天上の月影

勅命のほかに領解なし

親鸞聖人における信心観の一考察(12)

2016年05月30日 | 既発表論文
【平成二十二年(二○一○)五月、『行信学報』第二十三号に掲載された、「親鸞聖人における信心観の一考察 ─金剛心と善鸞事件を通して─」をそのまま掲載する】

 にもかかわらず善鸞によって動揺したということは、本願を真実と聞いていないからである。信心は人間の言葉を聞くのでもなく、自分の心に相談するのでもない。目のつけどころ、耳の向けどころが違っている。本願を仰げば、その本願成就していま阿弥陀仏と成りたもうている。ゆえに南無阿弥陀仏が「必」をあらわす。はからいは不要である。「義なきを義とす」である。法話調にいえば、「必ずたすける」の仰せを「必ずたすかる」と聞くよりほかにない。南無阿弥陀仏が「必」であるから、私も「必」となるのである。隆寛律師の『後世物語聞書』に、

摂取決定なるがゆゑに往生決定なりとおもひさだめて、いかなるひと来りていひさまたぐとも、すこしもかはらざるこころを金剛心といふ(79)。

といわれている。どのような来難があっても、阿弥陀仏が摂取決定であるから、私も往生決定と少しも変わることがない。それを金剛心といわれるのである。「行文類」の六字釈に「必得往生」の「必」を釈して、「必の言は、……金剛心成就の貌なり(80)」といわれている。南無阿弥陀仏の「必」が金剛のごとき信心を成立させるのである。その信相は常没常流転の凡夫を阿弥陀仏が摂受したまい定めて往生を得ると信知しているのであるから、二種深信をおさえて『愚禿鈔』に「他力至極の金剛心(81)」といわれるのである。またその信体は大般涅槃を超証すべき徳をいただいているから「信文類」真仏弟子釈に「金剛心の行人なり(82)」といわれるのである。そして「弥陀経讃」に「諸仏の証誠護念は 悲願成就のゆゑなれば 金剛心をえんひとは 弥陀の大恩報ずべし(83)」と詠われるように、第十七願の成就によって諸仏が証誠護念したまうから、心揺れることなく報仏恩の営みをおこしていくのである。

 こうして親鸞聖人は、二十九歳で信心決定後、吉水時代から信心を洞察され、「如来よりたまわる信心」という教語を原形として、信心の体は仏心であり大菩提心であるから、よく往生成仏の正因となると開顕された。そして三部経千部読誦の中止を基点とする伝道の場では、自身の信心が揺らぐことがなかったように、いかなる来難にも動かされない金剛のごとき信心を見られていた。このようなことをいわれているのは性信房宛の公開義絶状だけであるが、善鸞事件という後に引けない状況下で、具体的な実際の場における信心観が窺えよう。善鸞は本願をしぼめる花にたとえたが、本願こそ真実なのである。文応元年(一二六○)十一月十三日、年月日が記されている最後の消息で親鸞聖人八十八歳のときになるが、乗信房宛の消息にも、「ひとびとにすかされさせたまはで、御信心たぢろかせたまはずして、おのおの御往生候ふべきなり(84)」と、信心がたじろぐことのないよう注意されている。


(79)『後世物語聞書』(『註釈版聖典』一三六六頁)
(80)「行文類」六字釈(『註釈版聖典』一七○頁)
(81)『愚禿鈔』下(『註釈版聖典』五二一頁)
(82)「信文類」真仏弟子釈(『註釈版聖典』二五六頁)
(83)『浄土和讃』「弥陀経讃」(『註釈版聖典』五七一頁)
(84)『親鸞聖人御消息』第十六通(『註釈版聖典』七七一頁)
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親鸞聖人における信心観の一考察(11)

2016年05月29日 | 既発表論文
【平成二十二年(二○一○)五月、『行信学報』第二十三号に掲載された、「親鸞聖人における信心観の一考察 ─金剛心と善鸞事件を通して─」をそのまま掲載する】

 というのは、年代は記されていないが、正月九日付の真浄房宛の消息には、

慈信坊がやうやうに申し候ふなるによりて、ひとびとも御こころどものやうやうにならせたまひ候ふよし、うけたまはり候ふ。……奥郡のひとびとの、慈信坊にすかされて、信心みなうかれあうておはしまし候ふなること、……それも日ごろひとびとの信の定まらず候ひけることのあらはれてきこえ候ふ。……慈信坊が申すことによりて、ひとびとの日ごろの信のたぢろきあうておはしまし候ふも、詮ずるところは、ひとびとの信心のまことならぬことのあらはれて候ふ。よきことにて候ふ(75)。

といわれている。善鸞の言い惑わしによって人々の信心が「うかれ」「たじろき」動揺したのは、もともと信心がまことでなかったからで、それがわかって逆に「よきことにて候ふ」というのである。

 では、まことの信心とは何かというと、性信房宛の公開義絶状には、

往生の信心と申すことは、一念も疑ふことの候はぬをこそ、往生一定とはおもひて候へ。光明寺の和尚の信のやうををしへさせたまひ候ふには、「まことの信を定められてのちには、弥陀のごとくの仏、釈迦のごとくの仏、そらにみちみちて、釈迦のをしへ、弥陀の本願はひがことなりと仰せらるとも、一念も疑あるべからず」とこそうけたまはりて候へば、そのやうをこそ、としごろ申して候ふに、慈信ほどのものの申すことに、常陸・下野の念仏者の、みな御こころどものうかれて……(76)

といわれている。信心は釈尊出世の本懐として説かれた阿弥陀仏の第十八願を疑いなく聞き受けることであって、たとえ弥陀・釈迦のごとき仏がそれを「ひがごと」といったとしても、一念も疑ってはならないというのである。それは「散善義」就人立信釈の取意であるが、「散善義」は①凡夫、②地前の菩薩と阿羅漢・辟支仏、③地上の菩薩、④化仏報仏という四重の破人であり(77)、弥陀・釈迦のごとき仏とはいわれていない。逆に親鸞聖人は弥陀・釈迦二尊の御はからいによって信心を獲得するということを随所に述べられているから(78)、究極の表現をもって本願を一念も疑ってはならないといわれているのである。そして、そのような信心を「としごろ申して候ふに」、「慈信ほどのものの申すことに」心を動揺させるとは、と歎かれている。この「慈信ほどの」という言葉から先学は善鸞を信用していなかったといわれるのであるが、これは弥陀・釈迦のごとき仏が「ひがごと」といっても動揺しないということに対応させるべきで、善鸞への信頼度の問題ではないであろう。善鸞であれ弥陀・釈迦のごとき仏であれ何ものにも動揺することのない信心、それを親鸞聖人は「としごろ申し」てきたのである。


(75)『親鸞聖人御消息』第十七通(『註釈版聖典』七七三~七七四頁)推定年次は先学によって意見の相違があり、山田雅教氏「善鸞事件をめぐる研究史」(『高田学報』九一)註・二三の表には、義絶前年の建長七年(一二五五)説、義絶の年の建長八年(一二五六)説、義絶翌年の正嘉元年(一二五七)説があることを示されている。
(76)『親鸞聖人御消息』第八通(『註釈版聖典』七五一頁)
(77)「散善義」(『七祖篇註釈版聖典』四五九~四六一頁)
(78)たとえば「信文類」別序(『註釈版聖典』二○九頁)、『親鸞聖人御消息』第二一通(『註釈版聖典』七八○頁)
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親鸞聖人における信心観の一考察(10)

2016年05月28日 | 既発表論文
【平成二十二年(二○一○)五月、『行信学報』第二十三号に掲載された、「親鸞聖人における信心観の一考察 ─金剛心と善鸞事件を通して─」をそのまま掲載する】

 ところが、善鸞事件によって関東の人々の信心が動揺したのである。親鸞聖人の帰洛後、関東では造悪無碍の異義がはびこるようになり、門弟からの要請を受けて、親鸞聖人は子息の善鸞を名代として関東へ遣わされた。それは一般に建長四年(一二五二)八十歳前後と考えられる(71)。しかし善鸞はやがて、夜ひそかに自分だけに父・親鸞聖人から真実の法門を授かったといい、第十八願をしぼめる花にたとえて捨てさせ、親鸞聖人に信願房などを誣告したり、性信房たちを鎌倉幕府に訴えるなど混乱に陥れた。そこで親鸞聖人はついに建長八年(一二五六)八十四歳のとき五月二十九日付で善鸞宛に義絶を通告し、同日また性信房宛にそれを公開されたのであった。

善鸞事件については義絶状の真偽や善鸞の異義が造悪無碍か賢善精進かなど種々の問題があるが(72)、近年、先学は性信房宛の公開義絶状に詫びの言葉がないことに注目され、親鸞聖人は善鸞に関東の門弟たちを指導する力がなかったことを知っていたとし、全くの憶測といわれながら善鸞は関東の門弟に名号本尊を伝達することが役目で、親鸞聖人の名代説に問題があるといわれている。また後の論文にも、親鸞聖人は善鸞を信頼していなかったとして、そこでは善鸞が自分勝手に関東へ出かけたのではないかといわれている。そして両論文とも善鸞という名前は親鸞ジュニアであることをアピールしようとして、自ら名のったものではないかといわれている(73)。善鸞という名前はともかく、その所論についてはいささか納得しがたいので(74)、いまは違う視点から考えてみたいと思う。


(71)平松令三氏『歴史文化ライブラリー 親鸞』二一五頁参照。五十嵐大策氏『親鸞聖人御消息講読』(二四八頁)には建長六年(一二五四)八十二歳頃といわれている。
(72)山田雅教氏「善鸞事件をめぐる研究史」(『高田学報』九一)に詳しい。また五十嵐大策氏『親鸞聖人御消息講読』には「問題点として残るのは、今日なぜ善鸞が出雲路寺派・山元派の第二世になっているのであるか。なぜ本願寺(本願寺派・大谷派)と木辺派の第二世に善鸞の息男如信がなっているのであるか。なぜ善鸞大徳が末寺(たとえば善永寺等)の開基となって七百年余の法灯をまもってきたのであるか。なぜ『慕帰絵詞』に親鸞と善鸞が火鉢を囲んで話し合っている記述(西本願寺の絵も然り)があるのか。こういう事がすべて説明出来ないかぎりは、善鸞義絶に関した問題はいまだ氷解しないものをもっているものと思われるのである」(二四八頁)といわれている。
(73)平松令三氏『親鸞の生涯と思想』(吉川弘文館、二○○五年)五四~五九頁、六一~六二頁。同氏「親鸞の生涯」(真宗教団連合編『親鸞』所収、朝日新聞出版、二○○九年)一二五~一二六頁。
(74)親鸞聖人に詫びの言葉がないということを単純に考えれば、名代でなかったからとか、自分勝手に行ったからということで、謝らなくて済む問題であろうか。自分の子供が関東の人々を混乱に陥れ、鎌倉幕府への訴訟事件にまで発展させたのであるから、親として詫びるのが当然でなかろうか。また帰洛後の生活が関東からの懇志で支えられていたとすれば、なおさら謝らなければならないでなかろうか。義絶前日の覚信房宛の消息には懇志の礼を述べられている。あるいは「かなしきことなり」と善鸞を義絶をし、それを門弟たちに公開したことが詫びになっているとも考えられる。
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親鸞聖人における信心観の一考察(9)

2016年05月27日 | 既発表論文
【平成二十二年(二○一○)五月、『行信学報』第二十三号に掲載された、「親鸞聖人における信心観の一考察 ─金剛心と善鸞事件を通して─」をそのまま掲載する】

 それから一般に親鸞聖人は約二十年を関東で過ごされたといわれる。その間には先述した『延暦寺奏状』の上奏があり、『教行証文類』の撰述に取りかかられたのであるが、『御伝鈔』にはいっさい触れられていない。精力的に布教伝道に努められたであろうが、『御伝鈔』にはただ「稲田興法」「弁円済度」の二段があるのみである。とくに「弁円済度」の段は名場面で、伝承では親鸞聖人四十九歳のときであったという(65)。山伏が親鸞聖人の暗殺を企てたが、逆にその徳に伏し、門弟となって明法房と名のるようになったというのである(66)。

 その明法房が往生したのは建長三年(一二五一)十月十三日六十八歳であった。親鸞聖人は七十九歳で、すでに関東から帰洛されていたが、明教房の上洛によって知られたのであった。『親鸞聖人御消息』第二、三、四、五通にそのことが触れられている。なかでも第二通には、「おどろきまうすべきにはあらねども、かへすがへすうれしく候ふ」といわれている。明法房の周辺には元の仲間からの誘惑や迫害があったであろう。親鸞聖人も一抹の不安を感じられていたと思われる。しかし明法房が心変わりすることなく一途に念仏の道を生き抜いていかれたことを聞いて「うれしく候ふ」と賞賛されている。そして「鹿島・行方・奥郡、かやうの往生をねがはせたまふひとびとの、みなの御よろこびにて候ふ」といわれている。続いて「ひらつかの入道」が往生したことも伝え聞き、「めでたさ申しつくすべくも候はず」といわれ、「おのおのみな往生は一定とおぼしめすべし」といわれている。明法房や「ひらつかの入道」の往生を通して、あなたがたの往生も一定と思いなさいといわれるのである(67)。

 それはとくに「信文類」菩提心釈に「深く信具足の金言を了知し(68)」といわれていることが想起される。『涅槃経』迦葉品に、道があると信じて、得道の人があることを信じないのを信不具足といわれたものである。親鸞聖人は明法房や「ひらつかの入道」を得道の人と見られたのではなかろうか。また「信心たがはずして」往生を遂げた覚信房や(69)、聖覚法印や隆寛律師を「すでに往生をもしておはしますひとびと」といわれている(70)。その他、文献に名が出なくとも、無数の得道者がいたはずである。それゆえ信心を揺るがせてはならないということであろう。


(65)『親鸞聖人正統伝』(『真全』六七・三八一頁)
(66)『御伝鈔』下巻・第三段(『『註釈版聖典』一○五四~一○五五頁)
(67)『親鸞聖人御消息』第二通(『註釈版聖典』七三八頁)
(68)「信文類」菩提心釈(『註釈版聖典』二四六頁)
(69)『親鸞聖人御消息』第十三通(『註釈版聖典』七六六頁)
(70)『親鸞聖人御消息』第四通(『註釈版聖典』七四三頁)
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親鸞聖人における信心観の一考察(8)

2016年05月26日 | 既発表論文
【平成二十二年(二○一○)五月、『行信学報』第二十三号に掲載された、「親鸞聖人における信心観の一考察 ─金剛心と善鸞事件を通して─」をそのまま掲載する】

         四

 親鸞聖人が往生されて後、末娘の覚信尼は当時越後にいた母の恵信尼に書状を送り、その返信が『恵信尼消息』といわれるものである。そこに恵信尼は親鸞聖人を偲んで三つの事柄を記している。吉水入室の事情、下妻の夢想、寛喜の内省と三部経千部読誦の中止である。恵信尼は日記をつけていたようであるから(58)、逸話は他にもあったであろうが、覚信尼に伝えたのは三点だけである。それで親鸞聖人の全体が知られるということであろうか。

 おそらく覚信尼は親鸞聖人の臨終の様子に不審をもたれたのであろう。『御伝鈔』には「つひに念仏の息たえをはりぬ(59)」というのみで、奇瑞のあったことはまったく記されていない。しかし恵信尼は確信に満ちて、臨終がどうであれ、「殿の御往生、なかなかはじめて申すにおよばず候ふ」といい、吉水入室時の模様を示し、

「上人のわたらせたまはんところには、人はいかにも申せ、たとひ悪道にわたらせたまふべしと申すとも、世々生々にも迷ひければこそありけめ、とまで思ひまゐらする身なれば」と、やうやうに人の申し候ひしときも仰せ候ひしなり(60)。

と伝えている。『歎異抄』第二条にも同様の旨が記されている(61)。「雑行を捨てて本願に帰」した親鸞聖人の信心はたじろぐことがなかったのである。

 そして三十五歳のとき承元(建永)の法難によって越後に流罪となり、赦免後しばらく越後にとどまっていたが、「事の縁(62)」あって関東へ赴かれた。その途中、建保二年(一二一四)四十二歳のとき、上野国佐貫において(63)、衆生利益のために三部経千部読誦を思い立たれたが、四、五日して、自信教人信と信じながら、「名号のほかにはなにごとの不足にて、かならず経をよまんとするや(64)」と思い返し、常陸国へ旅立たれたといわれている。吉水入室が「自信」の原点であるなら、三部経千部読誦の中止は「教人信」の原点を示されたものといえよう。


(58)『恵信尼消息』第四通(『註釈版聖典』八一七頁)に「そのときの日記には」とある。
(59)『御伝鈔』下巻・第六段(『註釈版聖典』一○五九頁)
(60)『恵信尼消息』第一通(『註釈版聖典』八一一頁)
(61)『歎異抄』第二条(『註釈版聖典』八三二頁)
(62)『最須敬重絵詞』(『真聖全』三・八二三頁)
(63)佐貫は現在の群馬県邑楽郡板倉町板倉と推定され、そこにある真言宗豊山派の宝福寺(法福寺)から性信房の木像が発見された。今井雅晴氏『親鸞と東国門徒』(一二四~一二五頁)にその胎内銘が翻刻されている。したがって佐貫は性信房の勢力圏であり、そこを通ったということは親鸞聖人の関東移住に少なからず性信房が関わっていたことが知られる。また江戸時代になるが、高田派の『正統伝』には常陸国小島の郡司武弘が招請し、「性信房を御迎として、越後へま井らせけり。この性信は、郡司の一族にして、予て聖人の徳行を崇びければなり」(『真全』六七・三七六頁)といわれている*。郡司武弘のことはともかく、真仏房とか顕智房というのであれば別であるが、性信房が越後へ迎えに行ったというのであるから、単に後世の伝承として看過できないものがあるのではなかろうか。
(64)『恵信尼消息』第三通(『註釈版聖典』八一六頁)
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親鸞聖人における信心観の一考察(7)

2016年05月25日 | 既発表論文
【平成二十二年(二○一○)五月、『行信学報』第二十三号に掲載された、「親鸞聖人における信心観の一考察 ─金剛心と善鸞事件を通して─」をそのまま掲載する】

 「信文類」便同弥勒釈には弥勒菩薩と念仏の衆生を対比し、まず「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」といわれる。等覚の弥勒菩薩は五十六億七千万年の後に金剛喩定に入って元品の無明を破し、竜華三会の暁に妙覚の位に至るのに対して、「念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終の一念の夕、大般涅槃を超証す」といわれている(48)。その体、仏心であり、大菩提心であるような信心によって名義にかなった如実修行相応の行になり、「行文類」称名破満釈には「一切の無明を破し、一切の志願を満てたまふ(49)」といわれる。そして娑婆の縁つきて力なくして終わっていく夕べではあるけれども、弥勒菩薩よりはるかに速く大般涅槃を超証する。それゆえ、まさに頓教中の頓教であり、横超の法門といわれるのである。

 そこに「横超の金剛心」といわれている。親鸞聖人はしばしば信心を金剛と形容されたり、金剛心と呼ばれている。たとえば『教行証文類』「総序」に「難信金剛の信楽」といわれ、「信文類」一念転釈に「真実信心はすなはちこれ金剛心なり」といい、願作仏心、度衆生心、大菩提心と会名されているところなどである(50)。

 その金剛という語は経論釈に頻出するが、親鸞聖人が注目されているのは善導大師の『観経疏』である。その伝記は生存中に南山大師道宣の『続高僧伝』に簡潔ながら取り上げられ、師の道綽禅師が入滅されて後、帝都・長安に入って、「弥陀経を写すこと数万巻、士女奉ずる者、其の数無量なり(51)」といわれている。もってその伝道の熱烈さが察せられる。また大谷探検隊がトルファンから将来した『阿弥陀経』断片の末尾に「善導」の名があり、書写した数万巻の一つと見られ(52)、その影響力の広さも窺える。しかし同じころ長安には玄奘三蔵がインドから持ち帰った経論の大翻訳事業を行っていた。また摂論宗による念仏別時意説が横行していた。善導大師が念仏を弘めれば弘めるほど、謗難するものも多かったであろう。そこで「信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん」として有名な二河譬を説かれたのであった(53)。親鸞聖人はそれを「信文類」大信釈に引用され、三一問答・法義釈の欲生釈に「散善義」回向発願心釈の文を引用した後、二河譬の私釈を施し、「能生清浄願往生心といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信海なるがゆゑに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり」といわれている。そしてその「金剛の真心」を説明するために、次に「玄義分」「帰三宝偈」の文と、「序分義」真心徹到の文と、「定善義」金剛は無漏の体なりの文を引用されている(54)。その三文に金剛の語が出るのである(55)。

 「帰三宝偈」の引文は一部を省略し独自の訓み方がなされている。すなわち当分は「おのおの無上心を発せ」というのを『観経集註』ではそのまま訓んでいるが(56)、「信文類」では「おのおの無上心を発せども」と訓み、自力の菩提心を発しても生死は厭い難く、仏法は欣い難いとされる。そして「ともに金剛の志を発して」を他力の菩提心(信心)とし、「横に四流を超断せよ」を後に信心の利益として追釈される。「序分義」の引文では「金剛の志を発すにあらざるよりは、永く生死の元を絶たんや」といい、他力の菩提心(信心)によらなければ生死を超えることができないといわれ、「定善義」の引文でその信心の体は無漏の仏智であることを明らかにされるのである。

 この一連の文章の中、先哲は、「散善義」回向発願心釈の「この心深く信ぜること金剛のごとくなるによつて、一切の異学・異見・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず」の「金剛」を喩金剛といい、信相をあらわすといわれる。また「定善義」の「金剛といふは、すなはちこれ無漏の体なり」の「金剛」を法金剛といい、信体をあらわすといわれている(57)。いまはとくに何物にも破壊されないという信相をあらわす喩金剛に注目したいと思う。


(48)「信文類」便同弥勒釈(『註釈版聖典』二六四頁)
(49)「行文類」称名破満釈(『註釈版聖典』一四六頁)
(50)『教行証文類』「総序」(『註釈版聖典』一三一頁)、「信文類」一念転釈(『註釈版聖典』二五二頁)
(51)『続高僧伝』(『大正蔵』五○・六八四頁上)
(52)『季刊せいてん』一八・五頁にその写真が掲載されている。
(53)「散善義」(『七祖篇註釈版聖典』四六六~四七○頁)
(54)「信文類」欲生釈(『註釈版聖典』二四四~二四五頁)
(55)名畑応順氏「金剛心について」(大谷大学編『親鸞聖人』所収、のち『親鸞大系』第六巻所収)には、善導大師が「観経の深心を金剛心という言葉で表明されたということは、対外的には、当時通論家が観経下々品の経説を以て別時意とする非難に対して、故らに彼等の所依とする摂論の金剛喩三摩提の説を逆用されたということも考えられ、また浄影等の諸師が特に重視した言葉を採用して、浄土願生の信心こそ真の金剛心なることを力説されたということも、一応は注意されてよかろう」といわれている。真諦訳『摂大乗論釈』(『大正蔵』三一・二五二頁下)に四義、浄影寺の慧遠大師『大乗義章』(『大正蔵』四四・六三七頁下)に十四義をもって金剛を説かれている。なお存覚上人の『六要鈔』(『真聖全』二・二一○)にも金剛の釈義がある。
(56)『観経集註』(『定本親鸞聖人全集』七・二六九頁)
(57)たとえば利井鮮妙師『専精舎講本 本典惣序〈第四回〉』一九頁参照。
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親鸞人における信心観の一考察(6)

2016年05月24日 | 既発表論文
【平成二十二年(二○一○)五月、『行信学報』第二十三号に掲載された、「親鸞聖人における信心観の一考察 ─金剛心と善鸞事件を通して─」をそのまま掲載する】

 しかし、親鸞聖人は「信文類」菩提心釈に二双四重の判釈を施され、菩提心という言葉は一つであっても、教法に二双四重の別があるのに応じて、菩提心にも二双四重の別があるといわれる。そして法然聖人が廃捨されたのは自力聖道の菩提心であって、他力横超の菩提心まで捨てられたわけではない。それが信疑決判されたところの信心であり、三心即一の信楽である。そこにそなわっている如来成就の大智大悲の徳は、『論註』真実功徳釈の言葉でいえば(43)、法性に依り二諦に順ずる不顛倒(自利成就)の智徳と、衆生を救うて浄土に入らしめる不虚偽(利他成就)の悲徳であり、善巧摂化章の言葉でいえば(44)、願作仏心、度衆生心の大菩提心である。それゆえ本願・名号を領受した信心は、悲智円満しているとして「この心顛倒せず、この心虚偽ならず(45)」といわれ、また往生成仏を一定と期する願作仏心であり、やがて還相回向の悲用となる度衆生心であるから、願作・度生の大菩提心である。いいかえれば菩提心とは実は自分がおこすものではなく、如来よりたまわる信心におのずからそなわっている徳であり、信心=大菩提心として、仏教の原理とも矛盾しない信心による菩提心正因説を立てられたのであった。

 そこに自力の菩提心と他力の菩提心が対立する。その自力の菩提心の究極に位置するのが一生補処の弥勒菩薩である。親鸞聖人当時、法然聖人が弘通される阿弥陀仏信仰に対して、『悲華経』によって釈迦仏こそわれらに有縁の仏であるとする釈迦仏信仰、そしてその後継者とされる弥勒菩薩への信仰があった(46)。しかし親鸞聖人は信の一念に、凡夫でありながら正定聚という聖者の位に住し、さらに「便同弥勒」「如来と等し」とまでいわれた。それは念仏者の尊厳性をたたえると同時に、被圧迫者の専修念仏者に自信をもたせる意味もあったと考えられる(47)。


(43)『論註』真実功徳釈(『七祖篇註釈版聖典』五六頁)
(44)『論註』善巧摂化章(『七祖篇註釈版聖典』一四四頁)
(45)「信文類」大信釈(『註釈版聖典』二一一頁)
(46)拙稿「親鸞聖人における宿縁の意義」(『行信学報』一九)に触れるところがある。
(47)梯實圓氏『法然教学の研究』(五三五頁、註・三六)参照。
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親鸞聖人における信心観の一考察(5)

2016年05月23日 | 既発表論文
【平成二十二年(二○一○)五月、『行信学報』第二十三号に掲載された、「親鸞聖人における信心観の一考察 ─金剛心と善鸞事件を通して─」をそのまま掲載する】

         三

 ところで、親鸞聖人の信心論の背景には明恵上人高弁が『摧邪輪』に展開された「菩提心を撥去する過失」がある。法然聖人が菩提心を非本願の行として廃捨されたことに対する論難である。それは親鸞聖人だけでなく、法然聖人門下に突きつけられた一大課題であった。弁長上人も『徹選択』に「近代有人の云く(35)」として直接取り上げられている。しかし親鸞聖人は明恵上人を名指しされることはなかった。菩提心の問題を聖道門全般から放たれる課題として捉えられていたからであろう。『教行証文類』の撰述は貞応三年(元仁元年、一二二四)五十二歳のときに上奏された『延暦寺奏状』を契機としているが、「行文類」に「つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり」といい、それを承けて「信文類」に「つつしんで往相回向を案ずるに大信あり」といわれている(36)。その「大行」は『摩訶止観』に「発大心」「修大行」とある「修大行」によったものと考えられるから(37)、「大信」の語もその「発大心」に対応するものであろう(38)。また信心の追釈にあえて「『止観』の一にいはく」といって『摩訶止観』の菩提心の語義の文を引用されているのも(39)、自身が比叡山で学ばれた天台学の素養もあるであろうが、『摩訶止観』の「発大心」に対する意識もあると思われる。

 天台では「発大心」すなわち菩提心を発し、「修大行」すなわち四種三昧の行相をもって円頓止観の行を修していく。明恵上人も法然聖人の菩提心廃捨を批判されるのであるから、菩提心を仏道の正因と見られていた。また承元(建永)の法難の元凶となった『興福寺奏状』を起草した解脱上人貞慶は入滅の約一ヶ月前の『観心為清浄円明事』に「其の法を聞かざるに非ざれども、只だ其の心を発さざるなり(40)」と、発菩提心の法を聞いても、それを発すことができないと告白されているが、菩提心を追求した人だからこそいえる言葉であろう。けだし、『華厳経』入法界品に「菩提心は則ち一切諸仏の種子と為す(41)」といわれ、『大日経』住心品に「菩提心を因と為し、悲を根と為し、方便を究竟と為す(42)」といわれるように、菩提心を因とするのが仏教の通則である。それを否定すれば、もはや仏教とはいわれない。明恵上人が激烈に批判されるのも当然である。


(35)『徹選択本願念仏集』(『浄全』七・九○頁)
(36)「行文類」(『註釈版聖典』一四一頁)、「信文類」(『註釈版聖典』二一一頁)
(37)拙稿「親鸞聖人における大行観の一考察─「大行」という語に注目して─」(『行信学報』二二)に述べている。
(38)梯實圓氏『聖典セミナー 教行信証〔信の巻〕』三七七頁参照。なお「大信」という語は『教行証文類』にだけ見られる。
(39)「信文類」菩提心名義(『註釈版聖典』二五三頁)
(40)『観心為清浄円明事』(『日大蔵』六四・二三頁)
(41)『華厳経』入法界品(『大正蔵』九・七七五頁中)
(42)『大日経』住心品(『大正蔵』一八・一頁下)


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親鸞聖人における信心観の一考察(4)

2016年05月22日 | 既発表論文
【平成二十二年(二○一○)五月、『行信学報』第二十三号に掲載された、「親鸞聖人における信心観の一考察─金剛心と善鸞事件を通して─」をそのまま掲載する】


 なお善導大師の三心釈で注意しておかねばならないのは至誠心釈である。至誠心とは真実心であって、法蔵菩薩がなされたように、内外ともに真実でなければならないといわれている。それをいかに領解するかが法然聖人やその門下の課題であった。「観経釈」や『選択集』では内外相翻の義をもって釈されている。外見の賢善精進の相を翻して内心に蓄え、内心の虚仮を翻して外見に播すなら、出離の要道になるといわれる(26)。「往生大要鈔」には内に真実があれば外相はたとえ愚悪懈怠の相であっても出離に足る真実心であるとみなされている(27)。また『三部経大意』には総別の分別をなされ、総とは自力の至誠心であり、別とは他力の至誠心と見られている(28)。そして隆寛律師は『具三心義』に曇鸞大師の『論註』真実功徳釈を引いて、「凡夫心を以て真実とは為すにはあらず、弥陀の願を以て真実と為す。真実の願に帰するの心なるが故に、所帰の願に約して真実心と名づく(29)」といわれている。凡夫の心を真実とするのではなく、真実は弥陀の願であり、その真実の願に帰するから真実心と名づけるといわれるのである。親鸞聖人が「行文類」に『論註』真実功徳釈の全文を引き(30)、また「信文類」に『涅槃経』聖行品の「真実といふはすなはちこれ如来なり。如来はすなはちこれ真実なり(31)」という文を引き、『尊号真像銘文』に「真実と申すは如来の御ちかひの真実なるを至心と申すなり(32)」といわれることなどは、隆寛律師の影響によるものであろう。私の中には貪瞋が渦巻く煩悩しかなく、真実は如来、本願なのである。

 親鸞聖人は、善導大師や法然聖人が願生行者に必須とされた『観経』の三心には他力の三心と自力の三心があるとして、それを詳釈された「散善義」の三心釈を『教行証文類』の「信文類」大信釈と「化身土文類」要門釈に分引される。そして他力の三心と同致される第十八願の三心を天親菩薩の『浄土論』の一心と対望し、「信文類」にいわゆる三一問答を設けられている。まず第十八願に三心と誓われているのになぜ天親菩薩は一心と表白されたのかと問い、涅槃の真因はただ信心にあることを愚鈍の衆生に解了し易からしめんがために三を合して一とされたとして、字訓をもって三心は無疑の信楽一心におさまることを明らかにされる。つぎに第十八願はもと愚悪の衆生のために発されたものであるのになぜ三心と誓われたのかと問い、至心・信楽・欲生それぞれに機無・円成・回施・成一という釈相をもって(33)、信心の体徳を明らかにされる。すなわち私のなかには本来三心と呼べるようなものはなく、おこしようもないから、阿弥陀仏は仏辺において成就し、いま本願・名号となって回施されている。私はただその仏願の生起本末を疑いなく聞き受ける一心よりほかにない。そこで信心は確かに私の上に開かれるものではあるが、その体をいえば「大信心海」等といわれる広大無辺な大智大悲の仏心であり、それをたまわるから、よく往生成仏の正因となると、徳義の上から信心正因説を確立されたのであった(34)。


(26)『漢語灯録』「観経釈」(『真聖全』四・三五三頁)、『選択集』三心章(『七祖篇註釈版聖典』一二四八頁)
(27)『和語灯録』「往生大要鈔」(『真聖全』四・五七三頁)、梯實圓氏『法然教学の研究』二六四頁参照。
(28)『三部経大意』(『真聖全』四・七八七頁)
(29)『具三心義』(平井正戒氏『隆寛律師の浄土教』「遺文集」四頁)、『極楽浄土宗義』(『同』「遺文集」二一頁)にも同意の文がある。
(30)「行文類」大行釈(『註釈版聖典』一五八~一五九頁)
(31)「信文類」三一問答、法義釈・信楽釈(『註釈版聖典』二三四頁)
(32)『尊号真像銘文』(『註釈版聖典』六四三頁)
(33)ただし信楽釈は至心釈や欲生釈と少し釈相が異なり、とくに成一の釈がない。それは、信楽は三心即一の一心(無疑心)そのものであるから、ことさら成一の釈を必要としないからである。しかし、たとえば大江淳誠氏『教行信証講義』上巻・四八四、五○○頁などには機無・円成・回施・成一は至心釈と欲生釈だけで、信楽釈は違うという見方をされている。
(34)梯實圓氏『教行信証の宗教構造─真宗教義学体系─』(二九五頁)には、「諸経和讃」の「信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときたまふ 大信心は仏性なり 仏性すなはち如来なり」(『註釈版聖典』五七三頁)の前二句は釈尊説法の最初である『華厳経』、後二句は最後の『涅槃経』によったものであり、そこには全仏教が摂まると信じられていたから、「聖人の信心正因説は、本願の信心をもって全仏教を統合するような視点から示されたものであったといえよう」といわれている。

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親鸞聖人における信心観の一考察(3)

2016年05月21日 | 既発表論文
【平成二十二年(二○一○)五月、『行信学報』第二十三号に掲載された、「親鸞聖人における信心観の一考察─金剛心と善鸞事件を通して─」をそのまま掲載する】


 ところで、浄土教の信心はもともと『観経』上品上生段に説かれる至誠心・深心・回向発願心の三心であった。善導大師(六一三~六八一)は『観経疏』「散善義」に「三心を弁定してもつて正因となす(17)」といって三心を詳釈し、最後に「三心すでに具すれば、行として成ぜざるはなし。願行すでに成じて、もし生ぜずば、この処あることなからん(18)」といわれている。また『往生礼讃』前序にも三心釈を施し、「この三心を具すれば、かならず生ずることを得。もし一心も少けぬれば、すなはち生ずることを得ず(19)」といわれている。それらを法然聖人は『選択集』三心章に「念仏の行者かならず三心を具すべき文(20)」と標章して引用し、私釈において「引くところの三心はこれ行者の至要なり(21)」といい、浄土を願生する者は必ず具足しなければならないといわれている。

 また善導大師は「散善義」三心釈の結びに「またこの三心はまた通じて定善の義を摂す(22)」といい、法然聖人も『選択集』三心章の終わりに「この三心は総じてこれをいへば、もろもろの行法に通ず。別してこれをいへば、往生行。いま通を挙げて別を摂す(23)」といわれている。「もろもろの行法」とは定散諸行であり、「往生行」とは深心釈下に正・雑、助・正の名目をもって決択された称名正定業であって、三心は定散諸行に通じ、別して本願の念仏と組み合うのである。法然聖人が「観経釈」などに第十八願の「至心信楽欲生我国(至心に信楽して我が国に生れんと欲え)」を三心と見なし、『観経』の三心と会合されるのは(24)、本願の念仏と組み合う三心である。そして善導大師が所信の行を称名と決択されたのは深心釈で、至誠心釈や回向発願心釈には行を出さず、法然聖人も私釈の深心のところで先述の信疑決判をなされているから、三心の中心は深心であって、『三部経大意』には「三心はまちまちにわかれたりといゑども、要をとり、詮をゑらびてこれをいへば、深心ひとつにおさまれり(25)」といわれるのである。それを第十八願の三心と会合されているところから見れば、「至心信楽欲生」も信楽一心におさまるとみられていたと考えられる。それを詳しく明かされたのが親鸞聖人の三心即一論であろう。


(17)「散善義」(『七祖篇註釈版聖典』四五三頁)
(18)「散善義」(『七祖篇註釈版聖典』四七○頁)
(19)『往生礼讃』前序(『七祖篇註釈版聖典』六五四頁)
(20)『選択集』三心章(『七祖篇註釈版聖典』一二三一頁)
(21)『選択集』三心章(『七祖篇註釈版聖典』一二四七頁)
(22)「散善義」(『七祖篇註釈版聖典』四七○頁)
(23)『選択集』三心章(『七祖篇註釈版聖典』一二四九頁)
(24)『漢語灯録』「観経釈」(『真聖全』四・三五二頁)、『西方指南抄』「十八条法語」(『真聖全』四・一三二頁)、元亨版『和語灯録』「要義問答」(『法然全』六二六頁)、『西方指南抄』下末所収の「要義問答」(『真聖全』四・二四八頁)では回向発願心の部分が欠落している。
(25)『三部経大意』(『真聖全』四・七八六頁)


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親鸞聖人における信心観の一考察(2)

2016年05月20日 | 既発表論文
【平成二十二年(二○一○)五月、『行信学報』第二十三号に掲載された、「親鸞聖人における信心観の一考察─金剛心と善鸞事件を通して─」をそのまま掲載する】

              二

 親鸞聖人の信心正因説は、直接的には法然聖人の信疑決判釈を承けるものである。『選択集』三心章に「生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす(5)」といわれているのがそれである。法然聖人は選択本願念仏として、「名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり(6)」と、専修念仏往生を人々に説き弘められた。阿弥陀仏は平等の慈悲に催され一切を摂しようと本願において、勝易二徳を具す称名念仏一行を衆生往生の行として選び取られた。そして念仏申す者をわが浄土に生まれさせると、自らの正覚をかけて「若不生者、不取正覚」と誓われた。その本願成就して、いま阿弥陀仏と成られているのであるから、念仏申す者は必ず浄土に往生するといわれるのである。ただしそれは、私が念仏した功によって往生するというのではない。阿弥陀仏が本願に選び定められた行であるから、念仏申す私の往生が定まる。それゆえ心の善悪や罪の軽重に目を向けるのでなく、念仏申す者を必ず往生させるという願力を仰ぎ、念仏申すばかりであって、「本より仏のさだめおきて、わが名号をとなふるものは、乃至十声・一声までもむまれしめたまひたれば、十声・一声念仏にて一定すべければこそ、その願成就して成仏したまふと云(いふ)道通の候へば、唯(ただ)一向に仏の願力をあおぎて往生をば決定すべきなり(7)」である。その本願を疑うか信ずるかによって、迷と悟が分かれると決判されたのであった。

 親鸞聖人は比叡山におられた頃から法然聖人の噂を耳にされていたであろうが、六角堂の参籠を経て、始めて面謁されたのは建仁元年(一二○一)二十九歳の時であった。覚如上人の『御伝鈔』には「たちどころに他力摂生の旨趣を受得し、あくまで凡夫直入の真心を決定(8)」されたという。『恵信尼消息』には、それから法然聖人のもとへ百日のあいだ通い続け、「ただ後世のことは、よき人にもあしきにも、おなじやうに生死出づべき道をば、ただ一すぢに仰せられ候ひしを、うけたまはりさだめ(9)」られたという。それまで修し学んできた廃悪修善を行道とする聖道門内の天台浄土教や三論浄土教などと、法然聖人が説かれる善導流の浄土教との違いを正確に見極め、本願に直参しようとされたのであろう(10)。親鸞聖人自身、この年に「雑行を棄てて本願に帰す(11)」といわれている。仏の本願によるがゆえに「称名必得生」と受け入れられたのであろう。ここに親鸞聖人における信心の決定がある(12)。

 比叡山を下りて法然聖人の門下となられた親鸞聖人は、法然聖人が説かれる善導流の浄土教を専心精緻に研鑽されたであろう。その跡を偲ばせるのが、後の加筆もあるにせよ、『観経・小経集註』と見られる。『御伝鈔』には吉水時代の行実として「選択付属」「信行両座」「信心諍論」の三段が説かれている。「選択付属」は親鸞聖人自身が「化身土文類」後序に元久二年(一二○五)三十三歳の四月十四日であったと記されているので問題はない(13)。他については年時が不明であるが(14)、この三段は「選択付属」の行から「信行両座」を経て「信心諍論」の信へという一連の文脈が読み取れる。そこには覚如上人の親鸞聖人観が反映されているとも考えられるが、『御伝鈔』(『親鸞聖人伝絵』)は永仁三年(一二九五)覚如上人二十六歳の十月十二日に初稿本が完成し、同年十二月十三日に若干の修正を加えて関東へ送られたのが高田専修寺本として現存するから、関東においても承認される事柄であったのであろう。吉水時代の特筆すべき点は、『選択集』の伝授と信の問題であったのである(15)。その信の問題の中でも「信心諍論」は『歎異抄』の後序に遡ることができる(16)。親鸞聖人は信心について深く洞察されていたのであろう。法然聖人の信心と自らの信心は一つだと主張されたのである。しかしその理由を説明することができなかった。それを法然聖人が「如来よりたまはりたる信心なり」という教語をもって示されたのであった。おそらく法然聖人はそのようなことをはじめていわれたのであろう。またそれが、信心は私がおこすのではなく如来よりたまわるものであるという親鸞聖人の信心観に原形を与えたと思われる。


(5)『選択集』三心章(『七祖篇註釈版聖典』一二四八頁)
(6)『選択集』後述(『七祖篇註釈版聖典』一二八五頁)
(7)『西方指南抄』「法然聖人御説法事」(『真聖全』四・一一一頁)
(8)『御伝鈔』上巻・第二段(『註釈版聖典』一○四四頁)
(9)『恵信尼消息』第一通(『註釈版聖典』八一一頁)
(10)梯實圓氏『顕浄土方便化身土文類講讃』五七~五八頁参照。
(11)「化身土文類」後序(『註釈版聖典』四七二頁)
(12)親鸞聖人の回心や三願転入については先哲・先学のあいだに諸説あるが、いまは二十九歳のときに弘願に転入されたと見る。梯實圓氏『顕浄土方便化身土文類講讃』四一~六○頁参照。
(13)「化身土文類」後序(『註釈版聖典』四七二頁)
(14)良空師『親鸞聖人正統伝』には、「信行両座」は元久二年九月二十一日、「信心諍論」は翌年の八月十六日とされている(『真全』六七・三六三、三六四頁)
(15)なお『口伝鈔』第十四条(『註釈版聖典』八九六~八九八頁)には、西山派祖の証空上人と体失・不体失往生の対論があったことが記されている。法海師『口伝鈔講義』(『真全』四七・一五五頁)、澄玄師『口伝鈔丁酉記』(『真大』二四・一六七頁)には吉水時代というのみである。
(16)『歎異抄』後序(『註釈版聖典』八五一~八五二頁)
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親鸞聖人における信心観の一考察(1)

2016年05月19日 | 既発表論文
【平成二十二年(二○一○)五月、『行信学報』第二十三号に掲載された、「親鸞聖人における信心観の一考察─金剛心と善鸞事件を通して─」をそのまま掲載する】

      一

 親鸞聖人が樹立された浄土真宗すなわち本願力回向の二回向四法という教義体系の中で、往生成仏の証果を得る因は行と信である。第十八願の一願でいえば、「至心信楽欲生」の信と「乃至十念」の行である。それを親鸞聖人は真実五願に開かれ、行を第十七願で建立して法の側に繰り上げ、信を第十八願の持ち前として機の側とされた。そこでは行と信が立体的に法と機の関係として捉えられ(1)、両者は不離一具である。そして行は万人を平等に救う一乗無上の法ではあるが、その行法を私が信受しなければ私の救いとはならない(2)。よって信心が正因となる(3)。それは当然、後の覚如上人や蓮如上人も変わらない。ただ覚如上人は六十二歳の著述である『口伝鈔』から、行と信をともに機の上で語って而二門とし、しかも信前行後と前後を立てて信心正因・称名報恩と説かれ、蓮如上人へ継承されていった。そうした信と行を平面的に捉えることによって、信一念に往因満足して正定聚に住するという親鸞聖人の真宗義がいっそう明瞭にされ、鎮西義などの浄土他流と混同されなくなったといえるであろう(4)。しかしいまは親鸞聖人が構築された信心論を概観し、とくに信心を金剛の語をもって形容されたり、信心を金剛心といわれていることに注目する。そして親鸞聖人晩年の悲痛な出来事であった善鸞事件を通して、具体的な実際の場における信心観を窺おうとするものである。


(1)なお石泉僧叡師は、『柴門玄話』に行と信を「この二法はともに衆生の上にて説ける法門なり」(『真叢』附巻・行信論集、四六頁)といって、衆生稟受の上で語られるが、それは例外といわれている。普賢大円氏『真宗行信論の組織的研究』八七頁参照。
(2)なお僧鎔師『本典一録』には、教を刀の鞘、行を白刃、信を刀の柄に喩えられ、「白刃ありともなくては敵軍にいでて利蓮をうることかなはず、自在に白刃をふりまはして割断するはあるがゆゑなり」(『真叢』八・一九八頁)といわれている。
(3)なお真宗学では「業因」と「正因」の語を区別して使い分け「信心正因」というが、親鸞聖人は『尊号真像銘文』に「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり」(『註釈版聖典』六六五頁)とあるように、念仏を正因といわれる場合もある。
(4)内藤知康氏「真宗教学における称名報恩の意義」(『真宗学』八七)には、覚如上人・蓮如上人の称名報恩義は親鸞聖人の特徴である称名念仏の無償性を示したものといわれている。また梯實圓氏『光をかかげて─蓮如上人とその教え─』(二二六~二三八頁)には、称名報恩の意味として、信心正因を顕す、俗信と自力念仏の否定、他力回向の報謝、自然法爾の念仏、自行化他の念仏という六項目を立てて詳述されている。
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親鸞聖人と安樂房遵西上人(6)

2016年04月06日 | 既発表論文
【2012年発行の『行信学報』第25号に掲載された「親鸞聖人と安楽房遵西上人─古田武彦氏への疑問─」に加筆】

       四

もし古田氏になぞらえていうとすれば、それは「生き残り、生き抜いた善綽房西意」ではなかろうか。前に触れたように、西意について詳しいことはわからない。ただ、覚如(一二七○~一三五一)の『口伝鈔』第一条によれば、土御門院の御宇(一一九八~一二一○)、宮中で七日の逆修が行われるとき、聖覚(一一六七~一二三五)を唱導として、聖道門の外に別して浄土宗があることを論破させようとする勅請があった。これを聞いた法然は、事は重大であるとして、そのような主張がなされないよう、聖覚のもとへ使者をつかわすことにした。そこで親鸞が適任であると選ばれたが、重要な任務のため、親鸞は同行者を求めた。法然は「もつともしかるべし」といって、西意善綽房をさしそえたというのである(62)。これは、親鸞の吉水時代における名誉を高調する逸話であろうが、覚如の創作でなく、親鸞と西意が聖覚を訪ねたとき、ちょうど聖覚は沐浴中で、急いで対面したというのはリアルである。龍口恭子氏は、「このように日常生活の描写を入れているのは、この話を単なる親鸞の行蹟の讃嘆に終わらせず、事実の叙述したものとして、より鮮明に印象づけている(63)」といわれている。ともあれ、ここで親鸞は西意と行動を共にしている。それはこのとき一回だけであったかもしれないが、『歎異抄』流罪記録によれば、

  死罪に行はるる人々
  一番 西意善綽房
  二番 性願房
  三番 住蓮房
  四番 安楽房
  二位法印尊長の沙汰なり(64)。

とあって、第一番目に西意が挙げられている。しかも他の三人が房号であるのに対して、西意だけ「西意善綽房」と実名(じつみよう)が記されている。この記録が、親鸞より直接聞いたものであったとすれば(65)、そこに親鸞の西意に対する思い入れがあるのではなかろうか。『拾遺古徳伝』によれば、親鸞は死一等を減ぜられて遠流になったといわれている(66)。本来なら、親鸞も西意とともに、死罪であったわけである。たとえ一回であったとしても、行動を共にした西意に思い入れのなかったはずはないであろう。『拾遺古徳伝』にも、『歎異抄』に依ったものか、死罪に処せられた第一番目に西意が挙げられ、「善綽房西意」と実名(じつみよう)が挙げられている。他の三人はやはり房号である。そして死罪になった四人について、「このひとびと誅せらるゝとき面々に不可思議の奇瑞をあらはす」等と述べられている(67)。また時代が少し遅れるが、静見(一三一四~一三八三)の『法水分流記』にも、

  親鸞 〔越後〕
  善綽 〔西意 於摂州被誅〕(以下、細註略) 
  安楽 
  住蓮
  性願

とあって(68)、親鸞の次に西意が挙げられている。さらに『知恩伝』にも「或記云」として、「死罪人々四人 善綽房 性願房 住蓮房 安楽房(69)」と、第一番目に西意が挙げられている。もしかすると、『西方指南抄』の「七箇条制誡」連署名も、第五行目の一段目に「西意」と記したから、あと「仏心 源蓮」と記して、自分の名「善信」で終わらせようとしたものかもしれない。ところが、「蓮生」のことを思い出して、それを記したのではなかろうか。そして行空も忘れてはならないというので、最後に「行空」と記したのであろう。あるいは「西意」と記したので、「仏心 源蓮」と続け、忘れられない「蓮生」を加え、第六行目の一段目に「善信」をもってきて、「西意」と「善信」を並べようとした操作かもしれない。ともあれ、そうした史料によって、親鸞と西意は同じグルーブに属し、同志であった可能性が高いと思われる。

最近、武田正晋氏は静岡県撰要寺所蔵の『選択集入紙』に、

元久甲子季三月十九日始之。同月二十六日書写畢。隆寛自染筆但急為終功尊性昇蓮等所加筆也。願共諸衆生往生安樂国。敬白
同年□月十四日丁巳小松殿御堂□□授与□此□。即命云堅以秘聊爾披露。于時善導和尚遷化之忌辰也。不図得此宝珠善導和尚方便歟。心中感宿縁下拭悲涙而巳。同季十月二十六日以善綽(阿波前司入道親感)之本□点校合訖。老眼不分明之間慈功等令移之。

とあり、『選択集入紙』は隆寛(一一四八~一二二七)自筆の文書を写したものと推定されている、といわれている(70)。「善綽之本」によって校合したというのであるから、西意も『選択集』を所持していたことが知られる。それが法然から付属を受けたものであるとすれば、隆寛より先か、もしくは隆寛が書写し終わった元久元年(一二○四)三月二十六日から校合したという同年十月二十六日までに付属を受けたのかもしれない。いづれにせよ、『選択集』を所持していたという点において、親鸞と同志であるにふさわしいといえよう。

こうして、親鸞は生涯、「主上・臣下、法に背き義に違し」と抗議をつづけた。その文章のなかで、「みだりがはしく死罪に坐す」といったとき、『歎異抄』流罪記録の順でいえば、いちおう西意・性願・住蓮・安楽の四人を指していたであろうが、安楽については疎遠であったようである。親鸞がとくに抗議の炎を燃やしたのは、西意の死罪にあったのではなかろうか。古田氏は「生き残り、生き抜いた住蓮・安楽」といわれるが、実は「生き残り、生き抜いた善綽房西意」として、権力者たちに抗議をつづけたのではないかと思われるのである。


(62)『口伝鈔』第一条(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』八七一~八七三頁)
(63)龍口恭子氏「親鸞と聖覚」(浅井成海氏編『法然と親鸞─その教義の継承と展開─』〈永田文昌堂、二○○三年〉所収)
(64)『歎異抄』流罪記録(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』八五五頁)
(65)梯實圓氏「親鸞聖人の生涯⑳ 法難の顛末②」(『一味』七一二、二○○八年)に、流罪記録は「『歎異抄』の著者が親鸞聖人から直接聞いたことに違いありません」といわれている。
(66)『拾遺古徳伝』巻七第四段(『真宗聖教全書』三・七四一頁)
(67)『拾遺古徳伝』巻七第一段(『真宗聖教全書』三・七三七~七三八頁)
(68)『法水分流記』(『真宗史料集成』七・八二六頁)
(69)『知恩伝』下(井川定慶氏『法然上人伝全集』七六六頁)
(70)武田正晋氏『選択本願念仏集講読』(永田文昌堂、二○一三年)九六頁。
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親鸞聖人と安樂房遵西上人(5)

2016年04月05日 | 既発表論文

【2012年発行の『行信学報』第25号に掲載された「親鸞聖人と安楽房遵西上人─古田武彦氏への疑問─」に加筆】

ただ、親鸞がなぜ安楽の名を記さなかったのかは、わからない。親鸞は何もいっていないからである。明快な解答を得ることはできない。もしかすると、親鸞と安楽は法然門下のなかで、グループを別にしていたのかもしれない。重松明久氏は「安楽・住蓮の徒も一念義の一派ではなかったかとおもう(50)」といわれているが、良心(?~一三一四)の『授手印決答巻上受決鈔』には、安楽・住蓮を「多念名僧也」と割註している(51)。それが何を意味するのか、必ずしも明らかでないが、松野純孝氏は、「『多念』の念仏者であったかもしれない(52)」といわれている。すなわち多念義系である。親鸞は一念・多念を超えていたが、どちらかといえば一念義的傾向の強い人であった。また、安楽は住蓮とともに六時礼讃を盛んにおこなっていたようであるから、行動的実践的である。それに対して親鸞は、『観無量寿経集註』『阿弥陀経集註』を著し、信心一異の諍論に見られるように、理論的学究的である。二人は異なるグループに属していたのではなかろうか。それで親交の形跡が見られないのかもしれない。

 ともあれ古田氏は、親鸞が生涯にわたって後鳥羽上皇たちに抗議をつづけた、その焦点を、安楽・住蓮の死刑においているといわれるが、その証拠はまず、「みだりがはしく(猥)」であって、それはよい。ただ次に、後序の「承元丁卯の歳、仲春上旬の候に奏達す」に着眼され、「その証拠の二つは、弾圧の日付を仲春上旬(二月上旬)としていることだ。これは、住蓮・安楽が死刑になったとき(二月九日)をさしている。法然や自分たちが流罪となったのは、中・下旬(十八~二十八日)のことなのである(53)」といわれている。確かに日蓮(一二二二~一二八二)の『念仏無間地獄鈔』には、「承元元年二月上旬に専修念仏の張本たる安楽、住蓮等を捕縛(めしとらへ)、忽ち頭を刎ねられ畢ぬ(54)」といって、二月上旬に捕縛され、すぐに処刑されたように記しているが、後世の記録である。しかし、前述した『明月記』建永二年二月九日の条には、「近日、只だ一向専修の沙汰。溺(から)め取られ、拷問せらると云々。筆端の及ぶところにあらず」とだけあって、安楽・住蓮の死罪にはまったく触れていない。二月九日という、その日に二人の処刑が行われたというのは、『四十八巻伝』のみに出る所伝なのである。親鸞がいう「承元丁卯の歳、仲春上旬の候に奏達す」とは、『興福寺奏状』が効力を発揮し、安楽・住蓮、そして親鸞自身の検挙がはじまったことを意味するものではなかろうか。安楽・住蓮の処刑に照準を合わせなくてもよいと思われる。また古田氏は、安楽が最期に『法事讃』の偈を誦したことを誇大視し、それを「主上臣下、法に背き義に違し、忿りを成し怨みを結ぶ」のなかに、はめこみ、ちりばめて、文を構成されているといわれているが(55)、古田氏みずからがいわれるように(56)、『法事讃』の偈は『西方指南抄』に三回出ていて(57)、法然がしばしば引用された文である。ことさら安楽最後の言葉と見なくてもよいであろう。第一、安楽が『法事讃』の偈を誦したというのは、これも『四十八巻伝』にしか記述がないのである。古田氏は、最初期の法然伝でもない、『四十八巻伝』に依りすぎると思われる。『四十八伝』は、舜昌(一二五五~一三三五)が後伏見上皇(一二八八~一三三六)の命をうけて、徳治二年(一三○七)から十数年かけて制作された絵巻で、安楽の往生から一世紀も経過している。もちろん『四十八巻伝』は法然最大の伝記で、『勅伝』とも呼ばれるように最も権威のある伝記であるが、史料の取り扱い上、難点があろう。

また、承元(建永)の弾圧で死刑に処せられたのは、安楽・住蓮の二人だけではない。蓮如本の『歎異抄』流罪記録などによれば、ほかに善綽房西意と性願房があった。それは古田氏も、百も承知の事柄で、『歎異抄』後序に「大切の証文ども、少々ぬきいでまゐらせ候ふて、目やすにしてこの書に添へまゐらせて候ふなり(58)」とある「大切の証文」「目やす」を、流罪記録と見る学説を提唱されているからである(59)。そこで「住蓮・安楽たち(60)」という言い方もされている。もっとも西意や性願房について、詳しいことはわからない。それに対して、安楽・住蓮の死罪は、同時代の『愚管抄』をはじめ、諸種の法然伝に語られている。むしろ、安楽・住蓮の死罪しか取り上げていない(61)。それで古田氏は、「生き残り、生き抜いた住蓮・安楽」といわれるのであろう。しかし、住蓮はともかく、安楽については問題が残る。繰り返しになるが、『西方指南抄』本の「七箇条制誡」連署名には充分な余白がありながら、安楽の名を記さず、「善信 行空 已上」と、あえて安楽を避けているかのようであるからである。


(50)重松明久氏『日本浄土教成立過程の研究』(平楽寺書店、一九六四年)三六九頁。
(51)『授手印決答巻上受決鈔』(『浄土宗全書』十・九○頁)
(52)松野純孝氏『親鸞─その生涯と思想の展開過程』(三省堂、一九五九年)七五頁。
(53)古田武彦氏『人と思想⑧ 親鸞』(清水書院、一九七○年)一○一頁。
(54)『念仏無間地獄鈔』(『昭和定本日蓮聖人遺文』一・三九頁、井川定慶氏『法然上人全集』九七八頁)
(55)古田武彦氏『人と思想⑧ 親鸞』(清水書院、一九七○年)九四頁。同氏『親鸞思想─その史料批判─』(冨山房、一九七五年)一六二頁。
(56)古田武彦氏『人と思想⑧ 親鸞』(清水書院、一九七○年)九三頁。同氏『親鸞思想─その史料批判─』(冨山房、一九七五年)一六一頁。
(57)『西方指南抄』巻中末、巻下末(『真宗聖教全書』四・一七○、二二九、二五六頁)
(58)『歎異抄』後序(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』八五三頁)
(59)古田武彦氏「原始専修念仏運動における親鸞集団の課題〔序説〕─史料「流罪目安」の信憑性について─」(『史学雑誌』七四・八、一九六五年、のち同氏『親鸞思想─その史料批判─』〈冨山房、一九七五年〉所収)
(60)古田武彦氏『人と思想⑧ 親鸞』(清水書院、一九七○年)一○一頁。
(61)『愚管抄』巻第六(『日本古典文学大系八六 愚管抄』〈岩波書店、一九六七年〉二九五頁)、『四十八巻伝』第三十三巻、『高田本』下巻、『弘願本』巻四、『琳阿本』巻六、『十巻伝』巻第七、『知恩伝』下(井川定慶氏『法然上人伝全集』(二二四、五一五、五三九、五六八、七○六、七五六頁)

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親鸞聖人と安樂房遵西上人(4)

2016年04月04日 | 既発表論文

【2012年発行の『行信学報』第25号に掲載された「親鸞聖人と安楽房遵西上人─古田武彦氏への疑問─」に加筆】

      三 

しかし、何よりいいたいのは、『西方指南抄』巻中末に収録された、「七箇条制誡」連署名である。高田専修寺に親鸞真蹟本が所蔵されているが、その巻中末の奥書には、「康元元年〔丙辰〕十月十四日 愚禿親鸞〔八十四歳〕書写之」とある。前に述べたが、「七箇条制誡」の原本は京都嵯峨の二尊院に所蔵され、百九十名の署名がある(46)。それに対して、『西方指南抄』本は二十二名の署名である。下に写真版を掲げよう。

二尊院本と比較すると、第十九番目の「源蓮」までは、まったく同じである。ところが、第二十番目の「蓮生」は二尊院本では第八十九番目にあり、第二十一番目の「善信」は「僧綽空」として第八十七番目にあり、第二十二番目の「行空」は第四十番目に記されている。つまり、『西方指南抄』本における最後の三人には、親鸞の手が加わっているということである。その親鸞が、住蓮の名は記してあっても、二尊院本では「遵西」として第三十番目に記されている安楽の名を、どこにも記していない。「蓮生 善信 行空 已上」と、安楽の名をカットしているのである。これについて松野純孝氏は、「二尊院本の第三十番目の署名者安楽房遵西を記さなかったのは、親鸞は安楽に批判的であったというよりは、ただ蓮生や行空ほどの間柄ではなかったというにすぎなかったのではなかろうか。もし第四十番目の行空まで親鸞が書写していたら、証空・幸西・住蓮・西意などと同様に、第三十番目の安楽をも書き連ねたに相違ないと思う(47)」といわれている。もし松野氏のように、親鸞と安楽が、蓮生や行空ほどの間柄、すなわち親しい間柄でなかったというなら、冒頭に取り上げた古田武彦氏の「生き残り、生き抜いた住蓮・安楽」とはいえないではなかろうか。親しい間柄であってこそ、親鸞の一生を、「生き残り、生き抜いた住蓮・安楽」ということがいえると思うのである。また、松野氏は『西方指南抄』本の最後に記された「行空」について、親鸞は自分の名である「善信」を記したあと、「行空のことが思い出されて、『行空』と書き加えたのではなかろうか(48)」といわれているが、あとから行空のことを思い出したというなら、なぜ安楽を思い出さなかったのであろうか。八十四歳の時点で、親鸞は安楽を忘れているのである。どうして「生き残り、生き抜いた住蓮・安楽」といえようか。もし、「生ける安楽」であるならば、むしろ、「遵西 蓮生 善信 行空 已上」と書いてしかるべきであろう。しかも、松野氏は親鸞が第四十番目の行空まで書写していたら、安楽の名も記していたに相違ないと思うといわれていたが、しかし、写真版をよく見ていただきたい。「善信 行空」のあと、あるいは「已上二百余人連署了」のあと、安楽一人の名を記せるくらい、充分な余白が残っている。実は、この発見が本稿の動機でもある。親鸞は、故意に、安楽の名を記さなかったようにさえ感じられる。それでも、「生き残り、生き抜いた住蓮・安楽」といえるであろうか。古田氏も別の論点から、『西方指南抄』所収の「七箇条制誡」連署名に触れられているが(49)、安楽の名がないことには言及されていない。またそれは、『親鸞聖人全集輯録篇1』に依ったもので、写真版は見られていないようである。もし、古田氏が写真版を見、安楽の名がないことを告げれば、何と答えられるであろうか。なおも、親鸞の一生を、「生き残り、生き抜いた住蓮・安楽」といいつづけられるであろうか。


(46)なお、二尊院本の連署名では十人ごとに「十人」「廿」などと註記されているが、「八十」の註記は実際は八十一人目で、以下、一名づつずれていることに注意しておかねばならない。
(47)松野純孝氏『親鸞─その生涯と思想の展開過程』(三省堂、一九五九年)九九頁。
(48)松野純孝氏『親鸞─その生涯と思想の展開過程』三省堂、一九五九年)九九頁。
(49)古田武彦氏『親鸞思想─その史料批判─』(冨山房、一九七五年)五五六頁。 

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