楽しく遍路

四国遍路のアルバム

実報寺 興雲庵 西山興隆寺 西山久妙寺 生木地蔵

2019-01-09 | 四国遍路

 
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臼井御来迎
秋の遍路です。
臼井御来迎から西進し、実報寺へ。その後、久妙寺→興隆寺→生木地蔵へと進みます。


西進
この道は以前にも歩き、アルバム化したことがある道です。
→H24春遍路 伊予路 ⑤ を併せて、ご覧いただければ幸いです。


楠河小学校発祥の地
明治10(1877)、楠(くす)と河原津に、それぞれ小学校が建ちました。
この二つの小学校が明治23(1890)、町村合併で統合され、誕生したのが楠河小学校です。楠と河原津から仲よく一字をとって、楠河としています。
現在、楠河小学校は河原津にありますが、移転したのは、大正11(1922)のことです。


田圃
三芳駅近くで、たまたま話す機会を得た小学生がおしえてくれました。
・・あの山が永納山です。
・・よく知ってるね。朝鮮式の古い城跡があるんだよね。
・・はい!「ふるさと」の授業で習うので、みんな知ってます。学校からは世田山も石鎚山も見えます。
・・なに小学校なの?
・・楠河小学校です。
とても元気に話してくれたのでした。

石鎚山と河北中学
楠河小学校の校歌は、次のように「ふるさと」を歌っています。
  世田山のもと 水清く 土ゆたか 我が生まれの里 ふるさと楠  
  瀬戸の海原波静か 海の幸 我が生まれの里 ふるさと河原津 
  朝日輝き夕日映ゆ 石鎚の峰 仰ぎて誠の 道をぞゆく我等
写真の建物は、やがて楠河小学校の子たちが通うことになる、河北中学校です。山は、もちろん、石鎚の峰。


散歩の人と犬
・・あれは河北中学ですか、と散歩中の女性に尋ねると、
・・私、つい先日引っ越してきたばかりで、よくわからないのです。あっ、あの方に聞いてみましょう。
・・あの、すみません。お遍路さんが、あれは河北中学かとお尋ねなんですが、私、わからなくて、・・
・・そう、河北中学だよ。お遍路さん、どこへ行くん?


景色
・・実報寺さんです。
・・なら、一緒に行こう。
・・あら、それなら私も、ついて行っていいですか。知っておきたいので。
というわけで、即席の、三人と2匹の実報寺参拝団が結成されました。


実報寺山門
  不許ワンチャン入山門
・・というわけで、ここでお別れしました。楽しい時間をありがとうございました。


一樹桜(ひときざくら)
実報寺の一樹桜は、エドヒガンだそうです。染井吉野に先駆け、純白の花を咲かせます。
   遠山と 見しは是也 花一木   一茶
一茶は松山に栗田樗堂を訪ねての帰途、実報寺に立ち寄りました。


鐘楼
6年前は、染井吉野が満開だったのですが、今回は秋の参拝です。染井吉野もエドヒガンも葉を散らし、はだか木になっています。
ただし、今年は変な歳です。各地で秋のこの時期に、桜の開花が報じられているのです。実際、私は数日後、秋の桜(コスモスではありません。染井吉野です)を目撃することになります。


本堂
ご本尊は地蔵菩薩菩薩。像は楠の寄せ木造、一丈になんなんとする座像で、鎌倉時代初期の作とのこと。
この像は一度、長宗我部軍によって、土佐に持ち去られそうになりました。ところが軍勢は帰途、大時化に遭遇。地蔵尊の怒りを怖れた長宗我部軍は、像を海に投げ捨てて去ったといいます。
像は、ありがたや、浜に流れ着き、ふたたび実報寺にお迎えできました。・・33年に一度だけ開帳される、実報寺の秘仏にまつわる譚です。

田圃
田圃が棚田状になっています。
実報寺から北川まで沖積扇状地を緩やかに下り、今度は緩やかに上ります。緩やかな傾斜は水田灌漑に有利な地形です。
白い車が走っているのは、県道154号です。左方向が三芳駅になります。


焼き田
収穫が終わった田を焼いています。


焼き田
この辺は米と麦との二毛作をやっており、焼いた後に麦を植えます。


せいだかあわだち草
明治10、楠に設立された小学校(楠河小学校の前身)は、三井小学校といいました。大師が湧かせた、「三井」に由来する校名です。
前号で記しましたが、道安寺に滞在中、大師は三つの井・・臼井・曽良田井・岸ノ井・・を湧かせました。これらを合わせて、三井と称ぶようになったことから、それまでの村名・見居村が、三井村に改められた、とのことでした。


梅莟小学校跡
もう一つの、河原津にできた学校は、盈進小学校(えいしん小学校)でした。「盈進」は、盈科而後進。科(か)に盈(み)ちて後(のち)進む。孟子から来る校名でした。
(この地域にかぎらず)明治初期の小学校は、その校名が多彩です。子たちにかける念いや理念を校名に冠している例が多く見られます。
梅莟小学校もその一つでしょう。梅花は莟めるに香あり。子たちの可能性を梅莟に視たのでしょうか。


興雲庵
県道154号を渡った先に、福成寺興雲庵があります。その境内にも、梅莟小学校跡の碑が建っており、傍の説明板に、次のようにあります。
  興雲庵・梅莟小学校跡 
  創建は享保年代(1716)といわれ、本尊は阿弥陀如来をおまつりしてある。
  明治初期に梅莟小学校として学問の場となり、戸長役場として使用されたこともある。
小学校を"学問の場"とは、この気概やよし、ではありませんか。


梅莟小学校跡
葉に隠れていますが、年号は明治十年です。おそらく創立年を意味するのでしょう。三井小学校や盈進小学校と同年です。
この時期、寺に学校を置いた例は、多く見られました。神職宅に開設した例もあります。
国家による教育の平準化がいまだ進んでいない明治初期、おそらく、これらの小学校は寺子屋の系譜をひいて、設立されていたと思われます。やがて平準化が進むとともに、小学校は初等教育の場と規定され、校名も、多くが地名を冠されるようになります。当然、「学問の場」などの"気概"は、失せてしまいます。


つるし柿
秋の風景です。
子供の頃、つるし柿の甘味が、私の甘味でした。


常夜灯
読みづらいですが常夜灯には、金毘羅と刻まれています。
傍に「おやまはん」と呼ばれる小祠があるそうですが、気づきませんでした。・・博識で、かつ子供達をこよなく愛した修験者の霊を祀るもの・・だそうです。
後景の大木は、榎です。


お塔さま
「お塔さま」とは、なんと素朴な呼び名でしょう。 大野ヶ原を開拓したご先祖さんの墓だそうです。
説明板に、・・二柱あり、夫婦か 親子の墓かは定かではない。実報寺造営より50〜60年後の縁起と思われる。明治年間には お盆に花火大会を、又 昭和初期迄 四万六千日に提灯を沢山灯して供養していた。・・とあります。


大野
大野ヶ原は大明神川の沖積扇状地であり、氾濫原でした。これをご先祖様方が開墾し、現在の大野を造り出しました。
この辺では雨が少なく、灌漑用水には、大明神川の伏流水が有効利用されました。伏流水は扇状地の先端部で、湧水となって湧き出てきます。


酒蔵
湧水は、(今は営業していませんが)酒造りにも利用されたようです。


大明神川
大明神川に上がる坂です。


大明神川
前号で渡った大明神川は、もっと下流です。


護運宮
鳥居の扁額には護運宮とありますが、社名は長く、護運玉甲々賀益八幡神社というそうです。
その読みは、・・ごうん・たまかぶと・かがます・八幡神社・・だそうです。
多くの神々が祭神に列せられていますが、そもそもの創りは、吉岡の神(土地の神)と猿田彦神に発するようです。藩政時代には、松山藩久松家の祈願所として、栄えたといいます。


キウイ
キウイフルーツ栽培園。愛媛県はキウイフルーツの収穫量全国第一位です。みかんは、今は(上位にはちがいありませんが)一位の座は譲っているとか。


神社跡
過去の記憶を残そうと、えびす神社跡の碑が建っています。
右の建物は、西条市消防団吉岡分団の車庫です。


道標
四つ角に道標が立っています。
  左 へんろ道  右 国分寺道
実報寺からの道が、ここで生木道(県道150号)に合流しています。西山興隆寺に向かう私は、この道をしばらく歩いた後、安用(やすもち)で、生木道と分かれます。


吉岡村発祥の地
吉岡村は昭和30(1955)、合併で壬生川町となり、自治体としては消滅。その後、壬生川町は三芳町と合併して東予町→東予市に。さらに東予市は平成の合併で西条市と合併。元吉岡村は、今は西条市です。
埋もれてたまるか、ここに吉岡村ありき。その記憶は残さねばなりません。


石敢當
石敢當(いしがんどう)。悪魔除けの一種だといいます。三文字を刻した石(この場合は常夜灯)が悪魔を祓います。「いしかんとう」など別の読みもあり、石厳當など、別の字を当てている場合もあります。
中国伝来の民俗で、沖縄県や鹿児島県ではよく見られます。


県道150号
県道150号は、やがて安用で県道154号と交差します。
西山興隆寺に向かう人は、そのまま150号を、生木地蔵に向かう人は、154号へ進みます。


道標
安用(やすもち)に茂兵衛道標が立っています。
  生木地蔵 第六十番横峰山
  第59番國分寺 255度目為供養建之 願主 中務茂兵衛義教
興隆寺への案内はありません。生木道が主遍路道である、ということでしょう。


150号 
県道150号を行きます。150号は安用からは、西山お四国さん道となっています。



県道150号は、徳能-伊予三芳停車場線として、大正12(1923に開通しました。
その後、拡幅され、また枝道が整備されてきましたので、その様子は、昔とは違っています。この分岐の向かい側に建つ大師堂も、元からここに在ったのではありません。

 
大師堂
えひめの記憶は、大師堂の元々の場所について、次のように記しています。
・・丹原町高知に入り、少し行くと右手に大師堂がある。遍路道はこの大師堂の手前120mほどで県道から左折し、しばらくして右折し大師堂を約100m過ぎた地点で再び県道に合流する。以前はこの合流地点北側に大師堂があったという。


石鎚山
道の様子は変わっていますが、変わらぬものは、石鎚の峰。


いしづち山麓SWEETライド
この日はちょうど、「いしづち山麓SWEETライド」の日でした。
HPによると、・・西条の地の恵まれた環境で育まれた美味しい食と、自然が織りなす景観を自転車で走って楽しんでいただくことをコンセプトとした活動です。・・とのこと。
写真のライダー達は78キロを走る、ロングコースに参加した人たちと思われます。


丹波神社
祭神は丹波大掾 渡部公広公。
この辺もまた天正の陣の戦場でした。天正の陣(1585)とは、秀吉の四国攻め、即ち長宗我部攻めですが、実は長宗我部勢の大方は、戦わずして降伏しています。唯一、徹底抗戦したのが、金子備後守(前号のトンカカさんの唄では”金子の殿”)でした。
この戦いで新居・宇摩二郡は焦土と化し、両軍は多数の死傷者を出しました。金子勢の諸将は皆、玉砕したといいます。
丹波神社(お丹波さん)は、陣営のいずれかを問うことなく、負傷者の傷を癒やし、戦死者の霊を慰めた丹波大掾 渡部公広を、その徳を慕う鄕人たちが祀ったものです。諸病平癒の霊験あらたかで、特に小児の咳の病に効験あり、とのことです。


金泉寺
金泉寺への案内があります。星野山金仙寺。
・・延暦年間(782-805)、報恩大師の四国巡錫の砌、東方より明星飛来し墜落したるにより、草庵結んで一宇を建立し、薬師如来安置し、山号を星野と号し、寺を金仙寺と称した。とのこと。
今回こそは訪ねたかったのですが、また果たせませんでした。次回こそ?


徳田小学校
徳田小学校の角です。ここを右折すると、西山お四国さん道は、県道151号となります。


河野一族の墓
小学校に隣接して、
         贈正四位 得能備後守通綱公 
         贈正四位 土居備中守通増公 之墓 
があります。昭和10(皇紀二千五百九十五年・1935)建立の供養塔です。いずれも河野一族の武将で、後醍醐天皇の南朝方に参陣しました。正四位は、明治に入って、南朝正統の流れのなかで、贈られています。
上掲の写真にもあるとおり、この辺は丹原町徳能(とくの)です。徳能は、得能氏の得能と通じています。


西山入り口
西山入り口を右折すると、興隆寺への、ほぼ一本道の登りが始まります。
自転車は、「いしづち山麓SWEETライド」のライダーです。

興隆寺への坂
この辺から興隆寺までの標高差は、およそ220㍍ほどです。



2.5万地図でも確認できますが、古田(こた)集落には、この道に並行して他に二本、坂道が通っています。


鬼門
・・昔、江戸時代のことらしいが、古田で大火事があったんよ。そのとき、山に向けて道を三本、真っ直ぐに通してな、



・・そのそれぞれに水路をつけたんよ。火事にも畑にも、よかろ。


石塔
・・道の角々にあるんは、災難除けよ。


地蔵
・・あっこにも、ここにも、あろ。


金仙寺
・・(前述の)金仙寺さんのお札が護ってくれよる。


古田庵
古田庵は延命地蔵菩薩をお祀りしてあります。


津波注意
古田庵の覆い屋に津波注意が貼ってありました。
  津波避難は高台へ ここの地盤は77㍍
土地の人に、・・ここは津波は大丈夫ですよね。・・と言ったら、そうよ、ここで心配なんは山津波よ、と応えられました。
災難除けの諸神諸仏、どうかお護りください。



一本道の登り通は、けっこう疲れます。
幟石は、この先の、貴布祢神社のものでしょう。


貴布祢神社
祭神は、
 闇龗神(くらおかみ神)
 高龗神(たかおかみ神)
 闇罔象神(くらみつは神)
貴布祢神社の神は、前号で記した闇罔神社(くらみつ神社)の神々と同根です。前号をご参照ください。


六角堂
明和3(1767)の建築といいます。六地蔵菩薩が祀られているそうです。
興隆寺の後、私は久妙寺に参りますが、六角堂-興隆寺の間は、同じ道を往復します。


左へんろ
左に入るとすぐ、西山四国八十八ヶ所の1番があります。ただしその先は、山崩れのため通れないそうです。


御由流宜橋(みゆるぎ橋)
案内板に、・・この橋は橋板の裏側に経文が書かれてあるところから、無明から光明へのかけはしとなっている。心して渡られよ。・・とあります。橋の名は、青年空海がこの橋のたもとで詠まれた、歌に因むと言います。
  み仏の 法のみ山の 法の水 流れも清く みゆるぎの橋


私の街のゆるぎ橋
私の街にも「ゆるぎ橋」があります。「揺木橋」と書いて、「ゆるぎ橋」と読ませています。
ネットで調べてみると、ゆるぎ橋は他にも、静岡県堂ヶ島、静岡県裾野市(震橋)、高知県佐川町(由流宜橋)、兵庫県篠山市などに在ります。
思うに「ゆるぎ橋」は、元は普通名詞ではなかったでしょうか。普通名詞が固有名詞化したように思われます。
寺社の参道に架かっているような、・・渡った先には光明がある。だから悪心をもつ人が渡ろうとすると、揺れて渡れない。・・そんな橋一般が、「ゆるぎ橋」だったのかもしれません。


向山不動堂の彫刻
なお揺木橋近くの向山不動堂に、素晴らしい彫刻があります。この機会に紹介させてください。


向山不動堂の彫刻
羅漢様です。明治10(1877)頃、山田弥吉という宮大工さんが彫ったとのことです。


仁王門
西山興隆寺の仁王門です。総欅造り。大正7(1918)の建築だそうです。棟梁は古田の住人・篠原与一さん。


彫刻
彫刻は、長州大工の門井友祐さん。
私はこの回の遍路で、4度、門井友祐さんの作品に出会うことが出来ました。真名井神社、南光坊、大須伎神社 (H30春 3-4参照 )です。


彫刻
三つ葉葵については、(H24春遍路 伊予路⑤)をご覧ください。


仁王門
これでもか、参ったか、と言わんばかりに彫っています。渾身、心魂などの言葉が浮かんできます。
なお長州大工・門井友祐については、枯雑草さんの「長州大工の心と技 1-7」をぜひご覧ください。


龍燈
神前に奉納された燈火を龍燈といいます。夜、海上に点々と連なる灯火を、竜神が神仏にささげた灯火と信じたことから、龍燈とよぶそうです。
龍燈については、(H30春 6)の仙遊寺の記事でもふれました。


牛石
どなたかが、牛に草をあげたようです。


千年杉の古株
・・千年以上の齢を持ち、目通り十八mの老杉であったが、昭和43年、命果て、枯木となる。・・と説明があります。
目通りとは、人が立ったときの目の高さで測った立ち木の幹の直径です。それが十八mとは!信じがたい大きさです。なお参考までに、屋久杉の目通り幹周は、16.4mだそうです。屋久杉は成長が遅いそうですから、十八mもあり得るのかもしれません。


紅葉
紅葉は、あと数日で見頃でしょうか。前回は桜が満開でした。


本堂
本堂は、特徴ある寄せ棟造りです。


子持ち杉
杉の古株。根がつながっているのもあります。それを子持ち杉と称ぶそうです。前述の千年杉ほどではありませんが、巨木です。


三重塔
本堂と大師堂が向かい合い、塔は大師堂の奥にあります。右端の屋根は大師堂です。


枝垂れ桜
久妙寺に向かいます。六角堂の先に、古田の枝垂れ桜があります。



丹原町へ下ってゆきます。秋の景色です。


常夜灯
古い道の雰囲気を残しています。


久妙寺へ
今日初めて「へんろみち保存協力会」の道標に出会いました。直進方向は生木地蔵。右折は久妙寺です。
後方に古い道標が残されています。消えかかっていますが、「番外霊場久妙寺」「番外霊場生木地蔵」と手書きされています。


久妙寺
久妙寺に立ち寄ります。右回りの道は草が繁茂し、塞がっていました。
それにしても、この水枯れはどうしたことでしょう。


境内
梵音山 久妙寺。本尊千手観音菩薩。
境内の案内板によると、・・当寺4代住持・円達の代に(約1150年前)、弘法大師空海が巡錫せられ、(それまでは奈良仏教法相学系の寺であったが)、真言宗の寺となった。・・とのことです。


本堂
本堂前に、’火わたり’の火床がありました。歩き渡る先で、火炎を背負った不動明王が、待ちうけておられます。
火わたりは、・・燃え盛る薪の上を素足で踏み渉り、無病息災を祈るお祭りです。 このときの燃えさしを持ち帰り軒先に吊るしておくと、風邪をひかず、病気にもならない、といわれています。


大師堂・焔魔堂
大師堂と焔魔堂が、一つの建物になっています。宝形屋根の部分が大師堂、入母屋屋根が焔魔堂です。建物は古く、・・貞享元(1684・約320年前)に再建修理された、・・との記録が残っているそうです。当然、それ以前の建築ということになります。
大師堂の宝形屋根は、細かくは、宝形扇桷造り(ほうぎょう・おうぎ・だるき造り)と呼ばれるそうです。宝形屋根(三角形の4枚の屋根)を支える桷(垂木)が、あたかも光が四方八方に射すように、建物の中心から放射状に延びています。


大師堂の閻魔像
大師堂の虹梁に閻魔様が坐しておられます。
大師堂は、昔(真言宗に改まる前)は、来迎堂と呼ばれ、阿弥陀三尊をお祀りしていたそうです。閻魔様は、そのころの名残です。
案内板に拠れば、・・堂内の閻魔尊像は寛保年間(約240年前)の作りであり、御堂もその頃の建造であるが、本年の修復で四回目である。・・とのことです。「本年」は、昭和54(1979)あるいは平成20(2008)のいずれかを指すようですが、いずれであるかは、わかりません。また上記・貞享元との関係もわかりません。


築山地蔵堂
願いが書き込まれた「あぶちゃん」が、いっぱい掛かっています。合格祈願が多いようでしたが、発作がおさまりますようになど、健康にかかわるお願いもありました。


がまの穂
・・ワニに皮をむかれた因幡の白ウサギは、通りかかった神様達から、海水につかって風で乾かすとよいと教わりましたが、言われたとおりにすると、ますます痛くなってしまいました。
・・泣いているところに、荷物をいっぱい担いだ神様がやって来ました。それは、さっきの神様達の末弟で、荷物持ちをさせられている、大国主命(大黒様)でした。
・・大国主命はウサギを真水で洗い、集めたガマの花の上に寝転ばせました。ゴロリゴロリ。するとウサギに毛が生え始め、元の白ウサギにかえることができたのでした。


生木地蔵の山
生木地蔵について、真念さんは「四国邊路道指南」に、・・「たんばら町、西にあたり紫尾(しび)山八幡、ふもとに大師御作生木(いきゝ)の地蔵霊異あげて計(かぞえ)がたし。・・と記しています。
写真のお山が、紫尾山です。


生木地蔵
生木地蔵にかかわって、えひめの記憶が、面白い話を二つ、採録しています。ひとつは「愛媛面影」からの引用です。孫引きさせていただきます。
・・今井村の田中に小山有り。四尾(しび)山と名づく。・・比の山の麓に楠の大樹あり。中朽ちて空虚なり。その中に地蔵の立像を彫りたり。生木地蔵と名づく。何人の所業なる事を知らず。俗に引法大師の作也と云ひ伝ふ。およそ四国の習ひにて、奇しき事は皆大師の作と称ふるもの多し。もとより信ずるに足らず。
敢えてお言葉を返せば、奇しきことであるが故に、お大師さんの御名を借りるほか、説明のしようがないのかも知れません。


生木地蔵
もうひとつは、「丹原町誌」所収の話です。
・・昔、お大師様が生木のお地蔵さんを彫った時、蚊にかまれましたが、お坊様ですから、殺さないで袋に取っておき、翌朝放してやりました。それで、その子孫がふえて、今でも丹原には蚊が多いという話です。
私たちはたいてい、蚊を見つけたらパシッ!迷うことなくたたき殺します。蚊はゴキブリと並んで、殺されてよい虫の代表格です。
しかし、ちょっと待て、それでよいのか、「殺されてよい命」なんてあるのだろうか。「丹原町誌」の話は、お大師さんが蚊を助けた故事を借りて、自分の都合で他の命を絶つことに、一石を投じています。


生木地蔵
札所で読経しているとき、蚊が一匹、飛んできて首筋にとまる、・・そんな経験をお持ちではないでしょうか。
そのとき、皆さんはどうなさっていますか。たたき殺しますか?
たぶん多くの方が、少々の躊躇いの後、そっと払うのではないでしょうか。捨身飼虎。飢えた虎の母子に我が身を与えたお釈迦さまなら、惜しみなく血を与えるのかもしれませんが、仏様の前に立ち、ようやく私が思うことができるのは不殺生戒。殺されてよい命はない、ということです。


県道 壬生川駅へ
当初の計画では、生木地蔵に参った後、大頭道から横峰寺に上がる予定でした。
しかし前号のコメントでも記しましたが、大頭道は不通であるとの誤報を信じてしまい、急遽、計画を変更するはめに。
結局、生木地蔵から県道48号を壬生川駅まで歩き、JRで小松駅へ。小松で1泊し、翌日、香園寺→横峰寺にお参りすることになりました。できることなら旧讃岐街道を歩いて栄家さん(廃業)で1泊。翌日、大頭道から横峰寺へ、・・これが私の歩きたかった道なのですが。


壬生川駅
壬生川駅から、小松へ移動します。


鉄橋
中山川に架かる予讃線の鉄橋です。
前号で記しましたが、明治の一時期、・・横峰寺が廃寺とされ、香園寺近くの清楽寺が納経代行をしていた時期には・・、多くの遍路がこの辺を徒で渉っていたそうです。

さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
次回は、その清楽寺から→香園寺→横峰寺への行程をふり返ります。更新予定は2月6日です。
今年もよろしくお願いいたします。

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♪仲よし小道は どこの道 いつも学校へ みよちゃんと~ (天恢)
2019-01-12 20:17:27
 遍路歴12年、すっかりマンネリ化に陥った遍路ですが、今年こそは、もう一度自分を見つめ直して、初心に返った遍路ができればと願っています。

 さて、今回の遍路は、昨年歩かれた秋遍路の第1回分「実報寺~生木地蔵」ですが、いつもながらの詳細なデータと写真とで、楽しい道中記を読ませていただきました。 
 前回に続いて、今回の舞台となった旧周桑郡は、今治市と西条市に挟まれた地域ですが、古い歴史と多くの見所のある番外霊場があります。 中でも、一度はお参りしたいのが周桑郡随一の古刹と称され、紅葉の名勝でもある西山興隆寺です。
 「楽しく遍路」さんは、今回「大頭道は不通」であるとの誤報を信じて、急遽、計画を変更して不本意なコースを歩かざるを得ませんでした。 許されるならば天恢も、瀬戸内海を一望する仙遊寺から石鎚山を仰ぎつつ、生木地蔵まで山裾の遍路路をゆっくり歩いてみたくなりました。 58番仙遊寺→竹林寺 → 59番国分寺 → 世田山栴檀寺 → 臼井御来迎 → 実報寺 → 日切大師 → 西山興隆寺 → 久妙寺 →生木地蔵・・・と、晩秋の季節に。
 それにしても、残念なのは丹原にあった栄家旅館の廃業です。 長年、88ヵ所中最大の難関を控えたお遍路さんを支えてこられた女将さんを懐かしく思い出し、それが前回のタイトル「♪さよならと さよならと 街の灯りがひとつずつ 消えて行く・・・」となった次第です。 要の宿のポイントを失って、すっきりした遍路を計画できないのが残念です。

 さてさて、タイトルの「♪仲よし小道は どこの道 いつも学校へ みよちゃんと~」ですが、太平洋戦争直前に作られた童謡「仲よし小道」です。 「~ランドセル背負(しょ)って 元気よく お歌をうたって 通う道」と続きます。 もうすっかり聞かれなく、歌われなくなりました。 
 これは、ブログにあった「楠河小学校発祥の地」の『町村合併で統合され、誕生したのが楠河小学校です。楠と河原津から仲よく一字をとって、楠河としています。』の「仲よく」からの連想でタイトルに決めました。 ちなみに「周桑郡」の由来を調べたら、「もともとは、 周敷(しゅうふ)郡と桑村郡でしたが、 明治時代に合併して周桑郡となりました」とありました。 この四国の命名方式はブログでも何度か紹介されました。
 それと、武者小路実篤の「仲良きことは美しき哉」、「君は君 我は我なり されど仲良き」を思い出されました。 「仲よく」することは本当に大事なことです。 社会全体の疲れからでしょうか? 日ごろの不満やうっぷんがたまって世の中がギスギスしています。 これは何も日本での人間関係だけではありません。 近隣諸国間でも、世界中でもギスギス感が蔓延し、漂っています。 新しい年が大災害もなく、こころ穏やかに、平和に過ごせればと祈っております。 本年もよろしくお願いします。

♫もういくつ寝ると、お正月・・ (楽しく遍路)
2019-01-14 09:04:23
今年もまた天恢さんから新年のご挨拶をいただくことが出来ました。うれしいことです。
励ましを支えに、次のお正月まで、頑張ってみようと思いますので、よろしくお願いいたします。
♫もういくつ寝ると、お正月・・

周桑郡、ぜひゆっくりと歩いてみてください。むかし知り合われたという、大明神川沿いの和紙工房など、再訪してみるのもいいかと思います。私も、大頭道からの横峰寺詣りに、もう一度挑戦してみたいと思っています。もう栄家さんはありませんが。

そういえば周桑も、周布(周敷)郡と桑村郡から、仲よく一字ずつをとったのでした。補足していただけました。ありがとうございます。
興隆寺に近づくと墓地があり、そこには、「桑村家之墓」がいくつも見られます。今度行ったとき、探してみてください。桑村郡の名残です。

武者小路実篤さんを、若い頃の私は、(たぶん若さ故でしょう)、嫌っていました。
しかし「君は君 我は我なり されど仲良き」、今こそかみしめたい言葉です。
相手の気持ちを忖度できる、余裕を持ちたいものです。相手の言い分を咀嚼できる、知性と理性を持ちたいものです。ギスギスしてはいけません。
今年が、されど仲良きにむけて、わずかでも前進する年でありますように。

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