楽しく遍路

四国遍路のアルバム

行当岬 不動巌 中山峠 神峯寺 大山岬 安芸 極楽寺 夜須 香取

2021-03-31 | 四国遍路

 
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後免町駅
平成14年(2002)12月20日 午後4時59分。私たち(北さんと私)は「ごめん-なはり線」の後免町駅にいました。
高知空港からバスでやって来たのでした。高知空港は、この翌年の11月、高知龍馬空港と改称されます。


阿佐線待望
ごめん-なはり線は、この夏(平成14年夏)に開通したばかりの新線でした。将来、阿佐西線たらんとの宿志を秘め、開通されたのでしたが、さて、いつのことになりますか。
阿佐西線とは、阿波と土佐を結ぶ鉄道の、土佐側の線をいいます。阿波側の線が阿佐東線で、西線・東線がつながると、阿佐線となります。
写真は、牟岐(徳島県)の辺りで見た看板です。


電車来る
次の発車は17:04発です。5分しかないとあって、高架に駆け上がりました。
それでもこんな写真を撮っているところを見ると、区切り歩き三回目にして、私たちもだいぶ鍛えられていた?
なお、時刻が入った写真が私の撮影。入っていないのは北さんの撮影です。


電車
車両のボディラインは、ごめん-なはり線各駅のマスコット人形です。
右端が、球場前駅の「球場 ボール君」。その左が、穴内駅の「あなない ナスビさん」・・といった具合です。なお後免町駅は「ごめん まち子さん」で、冒頭写真にその横顔が写っています。
遍路関連では、唐浜駅(とうのはま駅)の「とうのはま へんろ君」がいます。唐浜駅が、27番神峯寺の最寄り駅であることに因んでいます。その勇姿は、神峯寺の所でご覧いただきましょう。


奈半利駅
18:15、奈半利に着きました。遅着のことは、あらかじめ宿に伝えてあります。
ただし、しっかりしているようで抜けているのが私です。19年後の今、この記事を書こうとして、ようやく気づいたドジがあります。
私たちの宿(野根山二十三士の墓所近くにある)への最寄り駅は、奈半利駅ではなく、その手前の田野駅であることが、わかったのです。駅間距離が短いので、大した違いはないものの、遅れを気にしながら奈半利まで乗るのは、アホです。


野根山二十三士の墓所
ドジといえば、翌朝の行当岬行きバスのことも、記しておかねばなりません。行当岬は、今回の歩き始め地点です。
7:46の室戸行バスに乗るつもりでいたら、宿の人が「今日は土曜日だから、日曜ダイヤじゃないか」と話してくれました。
そうか、今日は土曜日だった。私たちは疑うことなく、「土曜日は日曜ダイヤ」を受け入れました。この年(平成14年)は、日本社会が週休二日制へ大きく舵をきった年で、例えば4月には、公立学校(小中高とも)が完全週休二日制に移行していました。ですから土曜日の日曜ダイヤ運行は、十分あり得ることと思われたのでした。


野根山二十三士の墓
私たちは、急遽予定を変更。8:25発のバスにあわせて準備し、余裕を持って、8:00過ぎに宿を出たのでした。二十三士の墓がある福田寺(ふくでん寺)の境内を抜けると、そこは国道55号で、すこし先にバス停があります。
*二十三士については、 (→H27春 2) をご覧ください。二十三士は、幕末の尊攘派の志士で、奈半利川河原で斬首されています。斬首は武士にとって、もっとも不名誉な死罪でした。


バス待ち
雨、風が強くなったので、後免-奈半利線の高架下でバス待ちをしました。ところがバスは、待てども待てども、やって来ません。
もうおわかりのこととでしょう。バスの運行は同年12月の時点では、まだ週休2日に対応していなかったのです。日本の土曜日は、休日扱いの土曜日もあれば、まだ「半ドン」の土曜もあったりで、中途半端な曜日だったのです。
結局、バスに乗れたのは9:10であったという、お粗末なドタバタですが、今は懐かしく思い出されます。


行当岬
9:49 行当岬着。雨風ともに強いので、小屋型のバス停を借り、雨合羽を装着しました。後に知った情報では、この時間、室戸岬で瞬間最大風速45Mの風が吹いたとのことでした。
写真の建物はバス停ではなく、トイレです。数日後に出会った野宿遍路の岩手君が、・・あのトイレで洗濯させてもらいました・・と語ってくれたトイレ。それが、これです。寝たのは、むろんバス停とのことでした。


不動岩
10:10過ぎ、不動岩着。
かつて女人堂として賑わったお堂です。明治初めまで、26番金剛頂寺に参る女人は、(女人禁制なので)ここで納経したといいます。
不動岩については (→H27春6) に、もう少し詳しく記しています。よろしければご覧ください。建て替えられた新しいお堂、女性のみで寄進した道標なども写っています。



今回最初の般若心経を唱えました。まだうろ覚えのため、文字通り「読」まねばならないのですが、暗くて苦労でした。
線香とローソクは、相談の上、火の用心のため消しておくことにしました。これは秩父を廻ったとき(前号)、無住の札所で学んだことでした。



当時のメモに、不動岩の上に登るルートを探したことが記されています。けれど、登ったとは記していませんから、「ルートを探したが、登ら(登れ)なかった」のです。
思うにこの頃、私(たち)はまだ、「若い頃」の記憶を引きずっていたようです。ルートを探したのが精一杯の若さ。そして登らなかったのが、歳なりの分別だったでしょうか。
あれから19年。私(たち)の「若い頃」は、はるか遠くなりにけりです。嫌も応もなく、無理せず生きる術が身についています。


羽根岬大山岬
不動岩は行当岬の西海岸にあります。よって、ここから後方の室戸岬は、見えません。
写真は前方の景色です。手前が羽根岬、奥が大山岬です。


枇杷
この辺では枇杷の栽培が行われているようです。
数年後、初夏に歩いた時は、実の一つ一つに袋掛けがされていて、まるで袋の花が咲いているようでした。


吉良川
東ノ川と西ノ川に挟まれた吉良川については、 (→H27春7) をご覧ください。水切りがついた白漆喰壁の民家や石ぐろ塀、御田八幡神社などについて記しています。
「石ぐろ」の「ぐろ」は、’ものを積み重ねる’ことを意味するようです。よって「石ぐろ塀」は、「石を積み重ねた塀」、となります。「石ぐろ漁」は、「石を積み重ねてウナギなどを獲る川漁」です。


御田(おんだ)八幡宮
社名の「御田」は、この神社が伝える御田神事から来ています。拝殿の間口が広いのは、板戸を開けば、そこが御田神事を奉納する舞台に変わるからです。
より詳しくは、上記(→H27春7)のリンクからご覧ください。


映画館?
映画館だったでしょうか?無惨ではありますが、懐かしく、撮ってしまいました。
この映画館?は、正面のみに西洋建築風の装飾がほどこされた、「看板建築」などと呼ばれている建物です。大正末期(おそらく関東大震災を機に)東京で始まり、地方にまで広がった工夫で、商店街や映画館で多く見られました。


大根
大根の長さが珍しかったのでしょう。
こんなことをしているから、なかなか前に進みません。この日も宿に着いたのは、日暮れてでした。


羽根橋
14:00頃 羽根橋通過。
海から川筋を通って風が吹いてきます。菅笠のみならずお杖までもが、持ってゆかれそうになりました。この頃はまだ菅笠やお杖が、「身について」いなかったのです。
前方に見える尾根筋は、前述の羽根岬です。羽根岬を越える道は古くからある道で、中山峠道と呼ばれています。


中山峠へ
羽根岬には、明治期、海沿いの道が通りましたが、それまでは、中山峠が唯一の岬越えの道でした。



峠の上には、かなりの平地があり、畑になっていました。また、理屈抜きに納得したのですが、先祖代々の墓地がありました。墓は、子孫たちの暮らしを見守る、高みにあります。


行当岬 と室戸岬
行当岬 (手前)と室戸岬が見えました。
24番最御崎寺を東寺(ひがしでら)と呼び、26番金剛頂寺を西寺(にしでら)と呼ぶことについて、五来重さんは、・・室戸岬と行当岬を、「行道」の東と西と考えたのが東寺・西寺と名付けられた理由だと思います。・・と、「四国遍路の寺」で話されています。
東の室戸岬と西の行当岬の間を行道する(何回も往復し修行する)うち、修験者たちは室戸岬の寺(最御崎寺)を東寺と、行当岬の寺(金剛頂寺)を西寺と呼ぶようになったようです。


空から見た東寺岬と西寺岬
東寺-西寺の呼称は、さらに岬の呼称にも及び、室戸岬は東寺岬とも呼ばれ、行当岬は西寺岬とも呼ばれるようになりました。
東寺岬と西寺岬の間の10キロほどは、修行空間として一体化し、東寺-西寺も、合わせて一つの寺として、機能したと思われます。
五来さんは、・・平安時代、(ここには、東寺と西寺の)両方を合わせた金剛定寺(金剛じょう寺)の一ヶ寺しかありません。・・と語っておられます。なお、行当岬の「行当」が「行道」の転であるのは、言うまでもありません。


進行方向
湾曲した長い海岸線です。向こうに見える陸地は、どの辺りなのでしょうか。


石畳
石畳は、急坂にこそ敷かれるものです。道が崩れやすいのは急坂だからです。
下りでは、足下が悪くならないのはうれしいですが、滑りやすくて恐いですね。この時は雨上がりだったので、なおさらでした。
この峠を下ると、古くから栄えた加領郷です。弘法大師霊跡があります。


加領郷
加領郷は、今は加「領」郷と書きますが、昔は加「漁」郷だったそうです。
言い伝えでは、江戸時代の初期、人たちはまず、林業でこの地に入植したのでしたが、やがて沖合海域が豊かな漁場であることをしり、林業に加えて漁業も始め、栄えたのだそうです。
それでこの地は加漁郷と呼ばれはじめたのだそうですが、では、いつごろ加領郷と書くようになったかは、わからないようです。なお、加領郷については、よろしければ、 (→H27春7) をご覧ください。加漁郷時代を彷彿させる、網元の家なども紹介しています。


霊跡
15:20 弘法大師霊跡
峠道を降りてくると、大きな石碑があり、「弘法大師霊跡」とあります。碑の向こうの岩礁上に、小さな大師堂が建っていて、岩屋御盥石仏が祀られています。
そこから眺めた岩礁に直径1㍍ほどの甌穴があります。この甌穴は、御盥石と呼ばれる穴です。この穴に大師が水を溜め、洗濯されたと伝わっています。
なお、道を挟んだ山側にも、大師堂らしき堂が建っています。嵐に備えて建てた、避難用の大師堂でしょうか?


警報
訓練ではない本物の警報の、発せられる時が来ませんように。


奈半利安芸方向
朝の出発点、奈半利が見えてきました。当時のメモに、次の様にあります。
17:00前、奈半利の街に帰ってきた。バス代900数十円、乗車時間35分の区間を歩いたのだ。早速、宿で場所を借り、パッキングのし直しを始めた。蛍光ベルトを出し、ザックに取りつけた。コーヒーを入れてくださるというので、ごちそうになった。こういうこと(人との交わり)は積極的に受け入れる。


宿着
そんなこともあって、唐浜の宿に着いたのは遅く、18:20でした。申し訳ないことでした。
この頃は、宿への遅着がひんぱんにありました。遅くなってもいいと考えていたのではなく、歩き方を知らなかったのだと思います。気づくと、もう手遅れの時刻になっているのでした。
あれから19年。今では予定と実際の歩きは、ほぼ合致しています。遅着は、よほどのことが起きない限り、ありません。


神峯寺へ
おかげさまで元気を回復することができました。
今日は、まず27番神峯寺に登ります。荷物は宿に預けました。


神峯寺へ
遍路転がし、真っ縦と怖れていた神峯寺道が、徐々に高度を上げてゆきます。
ふり返れば、(海の碧がうまく出ていないのは残念ですが)、それはすばらしい景色が見えています。


登り口
これからが本格的な登りです。道標に、
  これより車道 1.8粁
  これより歩道 1.3粁
とあります。この時は気づきませんでしたが、S字状に蛇行する車道を、真っ縦の道が$状に切っているのでした。ですから真っ縦の道を進んでも、車道に出る度に息継ぎができますので、それほど苦しさは感じないですみます。


真っ縦へ
どなたの句でしょうか。
  山路ゆきて 金剛杖の音 頼もしき  
北さんは歩道が狭い古いトンネルを抜けるとき、勇気を鼓舞するように、コンクリート面を金剛杖でカーン カーンとたたくことがあります。さながら、
  トンネルをゆき 金剛杖の音 頼もしき です。


奈半利
奈半利の街です。この道は本当に景色が楽しめます。


神社と寺
右、神峯神社。左、神峯寺です。
右に進む人は、ほとんどいません。


神峯神社へ
ます神峯寺にお参りし、名水をいただき、神峯神社へ向かいます。


樹齢
樹齢900年の大楠と教わりました。


神峯神社
神峯寺・神峯神社については、 (→H27春7) をご覧ください。神峯神社の発生にもかかわる燈明巌や磐座などもご覧いただけます。


砲弾
神社や忠霊塔などで、砲弾が奉納されているのをよく見かけます。私は長く、これは旧日本軍の砲弾だと思っていたのですが、間違っていました。
これら奉納された砲弾は、日清日露戦争での鹵獲品なのだそうです。ぶんどった多数の砲弾を持ち帰り、全国の神社や忠霊塔などに配ったのだと言います。敵の戦力を削いだ証として砲弾を奉納し、さらなるご加護をお願いしているのでしょうか。


奈半利
より高いところから見た奈半利です。


高知湾
これより下ります。


同行二人
神峯寺へんろ道を特徴づけるオブジェです。高知大学教授の舩木直人さんの作品だそうです。平成11年(1999)に奉納されています。私たちが歩く3年前です。


東谷へ
東谷まで降りてくると、農作業の人が聴いているのでしょうか、ラジオか大きく聞こえました。よくある風景です。
メモによると、ラジオはその時、高校駅伝を実況していたようです。その年の優勝校は、調べてみると、男子は西脇工(兵庫) 、女子は筑紫女学園 (福岡)でした。


ねずみ対策
「忍び返し」から思いついた名前でしょう。これ、「ねずみ返し」というそうです。ネズミに限らず、小動物が登って電線をかじるなど被害が出ることがあります。そのための対策です。


後免-奈半利線
降りてきました。これより宿で荷物を受け取り、安芸に向かいます。


唐浜(とうのはま) へんろ君
神峯寺の最寄り駅、唐浜駅に立つマスコット人形。名前は、「とうのはま へんろ君」です。


安芸市
安芸市に入ります。ただし市域は合併で広がっていますから、旧市街までは、まだだいぶあります。


後免-奈半利線
これより野市まで、遍路道と後免-奈半利線は、数カ所で交差しますが、ほぼ平行しています。
遍路道は、国道55号のこともありますが、多くは防波堤の道だったり、松原を抜ける道であったりで、楽しい道です。


足摺方向
足摺岬方向と書いてはみたものの、正確にどの方向であるかは、まるで分かっていません。
ある程度の見当がついたのは、この後、大山岬で教わってからです。私の見当は、まさに見当違いでした。


下山駅
この辺は国道55号が遍路道です。


大山岬
13:00過ぎ、大山岬に着きました。ここで昼食です。
食堂のご主人夫婦は遍路に詳しい方で、実際に修行もされているそうでした。いろいろ話をして下さるだけでなく、私たちが話すことはメモされていました。これから来られる方へ参考として話します、とのことでした。参考になるほどの話はしていないのですが・・。


食堂から
海側は4枚のガラス張りになっていて、太平洋がパノラマで眺められます。私が一番右のガラスを指しながら、あの辺が安芸ですか、と問うと、ご主人は少し訂正し、正しい位置を教えてくれました。次に、2枚目のガラスを指しながら、この奥の薄く見える影が足摺岬ですか、と尋ねると、今度は、いやいや、と全否定し、3枚目と4枚目の境の辺を指しながら、この方向の沖に大きな船が見えましょう、あの船から線をずっと引いてゆくと、ほら、薄く見える、あれが足摺岬ですよ、と言います。
遠い、なんて遠いんだ。私たちは、前途遼遠を実感したのでした。


磯釣り
14:00近くまで食堂で停滞の後、出発。
磯釣りの風景などを楽しみながら岬の坂を下ると、防波堤歩道への分岐がありました。
むろん国道は却下。防波堤歩道を選びました。しかし、しばらく行くと・・


伊尾木駅側の踏切
この時の、次の様なメモが残っています。
・・(防波堤の道を)行ったら、工事中で通れないことがわかった。やむなく引き返していると、車の人が降りてきて、自分が見てあげるから、ついてきなさいと言う。せっかくだから海沿いを行った方がいいよ、といいながら工事現場に入って行き、大丈夫、大丈夫、私が言っときますから、さ、気をつけて行きなさい・・。 誰に云っとくのかはわからないが、ご親切に甘え、工事中の部分を渡った。
ありがとうございました。おかげさまで堤防沿いの道を約4.5キロ、楽しく歩くことができました。


伊尾木川橋
堤防の道は伊尾木駅で終わりになります。駅側の踏切を渡り、国道55号に復帰。
これより旧安芸市街を通過するまでは、国道を歩きます。


ハングライダー
伊尾木川の川風を利用しているのでしょうか。ハングライダーが気流をうまく捕らえて飛んでいました。トンビのように舞いながら上昇しています。
どこから飛び立ったのかは、調べてみましたが、わかりませんでした。


安芸川橋
安芸川を渡ると、安芸市の旧市街です。


安芸駅
16:00過ぎ、安芸駅近くの宿に着きました。各所でゆっくりしたわりには、明るいうちに着くことができました。まあ、距離が短かかったからですが。
明朝は、安芸駅ぢばさん市場で無料のレンタサイクルを借り、旧安芸市内を見学して回ります。


野良時計
野良時計、岩崎弥太郎生家、土居廓中・武家屋敷などを、2時間半ほどかけて見学しました。
その内容は (→H27春 8) にまとめてありますので、そちらをご覧ください。実は13年後にも、またサイクリングを楽しんだのです。


堤防の道
11:00頃、ザックを担ぎ歩きはじめました。
すこし長くなりますが、当時のメモを記します。
・・旧安芸市街を出ると、道は堤防の道となり、やがてサイクリングロードに続いてゆく。ここから夜須町まで、約15kの道である。左に海を見ながら歩くが、一様ではない。堤防は、遠浅の砂浜になっているところでは、腰よりちょっと上くらいの高さだが、場所によっては3Mもの高さになり、堤防の向こうはテトラポットの山で、波が砕けている。

工事
・・私たちがまだ遠くにいるときから、工事をずっと見ているおじさんがいた。通りがかりに挨拶をすると、「どこから来たん?」と問われ、あとはヒマな者同士? 取り留めのない話が長くつづいた。
・・土地の人に出会ったら、かならず一声挨拶する。車の人へも会釈で挨拶する。・・いつしかこれは、私たちの「決め」になっていた。挨拶がきっかけとなって始まる会話を、私たちは楽しんでいたのだ。


穴内郵便局
・・穴内の辺で、パラパラと雨が降り始めた。サイクルロードでは雨の避けようがなく、一度国道に出て、適当な場所を探した。幸い穴内郵便局を見つけることができて雨宿り。10分ほどで止んだので出発した。しかし雨は、また降ると思えた。濃い雨雲が見えている。
この観天望気は、不幸にして当たりました。後述しますが、私たちは夜須で、土砂降りの雨に見舞われます。
なお、この日は12月23日で、天皇誕生日だったのです。それで日の丸が掲げられています。


八流山極楽寺
八流山(やながれ山)極楽寺は真言宗醍醐派の寺院。本尊は波切不動明王で、四国三十六不動霊場の第15番札所になっています。創建は大正12年(1923)。


草紅葉
極楽寺近くの食堂で昼食をとりました。北さんは「かつおめし」、私は「どろめ汁」を食べたようです。


行く先
中段の岬が、手結岬でしょう。あの岬を越えて、降りた先が夜須です。


赤野川
奥に、後免-奈半利線が見えています。小公園で遊んでいる子供たちが大声で何か叫びながら、手を振ってくれたのを覚えています。


伝馬船
砂浜に網を広げて繕っている漁師さんがいたので尋ねてみると、陸揚げしている漁船で4k程まで沖に出る、とのことでした。船には艪杭(艪をこぐとき支点となる小突起)も付いていますが、むろん艪ではなく船外機を使います。
・・魚が少なくなって、沖に出んと獲れんのよ。けど、出たら出たで燃料代がかかるしなあ。獲りすぎよ。獲りすぎたんよ、原因はわかっとる。・・と、自嘲とも怒りともつかぬ表情で話されました。

松原
この辺には松が植林されています。野中兼山の時代から植え足してきた「潮害防備保安林」です。



猫がたくさん捨てられるようです。


来た道
室戸岬→行当岬→羽根岬→大山岬→手結岬 と歩いてきました。


行く方向
この辺の浜は、波の引く音が琴を奏でる音にも聞こえることから、琴ヶ浜と呼ばれるそうです。
右下の建物は、海水健康プールの屋上です。海の側にプールがあるなんて、瀬戸内海側の人には、考えられないことでしょう。


土佐電鉄
和食川を渡る土佐電鉄安芸線の電車で、昭和42年(1967)撮影されたもののようです。安芸線は、後免と安芸を結んでいましたが、昭和49年(1974)、廃線となっています。
その線路跡は、まずサイクリングロードに転用され、まだ計画段階の後免-奈半利線にも使われました。


手結山越え
国道55号と後免-奈半利線は、ほぼ並行して走ってきましたが、手結山(てい山)では別れます。後免-奈半利線はトンネルを抜け、55号は山越えをします。遍路道は55号です。


夜須
手結山を越えると、夜須(やす)です。
標識には「こころのYASUらぎのまち」とあります。これより1.5キロです。


サイクリング道入口
夜須サイクリングセンターへの分岐です。この道は、トンネルも含めて、土佐電鉄安芸線の線路跡です。


手結港可動橋
手結港の辺りを、サイクリングロード(元安芸線の線路)から写した写真です。街を見下ろしているところなどは、電車の車窓から撮った一枚と見えなくもありません。
突っ立っている妙なものは手結港の可動橋ですが、何か分からぬまま過ぎていった人も多いでしょう。この時の私たちもそうでした。


手結港可動橋
少し先で数人のお年寄りが座りこみ、何やら「談義」しているのに出会いました。
北さんが、「ありゃ、何ですか?」と尋ねると、おばあさんが、よくぞ尋ねてくれたと言わんばかりの表情で、「橋ですがあ」「今、開いとる・・」と教えてくれました。他の人たちも、「めったにないもんじゃけん」「今でも動いとる」「ぐーっと下がってくるんよ」など、口々に続けます。どうやらこの橋は、皆さんの自慢であるようです。
より詳しくは、 (→H28春8) をご覧ください。なお、下の写真は、後年、撮ったものです。



ヤッシーパークに入ったとき、また雨が降り始めました。穴内の時よりも激しい降りです。
たまらずコーヒー屋さんに避難。雨が止むのを待ちました。(写真の高架上の建物は夜須駅です)
小止みになったので出ようとすると、おじいさんがやって来て、私達それぞれに100円づつ渡しました。どこかの札所で賽銭として投じてくれ、とおっしゃいます。ご自分は脚を悪くし、遍路には出られないのだそうでした。
私たちでよければと言って受けとり、今回の打ち止め寺、35番清滝寺で投じさせてもらいました。しかし、はてさて、「代参」の役目ははたせたのでしょうか。


玉錦の墓
三十二代横綱 玉錦三右エ門墓です。高知市出身の人で、努力の末、横綱になりました。双葉山連勝阻止の一番手と目されていましたが、果たせてはいません。
玉錦の相撲を、私はほとんど知りませんが、亡くなったときの様子は、大人たちからよく聞かされて覚えています。それは、安政地震津波の「稲むらの火」譚などとともに、教訓話の一席として、語られていたのでした。
・・玉錦は盲腸なのに風呂に入ったんじゃ。もっと悪いことに、痛いけん、もみほぐそうとしたんじゃな。それでよけぇ、わるーなった。ええか、あの横綱が死んだんぞ。盲腸は恐い。お腹のこの辺が痛かったら、風呂に入ったらいかん!覚えとけ!

さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。宿はすぐ近くではありますが、またもや、すっかり暗くなっています。ホント、駄目な遍路であったと、今更ながら思います。
次回更新は4月28日の予定です。今号のつづきで、28番大日寺から35番清滝寺までを、ご覧いただくつもりです。

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♫ 春高楼の 花の宴 巡る盃 影さして~ (天恢)
2021-04-06 09:24:15
 コロナ感染が収束もしてなかったのに宣言が解除されて、ほぼ予想されたリバウンドで、今度は感染拡大地域に限定しての「まん防」だそうです。 2月半ばに始まった医療従事者を対象とした先行接種ですが、1億人以上の対象者がいるのに、接種は100万回を越えたところです。
 あぁ~ それなのに、聖火リレーは時々消えながらも「風前の灯火」として今日も走っています。 何もかも先行き不透明の霧中で、自粛というガマンだけ強いられながら生きるのも辛いものがあります。

 さて、今回は秩父から四国遍路に戻って、もう20年近く前の珍しい冬遍路 H14冬1「行当岬~香取」のリライト版です。 前号の記事末尾に掲載予定の全写真が不明というアクシデントもあったようですが、無事に見つかって、更新期日に間に合って先ずは良かったです!
 また、今号の行程は、H27春のアルバムと重なっていますが、今回は道中記、H27春は歴史・由緒の視点で、内容重複が避けられ、読者が両方を併せ読むことで理解を深めるという振り分けが見事に開花しています。
 天恢も室戸岬界隈を二度ほど慌ただしく通り過ぎ、歩き損ねた箇所を歩く三度目の遍路で、野良時計と手結港可動橋をやっと見ることができましたが、それでも「楽しく遍路」さんのブログを読みながら、まだまだ見残し、歩き残しを痛感します。 コロナが収束すれば直ぐにでも四国遍路を再開しますが、目指すは室戸で、北川村の「モネの庭」と安田町の「大心劇場」も・・・。
 今号には「楽しく遍路」さんのドジやアホなことやドタバタなどの失敗談が載っていましたが、天恢に比べれば少ない方です。 地図無視による迷子と杖や傘を含めての忘れ物は数知らず、飲み過ぎによる体調不良など枚挙に暇がないくらいあります。

 さてさて、今回のタイトル「♫春高楼の 花の宴 巡る盃 影さして~」 は、土井晩翠作詞 滝廉太郎作曲の「荒城の月」です。 サクラの咲く季節で、昔なら飲めや歌えの大騒ぎですが、この「荒城の月」には、「昔の光 今いずこ」や「栄枯は移る 世のすがた」に表されているように、晩翠の「無常」の気持ちが歌詞に込められています。
 ここでの「無常」とは、前号のコメントに「楽しく遍路」さんが、このコロナ後の四国遍路はどうなるのか? 心配されている点です。 例えば、遍路中の楽しみである「夕食時の歓談」は、コレラ菌は無くなりそうもないので「黙食」になるとか、遍路の作法も、声を出しての誦経ではなく、看経ということに? 接客を伴うお接待も黙礼でのやり取りになるのか、その他いろいろありそうです。
 天恢も遍路を始めて15年、「世の中乱れると、お遍路さんが増える」と、四国では昔からそう言われているそうですが、このコロナ禍によって遍路へ行こうという気持ちが徐々に薄れて、積み上げてきた遍路文化が消えていくことを気になっています。
 終わりに、本当は今回のタイトルは、アンパンマンのやなせたかしさんの「♫ごめん ごめん ごめん・・・」と歌われる「ごめん駅でごめん」に、したかったのですが、このご時世ですからゴメンです。
♫生きてゆこうよ 希望に燃えて (楽しく遍路)
2021-04-12 14:05:53
天恢さん コメントありがとうございました。
なにかとブログ作りへのモチベーションが下がり気味の今日です。天恢さんの励ましコメントから、元気をいただいております。感謝です。

さて、恒例の「コロナへの言及」です。
正直、疲れました。毎日の生活が散歩とステイホームの繰り返し。
初めのうちは散歩も楽しめていましたが、今では、粗方のコースは歩いてしまいましたので、新しい何かを感じることは、ほとんどなくなっています。私が住まいする所は起伏のない住宅地で、何か変化を求めるなら、居住地を離れるほかありません。しかし車の免許は上納して、もうありません。出かけるなら電車となりますが、となるとコロナが恐ろしい・・。
上納した当座は、これ以降、事故の加害者になることはないと、むしろ喜んでいましたが、今は少々後悔しはじめています。

さてさて、本編に、安芸の宿でのことを書き忘れました。同宿の長期滞在会社員との、楽しい交流がありましたので、ここに記させていただきます。
話の内容は、メモに残した以外は忘れているのですが、楽しい中にも、人生への真面目な向かい合いがあったことは、よく覚えています。それはひとえに、彼のお人柄によるものでしたが。

私たちは仕事で来られている方と同宿になったとき、もちろん挨拶はしますが、こちらから話しかけることは、控えるようにしていました。実は話しかけたいのは山々なのですが、向こうさんから見れば私たちは、ただの物好きな暇人なのかもしれないからです。忙しく働いている身からは、むしろ腹立たしい存在でさえあるかもしれません。そんな輩の徒然の話し相手になぞされては、たまったものではないだろう、・・そんな忖度が働いていたわけです。

ところがその人は夕食の席につくや、私たちの躊躇いには委細かまわず、どんどん話しかけてくれました。
メモには、次の様にあります。
お定まりの人定質問→ビール追加→席移動
人定質問とは、どこから来ましたか?今日はどこから歩きましたか?なぜ歩いているのですか?など、よく私たちが尋ねられる質問を意味するのでしょう。ビール追加は、話がはずんできて、ビールを追加注文したのだと思います。席移動は、話しやすいように席を移ったのかもしれません。彼が移ったか私たちが移ったかは、すっかり忘れていて、わかりません。
ともかく遠慮のない話が交わされた様子がうかがえます。

メモはさらに内容にふれ、次の様にあります。
  日曜ヒマ。室戸ドライブ。貴方たちが羨ましい。
  私も歩く。この宿に泊まる。対話する。
土日ヒマではなく、日曜ヒマと記しているところから、この方はまだ週休2日ではなかったのかもしれません。
とまれ日曜の時間を使って、室戸岬などへドライブに出かけたりしたが、充足感は得られなかったのでしょう。貴方たちのように、私も定年になったら四国を歩きたい旨、話しておられたと思われます。
「貴方たち」が私たち二人を指すのか、歩き遍路一般を指すのかも、分かりませんが、たぶん、いずれとも区別することなく、話されたのではないでしょうか。

興味深いのは、・・この宿に泊まる。対話する。・・です。
自分のメモでありながら、その意味を推定するほかないのは恥ずかしいのですが、たぶん次の様な意味ではなかったでしょうか。
・・高知まで歩いてきたら、もちろん宿は、この宿にします。定年退職した私がこのテーブルに座ってビールを飲みながら、あの時の私・・つまり今の私・・と対話するのです。その時、私は来し方を、どのように総括できるのでしょうね?

彼はあの時、おそらく40才前後でしたから、20年近く経た今頃は60才前後でしょう。
はたして安芸のあの宿には、もう泊まったのでしょうか。これから泊まるのでしょうか。それとも、もう泊まることはないのでしょうか。それはなぜでしょう?
あれ以降、彼はどんな人生を歩んでこられたのでしょう。今、なにを思っておられるでしょう。もう一度お目にかかりたいな。

終わりに、タイトルはディック・ミネさんが歌った「人生の並木道」のラストです。なんとなく思いつき、使わせていただきました。前にも一度、使ったかもしれませんが。
♫生きてゆこうよ 希望に燃えて  
♫愛の口笛高らかに この人生の並木道

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