天上の月影

勅命のほかに領解なし

天人衆

2016年03月13日 | 阿弥陀経を読む
【阿弥陀経をよむ(43)】

つづいて、「及釈提桓因等(および釈提桓因等の)」以下、天人衆を挙げられる。天は、梵語デーヴァの訳で、神を意味する。また同時に、神々の住む場所をも意味する。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の、いわゆる六道のひとつである。私たちは生存中の行為の報いによって、死後、六道のいずれかに生まれる。そして、そこでの行為の報いによってまた、六道のいずれかに生まれ変わっていく。それを無限に繰り返していくというのが、古代インド以来の輪廻の思想である。そこでは、苦しみの極まりない地獄に生まれることを恐れ、楽しみを享受する天に生まれることが願われる。しかし、天といっても、地獄と比べれば楽しみが多いというだけであって、所詮、迷いの境界であることを忘れてはならない。

詳しいことは別の機会に譲りたいと思うが、天にもいろいろ細かい段階がある。天親(世親)菩薩の『倶舎論』によると、二十七種の天があるということである。いま、名前だけを挙げると、下から、四大王衆天・三十三天・夜摩天・覩史多天・楽変化天・他化自在天、これらを六欲天という。そして、梵衆天・梵輔天・大梵天・少光天・無量光天・極光浄天・少浄天・無量浄天・遍浄天・無雲天・福生天・広果天・無煩天・無熱天・善現天・善見天・色究竟天、これらは色界の十七天である。ちなみに、広果天と無煩天の間に無想天を入れて十八天とする経典もある。それから、空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処、これらは無色界の四天である。

これらのなか、最下位に位置する四大王衆天でも、人間世界に換算すれば九百万年の寿命があり、そのつぎの三十三天では三千六百万年の寿命があるといわれている。上にいけばいくほど寿命は天文学的数字になっていく。しかし、それは決して無限ではない。かならず終わりがくる。そして、死が近づいたとき、いわゆる「天人の五衰」という五つの兆候があらわれるといわれる。異説もあるが、いま源信僧都の『往生要集』によれば、
 ①頭の上にある華の髪飾りがしぼむ。
 ②着ている天衣が垢でけがれてくる。
 ③腋の下から汗が出てくる。
 ④両目がしばしばくらんでくる。
 ⑤天界にいることすら楽しくなくなってしまう。
という五衰であり、しかも、

まさに知るべし、この苦は地獄よりもはなはだし。(『七祖篇』八三八頁)

といわれている。楽しみが多ければ多いほど、それを失うときの苦しみはいっそう多くなるということであろう。天といっても迷いの境界である。私たちにとって、厭い離れるべき世界なのである。

さて、「釈提桓因」というのは、いわゆる帝釈天のことで、梵名シャクラ・デーヴァーナーム・インドラの音写である。神々の主であるシャクラ神という意味である。もとインド最古の聖典『リグ・ヴェーダ』における最高神であったが、仏教に取り入れられ、梵天とともに仏法の守護神とされている。柴又の帝釈天でたいへん有名である。

なお、さきほど述べた三十三天は◇利天(とうりてん)ともいい、帝釈天を首長とする、三十三種の神々のことである。また、覩史多天は兜率天のことで、現在、弥勒菩薩がましますところである。

そして最後に、「無量諸天大衆倶(無量の諸天・大衆と倶なりき。)」とある。数限りない天人たちが釈尊のもとに集まっていたというのである。そして、説法のはじまりを今か今かと待っているのである。

その天人の名として、『阿弥陀経』には帝釈天を挙げるのみであるが、サンスクリット本ではほかに梵天の名が加えられている。玄奘訳では大梵天王・堪忍界王(梵天の別名、大梵天王のこと)・護世四王(四天王)・阿素洛(阿修羅)の名が加えられている。『阿弥陀経』でも最後の流通分には「天人.阿修羅等」とある。それらが「無量諸天大衆」といわれるなかに含まれているのであろう。
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菩薩衆

2016年03月12日 | 阿弥陀経を読む
【阿弥陀経をよむ(42)】

つぎに、「并諸菩薩.摩訶薩(ならびにもろもろの菩薩摩訶薩)」以下、菩薩衆が挙げられる。菩薩は、梵語ボーディサットヴァの音写語である菩提薩◇の省略形といわれる。あるいは、ボーディサットヴァの語が、俗語でボート・サトもしくはボー・サと発音されていたのを菩薩と音写したともいわれる。

いずれにしても、菩薩の原語であるボーディサットヴァは、ボーディとサットヴァが結合してできた言葉である。ボーディは完全なさとり、サットヴァは生きとし生けるもので、衆生とか有情と訳される。したがって、ボーディサットヴァとは、さとりを目指す人という意味で、覚有情、道衆生、道心衆生などと訳されるのである。

しかも、みずからのさとりの完成だけでなく、すべてのものを救おうとするところに菩薩の菩薩たる所以がある。いわゆる自利・利他である。自利は智慧の完成であり、利他は慈悲の行である。自利と利他、智慧と慈悲の実践に励むのが大乗仏教の修行者である。その彼らを菩薩というのである。

「摩詞薩」は、梵語マハーサットヴァの音写で、大士と訳する。偉大なる人という意味で、菩薩の偉大性をあらわす。自利と利他に努める人は、まさに偉大であるからである。

つづいて、四人の菩薩の名が列せられている。いずれも大乗経典によく出てくる菩薩たちである。

まず「文珠師利法王子」とある。文殊菩薩のことである。梵名マンジュシュリーを文殊師利と音写し、文殊と省略するのである。玄奘訳では「妙吉祥菩薩」と訳している。また『大無量寿経』では「妙徳菩薩」といわれている。ほかに「妙楽菩薩」とも訳される。「法王子」というのは、文殊菩薩に付せられる称号としてよく用いられるが、菩薩のことである。仏を法王といい、菩薩はつぎにかならず仏の位にのぼるから、法王子というのである。大乗仏教の般若・空の教えを宣揚した菩薩で、仏の智慧(般若)の徳をあらわすところから、「文殊の智慧」の語が生まれた。釈尊の左の脇士(右は普賢菩薩)とされている。

つぎに「阿逸多菩薩」というのは、弥勒菩薩のことである。阿逸多は弥勒の字(あざな)といわれ、梵名アジタの音写で、玄奘訳では「無能勝菩薩」と訳している。うち負かされないものという意味である。

弥勒は梵名マイトレーヤの音写で、『大無量寿経』では「慈氏菩薩」とも訳している。京都・太秦の広隆寺の国宝に指定されている半跏思惟像はたいへん美しく、有名である。釈尊のあとをついで成仏する菩薩とされ、現在、兜率天(とそつてん)において天人のために説法しているといわれる。未来にかならず仏と成られるから未来の仏であり、兜率天での一生を過ぎれば仏の位(仏処)を補うべき地位にあるから、一生補処の菩薩という。ただし、弥勒菩薩が弥勒仏と成られるのは、釈尊滅後、五十六億七千万年後のことで、兜率天よりこの世に下生して、竜華樹の下でさとりを開き、人々を救済するために三度説法されるといわれている。

なお、浄土真宗では、阿弥陀仏の「必ず助ける」という仰せをはからいなく聞き入れた信心の行者は、今生(こんじょう)のいのちを終えたとき、即座に浄土に生まれ、阿弥陀仏と同じさとりを得させていただく。未来にかならず仏と成ることに定まっているから一生補処であり、それは弥勒菩薩と同じ位であるから「便同弥勒(すなはち弥勒に同じ)」といわれる。しかも、弥勒菩薩は五十六億七千万年後であるが、私たちはあとわずかで、弥勒菩薩より先に仏に成らせていただくのである。そのような徳をいま、いただいているのである。お互い、心して生きていきたいものである。

横道にそれたが、この弥勒菩薩と阿逸多菩薩は、もともと別人であったようである。ところが、のちに混同され、大乗経典では同一人と見られるようになったといわれている。

つぎの「乾陀訶提菩薩」は、梵名ガンダハスティンの音写で、香象菩薩とも訳される。玄奘訳にはこの名がない。『小品般若経』によると、阿◇仏のもとで菩薩の道を行じ、つねに般若波羅蜜の行を離れずして、尊貴第一とたたえられた、といわれている。

最後の「常精進菩薩」は梵名をニティヨーディユクタというが、詳しいことはわからない。

サンスクリット本ではつぎに、アニクシプタドゥラの名があり、五菩薩の名を挙げている。それを玄奘訳では「不休息菩薩」と訳している。ただし、玄奘訳には「乾陀訶提菩薩」の名がないので、羅什訳と同じく四菩薩となっている。

「与如是等.諸大菩薩(かくのごときらのもろもろの大菩薩)」文殊、弥勒、乾陀訶提、常精進、不休息菩薩に代表されるような大菩薩が多数、『阿弥陀経』の説法の会座におられたということである。
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仏弟子群像

2016年03月11日 | 阿弥陀経を読む
【阿弥陀経をよむ(41)】

あまり詳しく述べると時間がかかるので、以下、簡単に紹介することにしよう。 

つぎは「阿難陀」である。梵名アーナンダの音写で、『大無量寿経』や『観無量寿経』では「阿難」と訳されている。釈尊の従弟にあたり、その侍者として二十余年間、影のごとくつきしたがい、多聞第一と呼ばれた。仏滅後の第一結集の際、釈尊の説かれた教えを伝えた。経のはじめに「如是我聞(かくのごとく、われ聞きたてまつりき)」とあるのは、阿難陀の言葉であった。それらについてはすでに述べた通りである。

「羅◇羅」は梵名ラーフラの音写で、羅雲、羅云ともいい、覆障と漢訳する。釈尊の実子で、成道後はじめて故郷カピラ城へ帰られたときに、舎利弗・目連を師として出家した。密行第一(戒律を細かく守ること第一)といわれる。

「◇梵波提」は梵名ガヴァーンパティの音写で、牛主、牛王、牛跡と漢訳する。ベナレスの富豪の子で、耶舎の四人の友人の一人である。耶舎は、釈尊の初転法輪後、いわゆる五比丘が釈尊に帰依したが、そのつぎに出家した。友人の四人は、彼の出家を聞き、また出家した。最初期の仏弟子である。舎利弗を師とし、神通力にすぐれていたという。釈尊の死を聞いて焼身し入寂したとも伝えられている。

「賓頭盧頗羅堕」は梵名ピンドーラ・バーラッドヴァージャの音写である。王舍城のバラモンの子で、妻が熱心な仏教信者であったことを喜ばなかったが、のちに父とともに出家し、さとりを得た。仏弟子のなか、獅子吼第一といわれる。しばしば神通力をもてあそんだため、釈尊の叱責をうけ、南インドの摩利山に住して釈尊滅後に衆生することを命ぜられたと伝えらている。日本では、その像を伽藍の前に安置し、これを撫でると悪病が治るという俗信がある。

「迦留陀夷」は梵名カーローダーインの音写で、黒光、黒身と訳すが、本名は優陀夷(ウダーイン)といわれる。カピラ城の大臣の子で、釈尊と同日に生まれ、釈尊の太子時代の友人であった。しかし、その容貌のため、「黒いウダーイン」と名づけられたといわれる。釈尊成道後、使者となって釈尊を故郷に迎え、仏弟子となった。
なお、よく問題を起こして釈尊に叱責されたラールダーインもウダーインと呼ばれ、混同されるが、別人と考えられている。

「摩訶劫賓那」は梵名マハーカッピナの音写で、黄色(こうじき)、房宿、大分別などと訳する。クックタという辺国の町の王族に生まれ、父を継いで王となった。師を求めて四方に人を派遣したところ、商人から釈尊が祇園精舎におられるのを聞いて大いに喜び、教えを聞こうと東にくだる途中、チャンダバーガー河で釈尊の出迎えにあい、仏弟子となったといわれる。また、一説では、金地国(ビルマの沿岸地方)のカッピナ王の子で、父の死後、王位についたが、コーサラ国のパセーナディ王のすすめで仏弟子となったともいう。天文暦数に長じていたので、知星宿第一といわれる。

「薄拘羅」は梵名ヴァックラの音写で、重姓、類親などと訳する。ヴァンサ国の都・コーサンビーの長者の家に生まれた。子どものころのある日、母が彼を抱いてヤムナー河の川辺に出たとき、あやまって水に落とされ、巨大な魚に呑まれた。しかし、奇跡的に彼は魚の腹のなかで生きていた。やがて一人の男がその魚を釣り上げ、それを下流のベナレスの長者の妻が買った。そして、料理しようと腹を割くと、なかから男の子が出てきた。子宝に恵まれなかった彼女は非常に喜び、わが子のように育てた。これを伝え聞いた川上のコーサンビーの長者の妻は、それこそ自分が川に落とした子であるから返してくれるよう頼んだのであるが、川下の長者の妻は承知しなかった。決着がつかず、国王の裁定を仰いだところ、王は双方の言い分を聞いたうえで、「双方のいっていることはそれぞれもっともで、どちらの子ともいいがたい。そこで、両家の子として養育するように」といいわたした。そのためにこの子はバークラ(両家)と呼ばれたという。のち、出家して、少欲知足の生活をなし、無病にしてよく長寿を保ったので、長寿第一といわれる。

「阿◇樓駄」は梵名アニルッダの音写で、また、阿那律、阿尼楼駄、阿泥律とも音写し、無貪と漢訳する。釈尊の従弟である。仏弟子となってある日のこと、釈尊の説法の座で居眠りをして叱られ、以来、釈尊の面前では眠らないことを誓い、不眠で修行したため、ついに眼病のため失明した。しかしそれによって彼は天眼を得たといわれる。あるとき、衣を縫うために針の穴に糸を通そうとして難渋していた彼を、釈尊が代わって手助けされた話は有名である。天眼第一と称されている。

「如是等(かくのごときらの)」は、これまでに名を列した十六人などのような、ということである。

「諸大弟子(もろもろの大弟子)」、偉大なる数多くの仏弟子たち、その数は千二百五十人であった。彼らが『阿弥陀経』の説法を聴聞しようと集まっていたのである。
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難陀

2016年03月10日 | 阿弥陀経を読む
【阿弥陀経をよむ(40)】

つぎは「難陀」である。梵名ナンダの音写で、「歓喜」「嘉楽」と漢訳される。釈尊の異母弟にあたる。前に述べたように、釈尊の生母・マーヤーは釈尊を生んで七日目に亡くなったので、父・スッドーダナはその妹のマハー・パジャパティーと再婚した。そして、二人のあいだに生まれたのが難陀であった。容姿端麗で、スンダラーナンダ(うるわしき難陀)といわれていた。また、釈尊とも非常によく似ていて、見間違えるほどであったという。

その難陀には、仏弟子になるなどという意志はまったくなかった。ところが、釈尊が成道後、はじめて故郷のカピラヴァストゥに帰って三日目のことである。ちょうど難陀の結婚式であったのであるが、釈尊によって半ば強制的に出家させられたといわれている。

仏弟子となった難陀は、新妻のことが忘れられず、愛欲に悩む日々を送っていた。そこで釈尊は、神通力によって難陀を天界に連れていき、美しい天女を見せた。難陀は、そのあまりの美しさに、「どうしたら天女を得ることができるのか」と問うと、釈尊は「しっかりと修行を積めば天女を得ることができるであろう」と答えたので、人が変わったように修行にうちこんだ。そして、修行がすすむにつれて、天女を得たいという目的を離れ、ついに阿羅漢のさとりに達したということである。
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周利槃陀伽

2016年03月09日 | 阿弥陀経を読む
【阿弥陀経を読む(39)】

つぎは「周利槃陀伽」である。梵名チューダパンタカの音写で、周利槃特ともいう。小路と漢訳し、あるいは愚路とも意訳する。

彼の母は王舍城の長者の娘で、父はその召使いであった。二人は恋に落ちたが、身分の違いから駆け落ちするしかなかった。やがて身ごもり、娘は王舍城の両親のもとで出産したいと相談すると、夫は同意したものの、罰をおそれて腰をあげようとしなかった。臨月が近づいてきたので、娘は一人で帰郷しようとし、その途中で男の子を生んだ。道路で生まれたことから、この子はパンタカ(道路)と名づけられた。また、二番目の子も同じように、実家に帰る途中で生まれた。そこで、最初の子をマハー・パンタカ(大道路)、つぎの子をチューダ・パンタカ(小道路)と名づけたのである。やがて、二人は王舍城の祖父母のもので暮らすようになったのであるが、兄のマハー・パンタカは出家を願い、仏弟子となったことから、弟のチューダ・パンタカ、すなわち周利槃陀伽も出家したという。

ただ、兄が非常に賢い人であったのに対して、周利槃陀伽は生まれつきたいへん愚鈍であった。わずかな詩句を四ヶ月かかっても覚えられなかった。愚者の代名詞のような人である。

兄は、そういう弟を何とか一人前にしてやろうとしたが、ついに堪えかねて、精舎から追い出してしまった。途方に暮れている周利槃陀伽を釈尊が見つけた。そして精舎へ連れて帰り、白い布を与えて、「塵垢(ちり)を除去(のぞ)こう、塵垢(ちり)を除去(のぞ)こう」といいながら掃除をせよ、と命じた。いわれたままに周利槃陀伽は毎日掃除を繰り返した。そのうち、真っ白であった布が真っ黒になっていった。それを見て、釈尊が説かれた諸行無常とはこういうことをいうのであろうと気づいたというのである。それを知った釈尊は、「その布だけが汚れているのではない。人間のこころのなかにある欲望などの塵や垢を除きとることが大切なのだ。」と諭した。さすがの周利槃陀伽も釈尊の教えようとしていることがよくわかり、やがて、阿羅漢の聖者になったのであった。

なお、一説には、草履の塵を掃除させたとも、また、釈尊が与えたのは布ではなく箒であったともいわれている。
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摩訶倶◇羅と離婆多

2016年03月08日 | 阿弥陀経を読む
【阿弥陀経を読む(38)】

つぎは「摩訶倶◇羅」である。梵名マハーカウシュティラの音写で、大住とも意訳される。コーサラ国の首都・舎衛城の裕福なバラモンの家に生まれ、その学問に精通したが、のち釈尊に帰依し、仏弟子となったといわれている。

また、一説には舎利弗の母・シャーリーの兄であったともいわれている。マガダ国の首都・王舍城から少し離れたところにカラピナーカという村があり、そこに論議を得意とするマータラというバラモンがいた。あるとき、南インドから何某というバラモンが国王のもとを訪れ、誰かと論議をしたいというので、王はマータラを呼んだ。その結果、マータラがみごとに相手を負かせたので、王は褒美としてカラピナーカ村を与えた。それでマータラはカラピナーカ村の主となったのであるが、その後、妻を娶って一男一女をもうけた。その兄が摩訶倶◇羅であり、その妹が舎利弗の母・シャーリーであったのである。二人は父親譲りで多いに論議を好んだが、兄はいつも妹に勝つことができなかった。そこで兄である摩訶倶◇羅は、自分の力のなさを恥じて、南インドに向かって修学の旅に出た。そのとき、学問を修め尽くすまでは決して爪を切らないと誓いを立てたという。そして、それを守ること十数年に及んだので、「長爪梵志(ちょうそうぼんじ)」といわれた。やがて、学問を究め、帰国してみると、父母も妹もすでに亡くなり、甥の舎利弗が仏弟子となっていることを聞き、大いに憤慨して釈尊に論争を挑んだが、結局、釈尊に帰依し、仏弟子となったといわれている。

つぎの「離婆多」は、梵名レーヴァタの音写で、離波多、離曰とも音写される。舎利弗の末弟である。成長して、父母から結婚をすすめられ、その女性のもとに行く道すがら、ふと、長兄・舎利弗が仏弟子であることを思ったというのである。兄・舎利弗はなぜ妻を娶らなかったのか、それは苦の種を増すばかりであると。兄・舎利弗は青春を謳歌する気はなかったのか、人間の一生は短く、すぐにわが身にも老いがやってくると。こうした兄の言葉に思いが至ったとき、離婆多の心のなかに出家への念が湧きおこり、すぐさま道を変更して、出家したといわれている。

その後、離婆多はカディラ林に住んで、厳しい苦行に堪え、ついにさとりを開いた。兄・舎利弗は釈尊に先立って入滅したが、離婆多は釈尊涅槃のときまで生存し、その荼毘の葬礼にも列したと伝えられている。

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摩訶迦旃延

2016年03月07日 | 阿弥陀経を読む
【阿弥陀経をよむ(37)】

つぎは「摩訶迦旃延」である。梵名マハー・カーティヤーヤナの音写で、大迦旃延とも訳される。マハー(偉大な)は尊称であるから、カーティヤーヤナ(迦旃延)が本来の名前である。

その迦旃延は、インド西部のアヴァンティ国の人で、バラモンの出身であった。母方の伯父は、釈尊が生まれたとき、その人相を見て、将来すぐれた宗教家になるであろうと予言し、それまで自分の命はもつまい。その教えを聞くことができないのが残念であると嘆いたアシタ仙人である。そのもとで学問を学んでいたが、やがてアシタ仙人が亡くなろうとするとき、「釈尊のもとへ行け」と遺言したのである。それによって、後日、仏弟子となったといわれている。

また、迦旃延は、アヴァンティ国の首都・ウッジェーニーに生れ、チャンダパッジョータ王の輔師の子であったともいわれている。その王は、釈尊のことを伝え聞き、自国へ迎えたいと思い、七人の家臣を祇園精舎に派遣した。そのなかの一人が迦旃延であった。ところが、釈尊に会い、説法を聞いて感動し、そのまま弟子になってしまったのである。そして、修行を完成してアヴァンティ国に帰り、王を仏教に帰依せしめ、また、多くの人たちを出家せしめたといわれている。一般には、こちらの伝えの方が有名のように思われる。

ともあれ、迦旃延は釈尊十大弟子の一人で、論議第一とも広説第一ともたたえられている。仏教教団の広がりとともに、他の宗教と対決や対論するとき、その先頭に立って論陣をはったのであろう。また、釈尊の説かれた教えを理解できない仏弟子のために、わかりやすく説明してあげることもしばしばあったようである。そして、それによって理解を得た仏弟子が、釈尊に是非をたずねると、「そうだ、そうだ、そのとおりだ」と、迦旃延の説明に保証を与えたのであった。

迦旃延の故郷・アヴァンティ国は、釈尊が活躍したマガダ国やコーサラ国から見れば、辺境の地であった。釈尊も足を踏み入れたことがなかったといわれている。そうしたところに、仏教を伝え弘めたのは迦旃延である。さらに西方諸国も遊歴して、大いに教えを説いた。しかし、困難をきわめたようである。

迦旃延には、ソーナコーティカンナという侍者がいた。出家して修行したいと望み、熱心に許しを求めるので、ついにそれを許した。しかし、出家するためには具足戒という戒律を受けることが必要であり、その儀式のためには、和尚(親教師)と呼ばれる師、司会役の戒師(羯磨師(かつまし))、実際に戒を授ける教授師(阿闍梨(あじゃり))、それに証人として七人の比丘が出席しなければならない。それを三師七証という。マガダ国やコーサラ国のような都市であれば、多くの比丘がいるので、すぐに受戒できるであろうが、アヴァンティ国のような辺地では、そうは簡単にいかなかったのである。迦旃延は三年がかりでようやく十人の比丘を集め、やっとソーナコーティカンナに具足戒を授け、出家させることができたといわれている。

出家後のソーナコーティカンナは、熱心に修行していたが、やがて、直(じか)に釈尊を拝したいと思うようになった。師の迦旃延に申し出ると、こころよく許してくれた。そして、「釈尊にお会いしたら、つぎのように申し上げてほしい。」といって、「アヴァンティ国では比丘の数はきわめて少なく、ソーナコーティカンナを出家させるため、十人の比丘を集めるのに三年もかかりました。これからは受戒に必要な比丘の数を減らすことを認めてください。」その他、アヴァンティ国には独自の風習があることを示し、仏教がそれに応じてくれるよう願ったのであった。

ソーナコーティカンナは、師の言葉をしっかりと心にとどめ、長い旅をつづけたのち、ようやく祇園精舎にたどり着き、釈尊から温かく迎えられた。そして、師の言葉を正確に告げると、釈尊は迦旃延の願いをすべて受け入れ、容認されたのである。それによって西インドに仏教が栄える基礎が出来たのであった。それは仏教の柔軟性を示すものではあるが、逆に、それによって各地に独自性をもったグループが成立し、教団の分裂を誘因することになったのも確かである。しかし、迦旃延は迦旃延の現状のなかで、釈尊の許しを得て、西インドに教えを弘めたのである。それは大きな功績であった。
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摩訶迦葉(二)

2016年03月06日 | 阿弥陀経を読む
【阿弥陀経を読む(36)】

仏弟子となったピッパリは、カーシャパ(迦葉)と名を代えた。また、マハー・カーシャパ(摩訶迦葉)とも呼ばれた。釈尊十大弟子の一人として、頭陀行第一とたたえられる。頭陀というのは、梵語ドゥータの音写で、衣食住に対する貪りや執着を払い捨てる修行法で、十二種の実践項目がある。それを十二頭陀行という。劉宋の求那跋陀羅訳の『十二頭陀経』によれば,
  ①人里離れた山林に住むこと(在阿蘭若処)
  ②托鉢によってのみの食生活(常行乞食)
  ③乞食するのに家の貧富を問わないこと(次第乞食)
  ④一日に一食しかしないこと(受一食法)
  ⑤食べ過ぎないこと(節量食)
  ⑥昼食以後は飲物も飲まないこと(中後不得飲奬)
  ⑦廃物の布で作った衣を着ること(著弊衲衣)
  ⑧三つ以上の衣を所有しないこと(但三衣)
  ⑨墓地で生活すること(塚間住)
  ⑩樹の下に住むこと(樹下止)
  ⑪空地に坐ること(露地座)
  ⑫常に坐して体を横にしないこと(但(たん)坐(ざ)不臥(ふじん))
とある。ほかに、十三頭陀を数える場合もあるが、実質的にはまったく同じである。それらは、当時の出家者の、一般的なあるべき修行の姿でもあった。それを摩訶迦葉は、生涯にわたって行いつづけたから、非常に厳格な人であったようである。

とくに衣について、つぎのような逸話が伝えられています。釈尊が托鉢を終えての帰り道、とある樹の下に坐ろうとしたとき、摩訶迦葉は、自分の着ていた大衣(だいえ)(説法や托鉢のときに着る、三衣のなかではもっとも大きい衣)をぬいで、四つにたたみ、座をもうけた。そこに坐った釈尊が、その衣の柔らかいことをたたえると、摩訶迦葉は、「どうか、わたくしのその大衣をお受けください」と申し出た。そして、釈尊の着古した衣をもらい受け、衣の交換をしたといわれている。

以来、摩訶迦葉は、つねに汚れた粗末な衣を身にまとうようになった。そのため、他の仏弟子から軽んじられ、軽蔑されることがあった。それは、この『阿弥陀経』と同じ祇園精舎で、釈尊が説法されていたときのことである。泥や塵にまみれた衣をまとう摩訶迦葉が、釈尊に近づいていった。それを見た仏弟子たちは、不快と軽蔑の念をおこしたのである。ところが釈尊は、説法を中止して、みずからの座を半分あけ、「よく来た、摩訶迦葉よ。ここに坐るがよい。」と招き入れた。一同はおそれおののき、身の毛を逆立てたそうである。摩訶迦葉は、「あなたはわたくしの師であり、わたくしはあなたの弟子であります。」といって辞退したが、釈尊は人々を前に、摩訶迦葉のすぐれたことを称讃したといわれている。

また、摩訶迦葉には拈華微笑(ねんげみしょう)の逸話がある。中国で作られた故事といわれるが、たいへん有名である。あるとき釈尊は、霊鷲山において大衆を前に、一本の華を拈(ひね)ってみせたところ、誰もその意味がわからず黙っていたが、ただ一人、摩訶迦葉だけが釈尊のこころを理解し、にっこりほほえんだ。そこで釈尊は、摩訶迦葉にだけ仏法の真理を授けたというのである。これは、いわゆる禅宗において、以心伝心で仏法の真理を体得する妙を示すものとされている。

なお、摩訶迦葉の妻・バッダーのその後については、いろいろな伝えがある。摩訶迦葉が天眼を用いて彼女を探し出したとも、偶然彼女を見つけたとも、いわれる。いずれにしても、のちに仏弟子となり、すぐれた比丘尼になったということは一致している。
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摩訶迦葉(一)

2016年03月05日 | 阿弥陀経を読む
【阿弥陀経を読む(35)】

つぎに「摩訶迦葉」とある。梵名マハー・カーシャパの音写で、大迦葉とも訳される。本名は迦葉(カーシャパ)なのであるが、優楼頻◇迦葉・那提迦葉・伽耶迦葉の、いわゆる三迦葉と区別するために、摩訶迦葉と呼ばれるのである。釈尊の入滅後、仏教教団の中心人物として、五百人の仏弟子を集め、第一結集を主宰したことは、すでに述べた通りである。

摩訶迦葉は、マガダ国のマハーティッタというバラモンの村に生まれ、ピッパリと呼ばれた。八歳で入門式を受け、あらゆる学問を学び尽くしたが、一方でまた、世間的な快楽を嫌い、出家して道を求めたいと願うようになった。インドにはそういう土壌があるようである。成人したのち、両親は結婚をすすめたが、それを断り、出家を願い出た。しかし、両親は決して許さなかった。そして、しつように結婚を迫るので、とうとう断りきれなくなって、工匠に黄金で美しい女人像を造ってもらい、これと同じすがたの女性があらわれたら、結婚してもよいという条件を出した。両親は困惑したが、それでも知人にたのんで探してもらったところ、ヴァイシャーリー近郊のカピラカ村に住む、バッダー・カピラーニーという女性が、その黄金像とそっくりであることがわかった。そして、急速に結婚話がすすんだようである。ピッパリは、浮浪者に身をやつして、確かめに行った。バッダーの家は、だれであっても食を乞うものがあれば、喜んで布施をする家風であったから、ピッパリが訪れると、バッダー自身が食物を運んできた。ピッパリは、正直に事の次第を話し、「自分は欲望にまみれた生活を送るつもりはなく、出家して清貧な生活を送りたい。」と告げた。すると、バッダーも、「それを聞いて、うれしく思います。わたくしも思いは同じです。結婚を承諾したのは、ただ、親を安心させるためでした。」と答えた。そこで、同じ思いをもった二人は結婚したが、互いに体を触れあうことなく、十二年間を過ごしたということである。

やがて、両親も亡くなったが、ある日のこと、バッダーは油をしぼるために胡麻を乾かしていると、そこにたくさんの虫が動いているのを見た。このまま油をしぼれば虫を殺すことになってしまい、大きな罪になると考え、ふさぎ込んでしまった。ピッパラもまた、田畑を耕す家畜の苦しみを考え、心を痛めていた。そこで二人は、いまこそ出家すべきときが来たと語りあった。そして、髪を剃り、粗末な衣に着替えて、手には一個の鉢を持ち、引きとめる人を振りきって、家を出た。しばらくは二人で歩いていたが、私情が修行の邪魔にならないように、ある四つ辻にさしかかったとき、ピッパリは右、バッダーは左に道をとり、二人は別々の道を歩むことにした。

バッダーと別れたピッパリは、一人旅をつづけていたが、マガダ国の首都・王舍城(ラージャグリハ)とナーダダ村の中間のところで、ちょうどニグローダの樹の下に座って休んでいる釈尊を見たのである。即座にピッパリは、この人こそ自分の師となるべき人であると知り、そのまま弟子となった。そして、八日目にさとりを開いたといわれている。
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舎利弗と目連(二)

2016年03月04日 | 阿弥陀経を読む
【阿弥陀経を読む(34)】

舎利弗と目連は、仏弟子のなかの双璧であった。十大弟子のうちでも、まず最初に二人の名前が挙げられている。とくに舎利弗は、釈尊からの信頼も非常にあつく、釈尊の代わりに教えを説くこともしばしばあったようである。有名な、「縁起を見るものは法を見る、法を見るものは縁起を見る」というのは、舎利弗の説法であったとも伝えられている。ジャイナ教の聖典である『聖仙のことば』では、仏教そのものが釈尊の教えではなく、舎利弗の教えであると伝えるものもあるほどである。

その舎利弗と並び称せられるのが目連である。神通第一といわれるように、とくに神通力にすぐれていた。それは、俗な言い方をすれば、超能力といってよいかもしれない。目連には、遠く離れた所にいる釈尊と会話したなどの逸話が伝えられている。また、釈尊の説法の場に集まった人々のなかで、異教徒や嫌がらせをするために来ているものがいると、神通力でそれを見つけだし、退場させたともいわれている。いってみれば、舎利弗が釈尊の教えを外に向かって宣揚するのに対して、目連は守りの役目を担った人であったように思われる。

ともあれ、舎利弗と目連は仏弟子を代表する二人であった。のちに、釈尊の従兄弟にあたる提婆達多が、釈尊に入門し、仏弟子として修行していながら、反旗をひるがえし、教団を分裂させようとする事件がおこった。そのとき提婆達多は、マガダ国の王子であった阿闍世をそそのかし、クーデターをおこさしめたのである。阿闍世は、父である頻婆沙羅王を幽閉して殺害し、さらに母・韋提希夫人をも幽閉した。嘆き悲しんだ韋提希夫人は、釈尊に説法を懇願し、その心を知ろしめされた釈尊が、牢獄のなかにあらわれ、説かれたのが『観無量寿経』であった。

それはともかく、提婆達多は釈尊との反目から、五百人の仏弟子を連れて、独立した教団を作ろうとした。しかし釈尊は、舎利弗と目連に命じて、仏弟子たちの説得にあたらせた。それが功を奏して、結局、五百人は釈尊のもとにかえることになり、教団分裂の危機をまぬがれたのであった。仏教教団内における、舎利弗・目連の位置がうかがわれると思う。

しかし、二人は生涯のあいだ、まったく対立しあうことはなかった。それは希有なことといってよいのではなかろうか。一つの組織のなかに、実力者が複数いると、反目しあうのが常である。釈尊と提婆達多がその例ともいえる。提婆達多はその後、悪人のレッテルを貼られて今日に至るが、実はすぐれた修行者でもあった。その証拠に、釈尊の仏教教団とは別に、提婆達多の教団もその後、存続していていたのである。しかし、舎利弗と目連は別である。仏弟子となる以前からの、変わらぬ友情で結ばれていたのであった。

ただ、仏教を代表する仏弟子であったがために、仏教外の異教徒や、仏教内でも提婆達多をとりまく人たちから、怨みを覚えられ、しばしば迫害を受けたようである。なかでも目連はひどかったようである。晩年、執杖外道(しゅうじょうげどう)と呼ばれる人から、全身を杖で打たれて骨は砕け、肉が飛び散るほどであったといわれる。瀕死の重傷を負った目連のもとに舎利弗が駆けつけ、訊ねたそうである。

「友よ、君は神通第一といわれるほどの力がありながら、どうして彼らの暴行を避けることができなかったのか?」

すると目連は、

「わたくしは前世で父母を苦しめたので、いま、その報いをうけているのだよ。」

目連は舎利弗の友情に対して感謝しながら、そのまま息を引き取ったといわれている。

また、別の伝えによると、このとき舎利弗は、

「わたくしたちは一緒に道を求めて出家し、一緒に仏弟子となったのであるから、一緒に入滅しよう。」

といって、釈尊の許しを求めたのち、ふるさとの村に帰って、親族に最後の教えを説いて入滅した。目連もまた、その後を追って、ふるさとの村に帰って教えを説き、入滅したともいう。そして、その一年後、釈尊もまた入滅する。釈尊に先立って二人が入滅したのは、釈尊の入滅を見るのがしのびなかったからだともいわれている。
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舎利弗と目連(一)

2016年03月03日 | 阿弥陀経を読む
【阿弥陀経を読む(33)】

第一に、「舎利弗」の名が挙げられている。釈尊十大弟子のなかで、智慧第一とたたえられる。舎利弗という名は、梵名シャーリプトラの音写で、母・シャーリーの子(プトラ)という意味である。そこで、玄奘訳では「舎利子」と訳している。ほかに、身子、鶖鷺子(しゅうろし)などとも訳される。

舎利弗は、マガダ国の首都・王舍城の郊外にあるナーラカ村、あるいはナーラダ村に、バラモンの家の長男として生まれた。下に三人の弟と、三人の妹がいたそうである。八人兄弟といわれるから、上に姉が一人いたことになる。また、別の伝えでは四人兄弟であったともいわれる。

幼名はウパティシュヤといったが、兄弟のなかで、きわだって聡明であった。早くからバラモンの学問を修め、その奥義に達し、すべての学芸に通じた。一面、心優しい少年であったともいう。

同じころ、近くのコーリタ村に、村名と同じ、コーリタという名の、バラモンの少年がいた。「舎利弗」につづいて名を挙げられる「摩訶目◇連」とは、彼のことである。「摩訶」は偉大な、「目◇連」は、梵名マウドガリャーヤナの音写で、大目◇連とも、大目乾連とも訳される。あるいは略して、目連ともいう。十大弟子の一人で、神通第一と称される。

目連は一人子であったようであるが、舎利弗と同じく、早くからすべての学問に通じていた。舎利弗とは、大の仲良しであった。

あるとき、王舍城の近くの山で祭りがあり、二人はそろって見物に出かけた。そこでは、たくさんな人が集まり、歌や踊りが繰り広げられていた。そして、祭りもいまやたけなわというとき、舎利弗は、ふと思ったというのである。

「人々はいま、楽しそうに歌い踊っているけれども、百年もしたら、一人として生きてはいない。」

目連もまた、同じ思いを抱いたという。二人は、祭りの喧噪のなかに、無常を感じたわけである。そして、一日も早く出家して、真実の道を求めようと誓いあったのであった。

帰宅した舎利弗は、両親に出家を願い出たが、許されなかった。それでも諦めずに、二度、三度こころみたが、やはり同じであった。そこで舎利弗は、七日のあいだ断食して、決意のほどを示し、やっと許しを得たといわれている。目連もまた、一人子であるがゆえに、もとより両親から反対をうけたが、その志は堅く、ついに出家を許されたということである。

出家した二人は、当時、王舍城では有名な思想家であった、懐疑論者・サンジャヤの弟子となった。舎利弗は、学びはじめてから七日七夜でその教えを知りつくし、師の代講をするようになったといわれている。しかし、出家の目的である、心の平安を得ることはできなかった。目連もまた同じ心境にあり、二人は、真の師があらわれたら、互いに連絡しあって、一緒に入門しようと約束したのであった。

そして、ある日のこと、舎利弗は王舍城の街角で、偶然、托鉢中のアッサジを見かけた。アッサジは、五比丘と呼ばれる仏弟子の一人である。かつて釈尊と苦行をともにし、釈尊が仏陀となってはじめての説法を聞き、最初の仏弟子となった。そのアッサジのすがすがしい姿に心打たれた舎利弗は、アッサジの後を追った。当時、托鉢中の比丘に語りかけることは非礼とされていたからである。やがて、托鉢を終えたアッサジに舎利弗は、「あなたの師は誰であり、どのような教えを説くのですか。」と質問した。アッサジは、「わたくしの師は釈尊という方です。しかし、まだ入門して日が浅いので、師の教えを詳しく述べることはできません。ただ、簡単に要点だけを申しましょう。」といって、「因縁法頌」あるいは「法身偈」と呼ばれる、つぎの詩句を唱えた。

諸々の事がらは原因から生ずる。
真理の体現者(=釈尊)はその原因を説きたもう。
諸々の事物の消滅をもまた説かれる。
大いなる修行者(=釈尊)はこのように説きたもう。

舎利弗はそれを聞いて、たちどころに法の眼を開いたといわれている。そして、約束どおり、目連をアッサジに会わせ、釈尊の弟子となることを誓いあった。

二人はまず、サンジャヤのところへ行って、ともに仏弟子となろうと再三再四すすめたが、応じようとしないので、サンジャヤの弟子二百五十人を連れて釈尊のもとへ行き、仏弟子となったのである。残されたサンジャヤは、「口から熱血を吐いた」と伝えられている。

なお、舎利弗は、自分を釈尊のもとへ導いてくれたアッサジの恩を生涯わすれることなく、アッサジのいる方向を礼拝し、その方角へ足を向けて寝ることはなかったといわれている。
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声聞衆

2016年03月02日 | 阿弥陀経を読む
【阿弥陀経を読む(32)】

つぎに、「与大比丘衆.千二百五十人倶.(大比丘の衆、千二百五十人と倶なりき)」以下は、六事成就の第六・衆成就である。『阿弥陀経』の会座に集まった聴衆を示している。『阿弥陀経』の説法は、阿難一人が聞いたのではない。ほかにも多くの方々が聴聞したのである。それをここに取り上げるということは、阿難の伝えた『阿弥陀経』に寸毫の誤りもない、阿難の一人よがりではないことを示すものであろう。だからこそ、信ずべきであると、信を勧めることになるのである。

その聴衆は、声聞衆、菩薩衆、雑類衆の順に示されていく。はじめに、声聞衆が挙げられる。声聞というのは、梵語シュラーヴァカの漢訳で、声を聞く人、すなわち、釈尊の説法の声を聞いてさとりを開く人である。つまり、仏弟子のことである。

まず、「大比丘衆」とある。「大」は、偉大な、ということである。「比丘」は梵語ビクシュの音写で、乞士と漢訳する。もともとは、食を乞う人、の意味である。仏教に限らず、一般に托鉢をしながら修行する人を指したが、仏教では特に出家して具足戒(二百五十種の戒)を受けた男性の修行者をいう。女性の場合は比丘尼という。三百四十八種の戒を受けねばならない。それはともかく、比丘が複数なので「衆」というのである。

そして、その数を具体的に示して「千二百五十人」とある。それは、前に述べたように、優楼頻◇迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉の、いわゆる三迦葉の弟子たち千人と、舎利弗・目連と行動をともにしたサンジャヤの弟子たち二百五十人を合わせたものである。その「千二百五十人」について善導大師は深い考察をめぐらされているが、釈尊の教団の中核を構成していたのが彼らであって、そこから単純に、経典の定型句、慣用句となったと見てよいであろう。

つづいて、「皆是大阿羅漢.衆所知識.(みなこれ大阿羅漢なり。衆に知識せらる。)」とある。「大」は同じく、偉大な、すぐれた、である。「阿羅漢」というのは、梵語アルハットの音写で、たんに羅漢ともいわれる。漢訳して、応供、応真、真人などという。供養を受けるに値する人、尊敬されるべき人を意味する。もとはブッダの別称で、如来の十号の一つであった。それがのちに、仏弟子に適用され、いわゆる小乗仏教の理想的修行者のことを指すようになった。「衆所知識(衆に知識せらる。)」とは、ひとびとによく知られた、有名な、ということである。

そして、「長老」とある。梵語スタヴィラの漢訳である。「大徳」「尊者」などとも訳される。徳行が高く、年長の比丘に対する尊称である。比丘尼の場合は、長老尼という。老というと、何か老人をイメージするが、単に老年だから長老、長老尼というのではない。たとえ年が若くとも、徳行のすぐれた比丘、比丘尼は、長老、長老尼と呼ばれるのである。

つづいて「舎利弗」以下、難しい漢字が並んでいるが、仏弟子たちの名前である。そこに挙げられているのは十六人である。『大無量寿経』の場合は、三十一人を挙げるが、そこでは「尊者○○」と、すべての仏弟子に「尊者」という尊称をつけている。「尊者」は、「長老」と同じく梵語スタヴィラの漢訳である。ところが、『阿弥陀経』では「長老舎利弗」といって、あとは個人名を挙げるだけである。そこで、長老は舎利弗だけなのか、というと、そうではないであろう。「長老」の語は、十六人全員にかかると見なければならない。

なお、サンスクリット本もまったく同じ十六人である。しかし、玄奘訳の『称讃浄土経』では、舎利子(=舎利弗)・摩訶目◇連・摩訶迦葉・阿泥律陀(=阿◇樓駄)の四人の名を挙げているにすぎない。
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祇園精舎

2016年03月01日 | 阿弥陀経を読む
【阿弥陀経を読む(31)】

『大無量寿経』は王舍城の耆闍崛山で説かれ、『観無量寿経』は王舍城の王宮、しかも牢獄のなかで説かれたのであるが、『阿弥陀経』は舎衛国のどこで説かれたのかというと、「祇樹給孤独園」とあります。その「祇」と「園」で祇園となる。祇園精舎のことである。さきに触れた王舍城の竹林精舎より、やはり、こちらのほうが有名であろう。それは、『平家物語』の冒頭、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」の句が人口に膾炙しているからである。しかし、祇園精舎をはじめ古代インドの僧院には鐘はなかったといわれている。それは後代の空想によるものである。ただ、現在は日本からもたらされた梵鐘があるそうである。

その祇園精舎の建立について、当時、舎衛城にスダッタという人が住んでいた。たいへん慈悲深い、商業資産家であったようである。その名は、「よく施した人」という意味で、須達多と音写される。また、彼はアナータピンディカとも呼ばれていた。「給孤独長者」と漢訳される。「孤独な人に食を給する人」という意味である。孤独でよるべのない人たちに惜しみなく施しをしていたからである。

スダッタは商用で王舎城を訪れることがあったが、彼の妻が王舍城の出身であったので、そのときはいつも妻の実家に泊まっていた。あるときのこと、妻の兄から釈尊というブッダが王舍城の竹林精舎に逗留されていることを聞き、どうしてもその姿を拝したいと思って、いてもたってもおれなくなったという。そして、夜も明けきらないうちから出かけていった。朝もやのなかで、釈尊のほうから、「スダッタよ、よく来た」と声をかけられた。それに感動したスダッタは、さらに釈尊の説かれる教えを聞き、そのまま信者となった。そして、舎衛城でも教えを説いていただきたいと申し出て、承諾を得たのであった。

帰国するなりスダッタは、釈尊が滞在されるにふさわしい場所を探した。そして、目をつけたのが「ジェータ太子の園林」と呼ばれる、舎衛城郊外の土地である。そこは、パセーナディ王の王子・ジェータが所有していた。ジェータ太子は「祇陀太子」と音訳される。さっそくジェータ太子のところへ行って交渉したのであるが、太子は「たとえあの土地に金貨を敷きつめたとしても売ることはできない」といったという。それでもスダッタは引き下がらず、「買う」「売らない」の問答がつづいた。やがて、仲裁に入った司法官は、太子が「たとえ金貨を敷きつめたとしても」といって、ある意味で売買の価格を決めたのだから、金貨を敷きつめた分の土地を売るよう裁決した。そこでスダッタは、さっそく金貨を運び、敷きつめようとした。しかし、最初は入り口のわずかな部分しか並べることができなかった。何せその土地は、一万七千百七十坪もあったというからである。ジェータ太子もはじめのうちは、たかが知れていると思っていたであろう。ところがスダッタは、全財産をなげうって金貨を集め敷きつめようとしたのである。その尋常ならざる行為に太子は驚き、ついに土地を寄進したといわれている。あるいは、スダッタが買い取ったともいわれている。いずれにしても、ジェータ太子とスダッタの因縁によって建立されたのが名高い祇園精舎なのである。

釈尊は、王舍城の竹林精舎とともに、この祇園精舎にしばしば滞在された。その折りに、この『阿弥陀経』が説かれたのである。それを「祇樹給孤独園」といわれている。「ジェータ太子の園林」という祇陀太子と、スダッタの別名すなわちアナータピンディカ(給孤独長者)から名づけられたものである。

なお、一九八七年から八九年にかけて、関西大学の網干善教教授が指導する調査隊とインド政府考古調査局とが共同で発掘調査を行った。その後、網干教授によって調査報告が、『本願寺新報』(一九八九年六月十日)、ついで『仏教史学研究』第三四巻第一号(一九九一年七月)になされている。また、『季刊せいてん』NO.8(一九八九年、秋の号)には、祇園精舎をめぐって網干教授と梯實圓和上が対談されていることを付け加えておく。
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舎衛国

2016年02月29日 | 阿弥陀経を読む
【阿弥陀経を読む(30)】

つぎは、「在舎衛国祇樹給孤独園(舎衛国の祇樹給孤独園にましまして)」である。これは、六事成就の第五・処成就で、釈尊が『阿弥陀経』を説かれた場所を示している。そこにまず、「舎衛国」とある。『阿弥陀経』は、舎衛国で説かれたのである。

釈尊当時、インドはいくつもの国に分かれていた。よく十六大国といわれるが、そのなかでもっとも有力であったのがマガダという国である。その王の名前をビンビサーラといい、頻婆沙羅と音写する。釈尊に深く帰依し、竹林精舎を寄進したりした。精舎というのは僧院のことである。そして、その妃の名前をヴァイデーヒーといい、韋提希と音写する。その二人のあいだにアジャータシャトルという子どもがあり、音写して阿闍世という。のちに、釈尊の従兄弟であり、弟子でもあったデーヴァダッタ、提婆達多と音写し、提婆と略する。悪人の代名詞のようにいわれる人であるが、その提婆に阿闍世はそそのかされたのである。父・頻婆沙羅王を牢獄に幽閉し、マガダ国の王位に即くというクーデターを起こした。そして、頻婆沙羅へは食べ物どころか飲み物さえも与えなかったのであった。ただ、韋提希がひそかに運んでいただが、ついに露見して、阿闍世は母・韋提希を殺そうと刀を振り上げた。しかし、耆婆、月光という二人の大臣が諫めたことにより、韋提希は一命をとりとめたものの、同じく牢獄に幽閉されてしまった。釈尊は、悲しみに打ち震える韋提希のために、牢獄のなかにあらわれ、教えを説かれた。それが『観無量寿経』である。そのことはまた、別の機会にお話しよう。

ともあれ、『観無量寿経』の発端となった事件は一般に、王舍城の悲劇と呼ばれている。王舍城というのは、マガダ国の首都で、ラージャグリハの漢訳である。城というが、日本の城のようなものではなく、まち、都市の意味である。現在のビハール州ラージギルにあたる。

そのマガダ国と並んで有力であったのがコーサラ国である。釈尊が生まれた釈迦族の国はこのコーサラ国に従属していた。王の名前はパセーナディという。波斯匿(はしのく)と音写される。第一夫人はマッリカーで、末利、摩利と音写する。仏教を篤く信仰していた。その影響でパセーナディ王も熱心な信者になった。そして、二人のあいだの王女が勝鬘夫人で、『勝鬘経』の中心人物としてたいへん有名である。

それはともかく、コーサラ国の首都は、シュラーヴァスティーで、舎衛城と音写される。現在のウッタル・プラデーシュ州のサヘート・マヘートのあたりと推定されている。その舎衛城のことをここに「舎衛国」といっているのである。どうして「国」というのか、コーサラ国という国名より舎衛城という都市のほうが有名であったからといわれる。あるいは、コーサラ国は南北に分かれ、南コーサラ国に対して、北コーサラ国を別して舎衛国という場合があるともいわれている。そうすると、舎衛国は都市名ではなく、国名ということになるが、一般にはやはり舎衛城のことといわれている。

そこで説かれたのが『阿弥陀経』であるが、『大無量寿経』と『観無量寿経』は王舍城で説かれた。前に触れたように、中国では当初、『大無量寿経』と『阿弥陀経』は、同じく「無量寿経」の名で呼ばれていた。同名であるがゆえに、曇鸞大師は、『大無量寿経』を「王舍城所説の無量寿経」、『阿弥陀経』を「舎衛国所説の無量寿経」と呼んで区別されたのであった。
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一時と仏

2016年02月28日 | 阿弥陀経を読む
【阿弥陀経を読む(29)】

つぎに「一時」とある。六事成就の第三・時成就である。「あるとき」と訓じる。英語でいえば one day あるいは at one time である。釈尊の説法がなされた時を示すのであるが、具体的な日時は示されていない。「昔昔、あるところで」といったように、時間をぼかしているようにも見える。しかし、仏教では時間をあらわすのに、カーラとサマヤがある。カーラは実時といい、何年何月何日、あるいは一時間、一分といった具体的な時間である。ただし、実体的な時間があるといわないのが仏教の特徴である。サマヤは仮時といって、ある事柄が生起している状態を時間的に表現したものである。いま、「一時」はサマヤなのである。

それを源信僧都の『阿弥陀経略記』では、「聞持和会(わえ)の時」といわれている(『恵心全』一・三八四頁)。釈尊の説法がなされるについて、すべての因縁が和合した時である。釈尊が説こうとされても、聞き手がいなければできない。また、場所もなければできない。逆に、聞き手が聞こうとしても、釈尊がおられなければ成り立たない。そうしたさまざまな因縁が和合した、そのときを「一時」といわれたのである。

つづいて「仏」とある。六事成就の第四・主成就である。それについては経題の「仏説」のところで述べた。経の説主である釈尊を指す。釈尊が『阿弥陀経』を説かれたのである。
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