この前、大阪の上町を歩いていたら上町Aなる住居表示が
大阪市中央区にある古代の首都、難波宮跡の周辺を散策していて、一風変わった住所表示板が街頭に掲げてあるのに気付いた。「大阪市中央区上町A」。近くには同じく「B」「C」の表示板もある。いつから、なぜアルファベットを住所表記に用いているのだろうか。
アルファベットの住所表記がある上町。南大江東連合振興町会の伊藤会長(右)と上町A番に住む中村さん(大阪市中央区)
一般的な住所表記「○○1丁目1番1号」のうち「○○1丁目」までを町名、「1番」を街区符号、「1号」を住居番号と呼ぶ。
総務省住民制度課や地図製作会社の昭文社にも確認したが「アルファベットを街区符号に使うところは、他に聞いたことがない」。
大阪市中央区役所に尋ねると「1989年、旧南区と旧東区が統合して現在の中央区となったのを機に、アルファベット表記になった」と教えてくれた。ただし「当時の詳しいことは不明」との事だった。
事情を知る人を探す。上町が属する南大江東連合振興町会の伊藤弘一郎会長(73)を訪ねると「発端は、統合から10年前の1979年にさかのぼる」と教えてくれた。
このころ複雑で分かりにくい地名表記を整理しようと、住所再編が全国各地で行われた。伊藤さんらが住む旧南区上町の東隣にあった旧東区の東雲町など10の町も、住所の統合・変更を実施。79年に誕生した新たな町名が「上町1丁目」だった。「南区上町」と「東区上町1丁目」が隣り合うことになったが、区が異なり、特に混乱はなかった。
〒 〒 〒
だが10年後、2つの区が合併することになり、問題が起きる。旧「南区上町1番1号」と旧「東区上町1丁目1番」は、合併すると、どちらも「中央区上町1-1」になってしまう。
行政側は旧南区上町に「上町2丁目」と町名を変えるよう要請。それに対し「昔から『上町』に住んでいるのは自分たちなのに『2丁目』になるのは納得できない、と猛反発が起きた」と伊藤さんは明かす。
当時を知る住民の一人、中村浩さん(80)は「『上町といえば中心はこっちだ』という強い思い入れがあった」と当時を振り返る。
大阪歴史博物館の学芸員、船越幹央さん(49)によると「旧南区上町は江戸時代、寺社が立ち並んでいた上町筋沿いで古くから栄えた一等地。地名への愛着が特に強いのでは」という。
とはいえ、10年前に変えたばかりの「上町1丁目」の町名を再び変更するわけにもいかない。住民らが知恵を絞り、街区符号に数字ではなく「ABC」「あいう」「いろは」「上中下」などを使う案が浮上した。
「皆で悩み抜いた末、『上町の町名を残し、2丁目にならないためには仕方がない』とアルファベット表記で妥協した、と当時の町会長から聞いた」と伊藤さんは話す。「ABC」を選んだ理由は詳しく聞いていないが、「『あいう』や『いろは』は一目では順序が分かりにくいし、発音しにくいためでは」と推察する。
若い世代や、その後に引っ越してきた住民は「ABC」の住所表記を特に気にする様子でもないという。しかし中村さんは「歴史のある『上町』がなんで『ABC』や、という違和感は今も残る」と打ち明ける。
淀屋橋で昼飯を食べて同じフロアーで三菱アジア子供絵日記フェスタがあった。展示しているアジアの子供たちの絵日記を見ていた。台湾の子供の絵日記を見ていると国名がChinese Taipei と書かれていたので三菱も中国に忖度しているかと思った。
中華民国は、1949年の中華人民共和国建国後も国際連合等の国際機関における「中国」の代表権を維持していた。だが、1972年のアルバニア決議で国連における中国の代表権を失い事実上追放されると、国際オリンピック委員会(IOC)等その他国際機関における地位も修正を迫られた。
中華民国政府は「中華民国が中国全土を代表する国家である」という建前から「中華民国」という名称で国際機関に参加してきた。だが、実際には中華民国が中国全土を実効支配していないことなどから、1970年代以降「中華民国」という名称が国際社会で受け入れられなくなっていった。しかし一方で、中華民国が実効支配している地域に基づいて「台湾」という名称を使うことは、中華民国・中華人民共和国のいずれもが主張する「一つの中国」論に反する行為であると見なされていた。そのため、中華民国は国際機関で「中華民国」と「台湾」のいずれの名称も用いることができなくなり、それらに代わる名称が求められるようになった。
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