楽しく遍路

四国遍路のアルバム

塚地峠 青龍寺 仏坂岩不動 大善寺 焼坂峠 大正町市場 添え蚯蚓遍路道

2021-05-26 | 四国遍路

 
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市役所前バス停 
前回打ち止めた、土佐市役所前のバス停です。
あれからおよそ10ヶ月後の平成15年(2003)10月30日、11時45分、私たちはようよう、ここに帰ってきました。本当はもっと早く、春頃には来たかったのですが、実は北さんが目出度くも定年退職。いろいろと浮き世の義理もあったようで、春にはちょっと難しかったのです。


土佐市役所 
しかし私はといえば、北さんより2年早く退職していましたので果たすべき義理は少なく、遍路に出たくて、ジリジリしていました。
次の記録をご覧ください。いま思うに、これらは遍路に出られないことへの「代償」として行われたようです。ひんぱんに出かけています。


松山・鑑真和上展ポスター
2/1 ザック購入、2/13-16 松山・鑑真和上展(4人)、2/23 越生、3/28 細谷、4/6 秩父、4/19 川角、4/26 古河・渡良瀬遊水池、5/1 寄居、5/9 川原湯温泉(2人)、5/21 大高取山、5/30 嵐山(3人)、6/7-8 姥湯温泉(4人)、6/16 栃木市(2人)、6/23 大平山、 7/4-5 青根温泉(4人)、8/26-9/2 韓国、9/15 靴購入、10/5 利根大堰→行田古墳群→見沼用水(2人)、10/16 見沼用水再訪
写真は前号にも記した鑑真和上展のポスターです。松山で見ました。


塚地峠へ
満を持して、とでもいいましょうか、私たちは歩きはじめました。県道39号を宇佐に向かって南下します。最初の目標地は塚地峠です。
なお今回の区切り歩きの最終目的地は、三原村経由でゆく宿毛(39番延光寺)です。月山神社経由の道は、次回、歩くことにしました。38番金剛福寺から歩きはじめて、月山神社経由で宿毛へ→今回の打ち上げ地点から歩き継ぎ、松山を目指すという計画です。


中務茂兵衛道標
すこし歩いてみて、自分たちが新米遍路であることを自覚しました。
菅笠をかぶるには、その前に頭陀袋をかけておかなければなりませんが、それが自然の動作として出来ません。片手には必ずお杖を持っていなければならないのですが、これを忘れて手ぶらで歩いており、あわてて引き返したりします。橋の上ではお杖を突かないのが決まりですが、これも忘れて、平気でトントン突いています。


U字溝
U字溝の網目の穴にお杖を突っ込んでしまったときの、「反射」も失われていました。反射的に引き抜くことができないまま、ガクン、歩きが止まってしまいます。
青龍寺では、手水場での作法に戸惑い、ローソク、線香を出し→灯す、その手順でまごついてしまいました。
通し打ちの人なら、この辺まで来ればもう慣れたものなのでしょうが、区切り打ちの私たちには、まだまだぎこちなさが残ります。


開通記念碑
塚地峠登り口に「開通記念碑」が建っていました。これは塚地峠の「開通記念碑」ではありません。
左に建つ説明文によると、かつて高岡と宇佐を結ぶ道は、横瀬山の上の遍路道(塚地峠道)と、谷川沿いの藪道の公道しかなく、林業開発の隘路となっていた、とのことです。
「開通記念碑」は、3人の林業家が私財を投げ打ち、大正7年(1918)、公道をしのぐ私道を、宇佐との間に開通させたことを記念し、建てられました。碑には、私財を投じた三人の名前と、この道が私道であることを証する、三人の名前が刻まれています。かつては私道の入口に建っていたそうですが、平成11年(1999)、塚地坂トンネルが開通し、塚地峠の登り口に移されてきました。


塚地峠
一人の男性と出会いました。長い柄がついた鎌を持ち、草を刈りながら登っています。「ご苦労さま」と声をかけると、彼も私たちと一緒に歩きはじめました。彼は話しながらも、要所要所で鎌をふるっています。
今年定年退職し、60歳だとのこと。体力維持も兼ねて、こんなことをやっております、と話してくれました。近くに住んでおり、登り口まで車で来て、峠上までを整備し、引き返すのだそうです。向こう側の半分は、反対側から別の人が登ってくるのだといいます。


古い道標
・・地面が掘り返されているのは、猪の採餌の跡です。ミミズを食べます。30センチほどの長さのミミズがいっぱいいますので。
・・猪肉は山鯨と言いますが、冬が、やはりしまっていて美味いです。
・・これは、行き倒れた遍路の墓です。
・・これは道標。指さす手が見えるでしょ。


ミミズ
猪の好物、ミミズです。
巻き尺、虫眼鏡、十徳ナイフは、私の日常の携行品です。


出会い
・・この山にはもう、マムシはいないと思います。私が獲り尽くしたかな。マムシ酒をつくるんです。
・・水を入れた瓶にマムシを入れて約2週間、置きます。空気穴は明けときます。するとマムシは体内のものを出しますので。そしたら今度は焼酎入りの瓶に入れ、密閉します。マムシはすぐに死んでしまいます。それで2年ほど置くと、飲み頃です。


宇佐大橋 浦ノ内湾
・・マムシはとぐろを巻いているが、こちらが攻撃しなければ向かってきませんね。その身長ほどが攻撃射程ですから、近寄らんことです。危険なのは、気づかず踏みつけたり、木から落ちてきたときです。
・・なぜかマムシは、1匹いると近くに、もう1匹いるのです。経験から言うことですが、ぜひ覚えておいてください。


浦ノ内湾 太平洋
この素晴らしい景色は、彼らが木を払ってくれたおかげで見られます。元は木が茂っていて、景色は見えなかったそうです。
その景色を眺めながら、しばらく話しました。みんなが、不二家のペコちゃんキャラメルを一粒、口に入れて。・・楽しいひとときでした。
なお塚地峠については、 (→H27春12) もご覧ください。峠からの景色、峠から登った茶臼山の景色、石鎚社、戦争遺跡の監視哨、また不思議な磨崖仏などもご覧いただけます。


大工墓
快調に下っていると、もうひとりの草刈りボランティアと出会いました。さっきまで○○さんと一緒だったんですよ、と伝えると喜んでくれ、この先の道を教えてくれました。
写真は、文化年間の「大工重吉」「大工重吉妻」の墓です。妻には名がないのですね。この夫婦に何が起きたのでしょうか。今なら没年、生国を、読みとれる限り読もうとしているでしょうが、この頃は、気が回っていませんでした。


安政地震の碑
宝永4年(1707)の宝永地震、安政元年(1854)の安政南海地震・津波で亡くなった人々の、供養塔です。通称は、安政地震の碑。
南無阿弥陀仏と大書され、その周りに、後世に伝えるべき教訓が刻まれています。教訓は細かく刻まれ、読みにくいのですが、・・取りあへす山手へ逃登る者皆恙なく(つつがなく) 衣食等調達し又ハ狼狽て船にのりなとせるハ流死の数を免れす・・などとあるそうです。


安政地震の碑
すぐ山へ逃げ登った者は助かったが、何かを取りに帰ったり、船に乗って逃げようとした者は、流死した、ということでしょうか。
また、この碑が建つ場所は津波の潮先を示しています。つまり津波がここまで来たことを、伝えています。


右折
特徴ある常夜灯です。多くの方は、ここを直進し(南進し)、浦ノ内湾に突きあたった所で右折し(西進し)→宇佐大橋に向かわれるようです。
が、私たちは、ここで右折し(西進し)、高知海洋高校で左折(南進)。汐浜荘という宿(H29より休業中)に向かいました。
この頃、私たちは初日の宿だけは、早くから予約していました。出来れば2日目以降も予約したかったのですが、自分たちがどこまで進めるか、見通しがたたず、出来ませんでした。


放し飼いの犬
20年前でも、もう犬の放し飼いは珍しかったと思いますが、この犬、よほど信頼されているのでしょう。
たいていのワンチャンは、遍路姿を見れば警戒態勢に入るものですが、この子は、私たちを見ても、カメラを向けられても、まったくの平常心でした。



路地で年寄り達が数人寄っていました。珍しくオジイさんも入れてもらっています。「珍しく」というのは、立ち話などは、ほとんどがオバアさんたちがやっていて、オジイさんは、あまり見かけないからです。男は群れるのが下手のようです。
汐浜荘の場所を尋ねると、「この路をあがって・・」などと言います。海の方に向かうのなら「さがる」ではないかと思いましたが、どうやら、この辺では「先に進む」という意味で「あがる」を使っているようでした。それにしても、まあ、賑やかな人たちでした。


宇佐大橋
宿に荷物を置かせてもらい、薬草入りのお茶を戴き、36番青龍寺へ向かいます。
人物が写り込んでいるため写真は使えませんが、近くに「龍の渡し」の跡がありました。渡ると「龍坂」があるので、「龍の渡し」なのでしょう。真念さんの四国遍路道指南によると、舟賃は四銭だったそうです。
青竜寺を打った後、陸路(浦ノ内湾沿いの花山院廟がある道)を行く人は、荷物を宇佐に預けて舟に乗り、海路(浦ノ内湾を舟で行く)を行く人は、荷物を持って舟に乗り、猪之尻に荷物を預けて青龍寺を打ちました。


宇佐大橋から
宇佐大橋は「しんどい橋」の異名をもつ現代の難所である、との話を耳にしました。ただし、以来今日まで、左様な話は聞こえてきません。
たしかに欄干が外にそり出しているのが、高所恐怖症の私には気になりますが、歩道は広く、車道との仕切りもあるので、このように写真を撮ることも出来るのです。「しんどい橋」は、昭和48年(1973)、竣工した頃だけの話かもしれません。私見では、一番の「しんどい橋」は、浦戸大橋です。これだけは、私は絶対に渡りません。


北さん
砂浜に出てしばらく座っていました。
道の反対側を若い遍路が歩いてきました。青龍寺からの帰りです。大きな荷物を背負っています。
私達と彼が、ほとんど同時に、こんにちはー!
  野宿かい? ・・・ ハァ-。
  今日で何日目だい? ・・・ わかりませ-ん。
  いくつ? ・・・ 28でーす。
  今日の泊まりは? ・・・ 汐浜荘でーす。ちょっと疲れたので、ハァー。
  それじゃあ、俺たちと同じだ、またねー。 ・・・ ハーイ。(青龍寺は)もうすぐですから。
この人とは宿で話したかったが、私達の宿に着くのが遅く、もう寝てしまったそうでした。



道の大きな蛇行。路傍の石仏。気持ちが洗われる、いい道です。


五社
  是従五社迠十三里
五社とは、高岡神社を指します。神仏分離までは、37番札所でした。神仏分離後は、五社の別当寺だった岩本寺が、37番札所になっています。
五社・高岡神社については、よろしければ  →(H27秋 2)  をどうぞ。秋の例大祭などもご覧になれます。


青龍寺
意外とひっそりとした札所、というのが第一印象でした。青龍寺は朝青龍がしこ名をいただいた寺だし、この寺の石段で足腰を鍛えて強くなったたとも聞いていたので、なんとなく賑わっていると思い込んでいました。
というのもその頃、朝青龍の人気は絶頂期にありました。私たちが青龍寺にお参りしたのが平成15年(2003)10月30日。朝青龍は、翌11月、横綱に昇進します。


山門
  本尊 波切不動明王
  第三十六番独鈷山青龍寺
大師が唐の地で投じた独鈷杵が、この地に落下したことに因んで、山号を独鈷山と号し、
大師が真言の秘法を授かった長安の青龍寺に因んで、寺名を青龍寺としたのだそうです。


石段
石段を見上げると、一組の遍路が見えました。腰の曲がったおばあさんと、その息子さんらしい男性です。一段一段、慎重に下りてきます。
中段くらいの踊り場で出会いました。見ると杖には、上り用と下り用に、上下二カ所の握りがついています。息子さんの工夫でしょうか、とてもよい工夫です。因みに山登り用のストックも、握り替えが出来るように、握り部分が長く作られています。
北さんが話しかけました。自分の母も四国を廻りたいと願っているのだが、もう足がいうことをききませんで、などと話しています。お婆さんは腰をぐいと伸ばして、北さんに応じていました。控え目に傍に立つ息子さんが、いい印象をくれました。


石段上から
石段を上がると、今度は、やや険悪な様子の夫婦遍路に出会いました。
 奥さん「何してるのよー、もう!早く来なさいよ」
 旦那さん「・・・」
ある宿の主人が(飲みながら)聞かせてくれた話を、思い出しました。長年泊まり客を観察して得た結論だそうです。
・・二人連れの歩き遍路で一番仲違いしやすいのは、夫婦連れですよ。関係が親しいから、よけいに縺れやすいのでしょうね。


本堂
・・仲のいい夫婦でも、遍路中一度は、関係が壊れますね。歩く厳しさの中で、普段見えないところまで見えてくるのでしょう。
・・実は私は、それがいいんだと思ってるんですけどね。壊れるから本物になるんです。遍路で関係を建て直した夫婦は、多いですよ。貴方たちも一度、生ぬるい友達関係を壊してみたらどうです?
ご主人のこの話は図らずも、これより3年後の平成18年(2006)、公開された映画「ウォーカーズ 迷子の大人たち」のテーマでもありました。



悪い癖で、初日から宿着が遅くなってしまいました。でも月がきれいでした。
帰宅後、調べてみると、この日の月齢は4.6でした。この遍路では何カ所かで月を眺めましたが、六反地で見た月は上弦の月、最終夜(11/7)に宿毛で眺めた月は、十三夜の月でした。


対岸の灯
遅い到着にもかかわらず、ゆっくりと入浴させていただきました。熱すぎず温すぎず、最適の湯温でした。
食事も美味しくいただきました。有り難いことに、その間に洗濯もしてくださり、本当に申し訳ないことでもありました。


渡船場
よく寝られました。6:00からの朝食も美味しくいただけました。
食事中、野宿青年の話をすると女将さんが、・・あの人は、さっき出かけました。素泊まりなのだけど、空きッ腹で歩けるモンかね。朝食をお接待しましたら、ありがとう、と言って気持ちよく食べてくれました。こっちこそ、ありがとうと言いたいですよ。・・
気持ちのよい朝でした。私たちからも、ありがとうございました。


小魚
浦ノ内湾は入口が狭く、奥行きが深い湾です。湾口近くに架かる宇佐大橋が645mであることからも、その狭さが分かると思います。それに比して奥行きは、「横浪三里」から察するに、12キロもあると考えられます。(実際は8.8キロだそうです)。
なお「横浪」とは、静かな海面を波が長い線となって伝わりゆく様子をいうそうです。



静かな海では筏釣りがおこなわれ、筏渡船が商売になっています。上掲の写真「渡船場」は、筏渡船の渡船場です。
エサはゴカイで、土地の人が海水をポンプで汲み上げて、ビニルハウスで養殖しています。釣り客に売るだけでなく、関西方面にも出荷しているそうでした。



筏の養殖は、マダイ、ブリ、牡蛎などだそうです。
なお私は今回と同じコースを、 →(H27秋 1) でも歩いています。より丁寧に歩いたので、花山院廟などもご覧になれます。また →(H27春10) では浦ノ内湾奥の鳴無(おとなし)神社がご覧いただけます。
未掲載ですが、今後リライト予定の(H20初夏)では横浪半島コースを、(H20夏)では浦ノ内湾巡航船乗船記をご覧いただく予定です。


仕事
各所で、養殖牡蛎の殻剥きがされていました。


牡蛎
汐で洗って食べさせてもらいました。忘れられない美味しさでした。


県道23号
県道23号を歩いています。
4キロ先のグリーンピア土佐横浪で、遍路道は二つに分かれます。右・山方向が仏坂岩不動の道(県道314号)。左が湾沿いの道(県道23号)です。私たちは仏坂・岩不動の道を行きます。
なおグリーンピア横浪は、年金保険料の無駄遣いなどと、批判を受けていましたが、この年(平成16年)、私たちが歩く4ヶ月前の6月、破産しています。


浦ノ内湾
写真奥が宇佐方向。右が横浪半島です。


売店
浦ノ内小学校が出していた無人スタンドです。たぶん総合学習の一環なのでしょう。
総合学習は、小・中学校ではこの1年前(H14年度)から実施されている学習活動です。文科省によれば、「変化の激しい社会に対応して、探究的な見方・考え方を働かせ、横断的・総合的な学習を行うことを通して、よりよく課題を解決し、自己の生き方を考えていくための資質・能力を育成することを目標にしている」とのことです。なお文部省が文部科学省に変わったのは、さらに一年前の平成13年(2001)1月のことでした。


あけび
校庭で採れたアケビや、手製のブローチなどを50円ほどで売っています。
私は、アケビを買って食べました。
浦ノ内小学校は、今はありません。(H27秋 1)に歩いた時は、もう廃校になっていました。その前年、平成26年4月に旧横浪小学校と合併し、元横浪小学校の地に、新・浦ノ内小学校として発足したのでした。


新・浦ノ内小学校
平成28年(2016)秋に写した新・浦ノ内小学校です。
校門の両側には仁王門さながらに、二人金次郎が立っています。旧浦ノ内小学校に立っていたものと、旧横浪小学校に立っていたものです。


土佐黒潮牧場
「競走馬のふるさと」とあるのを見て、私たちは思わず、ハルウララを探していました。この前年の平成15年(2003)夏、ハルウララ人気が大ブレークしていたからです。
ハルウララは、中央競馬には一度も出たことがない馬です。高知競馬にのみ出走し続け、連敗を続けました。ついには100連敗。106戦目には武豊さんが騎乗しましたが、それでも勝てませんでした。出ると負け、しかし出続ける。それが愛される所以でしたでしょうか。


浦ノ内トンネル
岬を越える道の、古いトンネルです。歩道がありません。


浦ノ内中学校
この中学校の近くに、横浪という巡航船の乗り場があります。
多分そこが、四国遍路道指南(真念)に、・・いのしり(猪之尻)より横なミ(横浪)船にてもよし・・と記されている横浪なのでしょう。
青竜寺を打った後、猪之尻で船に乗り、ここ横浪で下船。仏坂へ入りました。なお、この船に乗ることは、ズルではありませんでした。この航路はお大師さんも利用されたという、れっきとした遍路道でした。


鳴無神社遙拝所
対岸にある鳴無神社の遙拝所です。
→(H27秋 1) では、この遙拝所のこと、神事などを行うための頭屋(当家)制のこと、また次に記す仏坂岩不動尊のことなどが、ご覧いただけます。


食糧調達
県道23号と県道314号の分岐点に、具合よくコンビニがありました。昼食用に、ちらし寿司、おにぎり、播磨あげを買い、外の水道でペットボトルを満たさせてもらいました。水道は遍路に開放してくれています。
買い物をしている男性に道を尋ねると、教えてくれた上に、明治キャラメルを1箱ずつ接待してくれました。このキャラメルには、後日、助けられます。


ハウス
きれいです。蘭だと思います。
また、この辺では、ポンカンの栽培も盛んです。


旧横浪小学校
かつての横浪小学校です。
今は、この建物はなく、代わって(上掲の)新しい浦ノ内小学校が建っています。


旧横浪小学校
横浪小学校時代の子供たちです。


標識
県道314号を進み、多ノ郷を目指します。途中、岩不動に参ります。


道標
ここから山道です。


休憩
長休止し、白衣を乾かしました。その間、北さんは友人にメール。私は子供の頃習い覚えたハモニカ演奏。
El Condor Pasa、Amazing Graceなど吹いてみましたが、屋外で吹くと、まっことヘタだとわかります。もう少しマシに吹けるかと思っていたのですが、なかなかコンドルは飛んでくれませんでした。


岩不動堂
大師が当地を歩かれたときのことです。紫雲たなびく中、諸仏が顕れたのだそうです。「仏坂」という名は、おそらくこの譚に由来するのでしょう。
諸仏の顕現に感動した大師が目前の大岩に手を置くと、今度は、その岩から不動明王がその姿を顕したと言います。「岩不動」の出現です。
写真は、当時の不動堂です。今はこの前に、雨除け日差し除けの屋根が設えられています。


岩不動
なにかの模様が見えす。


湧水
岩不動の下には、きれいな水が湧いていました。


法話堂?
県道314号から離れ、岩不動への急坂を下りていると、下の方から読経で鍛えたにちがいない、太い男性の声が聞こえてきました。内容は聞き取れませんでしたが、ずっと長く話は続きました。
降りてみると、住職さんが話す声だとわかりました。法話をされているようでした。私たちより先着の遍路が、お話に耳を傾けていました。


光明峯寺
信徒の方だったでしょうか、お寺の方だったでしょうか、女性二人が仲良く、花の手入れをしていました。心穏やかな暮らしぶりに、感じ入ったものでした。
日陰を借りて、昼食休憩をとらせてもらいました。


新川沿いの道
須崎に出る、新川沿いの道です。桜並木になっています。
しばらく歩くとバイクの男性がわざわざ止まってくれて、左に折れるよう教えてくれました。これ以上直進すると大回りになるから、と言います。有り難い「お接待」です。


土讃線
新川を渡ると、やがて土讃線踏切に出会いました。渡って左折すると多ノ郷です。
踏切手前で休憩しました。


土讃線多ノ郷駅
多ノ郷駅前に自転車遍路の自転車が止めてありました。
菅笠、お杖がくくりつけてあります。走行中にかぶることはないのでしょう。


国道56号
多ノ郷の辺から、国道56号との長いつき合いが始まります。この先松山まで、時に別れまた出会いを繰り返します。
右折方向の「バイパス」は、須崎バイパスを指します。高知自動車道の一部として建設されたものですが、この頃は、まだ全線開通しておらず、一般道として供用されていました。


大善寺門前
別格5番大善寺門前に、いかにも古い瓦を積んだ遍路宿がありました。明治期創業の宿でした。
ここに泊まればよかったと話しあったものでしたが、数年前に知ったところでは、休業中とのことでした。
ただ、最近のことですが、営業形態を変えて再開しているとも聞きました。何はともあれ、うまくいくことを願っています。


二つ石大師堂
大善寺本堂は小高い山の上にありますが、大師堂は麓の商店街、その名も「お大師通り」に面して建っています。その縁起を、境内の説明文を元にまとめると、
・・昔、須崎の入り海はきわめて広く、今の大師堂の地点は海に突き出た岬となっていた。当時、岬の反対側に行く方法は山越えが常であったが、引き潮の時は、岬の先端にある「波の二つ石」を辿って行くことも出来た。ただし、それは「土佐の親知らず」とも呼ばれる危険な道で、波にさらわれる者も多かったという。
・・(弘法大師四国巡錫の砌)このことを耳にされた大師は二つ石に坐し、海難横死者の菩提を弔い、海上安全の祈願をされたという。二つ石大師堂は、この譚を起源として開基され、今日に至っている。なお現在、二つ石は土中に埋もれてしまい、その姿を見ることは出来ない。


大善寺
階段に座り込んで、すこし腹ごしらえをしました。仏坂への入口で買ったおにぎりと、北さんが持ってきた煎餅。
納経所では若いお坊さんが、一所懸命、丁寧に書いてくれました。

 
須崎港上から
須崎市が一望できます。南は海です。大きな船が見えます。日鉄鉱業烏山形鉱業所の桟橋に係留されている船のようです。


須崎町
東側は新しい住宅地です。
西側は畑地で、ハウスが並んでいますが、すぐ新荘川に切られています。


新荘川
今夜の宿は新荘川の畔にあるので、もうすぐです。すこし時間の余裕ができたので、近辺を歩いて見ることにしました。
歩いていると、小学生が元気に挨拶をしてくれました。この2年前、平成13年(2001)には池田小学校で無差別殺傷事件が起きるなど、「知らない人」への警戒が指導されている頃でしたが、四国の子供たちは変わることなく、元気に挨拶をしてくれました。
大人たちは挨拶代わりに、「どちらへおいでですか」と尋ねてくれました。私たちが歩き遍路の通常ルートから外れて歩いたからです。迷っているのではと、案じてくれたのです。有り難いことです。


新荘川
新荘川が夕焼けに染まるころ、宿に着きました。
庭で、宿のご主人らしい人と子供達が遊んでいます。
とたんに嬉しくなりました。子供がいる遍路宿は初めてでしたから。
夕食時には、魅力的なおばあさんにも、お会いすることが出来ました。
思わず夜更かしして、10:30 就寝。


夜明け
須崎港の夜明けです。


出発
ちょっと昨晩は楽しみすぎたかな?酒精が抜けきっていないようです。だからでしょうか、心なしか影が薄い?
この日は、二つの峠を越えます。焼坂峠(やけざか峠)と「そえみみず遍路道」です。昔は、この二つに角谷峠(かどや峠)が加わって「かどや、やけざか 、そえみみず」と怖れられる難所だったと言います。


角谷(かどや)トンネル
角谷トンネルです。昔は峠越えで苦労した道も、今はトンネルで抜けられます。
とはいえ、この辺のトンネルは比較的早期に建設されたようで、早かった分、歩行者には通りにくいトンネルになっています。


久保宇津トンネル
後になって分かることですが、足摺岬より西のトンネルは、開発の遅れ故でしょうか?総じて建設時期が遅く、その分、歩きやすいトンネルが多いようです。



遍路道が焼坂峠に向けて、徐々に高度を上げてきました。


焼坂峠へ
今日歩く焼坂峠、土佐久礼の大正町市場、そえみみず遍路道などについては、 →(H27秋2) も、併せご覧ください。こちらでは、模様替えされた新大正町市場がご覧になれます。また「そえみみみず遍路道」は、平成18年(2006)から平成20年(2008)の大工事後のものです。遍路道は一箇所、高知自動車道によって「ぶった切られ」ています。時代の要請で仕方ないとはいえ、残念ではあります。


土讃線
この先で土讃線は焼坂トンネルを抜けます。
私たちは峠越えにかかります。


峠道
山道に入ってきました。ザックの蛍光ベルトが光ってきました。木の茂みが厚くなってきたからです。
焼坂峠、そえみみず遍路道は照葉樹林が残っていることでも貴重です。シイ、クスノキ、ツバキなどの常緑広葉樹を主とする樹林で、東南アジアの亜熱帯から温帯にかけて、原生林として広く分布していました。日本では関東以西に発達したといわれています。


左峠
日本歴史大事典から引用させていただくと、
・・照葉樹林帯に居住する諸民族の文化のなかには、数多くの共通の特色がある。それによって特徴づけられる文化のまとまりを「照葉樹林文化」と呼んだのは、民族植物学者の中尾佐助であった(1966年)。


峠の切り通し
この切り通しが、行政の境界になっています。こちら側が須崎市。向こう側が中土佐町土佐久礼です。


沢ガニ
沢ガニがいました。動くのでピントがぶれています。
照葉樹の厚い葉に日射が遮られ、落ち葉が水をはなさないから、沢ガニも生きていられるのでしょう。



何枚も撮った写真の中で、比較的よく照葉樹林らしさを写した写真が、これでしょうか?


土讃線
「よんでん」(四国電力)の女性がバイクでやってきました。挨拶をすると止まってくれて、この先の踏切`まで、消費電力のチェックに行ってきたのだと、自分の行動を説明してくれました。電気を使っている所なら、どんな所でも行かねばならないんですよね、こいつ(バイク)が行けない所は、歩いてゆくんです、と言います。「ポツンと一軒家」でも(という表現は、もちろん当時はありませんでしたが)会社は電気を通しますから、ということは、私もそこまで行くわけですよ・・。
そんなこんなを話していると、今度は森林組合の車が通りかかり、話に加わってくれました。山や森を職場にしている人たちとの、楽しい交流の時でした。皆で大きく手を振って別れました。


大川橋
名前のわりには小さな大川橋です。実は、大川橋が架かっている川は大川ではなく、久礼川です。
大川橋を渡ると「そえみみず遍路道」に至りますが、私たちは直進し、土佐久礼の大正町市場を見物します。


久礼川
橋の袂で、遍路中の若い僧と出会いました。丁寧に頭をさげてくれました。行く方向が違うので(彼は添え蚯蚓遍路道の方へ向かった)、すぐ別れましたが、彼とはこの後、そえみみず遍路道の登り口と岩本寺で再会します。
そえみみずの登り口では、大川橋での私たちの歩きを、「さっそうと歩いてらした」と評してくださいました。えっ、うそ? ほんと?「さっそうと」だなんて、ちょっと嬉しかったのを覚えています。


純平
絵は、青柳祐介さんの長編漫画「土佐の一本釣り」の主人公・小松純平です。
物語は、土佐久礼を母港とするカツオ船・第一福丸のカシキとなった純平が、先輩乗組員たちに鍛えられながら、一人前の男として成長してゆく様を描きます。大人気の長編マンガでした。
その人気に乗って、「純平」という酒も造られたようです。


土佐久礼駅
正面が土讃線の土佐久礼駅です。


久礼の道
駅を背に歩くと、道が分かれます。左は久礼港、漁師町への道、右が大正町市場、久礼八幡宮への道です。(この頃は、まだありませんでしたが)今は、道路標識がたっています。
私たちは大正町市場へ行くので、右にとります。


大正町市場
市場はあいにく改装中で、各店舗は仮店舗で営業していました。
写真は、改装に入る前の市場の様子です。
大正町は、元は地蔵町通りと呼んだそうです。大正4年(1915)、その地蔵町通り一帯で大火が起きました。町民は意気消沈していましたが、大正天皇が復興費として(当時の金で)350円を下賜。感激した町民は、これまでの地蔵町通りを大正町と改めて、町の復興に励んだのだと言います。

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魚屋さん
ある鮮魚店でカツオ(350円)を買いました。
その横で手押し車(乳母車を少し大きくしたような車)で出店しているオバサンからは、鰯を買いました。ただし注文量が少なくて値段がつけられず、これは「お接待」してくれることになりました。
少量を購おうとするとき、どうしてもこうなりがちです。これを避けるには、やはり多い目に買うべきなのでしょう。または買わないことにする。「商品」のお接待は、とても気になります。


有名人の写真など
梅宮辰夫さんや笑福亭鶴瓶さんなどの写真が飾ってありました。観光パンフレットには、上記魚屋のオバサンが、カツオを抱えた、勇ましい姿で載っています。
このオバサンは名物オバサンで、テンポのよい会話をします。一っ尋ねると、二つ三つがポンポンと返ってきます。今日は窪川まで行くと話すと、「なんなら、店の二階があいているから泊まっていかないか」と、本気で勧めてくれました。「親切が止まらないのが土佐の女」なんだと言います。「はちきん」の面目躍如です。


昼食
魚屋さんの向かいに椅子と机が置いてあったので、そこで昼食をとらせてもらいました。
幸い七輪に炭火が熾きていたのでカツオをあぶり、カツオのタタキまがいで食べました。香りもよく、最高に美味しかった!
また鰯の刺身も最高でした。弱い魚を刺身で食べる!もっと食べたいと思いましたが、それを言えば「お接待ねだり」になってしまいます。ここは、あきらめました。
「久礼天」は、一枚を軽く焼いて食べ、残りはちらし寿司と一緒にして、持って行くことにしました。


コスモス畑
そえみみず遍路道へ向けて、長沢川沿いを遡って行きます。
コスモス畑が見事です。


道標 
長沢川に架かる澤ヶ谷橋です。道標が建ち、
  右(北方向)ほんみみず 至大野見村
  左 土佐往還 そえみみず遍路道
とあります。察するに「ほんみみず」は「本みみず」、「そえみみず」は「副みみず」なのでしょう。本-副二本の道があり、いずれの道も「みみず」の様にぬたくりながら、床鍋に至ります。ただし「副みみず」が土佐往還となっていますので、副の方が主要道だったようです。


登り口
そえみみず遍路道は、およそ4.5キロほどの尾根道です。
ここから、尾根筋に上がる急登が始まります。
ベンチがあったので休んでいると、大川橋で会った若い僧がやってきました。彼は私たちを覚えていて、「大川橋でお会いしましたね」と言って、ふたたび丁寧なお辞儀をして下さいました。
聞けば、曹洞宗の寺のご長男で、墨絵を描きながらゆっくり歩いているとのこと。宿は知り合いの寺に泊めてもらっている、といいます。

ご覧いただきまして、ありがとうございました。中途半端ですが、ここで今号は終わりです。
出来れば岩本寺までを書きたかったのですが、字数オーバーになってしまいました。
次号は添え蚯蚓遍路道を登るところから始まります。なお、当初は宿毛まで進む予定でいましたが、無理でした。四万十川までとさせてください。また更新予定は、23日と記していましたが、6月30日の間違いでした。

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