天上の月影

勅命のほかに領解なし

聖聚荘厳(8)

2017年01月21日 | 浄土和讃を読む

 ■本文
顔容端正たぐひなし
精微妙躯非人天
虚無之身無極体
平等力を帰命せよ

 ■講讃
 今讃は、浄土の聖衆は、身体精妙であって、すなわち無上涅槃をさとれる、弥陀同体の果報であることを述べられたものです。

 出拠は、『讃阿弥陀仏偈』に、

顔容端正にして比ぶべき無し。精微妙躯にして人天に非ず。虚無の身無極の体なり。是の故に平等力を頂礼したてまつる。

とあるものです。

 「顔容端正」顔容とは顔かたち。端正とは、正しくととのえる、ゆがまず直ぐなること。浄土の菩薩の顔かたちが端正で円満なことで、相好円満のことをいいます。
「精微妙躯非人天」精微とは精はすぐれてよきこと。微は微細(みさい)といい、きめこまかいこと。妙躯はことにすぐれてうつくしきたえなるからだ。非人天は人間に非ずと読む言葉で、人間及び天人の体の比べでないということ。人間・天上界のもののように煩悩汚染の有漏業所感の身でないことです。『平等覚経』には、菩薩のからだのすぐれたことを説いて、「其の身体はまた世間人の身体にあらず、また天上人間の身体にあらず」と説かれています。左訓にも「たへなるみなり」とあります。

 「虚無之身無極体」虚無も無極も涅槃の別名で、虚無というのは生死を滅した涅槃の徳をいい、無極とはきわまりつくることのない涅槃の理をいいます。身と体とはともにさとりの身のことで、聖衆のからだは涅槃を証得した身であるということです。左訓にも「ほふしんによらいなり」とあります。

 「平等力」とは、阿弥陀仏は一切諸法の平等であるという真理をさとり、衆生を平等に救い、その浄土に往生するものに平等に涅槃を得せしめられるので、これを平等力というのです。

 すなわち今讃は、浄土の聖衆は、その顔かたちがととのって円満なことは、他に比べるものがないほど美しい。またそのからだの立派なことはいうにいわれぬほどで、それは人間や天人などとちがって、まことに涅槃のさとりをきわめつくされたからだである。ゆえに平等の涅槃をあたえてくださる、この阿弥陀如来を帰命せずにいられないといわれているのです。

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聖聚荘厳(7)

2017年01月20日 | 浄土和讃を読む

 ■本文
安楽声聞・菩薩衆
人・天智慧ほがらかに
身相荘厳みなおなじ
他方に順じて名をつらぬ

 ■講讃
 今讃は、浄土の聖衆は、声聞の菩薩等の名が分かれているが、その内証の智慧も、外相の身形も、平等であって異なることのないことを讃嘆されたものです。

 出拠は、『讃阿弥陀仏偈』に、

    安楽の声聞・菩薩衆・人天、智恵咸く洞達せり。
    身相の荘厳殊異無し。但他方に順ずるが故に名を列ぬ。
    顔容端正にして比ぶべき無し。精微妙躯にして人天に非ず。
    虚無の身無極の体なり。是の故に平等力を頂礼したてまつる。

とあるものです。その淵源は『大経』に、

そのもろもろの声聞・菩薩・天・人は、智慧高明にして神通洞達せり。ことごとく同じく一類にして、形に異状なし。ただ余方に因順するがゆゑに、天人の名あり。(『註釈版』三七頁)

と説かれているものです。

 「声聞」とは梵語シュラーヴァカの漢訳で、声を聞く者の意。仏の説法の声を聞いてさとる者をいいます。もとは仏在世の頃の弟子を指しましたが、二乗・三乗の一に数える場合は、仏の教説にしたがって修行するが、自己の解脱のみを目的とする小乗の聖者のこととされます。

 「人・天」人は人間、天は天人です。「智慧ほがらかに」とは、浄土にある人間と天人の智慧がさわりなくゆきわたり、さとりをきわめつくしていることです。

 「身相」は聖衆のからだすがた、相好であり、「荘厳」はかざりです。浄土の聖衆はみなことごとく金色であって、三十二相八十種好をそなえ、うるわしい容姿をととのえられ、頭には宝冠をいただき、身には応法の妙服を着し、さまざまのかざりをせられているということです。

 「みなおなじ」とは、上に「智慧ほがらかに」とあるのは内徳であり、いま「身相荘厳」とあるのは外徳です。浄土の聖衆はこの内外の徳が平等であって同一なることをいいます。

 「他方」は『大経』に「余方」とあります。浄土からこの娑婆世界を指して他方というのです。「順」は因順で、なぞらえること。「名をつらぬ」は人・天・声聞・菩薩の名をつけることです。浄土の聖衆のさとりは一味平等であるから、声聞とか菩薩とか、また人間、天人とかの区別はないが、しばらく娑婆世界にしたがってこのような名前をつけるということです。

 この浄土に別名のある所以は、曇鸞大師の『論註』によれば、聖衆のもとを知らしめんための故であり、善導大師の『法事讃』の意によれば、他方凡聖の類を救い、五乗斉しく往生せしめんための故であるとされています。

 こうして今讃は、安楽浄土の声聞や菩薩たち、さては人間・天人など、その智慧はあきらかにしてさとりをきわめつくしている。そのからだかたちや荘厳のすぐれていることはみな同じで、阿弥陀如来とすこしもかわるところがない。なぜ声聞・菩薩・人間・天人など、このように名がわかれているかといえば、それは浄土以外の世界であるこの娑婆世界になぞらえてつけられたからであるといわれているのです。

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聖聚荘厳(6)

2017年01月19日 | 浄土和讃を読む

 ■本文
神力自在なることは
測量すべきことぞなき
不思議の徳をあつめたり
無上尊を帰命せよ

 ■講讃
 今讃は、浄土の聖衆は、十方世界に遊んで諸仏を供養すること自在なることを讃嘆されたものです。

 出拠は、『讃阿弥陀仏偈』に、

安楽の菩薩は仏の神を承けて、一念の頃に十方に詣る。算数すべからざる仏世界にして、諸の如来を恭敬し供養したてまつる。
花・香・伎楽、念に従ひて現じ、宝蓋・幢幡意に随ひて出づ。珍奇なること世に絶れて能く名づくること無し。散花して殊勝の宝を供養したてまつれば、化して花蓋と成り、光晃耀し、香気普く薫じて周からざるは莫し。花蓋の小なる者も四百里なり。乃ち遍く一仏界を覆ふこと有り。
其の前後に随ひて次ぎて化し去る。是の諸の菩薩僉欣悦す。虚空の中に於て天楽を奏し、徳を雅讃し、仏恵を頌揚す。経法を聴受して供養し已りて、未だ食せざる前に虚に騰りて還る。
神力自在にして測るべからず。故に我無上道を頂礼したてまつる。

とあるものです。

 「神力自在」神は不測で、はかりがたい不思議の力を神といいます。この力が心にまかせて少しも不自由でないことを神力自在というのです。浄土の聖衆が諸仏を供養されることの自由自在であることです。

 「不思議の徳」この句はもと『讃阿弥陀仏偈』にはありません。親鸞聖人が加えられたもので、その意味は正しくは浄土の聖衆が諸仏を供養される徳のことですが、また自ら上の下化衆生の徳にも通じ、聖衆が自利利他の徳を集められることです。それがつねに不行而行の行であって、分別・測量を超えた行であるから不思議というのです。

 「無上尊」とは、この上もない尊いお方ということで、この名は諸仏に通ずる名ではありますが、今は阿弥陀仏のことをいう。阿弥陀仏は諸仏中の王であるからであり、聖衆が不思議の徳を積集されることは全く阿弥陀仏の積功果徳のほかないから、本に帰して「無上尊に帰命せよ」といわれたのです。

 こうして今讃は、浄土の菩薩が諸仏を供養するはたらきの自在であることは、ともにはかり知ることのできるものではない。このように菩薩が不思議な力を発揮されることは、この上もなく尊い阿弥陀如来のおかげということができる。ゆえにわたくしたちは、このような力をあたえて下さる阿弥陀仏を帰命せずにいられないといわれているのです。

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聖聚荘厳(5)

2017年01月18日 | 浄土和讃を読む

 ■本文
安楽浄土にいたるひと
五濁悪世にかへりては
釈迦牟尼仏のごとくにて
利益衆生はきはもなし

 ■講讃
 今讃は、穢国に還来する聖衆の、衆生を教化利益してきわまりのないことは、あたかも釈迦牟尼仏のごとくなることを讃嘆されたものです。

 出拠は、『讃阿弥陀仏偈』に、

其衆生有りて安楽に生ずれば、悉く三十有二相を具す。智恵満足して深法に入る。道要を究暢して障礙無し。根の利鈍に随ひて忍を成就す。三忍乃至不可説なり。宿命五通常に自在にして、仏に至るまで雑悪趣に更らず。他方の五濁の世に生じて、示現して同じく大牟尼のごとくなるを除く。
安楽国に生じて大利を成ず。是の故に心を至して頭面をもて礼したてまつる。

とあるものです。

 「安楽」とは浄土のこと。『大経』には、「法蔵菩薩、いますでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億刹なり。その仏の世界をば名づけて安楽といふ」(『註釈版』二八頁)と説かれています。極楽といわず、「安楽」あるいは「安養」といわれているのです。

 「五濁」とは、世が末になって清い水が濁るように、五つの汚れがあらわれることで、これを「悪世」といいます。五つの汚れとは、『小経』にいうところの、劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁です。劫濁とは時代の汚れということで、飢饉や疫病、戦争などの社会悪が増大すること。見濁とは邪見がさかんにおこって思想が乱れること。煩悩濁とは貪・瞋・痴等の煩悩がさかんにおこって衆生の心を悩ますこと。衆生濁とは衆生の資質が低下し、十悪をほしいままにすること。命濁とは衆生の寿命が次第に短くなることです。

 「釈迦牟尼仏のごとくにて」この世に還来して衆生を済度することの自由自在なることを釈迦にたとえていったものです。

 「利益衆生はきはもなし」衆生済度の自在にして窮まりなきことをいいます。

 すなわち今讃は、安楽浄土に往生した菩薩たちは、罪悪に濁った娑婆世界にかえってきて、衆生を済度することの自由自在であることは、ちょうど釈迦如来の教化のようではてしがないといわれているのです。

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聖聚荘厳(4)

2017年01月17日 | 浄土和讃を読む

 ■本文
観音・勢至もろともに
慈光世界を照曜し
有縁を度してしばらくも
休息あることなかりけり

 ■講讃
 今讃は、観音・勢至の二大士は、衆生済度にひまのないことを述べられたものです。

 出拠は、『讃阿弥陀仏偈』に、

    又観世音・大勢至は、諸の聖衆に於て最第一なり。慈光大千界を照曜し、仏の左右に侍して神儀を顕す。諸の有縁を度して暫くも息まざること、大海の潮の時を失せざるがごとし。
    是くのごとき大悲・大勢至を、一心に稽首し頭面をもて礼したてまつる。

とあるものです。

 「観音」は梵語アヴァローキテーシュヴァラの漢訳にして、詳しくは観世音といい、略して観音というのです。苦悩する世間の人が観音の名を称えるのを聞き知って、自在に救うという意です。新訳では観自在と漢訳されます。阿弥陀仏の左の脇士で、阿弥陀仏の慈悲の徳をあらわす菩薩です。

 「勢至」は梵語マハー・スターマ・フラープタの漢訳にして、詳しくは大勢至といい、略して勢至というのです。また大精進・得大勢とも漢訳されています。智慧の勢いがあらゆるところに至るという意です。阿弥陀仏の右の脇士で、阿弥陀仏の智慧の徳をあらわす菩薩です。この観音・勢至、ともに安楽浄土の聖衆の上首です。

 「世界」総じては生物の住する国土をいいます。世は遷流の義で、過去・現在・未来の三世に遷り流れて止まざること。界は分界の義で、十方におのおの境を分ちて混雑しないこと。また、世は隔歴の義、界は種族の義であって、自他互いに異なり種類各別なることをいいます。

 「有縁を度して」縁のあるものを済度することで、二菩薩が阿弥陀仏をたすけて衆生を化益することをいいます。「度」は済度のことです。

 こうして今讃は、観音と勢至の二菩薩は、つねに仏の左右にいて、その慈悲の光明は十方世界にかがやいている。弥陀に因縁のある衆生を済度するために、しばらくも休むひまさえもないということをいわれているのです。

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聖聚荘厳(3)

2017年01月16日 | 浄土和讃を読む

 ■本文
十方衆生のためにとて
如来の法蔵あつめてぞ
本願弘誓に帰せしむる
大心海を帰命せよ

 ■講讃
 今讃は、浄土の菩薩が、もろもろの功徳を積まれるのは、衆生を済度して、弥陀本願に帰入せしめるためであることを示されたものです。

 出拠は、『讃阿弥陀仏偈』の、

    安楽国土の諸の声聞は、皆光一尋にして流星のごとし。菩薩の光輪は四千里にして、秋の満月の紫金に映ずるがごとし。
    仏の法蔵を集めて衆生の為にす。故に我大心海を頂礼したてまつる。

とあるものです。

 「十方」とは十の方角の意で、東・西・南・北・東南・東北・西南・西北・上・下を指します。「衆生」とは梵語サットヴァの漢訳で、有情・含識とも漢訳されます。多くの生類という意味で、群生とも群萠ともいう。これに二義あり、一に一切の迷いの生類、すなわち生きとし生けるものすべてを指します。衆多の生死をうけるものの意です。一般には凡夫である人間を指す場合が多い。二には衆生を衆縁所生の意味とみるときは、仏・菩薩をも衆生といいます。

 「如来」とは諸仏のこと。「法蔵」とは法は功徳、蔵は会摂(えせつ)の義で、無量の自利利他の仏徳を会摂することです。「あつめてぞ」浄土の菩薩が十方仏国に遊びて、あるいは仏を供養し、あるいは衆生を済度するなど、自利利他の菩薩行を集め積まれることをいいます。すなわち、浄土の菩薩はあらゆる諸仏の功徳を一身に集めて、それをもって衆生を済度するということです。

 「本願弘誓」本願とは仏が因位のときにおこした願のことで、第十八願を指し、それがひろく一切の衆生を救う誓願であるから弘誓といいます。「帰せしむる」帰は帰入で、本願を信ぜしめることです。

 「大心海」とは、仏の慈悲の広大なことを海にたとえ、阿弥陀仏をいいます。弥陀の別号です。左訓に「仏の御心広く深く、きは、ほとりなき故に阿弥陀をば大心海といふなり」とあります。

 こうして今讃は、浄土の菩薩は、如来の法蔵である善根功徳を一身にあつめ、弥陀の名号をといて本願に帰するようにすすめられた。菩薩のこのような衆生救済は、海のように広大な如来の慈悲心によったものだから、大心海の弥陀を帰命せずにはいられないということです。

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聖聚荘厳(2)

2017年01月15日 | 浄土和讃を読む

 ■本文
 安楽無量の大菩薩
一生補処(ふしょ)にいたるなり
普賢(ふげん)の徳に帰してこそ
穢国(えこく)にかならず化(け)するなれ

 ■講讃
 果徳の殊勝を明かす中、これより後の七首は、浄土に往生した聖衆の徳相のすぐれていることを讃じます。いまは、その聖衆が菩薩の極位にのぼり、この世界にかえり来たって、衆生を化益せられる益のあることを讃じたものです。

 出拠は、『讃阿弥陀仏偈』に、

    安楽の無量の摩訶薩は、咸当に一生にして仏処を補ふべし。
    其の本願の大弘誓をもて、普く諸の衆生を度脱せむと欲するを除く。

とあるものです。

 「安楽」とは、無為安穏の意で、阿弥陀仏の浄土のこと。この浄土の菩薩はその数をはかり知れないから「無量」といい、そしてそれらの菩薩はみな仏と同じさとりを開いているから、普通の菩薩と区別して大の字をつけ「大菩薩」といわれたのです。

 「一生補処」とは、一生を過ぎれば仏処を補うというこころで、等覚の位の菩薩を指します。菩薩には、十信・十住・十行・十廻向・十地・等覚という五十一段の位があり、その第五十一の等覚の位の次は、仏すなわち妙覚の位であるので、一たびこの等覚の位を過ぎればすぐに仏になります。それで等覚の菩薩を一生補処の菩薩ともいうのです。浄土の菩薩はみなこの資格をもっておられるのです。

 「普賢の徳」とは、普は普遍、その徳があまねく世界にゆきわたること。賢は賢善、その性柔和にして慈悲深きことです。これに三通りあり、一は人普賢、普賢菩薩のこと。二は解普賢、普賢菩薩のような智解のことで、小乗教から大乗教へ進み入る智慧をいいます。三は行普賢で、普賢菩薩のように衆生を済度する慈悲の行のことです。いまはこの行普賢であり、衆生を済度する菩薩の徳をいいます。左訓には「大慈大悲をまふすなり」とあり、異本には「われら衆生、極楽にまゐりなば、大慈大悲をおこして十方に至りて衆生を利益するなり。仏の至極の慈悲を普賢とまうすなり」とあります。また『唯信鈔文意』には、

    このさとりをうれば、すなはち大慈大悲きはまりて生死海にかへり入りてよろずの有情をたすくるを普賢の徳に帰せしむと申す。(註釈版七○二頁)

といわれています。

 「帰してこそ」とは、帰は帰趣の義で、おもむきむかうこと。普賢菩薩と同じ行徳に入るということです。「穢国」は汚れた国で娑婆世界を指します。

 こうして今讃は、安楽浄土に往生した数限りない菩薩たちは、仏にも等しい最高の位に住し、衆生を済度したいという普賢菩薩の慈悲心にしたがい、この娑婆世界にかえってきて、一切の人々を化益するということです。

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聖聚荘厳(1)

2017年01月14日 | 浄土和讃を読む

 ■本文
 弥陀初会(しょえ)の聖衆(しょうじゅ)は
算数(さんじゅ)のおよぶことぞなき
浄土をねがはんひとはみな
広大会(こうだいえ)を帰命せよ

  ■講讃
  すでに阿弥陀仏の光明を讃嘆したので、次に十一首をあげて、浄土に往生した聖衆(しょうじゅ)の荘厳功徳を讃嘆します。その中、初めの八首は果徳の殊勝であることを明かし、後の三首は因法の殊勝を示します。果徳を明かす中、今の一首は、阿弥陀仏の初会(しょえ)の聖衆の数の多いことを明かします。

 出拠は、『讃阿弥陀仏偈』に、

    阿弥陀仏の初会の衆は、声聞・菩薩の数無量なり。
    神通巧妙にして算ふること能はず。是の故に広大会を稽首したてまつる。

とあるものです。

 「弥陀初会」とは、阿弥陀仏が成仏されて初めて説法される会座のことです。「聖衆」とは、その会座に集まられた菩薩・声聞等の聖者です。それが数多くおられるので「衆」というのです。それが「算数のおよぶことぞなき」、数え尽くすことができない。無数であるといわれるのです。

 ただし、初会といっても二会・三会等の終わりを見る初会ではなく、憬興の『述文讃』に「初会とは挙不尽の言無数を顕はす故に」とあるように、聖衆の無数をあらわすために、尽きることのない初めを挙げられたものです。

 「広大会」とは、広大衆会の義で、無数の聖衆が集まられた大集会(しゅうえ)ということです。そしてこの大集会は全く阿弥陀仏の徳であるから、いまこれをそのまま仏名とされたのです。

 こうして今讃は、阿弥陀仏が成仏されて初めて説法された会座には、声聞・菩薩など集まった聖衆は無数であった。弥陀の浄土に生まれたいと願うものは、広大会の徳のある阿弥陀仏を帰命すべきであるということです。

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如来荘厳(7)

2017年01月13日 | 浄土和讃を読む

■本文
 光明月日に勝過(しょうが)して
 超日月光となづけたり
 釈迦嘆じてなほつきず
 無等等を帰命せよ

 ■講讃
 今讃は、十光中の第十二、超日月光の徳を讃嘆されたものです。

 出拠は、『讃阿弥陀仏偈』に、

    光明照曜すること日月に過ぎたり。故に仏を超日月光と号(なづ)けたてまつる。
    釈迦仏歎じたまふも尚(なお)尽きず。故に我無等等を稽首したてまつる。(『七祖篇』一八六頁)

とあるものです。

 「光明月日に勝過して」とは、『大経』に、

無量寿仏の威神光明は、最尊第一なり。諸仏の光明、及ぶことあたはざるところなり。(『註釈版』二九頁)

とあり、『大阿弥陀経』には、

阿弥陀仏の光明は、好なること、日月の明よりも勝れたること、百千億万倍なり。(『真聖全』一・一四二頁)

とあります。阿弥陀仏の光明は、世間の太陽や月とはとても比べものにならず、最もすぐれた光明であるということです。ゆえに超日月光と申し上げるのです。

  「釈迦嘆じてなほつきず」とは、『大経』に、釈尊が「われ、無量寿仏の光明の威神、巍巍殊妙なるを説かんに、昼夜一劫すとも、なほいまだ尽すことあたはじ」と仰せられたと説かれています。釈尊は、阿弥陀仏の光明のすぐれていることを昼夜一劫も説かれましたが、なお讃嘆し尽くすことができないといわれたということです。

 「無等等」とは、これに二義あります。一は、無等にして等ず、あるいは無等の等ということで、「無等」は仏のさとりは他の衆生に等しく無いということ、「等」はそのさとりが諸仏と等しいということです。二は、等しく等しきもの無しの義で、無比というに同じく比類がないということ。仏のさとりは他の諸仏と等しいといっても、比べるだけの等しいものがないということです。左訓に「等しくひとしき人なし」とあるのは、第二義です。阿弥陀仏の光明は、他に比べるものがないから、阿弥陀仏のことをまた無等等とも呼びたてまつるのです。

 こうして今讃は、阿弥陀仏の光明は、日月の光に比べると、たとえようもなく超えすぐれています。ゆえに超日月光と申し上げます。釈尊はこの光明の徳を言葉をつくして讃えられましたが、ほめてもほめてもほめ尽くすことができませんでした。このように比べもののない阿弥陀仏であるから、わたくしたちはただ信順するよりほかにないということです。

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如来荘厳(6)

2017年01月12日 | 浄土和讃を読む

■本文
 神光の離相をとかざれば
 無称光仏となづけたり
 因光成仏のひかりをば
 諸仏の嘆ずるところなり

■講讃
 今讃は、十二光中の第十一、無称光の徳を讃嘆されたものです。

 出拠は、『讃阿弥陀仏偈』の、

神光(じんこう)相を離れたれば、名づくべからず。故に仏を又無称光と号(なづ)けたてまつる。
光に因(よ)りて成仏したまへば、光赫然(かくねん)たり。諸仏の歎じたまふ所なり。故に頂礼したてまつる。(『七祖篇』一八六頁)

とあるものです。

 「神光」とは、『大経』に「威神光明」とあるのを略していわれたものです。「神」は不測の意で、はかり知られぬ光明ということ。「離相」とは、阿弥陀仏の光明は無上涅槃のさとりのかたちであるから、有為生滅の相を離れた無為の相であることです。「とかざれば」とは、説くことができない。わたくしたちの言葉や文字では説きあらわすことができないということです。ゆえに無称光仏と申し上げるのです。その「称」は、称説で、一切の言語をもって説くことができない光明ということです。草稿本の左訓に、「すべてことば及ばぬによりて無称光仏と申すなり」とあります。

 「因光成仏のひかり」について、古来、二義があります。一は、光に因(よ)って成仏すということ。因は因由の義で、衆生が仏の光明によって成仏するということです。二は、光を因として成仏ということ。因は因種の義で、阿弥陀仏が第十二の光明無量の誓願を因として成仏されたということです。二義ともに存するでしょうが、後者の方が親しいとされています。左訓に、「光きはなからんと誓ひたまひて、無碍光となりておはしますとしるべし」とあります。阿弥陀仏は光明無量の誓願を因として成仏されたから、その仏の放たれる光明と見た方がいいでしょう。

 「諸仏の嘆ずるところ」とは、その光明を十方の諸仏が讃嘆されるということです。

 こうして今讃は、阿弥陀仏のはかり知られぬ光明は、形相を離れていて、とても言葉で説きあらわすことができないから、無称光仏と申し上げます。その光明は、第十二の光明無量の誓願に酬いて成仏して放たれるものであり、また、この光明のはたらきによって一切衆生が成仏することができる。諸仏の讃嘆されるところであるということです。

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如来荘厳(5)

2017年01月11日 | 浄土和讃を読む

■本文
 仏光測量(しきりょう)なきゆゑに
 難思光仏となづけたり
 諸仏は往生嘆じつつ
 弥陀の功徳を称せしむ

 ■講讃
 今讃は、十二光中の第十、難思光を讃嘆されたものです。

 出拠は、『讃阿弥陀仏偈』に、

    其の光仏を除きては能く測るもの莫し。故に仏を又難思議と号(なづ)けたてまつる。
    十方諸仏往生を歎じ、其の功徳を称したまへり。故に稽首したてまつる。(『七祖篇』一八五頁)

とあるものです。

 「仏光」は阿弥陀仏の光明、「測量」は、「測」は広狭浅深をはかり、「量」は軽重多少をはかることで、二字ともに「はかる」と訓じ、その光明の深厚であることは、声聞・縁覚・菩薩などの智慧をもってしても到底はかり知ることができない。ましてわたくしたち凡夫の浅い智慧ではなおさらです。ゆえに難思光仏と申し上げるのです。

 「諸仏は往生嘆じつつ」とは、わたくしたちが浄土に往生して仏になることは、まったくこの難思光の力であると、十方の諸仏が口をそろえて讃嘆される。「嘆」というのは、讃嘆することです。

 そして「弥陀の功徳を称せしむ」、このわたくしたちの往生を成立せしめたまう阿弥陀仏の功徳をほめたたえられる。「称」は称揚で、ほめたたえるです。「しむ」は敬語で、「たまう」とか「せられる」とかいう意味です。

 こうして今讃は、阿弥陀仏の光明の広大なことは、誰も思いはかることができないから、難思光仏と申し上げる。十方の諸仏も衆生の往生を不思議不思議と驚嘆されて、阿弥陀仏の光明の功徳をほめたたえられるということです。

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如来荘厳(4)

2017年01月10日 | 浄土和讃を読む

 ■本文
 光明てらしてたえざれば
 不断光仏となづけたり
 聞光力のゆゑなれば
 心不断にて往生す

 ■講讃
  今讃は、十二光中の第九、不断光の徳を讃嘆されたものです。
 出拠は、『讃阿弥陀仏偈』に、

    光明一切の時に普く照らす。故に仏を又不断光と号けたてまつる。
    光力を聞くが故に、心断えずして皆往生を得。故に頂礼したてまつる。(『七祖篇』一八五頁)

とあるものです。

 「光明てらしてたえざれば」という、「たえざれば」が不断光の義を示された言葉です。常恒不断に照らし護られることです。ゆえに次に「不断光仏となづけたり」というのです。阿弥陀仏の光明は、未来際を尽くしていつまでも照らしつづけ、しばらくも絶え間がないということ。そしてこの不断光は、竪に三世を利益したまう光明です。

 「聞光力」の「聞」とは信ずることです。聞がそのまま信です。親鸞聖人は、「行文類」に『平等覚経』を引用される中、聴聞の語に「ゆるされてきく、信じてきく」と左訓されています(『註釈版』一四五頁)。また「信文類」には、

しかるに『経』に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。(『註釈版』二五一頁)

といわれ、『一念多念文意』には、

きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり」(『註釈版』六七八頁)

といわれています。

 そして「光」とは光明、「力」とは幹用で、『大経』には「その光明の威神功徳を聞きて」(『註釈版』三○頁)と説かれています。この威神功徳が光力であって、摂取不捨のはたらきをいいます。

 この「聞光力」について、親鸞聖人は「弥陀の御ちかひを信じまゐらするなり」と左訓されています。これは摂取不捨の願力を信ずる意となります。因位に約せば願力、果上に約せば光明で、因果まったく不二です。

 ところで、この「聞光力」について、二つの読み方があります。一は「光力を聞く」と読むもので、『大経』のように光明の威神功徳を聞信することです。二は「光を聞く力」と読むもので、『六要鈔』五に「摂取光益を聞く力に由りて」(『真聖全』二・三五八頁)とあります。もし前者の読み方をすれば、力は光に属して法をあらわし、後者の読み方をすれば、力は聞に属して機をあらわすことになります。いずれでも差し支えはありませんが、経文によれば前者の方がよいと思われます。

 次に「心不断」とは、不断光の力によって信心が間断なく相続することをいいます。左訓には、「弥陀の誓願を信ぜる心たえずして往生すとなり」とあります。また草稿本の左訓には、「菩提心の断えぬによりて不断といふ」とあります。菩提心は信心のことですから相違はありません。わたくしたちは本願を信ずるといっても、いつも本願を忘れずにいるということはできないけれども、信心は不断なのです。『御一代聞書』にも、「この一念臨終までとほりて往生するなり」といわれています。信心が不断なのは不断光の利益です。ゆえに『観念法門』には「彼の仏の心光常にこの人を照らす」と説かれ、『往生要集』には「大悲倦きことなく、常に我身を照らしたまふ」と説かれています。常の字は、不断の意味です。

 こうして今讃は、阿弥陀仏の光明は絶え間なく照らし続ける。ゆえに不断光仏と申し上げます。その光明の威神力を聞信するがゆえに、信心が一生涯相続し、必ず往生することができるということです。

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如来荘厳(3)

2017年01月09日 | 浄土和讃を読む

 ■本文
道光明朗超絶せり
清浄光仏とまうすなり
ひとたび光照かぶるもの
業垢をのぞき解脱をう

 ■講讃
 今讃は、十二光の第六、清浄光を讃ぜられたものです。
 『讃阿弥陀仏偈和讃』に、
 

道光明朗にして、色(しき)超絶したまへり。故に仏を又清浄光と号(なづ)けたてまつる。一たび光照を蒙れば、罪垢除こりて皆解脱を得。故に頂礼したてまつる。(『七祖篇』一八四頁)

とあるに依られたものです。
 「道光」とは、道は菩提の訳語でさとりのこと。その仏のさとりから放たれる光明。仏の智慧のはたらきをいいます。
 「明朗」とは、光明の清く明らかに朗らかなこと。
 「超絶」とは、他に超えすぐれていること。「清浄光」とは、十二光の第六。阿弥陀仏の光明は、清浄業より放たれる光明であって、われわれの貪欲の汚れをなくして、よく清浄ならしめたまうから清浄光仏と申し上げるのです。
 「ひとたび」とは、信の一念を指します。「業垢」とは、左訓に「あくごふぼむなう(悪業煩悩)なり」とあります。
 「解脱」とは、左訓に「さとりをひらくなり。げだちといふは、ぶちくわ(仏果)にいたり、ほとけになるをいふ」とあります。
 阿弥陀仏のさとりから放たれる光明は、清く明らかにして朗らかであり、諸仏の光明に超えすぐれています。それゆえ清浄光仏と申し上げます。ひとたびこの光明に照らされたものは、あらゆる悪業煩悩が除かれ、この世を終わるなり、解脱の徳を完成することができますということです。

 ■本文
慈光はるかにかぶらしめ
ひかりのいたるところには
法喜をうとぞのべたまふ
大安慰(だいあんに)を帰命せよ

 ■講讃
 今讃は、十二光の第七、歓喜光を讃嘆されたものです。
 『讃阿弥陀仏偈』に、

慈光遐(はる)かに被(かうむ)らしめ、安楽を施したまふ。故に仏を又歓喜光と号(なづ)けたてまつる。光の至る所の処法喜を得。大安慰(だいあんに)を稽首し頂礼したてまつる。(『七祖篇』一八五頁)

とあるに依られたものです。
 「慈光」とは、仏の大慈大悲の心より放たれる光明ということ。
 「はるか」とは、横に十方、竪に三世をつらぬき、いつでもどこでも照らされること。 「ひかりのいたるところ」とは、仏よりすれば光明が至り届くこと。衆生よりすれば信心を得ること。
 「法喜」とは、左訓に「みのりをよろこぶなり」とあって、光明が衆生へ至り届けば歓喜の心がおこる。すなわち本願のいわれを聞いて、往生一定と信じ、法をよろこぶようになったことをいいます。
 「大安慰」とは、安は安穏、慰はなぐさめること。衆生に大いなる安らぎとなぐさめを与えたまう仏ということ。
 阿弥陀仏の大慈大悲の心より放たれる光明は、いつでもどこでも照らされてあります。その光明に照らされて信心獲得の身となれば、法をよろこぶ心がおこると説かれています。こうした衆生に大安慰を与える仏であるから、その仏に帰命していきましょうということです。

 ■本文
無明の闇を破するゆゑ
智慧光仏となづけたり
一切諸仏三乗衆
ともに嘆誉したまへり

 ■講讃
 今讃は、十二光の第八、智慧光を讃嘆されたものです。
 『讃阿弥陀仏偈』に、

仏光能(よ)く無明の闇を破す。故に仏を又智恵光と号(なづ)けたてまつる。一切諸仏・三乗衆、咸(ことごと)く共に歎誉(たんよ)したまへり。故に稽首したてまつる。(『七祖篇』一八五頁)
とあるに依られたものです。
 「無明」とは、仏智を疑惑する凡夫のこころ。
 「闇」とは、疑惑のすがたをたとえたもの。 「破する」とは、これは消極的にいったもので、積極的にいえば信心を得ること。信心とは無疑心だからです。
 「智慧光仏」とは、十二光の第八。
 「一切諸仏」とは、三世十方の諸仏。
 「三乗衆」とは、声聞・縁覚・菩薩のこと。声聞・縁覚は自利のみを求める小乗の人であり、菩薩は自利とともに利他をも求める大乗の人。前の一切諸仏は果人ですが、これは因人です。因人・果人のすべてをあげているのです。
 「嘆誉」とは、ほめたたえること。
 阿弥陀仏の光明は、衆生の疑惑の闇を破ってくださるゆえに、智慧光仏とも申し上げます。あらゆる仏、声聞・縁覚・菩薩にほめたたえられますということです。

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如来荘厳(2)

2017年01月08日 | 浄土和讃を読む

 ■本文
清浄光明ならびなし
遇斯光(ぐしこう)のゆゑなれば
一切の業繋(ごうけ)ものぞこりぬ
畢竟依(ひっきょうえ)を帰命せよ

 ■文意
  この和讃は、十二光のうちの無対光の徳を述べられたものです。「清浄光明」とは、清らかな光明ということ。「ならびなし」とは、比べるものがないということで、ここに無対光ということがあらわされています。
 「遇斯光(ぐしこう)」とは、「斯(こ)の光に遇(あ)う」と読みます。「遇う」というのは、阿弥陀仏の本願を聞信することです。阿弥陀仏のお力にまかせていくことです。そうするならば、「一切の業繋(ごうけ)ものぞこりぬ」、悪業煩悩によって、迷いの世界を経(へ)めぐっていかねばならない、その束縛からのがれることができるというのです。いいかえれば、お浄土に生まれさせていただくということです。
 「畢竟依(ひっきょうえ)」とは、これも阿弥陀仏の別号で、究極のよりどころということです。わたくしたちがたよりとするもの、たとえば地位や名誉や財産も、やがておとずれる死というものの前に立てば、何のよりどころともならない。決して究極ではない。ただ阿弥陀仏のみ、たよりとなる。ゆえに究極のよりどころ、「畢竟依」といわれるのです。その如来様に「帰命せよ」よりどころと仰いでいきなさいというのです。

 ■本文
仏光照曜最第一
光炎王仏となづけたり
三塗(さんず)の黒闇ひらくなり
大応供を帰命せよ

 ■文意
 この和讃は、十二光のうちの炎王光の徳を述べられたものです。「仏光」は阿弥陀仏の光明、「照曜」は照らし輝くこと。「最第一」はその光明が諸仏に超えすぐれて第一であることです。
 「光炎王仏」は炎王光のことです。「炎」は、阿弥陀仏の光明があらゆる世界を照らし輝くさまを、火が盛んに燃えているところにたとえたもので、右の「照曜」のことです。そして「王」は、その光明が諸仏に超えすぐれているから王といったもので、右の「最第一」のことです。すなわち、「仏光照曜最第一」をうけて、仏名を立てられたものです。
 「三塗」とは、地獄・餓鬼・畜生の三悪道です。ここは諸仏の光明が届かず、暗がりであるから、「黒闇」というのです。「ひらくなり」とは、その三悪道にさえ阿弥陀仏の光明は届き、そこに生きるものを救済されるということです。
 「大応供」とは、これも阿弥陀仏の異名で、供養に値(あたい)するものという意味です。その阿弥陀仏に「帰命せよ」といわれるのです。

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如来荘厳(1)

2017年01月07日 | 浄土和讃を読む

 ■本文
智慧の光明はかりなし
有量の諸相ことごとく
光暁(こうきょう)かぶらぬものはなし
真実明に帰命せよ

 ■文意
 この和讃は、十二光のうちの無量光の徳を述べられたものです。「智慧の光明」阿弥陀仏の智慧から放たれる光明は、「はかりなし」十方三世にわたってはかりがない。時間的にも空間的にも限界がないということです。この「はかりなし」が無量光ということをあらわしているのです。
 「有量の諸相」要するに、わたくしたち人間です。わたくしたちはことごとく、というのです。そして「光暁(こうきょう)」光明を暁(あかつき)にたとえたものです。すなわち、はかりなき阿弥陀仏の光明を、「かぶらぬものはなし」、こうむらないものはない。わたくしたちはことごとく照らされるというのです。
 「真実明」とは阿弥陀仏の異名です。その「明」とは智慧のことで、真実の智慧をもってあらゆる世界を照らしていく仏様ということです。そして、つねにわたくしたちはその光明に照らされているのだから、その阿弥陀仏に「帰命せよ」たのみたてまつりましょうというのです。

 ■本文
解脱(げだつ)の光輪きはもなし
光触(こうそく)かぶるものはみな
有無をはなるとのべたまふ
平等覚に帰命せよ

  ■文意
  この和讃は、十二光のうちの無辺光の徳を述べられたものです。「解脱」とは、煩悩悪業から解き放たれた、阿弥陀仏のおさとりのことです。「光輪」とは、その光明を車輪にたとえたものです。「きは」は、きわまり、際限です。それがないというのです。この「きはもなし」が無辺光ということをあらわしています。
 「光触(こうそく)」は、その光明に照らされること。「かぶる」は、こうむるの略です。その光明に照らされたものはみな、ということです。
 「有無」とは、有(う)の見(けん)と無(む)の見(けん)ということです。有の見とは、常見(じょうけん)ともいい、人間が死ねばまた人間として生まれ、畜生が死ねばまた畜生として生まれ、いつまでも同じ形態が続いていくという見解です。無の見とは、断見(だんけん)ともいい、生けるものが死ねば土や灰になり、まったく無に帰(き)するという見解です。これらは邪見(じゃけん)、よこしまな見解とされます。かたよった考え方ということです。
 これらに対して仏教は、因果の理法を教えて、生けるものはみずから造った業因により、死後はそれぞれの果報をうけると説きます。ゆえに、有の見・無の見を離れているのです。
 また、浄土真宗では、「欣浄厭穢(ごんじょうえんえ)の妙術」といわれ、ひとたび信心を得れば自然に穢土(この娑婆世界)を厭(いと)う心がおこるので有の見を離れ、浄土を欣(ねが)う心がおこるから無の見を離れるといわれています。それを「有無をはなるとのべたまふ」といわれたのです。如来様の光明に照らされれば、有無の二見を離れるというのです。
 最後に「平等覚」とは、阿弥陀仏の別号です。あらゆるものはすべて平等であるとさとり、その平等の慈悲をもって人々を救済されるから、平等覚というわけです。そして「帰命せよ」とは、その阿弥陀仏をたよりとしましょうというのです。

 ■本文
光雲無碍如虚空
一切の有碍にさわりなし
光沢(こうたく)かぶらぬものぞなき
難思議を帰命せよ

 ■文意
  この和讃は、十二光のうちの無碍光の徳を述べられたものです。「光雲無碍如虚空」とは、「光雲無碍にして虚空の如し」と読みます。「光」は光明、「雲」はそれを雲にたとえたものです。雲は雨をふくんで物をうるおしていきますが、そのように人々に豊かな利益をもたらすということです。「無碍」とは、さわりがないということ。「虚空」とは、一切のものが存在する場としての空間のことですが、さわりがないということをたとえたものです。人々を救済していくことを、さまたげるものはないということです。「一切の有碍にさわりなし」も同じです。どのような障害物も突き破って、人々を救済していくということです。
 「光沢(こうたく)」とは、「沢」はうるおいです。阿弥陀仏の光明に、物をうるおす徳のあることをいわれたものです。そして「かぶらぬものぞなき」とは、その光明に照らされれば、一人として信心のうるおいをいただかないものはないということです。
 「難思議」とは、これも阿弥陀仏の異名で、心に思うことも、言葉でいうこともできない、不可思議なはたらきの如来様ということです。その如来様に「帰命せよ」といわれるのです。

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