<事実>が<想定>を上回る
<事実>は、実際に起こったこと・起こることである。
<想定>は、人間が考えたこと・考えること=<言葉>である。
ゆえに、<想定外>とは、事実によって、言葉が無意味(無効)になることだ。
現在進行しているのは、このような事態である。
すなわち、“言葉の力”が、“あらゆる”言葉が無効になるとき、このときこそ、言葉にはいったいどのような力があるかが、ぎりぎり、試されるだろう。
それが、たんなる実務的な、復興政策でないことだけは、明瞭である。
たしかに、現在の事態をどこまで、“天災のせいにする”かは、問題である。
なにが“天災”で、どこまでが“人災”なのか?
また、“すべてのコスト”が問われる。
<原発>は、安いのか?
この場合、<安い>とは、いかなることを意味するのか?
“消費の停滞”とか、“成長が止まる”と言い続けるひとびとの、“経済(経営)的”根拠はなにか?
“ある種の資本主義”という今あるものにしか根拠を置けない頑迷な彼らの<常識>こそ破綻したのだ。
想像力ゼロの、現実主義=経済効率主義こそが、破綻したのだ。
まさに、<言葉の使用>こそが、まちがっていた。
たしかに、<言葉>を発明したひとはなく、ぼくたちは“いままであった”言葉のシステムのなかで、言葉を使用し始める。
ゆえに、“言葉の使用”は、保守的である。
ただただ、<言葉>に対して、受身であるならば。
しかし、“あらゆる領域で”、この言葉の保守性に抵抗し、たたかってきた人々はいる。
ぼくたちは、“それ”を読むことが(聞くことが)できる。
“それ”は、いわゆる<言葉>だけではなかった、映像も音楽も<言葉>であった。
もちろん、“想像力を持った言葉”は、この現実的=実利的な言葉とのたたかいに、敗れた。
なぜなら、この<現実>とは、あらゆる人々を生き延びさせるために、保身=保守の過程を強要するからだ。
“想像力あることば”は、ドリーマーと侮蔑され、あなどられるだけでなく、まさに、その言葉を愛し、発するものの、“現実”における敗北をもたらしてきた。
この“敗北”は、その言葉を発するものの、外からも、内からも、来る。
この“現代史”において、たとえば日本の“戦後”60余年において変化したもの、変遷したものも、このような<歴史>であった。
ぼくはたまたま、この時間を生きた。
むかし吉本隆明という思想家は、《敗北の構造》という言葉を使用した。
現在のぼくには、この《敗北の構造》という言葉を、吉本がどのような<意味>で使用したかわからない。
しかし、“いま”、この言葉が甦る。
まさに、“戦後日本”が敗北するとき、“ぼくの人生”が敗北するのだ。
しかし、<敗北>と言い、<敗戦>と言うのなら、その“比喩”は、<戦争>である。
ある時代の変遷とその結果を、ある人生の変遷とその結果を、“戦争の比喩”で語るのはただしいか?
人間の営みも、あるひとの人生の“いきざま”も、“たたかい=戦争”の比喩で語られるべきか?
“ひとは、あらゆるひとにとって狼”にすぎないのか?
この<弱肉強食>を隠蔽するために、“たがいのささやかな助け合い”のヒューマン・メロドラマだけが、際限なく演じられるのか?
もちろん、“私だけが目覚めている”のではない。
<私>もまた、この“与えられた言葉”のシステムのなかで、“あがいている”だけだ。
ただ、この幾重にも自縛するシステムから、“一歩”出たい。
この“多数者の言葉”から一歩。
*画像はニューヨーク・タイムズによる