Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

たぶんこれからおもしろくなる

2012-02-26 23:38:54 | 日記


2000年という世紀の変わり目に、立岩真也が書いた文章が彼の本『希望について』の最初に収録されている。

《この文章を書いていたのがある大学院での集中講義の前だったので》、この文章は、大学生に向けて書かれているようだが、これを今読むぼくが、とうに大学生であるどころではなく、65歳のただの男であっても、よいのである。

こういう文章は、さして長くもないので、全文を読む必要があるが、(というかあらゆる文章は、全文を読まれなければ意味が取れないように書かれているはずだが)、全部書き写すわけにもいかないので、ある“部分”だけを引用することになる;


★ 学生は、社会人になる。その人が自分の身のまわり3メートルくらいの範囲で生きていければ、それはそれでよい。しかし実際にはなかなかそうもいかない。会社に勤め出したり、等々。それで、突然、天下国家について語り出してしまうのだが、その時口をつくのは「少子化」がどうしたとか「国際化」がどうしたとかいった紋切り型の反復でしかない。それは聞いていてもつまらないし、本人もそう納得しているわけではないだろうし、そして私が思うに、そのいくらかはまちがっていて、そして時に危険でもある。

★ だから、べつように語ること、べつように考えていくことはできないか。いま漠然と、しかしはっきりと感じられていることは、近代社会の構制の本体、内部の方に向かっていくこと、そしてそれをどうしようか、直截に考えていくという、社会科学の本道を行くしかないのではないかということだと思う。

★ 例えば、誰が何をしてよいことになっているのか、何をすべきで何をすべきでないことになっているのか、それはなぜか、別のあり方は可能か、どのような根拠から、どのようにして可能かを考えること。つまり権利や義務について考えること。

★ それは「生命倫理」だとかあるいは「知的所有権」だとか、なにかしら新しい事象への対応について語られることもあり、もちろんそれらはそれらで大切な主題なのではあろうが、しかしもっと普通のことについてそれをやってみること、そしてそれがおもしろいことを示すことだろうと思う。そして、社会が、市場/政治/家族/その他の自発的行為の領域といった具合に分かれているのなら、その各々に即して、そこに配分されている行為や財の配分のあり方について、また各々の領域の間にある境界について、各々の領域の関係について考えることだ。

★ 「少子高齢化」で人手が足りなくなるという。だが足りないとはどういうことなのか。自明のようにも思えるが、わかるようでわからない。かつて人口の量と質に対する危機感が「優生学」を作動させたのだが、この社会を覆っているある種の危機感はそれとどこがどれほど違うのだろう。そうやってがんばらないと日本は「国際競争」の中でやっていけないと言われる。仮にその通りだとして、そこで考えることは終わりになるか。ならないと思う。

<立岩真也『希望について』(青土社2006)>






ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
« 今日があっても、明日がある... | トップ | ヴァルター・ベンヤミンのテ... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事