みんなの僧

24で僧侶になり54で住職になるまで夢や悩みを聞き続けて30年。

月夜野忍び

2010-11-14 14:00:09 | 日記
この前は さわり程度に読んだ所で睡魔大王に襲われ、寝てしまった。未読の「忍び外伝」を今朝読み 終えた。

面白かった。確かに 色んな方が 賞賛してるだけの筆力だった。世事の中で 気になる事は 他の人と重なる事もあり、重ならない時もある。

作者の 乾緑朗さんが気になる事は 私も気になる所だな と感ずる箇所が多々あった。

このブログを見て、本を読まれる人も いるかも なので 細部は割愛する。が、重なる部分に多少触れる。

カドカワハルキさんが、肝いりした本「産霊山秘録」書いたのは半村良氏。また芥川龍之介の「杜子春」などの作品テーマに重なる所が、ある。そうや!実はこうなんや!と喝采した映画「マトリクス」最近では「アバター」とも本ではないが メッセージが重なる。

日本という、地理的条件が整った気候風土。

それらを愛し、奪い合い、殺し合い、和合し、現在を作り上げた 各種族と部族。それが日本人。

そして、それらの種族と部族の栄枯衰勢を留める 書物や宝物。

それら全てが問いかけてくる。

生きるとは?人とは?成功とは?国とは?民族とは?幸せとは?

そして私とは?

色んな角度やアプローチで その専門性を駆使して 歴史的研究や科学的解明が行われている。

どんどん やって下さい。お願いします。

仏陀は その超越。

超越は 「悟り」

歴史という積み重ねと、科学の進化で 悟りが ワカリ始めてきた。

中国から渡ってきた、書物とその解釈だけでは 仏陀の全てではない。

もう、あなたは知っている。もう、私も知っている。
現実と現在という 解釈と解明を置いて、不易流行・温故知新はない。変わらないものと古いものだけに頼るのは仏教学であって、仏陀の悟りとは別物だ。

何が流行っているのか?何が新しいのか?何故そうなってるのか?という センスなしに 温故知新も不易流行もない。

過去の遺産と先人たちの蓄えだけに頼るのは
仏陀の悟りの 半分かも知れないのだ。

聖徳太子の時代の流行と新しきものは 中国を経た仏教だった。

貧困という事実と 争乱と混乱という現実から 日蓮の、法然の、親鸞の 仏教が生まれた。

今、子供たちはゲームに勤しまない日はない。仕事にパソコンを使わないビジネスマンは少ないだろう。
また、世界の株価を気にしない投資家はおらんだろう。

今日もニュースでは、「APECに各国首脳が集まって云々」と 日本が世界とかかわらずには 存在出来ない事を 押しつけている。

Googleすれば 必要な情報は淀みなく 入手できる。
そう、それら全てが 現在で現実だ。そしてそれらが伴って、温故知新であり 不易流行なのだ。

ハッキリ言う。中国を経由してきた 過去の仏教だけでは、 研究だけでは、 もう仏教ではない。鎌倉に始まった仏教も苔むしている。

そんな仏教に新しさを標榜するために幾らイベントをして、流行りのアーティストのコンサートしても 駄目だ。
それは観光仏教だろう。
仏教自体が 現在で現実で、現在進行形で、ライブでイベントでないと駄目だ。 過去からの積み重ねや先人の蓄財は 不易流行でも温故知新でもなく、過去そのものとなる。

アバターの3Dに仏教は生きていて、始まってる

マイケル・ジャクソンの生涯と死に様に 無常があり、始まりがある。

しかし、歴史の積み重ねも 科学の進化も エンターテイメントも 私たちの生活や人生も、全ては
「悟り」の 手のひらにある。

西遊記の孫悟空が十万里を 飛んでも 釈迦の手のひらから 抜け出せなかったように。

でも、私たちは飛び続けるのだ。 未来に向かって。ずっと 仏陀の手のひらであったとしても。

坂上二郎さんじゃないが 「飛びます!飛びます!」 だ。
飛び続ける仏教が仏教で 仏教学は仏教とは呼べない。

私の脳なしに 私は私足り得ない しかし私の脳だけては 私とは言えないように。

私の脳は、現実と現在と言う肉体と共にあって
ワタシとなる。

テレビでは みうらじゅんと山田五郎が たわいもなく 現在を話し合って 笑わせてくれてる。

仏教の専門用語を使わずに、人生と人類の可笑しさを 無常を 笑い飛ばしてくれてる。

やっぱ 飛びます、飛びます、飛ばします!だな

photoは千数百年続く里の神社に かかる月夜。

今は過去 過去も今。ですね お月様。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿