空が行空を果たして破門したかどうかはすこぶる疑問なのである(3)。

といわれるのである。梯實圓氏も「実際に破門されたかどうかには疑問が残らないではない」といい、「行空を破門させよという要請はあったでしょうが、破門を実行されたかどうかはわかりません」といわれている(4)。そこでまず行空破門の実否を検討してみよう。

(1)三条長兼『三長記』元久三年二月三十日条(『史料大成』二五・二五一頁)
(2)『法然上人行状絵画(四十八巻伝)』第四十八巻(井川定慶氏集『法然上人伝全集』三一八頁)。なお文中の「上人の命にそむきしによりて」というのは一念義の停止を宣言したとされる『漢語灯録』巻十「遺北陸道書状」に背いて一念義を立てたということであろう。
(3)松野純孝氏『親鸞─その生涯と思想の展開過程』(三省堂、一九五九年)八七頁。
(4)梯實圓氏『玄義分抄講述─幸西大徳の浄土教─』(永田文昌堂、一九九四年)二一頁、同氏『親鸞聖人の生涯』(法蔵館、二○一六年)九五頁。

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行空教学の先行研究(5)

2017年08月31日 | 小論文

 なお三田全信氏は「『愚管抄』に行向とあるのは、音読の誤りで、行空(法本房)で『三長記』の上記の記述には、十戒毀犯といっているが、これは明らかに彼の立説からいっても女犯に通じ、十戒の中で邪淫戒に該当するから、法然上人は直ちに破門を命じたとある(1)」と述べられている。このなか、「『愚管抄』に行向」というのは、「院の小御所の女房、仁和寺の御みろの御母まじりにこれを信じて、みそかに安楽など云物よびよせて、このやうとかせてきかんとしければ、又ぐして行向どうれいたち出きなんどして、夜るさへとゞめなどする事出きたりけり(2)」とあるものである。この文章を氏は慈円が健康異状で代筆者がおり、「行空と」というところを「行向ど……」と言語障害的な発音をしたのを代筆者がそのまま筆を運んだと考えられ、「行空と、うれいたち出きなんどして、夜るさへとゞめなどする事出きたりけり」と読み、行空が院の小御所に宿泊したと見られるのである。しかし、「行向」は「ゆきむかふ」であって、その否なることは前に述べた。そして『三長記』の十戒毀犯を「女犯に通じ」「邪淫戒に該当する」という根拠となっている「彼の立説」とは、弁長が伝える相続開会の一念義のことのようである。すなわち『念仏名義集』に、
  

念仏には只だ一念と云ふ事いみじく貴き也。其の故は念と云ふ文字は人二たりが心とよむ也。一と云ふ文字をばひとつとよむ也。されば一念と云ふは人二たりが心を一つにするとよむ也。されば男女二人寄り合ひ我も人も二人が心よからん時に一度に只だ一声南無阿弥陀仏と申すを一念義と申す也。されば寡にて一人あらんづる人は此の一念の行ひは有るまじければ往生はすまじきとて一人ある人人が二人に成り合へり(3)。

とあるものである。こうして氏は「行空こそ破戒を平然と行い女犯を常習していたことが窺われる(4)」といわれるのである。

(1)三田全信氏『浄土宗史の新研究』(隆文館、一九七一年)五七頁。
(2)慈円『愚管抄』巻第六(『岩波日本古典文学大系八六 愚管抄』二九四~二九五頁)
(3)弁長『念仏名義集』巻中(『浄土宗全書』一○・三七六頁)
(4)三田全信氏『改訂増補 浄土宗史の諸研究』(山喜房仏書林、一九八○年)三○三頁。

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行空教学の先行研究(4)

2017年08月30日 | 小論文

「行空は造悪を孕む邪念義である」と断言された山上正尊氏は「不律無慚」なるを『三長記』の記述が「思ひ合さるゝ」といわれるだけであるが(1)、藤枝昌道氏は「この記録に拠れば行空の主張せる一念義は、罪悪を救済する本願の旨趣を転用して、殊更に十戒毀犯の悪業を勧めて造悪無碍の異義を力説し」といい、「また専修念仏義を曲解して、念仏を専修する以外の余仏の教義を謗捨したものゝようである」といわれている(2)。ここに「造悪無碍の異義」という語が用いられている。大原性実氏も「吉水門弟中の造悪無碍者」として「然らば一念義の系統に於て、何人がこの邪義を骨張したのであろうか。察するにそれは法本房行空その人である」と断定されている。そして「行空が単純なる一念義をたてたのみでないこと」は『三長記』の記述によって察せられるとし、「かくの如く十戒毀犯之業、即ち造悪の邪義を骨張したところが大いに師説に叛いた所以であって、遂に擯出せらるゝこととなったのであろう」といわれている(3)。行空破門の理由を造悪に求めるのは同じであるが、従いがたいことはすでに述べたとおりである。ただ了祥が「悪業をほしいまゝにすべし」といっていたのを「造悪無碍」の語を用いられているのが注目される。とくにそれを行空が骨張したといわれるのは問題である。前節で述べたように梯實圓氏は「行空の一念義が、『三長記』に記されているとおりであるとすれば、むしろ法然聖人の教えに忠実な人であったというべきでしょう(4)」といわれているからである。『三長記』の記述をいかに解するか、先行研究において分かれている。課題として後に考えることにしよう。

(1)山上正尊氏『一念多念文意講讃』(為法館、一九五六年)九○頁。
(2)藤枝昌道氏『一念多念文意講義』(顕真学苑、一九五三年)二九~三○頁。
(3)大原性実氏『真宗異義異安心の研究─真宗教学史研究 第三巻─』(永田文昌堂、一九五六年)七六頁。
(4)梯實圓氏『親鸞聖人の生涯』(法蔵館、二○一七年)一一八頁。

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行空教学の先行研究(3)

2017年08月29日 | 小論文

 ここで了祥は「まづ悪業をほしいまゝにすべしといふ事」として、「是等まさに法本が邪義なるべし」と結論づけている。行空の邪義はまずもって「悪業をほしいまゝに」したところにあるというのである。それゆえ邪義なのである。その証として挙げているのは、第一に『三長記』元久三年(一二○六)二月三十日条に載せられている宣旨の記述である。最後の「殊に不当と為す」というのは同条に「行空に於ては殊に不当なるに依りて、源空上人、一弟を放ち了んぬ」とあるなかの一句を加えたものである。了祥は行空破門の理由について「法本は一念につきての破門に非ず、不当の咎によりてなり(1)」といっている。「不当の咎」とは「悪業をほしいまゝに」したということで、この句を加えたのであろう。そして「故(ことさら)に十戒毀(教カ)化の業を勧め」とは「殺したり・盗んだりすることに対する戒めを破ってよいとするもの(2)」で造悪を許すことである。それによって「悪業をほしいまゝに」する事態が出てくるのである。住田智見氏は「元久三年丙寅(建永元)二月三十日を以て元祖より擯斥せられたること三長記に見ゆ。其理由は恣に造悪を許し余の仏願を謗り念仏の行に違失すと云ふに在り。然れば一向専修を心得あやまりて造悪を恣にせんとし、余行を修する者、余仏を念ずることを悪しざまに誹毀したるを知るべし(3)」といわれている。氏もまた行空破門の理由を造悪に求め、『三長記』の記述によって造文されている。

(1)了祥『異義集』巻一(『続真宗大系』一九・一四頁)
(2)石田瑞麿氏『浄土教の展開』(春秋社、一九六七年)二七五頁。
(3)住田智見氏『浄土法門源流章解説』(法蔵館、一九二五年、一九八二年再刊)二二七頁。

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行空教学の先行研究(2)

2017年08月19日 | 小論文

 了祥(一七八八~一八四二)の『異義集』を見てみると、
 

   まづ悪業をほしいまゝにすべしといふ事、『三長記』にも、沙門行空、忽(たちま)ち一念往生の義を立つ。故(ことさら)に十戒毀(教カ)化の業を勧め、恣(ほしいまま)に余仏を謗り、殊に不当と為す」と、しるべし。又元祖『北越書』にのたまふところ、(中略)北国佐渡にあるは法本なれば、おそらくは是なるべし。その『起請』に本願を信ずるものは、破戒もかへりみるべからずと。又十悪五逆なお生る、いはんや他の小罪をやと。又懈怠無道心不当不善のたぐひの、ほしいまゝに悪をつくらんとて申出るなりと。又『金剛宝戒章』の如き、鏡空の説に法本の作なるべしといふに、「行空問て曰く。濫行の人を以て説法布薩の導師と為すこと、其の咎有るべきや否や。源空決して曰く。小乗家に於ては濫行の人を以て導師と為すの理、有るべからず。若し導師と為さば必ず其の咎有るべし。大乗の意は然らず。濫行は愚癡也。愚癡を以て不浄の根本と為す。諸もろの不浄を尋ぬるに愚癡に過ぐる不浄無し。智者に於ては淫欲酒肉を以てす。更に不浄と為さず。諸道の中には智恵を以て清浄の本と為す故也」と。又『布薩式』これと同じで、ことに立川の邪意により、邪淫戒に秘密門を立てたり。是等まさに法本が邪義なるべし(7)。

とある。

(1)了祥『異義集』巻一(『続真宗大系』一九・三頁)。なお『金剛宝戒章』の引用にあたっては石井教道氏編『昭和新修法然上人全集』一○五○~一○五一頁によって加えたところがある。

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行空教学の先行研究(1)

2017年08月18日 | 小論文

 行空の教学をうかがうにはまずもって自著に依らねばならないが、そのようなものは伝わっていないし、あったという形跡もない。ただ資料としては三条長兼(生没年不詳)の『三長記』に、

    沙門行空、忽(たちま)ち一念往生の義を立つ。故(ことさら)に十戒毀(教カ)化の業を勧め、恣(ほしいまま)に余仏を謗り、其の念仏行を願(ママ)進す(1)。

とあるものや、弁長(一一六二~一二三八)の『浄土宗要集』に、

    法本房の云く、念とは思ひとよむ。されば称名には非ずと云云(2)

とあるものが確実なものといえよう。「行空」「法本房」と明記されているからである。他に同じく弁長の『末代念仏授手印』裏書に、

    或る人の云く、寂光土の往生、尤も是れ殊勝也。称名往生は是れ初心の人の往生也。寂光土往生は尤も深き也(3)。

とあり、『念仏三心要集』も同様であるが(4)、『念仏名義集』は少し文が違って、

    或る人は寂光土の往生を立つる。此の学文を我に随てせよ。若し此の心を知らずして念仏申さん者は往生すべからずと申す(5)。

とある。これが行空の立義であるかどうか問題があるが、私はそうであると考えている。詳しくは後の章において述べよう。ともあれ、このあたりが資料として用いていいと思う。ただし何をいっているものであるのか、文の理解は慎重でなければならない。ともすれば、誤解する可能性があるからである。石田瑞麿氏は「二、三の考え方を語るものがすでに知られているが、いわゆる一念義がどのような形で説かれていたものか、まったくわからないといった方が正しい(6)」とさえいわれている。換言すると、行空の一念義は解明されていないということになるであろう。では先学はどのように理解されているのであろうか。先行研究を概観することにしよう。

(1)三条長兼『三長記』元久三年二月三十日条(『史料大成』二五・二五○~二五一頁)。なお『鎌倉遺文』三・二七○頁、一六○五号では最後が「還りて念仏行を失す」となっている。
(2)弁長『浄土宗要集』第五(『浄土宗全書』一○・二二八頁)
(3)弁長『末代念仏授手印』裏書(『浄土宗全書』一○・一一頁)
(4)弁長『念仏三心要集』(『浄土宗全書』一○・三九一頁)
(5)弁長『念仏名義集』巻下(『浄土宗全書』一○・三八二頁)
(6)石田瑞麿氏「一念義と口伝法門」(『伝道院紀要』一、一九六三年、のち同氏『日本仏教思想研究 第三巻 思想と歴史』、法蔵館、一九八六年、所収)

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承元(建永)の法難の結末(7)

2017年08月17日 | 小論文

 ところが二○一七年七月二十七日、平雅行氏に御教示いただいたところによると、この『拾遺古徳伝』の記事は信憑性に欠けるということである。なぜなら、「さきの中納言親経の卿」とあるが、藤原親経は法難の段階で見任の中納言であるので官位があわない。また「八座にて議定」とあるが、これは「杖座」=陣定の誤記である。そもそも、鎌倉初期の段階で、死罪を科すかどうかの議論が陣定で行われたとする話そのものが、きわめて怪しい。鎌倉時代の朝廷では、死罪の僉議をしていないはずである。実際には鎌倉時代でも処刑が行われているが、朝廷の正式の手続きによるものではなく、幕府や後鳥羽上皇や東大寺などの権門が私的に処刑するのを黙認しただけである。法難では、後鳥羽上皇が暴走して安楽ら四名を処刑した。後鳥羽上皇の側近もふくめて、これに驚き、内心ではやりすぎだと考えたであろうが、この頃の後鳥羽上皇を止めることのできる人間は誰もいない。院御所議定の場で上皇から意見を求められれば、顔色をうかがい、言葉を選びながら、慎重に意見を言ったであろうが、後鳥羽上皇のいない陣定で死罪僉議をしたという話そのもが荒唐無稽である。誰を死罪にするかという重要案件は、後鳥羽上皇にしか決められない。陣定での死罪僉議が後鳥羽上皇の耳に入れば、おそらく越権行為として激怒したはずである。したがって氏はこの記事を、法然門下における親鸞の位置を大きくみせようとした覚如の作り話であると思うといわれた。ただこれを覚如の創作とまでいえるかどうかはわからない。先に梯實圓氏が「そういう伝承があったにちがいありません」といわれていたように、何らかの伝承があったのかもしれない。しかし事実としてはありえないということになる。お忙しいなか御教示いただいた平雅行氏にこの場を借りて厚く御礼申し上げる。
 

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承元(建永)の法難の結末(6)

2017年08月16日 | 小論文

 なお覚如の『拾遺古徳伝』によれば親鸞の流罪について次のように伝えている。
 

住蓮・安楽等の四人は物忩の沙汰にて左右なく誅せられをはりぬ。そのほかなほ死罪あるべしなどきこえけるなかに、善信聖人(=親鸞)も死罪たるべきよし風聞す。それかの聖人はいまだ宿老におよばずといへども、師の提携にもたへ、宗の奥義をもつたへて世誉等倫にこえ、智徳諸方にあまねかりければにや、かねて天聴にそはなり、さいだちて雲上にきこゆ。まめやかに徳用やはたしけん。君臣ともに猶豫のうへ、六角のさきの中納言親経の卿、年来一門の好(よし)みを通ぜられけるが、おりふし八座にて議定のみぎりにつらなりて、まうしなだめられけるによりて、遠流にさだまりてけり。すなはち配所越後の国〔国府〕におもむきまします(1)。

親鸞ははじめ死罪であったが、死一等減ぜられて遠流になったというのである。これについて梯實圓氏は、「事実かどうか、今のところ『拾遺古徳伝』以外に確かめる文献はありません。しかしそういう伝承があったにちがいありません(2)」といわれている。

(1)覚如『拾遺古徳伝』巻七第三段(『真宗聖教全書』三・七四一頁。
(2)梯實圓氏『親鸞聖人の生涯』(法蔵館、二○一六年)一一五頁。

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承元(建永)の法難の結末(5)

2017年08月15日 | 小論文

 次に流罪について平雅行氏は、死罪四名説の確定によって「とすれば、流人においても、その可能性が大である。『愚管抄』の史料的限界が浮き彫りになるとともに、『法水分流記』『歎異抄』の記事の信憑性がきわめて高くなった。親鸞・行空らの流罪を否定する森氏の主張を受け容れることはできない」といわれる。そして前の『教行証文類』後序の文を引き、

自分が流罪になったという親鸞の発言を森氏が否定する以上、親鸞は嘘をついたことになる。つまり森氏によれば、親鸞は弾圧が目前に迫る中、臆病にも越後に逃亡した人物であり、また逃亡した事実を隠蔽して、流罪者の一人だと虚言を弄したことになる。虚言癖のある臆病者というのが森氏の親鸞像だ。氏が親鸞を好まない理由がよく分かるが、これを果たして、学説と呼んでいいのだろうか。流罪・処刑者に関する森氏の想定は、根本から破綻している。

と批判されている。文中の「氏が親鸞を好まない理由」というのは、森氏が「後記」において自身の学問遍歴を述べるなかで、

中世思想史研究の大家の著書を手にとり、後記を開くと、自分は学生時代に親鸞の思想に心惹かれて、というようなことがよく記されている。しかし私は、どうにも親鸞が好きでなかった。当時の直感がどこまで当たっていたかは分からないが、とにかく日本思想と言えば鎌倉仏教、それも親鸞、というような風潮に慊らぬものがあった(1)。

というものである。それを平氏は「よく分かるが」といちおうの理解を示されながら、そうした好き嫌いで親鸞像を構築し、「予はその一つなり」と明言しているのを否定するのは「果たして、学説と呼んでいいのだろうか」といわれる。至極当然といわねばならない。親鸞は事件の当事者である。その親鸞が、「門徒数輩」が死罪、遠流に処せられたといっているのであるから、信憑性はきわめて高い。それを否定すれば、何を資料とするのであろうか。「予はその一つなり」を「自主疎開」などというのは、憶測過ぎている。少なくとも後序によって、法然以外に親鸞も流罪になったと見るのが通常の理解であろう。そして『歎異抄』『法水分流記』などによって、行空たちの流罪も認めるのが穏当である。

 つまり、承元(建永)の法難の結末として、安楽・住蓮・善綽房西意・性(聖)願房の四名が死罪、法然および親鸞・行空・浄聞房・禅光房澄西・好覚房・幸西・證空の八名が流罪ということになる。ただし證空は慈円の身柄預かりとなり、幸西は問題があるが、おそらく流罪になったものと思われる。

(1)森新之介氏『摂関院政期思想史研究』(思文閣出版、二○一三年)三二二頁。

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承元(建永)の法難の結末(4)

2017年08月14日 | 小論文

 これに烈しく反論されたのが平雅行氏であった(1)。まず死罪については「伊藤唯真氏の研究を無視した」といわれる。というのは昭和五十四年(一九七四)、滋賀県にある玉桂寺阿弥陀如来立像の胎内から勢観房源智の願文と膨大な数の結縁交名が発見された。願文によれば、建暦二年(一二一二)十二月二十四日に源智が先師・法然の恩徳に報いるために、師の一周忌を期して三尺の弥陀像を造立し、像内に数万名人の姓名を納め、これら衆生の極楽往生を願ったものである。そのなかの「源頼朝等交名」第二紙裏には源智の筆による「法然房源空 真観房感西」らの名前が見える。その時点で彼らはすでに過去者である。伊藤氏は「この過去者の名を挙げているのは、源智自身にそれら先輩僧を弔う気持ちがあってのことであるが、そのような心を誘発したのは、なによりもかれらが源智にとって、忘却できない重要な人物であったからである」といわれる。そして彼らの二行後に「安楽房遵西 住蓮房 善綽房西意 聖願房」の四名の名前が記されているのである(2)。伊藤氏は「この四名こそ、承元の法難で死刑に処せられた人物である」といい、

源智は記憶の生々しいまま、交名に死罪の四人の名を記したのである。『歎異抄』に伝えられた死罪者の名がこの結縁交名によって裏づけられたことになる(3)。

といわれている。これをもって平雅行氏は「こうして『法水分流記』『歎異抄』の四罪四名説が確定した。つまり『愚管抄』が記す安楽・住蓮以外にも、処刑された者がいたのである」といわれるのである。

 もっとも森新之介氏も玉桂寺阿弥陀如来立像胎内文書に注意されているが、「多くの史料が西意と性願房の斬首を伝えていないことは不審である。また『法水分流記』は、西意と性願房は摂津国で佐々木判官に誅され、遵西と住蓮は近江国馬淵で二位法印尊長に誅されたとの別伝を載せており、これらは二つの異なる斬首事件が後に混同されたものとも考えられる(4)」といわれている。しかし『法水分流記』(一三七八年成立)が後の混同であったとしても、玉桂寺の結縁交名は法難のわずか五年後である。混同することはないであろう。伊藤氏がいわれるように「源智は記憶の生々しいまま、交名に死罪の四人の名を記した」と見るのが穏当と思われる。

(1)平雅行氏「専修念仏の弾圧原因をめぐって」(同氏『鎌倉仏教と専修念仏』〈法蔵館、二○一七年、三四二~三四三頁〉)
(2)『玉桂寺阿弥陀如来立像胎内文書調査報告書』(一九八一年)一九一頁。なおこれが源智の筆であることは『同書』八頁に「第二紙の終りから裏面にかけては、源智筆と思われる」といわれている。
(3)伊藤唯真氏「玉桂寺阿弥陀仏造像結縁交名にみる法然教団」(同氏著作集Ⅰ『聖仏教史の研究 上』〈法蔵館、一九九五年、三二三頁〉)。なおそのなかに先の『調査報告書』一九一頁に「善綽房 西意」と二人のように翻刻していることについて、氏は『前掲書』三一九~三二○頁に「善綽房は西意の房号である。訂正したい」と述べられている。
(4)森新之介氏『摂関院政期思想史研究』(思文閣出版、二○一三年)三○六頁。

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承元(建永)の法難の結末(3)

2017年08月13日 | 小論文

 そのうえ森氏は、親鸞の『教行証文類』後序に、
 

真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、猥りがはしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて遠流に処す。予はその一つなり(1)。

とあり、「門徒数輩」「死罪」「遠流」といい、「予はその一つなり」と明言しているのを、

配流された者について、慈円『愚管抄』巻第六等の諸史料は源空のみを伝える。(中略)親鸞が所謂「流罪」となる直前の建永二年正月十三日、伯父の藤原宗業は越後権介に補任されている。(中略)これも、親鸞が伯父の任地に自主疎開したと考えれば不審も解消しよう(2)。

といわれ、「自主疎開」とするのである。つまり氏は、この法難において死罪となったのはあくまで安楽と住蓮、流罪は法然のみと見られているのである。

(1)親鸞『教行証文類』後序(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』四七一頁)
(2)森新之介氏『摂関院政期思想史研究』(思文閣出版、二○一三年)三○五~三○六頁。

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承元(建永)の法難の結末(2)

2017年08月12日 | 小論文

 しかしすべての諸伝がこのとおりではない。たとえば慈円の『愚管抄』には、結末だけをいうと、

    終に安楽・住蓮頸きられにけり。法然上人ながして京の中にあるまじにてをはれにけり(1)。

と安楽・住蓮の死罪、法然の流罪のみを記している。『四十八巻伝』では、

    建永二年二月九日、住蓮安楽を庭上にめされて、罪科せらるゝとき、安楽、見有修行起瞋毒、方便破壊競生怨、如此生盲闡提輩、毀滅頓敎永沈淪、超過大地微塵劫、未可得離三途身、の文を誦しけるに、

等といい、

    かさねて弟子のとがを師匠にをよぼされ、

と法然の流罪を述べている(2)。そこで森新之介氏は「以下、建永二年二月に斬首された者は『愚管抄』などによって確認できる遵西(=安楽)住蓮の二人のみであったとして、考察を進める」「以下、確認できる源空一人のみが配流されたとして考察を進める」といわれるのである(3)。

(1)慈円『愚管抄』巻第六(『岩波日本古典文学大系八六 愚管抄』二九五頁)
(2)『四十八巻伝』第三十三巻(井川定慶氏集『法然上人伝全集』二二四~二二五頁)
(3)森新之介氏『摂関院政期思想史研究』(思文閣出版、二○一三年)三○五、三○六頁)

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承元(建永)の法難の結末(1)

2017年08月11日 | 小論文

 建永二年(承元元年 一二○七)二月、法然の専修念仏教団に大弾圧が下された。その結末を示す資料として、『歎異抄』流罪記録には次のように記されている。

    一 法然聖人ならびに御弟子七人、流罪。また御弟子四人、死罪におこなはるるなり。聖人(=源空)は土佐国〔幡多〕といふ所へ流罪、罪名、藤井元彦男云々、生年七十六歳なり。
     親鸞は越後国、罪名藤井善信云々、生年三十五歳なり。
     浄聞房〔備後国〕澄西禅光房〔伯耆国〕好覚房〔伊豆国〕行空法本房〔佐渡国〕
     幸西成覚房・善恵房二人、同じく遠流に定まる。しかるに無動寺の善題大僧正(=慈円)、これを申しあづかると云々。遠流の人々。以上八人なりと云々。
      死罪に行はるる人々
      一番 西意善綽房
      二番 性願房
      三番 住蓮房
      四番 安楽房
      二位法印尊長の沙汰なり(1)。

ここに「法然聖人ならびに御弟子七人」とあるが、幸西と證空は慈円が身柄を預かったので実際は法然および弟子五人ということになる。ただし幸西の身柄預かりには問題がある。『血脈文集』には、

    一。法然聖人者〔流罪土佐国〕〔俗姓藤井元彦〕
        善信者〔流罪越後国〕〔俗姓藤井善信〕
        坐罪科之時勅宣にいはく
      藤井元彦俗姓藤井
      善信者俗名善信(よしざね)
        善恵者無動手大僧正御房(=慈円)あづからしめをはしき
      幸西者俗姓物部常覚房

等とある(2)。死罪について述べるところはなく、法然と親鸞の流罪のみである。また證空の慈円身柄預かりは示すが、幸西の名を挙げるものの、それに触れるところはない。そして法然・親鸞の還俗名が「藤井」であるのに対し、「幸西者俗姓物部」といっているのは、幸西の還俗名が「物部」であったことを示しているのかもしれない。覚如の『拾遺古徳伝』には、

    聖人(=法然)の罪名藤井の元彦おとこ、配所土佐くに〔幡多〕、春秋七十五。このほか門徒あるひは死罪あるひは流罪。流罪のひとびと、浄聞房〔備後のくに〕・禅光房澄西〔伯耆のくに〕・好覚房〔伊豆のくに〕・法本房〔佐渡のくに〕・成覚房幸西〔阿波のくに俗姓物部云云〕・善信房親鸞〔越後のくに国府〕罪名藤井の善信・善慧房〔たゞし無動寺前大僧正これをまふしあづかる〕 已上流罪、指定ともに八人。善綽房西意〔摂津くににして誅す佐々木判官(実名しらず)が沙汰と云云〕・性願房・住蓮房・安楽房〔已上近江のくにむまぶちにして誅す二位の法印尊長が沙汰と云云〕已上死罪、四人(3)。

とあり、幸西の慈円身柄預かりは述べられていない。また「俗姓物部」は『血脈文集』と同じである。静見の『法水分流記』にはまず「上人」として「字法然諱源空」等と註するなか「御配所土州又移讃州」とある。そして門下を列ね、幸西には「阿波配所」の註記があるのみであり、證空には「奥州配所無動寺前大僧正被申預」とある。そして「行空〔住美乃 立一念義 配所佐渡〕」「浄聞〔備後〕」「好覚〔伊豆〕」「禅光〔伯耆〕」「親鸞〔越後〕」と流罪の門弟五人を示したあと、つづいて「善綽」「安楽」「住蓮」「性願」の死罪四人を列している(4)。こうして幸西の慈円身柄預かりを記すのは『歎異抄』だけである。梯實圓氏は「幸西はやはり阿波国へ配流されたのではなかろうか。後年幸西が阿波国に住し、阿波聖人といわれるのもこのときの縁によるのではなかろうか(5)」といわれている。そうするとこの法難において死罪となったのは四名、実際に流罪となったのは法然および弟子六名である。

(1)『歎異抄』流罪記録(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』八五五~八五六頁)
(2)『血脈文集』(『真宗聖教全書』二・七二一~七二二頁)
(3)覚如『拾遺古徳伝』巻七第一段(『真宗聖教全書』三・七三七~七三八頁)
(4)静見『法水分流記』(『真宗史料集成』七・八○四、八一一、八一四、八二六頁)
(5)梯實圓氏『玄義分抄講述─幸西大徳の浄土教─』(永田文昌堂、一九九四年)五頁。

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法然の還俗名について(4)

2017年07月30日 | 小論文

 というのは、先に注意しておいた『四十八巻伝』の太政官符である。他の諸伝にない独自史料であるが、約七ヶ月後に発せられた藤原公定(一一六三~?)の太政官符は次のようである(1)。

太政官符 佐渡国司
 流人藤原公定
  使左衛門少志清原遠安 従参人
  門部貳人        従各一人
右、為領送流人藤原公定、差件等発遣如件、国宜承知、依例行之、路次之国、亦宜給食馬柒具・馬三疋、符到奉行、
同弁       同史
  建永元年九月十八日

公定は内大臣・藤原実宗(一一四五~一二一四)の子であって、このとき正三位であり、のちに従二位に昇るから、藤原姓のままなのであろう。そしてこれを法然の太政官符と比較してみると、和文体と漢文体、日付の位置が異なる、弁官・史の署判の位置が誤っている以外、様式に相違がない。つまり『四十八巻伝』所載の太政官符は史料的価値が相当高いのである(2)。そうすると、法然の還俗名も「藤井元彦」であった可能性がすこぶる高い。それは梯實圓氏が「法然聖人が『藤井』姓をつけられたのは、恐らく藤原兼実(九条家)の縁故によるものでしょう(3)」といわれているように、法然の最大の庇護者であった兼実の意向によるものと思われる。

(1)『鎌倉遺文』一六三八号。
(2)中井真孝氏「『法然上人行状絵図』所収の太政官符」(同氏『法然上人絵伝の研究』〈思文閣出版、弐○一三年〉所収)、平雅行氏『鎌倉仏教と専修念仏』(法蔵館、二○一七年)二九九~三○一頁参照。
(3)梯實圓氏『聖典セミナー 歎異抄』(本願寺出版社 一九九四年)三五九頁。

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法然の還俗名について(3)

2017年07月29日 | 小論文

  しかしこれには問題がある。「源」姓は源平藤橘の貴姓である。罪人となった法然に付されるとは考えにくい。平雅行氏は「一般に中世では、地方の下級官職を任命する際、藤原氏は藤井に、源氏は原に、橘氏は立花に、平氏は平群に書き改めるのが通例でした(『薩戒記』応永三十二年正月二十九日条))。源平藤橘の四姓は貴姓であるため、地方の下級役人を任命する時は、本人が藤原や平を名のっていたとしても、こうした貴姓を使うのを憚って、藤井や平群に姓を変えさせてから任命しています。親鸞の出身は藤原氏ですが、罪人が『藤原』を名のるのを憚って、藤井姓を与えたのでしょう(1)」といわれている。これは親鸞の還俗名が「藤井善信」であった理由の説明であるが、その根拠になっている『薩戒記』は中山定親(一四○一~一四五九)の日記で、必要部分を挙げれば、「此の事に口伝有り、藤原を以て藤井に改め、源を以て原に改め、橘を以て立花に改め、平を以て平群に改めるは例也、(中略)仍て之を改めるは故実也(2)」とある。同様に考えれば、もし法然が仁明源氏の出身であったとしても、与えられるとすれば「原元彦」であったはずである。「源元彦」はありえないと思われる。つまり「源元彦」説は史料的価値が低く、「藤井元彦」の方が信憑性が高いといわざるをえない(3)。

(1)平雅行氏『歴史のなかに見る親鸞』(法蔵館、二○一○年)九六頁。
(2)中山定親『薩戒記』応永三十二年(一四二五)正月二十九日条(『大日本古記録』二二─二、六二頁)
(3)二○一七年七月二十三日、平雅行先生から御教示をたまわった。この場をかりて厚く御礼申し上げる。

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