わたしの里 美術館

とりあえず西洋絵画から始めて、現代日本作家まで

不動明王

2011-12-23 | 神仏や 神話の人物

 

☆☆

不動明王 (ふどうみょうおう)、梵名アチャラ・ナータ (अचलनाथ [acala naatha])は、仏教の信仰対象であり、密教特有の尊格である明王の一尊。また、五大明王の中心となる明王でもある。


概要 [編集]密教の根本尊である大日如来の化身、あるいはその内証(内心の決意)を表現したものであると見なされている。「お不動さん」の名で親しまれ、大日大聖不動明王(だいにちだいしょうふどうみょうおう)、無動明王、無動尊、不動尊などとも呼ばれる。アジアの仏教圏の中でも特に日本において根強い信仰を得ており、造像例も多い。

また、日蓮宗系各派の本尊(いわゆる十界曼荼羅)にも不動明王が書かれているが、愛染明王と同様、空海によって伝えられた密教の尊格であることから、日蓮以来代々種子で書かれている。なお日蓮の曼荼羅における不動明王は生死即涅槃を表し、これに対し愛染明王は煩悩即菩提を表しているとされる。

三昧耶形は利剣(倶利伽羅剣)、羂索。種子(種字)はカーン (haaM)、或いはカンマーン (hmmaaM)。真言は、一般には小咒(しょうしゅ)、一字咒(いちじしゅ)と呼ばれる「ノウマク サンマンダ バザラダン カン」(namaH samanta vajraaNaaM haaM)が用いられる。

また、真言には、大咒(たいしゅ)、火界咒(かかいしゅ)と呼ばれる「ノウマク サラバタタギャテイビャク サラバボッケイビャク サラバタタラタ センダマカロシャダ ケンギャキギャキ サラバビギナン ウンタラタ カンマン」(namaH sarvatathaagatebhyaH sarvamukhebhyaH, sarvathaa traT caNDamahaaroSaNa khaM khaahi khaahi sarvavighanaM huuM traT haaM maaM)、 中咒(ちゅうしゅ)、慈救咒 (じくしゅ)と呼ばれる「ノウマク サンマンダ バサラダン センダンマカロシャダヤ ソハタヤ ウンタラタ カンマン」 (namaH samanta vajraaNaaM, caNDamahaaroSaNa sphoTaya huuM traT haaM maaM)も知られる。

縁日は毎月28日である。

 


 背筋がブルっとしたのは


起源 [編集]梵名の「アチャラ」は「動かない」、「ナータ」は「守護者」を意味し、全体としては「揺るぎなき守護者」の意味である。チベット仏教などではこの名よりもチャンダ・マハーローシャナ (चण्डमहारोषण [caNDamahaaroSaNa])即ち暴悪忿怒尊の名でより知られる。しかし、こちらは三眼で毛皮を身に纏い髪が逆立っているなど、日本に伝えられた不動明王とは図像的にやや異なるものである。

 

 
   不動智神妙録

 

空海(弘法大師)が唐より密教を伝えた際に日本に不動明王の図像が持ち込まれたと言われる。「不動」の尊名は、8世紀前半、菩提流志(ぼだいるし)が漢訳した「不空羂索神変真言経」に「不動使者」として現れるのが最初である。「使者」とは、大日如来の使者という意味である。

密教では三輪身といって、一つの「ほとけ」が「自性輪身」(じしょうりんじん)、「正法輪身」(しょうぼうりんじん)、「教令輪身」(きょうりょうりんじん)という3つの姿で現れるとする。「自性輪身」(如来)は、宇宙の真理、悟りの境地そのものを体現した姿を指し、「正法輪身」(菩薩)は、宇宙の真理、悟りの境地をそのまま平易に説く姿を指す。これらに対し「教令輪身」は、仏法に従わない者を恐ろしげな姿で脅し教え諭し、仏法に敵対する事を力ずくで止めさせる、外道に進もうとする者はしょっ引いて内道に戻すなど、極めて積極的な介入を行う姿である。不動明王は大日如来の教令輪身とされる。煩悩を抱える最も救い難い衆生をも力ずくで救うために、忿怒の姿をしている。

また、釈迦が成道の修業の末、悟りを開くために「我、悟りを開くまではこの場を立たず」と決心して菩提樹の下に座した時、世界中の魔王が釈迦を挫折させようと押し寄せたところ、釈迦は穏やかな表情のまま降魔の印を静かに結び、魔王群をたちまちに超力で降伏したと伝えられるが、不動明王はその際の釈迦の内証を表現した姿であるとも伝えられる。穏やかで慈しみ溢れる釈迦も、心の中は護法の決意を秘めた鬼の覚悟であったというものである。他にも忿怒の相は、我が子を見つめる父親としての慈しみ=外面は厳しくても内心で慈しむ父愛の姿を表現したものであると言われる。


伝承 [編集]「底哩三昧耶経」には大自在天(ヒンドゥー教の最高神シヴァ)を不動明王が調伏する説話がある。

それによると、大日如来が悟りを開いて仏陀になったとき、ありとあらゆる三界の生き物たちが集会に来たが、自分こそ三千世界の主と考え慢心する大自在天だけは招集に応じなかった。

 

 
 降三世明王立像

 

大自在天は「持明者(インドの魔法を使う精霊、ここでは夜叉明王)が使いとして来るだろうが、奴らは不浄なものを嫌うから、不浄なものを幻術で作り出し四方に張り、その中にいれば持明者の明術も役に立つまい」として結界を張り、近寄れないようにした。

不動明王が大自在天を呼びに行くと不浄の結界で覆われていたので、不動明王は不浄金剛(烏枢沙摩明王)を召還し、不浄を食らい尽くさせた。そして、ただちに不動明王は大自在天を捕らえて仏陀の元へ連行する。

しかし大自在天は「汝らは夜叉に過ぎぬが、私は神々の王なのだ」と言い何回も逃げ続けた。仏陀が「断罪すべし」と命ずると、大自在天とその妃(ウマー)を踏み殺し絶命させたのだった。(降三世夜叉明王)

そして、大自在天の処分を尋ねると仏陀は「蘇生させよ」と言うので、法界生真言を唱えて復活させた。大自在天は喜び不思議がり「この夜叉は何者なのでしょうか?」と尋ねると、仏陀は「諸仏の主である」と答えた。大自在天は感激し、万物の全てにおいて尊い諸仏の上に、さらに諸仏の主がいることを知り、また彼が不動明王という「大王」のお陰で将来仏になれる授記をも得たのだった。

ここでは、不動明王のことを、夜叉、大王、諸仏の主と呼んでいるのが特徴的である。

 

 

像容 [編集]蔵密教の明王像は多面多臂の怪異な姿のものが多いが、不動明王は一面二臂で剣と羂索(けんじゃく、縄)を持つのを基本としている(密教の図像集などには多臂の不動明王像も説かれるが、立体像として造形されることはまれである)。剣は竜(倶利伽羅竜)が巻き付いている場合もあり、この事から「倶利伽羅剣」と呼ばれている。

また、その身体は基本的に醜い青黒い色で表現される像容が多い。これはどぶ泥の色ともいわれ、煩悩の泥の中において衆生を済度せんことを表しているといわれる。しかし底哩経などには、身体の色は青黒か赤黄とあり、頂は七髷か八葉蓮華、衣は赤土色、右牙を上に出し左牙を外側に出す、というのが一般的とされる。

人間界と仏界を隔てる天界の火生三昧(かしょうざんまい。人間界の煩悩や欲望が天界に波及しないよう烈火で焼き尽くす世界)と呼ばれる炎の世界に住している。不動明王は多くの明王の中でも中心的な存在であり(五大明王の中でもリーダー格である)、像容は肥満した童子形に作ることが多く(『大日経』の出典による)、怒りによって逆巻く髪は活動に支障のないよう弁髪でまとめ上げ、法具は極力付けず軽装で、法衣は片袖を破って結んでいる。その装束は古代インドの奴隷ないし従者の姿を基にしたものとされ、修行者に付き従いこれを守る存在であることを表している。右手に降魔の三鈷剣(魔を退散させると同時に人々の煩悩を断ち切る)、左手に羂索(けんじゃく。悪を縛り上げ、また煩悩から抜け出せない人々を救い上げるための投げ縄のようなもの)を握りしめ、背に迦楼羅焔(かるらえん。迦楼羅の形をした炎)を背負い、憤怒の相で粗岩(磐石、ばんじゃく。「金剛石」とあるのでダイヤモンドの原石である)の上に座して「一切の人々を救うまではここを動かじ」と決意する姿が一般的である(日本では坐像の他、立像も数多く存在している)。

インドで起こり、中国を経て日本に伝わった不動明王であるが、インドや中国には、その造像の遺例は非常に少ない。日本では、密教の流行に従い、盛んに造像が行われた。日本に現存する不動明王像のうち、平安初期の東寺講堂像、東寺御影堂像などの古い像は、両眼を正面に見開き、前歯で下唇を噛んで、左右の牙を下向きに出した、現実的な表情で製作されていた。しかし時代が降るにつれ、天地眼(右眼を見開き左眼を眇める、あるいは右眼で天、左眼で地を睨む)、牙上下出(右の牙を上方、左の牙を下方に向けて出す)という、左右非対称の姿の像が増えるようになる。これは10世紀、天台僧・安然らが不動明王を観想するために唱えた「不動十九観」に基づくものである。

☆☆

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カオス

2011-08-01 | 神仏や 神話の人物

 

 

Khaos

 

 


美術館の索引 わが郷 HOME 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サラスヴァティー Saraswati

2011-03-17 | 神仏や 神話の人物

ご案内

サラスヴァティー Saraswati【わたしの里・神仏や神話など】 サラスヴァティー Saraswati 神仏や 神話の人物

 

  サラスヴァティー

Sarasvati  、サンスクリット: सरस्वती
芸術、学問などの知を司るヒンドゥー教の女神である。

 

日本では七福神の一柱、弁財天(弁才天)として親しまれており、仏教伝来時に金光明経を通じて中国から伝えられた。4本の腕を持ち、2本の腕には、数珠とヴェーダ、もう1組の腕にヴィーナと呼ばれる琵琶に似た弦楽器を持ち、白鳥またはクジャクの上、あるいは蓮華の上に座る姿として描かれる。白鳥・クジャクはサラスヴァティーの乗り物である。

サラスヴァティーは水辺に描かれる。サンスクリットでサラスヴァティーとは水 ( 湖 ) を持つものの意であり、水と豊穣の女神であるともされている。インドの最も古い聖典 『 リグ・ヴェーダ 』 において、初めは聖なる川、サラスヴァティー川(その実体については諸説ある)の化身であった。流れる川が転じて、流れるもの全て ( 言葉・弁舌や知識、音楽など ) の女神となった。言葉の神、ヴァーチと同一視され、サンスクリットとそれを書き記すためのデーヴァナーガリー文字を創造したとされる。後には、韻律・讃歌の女神、ガーヤトリーと同一視されることになった。

 

Jain goddess Sarasvati.
By Jagadeva (act. 12th century). India, state of Gujarat, 1153. White marble. Lent by the Los Angeles County Museum of Art, gift of Anna Bing Arnold

 

 

尾崎工房 

ヒンドゥー教の創造の神ブラフマーの妻(配偶神)である。そもそもはブラフマーが自らの体からサラスヴァティーを造り出したが、そのあまりの美しさのため妻に娶ろうとした。逃れるサラスヴァティーを常に見ようとしたブラフマーは自らの前後左右の四方に顔を作りだした。さらに、その上に5つ目の顔(後にシヴァに切り落とされる)ができた時、その求婚から逃れられないと観念したサラスヴァティーは、ブラフマーと結婚し、その間に人類の始祖マヌが誕生した。また、元々はヴィシュヌの妻であり、後にブラフマーの妻になったという異説もある。

 

サラスヴァティーはゾロアスター教の アナーヒター と同起源と推定される。アナーヒターには、ハラフワティー・アルドウィー・スーラー(Harahvatī Arədvī Sūrā)という別名があり、ハラフワティーは言語学的にはサラスヴァティーのペルシア語読みとされるためである。これは偶然の一致ではなく、インド・イラン共通時代から信仰されていた女神が民族の分裂とともに2つに分かれたものではないかとされている。 (Wikipedia より抄出 画像添付と編集あり)

 

 ヴァサンタ・パンチャミー Vasant Panchami

 

 

各国情報『インド』へ

 ■ Site Information

■ 2009年7月9日
  「我が郷は足日木の垂水のほとり」 はじめました。
  本稿はそのアート関連サイトです。

■ 2010年3月2日
人気ブログランキングへ   人気blogランキング(政治)にエントリーしました。

 

Une rivière et nudité

 

 

わたしの里の美術館【索引】 Indian beautiesIndian beauties Indian beauties
美術館の索引 わが郷 HOME 

 

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バテシバ  Bathsheba

2010-06-26 | 神仏や 神話の人物

神仏や 神話の人物  名前による索引

バテシバ Bathsheba【わたしの里の美術館・神話】 バテシバ  Bathsheba

ダビデからの書状を受け取るバト・シェバ。
ウィレム・ドロスト画、1654年 ルーブル
 
 

バト・シェバ

(ヘブライ語: בת שבע‎、英語: Bathsheba
ヘブライ語聖書 (Hebrew Bible) によれば、
ヒッタイト人ウリヤ (Uriah the Hittite) の妻で、
後に古代イスラエルの王ダビデの妻、
ダビデの跡を継いで王となったソロモンの母。
バテシバ、バテ・シェバとも表記される。

 

 

<script type="text/javascript">//

</script>

聖書から

「バト・シェバ」という名前のヘブライ語における意味は明らかではなく、ヒッタイト語(カナン語/インド・ヨーロッパ語)に由来する可能性がある。名前の第2の部分は、旧約聖書・歴代誌・上・第3章5節では「shua (Bath-shua)」となっている[3]。

バト・シェバはエリアム(歴代誌・上・第3章5節ではアミエル (Ammiel) と呼ばれている[3]。)の娘である(サムエル記・下・第11章3節[4])。彼女の父親は一部の学者によってサムエル記・下・第23章34節[5]にギロ人アヒトフェル (Ahitophel) の子エリアムとして登場する人物と同一視されている。

バト・シェバはヒッタイト人ウリヤの妻であったが、後にダビデの妻となり、ダビデの跡を継いでイスラエル王国の王となったソロモンを産んだ。

 

バテシバ Bathsheba【神話の人物】

バト・シェバ、ソロモン、ナタン、
老いたダビデを世話するアビシャグ。

 

ダビデがバト・シェバに言い寄る物語はサムエル記・下・第11章で言及され[6]、歴代誌では省略されている。物語はダビデが王宮の屋上を散歩している時、水浴中のウリヤの妻バト・シェバに目を留めた事を伝えている。ダビデはすぐに彼女を呼び寄せ、関係を持ち妊娠させた。

ダビデは自らの罪を隠そうとし、ウリヤを妻バト・シェバと性交させ、子供が自分のものだと考えることを期待して、ウリヤを戦闘中の軍から呼び戻した。ウリヤは戦闘中の兵士を律する古来よりの習わしに背く事を望まず[7]、自宅のベッドで寝るよりも王宮の兵士たちと共に滞在する事を選んだ。

ウリヤ自身がバト・シェバを妊娠させたと信じ込ませようとする試みが不首尾に終わった後、王は彼の将軍ヨアブ (Joab) にウリヤを激戦の最中に見捨て、敵陣に置き去りにするよう命令を与えた。皮肉にも、ダビデはウリヤに彼自身の死を命ずる書状を持って行かせた。ウリヤの死後、ダビデは未亡人となったバト・シェバを妻に迎えた。

サムエル記によると、主はダビデの行動に怒り、王を叱責するために預言者ナタンを遣わせた。預言者は貧しい隣人から1匹の小羊を奪った金持ちの寓話を話し、不正な行為に対する王の激しい怒りを起こさせた後、これをダビデのバト・シェバに対する行為に例えた(サムエル記・下・第12章1-6節[8])。王はすぐに自らの罪を懺悔して、心からの悔悟を表明した。ダビデとバト・シェバの子供は重病に罹り、出生後わずか数日で他界した。王はこれを自らに対する罰として受け入れた。

ナタンもまた、ダビデの家が姦淫と謀殺のために呪われ不安定になっている事に気付いていた。数年後ダビデが寵愛した息子の1人アブサロムが反乱を起こし、王国を内戦状態に陥れた。ナタンの預言通り、新らしい王である事を明確に示すため、アブサロムは人前で父の側室のうちの10人と性交をした。これは他の男性の妻を奪い取ったダビデの行為に対して、神が与えた10倍の罰と見なす事ができる。

ダビデの老年期、バト・シェバは生存するダビデの最年長の息子アドニヤ (Adonijah) の代わりに彼女の息子ソロモンの王位継承を確実なものとした。(列王記・上・第1章11-31節[9])。

 

 

 

バト・シェバはダビデの著名な軍師であったアヒトフェル (Ahitophel) の孫娘である。

ミドラーシュはダビデとバト・シェバに罪深い関係をもたらしたサタンの影響について以下のように描写している。

バト・シェバは彼女の家の屋根の上、おそらく枝編み細工の遮蔽物の後にいた。サタンは鳥の姿を模して現れ、ダビデが鳥を撃つと遮蔽物に命中し裂けた。このようにしてバト・シェバはダビデの前にその美しさを現した(Sanhedrin 107a)。

バト・シェバは天地創造よりいずれかの時期がくれば、ダビデの合法的な妻になる運命にあったかも知れないが、この関係はダビデの性急な行動のために時期尚早に引き起こされた。

 

 

 

 

わたしの里美術館の索引 神仏や 神話の人物 索引 バトシェバ【芸術写真】
わたしの里 美術館    わが郷 HOME 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

清水 多嘉示

2010-05-23 | 神仏や 神話の人物

 

 

 

 

 

 

清水 多嘉示(しみず たかし、1897年7月27日 - 1981年5月5日)は、日本の彫刻家である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%A4%9A%E5%98%89%E7%A4%BA


長野県諏訪郡原村生まれ。1915年旧制諏訪中学中退。若くして画才を発揮、当初は画家を志し、風景や人物を重厚な色彩とタッチで描いていた。1919年諏訪高等女学校教諭。二科展に入選し、渡仏するまで毎回入選した。1921年平野高等女学校、岡谷蚕糸学校教諭。1923年絵画を学ぶためパリに渡り、「サロン・デ・テュイルリー」でオーギュスト・ロダンの高弟、アントワーヌ・ブールデルの作品と出会い感銘を受け、彫刻家を志した。ブールデルに師事し、サロン・ドートンヌへ絵画、彫刻を出品、1927年まで毎回入選。アルベルト・ジャコメッティ、藤田嗣治、イサム・ノグチ、小山敬三らとの交遊を持った。

1928年帰国、1929年帝国美術学校助教授。ブロンズ彫刻で、院展、国画会の国展、春陽会展、サンパウロ・ビエンナーレ国際現代美術展などに出品。1943年新文展審査員。生命感にあふれるブロンズ像で高い評価を受け、戦後は日展に出品、1948年武蔵野美術学校教授、日展審査員、1950年日展運営会参事、1953年芸術選奨文部大臣賞受賞、1954年「青年像」で日本芸術院賞、1958年日展評議員、1965年日本芸術院会員、日展理事、1969年には武蔵野美術学園初代学園長に就任、勲三等瑞宝章受章、日展常務理事、1971年東京国立近代美術館評議員、1973年日展顧問、1980年には文化功労者。

1980年、油絵、彫刻を含め清水の作品を一堂に集めた、原村「八ヶ岳美術館」がオープンしたが、翌年の1981年、84歳で死去。清水の彫刻は、地元地域、長野県内、全国各地で見られ、特に学校、公共施設等に多く展示されている。

 

多嘉示の呼称[編集]

清水の名前の多嘉示は、「たかし」か「たかじ」かについての議論があるが、原村立八ケ岳美術館は「たかし」としている。当初、清水自身のサインやローマ字表記に「たかし」と「たかじ」の両方があったことにより混乱したが、外国の友人が「たかし」と呼んでいたことや、本人も個人的に気に入っていたと思われること、また彫刻家として知られるようになってからは、自ら「たかし」だけを使っていたことが分かったことにより同美術館は「たかし」とした。 

代表作[編集]
すこやか(1953年芸術選奨文部大臣賞を受賞)
青年像(1954年芸術院賞受賞)
母子像
みどりのリズム
黎明
飛躍 他

その他作品[編集]
双木利一銅像(埼玉県飯能市、1951年)
諏訪大社下社秋宮こま犬(長野県諏訪郡下諏訪町、1960年)
山極勝三郎胸像(長野県上田市、1968年)[1]

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Magdalene

2010-02-12 | 神仏や 神話の人物

 

 


http://en.wikipedia.org/wiki/File:Penitent_Magdalene_Baudry.jpg

 

 

 

                                           

アントニオ・カノーヴァ の作品で、エルミタージュ美術館(Hermitage Museum, St. Petersburg)収蔵。1809年の作品です。邦題を付ければ『悔悛のマグダラのマリア』とでもなるのでしょう。

『ウィキペディア(Wikipedia)』では、下記のような説明が与えられています。

伝説中のマグダラのマリア、たとえばヤコブス・デ・ウォラギネの『黄金伝説』 (Golden_Legend)などによれば、マグダラのマリアは金持ちの出自であって、その美貌と富ゆえに快楽に溺れ、後にイエスに出会い悔悛したという。娼婦をも意味する「罪の女」(the Sinner)との異名を与えられたり、ルネサンス以降「マグダラのマリアの悔悛」(The Penitent Mary Magdalene)を主題とする絵画、彫刻が多く制作される。このイメージはカトリック教会の作為が関与していると指摘されている。(罪の女を参照。)

カトリック信仰の国々でもこの名前が多く付けられていることから、『娼婦』であったとの説は主流では無かったと、Wikiで述べられているが、芸術作品に取り上げられるときは、「娼婦扱いが主流」だと思われます。カノーヴァの大理石の作品もやはり、性的な不行跡を悔悛している風情の作品に仕上がっています。ほつれた長い髪は性的魅力の汪溢さの表現で定番の形式です。骸骨が傍らに於かれているのは、美しい青春も時が過ぎゆけば、やがては死が不可避であることの寓意です。性の不行跡はいけませんとの、お説教とは裏腹に作家は押さえつけられた情念を、冷たい大理石の中から溢れ出させることに成功しています。欧州の絵画などでは裸体画や性の魅力を描く場合、神話や聖書に題材をとり作品制作の言い訳としています。

 

 

http://thepagansphinx.blogspot.com/2009/05/friday-evening-nudes_15.html
William Merritt Chase
Modern Magdalen
1888

 


Magdalene (ソース)  Magdalene (Talent)

Magdalene 
fem. proper name, from L. (Maria) Magdalena, from Gk. Magdalene, lit. "woman of Magdala," from Aramaic Maghdela, place on the Sea of Galilee, lit. "tower." The vernacular form of the name, via French, has come to English as maudlin.
http://www.etymonline.com/index.php?term=Magdalene

 

わたしの里 美術館 蛙の庵
美術館の索引  わが郷 HOME 

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アメノウズメ

2009-12-27 | 神仏や 神話の人物

 ご案内

 

 

 

 

 

朝青龍に鼻をへし折られた、鼻帝王つながりから、「禁止薬物」、「覚醒剤」とくぐっていたら、小向美奈子 の名が出てきた。映像をみれば、可愛らしいセーラー服の写真まである。そこに不似合いな、ストリップやらの言葉まで踊っている。本日は「建国記念日」明治の世では「紀元節」である。神代の話での最期の色づけとして、雑文をくわえる。

酒井法子の逃走劇はシナリオを書いて演出したものがいる。警察もグルでこの人物を逃亡の共犯で逮捕とかすることもない。日本国の主権が乱暴にも蹂躙されたことは、素戔嗚尊(スサノウノミコト)の狼藉にも似ている。法治の世界に闇が訪れた。田中香織嬢は死亡しているので、自分から摂取したのか、飲まされたのかは不明である。全裸とか入れ墨とか、クラブの店員とかは盛んに報道されたが、「印象操作」の臭いもある。とにかくアメの手代の在日の密度の濃い、芸能の世界では、ヤクザ事務所の奴隷の鎖には、禁止薬物が有効なのだろう。昨年は女性シンガーの詩音女史が、違法な薬物の「ケタミン」を使用したかどで、逮捕されている。これで人気を挽回しようとしていた、ヒップホップ界は冷水をかけられた格好になった。

シオンはシオニズムの語源であり、ユダヤ教の聖地である。このような名をつける名付け親は、ヘブライの神話なり思想に縁のあるものなのだろうか。小向美奈子女史も覚醒剤所持で逮捕されている。その後で、浅草のロック座でストリップ興行に出ている。こうなれば犯罪も人気を揚げるための手段とされる。天宇受賣命(アメノウズメ)を考えるとき、物語の成り立ちは、歴史ではなく、イデオロギーに深く関連していると実感する。石女と書いて、ウマズメと読ませる。不妊の女性のことである。子宝は授かり物で、夫から頂けぬときは神から貰うこともあったのではないか。それでも授からねば、何度でも闇夜の晩に、胸乳かき出して、腰紐をほとまでさげて踊り続ける。

職業には職業なりの神がいる。天宇受賣命は技芸の女神であり、淫売の神ではない。子を得る男女の交わりから分離して、豊饒を神に祈り捧げる舞いの達人として職能分化したとき、その職業の理(ことわり)が天の岩戸神話として、昇華したと思われる。

日米安保は日本の恥部であり、「日本の安全をアメリカが保障する。」なる言辞は、陰部を隠すパンツであろう。 北マリアナ知事、普天間受け入れ前向き グアム視察団が現地入り の記事を読めば、普天間基地の海外移転の光がさしたともとれる。アメリカは民主主義の国を自称する。ならば、日本国民の民意をも尊重すべきではある。

 

 

 

 

 

小杉放庵 アメノウズメ

 

小杉放庵1881 ~ 1964 小杉放庵

 

 

 

   弁財天
わたしの里 美術館  

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

弥勒菩薩

2009-11-29 | 神仏や 神話の人物
information     
 
わが郷 HOME   免責事項 
 
  

                                                    

 

 

弥勒菩薩   (みろくぼさつ)

梵名マイトレーヤ ( Skt.मैत्रेय  [maitreya] )

パーリ名メッテイヤ (Pali. metteyya मेत्तेय्य) は仏教の菩薩の一尊である。
一部の大乗経典では字(あざな)が阿逸多 Ajita とされているが、スッタニパータや、
中阿含経中の説本経などの初期経典の記述では、弥勒と阿逸多は別人である。
弥勒はインドの波羅奈(バーラナシー)国に生まれ釈迦仏の化導を受けて、
人寿八万歳の未来においてその時代の仏陀となるという記別を受け、
また阿逸多は仏陀ではなく転輪聖王となるという記別を受けている。

 

     中宮寺 木造菩薩半跏像(国宝) source

 

 

               

 

 

弥勒は音写であり、「慈しみ」 (Skt: maitrī मैत्री, Pali: mettā मेत्ता) を語源とするため、慈氏菩薩(”慈しみ”という名の菩薩)とも意訳する。

三昧耶形は蓮華上の塔、賢瓶(水瓶)。種子(種字)は यु(yu)。

 

  MaitreyaSeated 東京都 国立博物館蔵

 

弥勒はゴータマ・シッダッタ(悟りを開いたのちは仏陀、釈迦牟尼仏現在仏)の次にブッダとなることが約束された菩薩(修行者)で、シッダッタの入滅後56億7千万年後の未来に姿を現れて、多くの人々を救済するとされる。それまでは兜率天で修行(あるいは説法)しているといわれ、中国・朝鮮半島・日本では、弥勒菩薩の兜率天に往生しようと願う信仰(上生信仰)が流行した。

前述のように弥勒の下生は56億7千万年後とされているが、この気の遠くなる年数は、弥勒の兜卒天での寿命が4000年であり、兜卒天の1日は地上の400年に匹敵するという説から、下生までに4000×400×12×30=5億7600万年かかるという計算に由来する。そして、後代になって5億7600万年が56億7000万年に入れ替わったと考えられている。

他の古い経典では3000年後とするものもあり、その未来仏の出現する時代は厳密には定かではなく「遠い未来」の比喩ではないかとの説もある。弥勒菩薩はバラモンとして娑婆世界に出世して、シッダッタ同様に出家したのち竜華樹下で悟りを得て、三度にわたり説法を行い多くの人々を救うという(これを竜華三会という)。『弥勒下生経』には、初会96億、二会94億、三会92億の衆生を済度すると説いている。なお、56億7千万年後の下生の姿を先取りして弥勒如来、弥勒仏と呼ばれることもある。

『観弥勒菩薩上生兜率天経』、『弥勒下生経』、『弥勒大成仏経』の3本で『弥勒三部経』と呼ぶことがある。また、浄土宗系の『無量寿経』には、阿弥陀仏の本願を後世の苦悩の衆生に説き聞かせるようにと、釈迦牟尼仏から弥勒菩薩に付属されている。

仏教の中に未来仏としての弥勒菩薩が登場するのはかなり早く、すでに『阿含経』に記述が見える。この未来仏の概念は過去七仏から発展して生まれたものと考えられている。


 

下生信仰[編集]

弥勒信仰には、上生信仰とともに、下生信仰も存在し、中国においては、こちらの信仰の方が流行した。下生信仰とは、弥勒菩薩の兜率天に上生を願う上生信仰に対し、弥勒如来の下生が56億7千万年の未来ではなく現に「今」なされるからそれに備えなければならないという信仰である。

浄土信仰に類した上生信仰に対して、下生信仰の方は、弥勒下生に合わせて現世を変革しなければならないという終末論、救世主待望論的な要素が強い。そのため、反体制の集団に利用される、あるいは、下生信仰の集団が反体制化する、という例が、各時代に数多く見られる。北魏の大乗の乱や、北宋・南宋・元・明・清の白蓮教が、その代表である。

日本でも戦国時代に、弥勒仏がこの世に出現するという信仰が流行し、ユートピアである「弥勒仏の世」の現世への出現が期待された。一種のメシアニズムであるが、弥勒を穀霊とし、弥勒の世を稲の豊熟した平和な世界であるとする農耕民族的観念が強い。この観念を軸とし、東方海上から弥勒船の到来するという信仰が、弥勒踊りなどの形で太平洋沿岸部に展開した。江戸期には富士信仰とも融合し、元禄年間に富士講の行者、食行身禄が活動している。また百姓一揆、特に世直し一揆の中に、弥勒思想の強い影響があることが指摘されている。


唯識論師[編集]

300年前後に、インドの瑜伽行唯識学派の論師として唯識説を説く開祖の一人。後世の伝説によって、前述の未来仏としての弥勒菩薩と同一視された。著作に『瑜伽師地論』(漢訳説)、『大乗荘厳経論』、『中辺分別論』、『現観荘厳論』、『法法性弁別論』、『究竟一乗宝性論』(チベット説)などがある。

チベットでは、『瑜伽師地論』は無着菩薩造となっており、『究竟一乗宝性論』が弥勒(マイトレーヤ)造となっているが、漢訳では安慧(スティラマティ)造としている。


 

 

ミスラ神との関係[編集]

「ミトラ教」および「阿修羅」も参照

ミスラはインド神話におけるアーディティヤ神群の一柱ミトラと起源を同じくし、古くは古代アーリアにおいて信仰されていた契約の神だった[1]。ゾロアスター教においては中級神ヤザタの一柱とされ、英雄神、太陽神とされる。ただし、教祖ゾロアスターは、ミスラをはじめとする神々ではなく、アフラ・マズダーに対してのみ崇拝をすべきだと宗教改革をしたため、周辺のアーリア人の宗教に比べ、ミスラ神は低く位置づけられている。また、古代ギリシャ・ローマにおいてはミトラースと呼ばれ、太陽神・英雄神として崇められた。ミスラはクシャーナ朝ではバクトリア語形のミイロ(Miiro)と呼ばれ、この語形が弥勒の語源になったという説もある[2]。

 

 

ミルク神

 ミルクの仮面(那覇市内のホテルで撮影)


沖縄県では、「ミルク神」、「ミルクさん」と呼び、弥勒信仰が盛んである。祭りでは、笑顔のミルク仮面をつけたミルク神が歩き回る。弥勒菩薩の化身とされた布袋との関係が指摘されている。


 

 

 

 造像例[編集]


 


弥勒菩薩を表す梵字 『ユ』と読む

 

 source


弥勒菩薩像はインドでは水瓶を手にする像として造形されたが、中国においては、唐までは足を交差させ椅子に座る像として造像され、元・明時代以降は弥勒の化身とされた布袋として肥満形で表された。一方、飛鳥時代の日本では半跏思惟像として造像が行われた。椅坐して左足を下ろし、右足を上げて左膝上に置き、右手で頬杖を付いて瞑想する姿である。大阪・野中寺の金銅像(重文)が 「弥勒菩薩」 という銘文をもつ最古の半跏思惟像である。京都の広隆寺の弥勒菩薩像(木像)は特によく知られており、国宝に指定されている(→弥勒菩薩半跏思惟像)。ただし、半跏思惟像の全てが弥勒菩薩像であるとは限らない。平安時代・鎌倉時代には、半跏思惟像は見られなくなり、立像や坐像として表されるようになる。京都・醍醐寺の快慶作の木像などがその作例である。

  京都・醍醐寺 快慶作

 

 

日本で広く目にされている弥勒菩薩像に、50円切手の図案がある。

これは中宮寺の木造菩薩半跏像である。

  

 

 

 

弥勒如来像としては、前述の奈良の東大寺の木像(通称「試みの大仏」)(重文)や、当麻寺金堂の塑像(奈良時代、国宝)、興福寺北円堂の運慶一門作の木像(国宝)などが知られる。
( wikipedia )

 

 

余禄 このような、お話もあります。

 映画 『ネバー・エンディング・ストーリー』は、「弥勒(ミトラ)の聖戦」をファンタジーをいう形で分かりやすく映画化したもの。

 

 

わたしの里 美術館 神仏や 神話の人物 索引
美術館の索引    わが郷 HOME 

 

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

弁財天

2009-11-28 | 神仏や 神話の人物

 

 

 

 

1.武神弁財天・・・早期のころは、弓,刀,斧,鉾などをもつ勇ましい姿の弁財天が作られた。

2.宇賀弁財天・・・宇賀神王ともいう。これは水神,龍蛇信仰と結びついた弁財天。

 頭の宝冠の上に蛇がとぐろを巻いている。

3.白蛇弁財天・・・剣と宝珠をもち,頂上に白蛇をいただく弁財天。蛇と剣の関係は素戔鳴命のヤマタノオロチ退治神話との関係で,宝珠は千手観音菩薩との関係でイメージの関連づけが行われた。

4.妙音弁財天・・・もっとも新しい弁財天イメージ。琵琶を抱く女神のイメージである。
 

 

 


 小川 破笠(おがわ はりつ

「弁財天図」 紙本着色 年紀なし(城西大学水田美術館)

 

 

わたしの里 美術館 神仏や 神話の人物 索引 12才でセックス・デビューって 可笑しいでしょう
美術館の索引  わが郷 HOME 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

05 ギリシャ神話

2008-12-31 | 神仏や 神話の人物
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする