楽しく遍路

四国遍路のアルバム

二巡目の阿波路 (1) 霊山寺 大麻比古神社 極楽寺 金泉寺 愛染院 大日寺 地蔵寺  

2019-05-01 | 四国遍路

 
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機内より富士山
令和の初日早々ですが、すみません。実は春遍路がまだ歩けておりません。
そうとう旧聞に属しますが、平成20(2008)10月21日から始まった二巡目の阿波路を、「古い遍路アルバム」からリライトして、ご覧いただこうと思います。
もう10年も前のこととて、すでに消えてしまった景色などが含まれていると思いますが、それはまたそれで、懐かしく楽しんでいただければ幸いです。


シャトルバスで徳島駅へ
なお、今号で記すエリアについては、下記でもふれています。よろしければご覧ください。
  H13冬 初めての遍路 ② 大麻比古神社 1番霊山寺・・・5番地蔵寺
  H23秋 1番霊山寺 十輪寺 東林院 長谷寺 岡崎(撫養港)
  H25 秋 その5 大坂峠 卯辰峠 大麻山 大麻比古神社
  H26春 その1 東林院から別格1番大山寺へ


徳島駅から鳴門行き
さて、二巡目ですが、・・
当初、二巡目は、単独で歩き始めるつもりでした。この頃、一巡目を共に歩いた北さんには家を空けにくい事情があって、誘いにくかったからです。黙って出かけて、四国から電話するつもりでした。


車窓から 吉野川
ところが出発の前日、たまたま北さんから電話がかかってきてしまいました。
仕方なく、実は明朝出かけると話したところ、一呼吸置いた後の反応は、・・そう、なら俺も行く、・・でした。


車窓から 破れ蓮
しばらくして北さんから再び電話があり、夜行バスの席が取れたとのことで、徳島駅で落ち合うこととなりました。
十年一昔とはいいますが、あの頃、私たちは、今からは信じられないほど、身軽だったんですねえ。あのフットワーク、この十年で失いましたねえ。


池谷(いけのたに)駅
前掲写真のように、私たちが乗ったのは鳴門線の電車でした。
実はこの10分後に、板東まで乗換なしで行ける便があったのですが、北さんの提案で、あえて鳴門線に乗ったのでした。


池谷駅
鳴門線で池谷駅までゆき、池谷駅で後発電車に乗り換える、その心は、・・乗り換え時間を楽しむ・・でした。
帰宅後、私は友人へのメールに、・・10分にも満たない時間でしたが、四国の風が身体を吹き抜けました。・・と書き送っています。


板東駅
板東駅は、一番霊山寺下車駅です。
大正12(1923)、徳島-板東間は鉄道でつながり、以来、近畿圏から来る遍路の多くは、まず徳島に上陸し、それから鉄道で、一番霊山寺下車駅・板東にやって来るようになりました。


歩き遍路の里
かつては、近畿からの遍路はたいてい、撫養(岡崎)に上陸し、撫養街道を歩いて一番にやって来ました。
一番までの撫養街道沿いには、(今は閑散としていますが)長谷寺(ちょうこく寺)、東林院(種蒔大師)、十輪寺(談義所・第一番前札所)など、遍路達が立ち寄ったに違いない寺社がいくつも並んでいます。


映画ポスター
バルトの楽園は、第一次世界大戦中の、板東俘虜収容所を舞台とする映画で、ドイツ人捕虜と日本軍人、地元民の交流を描いています。H.18(2006)、公開されました。(後述)


松山のロシア人墓地
奇しくもといいましょうか、今春(2019)、同じ四国の松山捕虜収容所を舞台とする映画が、公開されています。「松山捕虜収容所外伝-ソローキンの見た桜」です。
日露戦争中、松山には4000名(6000名とも)を越えるロシア兵捕虜が収容されていたとされ、そのうち98名が死亡しています。没年はすべて明治37年、38年です。38年以降、帰還が始まったからです。


気楽座
平成19(2007)、天恢さんが撮った写真です。
かつて板東駅から霊山寺への途中に、映画館がありました。初期ルネサンスのファザードを模したような構えが、いかにも昭和っぽい雰囲気を見せています。
撮影時点ではすでに閉館となっていますが、翌年、平成20に私が歩いた時には、取り壊されていました。


一番霊山寺
一番霊山寺門前です。
一巡目の霊山寺で感じていた不安や戸惑いを思いだし、それらを感じていない今の自分に、逆に不安を感じました。
遍路として少々スレてきたようで、いかにも勝手知ったる風に、私たちは山門をくぐっていました。



こんな遊びをしていました。
北さんと私のお杖を、マネキンさんのお杖に並べて写しています。一巡するうちに北さんは24センチ、私は22センチ減っていたようです。
北さん曰く : 俺の方が2センチ分、修行が進んでいる。


境内
独特のにぎわいをみせる1番霊山寺です。遍路の他に、観光客が多いのが特徴でしょうか。近所の人が子供を遊ばせていたりもするようです。
観光客に多く出会うのは、霊山寺の他に、阿波では23番薬王寺、土佐では31番竹林寺、38番金剛福寺、伊予では51番石手寺、讃岐では75番善通寺や84番屋島寺などでしょうか。


原爆の火
福岡県の方が原爆投下直後の広島に入り、肉親の形見として、「原爆の火」を持ち帰ったのだそうです。
肉親を焼いたその火が一番札所に移され、今もなお燃えつづけています。火は、核兵器廃絶の日まで、消えることはないといいます。


境内風景
平和な風景ですが私たちは数日後、今なお厳しく「戦後」を生きている方に出会いました。平等寺の宿でのことです。
福岡の方同様、この方も原爆直後の広島に入り、二次被曝しました。しかし被曝者差別を怖れ、・・自分はいいよ、けど子供まで差別されてはねえ・・、被爆者であることを、世間ばかりか家族にまで隠してきたそうです。むろん被爆者手帳も持っていません。
「もはや戦後ではない」(昭和31年度の経済白書の結語)を聞いたとき、自分は今この時、最終的に棄てられた、と感じたそうです。


大麻比古神社大鳥居
霊山寺奥の院であり、阿波一宮でもある、大麻比古神社の鳥居です。
鳥居奥に見える山が、大麻比古神社の奥の院である、大麻山です。上記の H25 秋 その5 をご参照ください。


灯籠参道
長い参道が残っています。石灯籠が並んでいますが、かつては松の並木だったそうです。



朽ちた松の根株があり、そこから新しい松が育っていました。
松は、1970年代に四国で大発生したという松食い虫で、枯死したのかもしれません。



神木の大楠は樹齢千年といいます。
一巡目では、ここで記念写真を撮りました。浜田省吾の追っかけさんが一緒でした。北さんも私も、ハマダショウゴ who? だった(である)のですが。


熨斗口
熨斗口(のしぐち)です。東日本では御神酒口(おみきぐち)ということが多いそうです。
下部を御神酒瓶の口に挿し、飾り徳利にします。したがって、写真には一個しか写っていませんが、対で一組となります。御神酒徳利です。
ボランティアの方が作られ、自由にお持ちくださいと置いてありました。材質は桧です。


こま犬
ニィっと笑っているような顔がなんとも可愛らしく、写しました。


本殿
祭神は、大麻比古神=別名・天太玉命(あめのふとだま命)と猿田彦命です。
天太玉命は、阿波に麻を伝えたとされる殖産神・天富命(あめのとみ命)の太祖とされています。天富命の守護として、太祖・天太玉命を祀ったのが、大麻比古神社であるといいます。


奥殿
また天太玉命は、岩戸から天照大神を出すため、玉串をつくった神でもあり、瓊々杵命の降臨に当たっては、これに随伴しています。地上では忌部氏の遠祖となります。忌部氏が麻植郡(おえ郡)を支配したについては、H26春 その3  をご覧ください。


眼鏡橋
大正6(1917)から9年にかけて、板東俘虜収容所で過ごしたドイツ兵は約1000名。中国青島(チンタオ)での戦いで捕虜になった人たちでした。
説明板によると、・・故国を偲びつつ当神域を散策。「心願の鏡池」(後の命名)を掘り、それに眼鏡橋や独逸橋を架けた・・とのことです。


独逸橋
ドイツ橋と呼ばれています。



板東俘虜収容所のドイツ兵達による、日本初の「第九」演奏はよく知られていますが、同じく青島で捕虜となり、習志野俘虜収容所に収容された人たちの、オーケストラ演奏を含む広範な文化活動もまた、よく今日にまで伝わっています。


二番極楽寺
 ご詠歌 : 極楽の弥陀の浄土へ行きたくば 南無阿弥陀仏口ぐせにせよ
わかりやすいご詠歌です。もちろん極楽寺のご本尊は阿弥陀如来。
阿弥陀如来は、あらゆる苦しみや災いのない安楽な世界=極楽浄土を完成し、阿弥陀如来の名を唱えるものは誰もが、この世界に生まれ変わることが出来る、としました。


本堂 大師堂へ
人たちは皆、南無阿弥陀仏を唱えながら、一段一段、上がります。
上がった所に、本堂と大師堂があります。


長命杉
弘法大師お手植えと伝わる、長命杉です。一見して生命力が伝わってきます。


納経所
納経所が混むことがあります。特に団体バスなどと一緒になると、個人遍路はうんと待たされることがあります。
金泉寺は納経所を、団体用と個人用に分けてくれました。納経所を分けているのは、こちらさんだけですか?と尋ねると、そのようです、とのことでした。
最近はあまり耳にしませんが、当時は、納経所へのクレームをよく聞いたものでした。



二番で中野君という青年と出会いました。21才だそうでした。
三番まで一緒に歩いてきたのですが、食べ物がつまった袋をさげています。
ずいぶん買い込んでしまったね、というと、・・野宿で回るという僕を心配して、母が持ってけというもんで、・・早く食べちゃいますよ・・と、ちょっと気恥ずかしそうにいいました。中野君は、お母さん思いの、心優しい若者のようです。


軍人墓地
中野君を墓地に誘いました。
・・「軍人」て何ですか・・、などと言いながら、でも嫌がらずついてきてくれました。彼には、こういうことをも遍路の一部として受け入れる「キャパシティー」があるようでした。見られるものは、できるだけ見ながら歩いてください、と言うと、はい、そうします、と応えてくれました。(大寺地区と昭和28年については後述)。



・・後日譚です。数日後、建治寺で中野君と再開しました。この間で中野君は、すっかりたくましく変貌し、もう食べ物袋は下げていません。勧めてくれる人がいて、神仏習合を見に来ました、と話してくれました。うれしい再会でした。
・・もう一つ、後日譚です。私たちが東洋大師に着いたときのことです。もしや中野君が通夜堂をお借りしたのではないかと、住職さんに尋ねてみると、あゝ、あの子ね、でもそれは一昨日のことですよ。ずいぶん遅く着いて、翌朝、早くに出て行きました、とのことでした。
もう2日も先行しているのでした。子に巣立たれてしまった親の気分かねえ、・・子じゃないよ、孫だよ。・・北さんとそんな話をしたのでした。


金泉寺仁王門
金泉寺は、前掲・軍人墓地の碑にある、「大寺地区」に在ります。金泉寺という大寺があるので、この辺は大寺(おおてら)と呼ばれるようです。
なお、同碑に「昭和二十八年八月建立」とありますが、この建立時期はおそらく、戦後いったん廃止されていた軍人恩給が、昭和28(1953)8月、復活したこととかかわるでしょう。


三番金泉寺本堂
写真を撮り忘れましたが、金泉寺には、「長寿をもたらす黄金井戸」があります。水不足に苦しむ住民のため、弘法大師が掘られたと伝わり、覗いて水面に自分の顔が映っていると、長寿がもたらされるのだそうです。
寺名・金泉寺は、この井戸に由来するのでしょう。


岡上神社
岡上神社と、ご神木・「岡の宮の大楠」です。
岡上神社の読みは、おかのうえ神社ですが、本来は「おかのかみ(神)神社」であったともいわれています。「おか」は「うか」(穀物や食べ物)に通じ、「うけ」と同義です。すなわち「おかの神」は、食べ物の神様です。それかあらぬか、岡上神社の祭神は、豊受大御神(とようけ大神)、豊かな食べ物を保証してくださる神様です。


岡の宮の大楠
大楠は、幹が三つに分かれていますが、根は一つなのだといいます。根回り24.5M。
大麻比古神社の大楠といい、二番極楽寺の長命杉といい、このような巨木が当たり前のように見られる四国に、私たちは大いに感動していました。この先、四番には泰山木、五番には大銀杏があります。



一番から二番までが約1.2キロ、二番から三番は2.5キロ。軽々と歩くことが出来る距離でした。
ところが三番から四番は、これまでの倍の、約5キロあります。足弱には、歩き始めたばかりでもあり、長く感じられる距離でした。


愛染院
愛染院には、板西城主の赤澤信濃守崇伝の墓があります。戦国時代の武将で、天正10(1582)、長宗我部元親の進攻にあい、討ち死にしました。


草履
赤澤信濃守の墓にお参りすると、「腰から下の病は、なんでも治してくださる」とのことで、多くの信者がお参りしているそうです。写真は、おかげさまで治癒した信者が奉納した草鞋です。
信濃守の討ち死は、合戦中、草鞋の紐が切れたためだと伝わっています。草履で窮地に陥った信濃守に、草履を奉納し、霊を慰めるというのでしょう。


番犬?
人を信頼しきってします。どう育てたら、こうなるのでしょう。住職さんのお人柄がしのばれます。
ただし人は、育てたいようには育ちません。かといって、育てることを止めれば、これまた育ちませんから、ことは面倒です。優しく育ってしまうと、いじめられたりするので、優しい心もほどほどでなければなりません。育てる側だけでなく、育つ方も大変です。


岩田ツヤ子の碑
  岩田ツヤ子  明治39(1906)- 平成9(1997)
・・第二次世界大戦中、国の方策に依り、藍作りは食糧増産の為、禁止作物となった。
藍は一年草の為、毎年種を採り続けないと、途絶えてしまう。叔父 佐藤平助の依頼を受け、憲兵警察の目を逃れ、命がけでこの地において5・6年間、種を採り続けた。
捨て身の努力で守られた藍種に依り、戦後一早く佐藤家で藍作りが復活した。」
  平成13年11月 施主 日本藍染文化協会会長 佐藤昭人



日も傾いてくるなか、黒谷を上がります。
この沢筋は黒谷と呼ばれ、大日寺もかつては地元の人たちから、黒谷寺とも呼ばれていたそうです。


四番大日寺鐘楼門
寺名が示すように、ご本尊は大日如来です。
黒谷で修行されていた弘法大師が大日如来を感得。そのお姿を55センチほどの像に刻まれたといいます。これを本尊として創められたのが、四番大日寺だといいます。


本堂へ
特徴的な回廊には、33体の木造観世音菩薩像が安置されています。これは西国三十三箇所霊場の写し霊場になっています。


五番地蔵寺奥の院
四番から降りてきて、五番地蔵寺の奥の院に着きました。本寺より先に奥の院にお参りすることになりました。
五百羅漢でよく知られる奥の院は、地元民からは「羅漢さん」の名で呼ばれ、また周辺地域も、羅漢さんが在ることから、「羅漢」の地名でよばれています。
ズラリと並ぶ等身大木造羅漢像は、(数は200体ほどに減っているとはいうものの)見ものです。


地蔵寺へ下る
羅漢さんから、地蔵寺へ降りてゆきます。屋根は地蔵寺の屋根です。
晴れていれば、その先には上坂町の町並みが見え、その奥には吉野川が、さらにその奥には、明日、登る焼山寺に連なる山々が見えるはずです。


地蔵寺本堂
ご本尊は寺名が示す通り地蔵菩薩ですが、2尺7寸大(約80cm)の延命地蔵菩薩と、その胎内に納められた、一寸8分(約5.5cm)大の勝軍(しょうぐん)地蔵菩薩です。
勝軍地蔵は甲冑を身にまとった地蔵菩薩です。地蔵寺のものは騎乗姿で、弘法大師が御自ら刻まれたと伝わるそうです。坂上田村麻呂が東征にあたって、戦勝祈願して作ったのが始まりともいわれ、戦国の武将たちから篤く信仰されていました。


地蔵寺山門
「延命」と「勝軍」地蔵尊が本尊とあっては、武将達が放っておくはずはありません。HPによると、・・源頼朝、義経をはじめ、蜂須賀家などの武将たちが多くの寄進をしている。これらの寄進により寺領は拡大し、阿波、讃岐、伊予の3ヶ国におよそ300を数える末寺ができ、塔頭も26寺にのぼったと伝えられる。・・とのことです。
18番恩山寺近く、阿波勝浦に上陸した義経軍は、遍路道でもある「あずり峠」を越え、また「大坂越え」をして、屋島に向かったようです。三番金泉寺にも、義経が立ち寄り戦勝祈願したとの伝承が残っているので、地蔵寺も、素通りはしていないでしょう。


たらちね銀杏
境内にある大銀杏は大師手植えの銀杏と伝えられ、「たらちね銀杏」と呼ばれるそうです。その名は、銀杏大樹によく見られる、乳根(ちちね)から来ていると思われます。
ただし、この銀杏に乳根はあまり見られませんでした。樹齢も800年を超えるといいますが、さて、どうでしょうか。上掲写真でも見られるように、よい樹相の樹であるのは、まちがいありませんが・・。


参道
矍鑠としたおばあさんと、その息子さんらしい付き添いの男性に出会いました。
おばあさんのしっかりした歩きぶりを見て北さんが、おいくつですかと尋ねると、88才とのことでした。奇しくも北さんのお母さんと同年だとわかり、話がはずみました。
お二人は松江からみえ、車で回っているそうで、聞けば今夜の宿は一緒です。これは楽しい夕食となりそうです。


宿にて
同宿は6人。先ほどの松江さんお二人、バイクで廻る小豆島の青年、中央アジアを旅したという男性歩き遍路、そして私たちです。
いずれもが遍路道の他にも旅経験があり、そこで得た見聞の交換は、休む間もなくつづきました。中でも驚いたのは、88才のお母さんが、ちゃんと話についてきたことです。シルクロードはね、・・スーダンはね・・などと割って入り、たじたじだったのを覚えています。
北さんは自分のお母さん手製の物入れを、記念にと松江さんに差し上げました。



二巡目の2日目は、吉野川を越えて藤井寺まで、およそ27Kほどを歩きます。札所が多いことに加えて、善入寺島など見所も多く、はたして明るい内に着けるでしょうか。その顛末は、いずれまた。

次回更新は5月29日の予定です。私の春遍路は早くても連休後となるでしょうから、内容はおそらく、二巡目阿波路の続編になると思います。早く新しい遍路を歩けるといいのですが。

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2 コメント

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♪気楽に行こうよ おれたちは 仕事もなければ 金もない~ (天恢)
2019-05-04 16:23:55
 時代は「平成」から「令和」に遷り変わりました。 10連休も終わりに近づきましたが、この10連休は「誰がために」あるのでしょうか? 365連休の年金生活者でも、金融機関、医療機関などさまざまな社会生活が停止することで、日々の生活にいろんな影響があります。 一日も早く日常生活が戻ることを願っています。

 さて、今回は10年一昔にさかのぼって、平成20年秋の「二巡目の阿波路 ① 霊山寺~地蔵寺」のリライト版ですが、今だからこそ書ける部分が随所にみられて、楽しく読ませていただきました。 遍路はどこから打ち始めてもよいのですが、誰にでも初めての遍路にはいろんな思い入れがあるはずです。 天恢も遍路を続けて今年で13年目になりますが、80歳になって、もし許されることならば、新たな発心で一番札所から遍路を始められたらと夢みています。

 さてさて、今回のタイトル『気楽に行こうよ おれたちは 仕事もなければ 金もない~』ですが、1971年に放映された石油会社のCMで歌われたマイク真木作詞・作曲の「すずきひろみつの気楽に行こう 」です。 世の中、何もかもが「のんびり」の真逆で「せっかち」な時代でしたが、それ故に大ヒットしました。 『なんとかなるぜ 世の中は 気楽に行こう 気楽に行こう ・・・のんびり生きよう おれたちは あせってみたって 同じこと・・・』 と、続きます。  この懐かしいCMソングを蘇らせたものは、「楽しく遍路」さんと北さんとの友情でした。 まさしく『十年一昔とはいいますが、あの頃、私たちは、今からは信じられないほど、身軽だったんですねえ』と、つながります。 それにしても、このCMの『仕事もなければ 金もない』のところは、私たち年金生活者と妙に符合しています。

 天恢も13年前に初めての遍路で板東駅に降り立ちました。 さあ、これから遍路が始まると思うと、身を引き締め霊山寺に向かって歩いて行くと、街中に廃墟に近い建物が現れて、中央上部にある「KIRAKUZA」という文字で、かろうじて昔は「気楽座」という映画館だったと教えられました。 往時の看板も、人の気配もまったく無いのですが、なかなか時代掛かった雰囲気のある建造物でした。 それ以上にいいなあと思ったのは「KIRAKUZA」という名前でした。 道ゆくお遍路さんに、『気楽に歩いていこうよ』と呼び掛けていたのかも・・・。
 私が板東駅から歩いた時期は平成19年春で、「楽しく遍路」さんが歩かれたのは平成20年秋ですが、実はこの時は「KIRAKUZA」は取り壊され、更地になっていたそうです。 時代が昭和から平成、そして令和になって、失われ、消えていくものはたくさんあります。 でも、心に残る印象はそう簡単に消えるものではありません。 「遍路では気楽に、楽しく歩こう」という気持ちは、これからも変わらず持ち続けたいものです。
♫生きて行こうよ 希望に燃えて・・嗚呼 人生の並木道 (楽しく遍路)
2019-05-08 12:07:11
長い連休も終わりました。
しかし残念です。四月の遍路予定を延期し、連休後を期していたのですが、それもどうやら難しい気配です。

こんなときこそ’なんとかなるぜ’と、のんびり気楽に構えているべきなんだ、とは思うものの、
・・あの頃、私たちは、今からは信じられないほど、身軽だったんですねえ。あのフットワーク、この十年で失いましたねえ。
後期高齢者とは、よく言ったものだと痛感させられる、今日この頃です。
60代の私は、範疇では高齢者に入るものの、実はまだ若い、「前期」高齢者でした。

80代に入るとは、どういうことなんでしょうか。身体や心に、どんなことが起きてくるのでしょうか。
それらは(70代が60代の延長線上にあったように)、70代と接続して起こる何かなのでしょうか。それとも70代とは断絶した、今はまだ想像も出来ないようなことどもなのでしょうか。

とまれ、80になってからの「新たな発心」は、あってほしいですね。
まるで近所を散歩するかのように、ブラリブラリと四国路を歩いてみるのもいいかもしれません。
風に吹かれて。

ところで、発心というには卑小ですが、私にはひとつ、楽しみにしていること(歩きの動機)があります。
土佐・安田町の大心劇場(だいしんげきじょう)での映画鑑賞です。大心劇場は、安田川を遡ったところにある、山間の映画館です。
もし許されて次に土佐路を歩くときは、ぜひここで映画を見たいとおもっています。
映画館といえば、(天恢さんも訪れた)徳島・脇町の脇町劇場・オデオン座。昭和っぽい、いい映画館でした。今はどうなっているでしょうね。
板東の気楽座は、私も平成13(2001)、見た記憶があります。平成20(2008)、板東を再訪したとき、在るはずだと思って探した記憶も残っていますから、天恢さんの記述とも合致し、確かに見ています。
いただいた気楽座の写真、本文中に転載させていただきましたが、よろしかったでしょうか。
.
末筆ですが、いつもいつも、楽しいコメントをありがとうございます。
天恢さんの春遍路が、どうか実り多く、かつ楽しいものでありますように。

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