楽しく遍路

四国遍路のアルバム

65番三角寺 椿堂 66番雲辺寺 67番太興寺

2022-06-01 | 四国遍路

 
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お詫び
前号が61番香園寺で終ったのだから、当然、今号は62番宝寿寺からのはずですが、どうやら私はデータを管理する力に欠けているようです。どのようにしてだか、宝寿寺から三角寺までの写真を、またまた削除してしまったらしいのです。そこで、行程を追ってご覧くださっている方には誠に申し訳ないのですが、宝寿寺-三角寺間はやむおえずスキップ。今号は三角寺から始めさせていただきます。


羽田空港
平成19年(2007)1月23日、1年9ヶ月ぶりに四国遍路へ発ちます。
前回との間隔がひらいているのは、私の「都合」が悪かったためです。北さんは待ちかねてか、この間にお子さんを帯同。阿波路を歩いています。


愛車レッドアロー号
私の「都合」とは、次の様なことです。
平成17年(2005)夏、私は椎間板ヘルニアを発症。手術を受けました。リハビリ期間中には、中断していた家の改修を、やむをえず再開。予定していた娘の結婚式は、むろん予定通り挙式。ある程度の覚悟はしていながらも、どこかで先のことと思いたがっていた母の死も、受け入れなければなりませんでした。けっこういろいろの「都合」が、あったわけです。


富士山
ようやく四国を歩くことに踏み切れたのは、平成19年の正月、北さんに会ってからでした。北さんがサポート役を申し出てくれたばかりか、計画の大幅レベルダウンにも同意してくれました。
計画のレベルダウンとは、・・泊数を4泊とする。1日の歩行距離は20Kを越えない。場合によっては、乗り物の利用も可とする。・・といった具合で、健脚の北さんには、本当に申し訳ない内容でした。


高松空港着
四国、高松空港に降り立ちました。
厳しい練習を積んできたアスリートが、レース本番を前に発する言葉・・スタートラインに立てることがうれしい・・が、分かる気がしました。多くの人に支えられて、ようやくここまで漕ぎ着けてきたのです。ここに来るまでが、大仕事でした。
おかげさまで母の供養のまねごとも、することができそうです。


高松駅
高松駅から予讃線で、三角寺への登り口、川之江に向かいます。


連絡線うどん 
駅構内に「連絡船うどん」の店がありました。
宇高連絡船の船尾にあったうどん屋さんを知る人は、少なくなっています。四国を出るときは別れのうどんとして、帰るときはただいまのうどんとして、多くの人が食べたものでした。それは四国の玄関口通過の、儀礼のようでもありました。
後日のことになりますが、高瀬の宿で、このうどん屋さんを覚えている女将さんに出会いました。うれしくて、いきなり思い出話を始めてしまいました。


瀬戸内海
車中で、遍路装束に身をつつみました。
いつものことながら、奇異なものを見る目線がないことに、安堵します。


川之江駅
川之江で下車。北さんが気を使ってくれて、三角寺へはタクシーで上がります。いきなりの登りはきつかろう、ましてや明日は雲辺寺の登りが待っている、というわけです。椎間板ヘルニアも、間の悪いタイミングで発症してくれたものです。


土佐北街道
タクシーが土佐北街道を走っているとわかったときは、タクシー利用をちょっと後悔しました。北さんも口には出しませんでしたが、そう思っていたにちがいありません。
この残念な思いは、後年、何回かに分けてはらすことになります。平成24年(2012)の秋には、川之江の街をお大師さん信仰を探して歩き、その後、土佐北街道を経て、三角寺に登りました。→(H24秋)
 

梅錦の蔵
運転手さんが、梅錦の蔵です、と案内してくれました。私は思わず、止めて、と叫んでいました。私が叫ばないと、北さんは酒よりもコーヒーが好きな人ですから、叫ぶことはないのです。
梅錦は、司牡丹と並んで、私の好きな酒です。遍路中は、いずれかのワンカップをザックにしのばせていることが多いのです。味はもちろんですが、容器が紙カップなのも遍路向きで、いいですね。


三角寺口の分岐 
ここは「三角寺口」です。看板にあるように、三角寺は右方向です。
左方向は旧土佐北街道をベースにした道で、平山(後述)で三方向に分岐します。新宮方向、椿堂方向、また三角寺方向です。
この写真は平成25年、三角寺口から三角寺、三角寺から三角寺奥の院の仙龍寺、さらには新宮(後述)を歩いたときのものです。→(H25初夏1)


三角寺石段
三角寺駐車場に着きました。
この石段は、段差が高く、踏み面にはデコボコがあります。ちょっとイヤな気がしましたが、明日の雲辺寺の登りを考えれば、怯んでいる場合ではありません。杖と手すりに頼りながら、なんとか上りました。
なお、上には車椅子用のトイレがあったので、寺は、必要な人には迂回路を、用意しているようでした。


山門
1年9ヶ月ぶりの三角寺です。
あの時は、まだ桜が咲いていました。今治の泰山寺から相前後して歩いてきた浅草さんとのことや、タケノコ採りのおじさんグループとのことなどが、思い出されます。


桜の大枝
  是でこそ 登りかひあり 山桜   一茶
一茶が句に詠んだという、桜古木の大枝です。
前回、本堂の前に独り立つ淺草さんを見かけたのは、この大枝の下でした。きれいな姿勢でスッキリと立ち、微動だにせず何かを祈っておられた姿は、忘れられません。


三角の池
三角寺の寺名の由来となった三角形の池です。
四国遍礼名所図会に、・・此寺大師十一面の尊像を作り本尊とす。大師の三角の護摩壇有故に三角寺と号す・・とあります。ただし三角の護摩壇は、今は三角の池となり、中之島に弁財天が祀られています。


四季桜
三角寺の秋は紅葉で知られていますが、可憐に咲く四季桜を愛する人も、けっこう多いようです。


下り
前回、三角寺への登りを案内してくれたおじ(い)さん達は、私たちがお参りを終えるまで、どこか秘密の場所でタケノコ採りをしながら、待っていてくれたのでした。タケノコが何処で採れるかは、互いに秘密にしておきながら、遍路道の水場造りや道標建てなどでは、バッチリ協力し合うという、面白いおじ(い)さんグループでした。水場や道標などの写真を失ったのは、本当に残念です。ご覧に入れたかった。


椿堂へ
さて、時刻は12:30です。これより三角寺を発し、椿堂を経て、雲辺寺麓の宿に向かいます。なお、今号とほぼ同じコースで歩いた遍路に、→(R1初夏4) があります。よろしければ、どうぞ。


 
少しでも脚によかれと、 松葉を踏み歩きました。
一番心配なのは左膝ですが、これをかばいすぎると、他の部位に無理が生じかねません。できるだけ自然に(これが難しいのですが)歩くよう努めました。北さんには申し訳なかったのですが、痛みはなくても、こまめに立ち休みしました。


川之江の街部
「えひめの記憶」から一部引用させていただきます。・・ 昭和30年代後半から40年代半ば、我が国は有史以来の驚異的な経済成長を成しとげ、この短期間の工業化への突進は反面、公害の発生、環境破壊というマイナス面を引き起こした。本県でも東予新産業都市の中核である新居浜・西条を中心に、伊予三島・川之江、次いで松山と、開発優先に走った地域が大気・水質・騒音などの公害に見舞われた。
私はこの頃、三島、川之江をバスで走ったことがあります。車掌さんが窓を全部閉めるように言うので、不思議に思っていましたが、やがてわかりました。窓は閉めてあるにもかかわらず、腐ったような臭いが、車内に入ってきたのでした。


土佐街道
土佐街道の標識がありました。(前掲の)三角寺口で分岐した土佐北街道が、ここで遍路道と交差しています。写真手前を横に走っているのが遍路道で、写真奧から急坂を登ってきて、手前方向へさらに急坂を登ってゆくのが、土佐北街道です。
今は、この辺の土佐北街道は、ほとんど消えかかっていますが、此所は、かつては旅籠(島屋)や土佐藩の「お小屋」などがある、この地域の中心であったところです。


土佐街道
「土佐街道」の標識には、次の様に刻まれています。
  是より南 水ヶ峰 新宮村を経て高知に至る  北 川之江に至る
水ヶ峰は、弘法大師のお杖水で、水ヶ峰地蔵とも呼ばれるところです。
新宮村(現・四国中央市新宮町)は、愛媛県東端の町で、東は徳島県、南は高知県に、1000メートル級の山々で接しています。土佐北街道は、これら山々を越えて、高知に降りてゆくのです。より詳しくは、→(H24春8) をご覧ください。


休憩所
平山の「ゆらぎ休憩所」に着きました。「協力会地図」の「半田休憩所」に当たる所でしょう。近くには、前述の「平山バス停」の小屋もあります。
地域の中心は、現代は此所に移っています。前述のように、新宮-川之江を結ぶ道と、三角寺-雲辺寺を結ぶ遍路道が、此所で交差しています。


バス
新宮から三島駅に向かうバスです。平山バス停に停まり、もちろん三角寺口にも停まって、川之江から三島に向かいます。
この道は、伊予の土佐北街道をほぼなぞる道ですが、掘切トンネルを抜けるところが、根本的に旧道とは違います。


スプレー
密教法具の三鈷杵(さんこしょ)をモチーフにしたもので、歩き遍路のための道標として、吹き付けたのでしょう。前回までは見られなかった新しいタイプです。
ただし私たちは、これを「道標」とは認めませんでした。私たちの感性では、これは落書きの類です。遍路道標は小さくて目立たず(地元民の邪魔にならず)、なにより原状回復が容易であることが大切です。


白鳩
真っ白の鳩を育てている人がいました。
聞けば、鳩の「白」を維持するためには、中に、「黒」を1羽まじえておく必要がある、とおっしゃいます。白鳩だけで飼っていると、「白」が不安定になり、やがて「灰」になってしまうのだそうです。なにやら示唆的でした。



切り干し大根をつくっているおばあさんがいました。「凍る晩」に大根を煮て、寒風にさらすと、「砂糖もいらん」ほど甘くなるといいます。ただし近年、「凍る晩」が少なくなったともいいます。
実をつけたままの柿の木が目についたので尋ねると、「若いモンがおらんで、もげん」のだそうでした。「私ら年寄りには危のーて」といいます。「三チャン農業」は’60年代初頭に生まれた、農村の危機を表す言葉ですが、今や「三チャン」なら、まだ御の字という事態となっています。


棚田
惹かれる景色です。
なぜ惹かれるのか?
もしかすると私は、この景色の中にある曲線を好いているのかもしれません。私は、直線で構成された景色は、あまり好きになれないようなのです。


椿堂
足摺岬の大雨で納経帳をぬらしてしまった私は、その後、納経所に行く度に、気詰まりな思いをしてきました。時に、咎められたりもしたからです。
しかし椿堂の納経所では、ちょっと癒やされました。納経帳を一枚一枚、ゆっくりとめくりながら、・・大変な目に遭われましたね。ご苦労様です。・・と、声をかけて下さったのです。


句碑
椿堂(常福寺)の句碑です。
  境内に お杖椿や 南無大師
病に苦しむ村人を見た弘法大師は、地面にお杖を立てて、そこに病を封じ込めてくださいました。
その後、大師のお杖は地に根づき、椿の花を咲かせはじめたと言います。・・この椿が、句に言う「お杖椿」です。


おさわり大師
病を癒やしてくださるお大師さんです。右手をお大師さんに掛け、左手で自分の患部をさわりながら、快癒をお願いします。
もちろん私も、お願いしました。そろそろ左膝が痛み始めていたからです。
なお、大師像のうしろに太い幹の木が見えますが、これが、お杖椿です。


福の神
これは「福の神」だそうです。情のもつれ、身体の障りを打ち消し、良縁、子宝拝受の御利益があるといいます。
たまたま居合わせた女性の二人連れが、そっとアブチャンをめくっていました。そして見ている私たちに気づいてニッコリ。


境目トンネル
私たちの通常の歩き方だと、境目峠を越えるのですが、今回はトンネルを抜けます。伊予と讃岐の境目の、その名も境目トンネルです。
歩道は、メモによると、両側についており、幅80センチ(実質70センチ)、車道との段差30センチだそうです。この頃、私たちは巻き尺を携帯していましたから、計測したのだと思います。トンネルの長さは855メートル。


出口
12分かけてトンネルを抜けました。迫ってくる音、巻き上がる風、・・何回歩いても、トンネルは恐いです。加えて左膝も痛んできたし・・。
そんなわけで、トンネル内のどこかに在るはずの県境標識は、それどころではなく、見つかりませんでした。この写真は県境標識代わりに、交通標識を写したものです。トンネルを抜けると徳島県だった、というわけです。


トンネルの煤
怖くて壁側に寄ったのでしょう。白衣の袖がススで汚れてしまいました。
下手に触れば汚れがひろがり、手が着けられなくなってしまいます。一切触らずに宿までゆき、掃除機を借りて吸い取ることにしました。(これはいい方法で、ほとんどがとれました)。


佐野小学校
ヨタヨタ歩いていると、佐野小学校(池田町立)の生徒が、「ガンバッテ」と声をかけてくれました。私の膝は、歩いては止まりの状態になっていたのです。
なお佐野小学校は、これより7年後、平成26年(2014)に廃校となります。


宿
雲辺寺麓の宿に着きました。
同宿は、大坂と和歌山の歩きの方、大坂のバイクで廻っている方、そして私たちです。これに、ご主人、若奥さんが入って、楽しい夕食となりました。

二日目(平成19年1月24日)

雲辺寺の在る辺り
詳細な地図と、お接待のおにぎりをいただいて出発。左膝は、ゆっくり休んだせいか、今のところ温和しくしてくれています。
目指す雲辺寺は、尾根筋に並ぶ一番右の鉄塔から、林道を3キロばかり歩いたところで、ここからは見えないそうです。


雲辺寺登山口へ
ずいぶん歩いて振り返ると、ご主人が、まだ見送っていてくれました。手を振ってくれています。他の人たちにも声をかけ、皆で、礼をして謝しました。
すれ違う小学生や旗当番の人から、朝の挨拶をいただきました。こちらからも返します。静かな田舎の、朝の賑わいです。


登山口
これからが登りです。奥に見えるのは徳島自動車道です。
膝は大丈夫か、心配しながら登り始めると、宿から一緒に歩いてきた大阪の方が、「私は後からまいります」と言って、柔軟体操を始めました。登り始めには身体をほぐす、が習慣になっているそうでした。
膝を案じながら、それでもダラダラと登り始める私とは、エライ違いです。当然のように私は、やがて後発のこの方に追い抜かれます。


上から自動車道
徳島自動車道です。
高速道路を上から見ることは、めったにないことです。


マナー  
すこし登ると空き地があり、山の神かなにかを祀る小祠が、置かれています。
驚いたのは、立て札の文句です。・・この辺での大便はご遠慮ください・・と記されています。きっとお遍路さんの仕業でしょう。
このバチ当たりめが。遍路道でトイレが不備なのは、わからないではないが、それでももっと場を選べよ。せめて埋めるくらいのことはしておけよ。


追いつかれる
大阪の方が追いついてきました。手前は北さん。
彼は、しっかりと歩き、しっかりと見、しっかりと記憶する、堅実な遍路でした。「鼠面積み」の説明も、「ジャンプ」の値段表も、素通りせず、きちんと読んでいました。定年退職し、今は週一日、働いているとのこと。このあと丸亀まで歩き、一度帰って仕事をし、また歩くのだといいます。菅笠は、土佐国分寺側でかったとのこと。後に北さんも同じのを買いました。なお「ジャンプ」とは、素泊まりバス(当時一人3000円、相部屋2000円)のオーナーが経営している食堂。


鉄塔
下から眺めた鉄塔がこれです。1時間15分ほどかけて、標高650㍍ほどの尾根にでてきました。話では、急坂はほぼ終わったとのことですが、雲辺寺の標高は1000㍍弱です。まだ300㍍ほどの高度を、3キロほどの距離で稼がねばなりません。
なお、この尾根筋は、徳島・香川の県境になっており、雲辺寺も、県境にまたがる寺です。行政上は徳島県三好市池田町に属しながら、88カ所巡りでは、讃岐の一番札所とされています。


パラボラ
雲辺寺近くのパラボラアンテナが見えてきました。
うれしいことに、膝の痛みは、不思議と消えています。問題は下りでしょう。慎重に行きます。


山々
池田町には白地(はくち)という地名があります。その名が、・・孫子の兵法にいう「衢地(くち)」に由来するのではないか、・・と言われる土地です。
「衢地」とは四方八達の交通の要衝をいいますが、なるほど白地は、(トンネルなどがない時代には)四国で唯一、土佐、讃岐、阿波、伊予のいずれにも通じる土地でした。かつては「四国の辻」と呼ばれていたともいいますから、白地の衢地由来説は、すくなくとも単なる語呂合わせレベルの話ではありません。それかあらぬか長宗我部元親は、白地城をもって、四国制覇の拠点としています。


雲辺寺
白地城に居を定めた元親が、天正5年(1577)の春、四国高野なる雲辺寺に登り、時の住職・俊崇に、四国平定の野望を語った話が伝わっています。
その時の、俊崇の応えは、次の様であったと言います。
・・貴殿が四国平定など、茶釜の蓋で水桶に蓋するようなもの・・つまり、貴殿はその器に非ず、お止めなされ、ということなのでしょう。



しかし俊崇の真意は元親には届かず、元親は、こう応えたといいます。
・・ほどなく四国一円を、七つ方喰(かたばみ・長宗我部の旗印)で埋めてご覧に入れましょう。
つまり元親は、武力の誇示をもって応えたわけですが、これを元親の器の小ささの証ととるか、鬼国の小領主の出ながら、中央をもうかがわんとする、元親の気概ととるか、おそらく意見の分かれるところでしょう。


道標
  三角寺21.4キロ 雲辺寺2.0キロ 
昨日から21.4キロ、歩いたわけです。


山門
66番札所 巨鼇山 (きょごうざん)雲辺寺の山門です。 
ただし、この山門は、今はありません。新山門が別の場所に新築されています。たぶんロープウエイの開通で、雲辺寺内での人の導線が変わったのだと思います。旧山門が取り壊されたのか、どこかに移築されているのかは、わかりません。


雲辺寺
寒い。とにかく寒かったです。昨年末に降った雪が、山積みされて、溶け残っていました。トイレは凍結していて使えないそうで、ケーブルのトイレを使うように、とありました。
宿で一緒だった人たちは、もうとっくに行ってしまったのでしょう。境内には誰もいません。


おたのみなす
お寺さんも、いろいろ工夫するものです。


五百羅漢
五百羅漢が、般涅槃(はつねはん・完全なる涅槃)に入ろうとする釈尊を取り囲んでいます。→(R1初夏5)


上から見た景色
展望台があるというので、登ってみました。天気がよければ、石鎚山や今治までが見えるそうですが、残念、今日は遠景は、寺名の通り雲の中でした。
この写真は麓の写真ですが、はたして何処を写したものでしょう。メモには観音寺方面と記してあるのですが、地図と照合しても、合致しませんでした。


上から見た景色
上掲記事をご覧くださった天恢さんから、こんな写真が送られてきました。溜め池の形状や道路の走り方から、私とほぼ同じ所を撮った写真と分かりますが、幸い天恢さんの写真には、奧の中央よりやや右寄りに七宝連山、やや左寄りに小さな、三角おにぎりのような江甫草山(つくも山)、その左に68番69番のある琴弾山が写っています。
天恢さん、ありがとうございました。おかげさまで、上掲写真がメモの通り、観音寺方向を写したものであったと判明いたしました。


県境
雲辺寺境内には県境標識がいくつかありますが、これもそのひとつです。標高1000㍍とあります。


三位一体のご霊木
雲辺寺のご霊木です。一本の樹が、カシとカエデとハンノ木で成っています。
太い幹部がツクバネガシ。上の左の枝がウリハタカエデ。右がタニガワハンノ木だとのこと。


スキー場
まさかスキー場があるとは知りませんでした。昨年末の雪を根雪にして、その上を人工雪で固めてあるそうです。さすがにコースは短くて、300㍍とのこと。スキーヤーはおらず、ボーダーばかりでした。
因みに料金(当時)は、入場料1000円、リフト一日券1000円、ケーブル代2000円、計4000円で1日遊ぶことができるとのことでした。


涅槃の道場へ
  讃岐の国 香川県 最後の一国 涅槃の道場
膝の状態は、かならずしも良いとは言えませんでした。歩き始めは痛むが、我慢しているうち慣れて(麻痺して)くる、といった状態で、先行き不安はぬぐえませんでした。
ただ不思議だったのは、そんな不安を余所に、もっともっと歩いていたいとの思いが、消しがたく湧いてくることでした。「最後の一国」に入り、旅の終わりを惜しんでいたのだと思います。「さみしさ」にも似た感情の中、私たちはいつしか、一歩一歩を大切に、踏みしめながら歩いていたのでした。それは初めて経験する、感情の動きでした。


下り道
下りの道は、それはよく整備されていました。適当な間隔で横木が埋めてあり、所々、二本の横木で排水路をつくっています。おかげで路の真ん中がえぐられたりしておらず、とても歩きやすい路になっていました。
ちょっと気がかりだったのは、里に近づくにつれ、松枯れが目立ってきたことでした。松食い虫でしょうか。チェーンソーで短く切ってありますが、その意図は分かりませんでした。


供養塔
六十六部中供養塔がありました。建立した方の出身が、武州妻沼邑(めぬま・むら)とのこと。
妻沼は、私の居住地・埼玉の地名で、私もまんざら知らない土地ではありません。こんなところで妻沼の人に会うなんて、何やら近所の友達に会ったような気分がしたものでした。


林道へ  
なんとか林道にたどり着きました。林道直前の下りは急でしたが、ゆっくりゆっくり降りました。膝はまだ大丈夫のようです。
しかし、まだ終わりではありません。道標は、雲辺寺から4.5キロ、逆瀬池まで3.1キロ、次なる札所・太興寺までは、まだ5.1キロもあること を示しています。



「民宿青空」の前を通過しました。ここに泊まった東京の歩き遍路と、明日の宿を一緒にすることになるとは、この時点で私たちは、まだ知りません。彼は健脚の人で、この日の朝、三島を発ち、三角寺-雲辺寺を越えて、この宿に泊まったのだといいます。


雲辺寺のお山  
雲辺寺の展望台で、「下が見えるということは、下からも上が見えるんだよな」「下に降りたら、ここを探して写真に撮ろう」というような会話を交わしました。
この写真が、その、下から撮った、上の写真です。雲辺寺の山号・巨鼇山 (きょごうざん)の「巨鼇」は、仙山を背負う大海亀をいうそうですから、このお山は、大海亀に背負われて、ここまでやって来たのかもしれません。



畑仕事の奥さんから、野宿遍路に宿のお接待をしたら「ひどい目に遭った」話を聞きました。
奥さんは、ご主人が営んでいる山小屋を宿として、ある野宿遍路に提供したのだそうです。布団や食べ物を車で運び、誠心誠意お接待したと言います。
ところが、彼が立ち去った2日後、彼は、ある事件の容疑者として、警察に逮捕されてしまいます。彼は全国指名手配された、ある事件の被疑者だったのです。12年間も逃亡し、そのうち後の6年は、遍路として四国を廻っていました。


破れ蓮
逮捕後、奥さんは逃亡者の隠匿を疑われ、逃走幇助の中傷を受けました。「ひどい目」に遭ったわけです。
しかし奥さんは言います。・・びっくりしました。だけど、すくなくとも、あの時の、あの人は、悪い人ではなかったですよ。むしろ立派な人でした。あの人が何をしたか(しなかったか)、私は知りません。でも、あの時のあの人が悪い人でなかったことは。今でも私は信じています。だって、人は信じられんもんじゃ、では、悲しすぎません?


道標
  右 古まつをじ (小松尾寺)
  すぐ 古んぴら道 (金毘羅道)
  左 く王んおんじ (観音寺)
大興寺は、かつては小松尾寺の呼称の方が、一般的だったそうです。「すぐ」は直進(まっすぐ)を意味します。


太興寺
ようやく67番太興寺に着きました。脇門から入ることもできましたが、やはり坂を下って、正門から入りました。この辺、私たちは、けっこう律儀なのです。


修理中
この時期、弘法大師堂は改修中でした。そのため天台大師堂で兼拝するという、珍しい経験をしました。
弘法大師堂と天台大師堂を併せ持つ、大興寺ならではの荒技です。


民宿おおひら
この日の宿は「民宿おおひら」さんです。大興寺のすぐ側にあります。
昨晩同宿だった和歌山さんが先着していました。萩原寺を廻ってきたと言います。アキレス腱の手術跡が靴にあたり、苦労していたのに、たいしたものです。彼は他にも、頸椎などに故障があるといいます。大阪さんは、たぶん観音寺まで脚をのばしたでしょう。
なお「民宿おおひら」さんは、令和3年(2021)1月、閉店されました。長い間、ありがとうございました。

さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。一週間更新を延期し、ようやく仕上げることができました。しかし、アップロードの時点では、まだ充分な校正も出来ていません。これから少しずつ、手直しするつもりです。
次号は、ガンバリます。更新予定は、6月29日です。

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コメント (2)
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