Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

プレーンな

2011-04-12 23:12:23 | 日記


★ 一緒に住もうと思っていた女の子がいたから、仕事でふらりと出掛けていった西部池袋線の中村橋という駅の前にあった不動産屋で見つけた2LDKの部屋を借りることにしたのだけれど、引っ越しをするより先にふられてしまったので、その部屋に一人で住むことになった。

★ 2LDKの部屋に移ったことで月々の出費が3万5千円程増えてしまったことは、はじめの予想に反して少しも問題にならなくて、さらに意外なことには、それまで恒常的に引き出し続けていたキャッシング・ローンも借りなくなり、クレジットの残高も減る一方になった。それにはふられたことの後遺症のようなものが働いていて、誰といても、というのは誰と酒を飲んでいてもと言い換えてもいいのだが、とにかくすぐつまらなくなって、ぼくが一緒にいるはずなのはこんなやつじゃないんだという気持になってきて、2時間もしないうちに別れて部屋にもどってきてしまうようになっていたからで、飲み代と終電すぎのタクシー代が部屋代の差額の3万5千円よりもはるかに大きかったことの説明になっている。

★ 部屋に帰ってすることといっても本を読むぐらいなのだけれど、本を落ち着いて読む気になれないのには少し困った。そうかといってずっと前からテレビのない生活をしていたから見たくてもそのテレビがなくて、ステレオから音を流しながら腕立て伏せや腹筋運動をしていた。

<保坂和志『プレーンソング』(中公文庫2000)>






蝉の命

2011-04-12 22:26:10 | 日記


★ 姫は着物のすそをめくって水に足をつけ身を屈めて馬のように唇を水面につけて飲む。その姿勢が苦しいと身を屈めたまま両手で吸う。男はあえぎながら坐りこみその姫の姿を見ていた。日に水が輝き水が水でなく岩と樹々と空の精のように見え不老不死の水だと思った。姫の突き出した顔の喉頸の線が柔らかく強く張る。後何百年もその水を飲みこの山中をさ迷う。着物のすそが水に浸かりさながら姫はその水の中から立ち上がったばかりだと見える。男は暑さにあえぎ疲れに呻きながらただ見ていた。姫は男にも水を飲めと歩いてくる。

★ 男は這うように粗い石に寝そべり汀に顔を近づける。水面に写った自分の顔が髭だらけで衿元から獣のにおいが出てくるのを知り、男は都を二十三の歳に出てこの方何十年も齢を重ねた気になった。空に鳴き交う蝉よりも脆くはかない命だった。

★ 水を飲み終わって顔を上げると姫は流れの上で屈み込み小便をしていた。男は起き上がり茂みを揺さぶる音に振り返った時肩に激痛を感じ眩んだ眼に片腕が宙をとび水に音たてて落ちるのを見た。姫が声をあげ男のそばに走り寄ろうとする。男は刀を抜こうとした。途端血が勢いよく左腕の付け根から噴き出る。敵が何人いるのか分らなかった。姫が水の中を救けを求めて走り寄ろうとするが水で着物のすそが乱れ白い足を太ももまであらわにして転びかかかる。男は刀を抜いた。一瞬の事だった。水の中を走り寄る姫の胸から腹にかけて斬ろうとした。いきなり体のあちこちが熱い。男は声をあげ水に倒れる。盗賊らが何人いるか分らなかった。斬り刻まれ男は水に浮いた。男は目をあけたままだった。

★ 盗賊の一人が水に倒れた姫を抱え上げた。すそをめくり尻をペタペタとたたき「やんごとなき姫じゃ」と言った。盗賊の今一人が男のえりをつかんで引きずり汀に寄せ頭をだけ岩に乗せて足で踏んづけ薪を割るように刀を首に振りおろした。一太刀で斬れず獣の腹を裂くように刀を使う。髪を持ち首をぶら下げ「エボシは要らんかい?」と姫を抱えた盗賊に聴く。「要らん」という。盗賊の一人が男が持って来た箱の中を調べ中に金品など無く姫の化粧道具や香の類しか入っていないのを知り箱を水に放り棄てた。盗賊は刀を収めながら姫が青ざめた唇をしていると思ったのか刀についた血糊を唇にこすりつける。かつぎあげた盗賊の手が尻を撫で尻から女陰をなぶっているため、紅をつけたような唇は動く。

<中上健次“紅の滝”―『化粧』(講談社文芸文庫1993)>