楽しく遍路

四国遍路のアルバム

元遍照院跡から 青木大師 亀岡 大西 獅子舞

2017-10-18 | 四国遍路

 
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遍照院元所在地
菊間の遍照院元所在地を訪ねた後、・・


国道196号へ
現在の遍路道に復すべく、国道196号へ接近してゆきます。国道は予讃線(写真左)の向こう側を走っています。


国道196線へ
左方向へ踏切をわたると、国道196号の「八幡前」という所に出ます。「協力会地図」では「八幡前バス停」と表示されています。
しかし昔、国道や、国道のベースとなる海沿いの道が通る前は、道は(踏切をわたらないで)右方向に進み、山道に入ったようです。
「えひめの記憶」は、その辺のことを、・・(旧道は)八幡前辺りから右側の山道に入って、急な坂道を上がり「あばらこ池」の土手に出ており、「松山札辻より七里」の里程石は、この池の下の葉山トンネルの葉山側辺りにあったという。・・と記しています。


里程標
「松山札の辻より七里」の道標は、今は折損した状態で、菊間町民会館に移されていますが、もと在ったという葉山トンネルは、上掲写真踏切の、200㍍ほど先になります。
2.5万地図で見ると、踏切から右上に上がったところに、「あばらこ池」とおぼしき溜め池があり、堤防沿いに進むと、葉山トンネル入り口を越える道に出ます。


分岐
「えひめの記憶」は続いて、・・八幡前辺りの道は、幾分上りであるが、山を削り下げて明治43年(1910)に開通した、葉山・高田へと続く海岸線の道で、現国道へと発展したものである。・・と記しています。
写真右が現国道です。左が、そのベースとなった、葉山・高田(こうだ)へと続く「海岸線の道」の断片、と考えられます。二本の道は、やがて合流します。


海岸線の道
「海岸線の道」です。ただし、これが本通りではないようです。


海岸線の道
陸側に一筋入ると、本通りらしく、両側に家が建ち並ぶ道があります。
 


製瓦工場(?)が列び、その先に、太陽石油の菊間製油所が見えています。
太陽石油の操業開始は、昭和16(1941)だそうです。戦争拡大に備えた、「疎開工場」だったと思われます。
瓦づくりは、菊間の西から東へと広がってきたそうで、亀岡に届いたのは、明治に入ってからとも言われています。



葉山の海岸は、すっかり姿を変えています。奥が高田でしょうか。
ちょこんと浮かぶ島は、臍島(ヘソ島)だそうです。
   臍島と いう名もおかし 春の海 
花叟さんの句を改竄してみました。元句は、・・腰折と いう名もおかし 春の山・・です。元句のおかしさには、とてもかないませんが。


太陽石油 
太陽石油を過ぎて、・・青木大師をめざします。


青木大師へ
ガードレールには青木大師と記していますが、青木杖大師とも呼ばれています。お杖水伝説から来る呼び名です。また地蔵菩薩をお祀りすることから、青木地蔵ともいうようです。協力会地図は青木地蔵と記しています。


青木大師と青木地蔵
「青木」という名の興りなどについては、H24春遍路 ④ でふれています。コメントの重複は避けます。よろしければ併せてご覧ください。


弘法大師像
明治44(1911)の奉納です。


通夜堂
青木大師は、立葉坂の途中に造成された平地に、建っています。写真の坂は、立葉坂に復するための取りつけ道路です。写真右下から入り、左に抜けます。


防災センター
市の消防署ではなく、太陽石油の四国事業所防災センターです。工場からすこし離して置いています。



「亀岡」という地名について、書いておきます。亀岡は、明治22(1889)、佐方村と種村が合併して、村名を亀岡村としたことに発します。両村の氏神が、(実体はよくわかりませんが)出亀、入亀であったことから、「亀」が村名に使われたとのことです。
その後、昭和30(1955)、亀岡村は菊間町と合併。自治体としての「亀岡」は、今は消滅し、JRの駅名や小学校の校名として残るのみです。ただし消滅はしても、住民の「亀岡」への帰属意識は、高いようです。


伊予教員養成所跡
伊予教員養成所が、明治39(1906)から昭和12(1937)まで、亀岡に在りました。「えひめの記憶」によると、養成所は私立だったとのことです。師範学校以外の教員供給ルートとして、注目されます。
背景に、尋常小学校就学年限の延長があったと思われます。日露戦争(明治37-38)は国に、いろいろの意味で、国民教育の必要を痛感させたようです。明治40(1907)、国は尋常小学校就学年限を、従前の4カ年から、6カ年に延長しています。教員養成は喫緊の急務でした。


亀岡小学校跡
教員養成所跡の、道を挟んで斜め前方に、亀岡小学校跡の碑があります。明治23(1890)、亀岡村誕生を機に、それまでの学校を統合し(後述)、亀岡村立亀岡尋常小学校が設立されました。当地が、その跡です。「尋常小学校跡」の方が正しいかもしれません。
亀岡尋常小学校は(前記施策に従い)、明治42(1909)に第5学年を、翌年、第6学年を設置。明治44(1911)には高等科を併設して、亀岡尋常高等小学校となっています。


里程標 「松山札の辻より八里」
亀岡尋常小学校は、昭和2(1927)、旧校舎の道を挟んで斜め前方(亀岡駅前)に移転します。現在、亀岡小学校が在る場所です。ただし、その間、昭和16(1941)から昭和22(1947)、戦後の学制改革までは、亀岡国民学校初等科、でした。戦時体制下の学校です。
写真は、現・亀岡小学校の校庭に立つ八里塚です。亀岡変電所の辺りにあったものだそうです。近頃は、勝手に校内に入れないので、わかりにくい写真になってしまいましたが、「山」の字が見えます。


佐方川
亀岡には種川と佐方川が流れています。この川は佐方川です。渡ると、種地区から佐方地区に入ります。


道標
その橋の西詰めに、舟形地蔵が二体あります。内、一体は指差しがあり、道標にもなっています。


亀岡蔵本跡
亀岡蔵本跡は、亀岡小学校の原点、宮ノ下学校が在った所でもあります。近隣三ケ村(種村、佐方村、別府村)が共有する郷倉(蔵本)が当所に在り、宮ノ下学校は、それに付設して明治 7(1874)、開校されました。郷倉とは、上納前の年貢や救荒食糧の保管、貯蔵場所です。
宮ノ下学校は、明治11(1878)、廃校となり、別途、佐方には中曽根学校、種には協和学校が新築されますが、前述のように、種村・佐方村が合併。学校も統合されて、亀岡尋常小学校が誕生しました。(別府村については後述します)。


道標
中務茂兵衛道標が立っています。
左面には「左 新道」と刻まれています。「新道」は、明治43年(1910)に開通した、「海沿いの道」を指しています。現在では国道196号です。
右面には、延命寺(えんめい寺)と円明寺(えんみょう寺)の方向が示されています。



私は右に進みました。ミカン畑をゆきますが、先で国道(かつての新道)を渡り、高城(こうじろ)集落に入ります。高城までが菊間町、過ぎれば大西町になります。


高城地蔵堂(集会所)
古い石仏が列んでいます。安永3(1774)の文字も見えます。


大山八幡神社
大西町に入りました。大山八幡神社は、大西町別府にあります。
種村、佐方村と郷倉を共有していた別府村は、亀岡村結成には加わらず、(従って後に菊間町と合併することはなく)、大西町別府となる道を選びました。なお「別府」の地名は、怒麻(ぬま)国造の別館があったことから来る、と言われています。怒麻(ぬま)は、現存地名の、野間(のま)の興りです。野間郡については後述します。


上へ
先程来、太鼓の音が聞こえています。何があるのか、心躍ります。行ってみます。


大山八幡大神
大山八幡の祭神は、誉田別命(応神天皇)と、その父神、母神である帯仲津彦命(仲哀天皇)、息長帯姫命(神功皇后)、そして高淤加美命と雷神、だそうです。これら諸神をあわせて、大山八幡大神、です。


獅子舞
太鼓の音は、大西町別府獅子連の獅子舞練習でした。来週の春祭りに備えて、本番さながらの練習をしています。
厚かましく、見せていただきました。


獅子舞
今治地方の獅子舞は、伊勢の太々神楽を取りいれ、独自に発展させたものだといいます。
太々神楽の一座が伊勢神宮のお札を持って廻村し、穢れを祓い豊穣を願って、神楽を舞ったのだそうです。なお「太々」は、代々伝わってきた、の意とも言われますが、異論もあります。


継ぎ獅子
誰もが言う今治獅子舞の見ものは、継ぎ獅子です。太々神楽では二継ぎでしたが、今治地方では、かつては六継ぎも見られたそうです。上へ上へと、天の神さまに近づいてゆきました。
人柱の頂点には、獅子児と呼ばれる子供が乗っていて、舞を舞い、神さまに供します。


継ぎ獅子
もうひとつの見ものは、(写真がなくて残念ですが)、ムカデ型の獅子舞です。
獅子舞は、普通、頭を操作しながら前脚も演じる人と、唐草や渦巻き文様がついた油単を被り、後ろ脚を演じる人との、二人で行われます。しかし今治地方には、一枚の広い油単に、何人もの人が入って(したがって脚がムカデ=百足になります)、油単をゆすり、獅子を躍動させる演技があります。ムカデ型の獅子が二頭並びで、荒々しくも演じる舞は、感動的です。


獅子舞
私はムカデ型獅子から、牛鬼を連想しています。牛鬼もまた胴体部に多くの人が入るので、百足状になっています。継ぎ獅子からは、牛鬼の頭部を連想します。
牛鬼は、今は宇和島が知られていますが、かつてはもっと広い範囲で演じられており、菊間には今も残っています。これについては、前回のコメントでも、ちょっとふれました。


碇掛天満宮
大西町星浦の碇掛天満宮(いかりがけ天満宮)参道入り口です。社名石に「太宰府天満宮の御分霊を祭祀する」と刻まれています。
菅原道真公は讃岐の国司であった時、伊予国を巡察なさいました。その帰途、嵐に遭いますが、星浦(当地)の沖合に碇を止め、難を逃れたと言います。
碇掛天満宮は、生前ご縁のあった直実公をふたたびお迎えし、祀っています。


五郎兵衛大師
参道入り口の小祠は、五郎兵衛大師だそうです。悪病、悪霊の侵入を防いでくださるお大師さん、とのことです。


新来島ドック
タンカーでしょうか。新来島ドックが見せてくれる、なにやらドキッとするような景色です。


予讃線高架
国道196号の高架を、予讃線とともに県道15号がくぐっています。
県道15号の路線名は大西-波止浜線。古い呼び名では、波止浜街道です。波止浜街道は北上して、高縄半島の先端にむかいます。
波止浜は古くは、来島村上水軍の船溜まりでした。江戸期早くから昭和30年代半ばまでは塩田で栄え(波止浜の「浜」は塩田を意味します)、今は造船の街になっています。造船施設の多くや四角形のゴルフ場は、塩田の跡地利用です。入り江奥の龍神社の側には、へんろ道標があると言います。歩いてみたい道です。


JA
「おち いまばり 大西」とあります。この辺のJA看板は面白いのです。
大西町は、昭和30(1955)、大井村と小西村が合併して生まれた町です。大井村、小西村は、明治22(1889)の町村制施行で出来た村でした。
今は今治市大西町ですが、その前は越智郡大西町でした。大井村や小西村の頃は、野間郡に属していましたが、明治30(1897)の 郡制施行で、野間郡は消滅し、越智郡となりました。今治市になるのは平成17(2005)です。そんなこんなで、「おち いまばり 大西」となっています。


里程標
松山札の辻より九里です。十里は、延命寺の近くにあります。


大井八幡神社
先に詣った大山八幡は、水の神さまを合わせ祀っていました。農耕へのご利益が意識されているのでしょう。
ここ大井八幡では、海の神さまである住吉三神が、合わせ祀られています。海上安全への願いが込められているようです。土地柄がおもわれ、興味深いものがあります。
なお、大井八幡の「大」井が、小「西」と合併して「大西」となったことは、前に記しました。


県道15号線
街部に入ってきました。


井手家住宅
天水瓶を屋根に置いた屋敷。初めて見てから、もう十年以上もたちます。だいぶ老朽化が進んでいると感じました。
だれも住んでおらず、施設としての利用も、(一時はされていましたが)なくなったそうです。使わないと、家は早く傷みます。もったいないことです。


井手家の大楠
井手家の大楠は変わらず元気です。

ご覧いただきまして、ありがとうございました。
さて、ようやく春遍路の報告も終わり、次回からは秋遍路の報告、としたいところですが、実はまだ、その見通しがたっていません。
そんなわけで、次回更新予定もたっていないのですが、とりあえず努力目標として、11月15日、としておきます。遅れたときは、ごめんなさい。

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♪伊予の今治 藤堂さまが 築き上げたる城下町 (楽しく遍路)
2017-10-28 20:07:54
長雨、台風に加えて体調不良。実は秋の遍路が、まだ実現していません。今号で、ようやく春のレポートを終わり、うまく秋につなげたと喜んでいたのですが、なかなか、そうは問屋が卸さないようです。
お呼びがかかるまで待つことにします。

さて、小学生の頃です。鞍馬天狗の映画を先生に引率されて、見にゆきました。調べてみると、昭和26(1951)の松竹映画、「鞍馬天狗 角兵衛獅子」だったようです。昭和25(1950)の「越後獅子の唄」の流行、同年、時代劇映画の解禁を受け、制作された映画です。戦前も天狗を演じていた嵐寛寿郎が、美空ひばりの杉作少年とともに活躍します。
私たちは杉作少年や天狗のおじちゃんやへ、めまぐるしく心を移しながら熱中し、劇場内には「ニューシネマパラダイス」さながらの光景が現出していたのでした。天狗の危機にあがる悲鳴。白馬で駆けつける天狗への声援と拍手。
チャンバラごっこで、勤王か!佐幕か!と問われた子供が、競って、勤王!と応えたのは、天狗が勤王派だったからだと思います。意に反して佐幕派にされてしまった子がむくれていたのも、懐かしい思い出です。
私がみた最後のアラカンは、「男はつらいよ 寅次郎と殿様」でした。アラカンは作中、世が世なら大洲の殿様役で、浮き世離れした殿様と寅さんの絡みは絶妙でしたが、年とったアラカンに複雑な思いがしていたのも事実です。私は明治天皇時代のアラカンは知りません。

さてさて、話がアラカンの方に逸れてしました。笛ならぬ太鼓にうかれて獅子舞を見に行った私でした。
多くの地方で獅子舞はテンツクテンテン、太鼓が小太鼓です。ところが写真やYouTubeでご覧になったように、今治の獅子舞はドドンドンドン、大太鼓が中心です。腹に響きが伝わってきます。
継ぎ獅子もさりながら、私が言う「ムカデ型」の獅子舞も、ぜひご覧になってください。荒ぶる獅子を目撃されることでしょう。
近頃なにかとマスコミに登場する今治ですが、♪伊予の今治 藤堂さまが 築き上げたる城下町、・・今治は‘よいとこ’です。エールを ともに送りたいと思います。

さてさてさて、一里塚の松ですが、天恢さんも歩かれた中道僧都の二本松。
本ブログ上槙の号に、いただいた写真ですが、載せておきました。木陰で 「心がこの場所に追いつくまで」休むことができること確実の、立派な松です。
♬ 笛にうかれて 逆立ちすれば 山が見えます ふるさとの ~ (天恢)
2017-10-27 23:12:49
 異常気象が珍しくもない時代ですが、季節の変わり目の異変が気になります。 このところ秋の期間が短く感じられます。 夏が過ぎて、冷たい長雨が続き、紅葉を楽しむ間もなく、寒い冬がやって来そうです。 今回も「元遍照院跡~大西 獅子舞」 の道中記を楽しく読ませていただきました。

 さて、前回の続きで、元遍照院跡から青木大師、亀岡、大西までの約10キロの道のりですが、歴史ある「松山札の辻より七里」、「八里」、「九里」の里程標が残されていました。 多くは 旧街道からとっくに無くなり、町民会館や小学校の校庭に移設され、折損やら埋没した哀れな姿をさらしています。 里程標は古代中国やローマ時代から存在し、日本でも江戸時代に街道が整備され、「一里塚」が築かれ、塚に植えられた榎や松などによる木陰が旅人の恰好の休息の場となりました
 それが、クルマ社会が到来し、ナビの登場で顧みられなくなった「里程標」ですが、国語辞典では①距離の標識だけではなく、②物事 の推移・展開・発達の一段階を示すしるしでもあると記されています。 この「里程標」の消失は、太古の昔から脈々と受け継がれてきた歴史、文化が、この100年の進歩発展で「速く歩き過ぎてしまい、心を置き去りにして来てしまった」ようで、 「心がこの場所に追いつくまで、わたしたちはしばらくここで待っている」など、現代人には、もうそんなゆとりもないのかもしれません。

 さてさて、タイトルの「♬ 笛にうかれて 逆立ちすれば 山が見えます ふるさとの ~」ですが、昭和25年に美空ひばりさんが歌った「越後獅子の唄」の出だしです。多くの方にとって獅子舞と言えば、お正月やお祭りでの獅子舞を思い出されるでしょう。 「越後獅子」は厳しい時代と貧困を背景に生まれた郷土芸能で 「今日も今日とて 親方さんに芸がまずいと 叱られて撥(ばち)でぶたれて・・・」となると、現代なら親方さんは幼児虐待で逮捕は必然で、明治以降は衰退の一途をたどったということです。 
 ブログに今治市大西町の大山八幡大神・春祭りの催事「獅子舞」が紹介されましたが、悲しい獅子舞の越後獅子と違って、「今治の獅子舞は、ちょっと違う」ということで、YouTubeの手助けで、もっとPRしたくなりました。 ぜひ見ていただきたいのは「継ぎ獅子」で、五継ぎもありました。  「上へ上へと、天の神さまに近づいてゆく」、伸び伸びした組体操のようなもので、なるほどこうやって「五継ぎ」が可能になるのか感心することしきりです。 最上段の男の子の妙技も、また素晴らしいもので、これは必見です。
 また、ブログの最後に登場した天水瓶を屋根に置いた旧大庄屋井手家の屋敷跡、天恢も初めて見た時はその壮大さに感激しました。格式と権威の象徴であっても、後世にぜひ残したい文化遺産です。 「大楠(だけ)は残った」では寂し過ぎます。 今シリーズの「楽しく遍路」さんの道中記では、松山市の勝岡八幡神社の神事「一体走り」、菊間・加茂神社の催事「お供馬の走り込み」なども紹介されました。 こうなると愛媛は有形・無形文化財の宝庫です。 何とか保存してまもっていただきたいです。
 終わりに「頑張れ、今治、大西町‼」と、エールを送らせていただきます。

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